[5]
朝鮮忠州郡老隠面山中で出土したとされ、
朝鮮人が朝鮮半島在住日本人に販売し、
その数年後の大正4年に黒岩勝美が入手し、
朝鮮総督府博物館に収めました。
>>28, >>7862
[7]
銘文から高句麗または百済とされ、
出土地から百済の鋳像と考えられました。
>>7862, >>1643
黒岩勝美は百済仏としました。
藤田亮策は様式から6世紀中期から7世紀初頭のものとしました。
(また、扶余発見の光背に「甲申年」銘のものがあり、
ほぼ同時期としました。)
>>7862
久保常晴は6世紀末としました。
>>1643
[8]
1字目は不明確で、「建」と読めますが、「延」だという説もあります。
>>7862, >>12
が、あまり支持されておらず、やはり「建」だとされます。
>>7862, >>1543
[9]
延興の利用は百済史的にあり得ることとはいえ >>1543、
とは年数が1年ずれ >>7862
るのは大問題です。
[21]
中国の元号や渤海の元号に建興はいくつかありますが、
時代 (様式) も干支年も合いません。
>>26, >>28, >>1717 (서영대1992 譯註 韓國古代金石文(I) 建興五年丙辰銘 金銅光背)
[27]
黒板勝美はに仮説と前置きした上で、
様式と出土地、銘文から百済の元号で (y~2189)
または (y~2188) と推測しました。
>>34, >>26
[29]
同じく黒板勝美はに様式と出土地、銘文から百済の元号で
(y~2188) と推測しました。
百済説を取りながらも高句麗の可能性も指摘していました。
>>36, >>28
[33]
関野貞は、度に、
おそらく百済の逸年号で
(y~2188) だろうとしました。 >>35, >>32
根拠は明記されていません。
[38]
の朝鮮総督府
朝鮮金石総覧は
「□興五年歳在丙辰」 (明朝体)
とし、統一新羅時代の末尾に時期空欄で収録していました。
>>37
葛城末治はこれを当時拓本のみで調査したためだと説明しています。
>>39
[41]
の葛城末治
朝鮮金石攷
は、
黒板勝美と関野貞の説に従い、
様式などから
(y~2188) としました。 >>39
[10]
藤田亮策は百済の元号で、
(y~2189) または
(y~2188) と推測しました。
>>7862
[15]
日本私年号の研究は百済の元号で、
(y~2188) と推測しました。
>>1543
[14]
日本私年号の研究
は史書にないので私年号としています。
>>1543
史書から漏れたものかもしれず「一応」と留保されていて、
十分検討した上での判断ではありません。
私年号
[20]
紀年に歳在が現れる点は注意されます。
>>1543
歳在
[42]
百済の説 (y~2188) は昭和時代を通じて定説となっていました。
[25]
中吉功は百済のとしました
(y~2189)。
>>1717 (新羅・高麗の仏像, )
[59]
昭和時代の研究者坂元義種は、
百済説を踏襲した上で、
中国の元号で建興は2代皇帝や建元後第2元号に使われている、
国が興り盛んになる意のものであることから、
百済もそれに倣って第2の元号として使ったものだと推測しました。
>>58
[61]
元年に当たる、に百済の権力高揚や誇示を伺わせる記録は
三国史記
に見当たりません。
>>58
[68]
の日本の論文では建興が百済の元号だと当然のように前提にしていて、
未だそれが通説だったことがわかります
>>67。
[24]
その後出土地は南下した高句麗の領土だったと考えられるようになりました。
の中原高句麗碑発見後、
高句麗作とする説が有力になりました
>>1717 (高句麗の金石文, 田中俊明, 朝鮮史研究会論文集 18, )。
建興も高句麗の元号と考えられるようになりました。
[46]
이병도 (李丙燾) は中原高句麗碑の発見時に碑文に
「高麗建興四年」
とあると主張しました >>45, >>55。
大韓民国ではその後の研究者は否定的 >>45 とされます。
( □熙 )
一方で中華人民共和国の研究者は21世紀初期にもその読みを採用していて >>52、
中文版维基百科もそれに従っています >>51。
[53]
中原高句麗碑の碑文、
高句麗の建興4年、
建興5年丙辰を組み合わせると、
該当するのは、
となります。
>>52
[47] 이병도はそれを根拠に説
(y~730)
を唱えました。
>>1717 (中原 高句麗碑에 대하여, 李丙燾, 史學志 13, )
[44]
朝鮮民主主義人民共和国の研究者
손영종 (孫永鍾) >>1717 (금석문에 보이는 삼국 시기의 몇 개 년호에 대하여, 력사과학 1966-4), >>1689
は、
安藏王が5月に死去、
安原王がに建元があったとして、
高句麗の元号の説
(y~2189)
を取りました。
>>56
[62]
黃壽永 >>1689 は説
(y~2189)。
[22]
서영대 >>1717 (서영대1992 譯註 韓國古代金石文(I) 建興五年丙辰銘 金銅光背),
임기환 >>1689,
이승호 >>1717 は説
(y~2188)。
[64]
大西修也は、
造像銘の仏教史学的解釈から北朝の系譜で高句麗のまたはとしました。
>>56 (日韓古代彫刻史論, 大西修也, , 第六部 日韓古代彫刻の造像銘研究)
[23] 王光錫は。
>>1689
[48]
新羅の建福 (y~229) の誤記説もあります。
>>1717 (文明大1980)
しかし, で遠いです。
[49]
現在の大韓民国では高句麗の (y~2189)
または (y~2188) 説が有力となっています。
>>1717
[65]
三国史記の高句麗王の在位年に最もよく合致するのは
(y~2189) 説です。
しかし延嘉との兼ね合いが問題となります。
[30]
黒板勝美は、
法興寺と関係する日本の法興と同じように、
百済の王興寺と関係すると推測しました。
>>28
[17]
西田長男は、
法興寺を記念した日本の私年号の法興と同じように、
建興寺を記念した建興が日本にあって、
それを百済でも利用したと主張しました。
>>16, >>1643 (>>16)
[19]
法興寺や建興寺の造立開始はちょうど両元年の頃に当たります。
日本の正朔を百済が奉じたかどうかはともかく、
偶然にしては出来すぎた寺院名と元号名の2対の一致は興味深いものですが、
その後の研究者はあまり検討していないようです。
建興の元号と日本との関係が見えないのがこの説の弱点でしょうか。
-
[34]
考古学雑誌 = Journal of the Archaeological Society of Nippon 6(6), 日本考古学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3548212/1/34 (要登録)
-
[37]
朝鮮金石総覧 上, 朝鮮総督府,
大正八󠄂年三月三十日發行,
, , https://dl.ndl.go.jp/pid/946079/1/88
-
[35]
朝鮮史講座 特別講義, 朝鮮史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/925920/1/38 (要登録)
-
[36]
考古学雑誌 = Journal of the Archaeological Society of Nippon 15(6)(308), 日本考古学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3548323/1/9 (要登録)
-
[39]
朝鮮金石攷, 葛城末治, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3437831/1/110 (要登録)
-
[26]
虚心文集 第3, 黒板勝美, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1266384/1/47
-
[28]
虚心文集 第4, 黒板勝美, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1266398/1/181
-
[32]
朝鮮の建築と芸術, 関野貞, 関野博士記念事業会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1871937/1/49
- [74] 朝鮮の年号と紀年
- [1542] 日本私年号の研究
- [1543] 第四章 朝鮮半島の公年号と僭竊年号・私年号,
p.五八󠄃 (2)
-
[67]
日本美術工芸 (434), 日本美術工芸社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2281903/1/20 (要登録)
-
[58]
百済史の研究, 坂元義種, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12173013/1/196 (要登録)
-
[1689]
高句麗의 年號에 대한 小考 | 국회도서관,
임기환,
,
https://dl.nanet.go.kr/search/searchInnerDetail.do?searchType=INNER_SEARCH&resultType=INNER_SEARCH_DETAIL&searchMehtod=L&searchClass=S&controlNo=KINX2007120506&queryText=&zone=&fieldText=&prevQueryText=KINX2007120521%3AALL_NI_TOC%3AAND&prevPubYearFieldText=&languageCode=&synonymYn=&refineSearchYn=&pageNum=&pageSize=&orderBy=&topMainMenuCode=&topSubMenuCode=&totalSize=1&totalSizeByMenu=1&seqNo=&hanjaYn=Y&knowPub=&isdb=&isdbsvc=&tt1=&down=&checkedDbIdList=&baseDbId=&selectedDbIndexIdList=&caller=&asideState=&dpBranch=ALL&journalKind=&selZone=ALL_NI_TOC&searchQuery=KINX2007120521
(全文画像閲覧可能)
p.15
- [52]
中原高句麗碑考釋,
耿鐵華, 楊春集,
通化師範學院學報 第22卷第1期,
-
[1717]
고구려의 稱元法과 年號 운용,
이승호 (Lee, Seung-ho),
,
https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART002607784
(PDF 全文あり)
-
[56]
百済紀年考, #page=6 ... #page=7
-
[45]
자료일람 | 한국사데이터베이스, https://db.history.go.kr/id/gskh_001_0010_0030_0010
-
[55]
자료일람 | 한국사데이터베이스, https://db.history.go.kr/id/kn_078_0010_0030
-
[51]
建興 (高句麗) - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E8%88%88_(%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97)
[54]
なお、中原高句麗碑を
高麗建興四年五月……十二月廿三日甲寅……辛酉年
と読んで建興4年をとする場合、
この年は閏3月、11月壬辰朔、11月23日甲寅、12月辛酉朔 (甲寅日なし) となります。
そのため高句麗では閏12月があったとして、12月壬辰朔、12月23日甲寅と考えます。
>>51
[11] 歳在も参照。
[50] 桓檀古記の日時, 百済年号も参照。
[66]
桓檀古記に登場することから、
長寿王の時代に当てはめて建興の元年はかとするものがありますが、
それ以上の根拠はなさそうです。
[40] 고구려의 稱元法과 年號 운용, https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART002607784
(PDF 全文あり)
#page=25
[69] Xユーザーのhosikitaさん: 「一昔前に書かれた古代朝鮮に関する論文に「三国それぞれが年号を建てた」とあるのを発見し、七支刀の「泰■」を百済年号と見る見解に立っているのだろうか、と一瞬困惑した。しかし、論文の発表が中原高句麗碑の発掘前であったことに気がつく。なるほど、高句麗年号の「建興」を百済年号と見たわけだ。」 / X, , https://x.com/hosikita/status/1093464754884997121