[4] 改元の手続きは改元の伝達とも密接に関係しています。 一般に、上級行政庁で改元の施行の手続きをして管内の下級行政庁や市民に通知する、 という形で木構造の上位から下位へ、 手続き → 伝送 → 手続き → 伝送 → と繰り返しながら領内全体へと広げていきました。 具体的な手続の内容や伝送の媒体や経路は時代と地域によって違っても、 この原則は古今東西変わりません。
[640]
新元号が定められると、全国に伝達され、施行されます。
(
[617] 新元号が定まると、 朝廷で改元詔書が作成され、 その内容が太政官符に添えられて諸官司、諸国に伝達されました。 >>440
[362] 律令制下では朝廷から国衙を介して各地に通達されていました。 >>49 普及版 p.415
[363] 平安京の役所は覆奏より前から新元号を使っていました。 諸国は太政官符が到着してから新元号を使いました。 >>361 pp.118-119 (江家次第)
[364] 菅原道真は、 讃岐国や太宰府で寛平や延喜の改元の詔書を受け取ったことについての詩を残しました。 当時中央から地方への改元の伝達が確かに行われていたことを伝えています。 >>49 普及版 p.185
[365] 鎌倉時代半ば頃から、 六波羅探題から鎌倉幕府に通達されるようになりました。 鎌倉幕府は政所で吉書始の儀を行いました。 おそらく守護や寺社を介して各地に通達されました。 >>49 普及版 p.415
[618] 鎌倉時代には、 改元詔書は外記局から六波羅探題を経由して鎌倉に届けられました。 外記から私的に、改元に至る詳細の報告も添えられました。 >>440 (師守記 貞和元年10月29日条)
[619]
鎌倉幕府の政所では改元吉書始の儀式を行い、全国に「施行」しました。
吾妻鑑には安貞度 ()
から改元吉書始の記事があり、
制定手続きへの介入 (
[366] 吾妻鏡にある京都の六波羅探題から鎌倉への改元の詔書の伝達記事などから、 改元日から鎌倉まで約10日 (10日から20日程度 >>440 (延慶改元・改暦への鎌倉幕府の関与について))、 そこから一般で通用するまで約1ヶ月かかったとされています。 >>49 普及版 p.395 (千々和到 1995、峰岸純夫 1979) (c.f. >>360。>>49 の各元号の項にも吾妻鏡の伝達記事の日付の記載あり。)
[612] 諸国は鎌倉幕府の吉書始の後に新元号を使い始めたと考えられています。 >>777 鎌倉幕府の統制下に組み込まれた武士は、ということでしょう。
[367] 鎌倉時代の九州の文書 5507通の分析から、 改元後約2ヶ月で九州全域に新元号が広がったことが確認されています。 >>49 普及版 p.395 (瀬野精一郎 1968) 文永の役の蒙古襲来が博多から京都まで約12日で伝わったのと比較すると、 かなりの速度で広がっており地域社会も改元に敏感だった >>49 普及版 p.395 と評されています。
[620] 暦応度 () は制度が整っていなかったためか、 武家への伝達が遅れました。 京都の武家は7日ほど旧元号建武を使っていました >>440 (実夏公記 暦応元年8月28日条)。 大外記から足利尊氏と足利直義に改元詔書が送られ、 執事の高師直に「一通」が送られたとされます。 「一通」は鎌倉時代に添えられた外記からの注進に相当するものかと推測されます。 >>440
[621] 室町幕府は政所で改元吉書始を行い、 諸国に施行しました。 >>440
[622] 応安度 () は、 応安元年2月28日に朝廷で改元され、 応安元年3月1日に室町幕府で改元吉書が施行され、 政所執事代齋藤基兼から関東に伝えられました。 >>440 (花営三代記)
[368] 室町幕府も鎌倉府へ通達を行っており、 鎌倉時代同様に伝達されたと考えられています。 >>49 普及版 p.415 (>>777 ではおそらく鎌倉公方が吉書始を行い、管下の諸国に伝達したと考えられる、 としていますが、鎌倉時代からの類推による推測調で根拠は示していません。 史料的根拠が見つかっているのかは不明。) 関東に到着し、あるいは関東でも吉書始が行われて施行されるまで、 早くても1ヶ月はかかったと推測されます >>440。
[623] 15世紀に周防大内氏が改元吉書始を実施した例があります。 >>440 (防長寺社証文 巻一一)
[624] 室町幕府から五山の寺院には、 室町幕府の吉書始の後に蔭凉職から諸寺院へと通達されました。 長享度、 延徳度、 明応度には改元翌日に情報を得ているものの、 室町幕府の吉書始まで使用しないように命じられました。 >>440 (蔭凉軒目録 長享元年7月21日条、延徳元年8月23日条、明応元年7月24日条)
[638] 南都の寺院には改元から1週間程度で伝達されました。 >>440 (大乗院寺社雑事記, 政覚大僧正記など) 室町幕府の吉書始より前に新元号を使用している例もみられます。 >>440
[639] 応仁度 () に興福寺の経覚は、 7日後に情報を聞いて、文字等は不分明と書いています。 音のみで伝わることがあったようです。 >>440 (経覚私要抄) 本来の通常の改元伝達は文書によるでしょうから、 正式な改元伝達以前に非公式な噂で口頭で伝わってきたということなのでしょう。
[369] 南朝は改元を綸旨により直接諸国に伝達しました。 >>777 (五条文書などから推測), >>49 普及版 p.415 (峰岸純夫 1979、千々和到 1990)
[644] 室町幕府の吉書始は伝達後間を置かずに行われることが多かったものの、 特に室町時代後期になると遅延が目立つようになりました。 政治的な対立関係がなくても、京内でも元号の切り替えの時期に違いが出ていました。 改元伝達ルートの先では更に遅延していくことになり、 改元後1年以上も新元号が用いられない事例もままありました。 >>440
[615]
戦国時代に入る頃の東国では改元伝達の仕組みも変質し、
私年号の伝搬にも影響したことがわかっています。
[614] 中世の在地領主層が改元時にどうしたかはよくわかっていません。 在地領主の吉書は年頭のものが残るだけで、 代替わりの吉書始も想定されますが、 改元に関するものは検出されていません。 >>777 (祝儀・吉書・呪符, 中野豈任)
[370] 中世の庶民に改元がどう伝わったかは十分明らかではありません。 鎌倉時代以後東国などの板碑に元号年が記されていることから、 ある程度普及していたことはわかっています。 >>361 pp.130-131
[371] 紀伊国阿弖河荘百姓訴状 には 「ケンチカン子ン十月廿八日」 とあり (4月25日改元) >>361 pp.130-131、 農民も元号を使うことができ、しかも改元が数ヶ月以内に伝わっていたことがうかがえます。
[471] 中世の多摩川流域近辺の板碑の紀年から、 改元伝達に数ヶ月かかる場合もあったこと、 海沿いより山間部ほど遅れる傾向が見られることが指摘されています。 >>519
[479]
改元日から1,2年ほど遅れた例も報告されていますが、
例外的です。
銘文誤読も疑われますが、
正しいとすれば相当に遅れていたことがわかります
>>519 p.
[474]
次の例は遡及年号で、銘文誤読が疑われます。
>>519 p.
[641] 長享度 () は長享元年7月20日に改元されました。 蔭凉職の亀泉集証は、 翌日に武家伝奏と政所執事の二階堂政行に使者を送って新元号情報を得ました >>440 (蔭凉軒目録)。 しかし長享元年8月9日の吉書始まで、旧元号の文明で文書を発給していました >>440 (十輪院内府記, 鹿苑日録)。
[642] 延徳度 () は、 足利義政の執奏で延徳元年8月に改元されました。 ところが足利義政の体調不良のため吉書始は延期を重ねました。 足利義政は延徳2年正月に死去し、 吉書始は行われませんでした。 >>440 (後法興院関白記 延徳元年10月11日条, 親長卿記 延徳元年6月8日条など) 蔭凉職では公帖の日付が問題となり、 武家伝奏の判断で新元号を使うものの吉書始前なので将軍の花押は据えず印判という異例の形式で発給することになりました >>440 (蔭凉軒目録 延徳元年9月4日条)。
[643] 明応度は、 明応元年7月19日に朝廷で改元され、 明応元年8月28日に室町幕府で吉書始がありました。 吉書始前の朝鮮国書案は旧元号の延徳が使われました >>440 (蔭凉軒目録 明応元年8月27日条)。 9月以降になって御判御教書や幕府奉行人連署奉書で明応が使われました。 >>440
[481] 0618-P9-上から張り込み用‐これが最終データ.indd - almuseo128.pdf, , http://www.fuchu-cpf.or.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/095/almuseo128.pdf
[480] cs6-129正.indd - almuseo129.pdf, , http://www.fuchu-cpf.or.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/095/almuseo129.pdf
[547] 東京都文化財調査報告書 第19 (西多摩文化財総合調査報告書 第1分冊), 東京都教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2476882/1/85 (要登録)
[591] 青梅 : 定本市史, 青梅市史編さん実行委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3022484/1/129 (要登録)
[647] 川越市史 第2巻 別巻 (中世編 板碑), 川越市[総務部]庶務課市史編纂室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643550/1/72 (要登録)
[606] 95-09.pdf, , https://konkikai.net/PDF/95-09.pdf#page=5
[607] 105-29.pdf, , https://konkikai.net/PDF/105-29.pdf#page=14
[605] tanaka.pdf, , https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/669/669PDF/tanaka.pdf#page=47
[656] >>654 は元号名の一部が読めない銘文の推定のために改元伝達速度を推測しています。
[660] 江戸時代安定時期でも2ヶ月ほどかかっており、 室町時代の戦乱時に4ヶ月遅れるのも当然と思われるとします。 >>654
[661] なお墓碑は死亡より後に建立されるので注意が必要とします。
[676] 戦国以前の年号宣下がどの程度、地方に伝わっていたのか知りたい。 | レファレンス協同データベース, 国立国会図書館, https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000336557&page=ref_view
[677] >>676 主要書籍の記述を拾ってて司書さんの優秀さがわかる。けどこれは物足りないよなあ、 各時代各地域をもっと細かく精査して1つにまとめた論文書いてくれる研究者いないものか。。。
[372] 江戸時代、 朝廷では改元の日から新元号が用いられましたが、 京都町内では幕府からの通達があってから用いられたため、 平均で10日ほどかかっていました。 >>49 普及版 p.543
[373] 朝廷が改元すると、 京都所司代を通じて江戸幕府に伝達されました。 江戸幕府は諸大名を江戸城に集め、これを披露しました。 幕府の正式な改元日は披露の日とされ、 全国にもこの日が伝えられました。 >>49 普及版 p.543
[374] 藩によっては、 家臣を集めて改元を披露しました。 >>49 普及版 p.543
[375] 松前、対馬、薩摩なども含め、 全国に1ヶ月から2ヶ月程度で新元号が伝達されました。 伊豆大島に4ヶ月後に伝達されたというのが現在確認された最も遅い事例です。 全国各地にかなりのスピードで伝達されたと評されています。 >>49 普及版 p.543
[377] 農村に対しても、 少なくとも名主や庄屋などには確実に伝えられたようです。 古文書では干支年もみられますが、 借用書など証文類では元号年のことが多く、 過去帳や石碑では干支年よりもむしろ元号年の場合が多いです。 争論の経緯の文書でも元号年が使われる例があります。 >>49 普及版 p.579
[378] あるいは暦本にも元号が明記され、各地に頒布されました。 従って農村でもほとんどの人が元号を知っていたと考えられています。 >>49 普及版 p.579
[379]
江戸では、(正式な伝達経路以外に)
改元直後に新元号を紙に書いて売り歩く者がいました
(
[685] 京都所司代自身はいつから新元号を使ったのでしょうか。 市内が10日ほどしてからということは、 京都所司代もその他京都所在の武家方も、 江戸城の新元号披露があった報を待って施行したのでしょうか。
[686] 朝廷が改元すると公家も当然それに従ったと思われます。 朝廷や公家に出入りする町民らがいるでしょうから、 そこから新元号の情報は少しずつ広まったはずです。 それが正式施行前に他地域に広まったりすることもあったのでしょうか。
[687] 禁裏御料や公家領は、幕藩の施行スケジュールと無関係に、 公家方からの連絡があり次第の改元施行と考えるのが自然ですが、 実際はどうだったのでしょう。
[688] 寺社や寺社領はどうだったのでしょう。 多くの寺社は江戸幕府の寺社奉行方面から改元施行連絡がありそうですが、 どうでしょうか。 朝廷や公家との結び付きが強い寺社(領)は朝廷ルートだったりするのでしょうか。
[444] 2018_kaigen_pamphlet.pdf, , https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1552954521928/simple/2018_kaigen_pamphlet.pdf#page=16
[484] 江戸城に大名有司が総登城、新元号が申し渡されました。 国許に飛脚で報知、 諸係には即日通知、 領内には翌日以降布告となることが多く、 それ以後領内で新元号が用いられました。 >>402 p.171
[485] 貞享元年3月8日
「
[486] 通例雑書に改元記事があるが、万治4年・寛文元年にはない。 (本書本文にある伝達日は別出典?)
[488] JCDP, https://jcdp.jp/daily-diary-weather-records-jp/
[549] h31-04.pdf, , http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/smallexhibition/h31-04.pdf
[590] 『れきナビ』講座:八潮の資料で学ぶ 元号(年号) - 『れきナビ―やしお歴史事典』, , http://yashio-rekinavi.com/reki-navi/index.php?title=%E3%80%8E%E3%82%8C%E3%81%8D%E3%83%8A%E3%83%93%E3%80%8F%E8%AC%9B%E5%BA%A7:%E5%85%AB%E6%BD%AE%E3%81%AE%E8%B3%87%E6%96%99%E3%81%A7%E5%AD%A6%E3%81%B6_%E5%85%83%E5%8F%B7(%E5%B9%B4%E5%8F%B7)
[594] 阿子田家(1)1 - 岐阜県公式ホームページ(歴史資料館), , https://www.pref.gifu.lg.jp/page/415.html
(安政元年)12月26日 (当月五日江戸表ニ而年号)安政と改元被仰出候段今日大阪より申来候ニ付)御触書 阿子田新太郎 沓井村・溝口村・脛永村庄屋組頭中 1通 阿子田家 1-49
[595] >>590 岐阜県だけど江戸から大阪経由の改元情報。
[648] 佐渡年代記 続輯, 萩野由之, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1228881/1/114 (要登録) 「改元」で検索
[649] 佐渡年代記 下巻, 佐渡郡教育会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1228891/1/101 右 /127 左
[650] 佐渡兵制史話, 橘正隆 著述, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1440951/1/21 左
[651] 佐渡本間遺文桜井家文書, 下出積与 編著, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2973491/1/169 (要登録) 左
[681] HokutoCityHometownMuseum_Bulletin_01.pdf, , https://www.city.hokuto.hokkaido.jp/fs/1/6/2/7/1/9/_/HokutoCityHometownMuseum_Bulletin_01.pdf#page=21
松前藩が同様の抵抗排除のための施策を推し進められなかった要因は、何よりも松前が江戸・畿内お
よび西国といった、当時時代の変革の中心地域からあまりにも遠すぎたことが大きい。片道移動すら約 1 か月を要する(このため松前領内には改元の情報が間に合っていない碑文・史書記録などが散見され る)「距離感」は、今日、同藩域内に当時時勢および洋学的知識に係る具体的資料あるいは情報が断片 すら伝世しないことからも伺える。
(具体的には記載なし)
[380]
大正改元や昭和改元が伊豆諸島の青ヶ島に伝わるまで、
1年近くかかったとされています。
[507]
大正改元が小笠原諸島の硫黄島に伝わったのは約1ヶ月後でしたが、
たまたま学術調査団が訪問したことによるものでした。
[382] やや特殊な事例ですが、 チベットに滞在していた日本人は大正改元を半年後も知りませんでした >>383 (いつ知ったか不明)。
[381] 平成改元の頃には離島でも放送衛星など何かしらの放送が受信できたと思われます。 日本全国の人がほぼ同時に新元号を知り得たと思われます。 その発表の翌日に施行されましたから、 事情があって新元号を知らないまま当日を迎えた人も少数いたことでしょうが、 一般的な生活形態の人々はおおむね即時に知ったのではないでしょうか。
[487] 令和改元は施行1ヶ月前の新元号発表が、 日本政府および民間事業者の動画配信サービス、 SNS の動画配信機能、 テレビ放送等で全世界に生配信されました。 日本の歴史上初めて、 ほとんどすべての日本国民が新元号を知った状態で施行の日を迎えました。
[553] Shin Sekai 1912.08.01 — Hoji Shinbun Digital Collection, , https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/tnw19120801-01.1.3
改元に就て 桑港総領事館の告示
[2]
支那王朝では元号制度確立以前の即位紀年の頃から踰年改元が行われました。
明国、清国時代は原則踰年改元でした。
支那王朝では全国への周知に時間がかかるため踰年改元が現実的な方法で、
服喪の意味もありました >>298。
とするのが Wikipedia の説ですが、出典は示されていません。
(Wikipedia 記事は全般的に信憑性が疑われます。
[349] Wikipedia は、中国大陸では 「国土の大きい中国の場合、布告の周知徹底には時間が長引くため、 新元号の発表と同時に全土で改元を実施することは困難であり、4が現実に即していた」 (4 は「越年改元」) と述べていました >>298。 この説の出典も記されておらず真偽は不明で、 かつ改元が全国一斉実施されるとの前提にたっています。
[351]
Wikipedia のこの記述には、
その後の改訂で
「日本も南北東西に長く、特に北海道と沖縄県を編入した明治初期以降はますます日時較差は開くことになる。交通の不便な離島は数ヶ月以上遅延したこともあった。」
との注記が挿入されました >>284。
「国土の大きい」に引きづられてここに挿入されたのでしょうか。
解説文の体裁として不自然な挿入にみえますが、それは編集方針によるところなので置くとしても、
この記述には問題があります。
北海道が設置されたのは明治時代であっても、
この地域はそれ以前から日本領でした。
むしろ北樺太の喪失がため大正改元の方がそれ以前より距離は短くなっていました。
[483] 1960年代、 中華人民共和国の考古学研究者陳夢家は、 西域出土の漢簡を分析し、 改元詔書が約1ヶ月で到着したと推定しました。 記録のない改元日はそこから逆算して時期を推定しました。 21世紀、 中華人民共和国の歴史学研究者辛徳勇は、 陳夢家の手法を発展させ、 改めて漢の時代の改元時期を推定しました。 >>1046 p.122
[5]
近現代になると外交ルートで各国政府へも改元が通知されるようになりました。
[6]
前近代には、中華秩序的な問題もあって (