神徳

神徳

[3] 神徳 (旧字体: 神德) は、 日本の私年号の1つです。 幕末使われました。

[50] 公年号に訂正した文書が見つかっており、 誤った改元情報により意図せず使われた可能性があります。

元号名

[30] 新字体神徳です。

[31] 旧字体神德です。

[32] 読みは不明です。

紀年法

[29] 元年は、 です。

用例

日時事例

[17] 史料A (>>4) は、 慶応4年10月・11月の領地替えの際に作成されたと推測される史料A-1と、 その参考に綴られたと推測される史料A-2で構成されます。 史料A-2 (>>13) は、 江戸幕府の慶応3年4月23日付触書 幕末御触書集成 第5巻 4485, 近世庶民生活史料 藤岡屋日記 第十五巻, p.36 に基づき永地村原半左衛門知行地で書かれ提出された正本の控書または写書と推測されます。 >>8

[20] 元号を訂正したのは、 永地村の知行地名主など村役人クラスの者か、 岩井村名主など村役人クラスの者と推測されます。 >>8

[21] 神徳への改元風聞があってそう書いたものの、 誤りとわかって訂正したと考えられます。 >>8


日時事例

[18] 史料B (>>5) は、 日本上総国望陀郡木更津村船持石渡半兵衛から望陀郡横田村紀州藩家臣曽根右衛門長邵 (曽根衛門長邵) の知行地名主弥兵衛に宛てた文書の簿冊です。 >>8

[19] 切替一夫家文書で史料Bと「慶応元年八月吉日」文書 袖ケ浦市史料目録 (1) 5 御上納金請取通 (p.221) が重なった状態で保存されており、形態も内容もほぼ同じで、 ごく近い時期と推測されます。 従って慶応3年に比定できます。 >>8


日時事例

[44] 他資料と同じく袖ケ浦市域で天保4年に作成され慶応の頃まで使われたと思われる対になる2つの文書にも神徳が出現します。

[45] 1つは年数が読めませんが、他方から「元」と推測されます。

[46] 他の資料と同じく慶応3年を表すと考えて矛盾しません。

[48] 令和時代に至るまで私年号史料としては見落とされてきました。

地域

[6] 上総国西部やや内陸の村役人と木更津船の船持の用例があることから、 かなり広い範囲で使用されたと考えられます。 船持江戸神奈川でも活動していたことから、 より広い範囲で用いられた可能性も指摘されています。 >>60, >>8

研究史

[47] 昭和時代後期の自治体史 >>28, >>12 編纂過程で資料の存在が知られるようになったと思われますが、 私年号史料とは認識されていなかったようです。

[9] 日本国千葉県の歴史研究者筑紫敏夫によってはじめて私年号として紹介されました。 史料A、史料Bから考察しました。 >>8

[22] 筑紫敏夫は、史料Aは領主に提出した正本では「慶応三年」と書いたと考え、 領主提出文書ではない史料Bは訂正されなかったのだろうと考えました。 >>8 しかしこれは提出と訂正のタイミング次第で、それがわからないとどうともいえないのではないでしょうか。 延寿の例では領主に私年号のまま提出しています。

[23] 筑紫敏夫は使用の要因や社会的な基盤などとして、

といった「「状況証拠」」を挙げています。 >>8


[33] 平成時代ウィキペディア私年号一覧表に掲載されています。 >>10

[34] 平成時代後期の文化財行政関連の資料にも紹介されています。 >>60

[10] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
神徳-慶応3年(1867年)不明千葉県袖ケ浦市個人蔵文書[10]

筑紫敏夫 「私年号『神徳』と木更津船の船待」(『東京湾学会誌』第1巻第3号 東京湾学会、1999年12月、NCID AA12099601)

関連

[7] この時期には他にもいろいろな私年号が用いられました。 幕末維新期の日時

[49] 中でも同年に神治長徳が用いられたことは、この元号名に時代的な必然性を感じさせます。

メモ