[8] 同趣旨で少しずつ内容の異なる別記事群をまとめて整理すると3通りになります。
[9]
永元は他にもありますが、共通性に乏しく、現状では無関係と考えるのが妥当とみられます。
[33]
本項の永元は、いくつかの用例がありますが、すべて和田家文書に属します。
和田家文書は昭和時代に出現した偽書であり、
昭和時代末期から平成時代初期にかけて真贋論争で歴史愛好家界隈を賑わせました。
この文献群には、
不審な日付表記が多いことも知られており、注意が惹かれています。
[34] 和田家文書が偽書であることは、既に多くの根拠が提示され、 通説として広く合意されているところです。 令和時代の現在も、 依然として先鋭化した信奉者グループの活動は続いていますが、 結論を再検討する価値ある新たな材料は何ら提示されていないのが実情です。
[35] 従って、もっぱら偽書にのみ出現する元号の「正体」 を検討する意義にも疑念が生じるところですが、 古代・中世の史実や当時の日時制度を明らかにする史料にはならないとしても、 次のような研究意義は認められます。
[45] なお、 >>9 の判定の妥当性もかかる検討に依拠するものであり、必要とあらば >>9 の暫定的な判断も訂正することになります。
[49] 和田家文書の全体を見ると、特異な表記法など見かけの不審点はあるにしても、 その大部分は通常の日本の公年号です。 超古代史系偽史は特殊な独自の暦法を持つようなタイプもありますが、 和田家文書はそうでは無さそうです。
[50] だとすると和田家文書で数少ない非公年号の永元は、 何らかの公年号の誤記などの意図せぬ理由で発生した可能性を考えねばなりません。
[46] 和田家文書の永元用例は数件ありますが、3系統にまとめられます (>>8)。
[51] >>32 >>31 の2系統は近接した記事に出現し、2年と4年であり、 同じ元号とみて間違いないと思われます。
[52] 対して >>30 はまったく異なる記事に出現し、丙子年と年数なしの干支年表記です。
[47] この2種を同名で別箇の元号として扱う説 (>>13) があります。 当該説はその根拠を明確にしていませんが、 同一元号説と別元号説のどちらが妥当かは自明ではなく、検討を要します。
... が提示されています。
[59] どちらの説も元号名からの推測でしょう。 しかし元永を永元と誤ることは大いに有り得そうですが、 元暦を永元と誤るのは難しそうで、更に検討を要します。
[58] 偽史でなくともこの種の伝承的な歴史記述に時系列の乱れは付きものであり、 作為ある偽書ならなおのこと考え得るでしょうから、 必ずしも元永説を棄却する必要もないとも思われますが、 それにしても根拠が明示されての比定説ではないので、 改めて十分検討することが望まれます。
[48] どちらの説にしても、 >>30 の干支年は当該公年号の期間に存在しません。 これが別元号説が立てられることになった理由でしょうか。
... が提示されています。
[64] 永長と保元は干支年によると説明されていますが、 元号名からの推測と干支年の重なりによると思われます。
[69] 別元号説の根拠が、別記事の用例であることや干支年と公年号の組み合わせの不存在というだけでは弱いといえます。 >>32 >>31 が永長や保元に当てはまり得ないとはいえませんし、 他の公年号や未知の異年号の可能性も排除されません。
[65] 11/12世紀説は人名に基づくものです。一応 >>55 >>57 も含めて全説がこの期間に収まります。
[70] 現時点では、平安時代後期頃の何らかの時期を表すことが想定された元号、 と説明するのが妥当でしょうか。
[53] >>32 >>31 / >>30 のどちらの系統も、他の記事と比べて本書において特段に重視されている記事とも言えず、 従って永元も特別な意味を持って作られた私年号と考えるのは難しそうに思われます。
[13] の史料集は、 和田家文書を偽書と知らずに収録したものでしたが、 >>16, >>11 を紹介し、
(編者註)
永元の年号なし。
元永なれば寿永 以前となりて合 わず。元暦なら んか。一考を要 す。元暦なれば 四年後の西紀一 一八五年なり。 大江広元執権時 代。
(編者註)
永元の年号なし。
干支に重点をお けば、 永長元年 一〇九六
保元元年
一一五六
であり、一考を
要する。
... と注釈しています。 >>10
[29]
の年表は、
満蔵寺建立を元永2年、
高星丸安東十郎貞義・安倍十郎頼信(高星丸)の死去を保安2年 (= 元永4年 延長年号+1年) に掛けて、
[4] 平成時代の 近代諸元号現象 は、 「永元丙子年如月一日」 を紹介して、 11世紀、12世紀ごろの人物の署名と説明しています。 >>2