[49] 大同は元号の1つです。東アジアで何度か用いられました。
[329] 日本各地に残る大同と、 関係の深い大道、大筒、大とうの用例をまとめると次の通りです。
[330] おおむね近世のものと見られていること、 多くは東日本に所在しているものの、西日本にもいくつかあることがわかります。
[331] 大同は5年まで続いたのに対して、これらの用例は元年、2年に集中しています。 大道10年の異様さが際立ちます。
[268]
日本国千葉県富津市の絹横穴群の1号横穴に
「
[276] この横穴は7世紀頃のものとみられているようです。 >>275
[277] 銘文はいつ掘られたものか必ずしも明確ではありませんが、 昭和時代初期の発見より前なのは確かで、 書体や記載内容から古いものと考えられているようです。 >>88
[278] しかし横穴の造営とには開きがあり、 祭祀の継続を表しているのだろうかと推測されています。 >>88, >>269, >>270
[17] 空海が大同元年に帰朝したとされます。東北に限らず各地の寺社に大同年間の伝承が空海に絡むもの、絡まないもの含めあるようです。
[18] 大同元年には磐梯山が噴火した記録もあり関係が指摘されます。
[54] 東北には延暦、大同年間の坂上田村麻呂関連の伝承が多いようです。 ちょうど坂上田村麻呂の遠征の時期にあたっています。
[47] 中世日本紀的なやつと理解したらいいのか? はたまた五月丙午?
- 2年(807年)
- 東北地方の数多くの神社仏閣の創設に関わる縁起が語られている。清水寺、長谷寺また善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上がこの年が創設年であるとされている。
[53] そもそも四国八十八箇所の多くが行基か空海の伝承があるのですよね。 その他の日本各地の寺も。 「大同」の元号に意味があったというより、 伝承の結果として大同の元号が広がったというべきでしょう (元々は)。 坂上田村麻呂についても同様でしょう。
[72] いつしか「大同」伝承にはいろいろな意味が付加されていったようです。 同音の 「大同」「大道」「大洞」 に絡んだいろいろな思想との連想だったり、 東北という辺境の地や坂上田村麻呂の蝦夷平定と絡めた中央 vs 地方、 反日本政府的な因子を呼び込んだり。 伝承が連想を呼び、思想が伝承を創り出したのでしょうから、 何から何が生じたのか解きほぐしていくのはなかなか難しそうです。
[267] 「大同」の伝承は東北地方に多く、 東北地方のものが特に昭和時代に好んで語られたようですが、 他の地方にも大同年間創建と伝わる寺社などは多数あるようです。 東北地方の「大同」に地域的特殊性があるのか、あるとしたらどのような点においてなのか、 は東北地方の伝承だけではなく日本全国の伝承を総括的に調査しなければ判明しないはずなのですが、 手つかずのように見えます。
[62] 山島民譚集, 柳田国男, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1460962/1/11
大同2年は奥州の伝説で最も有名な昔。
[11] https://unii.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=572&item_no=1&attribute_id=20&file_no=1 PDF 8頁
大同は実態ではなく象徴の年号
観音信仰との結びつき、 民間の歴史における画期。 世直しと関連する私年号的なところもあるか。 礼記礼運簾に由来する大同思想と関係する。
[425] >>424 仙台、大同4年8月2日銘。古いものとは考えられていないらしい。ただ銘文の古めかしい感じはちょっと気になる。
[246]
これは「大同2年」銘があるにも関わらず、
と解釈されています。
そして「
[258] これは表面の懸仏像の様式から年代が推定されたとのことです >>252。
[259] 出羽神社こと羽黒堂は例によって坂上田村麻呂の伝承があるそうです。
[432] 岩手の歴史論集 2 (中世文化), 司東真雄, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9538754/1/283 (要登録) 左
[248] >>247 大同銘の仏像、大同2年3月17日銘の懸仏が偽銘とみなされ収録されなかった旨の注記があります。
[251] >>250 日本岩代国信夫郡小倉寺村字拾石観音堂、 本尊千手観音像は行基作とされ、 大同2年3月17日開基という伝承。 キーワード: 羽黒山
[423] 太同と書かれることがままあります。相当多いというわけでもありませんが、 無視できないほどにはたくさんあります。その一部を挙げると次の通り。
[396] 下野星宮神社(栃木県下野市下古山) | まほろば御朱印紀行, https://ameblo.jp/kokushimahoroba/entry-12796869229.html
こちらの神社の由緒は、次の通りです(由緒書による)。
「御由緒 厄除 方位除 八方除の開運導きの神様
当神社は第五十一代平城天皇の御代、太同二年(807年)4月10日、藤原鎌足十代の後裔飛鳥井刑部卿院旨の命により地方の開拓司として当地に居住し、開拓守護神として磐裂・根裂神の神様を児山の郷の乾の方に祀ったのが始まりと伝えられております。 また、一説には康和元年(1099年)に飛鳥井刑部卿がこの地に社を祀ると在りますが定かではありません。
[397] KJ00005612486.pdf, , https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/4396/files/KJ00005612486.pdf #page=9
了法寺由来書 「寺家ノ説曰太同二年天台僧行禅上人ノ」
[409] 紀伊続風土記 第1輯, 仁井田好古 等編, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9573494/1/221 (要登録)
[408] 明治時代の佐伯写真集と現在の風景比較, , http://panorama.mbsrv.net/satobus/mukasi.html
五所大明神社 今のパノラマ
佐伯町臼坪に在り太同元年豊後の守佐伯の宿彌久良麿の創始に係り加茂、春日、住吉、梅の宮、稲荷の五所を合祀す享保六年正一位の神位勅額を得たり末社二あり鎮魂善神と稲荷明神となり
[411] 南原青年雑誌 (2), 南原青年一志会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1602090/1/11 (要登録) 左
[412] 在原業平, 鵬南, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/780965/1/21 左
[413] 国史大系 第6巻 日本逸史 扶桑略記, 経済雑誌社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/991096/1/305
右上注釈、2年は太? 3年は大。
[414] ことばの泉 : 日本大辞典, 落合直文, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/862875/1/367 左上
[415] 和賀郡地理, 川口卯橘, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/763556/1/8 左上
[416] 大日本老樹名木誌, 本多静六, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/951274/1/54 左下
[417] 松浦叢書, 松浦武四郎 (弘), , , https://dl.ndl.go.jp/pid/849762/1/95 (要登録) 左
太同元年銘の伊部焼硯
[419] 演説軌範 第6−9号, 伊東武彦, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/861771/1/99 (要登録) 左下
[421] 松屋筆記 第1, 小山田与清, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1087778/1/28 右下
[422] 弘法大師, 大富秀賢, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/909032/1/47 左
狩谷棭斎蒐集日本金石拓本
大同元年3月14日 会津八一題字付箋あり
拓本
印記:好古
市島春城旧蔵
と説明されています。 オリジナルの石塔がどこの何かは説明がありません。 会津八一, 市島春城は近代日本の新潟県の人物。
[263]
拓本画像によると板碑か何かのような石造物で、
銘文中には
「大僧都智
[264] は丙戌なので公年号の大同です。 改元日は延暦25(806)年5月18日なので2ヶ月の遡及年号です。
[265] このような石造物が作られるのも、紀年の様式も、 明らかに中世以後のものです。 原碑の保存状態が不明なので断言し難いですが、拓本で字形がかなり鮮明ですので、 大同年間から風化せずに江戸時代まで残ったと考えるのも無理があります。
[266] 紀年はあくまで死去の日で建立日ではありませんから、 後になって追慕のため作られたものなのでしょう。 であれば遡及年号も問題とはなりません。
[427] 日蓮聖人遺文全集講義 第15巻下, 平楽寺書店, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1244605/1/25 (要登録) 左
[429]
>>427 が日本で
「
[430] 現在知られる「大日」の用例はこれ1つだけで、単発の誤りとみられる。 ただし日蓮関係ということで同文が複数の書籍にあり。 原文からこうなのか、伝写の過程で誤ったのかは不明。
[66]
近世・近代には私年号の1つとしてよく知られていました。
ほとんどの年表・辞典が取り上げており、
南北朝時代頃とするのが通説で、
昭和時代中期頃までそれに異説はありませんでした
>>106 p.
[67]
久保常晴は既知および新出の資料を検討し、
それが南北朝時代ではあり得ないと結論付けて通説を否定しました。
そして先行研究および自身の研究
(>>141 >>146 >>144)
より、
「一応」慶長14年前後と推測しました
>106 p.
[437] 東奥文化 (30), 青森県文化財保護協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4416715/1/26 (要登録)
[102]
「大道」の初見はまでに会津藩が編纂した
新編会津風土記
です
>>106 p.
[112] 新編会津風土記
は、大道という元号はなく、
「
[116]
江戸時代の研究者山崎美成の
海録
の
[117] 海録 は、 「文字の体紙帛の質」から元弘建武よりは後のものだろうと推測しました。 >>115 つまり文書の様式から南北朝時代頃の元号と考えたようです。
[212] そして古文書を賜いしは高倉宮の末裔であること、 詳しくは冊子高倉宮御墓考に書かれている、 としていました。 >>115
[121] 高倉宮御墓考 とは 日本古典籍総合目録 に 高倉宮御墓考, 高倉宮以仁王御墓考 という名前で収録されたものと思われます >>122。
[123] 宮城三平の 高倉宮以仁王御墳墓考 >>120 とも同じものでしょうか?
[124] 高倉宮以仁王御墳墓考 によるとこの地域一帯には高倉宮こと以仁王の落人伝説があるようです。 しかし本書には佐取村のことや、 大道のことは見えません。 山崎美成は本書に何を参照したかったのでしょう。
[125]
日本私年号の研究
は、
海録
が紙質から南北朝時代頃と推測し、
南朝と関係する高倉宮を引き合いに出して裏書きしようとしたとまとめています。
>>106 p.
[209] 江戸時代の研究者伴信友の年号の論でも、 佐取村の用例と南紀の用例を紹介していますが、 佐取村のものについて 「南朝の高倉宮考という書」 に南朝末期頃のものだろうと推測されている、 と書かれています。 >>208
[210] 日本私年号の研究 はこの箇所では 年号の論 を参照していませんが、他の箇所では引用しているので、 久保常晴も当然これを読んでいたはずで、 伴信友の誤解をそのまま引き継いでしまったのかもしれません。
[211] 年号の論 は情報源を明記していませんが、 その内容は 海録 とほぼ同趣旨で独自の情報はありません。 従って 高倉宮考 とは 高倉宮御墓考 のことなのでしょうが、 「南朝の高倉宮」 がいないとすると、 伴信友はこの書を入手していなかったことになります。 海録 の紛らわしい書き方に誤読させられて、 高倉宮考 で南朝元号説が語られているような書き方になっています。
[126]
日本私年号の研究
は、
古文書が
新編会津風土記の5通に対して
海録
では3通とあることや、
記載内容がやや異なるように思われることを指摘し、
再考を要するとしています。
>>106 p.
[127] この指摘は妥当と思われますが、 内容が異なるのは言葉の綾とも思われます。 山崎美成は原文を正確に写しているわけではなく、 本人が実物を見ているのかどうかも曖昧なので、 必ずしも矛盾しているともいえません。
[316] 久保常晴はまた、 仮名混じりの文体について、 関東、東北で庶民がこのような証文を南北朝時代に書いているというのは一般的には無理と指摘しています。 >>315
[141] 日本の地理歴史研究者吉田東伍は 大日本地名辞書 において、 「大道貳年」文書と名前と花押が同じ文書 >>137 /68 が存在することから、 慶長の頃に大道などと 「私称濫用」 したものと推測しました。 >>140 これが近世初期説の初出です。
[128] 大道2年文書、慶長14年文書とも、 新編会津風土記 に収録されていますが、少なくても刊行されて現在ウェブで見られるものは、 花押は花押と書くだけでその形までは示していません。 >>111, >>137 大日本地名辞書 がその同一性を判定し得ているということは、 吉田東伍は当時それを実見したのでしょうか。
[142] 久保常晴は資料を実見していないのが課題としており >>315、 書きぶりからして日本私年号の研究時点でも実見できていないようです。 現存するのかも不明です。
[129] 一般論でいえば村境に係争はつきもので、境界を明記した文書は偽文書を大いに疑う必要があります。 怪しげな紀年があるなら尚のことです。
[131] に刊行された 紀伊国名所図会 の 地蔵寺 条に、 同寺古石灯籠銘と考察があります。 >>130
[134] 紀伊国名所図会 によると、 大道は大同と同音で、 弘法大師が漢土から帰国して建てたとする伝承があるそうです。 しかし 紀伊国名所図会 は隣の寺の正平銘と比較して、 字体、石質が新しく1000年以上経過したとは考えられないとします。 >>130
[136] そして 紀伊国名所図会 は 「友人の筆記」 で越後国に大道2年文書があると指摘します >>130。 「友人の筆記」とは引用文より明らかに 海録 (>>116) を指します。 そして後南朝の天靖の例があることから、 明確な証拠はないものの、 後南朝勢力の私年号であろうと推測しています >>130。
[135]
日本私年号の研究
は、
紀伊国名所図会
がこれを後南朝に関連付けたのは、
他にも南朝の玉川宮と関係するとされる紀伊国玉川と近接することもまた理由だろうと推測しています。
>>106 p.
[146]
久保常晴はこれを実見したようで写真と拓本を残していますが、
完品ではないため特色から年代を推定はできないとしています。
しかし銘文にある「講中」の金石用例を検討し、
室町時代後期以後、特に天正頃から畿内で盛んに用いられたもので、
とうてい南北朝時代とは認め得ないとします。
>>106 pp.
[317] 久保常晴はまた、 昭和41年発表の随筆で、 模写を見て、 南北朝時代ほどの力強さに欠け、それより新しいものだと判断しています。 >>315 日本私年号の研究刊行の昭和42年より前の段階ではまだ実見できていなかったのかもしれません。
[325] 吉日という表現がいつから使われるのか不明確ですが、 中世後期にはあるようです。 中世前期に使われていたかは怪しいところです。
後南朝説
[63] 未刊国文古註釈大系 第7冊, 吉沢義則, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1707635/1/122 (要登録)
後南朝説
私年号 紀伊続風土記から引いて後南朝説
[206] >>205 大同と音が似ているので天保の頃から注目されている、としつつ年代欄は空欄。
[80] 大和街道第2回, , https://www.gururinkansai.com/yamatokaido2.html
当寺庫裡裏に元名倉村弁天の森にあったとされる石灯籠の円柱(直径25cm、高さ70cm)が保管されている。
中央に「光明真言講中」左右に「大道元年七月吉日」と刻まれている。紀伊續風土記では、「南朝に奉仕せし人の子孫等、当時の年号を用ふるを快とせずして、私に建てた号なるべし」と記され、南北期末に使われた私年号とされている。
[82] 世界遺産|お寺・神社・お城, dog1800, , http://miyori872.blog83.fc2.com/blog-category-6.html
なお、本寺庫裡裏に元名倉村弁天の森にあったとされる石燈籠の円柱(直径25cm、高さ70cm)が保管されている。「大道元年七月吉日・光明真言講中」と刻まれてあることから、紀伊続風土記・紀伊名所図会に詳述されているものである。
[86] 紀の川流域の歴史と文化をたずねて : 紀の川流域歴史ゾーン調査報告書, 和歌山県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9575548/1/212 (要登録)
[83] 県指定文化財の「地蔵寺の五輪塔」が写真に大きく写っている正平紀年のある五輪塔。 その案内看板の裏にあるのが大道元年の灯篭。
[214]
明治時代に刊行された書籍によると大日本帝国茨城県常陸国鹿島郡諏訪村にある安祥寺の創立が
「
[215]
沿革文中には「
[217]
この地は現在は日本国茨城県鉾田市安房に当たり、
安祥寺も存続しています。
現地の案内板では、「
[218] 「大道元年」 とされていたのが誤植だったのか、寺伝でそう表記されていたのかは不明です。
[190] 大正時代に刊行された紳士録のうち、 日本国鳥取県八頭郡八東村の有本幸吉の項に、
現任中同所󠄃に大道󠄃元年(今より約千百五十年前)飛田匠來り
... て岩屋山千住寺が建立されたのが廃寺となり、 有本幸吉の祖先が千住院と改め、 大正時代に(?)有本幸吉が有本神社を建設したとあります。 >>189
[193] この場所は現在の日本国鳥取県八頭郡八頭町柿原に当たりますが、 柿原集落は平成時代中期に廃村化しました。 平成時代中期の廃村後の現地調査によると、 「千手院」「千壽院」と書かれた石造物があって、 紀年は江戸時代から大正時代にわたるそうです。 「有本神社」 も現存するそうです。 >>191, >>192
[194] この寺社についての古い記録は現在の所ウェブ検索や国会図書館検索では見つけられません。 「大道元年」建立の伝承も何らかの記録がどこかにはあるのでしょうが、未発見です。 「大道」の表記が古くからのものなのか、大正時代の誤植に過ぎないのかも不明です。
[195] 本書刊行はで、 1150年前は単純計算で頃となり、 に近いですが、少しずれています。 30年ほど盛ったことになります。 「1100年以上前」の方が切りも良かったはずですが、 大雑把に数えたのでしょうか、それとも少しでも由緒を古めかせた結果でしょうか。
[65] 三戸郡名川町は平成の大合併により現在は南部町に属します。 霊験堂は神仏分離以後斗賀神社となっていますが、 元は南部藩の南部氏ゆかりの地でもあります >>69。
[185] 伝承では大同2年に坂上田村麻呂が創建したとされますが、 実際には正平21年銘が残り正平年間の建立ともいわれるそうです。 >>69 東北地方の多くの寺社と同様にここにも「大同」2年の伝承があるのは注目すべきです。
[144]
この用例は、久保常晴が再発見しました。
久保常晴によると書体は室町時代以後 (室町時代末期 >>315) と見受けられ、
とうてい南北朝時代とは認められません。
収められた仏像も室町時代以前に遡らせるのはかなり難しい
(南北朝時代まで遡り得ない >>315)
といいます。
そして江戸時代初期に比定するのが無難と推考されます。
>>106 pp.
[318] 昭和41年の久保常晴の随筆によると、 これは二十数年前に青森県を回った際に見つけたのだそうです。 >>315 ということは昭和十年代頃の発見でしょうか。
[319]
昭和41年時点では銘文は「
[223] 出版の 人蔘史 所収の法眼間島右京の両目秘伝書 に、
大道󠄃元年三月朔日辰󠄀刻󠄂ニ。我朝󠄃馬嶋へ降候我等ガ先祖分󠄃心。爲唐󠄃渡龍󠄇樹大
師ニ傳致歸朝󠄃参慮候。國出 癀 厂 此方四十八󠄂代。奧州眞󠄀間嶋實相院法印第一家傳。眞󠄀間嶋左京法眼武州江戶ニテ是傳四十九代也。 四十八󠄂代
眞󠄀間嶋左京法眼 京 武 (花󠄄押)
慶長六年十月十七日
眞󠄀嶋 專心坊一味 亅 齋
とあります。 >>220
○桓武天皇大同ノ
年號ナラン。
とあります。 >>220
[222] 続群書類従本両目秘伝書はこの後に49代から50代への伝授まで続きます。 49代による文中にも「大道元年三月一日辰刻」とあります。 >>326 #page=12
[225] これは間島流の眼科の秘伝書とされますが、 間島流は室町時代に起こったものだといいます。 >>220
[228] 馬嶋流眼科は室町時代の日本最古の眼科専門医に始まる流派で、 日本尾張国海東郡馬島村 (現在の日本国愛知県海部郡大治町) を本拠地としていました。 >>226, >>227
[229] この馬嶋流は「眞嶋」「間島」など様々に表記されました。 >>226 しかしこの秘伝書の「眞󠄀間嶋」氏がそれとどう関係していたのかはよくわかりません。 しかし「我朝󠄃馬嶋」が云々というのは眼科の聖地、馬島村のことを指しているのでしょう。
[230] 本家の馬島流は現在も続き38代にまで至っています。 時点で13代目だったそうです。 >>227 一方でこの秘伝書は時点で48代から49代へと継承すると謳っていて、 代が進みすぎています。
[231] もっともその本家の方も伝承では最澄の弟子聖円がに開基したとされ >>226、 は「再興」ということになっています。 13代は明らかに「再興」からの代数ですから、 その前の500年分も数え合わせたとすれば、 慶長の時点で49代まで至っていてもおかしくはありません。
[232] からまでで13代とすると、 1代当たり約20年となります。 から (49 - 13) 代 × 20 年 = 720年 遡るととなります。 すると大道元年がその頃になるのでしょうか。 ちょっと遡りすぎです。 1代を20年でなく15年にすると、 になってそれっぽい年代になります。
[435] 長慶天皇の落人伝説に関係して天靖と大道を後南朝の元号とする江戸時代の元和8年付の文書があり、
明治時代以後に出版されています。
[334] 大道の解釈は大別して3通りが提案されてきました。
[338] このうち大同説がもっとも素朴に行われてきた説でした。 地蔵寺石灯籠 (>>131) では江戸時代時点で地元で元来あった説がこれで (>>134)、 朝鮮研究者の今村鞆がに出版した 人蔘史も秘伝書に見える大道元年を大同の誤りとみなしました (>>223)。
[339] 江戸時代から現代に至るまで、 本格的な研究はすべて大同の同時代的な異称説を否定するところから始まります (>>112, >>117, >>134, >>316)。 ただ大同年間の伝承が伴うケースもあって (>>92)、 後世に大同から転訛した可能性は今後追求が必要でしょう。
[340] に 新編会津風土記 が佐取村の大道2年文書を紹介しました (>>102)。 これが大道の学術的な初見となります。 この時点では大同の誤記とも思われないと注記するのみで (>>112)、 年代の確定には至っていませんでした。 新編会津風土記 はまた大筒2年・大とう2年文書も紹介しており (>>160)、 現在知られる大筒・大とうの唯一の用例となっています。
[341] 江戸時代後期の研究者山崎美成は、 佐取村の大道2年文書を南北朝時代かそれ以後と判断しました (>>116)。 に刊行された 紀伊国名所図会 はそれと地蔵寺の大道元年石灯篭 (>>131) とを合わせて、 後南朝の元号とする説を提唱しました (>>136)。
[343] この後南朝の元号説は近代において通説化しました。 個別事例の紹介や歴史学事典の私年号一覧のようなものの他でも取り上げられることがあり、 例えば国文学系の南朝史の説明でも
のように紹介されています >>200。
[344] 大道元年石灯篭の紹介では現在も紀伊国名所図会の説が引かれ続けています (>>188 >>63 >>74 >>80)。
[342] 近代に編纂された 大日本地名辞書 は、 南北朝説を知らなかったのか、 佐取村の大道2年文書を引いて慶長頃の私年号と紹介しました。 それは同じ発給者の慶長14年文書の存在を根拠としていました (>>141)。 この慶長説はしばらく埋もれていましたが、 久保常晴が発掘して発展させることになりました。
[184]
昭和時代中期の研究者久保常晴の
日本私年号の研究
は、
慶長10年代当時の時代背景、すなわち徳川方と豊臣方の対立、
豊臣方とキリスト教徒の連合、
キリスト教禁教とキリスト教徒の一揆、
といった状況で全国の人心が動揺し、
民衆が変動を予期していたことが、
私年号発生の母胎になったとしています。
>>106 pp.
[280]
日本私年号の研究
は次のように推測しました。
>>106 pp.
[308]
日本私年号の研究
は大道の地域的分布が近畿から東北にわたっていながら関東になく、
中世の関東私年号とは様相が異なると指摘しました。
>>106 p.
[283] 日本私年号の研究 のこのかなり大胆な推測は、 確実な根拠を欠くもので、 そのままただちに受け入れるのは難しい (しかし否定するのも難しい) 仮説というべき段階のものです。
[322]
久保常晴も当然それは認識していて、
日本私年号の研究
はこの推測を基本の説として全面的に採用しているものの、
逆に真言宗信者によって利用され修験者によって伝播された (>>288)
とする余地もあることは断っています
>>106 p.
[309]
日本私年号の研究
は大道元年を慶長18年とする推測 (>>302) を提示していますが、
これに断定はせず、
一覧表等では慶長14年前後としています。
>>106 p.
[320] 昭和20年頃から20年以上私年号研究を続けてきた久保常晴にとって大道は、 未解決のまま残る2,3の私年号のうちの1つで、 かなりの思い入れもあったようです。 日本私年号の研究の昭和42年の前年、 昭和41年には大道の研究をテーマにした随筆記事を公表しています。 この記事は久保常晴の思考の過程をたどった貴重な研究史資料ともなっています。 >>315
[379] 日本私年号の研究 以後、 キリスト教説はともかく慶長14年前後説は通説の地位を得て、 日本史事典類などは大方この新説を採用しました。
[380] ところが実質的な研究の進展はないまま、伝言ゲーム的に少しずつ変質が進んでいるようです。
[310]
昭和時代末期の板碑とその時代の一覧表では、
[377] 大同の「仮託」というのも、これだけ読んでもよくわからない注釈です。 平安時代の元号に仮託して近世の私年号ができるというのはどういう意味なのでしょう。 大同との誤認を狙って大とうと書いたとする説 (>>180) を一言でまとめたのか、はたまた独自の別解釈なのか、 一覧表の他に詳しい説明がないのでよくわかりません。
[312]
令和時代初期の中世東国と年号の一覧表は
板碑とその時代
の一覧表を少し改めたものですが (直接の派生かは不明、
[428]
令和時代初期の中世の元号の一覧表は、
暦と改元
の一覧表を少し改めたものですが (
[353] 日本語版ウィキペディアの私年号記事の一覧表に大道などが掲載されています。 >>48
[354]
この記事は平成18年から20年頃に原形が作られ、
その後小さな変更が加えられ続けて現在に至っています。
[355] 記事が作られた直後の平成18年の一覧には、 大筒が掲載され、 「慶長年間(1596年~1615年)」 と説明されていました。 大道はありませんでした。 >>346
[356] 平成19年の大きな変更で、 大道と大筒の2つが掲載されました。 どちらもが元年で、 継続年数は不明とされました。 >>348
[357] 平成20年の変更で、 大筒は大道の「異説」にまとめられました。 そして新設された「典拠」欄に霊験堂銘と地蔵寺石灯籠銘と「など」が挙げられました。 >>350
[358] 平成24年の変更で、 「異説」に「大同」が追加されました。 >>352
[359] その他細部の体裁の変更がたびたび行われています。
[360] これらの記述には多くの問題があります。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 大道 大同・大筒 慶長14年(1609年) 不明 青森県南部町霊験堂龕扉銘、和歌山県高野口町地蔵寺石灯籠銘など
[383] 現在知られている大道の用例 (>>329) を見るに、
という共通性があります。
[386] 大道が先にあって後に大同・坂上田村麻呂と結び付けられたのか、 大同・坂上田村麻呂の伝承に後から大道の表記が生じたのかは検討の余地があるにせよ、 大道には大同の異表記という性質があるのは間違いありません。 従って大道は大同にまつわる諸伝承と一体的に研究されるべきといえます。
[387] 既存の諸説については、
となり、また、過去の出来事の記述や偽文書と疑われるものを除くと
が残ることとなるので、
と考えられる一方で、 >>386 を鑑みれば 「その時代を表す」 大道の私年号が実在したかどうかも含めて再検討されるべきです。
[418] 資治通鑑 : 294巻 第一冊, 司馬光奉勅, 胡三省 音註, 山名留三郎 訓点, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3464365/1/27 (要登録)
太同元年だけ「太」。左怒鳴りに大同4年。なお右隣に中大通5年。
[420] 日本仏教哲学, 小野藤太, 井上哲次郎 閲, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/816954/1/50 右
中太同元年
[77] 梁の大通を大道と書くものが、日本語でも中文でもままあります。
[78] 元々が誤記なのか意図的なのかわかりませんが、単なる誤植ではなくそれなりに流通しているようです。
[79] 正法眼蔵弁道話講義, 高田道見 述, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/899700/1/29
梁の大道元年9月21日、日本の継体天皇21年
[81] 走在南京明城墙上|荷花|城墙_凤凰文化, , http://culture.ifeng.com/gundong/detail_2014_02/23/34090355_0.shtml
鸡鸣寺,位于鸡笼山东麓,是南京最古老的梵剎之一。它始建于西晋永康元年(公元300年),梁武帝于南朝梁大道元年(公元527年)在此兴建同泰寺,始为佛教圣地,名列“南朝四百八十寺”首刹,明洪武二十年(公元1387年),明太祖朱元璋重建寺院并命名“鸡鸣寺”。
[160] までに会津藩が編纂した 新編会津風土記 に次のような「大筒」「大とう」紀年のある文書が収録されています。
[161] 入り組んでいて構造がわかりにくいですが、次の日付があります。
[167] 権利関係の文書で原本がなく写本、しかも謎紀年、 という偽文書の可能性をまず検証しておかなければならない代物でしょう。
[169] 新編会津風土記 によると、 この村は元々「堂平」と称していましたが、 いつからか「堂山」と呼ばれるようになりました。 そしてこの名前は >>159 文書によるとその大筒2年権現堂が由来とされているそうです。 >>154 /145 平成の大合併までは日本国福島県耶麻郡山都町堂平、 現在は喜多方市に属します。
[170] また 新編会津風土記 によると堂山村には村北2町山上に熊野宮がありますが、 その鎮座の年代は不明で、 >>159 文書によると大筒2年に権現を遷したというのがこの神社だと言い伝えられているのだそうです。 >>154 /145
[171] この >>159 文書について 新編会津風土記 編者は、 大筒という元号はないと注記した上で、 「文書のさま」が昔の「大同」を誤ったようにも見えないと書いています。 >>154 /145
[168] 新編会津風土記 の編者はこれの「原本」を見て収録したのでしょう。 そして文書の様式をみてそれが大同ではないと判断したようです。 具体的に何を根拠に判断したのかは定かではありません。 >>159 文書は写本であると主張しているので、その「原本」 も「大とう」「大筒」のオリジナルではないということになります。
[172] オリジナルがどのようなものだったかはわかりませんが、 仮名文書が大同の時代まで遡ることはあり得ません。 新編会津風土記 の編者もそのあたりに違和感を持ったのでしょうか。
[173] 譲状事がその紀年通り応永年間のものだとして、 先行する「大とう」の仮名文書を見て「大筒」という漢字を当てたのだとすると、 その根拠は何でしょう。
[175]
昭和時代中期の
日本私年号の研究
は、
>>159 文書の前半を大筒の
[176]
そして
日本私年号の研究
は両文書の内容と日付を検討し、
「大筒」「大とう」は永正から相当な年代を遡らせなければならないところ、
両文書の日付に矛盾が見られることに加えて用語や文体から後半は江戸時代初期の偽文書としか考えられないとしました。
そして前半も矛盾があるので確断は避けたいとしながらも、
後半文書を踏まえて後から偽作された可能性があるとしました。
>>106 pp.
[177] 日本私年号の研究 は元号名について、 元号名は濁点をつけない慣例より「大道」と「大とう」は同一視して良いとしています。 そして大筒は大道と音通することから無関係とは考えられないとして、
との経過を推測しました。
>>106 pp.
[181] 大道 → 大とう → 大筒の2段目はともかく1段目には音通以外の根拠が特にありません。 どちらも 新編会津風土記 が出典で、どちらも江戸時代初期とみられ、 会津地域に大道が流通していたので知っていたはずという推測によるものでしょうか。
[182] この程度の類似性なら、偶然別個に発生した可能性も考慮が必要かとも思われます。 まったく独自に発生した可能性も、大同から転じた可能性も考えておいていいでしょう。
[381] 現在まで大筒、大とうの用例はこれ1例しか発見されていません。 明らかな偽文書ではない用例が発見されない限り、通常の意味の私年号の 1つとみなすのは難しいかもしれません。
[382] 現在も諸書は私年号の1つとして扱っていますが (>>310 >>353 >>312 など)、 やはり近世の偽文書にのみ見える清保などと同じカテゴリーに入れるべきものです。
[25] 大同 (y~1875) は、薛幹臣の大同国の元号でした。 >>20 (>>21)
[28] 、 薛幹臣率いる宗教団体小刀会 (刀会) メンバーは、 挙兵しました。 >>21, >>31
[34] の挙兵時に、 中華民国18年を改め大同元年とした >>21, >>31 (>>21), >>93 とされます。
[36] 薛幹臣は大同皇帝を称し、国号を大同としたともされます。 >>37 また大同規約を制定しました >>93。
[33] 、 鎮圧され薛幹臣は死去しました。 >>21, >>31
[29] 3月初の薛梦秋の布告に、 「大同中华十八年三月二日」 とありました。 >>22
[32] 中文版维基百科は同じものを引いて 布告に 「大同中华民国十八年」 とあったとしました >>31 (>>22)。
[30] グレゴリオ暦3月2日では蜂起1ヶ月前になりますが、 農暦ではが3月2日に当たり、 ちょうど時期が合います。蜂起直前の檄文でしょう。
[38] 2つの引用で元号名が違いますが、 前者のWebサイトを後者の中文版维基百科が引用していますから、 誤引用が疑われます。 前者が原典を正しく引用しているかは定かではありませんが、 ひとまずは 「大同中华民国」 より 「大同中华」 がオリジナルに近そうと言うべきでしょうか。
[95] 当時の雑誌によると檄文に
などと書かれていたそうです。 >>94
[39] 18年とは、 = 中華民国18年に他なりません。 年の数え方を変えるつもりはなかったのでしょうか。 「中華民国」は否定しつつも「中華」は残し、 国名の「大同」を翳したのでしょうか。 y~2240
[40] 蜂起前日に 「大同中华」 を使ったとすると、 中華民国18年を改め大同元年にしたとする説にも疑問が生じます。 檄文の送付後に、 やはり年数を引き継ぐのはおかしいと考え直したのでしょうか? 当時「大同元年」と書かれたものは現存するのでしょうか。
[100] 「大同元年」とする資料がもし実在しないなら、「大同中華」からの誤伝の可能性もあります。
[99] 大同は運動のスローガン、象徴的に使われていた言葉なのでしょうが、 国名や元号名と言うべきものかどうかは定かではありません。
[41] 大同は元号名でも国名でもあるとされます。 大同紀年は元号なのでしょうか。 当時の公年号は中華民国でした。 同様に国名を紀年法に使った建国紀元の可能性もあります。
[42] 日本語版ウィキペディアは、 元号記事を立てていました。 >>20
[43] 中文版维基百科は元号記事を立てていませんでしたが、 国の記事に改元のことも書いていました。 >>31 元号と認識していたのかどうかは不明です。
[35]
中文版维基百科は標準時を
としました >>31。
しかしそのような明文の規定があったとは考えづらく、
実態もどれだけ伴っていたか疑問です。
当時の中華民国の標準時からの類推でしょう。
[13] 満州国の元号の選定に日本の影響があったことは疑いありませんが、 日本の元号との重複が考慮されなかった点は注目されます。
[148] 東アジアでは歴史的に元号の重複は必ずしも禁忌ではなく、 意図的に既存の元号を再利用した事例もあります。 日本の大同との関係を示唆する材料はありませんから、 これを再利用したものとは考えにくいですが、 当時の満州国首脳も (日本の元号との衝突に気づいていたにせよ、そうでないにせよ) 既存の元号との衝突を回避しようとする意思はなかったものと思われます。
[150] 現代日本の元号制度では過去の元号との衝突を避けることになっていますが、 近代日本ではそれが徹底していませんでした。 日本の宮内省で元号を研究していた森鴎外は、 近代の日本の元号が過去の越南の元号と衝突していることを指摘し、 調査不足の失態だと批判的な見解を表明しています。 逆に言えば森鴎外以前には他国との衝突を避ける準備がありませんでした。 日本政府が自国の元号についてもその程度の認識だったので、 逆に他国が日本の過去の元号を使っても特に異とするほどではなかったのかもしれません。
[8] 西暦を使って定義している >>2, >>45 のが興味深い。
[4]
読売新聞の
夕刊一面には、
滿洲國に新元號? 三月一日期し改元論
なる聯合新京電記事が掲載されました。
それによると、
3月1日の建国記念日と新国是確立に合わせた改元の動きが要人の間にあり、
実施が濃厚でした。
現行元号の「大同」は遼の元号にもあるものの、良い時代ではなかったとされました。
そのため
3月1日で「大同を前後に分つ」か大同を
[5] 前後に分かつってどういう意味だろう。1字取るということ?
[44] 大同 (满洲国) - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8C_(%E6%BB%A1%E6%B4%B2%E5%9B%BD)
[406] 字形も音も似ているように思われず、事例も少ないので偶然のミスとも思われますが、 なぜか複数例あります。
[400] 太同、大同はこの時代になし。