九州年号

古代年号別王朝説

[2] 正体が解明されていない古代年号を、 日本列島に古代に存在した別王朝 (現行天皇家の系譜と異なる勢力) の元号だと考える説があります。

[3] かつては学術的検討がなされたこともありましたが、

から、有力説となったことがありません。

[6] しかし特に昭和時代以後に於いてこの種の説が多数提唱されています。 アマチュア歴史研究者の独創性に優れた説だったり、 陰謀論の方面だったり、 朝鮮半島の反日ナショナリズムと関係していたりと多様性に富んでいます。

古代年号

古代年号

一覧

古代年号

別王朝説

[7] 本項でいう別王朝説にはいくつかの類型があります。

[79] 王朝の存在や王統の説明に古代年号が使われることもあれば、古代年号の説明に王朝・王統が使われることもあります。 1つの説で両方向あって「論拠」が循環参照していることは珍しくありません。

[80] 別王朝説に分類される説は江戸時代以来多数提出されており、 過去に学術的に議論されたもの、現在も否定はされていないものもあります。 頭ごなしに否定されるべきものではありません。

[81] しかしながら、本項で登場する別王朝説は既に学術的に否定されたものだったり、 学術的議論の出発点となるべき徴証すら示されることないまま信奉されているようなものが多いです。

熊襲元号説

[53] 古代年号熊襲元号とする説は近世に出現しました。 昭和時代頃までこれを支持する研究者がいました。 といっても確証はなく、支持する近代の研究者もこの分野で研究しているわけではなく、 昔 (近世) からそう言われていたので素朴に信じていたという感じでしょう。

[471] 江戸時代鶴峯戊申は、 「九州年号」 と呼ばれる古写本から古代年号一覧を引き、 九州にあった熊襲の国の元号だったと主張しました。 古代年号

[62] 歴史的にはこちらが本家の「九州年号」ですが、今ではすっかり九州王朝説九州年号に上書きされてしまいました。

[204] 九州で発行された自治体史で、隼人熊襲と同じ説もあるとして、 文武天皇の時代に

九州年号さえも使っていたところから、ずいぶん長期間にわたって中央勢力の支配外にあったことが推察される。

と解説したものがあります。 >>205 九州年号は本書中ここにしか記載がないのですが、想定読者には周知の知識だとでもいうのでしょうか。 この部分は平成7年版でもそのまま引き継がれています >>202

[206] ここでいう文武天皇時代の九州年号というのが具体的に何を指すのかは不明です。 なお >>205 の /66 と /68 には持統天皇時代の朱鳥3年という延長年号が出てきます。 朱鳥の延長年号

九州年号説

[552] 九州王朝説では、 古代年号は「九州王朝」と呼ばれる九州を拠点とする勢力が制定し使った九州年号だと主張されています。

[55] 九州王朝説金印の時代から大宝の頃まで、 近畿地方天皇家とは別の中央政府が九州などを拠点にしており、 日本列島を代表する政権であると中華王朝から政府承認を受けていたと主張しています。

[92] 九州王朝説邪馬台国九州説とは異なります九州王朝(のとある時代)がいわゆる邪馬台国だと主張するという意味では邪馬台国九州説のバリエーションの1つではあるのですが、 それ以上の多くの設定を包含しています。

[56] 九州王朝は、日本書紀でいう継体天皇の時代から大宝の頃まで、 九州年号を制定し日本列島各地で使わせていたそうです。

[57] 日本書紀にある元号は本来九州年号でしたが、 九州王朝の滅亡後にこれを隠蔽するために天皇家によって盗用されたそうです。 その他にも日本書紀は様々な捏造で九州王朝の存在が隠蔽されているそうです。

[463] 九州年号九州王朝説の最大の根拠の1つともされています。 元号制定権を行使していたことが王朝の存在の証明であり、 日本列島を代表する唯一の政権だった証だと主張されているようです。 更には元号名改元の年次に独創性を掛け合わせることで王統や統治や事件を復元する「研究」が進んでいるようです。


[472] 昭和時代古田武彦は、 九州王朝説を提唱し、 九州年号九州王朝元号だったと主張しました。 古代年号 古田説は当時社会的関心が大きかった邪馬台国論争に一石を投じるものとして注目を浴び、 各地に歴史愛好家の支持者団体が設立されました。 古田説を支持する学者はほとんどおりませんでした。 九州年号を否定する論文 >>470 が出た後は、 九州年号は忘れ去られた過去の異説となりました。

[58] しかし支持者らは (音楽性の違いで内紛を繰り返しながら) 独創的な新説を発表し続けています。 古田武彦の死後も現在に至るまで、 多くの派生説があります。 九州年号についても色々なバリエーションが生み出されています。

[59] 古田武彦九州王朝説は人を惹き付ける魅力があるようで、 熱狂的な支持者以外の人達もこれに影響された創造的な新説を世に送り出し続けています。 (>>15)

[462] 私年号 - Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%B9%B4%E5%8F%B7

江戸後期の鶴峯戊申は著書『襲国偽僣考』において、一連の古代年号を熊襲が使用した僭年号であると主張した。現在の九州王朝説論者の中には、これを高く評価して古代年号が自説に有利な傍証史料(九州年号)たり得ると信じる者も少なくないが、学界からは全く相手にされていない。

[465] 九州王朝説 - Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC#%E7%B5%8C%E7%B7%AF

東日流外三郡誌を巡る論争での古田の学界での影響力の低下、市民の古代研究会の分裂、さらには学術論文の体裁を得ていないアマチュア論文の乱立もあり現時点では九州王朝説は一時期ほどには広まってはいない。しかしながら、古田の学説を継承する古田史学の会は新春講演会に定説派の学者も招聘し[1]、大阪府立大学の講師が幹部を務めるなど、いまなお活発な活動をしている。近年では平成30年に所功が著書『元号 年号から読み解く日本史』で否定的に、百田尚樹が著書『日本国紀』で肯定的に、それぞれ扱うなど今でも歴史家や著名人の注目を集めている学説である。

[488] 二中歴 - Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%B8%AD%E6%AD%B4#%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%B9%B4%E5%8F%B7%E3%81%AE%E8%A8%98%E8%BF%B0

これらの元号は単なる言い伝えであり、実際には存在しなかったとも読める記述も同時に見られ [1] 、古代の元号が存在したかどうかは議論が続いている。また、古田武彦はこれらを九州年号だと主張しているが、査読を経た論文は存在しない。

[13] 関連: 明要

[2682] 仏教史学研究 26(2), 仏教史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4422667/1/19 (要登録)

[2683] 古代史の海 (2), 古代史の海編集委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4428400/1/13 (要登録)

[2684] 関係ないが /47 に東野治之の謝礼の文が載っている

[2685] 古代史の海 (3), 古代史の海編集委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4428401/1/28 (要登録)

[2686] 古代文化を考える (25), 東アジアの古代文化を考える会同人誌分科会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7951409/1/55 (要登録)

[2687] 古代史の海 (1), 古代史の海編集委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4428399/1/14 (要登録)

[2688] 石油政策 31(8)(349), セントラル通信社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3350755/1/12 (要登録)

[2689] すげー媒体で布教活動してたんだなあ。。。

[121] 「倭国」から「日本国」へ(旧タイトル「倭の五王」から「日本国」へ) ~ 九州王朝を中核にして ~, , https://web.archive.org/web/20150519001227/http://www2.ocn.ne.jp/~jamesmac/body.html

[2738] document - 198507002.pdf, , http://www.tokyo-furutakai.jp/198507002.pdf#page=4

[2692] 上代日本史の問題点 : 建国紀元の探求, 市村其三郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2968079/1/77 (要登録)

[2694] 季報唯物論研究 9(3/4)(35/36), 季報「唯物論研究」刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4422221/1/17 (要登録)

[2792] >>2791 これは衝撃の事実。分裂前のこの団体は、この程度には冷静に分析(当社比)できる人がいる団体だったのかと思いながら読んでいたから。 自分の名前で記事を書かない「編集委員会」メンバーがいたのだと思いきや、そんなことはなかった。

[2735] 「壹」から始める古田史学・三十六 もう一人の聖徳太子「利歌彌多弗利」 古田史学の会事務局長 正木裕, , https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho170/kai17005.html

[2737] kiroku13.pdf, , http://kawa-k.vis.ne.jp/kiroku13.pdf

[2736] 『二中歴』・年代歴の「不記」への新視点 谷本茂, , https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho160/kai16006.html

[2739] null, , http://www.torashichi.sakura.ne.jp/shoutokuwotorimodoshitai.html

[2909] 九州年号・書紀天皇対比表〔九州年号の34年繰り下げ/50年繰り上げ〕, , https://web.archive.org/web/20120825213918/http://www.geocities.jp/waikoku/nennpyou.html

[2911] 1999(Historical) -, http://www.0o0d.com/rekishi-c/index.php?1999%28Historical%29

[2912] 大宝以前の逸年号-逸年号論序説-(Historical) -, http://www.0o0d.com/rekishi-c/index.php?%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E9%80%B8%E5%B9%B4%E5%8F%B7-%E9%80%B8%E5%B9%B4%E5%8F%B7%E8%AB%96%E5%BA%8F%E8%AA%AC-%28Historical%29

[2939] 古代文化を考える (20), 東アジアの古代文化を考える会同人誌分科会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7951404/1/123?keyword=%E6%9C%B1%E9%9B%80 (要登録)

[2943] (, ) http://www.torashichi.sakura.ne.jp/yaridamasono23.html

[2944] (, ) https://www.asahi-net.or.jp/~wy4h-isym/kikinosontaku.pdf

[2945] 邪馬一国の挑戦 (Tokuma books) - 国立国会図書館デジタルコレクション (, ) https://dl.ndl.go.jp/pid/12238220/1/94

[2947] 九州王朝の周辺 - 国立国会図書館デジタルコレクション (, ) https://dl.ndl.go.jp/pid/12240932/1/18

[2948] 九州王朝の文化 法隆寺と九州王朝 古田武彦 (, ) https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin05/houryuzi.html

[2001] 九州年号, http://ocn1.net/jamesmac/body066.html

[27] 湯岡に来遊したのは聖徳太子でなく九州王朝の王者だとする妄説を一蹴:白方勝「伊予の湯の岡碑文と聖徳太子」 - 聖徳太子研究の最前線, https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/9b13272781e4b776a5fd53939addfaac

[2742] 聖徳太子の伝記の中の九州年号 岡下英男, , https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjit17/syoukyus.html

[534] 玉名・山鹿・菊池の神々 2012年2月5日 百嶋由一郎先生講演 : 肥後翁のblog, http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/33437470.html

[536] 【珍説奇説】九州王朝説論者が『勝鬘経』も『法華義疏』も読まずに「石井公成氏に問う」などと力んだトンデモ聖徳太子論 - 聖徳太子研究の最前線, https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/5370bc29faa20c5d328ea655e19feaa7

[537] 『二中歴』・年代歴の「不記」への新視点 谷本茂, , http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho160/kai16006.html

[131] 19970401018.pdf, , http://www.tagenteki-kodai.jp/19970401018.pdf#page=6

[2898] 普通は古代史としての史料価値はこの時点で終了なのだけど、 古田学派()にはなんとか理論とかいうのがあったはず。 天皇家に書き換えられたから云々ってやつで、逆変換して九州王朝時代の表記を復元できるとかなんとか。 (なぜ天皇名に書き換えられたのに元号名は残っているの、とかは聞いていけない。)

[2843] 「大化」は日本最初の年号ではない!!, , http://www.teikoku-denmo.jp/history/honbun/nengou.html

[2907] XユーザーのHarumi suzuki #選挙区候補は日本共産党 #比例は日本共産党 #真実の歴史さん: 「ついでに言えば山口県は九州年号の宝庫だ。 九州年号の宝庫なのになぁぜ近畿天皇家を錦の御旗にして明治維新をしたのかねぇ❓ 自分自身のアイデンティティを失って平気な県民性なのかもしれないなぁ。 少なくともわたくしとは違う人々だと思う。」 / X, , https://x.com/Harumisuzuki2/status/1810332645156335947?t=3_ZmhMuPLoc51eetwAGcbw&s=19

[263] 第1882話 2019/05/02 | 古賀達也の洛中洛外日記 () http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/the-name-of-an-era-for-kyushu-dynasty/%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%98%ef%bc%98%ef%bc%92%e8%a9%b1%e3%80%802019-05-02/

[2655] 「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(1) 林伸禧, , http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho141/kai14102.html

[426] 九州王朝の年号は11世紀の経典に基づき、聖徳太子が善光寺如来とやりとりした手紙は本物? - 聖徳太子研究の最前線 () https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/3d463d60c2daa60bff6018a6f0ac7b9b

[427] 湯岡に来遊したのは聖徳太子でなく九州王朝の王者だとする妄説を一蹴:白方勝「伊予の湯の岡碑文と聖徳太子」 - 聖徳太子研究の最前線 () https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/9b13272781e4b776a5fd53939addfaac

[429] ワクワク1129さんはTwitterを使っています 「聖徳太子没後1400年なのでちょっとお勉強 「日出処の天子」は誰か(ミネルヴァ書房) イエズス会宣教師は「日本の年号は善記(522年※聖徳太子の没年)に始まるのか大宝(701)で始まるのか2つの意見がある」と報告 善記のような九州年号の研究は明治政府により禁止されたとのこと 😒アヤシイ https://t.co/xTse6PqzGc」 / Twitter (, ) https://twitter.com/xfrztbzcd29/status/1380689925843034115

[438] 創@ろどすたさんはTwitterを使っています 「先日の福岡 #RKB の #超科学アイドルメディアHKTV という番組。 #HKT48 が「#邪馬台国 だー、#卑弥呼 だー」と騒いでいたので見ていたら、番組中ポロッと「#九州に王朝 はあったのか?#九州年号 は存在するのか?」と呟いた。 #九州王朝説 をやるのか?!」 / Twitter (, ) https://twitter.com/rarara_roadster/status/1465228584369283074

[439] 九州年号の証言 ([平野雅曠]): 1991|書誌詳細|国立国会図書館サーチ () https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002147478-00

[64] 蝦夷国への仏教東流伝承 -- 羽黒山「勝照四年」棟札の証言 古賀達也, , https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho173/kai17301.html

[83] 日本書紀の編纂と九州年号 (三十四年の遡上分析) 正木裕, , https://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou79/kai07903.html

[97] 九州王朝研究のエビデンス⑷ 九州年号 古賀達也 - YouTube, https://www.youtube.com/watch?v=LUsjM6viJM4

[1040] 九州王朝説に対する批判 - 頑固爺の言いたい放題 () https://blog.goo.ne.jp/sagamiyakko123/e/bb47e7aadb9a2b149a18dd147d628287

[142] 明かり窓, , https://web.archive.org/web/20190331093636/http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-mado1.htm

[172] 浮世絵・酒井好古堂 » Blog Archive » 浮世絵学04/外題(支那學・九州年号)酒井雁高 浮世絵・酒井好古堂主人 http://www.ukiyo-e.co.jp/26571, http://www.ukiyo-e.co.jp/26571/2024/12/

鶴峯は、九州年号が熊襲によって偽僣されたと考えた。これらの年号は、熊襲でなく、佐賀の吉野ヶ里、岩戸山の王朝が使っていた。

[130] 邪馬台国の大和説が成立しないことの本当の意味|MORFO HUB, https://note.com/morfo/n/n58377761e526

本家説

[132] 多元19940625001 - 19940625001.pdf, , http://www.tagenteki-kodai.jp/19940625001.pdf#page=5

[191] 古田史学の会による倭国年号: 九州王朝論の比較, https://morfo9.seesaa.net/article/2021-06-30.html

九州年号系陰謀論

[60] 九州王朝説そのものが皇国史観の反動による陰謀論的史観といわれています。 九州王朝説の主張には 日本書紀 は捏造された偽史で真実の歴史である九州王朝を隠蔽しているなどといったものが含まれています。

[61] 九州年号についても九州王朝説の支持者らは、 水戸学の系譜の現在の研究者らが黙殺しているだとか、 私年号と呼んで軽視しているとか、 よくわからないことを主張しています。


[464] Wikipedia は、九州年号について 「学界からは全く相手にされていない」 >>462 と書いています。 一方で同じく Wikipedia の別の記事は、 九州王朝説について所功の著書を引いて 「今でも歴史家や著名人の注目を集めている学説である」 >>465 と書いています。 この矛盾する2つの記述をどう解釈するべきでしょうか。

[466] 九州王朝説全体だと範囲が広すぎるので九州年号に限りますが、 この2つの記述はどちらもやや九州王朝説の主張に寄っています。 古田は自著で九州年号説を提案しました。 所功は論文 (後に自著に収録 >>470) で詳細に検討しこれを否定しました。 所功はその後もたびたび論文・著書で (自論文を引きつつ) 九州年号を否定的に紹介しています。 Wikipedia が引いている >>465 平成30(2018)年所功の著書 >>352 もその 1つでした。従って 「全く相手にされていない」 >>462です。 しかし著書でたびたび言及しているといっても、 その内容は前著の繰り返しに過ぎません。 これをもって「注目を集めている学説」 >>465 というのはおかしなことです。

[467] 所功の主張は歴史学的に定説化しており、 これ以後新たな研究は見られません。 言及すらほとんどみられず、 「注目を集めている学説」 >>465 というには無理がありすぎます。

[469] 九州王朝説支持者から所功の主張への反論はあるものの、 九州王朝説支持者団体の会報や著書による、 Wikipedia がいうところの 「学術論文の体裁を得ていないアマチュア論文の乱立」 >>465 状態です。一般の歴史学の研究団体の発表や査読付き論文による反論はみられません >>488。 外部の歴史学者が反論への反論をしないのも、 九州王朝説支持者の内輪の活動にわざわざ参加していく理由がないからでしょう。 この状態は立場次第で 「学界からは全く相手にされていない」 >>462 と映ることでしょう。

[468] なお 日本年号史大事典 >>246元号に関係する論文・著書の目録を収録していますが、 そこには所功論文以後の九州王朝説支持者の著書も挙げられています。 研究者の目に留まりリストに掲載された以上 「全く相手にされていない」 >>462です。 しかしそれに反論する論文も出されていないということは、 わざわざ反論するべき学術的価値も見出されずスルーされているということですから、 「全く相手にされていない」 >>462 というのも正しいかもしれませんw

[93] 所功平成時代元号研究分野の権威ともいうべき研究者であり、 古田武彦九州年号説を完全否定した論文を書いています。 そのため九州王朝説愛好家らには目の敵のように扱われているようです。

[14] 日本共産党はなぜか九州王朝説を支持しているようで (反天皇という点で一致したのでしょうか)、 昭和時代国会日本共産党議員が九州王朝説九州年号が 「日本の科学的な歴史」だと述べた事案があります。 明要

[2615] 元号考:中外日報, 2019年4月26日 16時10分更新, , https://web.archive.org/web/20190428101128/https://www.chugainippoh.co.jp/article/rensai/futaku/20190424.html

朝廷・幕府とは別に政治権力を背景にして独自の「元号」を唱えた例はほかにもある。私年号などとされるもので、後南朝や幕末・維新の奥羽越列藩同盟などが使った元号が知られる。アカデミズムは相手にしないが、大化以前から始まる一連の「九州年号」も面白い◆熱心な在野研究者らがその使用例を集めているが、法隆寺の釈迦三尊像光背銘などに残る逸年号「法興」を除けば、金石文という近い時代の物証を欠く。とはいえ「万世一系」の思想によるならともかく、私年号の背景に、それを実際に用いた権力が存在した可能性を頭から否定はできないだろう。知識階級であった僧侶が机上ででっち上げたという解釈で単に無視し去っていいのだろうか、と思う。(津村恵史)

[2616] 「アカデミズムは相手にしない」 とお決まりの陰謀論で、 「頭から否定はできないだろう単に無視し去っていいのだろうか」 と持ち上げる (がその根拠は何も示さない) いつものパターン。

興味深いのは、 「知識階級であった僧侶が机上ででっち上げた」という通説に疑問を示したこの感想文が掲載された媒体が 「宗教と文化の専門新聞」 であるというところ。

[2617] 更に趣深いのが、同じ日に発表された別の記事: フェイクとファクト SNS情報発信の問題:中外日報, 2019年4月26日 11時16分更新, , https://web.archive.org/web/20190428101103/https://www.chugainippoh.co.jp/article/editorial/20190426.html。 両記事の内容に直接の関係はないのだけど、 偶然同じ日に発表するというだけでもう面白いw しかもこの記事には 「くだんの事件では、本人のカミングアウトの後、詐称の証拠になりそうなサイトはことごとく削除され、詳細な検証ができなくなっている。都合が悪くなった関係者が複数いたと考えられる。昨年は省庁が各種の疑惑に対し、文書を破棄するなどして追及を逃れようとしたが、ネット上の情報は削除がより容易である。それがフェイクへの心理的負担を軽くしている可能性がある。」 と書かれているのだが、 これら2つの記事も、 「ネット上の情報は削除がより容易である」 ゆえに今や抹消されて見えなくなっていることが、いろいろと考えさせられる。

[2618] この 中外日報 は同じ月に旧暦2033年問題にも煽りだけで中身のない記事を書いている。 そういう媒体のスタイルなのだろう。
[2877] 幕末土佐で使われた私年号「天晴」 もう一つの歴史教科書問題, 2021/06/03 10:08, http://rekisi.tosalog.com/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B4%E5%8F%B7%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%9F%EF%BC%81/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E5%9C%9F%E4%BD%90%E3%81%A7%E4%BD%BF%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7%E3%80%8C%E5%A4%A9%E6%99%B4%E3%80%8D

天皇が定めた公的な年号に対し、地方で私的に使われた年号が「私年号」であるが、その性格として、①単発的に使用され連続性がない。②一地方あるいは特定集団内で用いられ汎用性がない。――などの点があげられる。

土佐の「天晴」年号の使用例は13以上あるとはいえ一時的なもので、「天政」「天成」「天星」など異なる漢字表記もあって統一性に欠ける。県外にも一部発見されているが、一地域性を脱することはできず、私年号といってよいだろう。

久保常晴著『日本私年号の研究』では「私年号」第一類として、「大化」以前の年号のなかった時代における「非公年号」を「古代年号」と呼んでいる。「令和」改元をきっかけとして年号に関する書籍が出版され、数多くの報道もなされた。ところが、「古代年号」に関してはアンタッチャブルとされているのか、誰も触れようとしないように見える。いわゆる「九州年号」と呼ばれる年号群である。

これら一連の年号群には連続性があり、広範囲に使用されているなど、「私年号」の性格を満たしていない。当然の帰結として、年号制定の主体として国家主権の存在を考えざるを得ない。そのような意味で「九州年号」の存在は、大和朝廷に先行する九州王朝の実在の根拠の一つとなっている。

[2878] >>2877天晴の紹介でありながら、最後に急転して九州王朝説の主張につなげています。 狭い地域の一過性の天晴私年号で、 連続的で広範囲の九州年号私年号ではない、といわば九州年号のダシに都合よく天晴が使われた形です。

[2853] Xユーザーの丸山晋司さん: 「「九州年号実在論」を深く検討せずに「新参入者」が簡単に信じてしまう問題。 ネット上の「被害者を加害者と思ってしまう問題」等種々雑多な「陰謀論」が信じられて行く問題と、やはり似通っていると思う。」 / X, , https://twitter.com/nemurikappa/status/1753941240897478682


[82] ただ古田武彦が社会的に知名度を得て九州王朝説を喧伝したことと支持者グループのその後の活動が、 古代年号 = 九州年号 → 色物というイメージを蔓延させ、 古代年号が学術的に敬遠されがちになっているようなきらいもないではありません。 >>48 も参照。

丸山モデル

[95] 丸山モデル

法興と2元号系列並列説

[119] 九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について 正木裕, , https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho104/kai10401.html

[120] 法興元年号 | 泉城の古代日記 コダイアリー, https://ameblo.jp/furutashigaku-tokai/entry-12445259920.html

近江朝年号説

[94] 近江朝年号

呼称問題

[96] 倭国年号

[198] 古田史学論集『古代に真実を求めて』第二○集 「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(2の下) 林 伸禧, , http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho143/kai14306.html

[199] 古田史学会報№141を読んで(1)、林伸禧氏に物申す ―「倭年号(九州年号)」のどこが間違いなのか―: sanmaoの暦歴徒然草, https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/08/141-3cb0.html

[200] 「九州年号」と「倭国年号」(古田史学会報を見て) - 古田史学とMe, https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/8df92a8357d32e9e4f746fe96af8f32b

九州王朝説系異端説

[15] 九州王朝説の知名度のため、 中心的な九州王朝説支持者グループ以外にも、 似たような主張が取り入れられていることがあります。 本家の九州王朝説が明示的に引用されていることもありますが、 出典が特に示されていないこともあります。

[16] そうした説は本家の九州王朝説と本質的な違いがないものもありますが、 本家の九州王朝説とは違うアレンジが加わっていたり、 異なる独創性が発揮された自説のトッピングに九州王朝説が使われていたりもします。



[85] >>84九州王朝説における九州年号思想史を振り返った後に独自説を展開している。 研究史を振り返ってまとめた上で新しい議論を展開するという、この界隈にしては珍しい構成。 その振り返り部分は、外野から全体像が掴みにくい九州王朝説内の九州年号関連の主要な活動を抑えていると見えて参考になる。

[87] もっとも >>86 のように引用されている当事者がいうには違うらしい。

[88] ここ数年九州年号関係を調べ続けている感想というか中間報告的には、 細部はともかく大筋としては >>85九州王朝説主流グループの流れということで良さそうに思う。 付け加えるとしたら近江朝年号とか百済年号のような枝葉とか、 大化土器のような聖遺物系とか、 倭国年号のような内紛系とかくらいか。 しかし主流グループ以外に >>84 の新説部分のような派生説が大量にあって、 これが収拾がつかない。主流グループ以外で出てきた派生説を主流グループが取り入れることはまずないし、 豊国年号のように異端説側で独自グループが形成されることもあって、 無数に増えていって収束方向には進んでいかないらしい。



[18] 古代史6 消された九州王国|角@京都, 角@京都, 2021年1月15日 22:32, https://note.com/kirk/n/nce48e08a5b6c

607年の第2回遣隋使では倭国の王が自らを日出ずる国の天子と名乗ったとありますが、九州王朝は522年より年号を初めていたので天子と名乗るのは当然のことです。大和王国はこの時点で天皇制など導入していません。

九州王朝の存在については古田武彦氏が提唱して以来、数多くの先生がそれを支持し研究を進めていますが、これが教科書で取り上げられることはなく飽くまで異説扱いです。昔から九州年号というものが日本各地に存在しており、九州年号では大化の年号は695年からになっている。日本書紀がこの大化の年号を天皇家クーデターの年645年に利用したと思われること。(このあとの大和の年号がいい加減になっている。)などなど先生の本を読めば間違いなく、九州王国は大和王朝が始まる700年前後までは存在したことが解ると思います。

[17] 古代史10 天武天皇は九州王の太皇弟だった|角@京都, 角@京都, 2021年1月30日 13:01, https://note.com/kirk/n/n136e76d639ab

自然に考えれば522年から天皇制を採用している九州王朝の太皇弟ではないでしょうか。(日本書紀は645年に大化の年号を制定したとしていますが、本当に大和王国はこの時点では天皇制をとっていたかも怪しいところです。)

まずは消された九州王国で触れた九州年号について再び話をしたいと思います。九州年号は522年に始まり、700年で終わります。宇佐神宮に残る書に継体の壬寅(522年)を善記元年としたものがあるそうです。英彦神社の言い伝えの中では継体辛亥(531年)を教到元年としているのです。神戸・明用寺では541年を明要元年としたものがあり、愛媛の長福寺本の中には文武天皇の話が大化5年(699年)として出て来るようです。全国にあるものを全て抹消することは出来なかったということだと思います。

さて大和王国を支配することになった天武天皇は九州王朝では太皇弟のままでしたが、九州年号では684年に朱雀という年号になっています。

[19] 俺の古代史16 まとめ|角@京都, 角@京都, 2021年4月1日 10:35, https://note.com/kirk/n/nc78e27e2baa1?magazine_key=m985d473980a3

私は長い間、中国と付き合いがあり、その文化や政治体制を熟知していた九州勢が、混乱する中国に見切りをつけて自らを天子とする九州王朝を作ったのではないかと考えています。この時期に半島経由で中国に行くことが困難になったという理由もあったと思います。この仮説は一部の方が主張する九州年号が522年から始まり700年で終わることから推理したものです。

[20] ラベンダー浮かぶ夜中のランドリー|角@京都, 角@京都, 2023年6月26日 17:33, https://note.com/kirk/n/n04d4e0e39f2f?magazine_key=m08926fc54053

おまけの話ですが、政府は既に2026年に新たなマイナンバーカードを発行するとしています。出来れば年号も西暦にしてくれるといいのですが。


[195] 兼川晋による九州年号: 九州王朝論の比較, https://morfo9.seesaa.net/article/2021-07-03-1.html


[2793] 福岡県神社庁書籍目録, , http://www2.nsknet.or.jp/~twinpp/fmokuroku.html

・『研究発表集』多田隆 研修部書架にもあり
 小郡の地名。小郡三日市、門松と火祭、さなぼり、神社の建築様式と鳥居
 大崎鎮座媛社神社考、私年号(九州年号)について、その他

[2794] >>2793 多田隆平成時代初期に福岡県で活動した、郷土史家らしき人物。 列挙されている論文題名らしきもののいくつかは小郡市郷土史研究会機関誌 故郷の花 に収録されていることがわかる(福岡県立図書館ウェブサイトで検索可能)。 私年号(九州年号)について も同様の地元研究会誌掲載論文かもしれないが、不明。 研究発表集所蔵図書館も見当たらず。


[78] 九州年号説に大きな影響を受けているものの、 王朝は他の説の影響が強い独自説。


[128] Amazon.co.jp: 701年、倭国滅びて日本国建つ: 日本国朝廷により封印された易姓革命・王朝交替の謎 / 明治維新という名の洗脳以上の、倭国の抹消という1300年に及ぶ歴史洗脳〝成り済まし〟史観の禍根を断つ。 eBook : 斎藤 忠: 本, https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B08FF2NVSK/wakaba1-22/

(7) 「朱鳥」は本来、〝高市天皇〟の年号だった!?

第5章 大宝元年に途絶える「倭国(九州)年号」の実在は何を意味するのか

■「大宝なる金の貢進は詐欺だった」は阿毎氏皇統の神器詐取が寓喩?

(1) 大宝年号の「建元」とは新しい王朝の発足を意味する

(2) 漢語の「大宝」は天子の位の言い換え、その大宝の貢進に詐欺があったとは?


[91] 九州王朝説から転じた理系の古代史研究家による強引な聖徳太子論:半沢英一「聖徳太子法皇倭王論」 - 聖徳太子研究の最前線 () https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/89f7ae5dbe6b1959259cdb4ee1f2d6c6

九州年号に惑わされる人々

[48] 古代史関係の単語で検索すると九州王朝説系の頁が検索結果にしばしば出現します (Web 以外にも書籍が大量に出ています)。 そのせいで知らず知らずのうちに九州年号の知識を得てしまったと思しき事例がままあります。

[2690] 九州文学 42(9)(415), 九州文学編集部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2316493/1/5 (要登録)

九州で畑を耕していたら「光元通宝」が出土、 その後九州年号光元があることを知った。 九州年号九州王朝実在の証拠ではないか。

[2691] >>2690 こんにちウェブ検索しても中文の投稿系サイトがいくつか出てくるものの、 それらの記述も明確でなく、東アジアで「光元通宝」の発見報告として確実なのは本件1例のみ。 それもその後どうなったのか不明。年号銭かどうか謎とはいえ、 九州王朝説の人々が喜んで飛びつきそうなのに、そのような記事も見つからない。

[21] 金富神社から見えること : 地図を楽しむ・古代史の謎, tizudesiru, 2013-07-18 12:09, https://tizudesiru.exblog.jp/18120698/

ほかの資料に、面白いものがありました。

540年(庚申 僧聴五年) (欽明元年) 宗像大菩薩、人王卅代欽明天皇御宇僧聴五年、新羅国より釈迦金銅像を献ず。 (宗像大菩薩縁起)

541年 (辛酉 明要元年 *辛酉による改元) (欽明2年) 明要元年辛酉三月三日丹生山明要寺創建される。 (明要寺勧進文書)

辛酉明要 百済国より佛像経巻わたると云々。其の時尾輿大連と云える人佛法崇敬すと云々。 (寶光寺古年大記)

542年(壬戊明要二年) (欽明3年) 壬戊名要二年、始建立宇。本朝佛法流傳之初也。(日本帝皇年代記)

544年 (甲子明要四年) (欽明5年) 甲子明要四年、或云、八幡大菩薩此天皇之御宇顕神筑紫肥後国菱形池。現神紀云、我是人皇十六代誉田八幡丸云々。 (日本帝皇年代記)

545年 (乙丑明要五年) (欽明六年) 明要五年、此代より佛法名を知け (寶光寺古年代記)

やはり、佛教伝来は、552年より早いようですね。

僧聴・明要は、認められていない年号だそうです。年号が続くようになるのは、大宝元年(701年)からです。

[22] >>21九州王朝説関係者ではなさそうだが、 「ほかの資料」 (出典不明) は九州王朝説関係のところのように見える。 まったく同一のものは見つからないが...

[635] https://www.sibscript.ru/jour/article/download/2574/2244 #page=5

[49] >>635ロシア連邦の研究者で日本の情報が十分に得られなかったのか、 怪しげな九州王朝説系のWeb頁まで出典に使っている論文

[2610] 暦仁 - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6%E4%BB%81#cite_note-1

九州年号などでは「朱鳥10年(695年)」まで使用された記録が残っているため、一概に最短とは判定できない[1]

1. ^ 『朱鳥』の後は一旦廃止され、701年に『大宝』として復活するまでの間において元号の廃止に反対する勢力が途中の695年まで便宜的に継続使用していただけとする説もある[要出典]

[143] >>2610 のように Wikipedia の一見関係ない記事に九州年号が紛れ込んでいます。 執筆者が信奉者なのか、素朴に信じてしまっただけなのかは不明です。

[428] 🐯子さんはTwitterを使っています 「661年の方は九州年号かと思ったけど665年もあるので、もしやこの世界線では朱鳥元年(686年)まで白雉が続く……? https://t.co/DfXrxFB0Xs」 / Twitter (, ) https://twitter.com/Afterman_hai/status/1408511257238327298

[144] >>428 のようなものも出典不明ですが、九州王朝説関係者らしさはないので、 きっと Wikipedia のようなものから素朴に信じてしまったのでしょう。

九州倭政権説

[147] 九州倭政権説は九州王朝説の派生説の1つです。 九州を拠点とする政権が日本列島を支配していた、 白村江の戦い軍が日本列島に進駐した、 大宝以後近畿天皇家日本列島を支配し、 日本書紀偽史を普及させた、 二倍年暦九州年号を使っていた >>160、 などといった基本的な構図は九州王朝説を踏襲していますが、 舞台としてより九州に焦点を当てている印象があります。

[149] おもしろいことに、同じ九州王朝説の系譜でも、 この説を含め九州を活動拠点にする論者は九州の出来事を中心に物語を作り、 本州を活動拠点にする論者は近畿の出来事を中心に語るような印象があります。

[150] 九州倭政権説で特に注目するべきは、 九州においても政権(王朝)交代があったとし、 九州年号の担い手を熊襲としていることです。 >>148, >>170 一周して江戸時代九州年号説に先祖返りしています。

[163] 「知り合いの考古学研究者や自治体、マスコミの編集局長ら」 に送付したという 九州倭政権実在のデータ では、 「青森から鹿児島まで全国で約400件の実際の使用例が見つかっている九州年号がその第1の根拠に挙げられており >>162九州倭政権説が九州年号を重視していることがわかります。

[152] この説は九州で活動する愛好家グループで信奉されているようです。 主宰者のブログ平成時代後期から令和時代に入った現在もその主張が論述されています。 >>151 主宰者は平成時代初期に九州王朝説グループに参加していたようです >>189 が、 現在の主流派とは内紛で袂を分かったそうです >>197

[176] ブログの他に著書も何冊かあるようです。

[153] ブログ記事は、日本政府マスコミや研究者に対する強い言葉による批判に満ちていて、 本家九州王朝説以上に陰謀論的性格を強く感じます。例えばブログのトップページには

消されたのは九州政権や卑弥呼らの国ですが、その中で『書紀』の執筆者は、読者に何とか事実を探るきっかけを与えようと各所に“暗号„を散りばめています。この“暗号„に気付くかどうかで歴史の真実に近づけるかどうかが決まりそうだと分かってきました。

〝うその歴史〟は文部科学省の役人や一部の古代史家たちによって再生産され、市民や子供たちに教えられています。古代史像から導かれる国のアイデンティティはとても重要です。嘘八百の古代史は市民を直撃して地獄に落とすでしょう。

第二次世界大戦の経緯をみれば明らかでしょう。教育界は今とさして変わらぬ「嘘の古代史」を平然と市民に教え込み、軍の首脳は銃をちらつかせて政治を乗っ取り、東京の「大本営」でマスコミに嘘情報を垂れ流し、マスコミは嘘情報に尾ひれをつけて紙面を飾りました。

などと書かれています >>151

[155] 二中歴を代表とする中世以後の古代年号の記述を九州年号だと主張するところは九州王朝説を受け継いでいますが、 九州王朝説によって「確立」された九州年号群は所与のものとしているようで、 見るべき新たな知見は特にありません。 >>154

[159] たとえば、

(写真=申淑舟著『海東諸国紀』継体天皇の部分。「善記」が「善化」に文字化けしている)

『二中歴』には「継体」年号が記され、他の「九州年号」を記録した諸本の使用例もすべて「継体の時代」からである。『二中歴』の「継体年号」は唯一の記録で、諡(いなみ=贈り名)を「年号」と誤って記録したものだと考えられている。

のように説明されており >>157二中歴を基準に善化を誤りと断定し、 継体元号ではないと断定していますが、 根拠は何も示していません。

[158] ただし、 九州を拠点とする地域密着型の活動の特色というべきか、 地元の史料を重視しているようです。 >>154, >>160, >>174, >>189

[161] 鹿児島県入来院家文書日本帝皇年代記に、

「継体」以後「天武」までの年代を四十二個の「九州年号」(うち九個は重出)で表記するなど独自の記載もあり実に興味深い古文書である。

とされています。 >>160

[156] ただしそれは近世の年代記や「地元に伝わっていた伝承を昭和31年に記したという」金石文なのですが、

大和政権の懸命なもみ消し作業にもかかわらず、一般人の間、それも知識人の間では一連の九州年号が時代の物差しとして使われていたことを実証する資料である。それは「常識」でもあったことが間違いなく」わかる貴重な資料である。

と高く評価されているようです。ところが

熊本日日新聞に通報したが、同紙の“専門記者„は「それは偽年号とされている」と言って記事にしなかったという。無知なうえ読者に事実を伝えようという意欲もないマスコミの退廃ぶりをまざまざと見せつけた。

客観性ゼロの『日本書紀』を真っ当な「史書」と考え、古代史解明の柱としてきた国史学者らは今でも頬かむりを続け、市民を騙し続けている。

とされ、自説を取り上げないマスコミや研究者が厳しく批判されています。

[165] 「最近でも江戸時代にこの年号を記した文書が発見されている。この年号の存在が当時でも一般の人の常識であったことがわかる。」 のだそうで >>162、政府が隠蔽し騙し続けても民衆が記憶しているから、 近世や昭和の記録であっても古代史の根拠に用いられる、ということなのでしょうか...

[166] 古代年号について

「年号学者」という久保常晴や所功は「鎌倉時代にどこかの僧侶がでっちあげた年号だ」と結論し、古代史学会はそれに追随し、頬かむりを続けている。奈良時代の724年(神亀元年)の聖武天皇の詔勅の中に出てくるのに何で「鎌倉時代にでっちあげられた年号」なのか。「九州年号などなかった」というのなら、全国の史書に記されているこれらの年号や実際の使用例約400件のすべてが「うそや偽作である」という証拠を提出すべきである。

などと述べていますが >>162聖武天皇がいう白鳳朱雀鎌倉時代にどこかの僧侶がでっち上げたと主張する学者などどこにも居ないのであり、 これを書いた者は久保常晴所功の論文を読んでいないか理解できてもいないのにこの威勢ということになります。

[167] ところでこうした論調も本家九州王朝説をよく引き継いでいますが、より攻撃的になっているように感じられます。

[168] しかし「約400件」の古代年号の研究が待たれることはこの指摘の通りであり、 中世や近世 (や近現代) の歴史研究史や思想史に絶好の材料を提供することは間違いありません。 それが十分成されないまま放置されているために陰謀論等の付け入る隙をも残してしまっているところもあります。

[169] なおこの筆者は「約400件」の立証責任が僧侶偽作説の研究者にあると考えているようですが、 九州年号説を主張する者こそ、こうした中世以後の用例が古代に由来することを説明しなければならないのですが、 なぜ他人事のように呑気にしているのでしょう。それでは 「西暦を使って古代日本史を記述した近現代の文献が何万件もあるから、 古代人は西暦を使っていたのだ。日本列島にはキリスト教王国があったのだ。」 という主張と大差がありません。

[178] 永昌については、

大和政権はまだ列島の支配者ではなく、戦後の列島は唐の占領軍が支配していた。占領軍は倭国が使っていた九州年号の使用を禁止し、一時的ではあるが、唐の属国となったのだから唐の年号を使うよう強制した時期もあったらしい。栃木県に残る那須国造碑は日時を「永昌元年」(689年)という唐代の年号で示している。唐は新羅に対しても以前、同様の措置をしたことがある。

第二次大戦後、米の占領軍・マッカーサーらが日本に上陸しているのに、米軍の襲来に備えて高射砲陣地など造れるはずがない、と言った人がいた。まったくその通りである。

と、の占領下で強制されたものであって、九州年号は禁止されたとしています。 >>177 更に、これによって

九州年号の「白鳳」は661年から684年まで、24年間も続いた特異な年号だ。他の九州年号は4,5年でころころ改元している。だが「白鳳」時代は、白村江の敗戦で国がつぶれ、唐や新羅の占領軍が太宰府などに進駐し、改元どころの騒ぎではなかったのだ。

しかも唐は自分らの年号を倭国でも使うよう強制したらしい。それは当ブログNO.108「幻の『長門城』発見の背景」でも紹介した栃木県の「那須国造碑」の記述からも判明する。この石碑は時間軸を「永昌」という唐の年号で表記している。今のところ残されたのはこの一例だけだがはっきり分かる。

「世界に天子は中国の一人だけ。偽天子は許さない」というのが唐側の戦いの大義名分だったから、「倭国の天子の権力の象徴である九州年号」も認めなかったのだ。

白鳳時代の長さを説明しようとしています。 >>182

[179] 例によってこれといった根拠は示されていません。 白村江の戦い大東亜戦争を重ね合わせるのは昭和時代後期頃に一部で流行したらしい思想ですが、 本家九州王朝説でも同様に朝鮮半島を侵略したから占領され国が滅びたのだなどと説いています。
[183] 元号の存在と王朝の興亡を1:1で説明しようとするのは本家九州王朝説から受け継いだ考え方といっていいでしょう。 元号制定権に関する東洋の伝統を過剰に重視するものです。

[129] >>193 では九州年号についての話だけでなく、 百済年号百済の元号かもしれないと話しています。

[164] この説では >>163 など九州年号の個数がたびたび強調されています。 >>161 では同一の記録に複数の用例があっても1個でなく複数個として数えているようです。 更に詳しい説明が >>189 にあります。

九州倭(ヰ)政権の存在を証明する最も肝要な資料である「九州年号」については、一九八九年の『市民の古代』(新泉社)第十一集に掲載された「目録」が一つの一里塚となっている。「多元の会」の会員らが様々な古文書に眠っていた約三百八十個の年号を‶発掘〟し、斎藤隆一氏がまとめたものである。

「目録」で斎藤氏が予言しているように、その後多くの「年号」が発見された。筆者も部外者の一人として「目録」から漏れていた十個近い「九州年号」を西日本の各地で発見した。

その中で「なぜだろう」と不思議に思っていたことがある。それは、「九州年号」を創始したとされる「継体天皇」(袁本杼)は、筆者の調べで後に、九州は宮崎、鹿児島に本来の根拠地を持っていた「熊曾於族」の出身であったことが判明している(注1)。

だが「目録」では、その本拠地である「日向の国」や「薩摩の国」では、『開聞古事略縁起』(注2)などに残されたわずか八個しか採集されていない。「本拠地であったのになぜ発見例が少ないのか」が不審だった。

だが実際は、数多くの「九州年号」が眠っていた。四十二個プラス二十六個で合計すると六十八個もあったのだ。「面目躍如」であり、県別では全国でも最も多いと思われる。

[196] つまり、 入来院家文書日本帝皇年代記に42個、 田代之宝光寺古年代記に26個の古代年号の用例が見られることを、 「鹿児島で新たに六十八個の「九州年号」発見」 「新たに七十個近い「九州年号」が発見されたのだ」 と大げさに提示しているようです。

[203] この「発見」については地元郷土史家グループの機関誌に論文が投稿されているようで、 九州年号熊襲王朝説などが好意的に受け入れられているようです。 >>201, >>202

[148] 002 列島へ漂着した三つの「大族」について | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」, https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/entry-11977976535.html

熊曾於族は、次々と九州南部に漂着。その後九州倭政権の中枢で活躍。6世紀始めに継体天皇を生んで紀氏から支配権を取り返し、わが国初の年号「九州年号」を公布した。7世紀の終わりまで30数個の年号を制定し、列島を支配していたと考えられる。

豊国年号説

[23] 豊国年号, 筑紫年号

[2795] Xユーザーの物部世真古さん: 「2018年の「神功紀を読む会10月通知」を転載。最近、先生の講演でも「中元」についてよく出てくるので。 "川崎町を「中元(ちゅうがん)寺(じ)川」が流れています。『襲国偽僭考』に拠れば、天智天皇の建てた「中元・果安」の「豊国年号」があり、添田町諏訪明神の隣に「中元司」跡が出土。" https://t.co/uCLDd9j9S7」 / X, , https://twitter.com/kodaizine/status/1233741207840251904?t=jrSMUhjWiJ7jou9osFGh_A&s=19

[67] Xユーザーの丸山晋司さん: 「@FiB761AFXsYm5Hi しかし、最初から早速あかんがな。 後ろから5行目、「『襲国偽僣考』によれば、『中元』と改元した。」(←この表現は不正確。)(ましてや川の名前を挙げるのは「お笑い」...。) 福永氏もそれは認めているはずだから、こういうのをいつまで流すのかねと思う。 https://t.co/ogP0skzyTD https://t.co/nDoScqV93x」 / X, , https://x.com/nemurikappa/status/1711316095859314863/photo/1

[394] 大北卓二さんはTwitterを使っています 「継体天皇は、磐余玉穂宮(福智町金田の稲荷神社)で年号を始めたから、豊国年号と勝手に呼ばせてもらっている。 #福永晋三 #継体天皇 https://t.co/lZQOfvGFdr」 / Twitter (午後0:23 · 2021年2月22日 , ) https://twitter.com/rVH36bSHOifSNuN/status/1363690800563949568

[441] 福永晋三先生の倭(邪馬臺)国=豊国説さんはTwitterを使っています 「通称、彦山流記言われている『彦山権現垂迹縁起抜書』の中に「金光七年「576年」」とある。敏達天皇(第30代)の時代。 九州年号の「金光」である。 一般には最初の元号は「大化」といわれるが、それよりも前。 https://t.co/jkpYAibK1f」 / Twitter (, ) https://twitter.com/rVH36bSHOifSNuN/status/1217970719188869120/photo/1

[66] Xユーザーの新千さん: 「#真実の日本古代史福永晋三 😎もう私は「真実の」と言い換えます。「嘘の通説」と闘う福永氏の話は、近頃は専門的になり過ぎて、説得力が不足気味です。 各即位年:天照大神は前14、神武121、卑弥呼200、神功321、法興(聖徳太子)591。全部北九州。八世紀後半に平安京へ遷都。 https://t.co/7hiI67Ymst」 / X, , https://x.com/WvO2mDKX4hHHhdm/status/1615547829212282880

[192] 福永晋三による豊国・筑紫年号: 九州王朝論の比較, https://morfo9.seesaa.net/article/2021-07-02-1.html

新しい「日本史(古代)」説

[24] 新しい「日本史(古代)」説は九州王朝説の影響を受けながらも違いの多い説です。 天皇家の他に九州王朝という単一王朝の存在を主張する九州王朝説と違って、 新しい「日本史(古代)」説は短期間続いた王朝が多数存在し、 それぞれ元号を使っていたと主張しています。

[46] その主張は著書Webで公開されています。 自論の説明のために様々な文献を引用するなどしてはいますが、 元号のリストは所与のもの(?)でこれと言った検討もされていないようで、 利用期間が自説に合う、合わないで各「王権」に割り振っているように見えます。

[47] 九州王朝説九州年号やその他の先行研究を検討しているようには見えません。 九州王朝説九州年号リストを使っているだけかもしれません。

[25] 日本古代史の復元 -佃收著作集-, 佃收著作集ホームページ作成委員会, , https://tsukudaosamu.com/index.html

佃收氏の九州王権説-既存の古代史批判か古田批判かの二分法を超えて-

既存の日本古代史は記紀の内容と異なるものはほとんど認めないという立場に立ちます。これに対して、既存の日本古代史の矛盾点を鋭く指摘する古田武彦氏の論考からも、多くを学ぶことができました。例えば「九州年号」について、約半世紀前、古田氏は「九州年号」の重要性を指摘しました。これに対して、既存の古代史は「九州年号」を後世の偽作だという立場をとりました。既存の古代史の側と古田氏を支持する側の激しい論争が繰り広げられました。しかし、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘の「法興」や続日本紀の神亀元年冬十月条の記事での「白鳳」と「朱雀」、その他各地での古文書などからも、偽作ではなく、その時代に明らかに流布されていたものであることが確認できます。更に、偽作か本物かの論議を超えて、佃氏は『新「日本の古代史」(中)』、『新「日本の古代史」(下)』の中の「九州の王権」と年号(その一)~(その六)と題する文書によって、「九州年号」を導きの糸として、阿毎王権(俀国)、上宮王権、豊王権、天智王権、天武王権の姿を描き出し、6世紀、7世紀の日本の歴史の輪郭を見事に叙述しています。

[340] はじめに-いわゆる「九州年号」- - 日本古代史についての考察 () http://kodaishi.hatenablog.com/entry/2018/01/03/160340

[36] 75_2.pdf, , https://tsukudaosamu.com/pdf/75_2.pdf

[194] 佃収による九州年号: 九州王朝論の比較, https://morfo9.seesaa.net/article/2021-07-08.html

邪馬台国元号説

[63] 足利成氏云々は、昭和時代中頃の学説。 現在では否定されている。 中世東国私年号

藤原氏改竄説

[116] のブログ記事で主張されています。 >>115

[117] 古代年号奈良時代まで含めた歴史改竄で説明しようとするところに独創性があります。

[133] 他の説はせいぜいが大宝の少し後くらいまで影響が残ったとする程度で、 続日本紀以後の政争による史書改竄は想定しても、 大宝以後の元号それ自体にはあまり手を出さないのが物足りなく感じていました。 こういうのを求めていました。
[139] 僭越ながらもう一手間かけて美味しく調理する助言をさせていただけるとすれば、 続日本紀以後も1年ずれていて改変されているだとか、 が通説とは異なるとかの方向性で創造性が発揮された諸説がありますので、 その辺とも絡ませて発展したのが読みたいですねw 白亀なんかも素材として面白いのにこの種の説で取り上げられることが少ないのは物足りないのです。

[118] >>115 より:

続日本記により、長屋王は王などではないと改竄され、この「大宝」の年号を消し去るためにこの期間に、 他の年号が入れられている。当たり前だけど729年までとは出来ないのです。 701年から729年までには、慶雲、和銅、霊亀、養老、神亀は、いわば藤原氏の私年号である。 天皇側の元号である。続日本記は藤原氏の主張でしかない。

九州年号ともいわれる元号は、 天皇記・国記に記載されていた蘇我氏の私年号であり、これらの年号は 既に使用されていた新羅の年号に対抗するために真似てつくったものであるのですが、新羅より優位の 立場にあった日本としては、新羅の年号使用時より以前に既に使用していたとしたかったため、 天皇記・国記編纂時に作られたものである。

この九州年号とされる年号は、蘇我氏の私年号であると思うのは、これらの年号は継体からはじまり、 天皇との記述があるからでもあります。この蘇我氏の歴史書に合わせて、神社などの由緒を変更 させられたたのです。

九州年号とされる年号が記述されている由緒などには、継体天皇や欽明天皇などと、天皇の呼称が 使用されている。本来は、この時代には天皇なんて呼称はなかったわけですから、これらの由緒は、 天皇の呼称が作られた以降のものである。

藤原が関係する「天皇」たちの即位年、その翌年に改元されています。 王家と対立した、蘇我氏と藤原氏の私年号が、本来の年号と混同されているのです。 九州年号などであるわけない。

厩戸皇子こと、 押坂彦人大兄皇子、日十大王の在位期間が「法興」です。大王に即位した、 593年から624年までです。

法興元年は593年です。天皇記・国記編纂以前のこの「法興」が日本で最初の元号です。

この年号の「法興」は、新羅で初めて年号を使用したとされる、法興王にちなむ。 それは蘇我氏の出自が新羅と関係するからです?

古代から繋がる本来の大王家・・・

押坂彦人大兄皇子(法興)ー茅渟王ー山代王ー孝徳(大化?)ー天武((白鳳) ー高市大王(朱鳥)

-忍壁大王(朱雀)-長屋大王(大宝)

天皇に関しては・・・

推古 ー皇極 ー 遠智娘(白雉)ー斉明ー持統ー元明(和銅) ー元正(霊亀)

有力豪族建元説

[2922] 平成時代日本国静岡県の郷土史家(?)良知貢の説 >>2921:

百済分国元号説

[52] 史実の百済については百済の元号を参照。

[50] 一部の古代年号 (定居, 倭京) と九州で用例がある謎の元号日本列島百済が使ったとする説がありました。 百済年号

[51] 九州王朝説では古代年号九州年号としているので、 それ以外を百済年号としています。 百済年号


[135] 침류왕-응신천황연대기(枕流王-應神天皇年代記) .. : 네이버블로그, https://blog.naver.com/kusulakan/222029662507

참고로 응신천황(應神天皇)의 대법산(大法山)과 가까운 곳, 단생산(丹生山)에 백제 혜왕(百濟 惠王)이 명요사(明要寺)를 세운 것이 단생산 연기(丹生山縁起)에 기록되어 있다. 백제 성왕(聖王) 때인 541년 3월3일의 일이다.

欽明天皇御宇百済国在云童男行者得邇尊者・明要元年辛酉三月三日始開山岳造仏閣

명요사 전승에 의하면 왕자혜(王子惠)의 일족이 단생산(丹生山) 북록에 가람 10여동을 세웠다. 당시 백제연호(百濟年號)를 따서 명요사(明要寺)라고 하였다.

명요사(明要寺)의 명요(明要)가 당시 연호인데, 보통 구주연호(九州年號)라고 한다.

그런데 명요사 전승에서는 이를 백제 연호(百済の年号)라고 한 것이다.

구주연호(九州年號)의 하나인 정거(定居)에도 명확히 백제연호라는 기록이 있다.

百済国定居元辛未年

단, 명요(明要), 정거(定居) 등은 백제 본토의 연호가 아니라, 구주(九州)에서 522년에 무령왕의 7자 선정화상(善正和尙)에 의해 세워진 구주백제(九州百濟)의 연호다.

[54] 明要も参照。​

[136] このブログは、日本書紀に記録された天皇家は百済や新羅の王族で、 朝鮮半島の本国の属国が日本列島にあったという分国論の亜種のような独創的な歴史観を披露しています。

[137] この説では古代年号百済本国の年号と日本列島の百済属国の年号が混じっているそうです。

[138] 日本で伝承としては実在する定居明要百済の関係を拡大解釈している模様。

法興

法興

[98] 蘇我氏の地位については学術的な議論から超古代史陰謀論に属するものまで様々な説があります。

[99] そうした説の中には、法興蘇我氏蘇我氏の一族としての聖徳太子に関連付けて、 天皇家と別個の地位で説明しようとするものもあります。

[100] 法興については九州年号などでも独特の解釈をしていますし、 別王朝説以外でも国粋的な説などネタの宝庫になっています。

[123] >>122, >>116, >>2923

西暦591年クーデター隠蔽陰謀論

[126] >>124

日本書紀は一干支・六十年ずらして描いてある部分がある、いうのは「推古朝こそ原帝紀成立期」池田定道氏の説です。

しかし間に崇峻天皇が挟まっています。この崇峻天皇の役目は用明・推古を切り離すことと、「法興」という年号を消すことにあると思われます。 (崇峻天皇の在位期間を592年の崇峻五年にまで延ばすことにより、591年の崇峻四年を取り込んで「法興」という年号を消した、というのは池田氏の説・p99)

「法興」を消せば、591年に起きたであろうクーデターを消すことができます。

クーデターは591年に起きた可能性が高いと思われますが、585年の乙巳(645年の乙巳の変より一干支前)の時の可能性もあります。

想像するに、585年に内乱が起こり、591年に終結し、そこで年号・法興が制定されたのでしょうか。とすると、前王朝の‘天皇、皇太子、皇子’が全員亡くなったというのはこの六年間のことになるでしょうか。

永昌

永昌

[109] 九州王朝説古田武彦

どういうルールかといいますと、「永昌元年」で始まり「飛鳥浄御原」となっています。これを逆にしても意味は変らないわけです。「飛鳥浄御原」から「永昌元年」に○○を貰ったとしても意味に違いはないわけです。ただ日本語を漢字で並べてあるだけですから、日本語ではどちらを先に書いても、意昧は通じるんです。では何故に「永昌元年」が先にきているかという「尊卑関係」だと私は思うのです。尊いものを上にして、卑しいものというか、より尊くないものを下にもってきている。つまり「飛鳥浄御原」の方より中国の朝廷の方が尊いわけです。だから「飛鳥浄御原」を先頭にもってきてはいけない、「永昌元年」を先頭にしなくてはいけなかったんだろうと思うわけです。この文章を書いた人の意識は「尊卑」の上下関係にもとづいている、という仮説をたててみたのです。

永昌から上下関係を読み解こうとしました。 >>108

[107] 九州王朝説愛好家の中には永昌倭国 (九州王朝説用語で九州王朝のこと) の公文書で使われたと主張する者もあります。 >>101, >>102, >>103, >>106

[180] >>178

長屋王関係の説

[145] >>116

[146] 日本書紀後世改刪説

関連

日本古代の日時, 古代年号, 紀年論

メモ