万政

万政

[25] 万政 (旧字体: 萬政) は、 幕末日本の私年号の1つです。

[26] 公年号万延を誤ったものと考えられています。

元号名

[52] 新字体では万政旧字体では萬延です。

紀年法

[51] 元年は、 です。

用例

[45] これまでに2例知られています。

宮城県の石塔

日時事例

[38] これを紹介した令和時代の投稿は、

を理由にと推定しています。 >>3, >>4, >>9

[46] >>39公年号を絞り込んでも未知の私年号の可能性があるので不十分なのですが、 >>40 は強力な根拠といえるので、この比定年で妥当と思われます。

[41] 元号名の理由は不明としながら、

の2説を挙げています。 >>5

[47] どちらも構造は同じで、意図的か否かの違いです。

[48] はっきり刻まれているのに誤刻はあり得るものかと疑問があり >>7、 意図的な私年号とする説が提示されていると思われます。 しかしこれに限らず日付の誤刻が疑われる金石文はままあるのもまた事実。

[44] 安政7(1860)年3月18日改元されて2ヶ月後にあたります。 改元伝達の時間や製作の時間を考えると実質はもう少し短いかもしれません。

[49] 新元号に慣れないまま刻んだ可能性や、そもそも正しく伝わっていなかった可能性もある時期といえます。

山形県の文書

日時事例

[29] 表紙に 「万延元年申十二月」 とあります。 >>22

[30] 本文中、最初の項は 「嘉永元年申」 で、毎年分続いて 「明治三年午十月」 の記録で終わります。 >>22

[31] 表紙にある12月にに遡ってまとめたものに、 まで書き足していたのでしょうか。

[32] 件の「万政元年申」は「安政六年未」と「文久元年酉」 の間にあります。 >>22

[33] 昭和時代翻刻に付されたママ注 >>22 の通り万延を意味すると考えて間違いありません。

[34] しかも表紙には万延とあります。 安政7(1860)年3月18日改元されて9ヶ月後で万延となったことを知っていた12月の時点で 「万政元年申五月」 から 「同年十月廿七日」 の部分を書いたのだとすれば、 は誤記であると見て構わないでしょう。

[35] 旧元号の安政に引きづられたのでしょうか。

[50] なお、かは不明。

メモ

[23] 立川町山形県東北で同じ誤りは偶然なのかどうか。

[53] 同じ東北地方緯度もわりと同じくらいではあるのですけど、 太平洋側と日本海側で東西距離はずいぶんと離れています。 もし独立して発生したのではなく同一だとすると東北地方から他にもっと用例が見つかっていいように思われます。

[54] でもまったく独立に同じ誤りが発生したのだとしたら、他の地域にも用例が見つかっていいと思うのです。 偶然にも東北でだけ2例見つかることはあるのでしょうか。2例くらいならあるかもしれませんね。

[55] 他の時代にも新旧元号の折衷はいくつか見つかっています。 そのような例がいろいろな時代にいろいろな地域で見つかるとしたら、 よく起こる間違いということなのかもです。 日本の私年号


[18] 全国府県会議員姓名録, 吉田仁三郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/779832/1/28

萬政元年三月。誤植か。

[20] 商業史歌, 田口卯吉, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/803109/1/104

萬政元年。誤植だろう。

[19] 長崎談叢 (62), 長崎史談会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7916502/1/40 (要登録)

左ページ1箇所だけ万政元年。明らかに誤植。

[21] 朝日町史編集資料 第25号 (太郎記.小松加賀家文書.長岡為五郎家文書.諸家文書), 朝日町教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9571969/1/85 (要登録)

目次では万政、本文では万延。誤植。

[24] 他にも近代の誤植がちらほら。 まだ近い時代なので出来事や生年月日に万延年間がしばしば出てくるので、 誤りも起こっていたらしい。 昭和時代以後誤用例が減るのは使う場面が減ったからだろう。