元二年

元二年

[7] 元年とは少し違った元二年 (元2年) という表記が稀に見られます。

中世年代記類

[47] 年代記類にいくつか怪しい記述があります。


[14] 群書類従 : 新校. 第二巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879729/112

皇年代略記 神功皇后

(首書) 后嗣位例元二年皇后自討新羅

[17] >>16 p.344

皇年代略記 神功皇后の条首書

元二年皇后自討新羅

皇年代略記が元二年のこととしているのは、 皇代記の五十年のこととしているのと大きな相違である。

[46] 「元二」の原形は「五十」だったんだろうなあ。


[34] 武家年代記 (治承4年―明応8年(貞和5年―観応5年欠)) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム, https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000444660000/55c00b842ca2429abec42d873f4c3f18?p=22

(明徳)「自元二年至七月 天下大飢

[35] 防災関連記事|防災情報、地震災害、被災地情報、官庁地方自治体情報を発信, http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_7477.html

1390~91年(明徳元年~2年)“自元年至二年、天下大飢(如是院年代記)”“明徳二年・今年、飢饉餓死、疫癘(疫病:感染症)流布(常楽記)”。92年(同3年)“四月より十一月に至る陸奥(東方地方東部)大旱(東北地方近古饉史)”。93年(同4年)“日照りにて自四月同十一月まで雨不降候(会津塔寺村:現・会津坂下町、八幡宮長帳)”、そして“天下大飢(武家年代記)”となった。

[36] 「元二年」は書写の繰り返しで劣化した結果か? この長帳の「自四月同十一月」も 武家年代記の「自元二年至七月」も原形からかなり変わっていそう。

中世東国元二年説

[26] 平成時代の歴史研究者勝俣鎮夫は、 勝山記改元年に奇妙な表記があること:

について、 誤記でも誤写でもない「一貫した編集方法」であると主張し、

と主張しました。 >>258

[120] また、天文3年条に「始ノ年」とあることを、前年の天文2年を指すと解釈し、 編者が天文年号の「始ノ年」を天文2年としたことは明らかだと述べました。 そして、 「改元による年号の年次は二年(実質的には元年と二年)よりはじまる」 という年号観なのだと主張しました。 >>258

[126] 更には、

と主張しました。 >>258

[135] また、私年号改元伝達と翌年のの記載による2段階の伝達を想定していて ( 中世私年号 )、 それが元二年につながると考えているようにも読めるのですが、はっきりしません。

[125] すなわち、 改元の翌年を新元号の開始年とする認識が東国に存在したと考えた >>19 (戦国時代東国の地域年号について, 戦国時代論, ) のだとされています。

[45] ただこれらの主張には疑問点も多いです。 勝山記の日時 勝山記は重要文献ですが、紀年が相当に混乱していることが明らかなので、 その混乱を材料に、 この論文にあるような (「明らか」のような表現で片付けてしまう) 表面的な議論だけで紀年に関する認識を推定してしまっていいのか、 というのは不安しかないのですが...

[27] 山田邦明は、 香取社関係文書「文亀元二年」 (干支年から文亀2年, >>87) のほか、 「元年」が実際は2年を指す事例を康正など複数指摘し、 改元が新年に実施されるとする認識が東国に存在したと考えました。 >>19 (香取文書にみる中世の年号意識, )

[105] 山田邦明は、 香取文書に公年号康正2年に相当する「康正元年」文書が存在することを紹介し、 「改元の翌年が元年であるという意識をもってい た筆者が、はしなくも「康正元年」と書いてしまったと考えたい」 「勝俣氏が示された改元の翌年を新年号のはじめとする意識は確実 にあり、文書そのものにも「元年」と書いてしまい、訂正も加えないことがあった」 と考え >>48元二年説の根拠の1つと見なしました。

[106] 山田邦明は、

を提示することで、「改元の翌年を「元年」と意識していたこ との明証」 としました。 >>48

[107] 詳しい説明がなくよくわからないのですが、「書いてしまい」 (>>105) という表現があるので、 「改元の翌年がはじめ」とする意識はあるものの、 それを「元年」と書くのは不適切という意識もある、 でもうっかり「書いてしま」ったものが今に残っている、 という分析なのでしょうか。

[108] 山田邦明は更に、干支がない「元年」文書などにも実は2年相当のものが 「かなりあるとみられる>>48 と主張しています。 至徳

[109] 山田邦明はその依拠した勝俣鎮夫の説が実は改元の翌年の「二年」 から新年号を使う場合が多いとは指摘しているものの、 その「二年」が「「元年」とも意識されたとは述べられていない」 ことを認識した上で、少し違う説を提唱しているのです。

と「元年」とも「二年」とも異なる「元二年」なる概念を考えています。 また、近世初期の用例 ( 正保 ) があるため、 「時代を超えて存在した地域住民の意識」 だとしています。 >>48

[28] 丸島和洋は、 正木文書の「康正元年」が実際は2年を指す事例 ( 康正 ) を指摘し、 勝俣鎮夫山田邦明の先行研究を引きつつ、 改元が新年に実施されるとする認識が東国に存在したと考えました。 >>19

[21] 深澤靖幸は、 板碑に福徳元年と福徳2年があるのは、 「改元による年号の年次は2年より始まるという考え方が一般 的であったことも、明らかにされている」 その「年号観」 によるものと考えました。 >>20 (勝俣1996, 山田1998)

[31] 日本の中世私年号には1,2年ずれて使われている例が散見されます。 公年号と誤認されて私年号が利用された例も知られています。 当時の改元伝達は相当に混乱していたと思われるので、 かかる改元認識が実在したのか否かは、 様々な事象を総合的に勘案して検討する必要があるでしょう。

[22] >>20 は福徳元年と福徳2年の混在の理由を「年号観」に求めています (>>21) が、 >>20 図2 で示されたからでそのような奇妙な現象が表れているのは私年号福徳だけで、 公年号長享延徳明応には元年と2年はそうでもないように見えます。 「年号観」に起因するなら、同時期、同地域の元年と2年には同程度の混乱が生じていないとおかしいのではないでしょうか。

[23] そして >>21 は福徳元年と福徳2年の2種類の存在を「年号観」 の違いだと一々説明を加えながら分析し、 「福徳元年」と「福徳二年」は改元伝達ルートの違いに起因すると結論付けられているのですが、 「年号観」はこの分析に実は特に寄与していません。 異なる2説が生じた原因は特に説明されず、 そこに「年号観」が必要となっているわけでもないのです。 論文から「年号観」 を削除してもそのまま成立するのに、なぜわざわざ回りくどい「年号観」 を想定する必要があるのかが謎です。

[24] 逆にこの「年号観」の証明材料の1つに「福徳元年」「福徳二年」 がなるのかといえば、そういうこともありません。 同じ武蔵地域に「福徳元年」「福徳二年」が混在し、 その境界は旧利根川とされますが、 これは元二年説の根拠として挙げられている他の材料とも特にリンクしていません。 (強いて言えば正木文書の例とは矛盾しないのかもしれませんが...)

[1] 改元 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E5%85%83

中世後期(室町時代後期)から近世初期にかけての東国では、改元の報が知らされてもその年の内は旧年号を用い、年が明けてから2年の別名として「元年」と称したとする「元二年」と呼ばれる慣習があったとする説がある[1][2]。

  1. ^ 勝俣鎮夫「戦国時代東国の地域年号について」『戦国時代論』(岩波書店、1996年)
  2. ^ 丸島和洋「岩松持国の改元認識」(初出:『戦国史研究』58号(2009年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一五巻 上野岩松氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-164-6)

[116] 勝俣鎮夫は、 甲斐国で編纂された王代記年代記部分の改元年に「元年」表記がなく年号干支年が示されるのみであることを、 改元による新しい年を元年でなく2年と考えていた根拠の1つとしています。 >>258

[117] しかし改元年に新元号が書かれているのに、 2年を始まりと考えた根拠に挙げるのはどういうことなのでしょう。 そこは旧元号の最終年でなければいけないのではないでしょうか。

[119] 改元年に元号年を書かずに元号名を書く方法は、 勝山記の前半にもみられます ( 勝山記 )。さらには、 東国ではない 興福寺年代記 にもみられます >>118。 当時の年代記類の慣用的な表記法の一種で、 地域性も特別な背景もないと考えるべきです。

日時事例

[82] 元から弐への書き換えは、原本写真が不鮮明で、同筆かどかも判定困難です。

[83] 元年とすると元号年干支年が一致せず、 嘉吉2年を表したものと解釈するのが妥当です。 >>48

[84] 元年とすると1ヶ月の遡及年号となることからも、 2年と解釈するべきです。

[85] 嘉吉2(1442)年壬戌1月29日に新年間もないことからうっかり元年と書いてしまい、 気づいてから2年と書き直した、 と理解するのが穏当でしょう。今も昔もよくあることです。

[86] 山田邦明は、勝俣鎮夫説を念頭に、まず「嘉吉元年」 と書いたことにも「なにがしかの意味がありそう」 だとし、「改元の翌年を新年号のはじめの年とする意識」 があることを示すかもしれないといいます。 >>48

日時事例

[99] 干支年より文亀2(1502)年と思われる日付に「文亀元弐年」とあります。 「元弐」は普通に縦に並んでいて、修正と思われる記号類も見当たりません。

[100] 山田邦明は、筆者にとってこの年次は 「「文亀元二年」とも認識されていた」 のであり、 「改元の翌年を 「元二年」とする意識の存在」 が文書でも実証されたのだとします。 >>48

[101] この「文亀元二年」は、明治時代の翻刻 >>71 は何の断りもなく「文龜貳年」 と校訂後だけを示していました。「元」を誤字の挿入と見なしたのでしょう。

[102] しかし何の注釈もないのは困ったものです。

[103] 同書はこの直後に同じ田所宗好の別の文書を収録しています。 そちらも同じ「文龜二年」の日付があります。 >>71 不思議なことに山田邦明はそちらには何も触れていません。 翻刻の方は注釈なく校訂していることがわかったので、 これは原物を確認する必要があります。

[104] が、何も言及していないということはこちらは「文龜二年」なのではないでしょうか。 同じ人物の文書なので、両方「文龜元二年」なら偶発的な表記ではなく最低でも4ヶ月にわたって確かに「元二年」 の意識があった明確な根拠として示すことができます。

[113] 歴史研究者遠藤珠紀の令和元年の論文は、 中世元号に関する諸問題を一通り紹介した後に付け加えるように

なお室町時代の東国では、独特な改元認識も存在したと指摘されている。通常は改元がなされると、その年が元年、翌 年が二年とされる。しかし東国には新年号は改元の翌年二年から始まるという意識があり (踰年改元)、改元の翌年 (本 来は二年) が「元年」「元二年」のように表記されることがあったとい ((37))

と書いています。 >>440 ((37)>>51, 戦国時代東国の地域年号について (戦国時代論))

[114] この論文は他は概ね通説と思われるものを断定調でまとめていますが、 ここは「という」と伝聞調で、肯定も否定もせずに書いています。 何の注釈もなく紹介している以上、肯定的ではあるのですが、 確定的に記述するには躊躇されるという感じなのでしょうか。

[115] なおこの「意識」を踰年改元と呼ぶのは他に見当たりませんが、独自の解釈でしょうか。

近世

[6] 元年と2年の範囲を表した例 元年

現代

[2] 「令和元年」を修正して「令和2年」にしたときの修正漏れなのか、 「令和元2年」 とするものがままみられます。 いずれも正しく「令和2年」と表記したものが近くにあり、 誤りであることは明らかです。

[3] 令和元年度学校公開講座(赤羽岩淵中学校「茶道をはじめませんか」第2回)開催のお知らせ|東京都北区 (北区著, ) https://www.city.kita.tokyo.jp/shogai_renkei/kosodatekyoiku/shochugakko/gakkokokaikoza/30akaiwasado2.html

令和元2年2月5日(水曜)

[4] 医療機器の保険適用について (厚生労働省保険局医療課長、厚生労働省保険局歯科医療管理官 保医発1227第2号 令和元年12月27日 ) http://www.hospital.or.jp/pdf/14_20191227_03.pdf#page=2

標記について、別紙のとおり令和元2年1月1日から新たに保険適用とするので通知する。

[5] ニュースリリース:2020年 | 株式会社ダスキン () https://www.duskin.co.jp/sp/news/2020/

2020年 (令和元2年)

[8] [区長の一日]令和元2年2月17日から令和2年2月23日|豊島区公式ホームページ (豊島区著, ) https://www.city.toshima.lg.jp/010/kuse/034432/ichinichi/h31/2gatsu/2002141131.html

[9] 事務所通信令和元2年2月号 | 愛知県名古屋市の中京社労士法人グループ () http://chukyo-sr.jp/report/r2_32.html

[10] 広報ひじ 令和元2年1月号 | マチイロ () https://machiiro.town/p/65947#book/1

[11] 2020年、令和元2年元旦、明けましておめでとうございます! | リスタイル () https://store.restyle-net.com/blog/%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%92%EF%BC%90%E5%B9%B4%E3%80%81%E4%BB%A4%E5%92%8C%E5%85%83%EF%BC%92%E5%B9%B4%E3%80%81%E5%85%83%E6%97%A6%E3%80%82/

[12] 統計情報 | 沖縄労働局 () https://jsite.mhlw.go.jp/okinawa-roudoukyoku/jirei_toukei/saigaitoukei_jirei/toukei.html

令和元年速報値

(令和元2年2月集計)

[13] 月例経済報告主要経済指標(令和2年2月) - 内閣府 () https://www5.cao.go.jp/keizai3/getsurei/2020/02shihyou/keizai-shihyou.html

月例経済報告主要経済指標(令和元2年2月20日)

関連

[18] 法興元の元も関係あるのでしょうか?

メモ