[6] 亀光 (旧字体: 龜光, y~1758) は、 幕末に使われた日本の私年号の1つです。
[33] 読み方は不明ながら 「きこう」 または 「きっこう」 とされます。 >>8
[114] 亀光銘墓石 (>>9) を管掌している日本国福岡県古賀市立歴史資料館は 「きっこう」 と読んでいます。 >>19
[52] これまで2年以降の用例は発見されていません。
[217] 現在までに11件の用例が知られています。
[83] 墓石 (>>9) はに県道工事の発掘調査で出土しました。 出土地は墓地ではなく、 昭和30年代に他 (不明ながら、おそらく近く >>2 #page=2) から造成用に持ち込まれた土砂に含まれていたと考えられています。 >>60 #page=3, >>19 平成29年時点で古賀市の所有または管理下にあり、 古賀市立歴史資料館の所蔵となっています。 >>60 #page=2
[115] 墓石とそこに刻まれた私年号は、 時点で既に古賀市のウェブサイトに紹介がありました。 当時既に文化財で観光資源の1つと市当局から認識されていたようです。 >>82
[147] に発掘報告書が発行されており、 そこに墓石と私年号の記載があるようです >>146。
[88] 博多商人文書 (>>10) も墓石 (>>9) の紹介の中で言及されており、 平成時代初期頃から存在が認識されていたものと思われます。 >>82 現在は九州大学に所蔵されているようです >>22。 墓石 (>>9) のみつかった遺跡の発掘報告書に博多商人文書を調査した三池賢一による説明があるようです >>2 #page=2。
[12] 墓石, 博多商人文書とも、 その性格や内容などから後世の偽作ではないことは明らかで、 他に似た公年号なく誤記、誤読ともできません。 >>60 #page=10
[80] 墓石は、 その所在する日本国福岡県古賀市で平成28年度 (平成29年) に文化財登録が審議され >>48、 平成30年に市指定文化財となりました >>1, >>21, >>101。
[140] 墓石には人名がありますが、素性は明らかではありません。 >>60 #page=11
[116] 墓石は、同時出土の明治12年墓石の存在からその時期 (前後30年の60年間 >>60 #page=3, >>60 #page=10, >>2 #page=1) と推測され、 銘文の様式から明治よりも前と推測されます >>19, >>60 #page=3, >>60 #page=10。 十二支からの可能性が高いとされます >>19, >>60 #page=3, >>60 #page=10。
[117] 博多商人文書は、 調査した三池賢一によると、 山本屋文書が天保から明治の約30年にわたること、 文中の人名から以前となること >>60 #page=3, >>60 #page=10 を踏まえ、 文久2年が最も妥当とされます。 >>19, >>60 #page=3
[107] 博多商人文書にはこれを認める裏書があり、 福博町屋衆の間で亀光が通用していたことが知られます。 >>60 #page=10
[139] 博多商人文書は政治的、宗教的色彩のない一般的な商人の文書のようで (>>136)、 発給者が敢えて私年号を選択するとは考えにくいようです。
[63] https://dl.ndl.go.jp/pid/7975556 (非公開)
歴史読本 40(13)(645)
雑誌
(Kadokawa, 1995-07)
146: とすべきところを、「亀光元年と記されていた。私年号の使用は、全国で四十例ほど確認されているという。(4·18/西日本新聞)一昨年十月、全
[76] 西田直養は小倉藩士の国学者でした。 親長州藩派とされます。
[77] 昭和時代初期の展覧会目録にの直筆とされるものが2点掲載されています (目録なので断片的情報のみ)。
[79] 詳しい内容は不明ですが、地元の歌人の展覧会への出品で、 概要を読む限りどちらも政治的色彩はありません。
[78] うち1点、短歌の会の記録の序文の日付が亀光です。 その5ヶ月前が文久で、その間に改元情報を得たと考えられます。
[149] 目録ではそれがいつかは特に検討されておらず、 令和時代に至るまで私年号資料として認識されずに埋もれていました。
[14] 天保時代に日本近江国で発生した近江天保一揆について隠岐邑浅五郎が記述した 近江国田畑御見分ニ付騒動写 (岡山大学付属図書館黒正文庫所蔵) の表紙に書かれた日付が 「亀光元年」 でした。 >>27, >>4, >>15, >>16, >>17, >>186 日本近江国甲賀郡隠岐村は明治時代に佐山村に属し、 現在は甲賀市の一部となっています。
[187] 黒正文庫は、 京都帝国大学農学部農史講座の黒正巌が収集した百姓一揆関連記録などで構成され、 黒正巌が旧制第六高等学校 (現在の岡山大学) の校長だったため現在岡山大学に所蔵されています。 >>47
[188] 現在知られている中ではに保坂智らが編集した 編年百姓一揆史料集成 >>27 が当文書の研究史上の初出で、 には保坂智により一般向け書籍でも紹介されました >>186。 保坂智は百姓一揆の研究者で、 当時は大学教員、平成時代に入って国士舘大学の教授となりました。
[18] この近江国の一揆はに発生しに至ったもので、 それを記録した本書の成立はその時期かそれ以後となります。
[46] 昭和時代の研究では著者の隠岐邑浅五郎が作った私年号とされていたようですが (>>189)、 近年の発見例を踏まえて再検討してみる価値はありそうです。
[36] 岐阜県歴史資料館所蔵林周教旧蔵 伊勢山御運上帳 に日付が 「亀光元癸戌.3月25日」 とされるものがありました。 >>26
[86] 林周教は昭和時代の日本国岐阜県大垣市在住の歴史研究者でした。
[87] ウェブサイトの目録では日付と文書名以上の詳細は不明です。
[37] 「癸戌」 は干支にありませんが、 の意としても矛盾はなさそうです。
[84]
癸
の異体字关
と壬
が書写や翻刻の過程で混同されたのかも?
原本を確認したいところです。
亀光元癸戌.3月25日 伊勢山御運上帳 1冊 9文化9-228
[213] 昭和時代後期に市史に収録されて知られるようになった資料です。 注釈も特になく、私年号資料としては令和時代まで見落とされてきました。
[214] 当文書はごく一般的な宗門改帳です。表紙には亀光元年と文久2年の2つの記載がありますが、 末尾の署名と共にある日付3箇所はいずれも文久2年のみです。
[215] 表紙には「亀光元年」「文久二」「不改」の3つの記述があります。 どのような順序で書かれたものかいまいちよくわからないのですが、 「亀光元年」 → 「文久二」 → 「不改」 → 末尾署名、 でしょうかね? これが村方の控えだとすると、領主に提出された方では「文久二年」とだけ書かれていたのでしょうか。
[67] >>55 「不改」って意味深やな。改元デマだったってこと?
[216] 文久2年、戌の記載から、この亀光の元年が文久2年を指すことは間違いありません。 その3月に一時亀光が使われたことがわかります。
[98] いなべ市と名古屋市の文書は令和2年か令和3年に存在が知られました (>>70)。 詳細情報はウェブ上になく不明です。
[97] 今浦の文書 (>>38) はに存在が知られて新聞で報じられました。 元三重県史編集委員の吉村利男が文書を解読しました。 >>23
[157] 日本飛騨国吉城郡塩屋村 (現在の日本国岐阜県飛騨市宮川町塩屋) の慶蔵 (日本国岐阜県高山市の尾崎慶三の祖先) の自学自習の資料が残っています。 >>54
[161] この資料は昭和時代後期の地域教育史の研究で紹介されました。 >>54 出典として地元自治体史宮村史が参照されていますが、 同じ記事の他の部分に相当する記述しかなく >>57、 この資料の紹介部分の記述はありません。 自治体史からの引用ではなく筆者が他の地元の資料を元に紹介したのか、 実見したものだと推測されます。
[163] 所蔵者などの記載がなく、現所在は不明です。写真や翻刻も見当たりません。
[162] この資料は令和時代に至るまで私年号史料として認識されておらず、 見落とされてきました。
[169] >>54 はその趣旨的に亀光がいつなのか関心を持たなかったのか、 その時期には何も触れていません。 天保年間の記事の1つとして掲載していますが、 紹介資料の1つが天保7年付だからというだけの理由と思われます。
[164] 亀光と安政の2つは「塩屋村 慶蔵」と名前があるようです。 天保には記載がないようです。 >>54 説明はないのですが、筆跡などから3つとも同一人物の所持品と判断されたのでしょうか。
[166] 慶蔵の生没年は不明ですが (子孫まで判明しているなら、 過去帳などである程度の情報はわかるのでしょうか)、 3つの資料が同一人物によるものなら、 江戸時代の後期から明治時代の初期にかけての期間のものであることは明らかです。
[167] 慶蔵は寺子屋教育も受けずに自学自習のみだった >>54 とのことで、天保と安政で20年の開きがあるのは長年学習を続けていたということなのでしょうか。 そうだとすれば亀光が文久2年だとしても不思議はなさそうです。
[150] 、 古書店の祥展堂の Twitter アカウント (おそらく日本国静岡県榛原郡吉田町に所在する祥展堂) が、亀光元年文書の写真を公開しました。 >>3
[151] 文書の性質は不明ですが、近江商人のものと伝わっています。 >>30
[153] 文書の他の記述 >>41 や干支年から、 文久2年と確定できます。
[155] 現所在は不明です。 残念ながら Twitter アカウントも削除されて、 写真も閲覧できなくなってしまいました。
[170] 昭和時代にいくつか亀光の用例のある資料が報告されていました (>>73, >>36, >>157, >>209) が、私年号史料としては認識されず令和時代まで埋もれていました。
[189] 日本近江国甲賀の百姓一揆の記録に見える用例 (>>14) は昭和時代後期に百姓一揆研究者保坂智によって紹介されました。 保坂智は次のように指摘しました。 >>186
[202] 保坂智が具体的にどのように検討したのか、一般向け書籍のコラムに過ぎない >>186 では詳細はわからないのですが、おそらくその内容が具体的で信憑性が高く、 事件直後の成立とみて良いと判断した (が直接的に時期を確定できる記述は見つからなかった) ということなのでしょう。
[203] しかし私年号の制作者を何の根拠も示さずに浅五郎と断定しているのは問題です。 また、浅五郎の村内での立ち位置、一揆との関係性がまったく判明しておらず、 一揆に賛同しているのか反対しているのかすら画定されない中で結論を急いでいるのは、 とても危険です。
[205] 昭和時代末期から平成時代初期にかけて、 保坂智の見解を踏襲する形でしばしばこの事例が紹介されました。 >>15, >>16, >>65, >>4, >>53 おそらくそれ以上の研究が進められない (追加の根拠が提示されない) ままに、 百姓一揆に伴い反幕府的態度から私年号が作られ使われたと既定事実化が進んでいるようにもみえます。
[206] その後は言及例が見当たらず一旦忘れられたようにも見えますが、 電子化され閲覧可能になっている書籍が少ない谷の時代に当たるためかもしれず、 改めて調査が必要です。
[207] いずれにしても百姓一揆関係の研究者には知られたものの私年号の研究者や事典類等の私年号の一覧表に捕捉されることなく令和時代を迎えることになります (>>154)。
[89] 日本国福岡県古賀市の墓石 (>>9) は時点で既に古賀市のウェブサイトに紹介があり、 博多商人文書 (>>10) もその紹介文中で触れられていました。 >>82
[31] その古賀市ウェブサイトの紹介文は、次のように解説していました。 出所は不明ですが、元々は墓石を調査した文化財担当職員か研究者の見解でしょうか。 >>82
[81] 日本国福岡県古賀市の墓石 (>>9) の文化財登録審議 (>>80) の資料 >>48 は元々は遺跡調査の報告と思われ (>>147 のようです >>2 #page=1。)、 市の文化財担当の学芸員か発掘に関わった研究者が用意したものなのでしょうが (審議会では古賀市の業務主査の井英明が説明しています >>2 #page=1)、 私年号研究の当時として最新の状況を非常に的確かつ簡潔にまとめていました。 ウェブ上で入手できる良質の私年号情報として、 平成時代末期から令和時代初期における最も良質な情報源でした。 亀光に限らず私年号の研究への非常に大きな貢献といえます。 その甲斐あって平成30年には文化財登録されました (>>80)。
次のように考察されています。
亀
, 光
は日本の公年号, 日本の私年号に事例はあるが時期などが違い、
それらとは無関係に、
佳字を選んで創作されたものだろう
>>60 #page=11亀
や光
に世情一新の願いを込めたと考えられる
>>60 #page=11亀
, 光
が時代を超えて使用されている点は注目される。
時代背景や風潮は異なると考えられるが、
佳字で攘災招福の呪術性のシンボルとして普遍性をもって選択されたと考えられ、
私年号あるいは年号を考える上で重要な問題
>>60 #page=14光
を連想させる。
>>60 #page=14と説明されています >>101。
[118] に古賀市立歴史資料館は広報誌で墓石を紹介しました。 墓石が文久2年と推測される理由を説明し、 亀光が墓石 (>>9) と博多商人文書 (>>10) の2例しか知られておらず、 不安定な政治状況を一新する発想で狭い共同体で使用されたと考えられるとしていました。 >>59
[108] に古賀市立歴史資料館は墓石の調査結果をウェブで公開したとされます >>25。 これが具体的に何を指すのか毎日新聞の記事は明瞭さを欠くのですが (これに限らず新聞記事は曖昧な記載が多く困ったものです。)、 の広報誌を指す可能性が高そうです >>59。
[70] の新聞報道によると「最近」、 その広報誌で知ったのか古賀市立歴史資料館に2件 (>>44, >>45) の報告がありました。 >>25
[109] までに3件東海地方から報告が続いた (>>70, >>38) ことについて、 古賀市立歴史資料館は理由が分からず新たな謎だとコメントしました。 >>25
[148] ここまで挙げてきたように、古賀市はウェブサイトで文化財審議の議事録を公開している >>48 のに加えて一般人対象でも積極的に紹介しており >>20, >>1, >>21, >>101, >>59、 亀光をはじめとする私年号の認知の拡大に貢献しています >>58。 それが3点もの新資料の報告につながり (>>70, >>109)、 幕末の私年号の実態解明のためにも重大な貢献をもたらしているのであり、 地方の文化財行政の1つのモデルケースともいえるのではないでしょうか。
[154] には、令和改元の折、 伝近江商人文書 (>>13) が SNS で紹介されました (>>150)。 紹介した古書店は不明な私年号としていましたが、 読者からリプライで古賀市のウェブページや甲賀の用例のウェブページ >>4 を提示されています。
[50] 令和時代になって、 令和改元などがきっかけで新たな用例が知られるようになったり、 埋もれていた用例が再発見されたりと、 急な進展がありました。 まだまだ未発見の用例が眠っていそうです。
[224] これまでの研究は局所的な用例だけに基づいており、 他のすべての用例を踏まえて全面的な再検討が求められます。 しかも現在知られている用例は当時の利用事例のほんの一部でしかない可能性があります。 利用できる史料はあくまでたまたま現在に伝わったものに過ぎないという歴史研究の前提 (あるいは限界) は改めて確認されるべきです。
[218] 現在知られている用例によると、
ということは確実です。
[222] 使用者は商人、農民、藩士と幅広く、政治的意図の考えられない媒体に書かれた用例が多いです。 公年号への訂正と思われる意味深な事例もあり (>>67)、 私年号と意図することなく改元デマを信じてしまって使われた可能性があります。
[225] 月単位の時間を置いてまったく別の地域で出現するということは、 通常の改元その他の情報伝達ルートとはまったく異なる伝達経路を想定する必要があります (末端の伝達は既存の伝達ルートを通っている可能性はありますが)。 幕末の政治体制の変化 (主要大名の上洛など) や経済構造の変化に伴う人の移動とも関係するのかもしれませんし、 江戸城を経由する従来の公年号の施行手続きからの変化と関係するのかしないのかも検証が必要でしょう。 当時流布されていた (改元以外の) さまざまな噂の伝達過程ともあわせて議論できると有意義かもしれません。