[2] 白雉・白鳳は、 日本の元号です。 公年号としては大化に続く2つ目です。
[33] 「きぎす」 = きじ = 雉 = 雉子
[27] 釈日本紀 28巻 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ, https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00005881#?c=0&m=0&s=0&cv=377&r=0&xywh=287%2C1783%2C846%2C234
白
雉元年
[30] 国史大系. 第7巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション, 経済雑誌社, 1897-1901, http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/417
「
ルビ上揃え
[28] 釈日本紀 28巻 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ, https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00005881#?c=0&m=0&s=0&cv=406&r=0&xywh=490%2C783%2C1696%2C1024
「
[31] 国史大系. 第7巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション, 経済雑誌社, 1897-1901, http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/427
「
はくち
/ Facuuô (ロドリゲス『日本大文典』 アキなし 、誤記か)/ シラキスス (釈日本紀)
[36] 白雉とは - コトバンク, 日本の元号がわかる事典,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典内言及, https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E9%9B%89-600351
日本の元号がわかる事典「白雉」の解説
はくち【白雉】
穴戸(あなと)(長門)国(山口県)の国司・草壁醜経(くさかべしこぶ)から白雉(しろきぎす)(白いキジ)が献上されたことを瑞祥として改元が行われたとされる(祥瑞改元)。
[34] 白雉 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%9B%89
白雉(はくち、びゃくち、しらきぎす)
[5]
日本書紀に記述されています。
その後の時代の 続日本紀、
支那の 新唐書
にも言及がありました。
[38] 真偽はともかく、中世以後に作られた寺社縁起に頻出します。
「南部五郡小史」に人皇三十五代舒明天皇白雉三壬子年十二月勧請とあり、「三戸郷土史」にも同じ記載が見られるものの、白雉三壬子は孝徳天皇の時であり、いずれも間違っていると思われます。藩政時代に民間の手に委ねられていた地方の旧郷社、旧村社が明治になって政府の神社行政の下におかれ、由緒等を提出するように言われ、提出した文書にもやはり舒明天皇白雉三壬子とありますが、恐らく「南部五郡小史」の筆者太田弘三に依頼して作成したものと思われます。その由緒には次のように書かれています。「舒明天皇白雉三壬子十二月の勧請、中世天正年中に至り川守田常陸入道此の地に留まり、川守田を領し、当時五百石を領し、専ら神事に心をつくし、此の熊野神社を祈願所となす」。
当山は孝徳天皇の白雉3年(652年)明光禅尼の開基。
652年(白雉3年)、知同和尚と役小角が開山したとされる古い山岳信仰の場である。
荘厳寺は兵庫県西脇市にある寺院で、法道仙人の開基で白雉3年(652年)に開かれました。
糸我稲荷神社の創建は白雉3(652)年の春と伝えられ、京都伏見大社の創建(711)年よりも約60年ほど古く、日本最初の稲荷神社といわれていて正面の鳥居に「本朝最初・稲荷大神社」の額が掲げられています。
白雉3年(西暦652年)に創始された、穴水町字明千寺にある真言宗の古刹。
白雉3(652)年創建という横浜旧市内最古の社で、出雲大社の神、大国主命の分霊を祭る。
中島惣社は、孝徳天皇の白雉2年(651年)難波長柄豊碕に遷都されたころ、五穀豊饒を祈るために多くの神領を得て創建されたといわれています。
中島惣社由緒略記によれば「第三十六代孝徳天皇白雉2年(651)難波、長柄豊崎に都を遷された頃五穀豊饒を、當社に祈られ給い、田園数多く下し賜わり神領(境内地)となされた…」と記されています。
白雉2(651)年、法道仙人の開基と伝えられています。
通称善祥寺と呼称されるこの寺は、孝徳天皇の白雉2年(651)、法道仙人の開祖と伝えられ
法道の評判は都へも広まり、白雉元年(650年)、時の帝である孝徳天皇の勅命により法道に建てさせたのが一乗寺であるという。
青嶺山奥山寺は白雉元年(650)法道仙人の開基と伝える寺院です。
650年(白雉元年)に、筑後の郡司だった三池氏により三箇寺として創健された、小城市では最古の寺院です。
大阪天満宮は
奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになりました頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。
「箕面寺秘密縁起」によると、孝徳天皇の白雉元年(650年)、役行者が箕面の滝で修行中、龍樹菩薩より法を授けられ、滝の下で不動明王と弁財天の像を刻んで堂宇に安置したと伝えられ、古くは箕面寺と呼ばれた。
白雉元(650)年に天児屋根命と比売大神を現在の地に祀り、奈良春日大社にこの社の二分霊を祀ったところから、元春日大社とも呼ばれる。
白雉元年(650)第12代景行天皇の御代生田長者満盛が此処に居住し安中郷を統率していた時、氏神として創立し崇敬していました。
第40代天武天皇の御代白鳳元年3月(673)伊勢の大神を奉斎。
創建は白雉元年(650年)、徳島県でも一番の古刹とされる。
白雉元年(650)、. 古くから大原野とよばれた肥沃な原野を、出雲(島根県)の国人大助が多くの人夫を連れてきて開拓. し、伊吹山の下に井堰を造り、溝を掘って開拓地を灌漑しました。白雉3年5月1日(新暦)に完成. し、
白雉4年(653)、亀狭山に瑞兆(ずいちょう…良い事が起こる前兆)が現れ、その地に社殿を創立したのがはじまりと言われています。
白雉4年(653)横大路に宮を造
白雉5年(654)4月20日齋主卜部倉見をして奉幣
発見=白雉4年(653)、藤原登羅麻呂
前身である東山道が白雉4年(653)に始めて
美濃から信濃の木曽への道として開かれたことから、木曽路などとも言われていました。
京都市伏見区に鎮座する白雉4年(653年)創建の歴史ある神社です。
八天神社
白雉4年(653年)、肥前小富士唐泉山鎮座。
白雉5年(654)開山。
善光寺の御本尊「一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来」は、ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、善光寺独特のお姿をされています。白雉5(654)年以来の秘仏であり、鎌倉時代に御本尊の御身代わりとして「前立本尊」が造られました。
白雉5(654)年以来の秘仏であり、鎌倉時代に御本尊の御身代わりとして「前立本尊」が造られました。
この般若寺跡は、『上宮聖徳法王帝説』の裏書きに見る筑紫大宰蘇我日向ひむかが白雉5年(654年)に孝徳天皇の冥福を祈って建立した般若寺とする説があるほか、
寂光院
白雉5(654)年開山という尾張最古の名刹
白雉5年(654)創始
[1] 薬師寺論争…⑦様式論: 夢幻と湧源 () http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_46e6.html
[6] 白鳳文化 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%B3%E6%96%87%E5%8C%96
第36代孝徳天皇(645-654)の白雉3年壬子の春、参詣に便なるよう社を麓に移し奉って稲生社と改めた。
[39] BA8697693X_1_397_430.pdf, , http://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/7980/1/BA8697693X_1_397_430.pdf#page=11
[40] 郷土研究東三河ところどころ, 豊田珍彦, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1261780/1/89 (要登録)
[41] 郷土研究東三河ところどころ, 豊田珍彦, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1261780/1/107 (要登録)
[42] 夢殿 (5), 鵤故郷舎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1525423/1/19 (要登録)
[43] 日本及日本人 (3月號)(382), 政教社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1597317/1/123 (要登録)
[44] らくがき文化史 : 国宝からトイレまで, 李家正文, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2934215/1/50 (要登録)
私年号 「
[46] 受理番号 23-77 - 1321783_18.pdf, , https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2012/07/10/1321783_18.pdf#page=3
[47] 高崎市史 第1巻, 高崎市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9640211/1/68 (要登録)
「天武天皇の私年号」
[49] 西尾市史 6 (年表), 西尾市史編集委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9570866/1/12 (要登録)
「美術史上の私年号」
[50] 大町市史 第3巻 (近世) 本編, 大町市史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9539949/1/359 (要登録)
年代のはっきりしない私年号
[51] 沼田町史 : 沼田を中心とする利根の研究, 沼田町史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3024272/1/99 (要登録)
私年号だからいつかわからない
[52] 白子町史, 白子町史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3043735/1/237 (要登録)
「びゃくほう」とも読む
[53] 横須賀町史, 横須賀町史編集委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9569134/1/39 (要登録)
孝徳天皇以来しばしばもちいられた私年号
[55] 無形の民俗文化財 : 記録 第21集, 文化庁文化財保護部, 国土地理協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9546194/1/30 (要登録) 右
[56] 続神皇正統記 - Wikisource, , https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%B6%9A%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98
[57] 日本家庭大百科事彙 第3巻, 富山房百科辞典編纂部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1225461/1/824 (要登録)
白雉5年(654年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御すると、白雉6年(655年)初頭に皇極上皇は板蓋宮に都を戻し、再度即位(重祚)し、斉明天皇となっています。
白雉6年(655年)末に板蓋宮は火災に遭い、焼失、斉明天皇は川原宮(奈良県明日香村川原)へ遷っています。
仁科神明宮は長野県大町市社宮本に鎮座している神社です。仁科神明宮の創建には諸説あり白雉6年(654)仏崎の別当高根伊勢守平盛国が伊勢神宮(三重県伊勢市)の外宮を勧請したのが始まりと伝えられています。
(5)白雉6年(655年)、百済の大使西部達率『余宜受』と副使東部恩率『調信仁』ら・・(斎明紀)
(6)白雉7年(656年)、高麗は大使『達沙』、副使『伊利之』を遣わして(天皇に)調を奉った。(斎明紀)
(7)白雉14年(663年)、百済は達率『金受』らを遣わして(天皇に)調を奉った。(天智紀)
昭和60年12月に下関市の有形文化財に指定された同寺の阿弥陀如来坐像は、蓮台から光背までの高さ1.80メートル、像高83.5センチ、膝張69.0センチ、膝高15.2センチで、白鳳時代の白雉6年、天武天皇が春日大明神のお告げを受けて賢問子という仏師に彫らせたと伝えられている。
白雉 6 年(655)35 代皇極帝が再び 37 代斉明天皇として即位した。この時中大兄皇子29 歳、有間皇子 17 歳であった。父孝徳帝の死後、有間皇子は斉明 3 年(657)中大兄皇子の思慮の深さ、稀代の陰謀家の策略を留意しながら狂人を装って世間を欺こうとし、療養と称して紀州牟婁むろ温泉に行き、帰ってから伯母にあたる斉明帝に効能の素晴らしさを話した。翌斉明 4 年に斉明帝と中大兄皇子は牟婁温泉に行幸した。
延喜式に鷹日神社とあるこの神社の由来は、『天智天皇の7年(白雉7年、西暦661年)9月11日天照大神の御神堂とお祀りになった。天智天皇の7年夏、天下日照り続きで万民困り果てし時、天皇が諸国をご視察になった第一夜夢に白鷹が良く実った稲穂を口にくわえて天皇の前に現れた。天皇はこの日照り続きに、こんなに実った稲穂がと喜び、白鷹に「何処からきたか」と問えば「出雲の国意宇の郷より来た」と応え、天皇は夢から覚めたとき、外には雨が降りこの雨のため万民は救われた。天皇は大変喜ばれ、これは天照大神のお助けと、早々出雲に勅使を出しこの白鷹をお探しになった。』
以上境内由緒書きより抜粋。
白雉7(661)創立
0661年(白雉7年) 斉明天皇に随行して額田王が道後温泉に泊まる?。その時の短歌
「熱田津に船乗りせんと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出な」
胞衣を千本杉に奉納した「胞衣八幡」なる神社
があり、天智天皇の白雉 8 年に官幣を祭り、延奈八幡といったとのこと。
〇都我利(つがり)神社
【雲陽誌】
・東林木の筆頭に「八王子」とある。西の方に的場があり,ここに百手の的があったと伝えられている。縁起として,白雉8年(657年)にここへ勧請にきた八王子(五男三女)を祀ったとある。
669 白雉 8 藤原 鎌足没す
創建
658年〔白雉9年〕
日本書紀によると、白雉9年(658年)に斉明天皇、朱鳥5年(690年)に持統天皇、大宝1年(701年)に文武天皇が、現在の南紀白浜温泉である牟婁の湯を訪れている。
庚午年籍(こうごねんじゃく)というのが、日本初の全国規模の戸籍とされています(^-^)670(白雉9)年、『天智天皇』の時代に制定されたもので、その年の干支が【庚午】の年なので、こう呼ばれています(^O^)
658(白雉9)年、越国守阿倍比羅夫(こしのくにのかみあべのひらふ)が蝦夷征伐のため軍船180隻を率いて上陸したのが現在の能代港だったと言われ
白雉9年12月、難波浜波打ち際で大魚がはねまわり、公卿が詮議して、神仏の力で追放すべ
しと決定される。勅使が天王寺に派遣され、神輿が担ぎ出される。
権現山の由来は 白鳳時代の白雉9年(658)野母崎に熊野権現神社が創建されことによると思われる
近江大津宮御宇天皇は、『日本書紀』によると、白雉10年(671)12月3日近江大津宮で崩御され、同月11日「新宮に殯(もがり、)」されました。
前紀四十八体仏中辛亥銘観音菩薩像は孝徳天皇白雉11年(六五1). に、同じく四十八体仏中丙寅銘半跏思惟像は天智天皇五年(六六六)に当てられると共に
創建
661年~671年〔白雉12年~白雉22年〕
開基
役小角
672(白雉12)年の壬申の乱を機に律令制が敷かれ、
天智天皇については、志布志市の山宮大明神舊記に、
661(白雉12)年、齊明天皇に随行し九州に赴いた際に薩摩にも巡行。開聞には123日間(6月10日~10月10日)滞在と記されているようです。
注記
で挙げられた津波は,662(白鳳 12 または白雉 12)年
662 白雉13 大風雨あり、常願寺川出水。
天智天皇白雉 13年(662年)から現在までに
伊予大領。 天智天皇朝の征異に軍功があり、異国に3年居て白鳳13年2月22日薨。 《白鳳は白雉と同じとするのが定説だが、異論もある。 白雉という年号は5年までで終わって、しばらく年号が無かったことになっているが、外挿して白雉13年を比定すると662年になる。》 一書によると、斎明天皇による百済救援に従軍して白林江《白村江の誤写らしい》で敗れて唐まで連行された後、逃げ帰ったという。 《白村江の戦は記紀では663年。》
唐と新羅の連合軍との戦いに破れ, 668 年(白雉 13 年)に滅亡する
663年(白雉14年)の「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷が日本列島への侵攻に備えて西日本各地に築いた城のひとつです。
大和朝廷は663年(白雉14年)、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済の国の再興を応援するため、友好国だった百済に援軍を送ったが、「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に大敗した。
穴戸国の国司が白雉を献上した祥瑞により、大化06年02月15日を白雉元年02月15日(650年3月22日)に改元し、白雉15年07月20日(654年11月24日)に孝徳天皇が崩御し、新たな元号は定められなかった。
初めて神社として国家的な例祭を行ったのが664(白雉15)年、
創建
665年〔白雉16年〕
御由緒
御縁起
御神徳
歴史等
当社の創設は天智天皇4年(665)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉りましたのが創立の起因であります。
水城が造られた翌年、白雉16年(665)大宰府の北の守りとして、南に備えられた基肄城(基山)と共に築かれた。
大黒寺は白雉16年(665)役小角によって創建された寺で、
曹洞宗永平寺派に属する禅宗寺院なのです。
創建
666年〔白雉17年〕
創建
667年〔白雉18年〕
勅令
天智天皇
創建
668年~671年〔白雉19年~白雉22年〕
開基
役小角
日本における最初の「令」は、天智天皇が、白雉19年(668)に制定した「近江令(おうみりょう)」とされ
創建
669年〔白雉20年〕
創建
669年〔白雉20年〕
開基
藤原不比等
創建
約670年〔白雉21年〕
御由緒
御縁起
御神徳
歴史等
<創社>(由緒板)
社殿旧記ともに火災にあって、正確な創立の年代は判らないが、口伝に依ると法琳 寺が創建された時、 その鬼門除けに、この地に天神社を建立されたとも伝えられている。とすれば、法臨時 は藤原鎌足の長子、 定慧の創建と伝えられているところから、天智天皇の御代(西暦六七〇年頃)で約千三百 年前に当る。 以来、北小栗栖の産土神として崇敬を受け親しまれて来た。
権現山々頂の日山神社 創建は平安時代の貞観13年(871)とされる古社
日山は火山に通じる 白雉21年(670)に烽火台が置かれ 烽火山や日野山と呼ばれてきた
創建
672年〔白雉23年〕
開基
役行者
創建
673年〔白雉24年〕
開基
役ノ行者
創建:白雉24年(678年)
開基:持統天皇勅願
白雉26(675)年、天武天皇によって創建されたと伝えられる古社
675年(白雉26年)天武天皇の「殺生禁断の詔」、
白雉28年( 677)・[天武天皇5]勅令により南渕山、細川山(岐阜県)の伐採禁止
創建
679年〔白雉30年〕
勅令
天武天皇
薬師寺は白雉31年(680)に、天武天皇が持統天皇の病気平癒を祈願し建立された法相宗の本山である。
創建
681年〔白雉32年〕
開基
役小角
上笠天満宮は天智天皇の御代、大化9年(670)に当地を支配していた「笠氏」によって「伊勢津彦大神」を祭神として草創された「天神社」が始まりです。
その後孝徳天皇・白雉33年(682)笠氏によって、医王寺(上之笠堂)が建立された時、仏閣擁護の神社としたと言われています。
田寺[編集]
米原市長沢
この辺りではそれなりに権威のある浄土真宗本願寺派の寺院。
戦国期には織田信長と対抗したらしい。
創建は白雉34年(683年)と、とんでもない歴史がある。
津波の年代Year of the tsunami:684年(白雉35年)、1707年(宝永4年)、1854年(安政元年)
碑文縁起(表)
Inscribed history (front)
寶永 四年亥年 長沢ミドノコエツナミ大坂 ユノ浦大川ユツメシヲ入百四十八年ぶり白鳳十三年寅十月十三日黒土のこをりヲチ入維時安政元甲寅年十一月五日震午后五時潮立漲入中通一丈二尺村中札塲下町通流出上□シリ日ノ川松ノ川●シヲ入七へん入
686(白雉 37)年に天武天皇が『古事記』の完成を見ずに亡くなると編纂の作業も中断された
創建
664年〔白雉15年〕
創建
664年〔白雉15年〕
大生神社の地であるかつての行方郡は、白雉2年(653)茨城郡と那珂郡を分割合併して誕生した。その初代那珂国造が建借間命(タケカシマノミコト)である。印波国造と同祖、神八井耳命の後裔で印波国造、伊都許利命の2代前(祖父または資料によっては大伯父)にあたる。国造本紀では成務朝、常陸風土記では崇神朝と食い違いは見られるもののほぼ合致している。問題はその後であってまず白雉2年(653)那珂国造、壬生直夫子(常陸風土記)、続いて養老7年(723年)那珂郡大領 下正七位上 宇治部直荒山(続日本記)、さらに天応元年(781年)同大領 下正七位下 宇治部直全成(続日本記)と続く。白雉2年に茨城郡と那珂郡を分割合併した行方郡には、天平勝宝5年(753年)行方郡大領、下正八位下 壬生直足人(正倉院資料)が出現する。
大戸神社
香取市大戸字宮本に遷座されており、御祭神は「天手力雄命」(あまのたぢからおのみこと)である。社伝によると、12代景行天皇40年、日本武尊が東征の時、蝦夷征討祈願のため現在の香取市大戸の地に勧請し、幾度かの遷宮(同地区内)の後、36代孝徳天皇白雉元年(650年)現在の地に宮柱造営されたと伝わる。
さて、福岡県の東部、瀬戸内は周防灘に臨む豊前市の大富神社では隔年の4月の最終日と5月の初日に『感応楽(かんのうがく)』が行われます。
大富神社は古くは宗像八幡社といい、八幡宮の総本社である宇佐神宮(大分県宇佐市)との関りが深く、境内にある「勅使井」の御神水は今でも神職が宇佐宮に持参しています。
歴史は古く「宗像神社宝鏡記」に白鳳元年の神託の記述があるそうです(ちなみに「白鳳」は九州年号とも呼ばれる私年号で、日本書紀には出てきません)。白鳳時代と言えば中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(藤原氏の祖)の名前が出てきますね。
泰澄の生年である白鳳二十二年については、平泉寺本などの写本には同十一年と
ある。いずれにしても、『伝記』 中のほかの年代の表記と泰澄の年令から逆算して、天
武天皇十一年(六八二)に該当することになる。
これ乃ち天渟中原瀛真人天武天皇飛鳥浄御原宮の御宇白鳳二十二年壬午歳六月十一日誕生し給へり。
泰澄和尚伝記の金沢文庫本には「白鳳二十
二年壬午」となっていますが、尾添本・平泉本では「白鳳十一年壬午」にな
っています。しかし金沢文庫本でもその後で持統天皇6年に11歳と書いてあ
り、また亡くなったのは神護景雲元年で86歳と書かれています。
斉明天皇、天智天皇、天武天皇のいずれの御世かとされる白鳳4年に、創祀されたと伝えられています。