[2] 延寿 (旧字体: 延壽) や大政は、 奥羽越列藩同盟の元号だったといわれる私年号です。
[3] 奥羽越列藩同盟が改元したとする確実な根拠は見つかっていません。 実在の公年号か、 改元デマから生じた私年号か、 判断が難しいものです。
[4] しかし当時一部でこうした元号が使われたことは事実のようです。
[278] 実利用例があるもの:
[207] 日本の元号の候補として中世頃に延寿はたびたび提案されていましたが、 一度も採用はされませんでした。
[219] 日本国埼玉県入間市に延寿銘墓石が2基確認されています。 >>217
[220] 私年号「延寿」を刻む墓石(1) は、 日本武蔵国入間郡黒須村 (現在の入間市) の医師・寺子屋師匠の小嶋一斎 (小島一斎) の墓石です。 >>218 平成時代の市史は子と弟子が蓮花院に建てたと説明していました >>218 が、令和時代の資料では黒須公民館北側の旧大行寺の墓地にあったものが蓮花院に移転されて無縁塚の中にある、 となっています >>217。
[222] 私年号「延寿」を刻む墓石(1) の左側面に「延寿元年」の文字があります。 >>217
[221] 私年号「延寿」を刻む墓石(2) は、 入間市の鍵山墓地の繁田家の墓域にある森田みつの墓石です。 >>217
[223] 私年号「延寿」を刻む墓石(2) に「延寿元年」の文字があります。 >>217
[224] 森田みつがどのような人物かは情報がなくよくわかりません。 両墓石とも銘文の詳細も不明です。
[225] 小嶋一斎は延寿元(1867)年11月28日没とされます。 >>218 「延寿元年」までは銘文にあるようですが、月日も銘文にあるのか、 それとも過去帳など他の情報から補っているのかはわかりません。 また、延寿元年をに比定した理由も不明です。 しかし平成時代の市史と令和時代の資料のどちらもこれを断言していて、 一切の疑問を挟んでいません >>218, >>217。 干支年があるのか、あるいは他にも確実な情報源があるのでしょうか。
[226] 墓石がいつ作られたのか、つまり「延寿元年」 が使われたのが死去の日からどれだけ経過していたのかも不明です。 (同じ地域の慶応3年、慶応4年銘の墓石が他にあるのか知りたいですね。)
[227] この2つの墓石のうち、私年号「延寿」を刻む墓石(1)はの 入間市史 に掲載されていて、平成時代初期に少なくてもこちらは再発見されていたことがわかります。 延寿が私年号であるとも明記されています。 ところがこれらの墓石は令和時代に至るまで元号関係の論文やウェブサイトで一切紹介されてこなかったようです。
[228] つまり元号研究者らはこの発見を見落としてきたのであり、 入間市側にも元号に詳しい人がおらず持て余してきたようなのです。 平成時代の 入間市史 の「延寿」の解説はどう見ても (私年号としてでなく) 一般論としての「延寿」という語の説明に、 私年号全般の説明を足したもので >>218、 「私年号の延寿」の説明として頓珍漢なことになっています。 令和時代の審議会も、 よくわかっていない人達同士で議論になっていません >>217。
[229] 令和3年の審議会では、調査が不十分であるとして継続審議になり、 文化財には指定されませんでした。 >>217 そして令和5年の第1回審議会までの時点で文化財指定の再提案は行われていないようです。
[230] 令和3年の審議会で委員長は、
私年号の研究が進んでいった際に珍しいものではなくなること も考えられるため、詳細な調査をしていくべきだと思います。
とまとめています。 >>217 一般論としてはまあその通りですし、詳細な調査は是非とも行っていただきたいのですが、 前段は重大な認識ミスと言わざるを得ません。
[231] なぜなら、延寿の金石文用例は令和5年末時点でもこの2件だけです。 この報告以前はまったく知られておらず、延寿の私年号の実在も疑われていました。 この2件の墓石はそれを実証する貴重な史料です。
[232] しかもこの2例の延寿は従来説のではなくとされています。 紀年法が1年ずれるのは、 それ単体でも重大な新発見であるのは言うまでもないのですが、 延寿についてはとりわけ重要な意味を持ちます。 慶応3(1867)年10月14日の大政奉還の奏上、 慶応3年12月9日の王政復古、 慶応4(1868)年1月3日という時代の流れの中で、 慶応3年11月に既に延寿が使われていたとすると、 慶応4年5月成立の奥羽越列藩同盟と関係づけた従来説は全面的な見直しを迫られます。 ひいては戊辰戦争や東北政権の政治思想史的解釈にも新たな材料を提供することになりそうです。
[233] こうした「延寿」研究史上の転換点となり得るこの2件の墓石の重要性は、 たとえこの先新たな資料が追加されていくとしても、 決して減じるものではないはずです。
[234] 入間市の関係各位におかれましては、 この貴重な文化財の保護と本格的な学術調査のため適切な措置を講じられるよう、 よろしくお取り計らい願いたいものです。
会 議 録(1)
会 議 の 名 称 令和3年度 第1回入間市文化財保護審議委員会 開 催 日 時 令和3年10月1日(金) 午前10時開会・ 午前11時45分閉会 開 催 場 所 入間市博物館 会議室 議 長 氏 名 鹿島 英明 出席委員(者)氏名 鹿島 英明 枝窪 邦茂 栁澤 かほる 梅津 久昭 荒牧 澄多 小峰 孝男 児玉 俊雄 説明者の職氏名 博物館主幹 大久保 卓 事 務 局 職 員 職 氏 名 ・教育部部長 浅見 嘉之 ・教育部次長 片寄 貴之 ・博物館館長 加藤 保夫 ・博物館副館長 澤田 和也 ・同主幹 大久保 卓 ・同主事 中村 祐太
決 定 事 項 3 議 題 (1)新規指定文化財の候補について 前回の書面開催の際に推薦のあった4件の候補に、新たに2件を加え た計6件の文化財について審議を行った。継続審議となっている「出雲 祝神社本殿」と併せて、引き続き調査を行っていくこととなった。
№2「私年号「延寿」を刻む墓石(1)」
№3「私年号「延寿」を刻む墓石(2)」 事務局 (1)は元々黒須公民館北側の旧大行寺の墓地にあったものですが、蓮花
院に移転され、今は無縁塚の中にあります。墓石は、小島一斎という人 物のもので、左側面に延寿元年の文字が確認されます。(2)は鍵山墓地の 繁田家の墓域の中にあり、森田みつという人物の墓石に延寿元年の文字 が確認できます。繁田家と森田みつとの関係性は今のところ分かってお りません。延寿元年は慶応3年(1867年)だと考えられます。なお、 私年号の研究はそれほど進んでいないため、現時点で「延寿」という私 年号がどの程度波及していたのかも分かっていません。 枝窪委員 私年号の位置づけを教えてください。
事務局 私年号とは国家とは違った思想を持っていた人が使っていたと考え
られますが、延寿はそもそも研究自体進んでおりません。一説には幕末 から明治にかけての奥羽列藩同盟の支持者が刻んでいたという説もあ りますが、明確なことは分かっておりません。 小峰委員 中世、特に南北朝時代の金石文には私年号が散見することもあります
が、近世ではあまり例が多くないため、近隣地域の研究や例をもう少し 調べてみてはどうでしょうか。 鹿島委員長 後に私年号の研究が進んでいった際に珍しいものではなくなること
も考えられるため、詳細な調査をしていくべきだと思います。
[253] 広島藩の公認武装グループで戊辰戦争に明治政府側で参戦した神機隊の構成員清原源作の 関東征日記 の表紙に、
干時 延寿元年
関東征旧記
戊辰 三月十五日
[254] この資料はに再発見されたとされ >>250、 日本国広島県の郷土史家が所蔵するとされています >>248。 表紙、裏表紙と思われる写真が Web で公表されています >>248, >>240。 表紙と思われる写真が >>326 に収録されています (がサイズはそれほど大きくありません)。 一般公開されたことがあるかは不明で、 少なくても令和5年現在ウェブ上で内容の詳細な情報は見当たりません。 ウィキペディアでこれを参考文献に挙げる記事もありますが、 入手方法は記載がありません。
[255] この 関東征旧記 に関するウェブ上の情報は、 専ら小説家の穂高健一や、 穂高健一と親密な広島の歴史愛好家グループの関連サイト・SNS にあります。 神機隊についての情報も、ウィキペディアのものも含め、 このグループの関係者によるか、その著作を参考にした記述と思しきものが大量に見つかります。 (国会図書館デジタルで検索すればそれより古い、 他の研究者によると思われる記述も見つかりますが。)
[256] このグループは戊辰戦争前後の広島藩関係者の活躍の顕彰に強い関心を持っているようです。 そしていわゆる薩長史観と明治政府に対してはあまり好ましく思ってはいないようです。 かといって江戸幕府や奥羽越列藩同盟に心を寄せるわけではなく、 薩長の影に隠された広島の活躍を良しとするのを基本に、 そのため必要なら佐幕派にも注目し薩長は非難するという立ち位置にみえます。 穂高史観と称する穂高健一の独創的な世界観の歴史小説は、 このグループの活動を精神的に取りまとめているようです。 関東征旧記 を所蔵するという郷土史家も、このグループのメンバーなのでしょうか。
[330] 穂高健一らはなぜか元号名を旧字体の延壽表記にしています。 ウェブページだけでなく小説でもです。 他の語は新字体なのに、延寿だけを旧字体にする理由は不明です。 関東征旧記 表紙の「延寿」の「寿」は楷書よりやや崩れた字形ですが、 あえて言うなら新字体の「寿」に近いように思われ、 わざわざ旧字体にする必要性は感じられません。
[257] 関東征旧記 は貴重な史料と見受けられ、 このグループもそれは認識しているようです >>247, >>238, >>249 が、 内容が写真などの形で広く一般公開されていないとすると、 第3者が独立に検証できません。 この史料が活用されないまま埋もれていくのはこのグループの活動目的にもそぐわないでしょうから、 早期の状況改善を期待したいものです。
[259] さて、 ウィキペディアによると神機隊は慶応4年の3月15日ないし17日に広島を出発し、 5月の上野戦争に参戦しました。 >>258 先述 (>>255) の通りウィキペディアの記事の内容が他の独立した史料で確認し得るものなのかは不明ですが、 一応件の日記表紙の紀年はこの出発の日を表しているとみなせます。 この表紙の日付が出陣の際に書かれたものなのか、 それともその後のいつかの時点で遡って書かれたものなのかはわかりません。 関東征旧記 には3月15日の志和 (東広島市) 出陣とあるようです >>326。 ともかく慶応4年のある時期が延寿元年だという認識が、 明治政府側勢力の中に一時は存在していたということにはなります。 (日記の内容が分析できれば、もう少し断定的なことも言えるでしょうか?)
[260] 神機隊が慶応4年3月に延寿を使ったとすると、 これは何を意味するでしょうか。 このとき広島藩は戊辰戦争に直接参戦しませんでしたが、 藩が設立した神機隊が私費で参戦することは認めました。 5月に神機隊は明治政府側と連携して上野戦争に参戦しました。 この間神機隊が明治天皇を奉じて明治政府に賛同する立場で公然と活動したのは明白で、 佐幕派の私年号を使ったり、独自の私年号を建てたりするとは考えられません。
[261] 穂高健一の歴史小説とブログでは、 即位礼も元服もしていない明治天皇は正式な天皇として認められず、 その間に東日本で東武皇帝が即位し延壽の元号が使われており、 明治政府はこの歴史的事実を隠蔽した、 ということになっています。 穂高健一の歴史小説 紅紫の館 の あとがき では、 穂高健一のウェブサイト記事とほぼ同内容の執筆の経緯等がまとめられています。 >>326
[327]
これは作中設定ではなく史実だと主張しているように見えます。
奥州、関東、広島で使われていたのだから、
全国に共通する元号だったと主張しています
>>326。
明治政府側で参戦した広島の神機隊ですら延壽を使っているのがその証拠となっています
>>248。
そして明治時代に意図的に延寿が消されたことに
「
[262] この独創的な歴史観の中で延寿と東武皇帝や奥羽越列藩同盟を結びつけた根拠はよくわかりません。 奥羽越列藩同盟が延寿と改元した(噂がある)という従来説だけがその根拠だとすれば、 歴史小説の設定の根拠には十分でも、 学説の根拠というには脆弱です。
[263] 鳥羽伏見の戦いの後とはいえ、江戸城もまだ開城するかしないかの3月というタイミングで既に広島に延寿があったなら、 例えば慶応3年の私年号 (改元デマ) の天政のように京都が発信源の可能性すら出てきます。
[6] 日本下総国相馬郡柴崎村 (現在の千葉県我孫子市) で慶應4年閏4月から5月に領主の旗本新見氏に宛てられた願書4通に、 「延寿元年」 とありました。 >>60
[356] 柴崎村は江戸と水戸を結ぶ水戸街道に面し、 利根川近くに位置していました。 下総国のこの地域一帯 (現在の千葉県北部) は幕府領、旗本領や藩領飛地などが混在していました。 柴崎村は旗本の新見家、初鹿野家、代官所の分郷支配でした。 >>273
[357] 幕末には、 天狗党の乱 (水戸藩領を中心とした尊王攘夷派の武装蜂起事件) や江戸開城前後に江戸から脱出した旧幕臣など多くの勢力が水戸街道を行き交いました。 沿線の村々は助郷役や天狗党の資金徴収などで経済的負担を強いられるとともに、 治安も悪化の一途をたどりました。 >>273
[358] そうした中、柴崎村では村政運営を巡った対立が続いていました。 領主の新見氏の仲介による和解交渉も難航しました。 延寿が使われた一連の文書は、示談の合意を村役人らから領主へ提出する形で記述したものでした。 >>273
[359] 1通目は村内対立で発生した助郷拒否問題で関係者が江戸に出府した際に、 帰村の許しを願ったものです。 慶応4年閏4月18日から27日のものと推定されます。 >>273
[362] 2通目は慶応4年閏4月28日に名主の磯右衛門が帰村した後、 示談内容をまとめて村役人小前一同に連印を求めたものの、 過半数に拒否されたものです。 >>273
[365] 3通目は合意がまとまらないことを村役人百姓代連名で領主に報告したものです。 4通目は名主らが領主に提出したものです。 >>273
[369] 延寿が使われたのはこの4通だけのようですが、 その後いつ慶応ないし明治に変わったのかは不明です。 慶応4年5月28日付けで新見家用人から磯右衛門への書簡がありましたが、 まだ折衝の不調は知らなかった (>>366 >>367 が未達だった) ようです >>273。 その後も新見家と柴崎村のやり取りや、 他と柴崎村とのやり取りの記録は残っているようです (がどのような紀年なのかは論文にありません)。
[375] これら4通の用例は、 に日本国千葉県我孫子市の歴史研究者で地方公務員の高木繁吉によって報告されました。 >>273
[377] 高木繁吉は、 日本私年号の研究 の延寿の解釈をベースに、 当時よく知られるようになってきていた大政 >>320 >>336 >>335 >>376 も鑑みて、
輪王寺宮を
奥州越 同盟の盟主としてむかえた情勢の展開をふまえて「延寿」をより 一段高度に発展させたといえる私年号が「大政」とみてよ いことになるだろう。
と理解していました。 >>273
奥羽で発見されず、江戸周辺の旗本領名主が領主に宛て
た、閏四月から五月の、しかも村方騒動についての願書の 中に記録されていたことは、ともかく重要である。当時の 関東情勢の、特に民衆レベルもふくめたより具体的な把握 のなかで「延寿」の検討が求められることになるからであ る。 閏四月から五月にかけ奥羽の最大関心事は会津の処遇で
あったろうが、一方、関東の最大の関心はやはり徳川家の 処分問題である。この奥羽と関東の二様の情勢のなかで、 私年号「延寿」の究明を今後、民衆史的手法をももって具 体的に検討してみることは、久保教授の結論をより豊かに 肉付けし、発展できるように思える。また、それは関東奥 羽の維新史解明にとっても意味あるべきことと考える。
と問題提起しています >>273。 この資料の私年号研究上的な意義はまさにこの一文に集約されるのであって、 その後平成時代を通じて未着手のまま放置されたのは遺憾の極みであります。
[373] ところで、本件とは無関係ですが、 自由自治の私年号史に関係する色川大吉と高木繁吉とは学派的なつながりがありました。 >>374
[382] に日本国千葉県の歴史研究者筑紫敏夫は、 延寿は奥羽諸藩の改元の風聞をもとに幕府直臣の旗本あてに使用したものとみられ、 大政と共に旧権力側が新政府側に対抗して用いた私年号であって、 農民層にも浸透していたのが興味深いと紹介しました。 >>381 新資料の紹介のない、根拠の説明もない簡単な紹介に過ぎないのですが、 風聞であっても旧幕府側で実在したものが武家から農民にも広まったと理解していたようです。 農民が旗本相手だからと意識的に使用したかのようなニュアンスも感じられる紹介です。
[272] に日本国福岡県古河市の文化財行政担当の井英明業務主査は、 農民の延寿用例の出現から、昭和時代の反政府的な私年号のイメージとは違う 「素朴」な利用像が想定されると指摘しました。 >>273
[71] 慶応4(1868)年5月17日付 中外新聞 第37号に、
年號延壽と改元ありしとの風聞盛なりと雖も未確証を得ず
とあります。 >>64
[78] そしてその直前の段落には仙台藩関係の記事が、 直後の段落には5月1日の白河城方面の戦況の噂の記事があります。 >>64
[72] 日本私年号の研究 は、この3つの記事と、その直前に
元号を延寿に改めらるゝとの噂󠄁
と見出しがあるのを引いています。
>>56 pp.
[79] >>64 の本にはこの見出しがなく、3つの段落となっています。
>>64
一方日本私年号の研究の引用には見出しがあって、
仙台藩記事と改元噂記事が合わせて1つの段落になっています。
>>56 pp.
[73] 中外新聞 は慶応4(1868)年2月24日に幕臣により江戸で創刊された日本初の民間新聞でした。 別段中外新聞 は号外のはじまりとされています。 しかし慶応4年6月8日に明治政府により発禁となりました。 (翌年復刊。)
[74] 江戸の開城が4月、 上野戦争が5月15日のことでした。 5月は未だ明治政府の江戸の民政を掌握しきっていない時期ゆえに発行が続けられていたということでしょうか。
[75] 改元の噂が掲載されたのは5月17日付号で、 上野戦争で彰義隊が敗北して軍事的に明治政府が江戸を制圧したまさに直後となります。 「噂」が広まったのは上野戦争の前後、どちらのことだったのでしょう。 噂の「改元」の主体はどこだったのでしょう。
[80]
日本私年号の研究
は、
中外新聞
を引いて、
5月17日以前に改元の風説が仙台方面にあったものか、と推測しています。
>>56 pp.
[81] 仙台藩記事の冒頭は慶応4年5月12日付遠近新聞を引いています。 参照されている遠近新聞記事 >>77 には改元に繋がりそうな記述はありません。 中外新聞はそこから話を展開していて、 すべてが遠近新聞からの引用ではないようですから、 断定はできませんが、 しかし話のつながりからも改元の噂は独立した記事のようにも読めます。
[82] 直後の段落が5月1日の白河方面の戦況の風聞の記事です。 時代が時代、しかも内戦中で、遠隔地の正確な情報は伝わりにくいことには注意が必要です。 前段の仙台藩記事も噂の出所は江戸の藩屋敷です。 仮に仙台方面から改元の噂が伝わってきたとするなら、 それもかなり日が経っているとみなければなりません。
[70] 早稲田大学がウェブ公開している 中外新聞 資料のほとんどはこの日と同じように慶応の年月日を書いていますが、 上野戦争翌日の 別段中外新聞 >>69 の1件だけ 「戊辰五月十六日」 と干支年表記になっています。 これはたまたまでしょうか、あるいは「別段」なので他と違うのでしょうか。 それとも思う所あってのことでしょうか。
[83] に編纂されに刊行された編年史書 嘉永明治年間録 の5月条の日あり記事の後の日なし記事で、
奧羽ニ於テ攺元ノ說
年號延󠄅壽と攺元ありしとの風聞盛なりと雖も未だ確證を得𛁏゙
[86] 本書は明治2年に稿本が成立しましたが、 明治3年に編者が死去しました。 明治4年に勅命により浄書献上されたものの、宮城の火災により焼失。 草稿の写本がいくつかあったといいます。 そして唯一刊行されたのが、後に昭和43年に再刊されたものだとのことです。 >>62 それが国会図書館デジタル所蔵の明治16年本 >>57 ということになります。
[84] に再刊された際の解題は、 本書が原資料をできるだけそのまま収録していることを指摘し、 しかも偏向なく幅広く採録していることを称賛しています。 その具体例として、この延寿の記事を紹介しています。 >>62
[88] 著者の吉野真保は日本武蔵国埼玉郡の生まれで、 資料を収集と本書の編纂に人生を費やしました。 >>62 吉野真保が当時どこで何をしていたのかは定かではありません。 少なくても江戸の情報をよく入手できる環境にあったのは確かですが、 改元の噂に自ら接したのか、資料によってのみ知り得たのかはわかりません。
[89] 本書の改元噂記事のうち、 本文は 中外新聞 (>>71) とまったく同じです。 従って、 本書には明記されていませんが、 中外新聞 が本文の出典と考えて間違いないでしょう。
[90] 見出しは 中外新聞 にはありません。 「奥羽において」 とはいかなる根拠で書かれたものでしょうか。 中外新聞 以外の資料にあったのでしょうか。 あるいは編者が自ら聞いた噂なのでしょうか。 それとも 中外新聞 の記事から奥羽の話だと推測したのでしょうか。
[87]
日本私年号の研究
は、
「
慶応四年五月二十四日奥羽ニテ改元セリトノ風説アリ
[91] ところが >>87 は 嘉永明治年間録 と明らかに違います。 同趣旨ですが短く要約された形になっています。 そして 嘉永明治年間録 には月までで日がありません。
[93] 嘉永明治年間録 には日が明記された記事と、そうでない記事があります。 改元噂記事の場合は月末ですが、日あり記事と日あり記事の間でも日がない記事があります。 同じ日が書かれた記事がないように見えるので、 日なし記事は直前の日あり記事と同じ日の記事であるとも考えられますが、 どうもそうとばかり言えなそうな記事もあります。 月初から日なし記事の月もあります。 従って日なし記事が直前に書かれた日と同じかどうかはケースバイケースで判断が必要と思われます。 そして改元噂記事の場合、直前が24日です。ということは >>87 は 嘉永明治年間録 の改元噂記事を直前の日付である24日の出来事と判断した結果の可能性が高いといえます。
[92] 果たしてこれはどういうことでしょう。 日本私年号の研究 は昭和42年の刊行なので、 久保常晴はその時点で昭和43年の再刊本を見れていません。 昭和43年以前は明治刊本といくつかの写本があったようですが、 入手は困難だったと思われます >>62。 しかし久保常晴が在籍していた立正大学の図書館 OPAC によると同館は現在、明治刊本を所蔵しています。 昭和42年当時も所蔵していたかは不明ですが、 他の大学等にも所蔵はありますから、 存在を知っていればいずれかは閲覧できた可能性が高いといえます。 ところがそこには >>87 はないのです。 では明治刊本と内容が違う >>87 のような写本(抄本?)があったのでしょうか。
[8] この >>87 の文章は、現在の所国会図書館デジタル、 Google検索、 Google Books のいずれで検索しても 日本私年号の研究 の孫引き以外を発見できません。
[94]
日本私年号の研究
は、
>>87
を紹介し、それに「
[95] 日本私年号の研究 が仙台方面で改元の噂があったと判断した (>>80) のは、 >>87 の影響も大きいと考えられます。 しかし記事本文の出典は明らかで見出しの出典は不明となると、 見出しにしかない「奥羽で」改元という情報を信頼して良いのかどうか、 不安が出てきます。 「改元あり」の噂が慶応4年の江戸にあったという所まではよいとして、 「仙台ないし奥羽で改元あり」の噂があったのかは他の材料を加えて慎重に判断した方が良さそうです。
[107] 日本私年号の研究 は、 この延寿の発生の理由を、
と2つ挙げています。 >>56 p.
[105] 理由の1つ目は「噂」であるとしており、 2つ目は奥羽越列藩同盟が建元したと言っているので、 両立しません。これについては、
これは単なる噂󠄁であって、しかも噂󠄁発生のもとは東北地方である。しかしもし事実であれば、
とある >>56 p.
「延寿」は奥羽地方で建元された噂󠄁に止まるが、その建元者は明治維新の際の旧幕府軍であり、
とまとめられ
>>56 p.
「延寿」は明治維新の際、官軍と一戦を交えんとした幕府方=奥羽諸藩の同盟軍の指導者たちの間で採択され
たもので、
とまで書かれていて
>>56 p.
[111] これは
資料的にはあくまで噂󠄁の域を出ないことは留意すべきである。
と釘を差しつつも、
ただ、敗者の資料は隠滅される場合が
多いこと、榎本武揚らによる共和国宣言のことや戊辰の役の諸事情を考えるとき、会津藩を中心とうる奥州諸藩の連 盟軍の間に年号改元のことがあったとしても、無理なく理解されるのである。
という理由から来る判断のようです。
>>56 p.
[1]
日本私年号の研究
は実在説を取る場合に、
東北地方での噂ゆえ、
建元し利用したのは奥羽越列藩同盟と推定してほぼ誤りあるまいとしています。
>>56 pp.
[110]
日本私年号の研究
はまた、
江戸時代の元号で「延」は4回も使用されているのに対し、
「寿」は1回もないことから、
「延」は慣用例を受けたものとも考えられるのに対し、
「寿」は建元者の理想を率直に示したものと受け取れると分析します。
そして「延寿」には
「徳川幕府の寿命を伸ばす」、
「幕府の永続」、
「徳川幕府の永続・延命」 >>56 p.
[206] 平成時代後半の 近代諸元号現象は、 日本私年号の研究 を引いて延寿の改元の噂があったとしながら、 徳川将軍に代わる正統性を確保せねばとの列藩同盟の焦りが組織の末端や噂にまでにじみ出たものであるとし、 旧幕勢力の寿命が延びるようにとの願望がストレートに表現されたと解釈しています。 >>187 #page=676, >>188 #page=4
[85] 昭和再刊本の解題は、 奥羽2州では慶応4年に延寿の年号を使用していたとの高い風聞があることが記載されているとしています。 そして延寿は短期間の私年号にせよ、奥羽諸藩が朝命に抗拒する意思はなく、 君側の奸を除いた暁には奏請して公年号にしようと考えていたのかもしれない、 または明治は薩長および同調諸藩が奏請して採用されたものとしか考えていなかったのかもしれない、 との見解を示しています。 >>62
[97] 面白い説ですが、 私年号を勝手に使い始めて公年号採用を目指すというのは東アジアの歴史上前例がないのではないでしょうか。 なお、明治は9月の改元なので延寿の噂の時点では存在せず、後段は成り立ちません。
[388] に瓦版研究者の平井隆太郎は改元デマ事例集の記事を雑誌に掲載しましたが、 中外新聞 から 「年号延寿と改元ありしとの風聞盛なり」 を引いて、明治改元から4ヶ月も前にデマがあったとしています。 このデマは瓦版にはならなかったとも書いています。 >>394
[99] 慶応4年閏4月末頃の時点で、上野の彰義隊の方面では輪王寺宮を擁立する構想があったとされます >>98。
[100] 改元の噂がちょうど上野戦争と同時期に流れているのは、 輪王寺宮の即位の噂とも無関係ではないかもしれません。
[101] 逆に、未だ輪王寺宮が上野にいる5月初めの段階で仙台なり奥羽なりで改元するというのも、 何の大義名分もなく不審です。 まあ「噂」なのですから細かい辻褄は合っていなくてもいつの間にか流れているものなのかもしれませんが、 噂の信憑性を高める背景が整っている方が広がりやすそうなものです。
[112] 大正6年に編纂された 大館戊辰戦史 は、 戊辰戦争中、奥羽越列藩同盟を裏切った秋田藩 (久保田藩) 領の大館に盛岡藩 (南部藩) 軍が侵攻した大館戦争を記述した箇所で、 大館城落城 (慶応4年8月22日) の際に城内にいたという秋田藩兵山本八十吉の話 (おそらく本書編纂時の聞き取り) を掲載しています。 >>20
[138] それによると、 盛岡藩将楢山佐渡は扇田村において、 今より延壽元年と年号が改まるなどと伝達した(という情報が流れてきた?)のだそうです。 >>20
[113] 楢山佐渡は南部藩の家老で、 戊辰戦争では南部藩軍の指揮を取り、 大館戦争でも大館城へと進軍していました。 (戊辰戦争の敗戦後に処刑されました。)
[114] 秋田藩領扇田村は南部藩領から大館城へ向かう途中にあり、 南部藩軍は慶応4年8月20日 >>124 ないし11日 >>19 に占領したとされます。 するとその改元の布告があったのも、その頃ということになるのでしょうか。 それとも文脈に従って落城後に扇田村でそう布告したと解釈するべきなのでしょうか。
[115] 本書は現在知られている中で延寿の東北地方における初出です。 そして現在知られている唯一の大日本帝国期の東北地方における延寿への言及です。 東北諸藩を裏切って明治政府側に付き勝者となった秋田藩側の戦史が最古で唯一の記録というのは、 考えさせられる点であります。
[116] の大館市史にもこの改元の記述があります。 この大館市史は史書を称しながらも物語調で不安を感じますが、 それによると、
のだそうです。
>>16
大館戊辰戦史
以外の出典は曖昧で、にも関わらず情景が目に浮かぶように丁寧に描写され、
「
[120] 「延寿元年八月二二日」の「二二」は本書の編纂方針による漢数字表記と思われ、 布告書の原文表記ではないと考えられます。
[121] 大館戊辰戦史 では扇田村で布告されたという内容が本書では城下と扇田で同時に同内容が布告されたとなっています。 根拠があってのことなのかはわかりません。
[122] 大館戊辰戦史 によると山本八十吉は落城の際城から脱出したというだけで、 その後どこに行ったのか定かではありません。 そのため扇田村での布告をいつどこで知ったのかは不明です。 ただ、扇田村で布告したと証言し、大館城で布告したとは言っていないことには注意が必要でしょう。
[134] 日本語版ウィキペディアは、この改元の布告に関して 大館市史 を全面的に採用して解説しています。 ただし、
改元の件は『大館戊辰戦記』に記述があるが、これは伝聞であり、盛岡藩の国元でも改元の形跡はなく本当の話か疑問であるとする意見もある。『ほくろく戊辰戦記』より。
と注釈しています。 >>124
[125]
の比内町史には、
扇田郷での南部藩軍の動向が詳しく記述されています。 >>19
比内町は当時の扇田の領域を含んでいて、
平成の大合併後は大館市に属します。
比内町史
も物語調で出典がよくわからない記述が多いですが、
出典が明記された史料も時折挟んでいて、
その部分はいくぶん信頼できそうな感じがあります。
しかし改元関係の部分は残念ながら出典がよくわからない記述に属します。
「
[126]
比内町史
によると、
慶応4年8月10日 (の夕7つより後?)、
楢山佐渡は、目付参謀藤根直機に扇田郷中の村役を集め、
布告書を朗読させ、
高札として主要箇所に立てることを命じました。その布告書には、
「
[127] 比内町史 は改元について少し注釈を加えています。 奥羽越列藩同盟の成立以前から大政を用いる藩はあったものの、 延寿は南部藩だけのものかもしれないのだそうです。 しかし誰の発案でどんな経過なのかは明らかではないのだそうです。 >>19 そしてこの記述が何を根拠として書かれたものかも明らかではありません!
[128] 奥羽越列藩同盟の成立は、 慶応4年の5月3日の盟約成立ないし 6日の追加の藩の加入とされているようです。 それ以前に大政を使った藩があったとする説は他書に見えません。
[129] 延寿が南部藩だけかもしれないという記述から、 この筆者は日本私年号の研究の仙台方面説は知らなかったと考えられます。
[130] 比内町史こぼればなしは、 比内町史 と同じ町史の編纂室が同じ年のうちに発行したものです。 >>15 こちらは完全に歴史物語 (歴史小説) の体裁になっており、 どこまで根拠があるものか大変怪しいものです。 しかも内容は 比内町史 と微妙に矛盾するようにも思われます。
[131] 比内町史こぼればなし によると、 慶応4年8月11日に南部藩軍は扇田郷の者に対し、 高札用の文面を手渡して掲示を指示しました。 漢字に少しだけ仮名が混じった変体漢文のそれっぽい具体的な文面が掲載されていますが (原典あってのものかは不明)、 大館市史 や 比内町史 のいう布告とは違って免税だけで改元には触れていません。 >>15
[132] そしてその指示とちょうど同じ時刻に南部藩軍の本隊が山崎 (扇田の地名) まで進軍していたとされます。 沿道には「南部領地」と大書きした標木を打ち建て、 「延寿元年八月十一日」 と書かれていたのだそうです。 >>15 この書き方ではいまいちよくわからないのですが、 南部藩の本隊が標木を打ちながら進軍していたということでしょうか。
[133] 「南部領地」 の標木については 比内町史 にも記述がありますが、 紀年は本書独自の記述で、根拠はやはり不明です。 住民は年号が変わっていると驚いたようなことも書いてあります >>15。 この世界では改元の布告がなく突然新元号が登場していたということでしょうか。
[136] これらの史書がいうように改元の布告書が配布されたというなら、 一時は各村に布告書の原本や写本があったはずですから、 そのうちのいくつかは現存していてもよさそうなものです。 その後しばらくの南部藩統治下で作成された村方文書にも、 延寿元年と書かれたものがあったでしょうから、 少しくらいは現存していてもよさそうなものです。 しかしそうした情報がどこにもないのはどうしたことでしょうか。 すべてその後の戦闘で焼かれたというのでしょうか?
[137] また、布告の内容と発せられた場所・時期が各書まったくばらばらなのはなぜでしょうか。 さすがに何の根拠もなく好き勝手に足りない情報を補って文章を盛ったということはないと思いたいのですが...
[157] 常識的に考えて市史、町史の編纂時に地元の旧家などに残存する文書を精査しているはずで、 そこに「延寿元年」と書かれたものがあったなら、 それが「延寿」の根拠となる貴重な資料として掲載されているはずです。 それが何もなく、市史・町史の編纂後も現在まで他の研究者による報告も一切でてこない、 という現状は深刻に受け止める必要があります。
[158] また、 >>134 に指摘がある通り、 大館地域に限らず南部藩領内でも「延寿」は発見されていません。 南部藩から南部藩軍本隊が侵攻してきて占領地を南部藩領に編入したというとき、 南部藩本土で実施されていない新元号を新領地でだけ施行する理由はあるでしょうか。
[159] 今後何らかの信頼できる資料が新たに発見されない限りは、 南部藩延寿改元説は改元デマと理解せざるを得ません。
[160] 大正年間に笹島定治や山本八十吉がこのような改元デマを流布する動機はなく、 大館戦争で混乱した状況で広まった改元デマと考えていいのではないでしょうか。
[161] 延寿という元号名がどこから出てきたのかは問題です。 江戸の延寿の噂とまったく無関係とも思われませんが、 地理的にも時間的にも離れすぎています。 自然に徐々に広まったにしてはやや不自然感があり、 中間を埋めるような新史料の発見が望まれます。
[162] 改元の噂だけがあった、または元号名は別なものだったのが、 戊辰戦争終結後の明治時代から大正時代の間に山本八十吉が何らかの形で江戸の延寿の噂を知って、 記憶が書き換わってしまった、という線も考えられないことではありません。 ただ江戸の延寿の噂を収録した書籍は当時それほど広まらなかったと思われ、 そのような機会があったかは疑問が残ります。
[166] 6月に奥羽越列藩同盟が大政と改元した、 または改元する構想があった、とする記録があります。
[104] 読みは「たいせい」 >>28, >>7 (Taisei >>352) とされます。その根拠は不明です。 大政奉還からの類推でしょうか。
[167] この説は昭和時代中期から平成時代にかけて発見が続く東北朝廷閣僚名簿と呼ばれる資料群に 「大政」 の元号が書かれていることによるものです。 >>151 資料によって微妙に異なりますが、 6月15日か16日の日付があって、 大政と改元するとの記述があります。
[342] に武者小路穣が菊池容齊文書 (>>320) を紹介して世に知られるようになりました。 に遠藤進之介 >>25 が初めて学問的評価を与えました >>335。
[146] 孤立した史料ゆえしばらく持て余されていたともいわれますが >>331、 に異本が蜂須賀家文書 (>>336) で発見され、 史料の重要性が広まりました。
[143]
蜂須賀家文書を報告した鎌田永吉は、
昭和40年時点では
「
[320] 菊池容齊文書 (菊池容齊筆録の幕末関係文書) に東北朝廷閣僚名簿の1種があります。 半紙2枚に墨書したものが袋綴じされています。 >>139
[321] 昭和時代中期に歴史研究者武者小路穣が再発見し >>139、 大政の元号が学界に知られることになりました。
[322] 武者小路穣の報告には翻刻が次のようにあります >>139。
慶応四辰六月十六日於奥州
改元 大政元年ト成
[141]
第2丁裏に、「
[324] 改元日とされる日から約2ヶ月後の慶応4(1868)年8月15日までにこの資料を閲覧して書き写したということになります。
[323] 菊池容齊は日本武蔵国江戸で下級武士の家に生まれましたが、 江戸時代後期に画家に転じました。尊王派の歴史画家として知られます。 戊辰戦争当時どこでどのようにこの資料を得たのかは定かではありません。
[336] 日本の文部省史料館所蔵蜂須賀家文書に東北朝廷閣僚名簿の1つが収録されています。 >>335 改組により現在は国文学研究資料館の阿波国徳島蜂須賀家文書に収録されていると思われます。
[338] 蜂須賀家史編集資料の1つとして作成されたと思われる仮和綴じ本に5頁にわたり記載されています。 >>335
[337] 歴史研究者鎌田永吉の論文に全文の翻刻があります。 冒頭に次のようにあります。 >>335
奥州改元
大政元年六月十五日 御即位上野御宮事
[345] 鎌田永吉はの論文でこれを紹介しましたが、 >>25 を引用しつつ差異だけを指摘していました。 >>343 に改めて全文と考察を発表しました。 >>335
[341] 蜂須賀家は徳島藩主の外様大名です。 養子のため血統上は徳川家の子孫でした。 戊辰戦争は明治政府方で参戦しました。 蜂須賀家が東北朝廷閣僚名簿をいつどこでどのように入手したのかは不明です。
[295] 日本国埼玉県鶴ヶ島市大字上広谷の長峰栄市家に伝わる日光屋文書の仮称 戊辰戦争資料 >>296 は、 東北朝廷閣僚名簿の1つです。草書漢字文で、その冒頭に次のようにあります >>296。
奥州年号改元
大政元年戊辰六月十五日
日光御門主様御事
[297] この資料は昭和時代後期に日本国埼玉県入間郡鶴ヶ島町町史編さん室が実施した家別の文書目録作成の予備調査で発見され、 の紀要で報告されました。 包紙は失われて差出人や宛先は不明です。 >>296
[298] 長峰栄市家の屋号は日光屋で、 祖先が日光輪王寺宮に仕える青侍だったという伝承があります。 >>296 (>>299 p.43)
[307]
日本の国立公文書館所蔵
記録材料・新聞鈔・完
は「
[308] 冒頭に
辰七月廿二日奥州ヨリ傳聞
改元 大政元年六月十五日 御即位
[309] の太政官は京都に置かれていました。 これも京都の太政官の記録でしょうか。
[310] 慶応4年6月15日の即位改元の情報が、 慶応4年7月22日に太政官に伝わったということになります。
[311] どこからの「伝聞」かは不明です。 奥州の明治政府側勢力から伝えられたのでしょうか。 それともバケツリレー式に噂が伝わってきたのでしょうか。
[312] この資料はの記事で
「
[313] は戊辰戦争から150年で各地で展示会がありました。 国立公文書館でも企画展 戊辰戦争―菊と葵の500日― が開催されました >>314。 そこで 記録材料・新聞鈔・完 >>303 も出展されていたそうです >>315。
[316] 該当部分が展示されたかは不明ですが、 担当の学芸員は全体を見ているでしょうから、 遅くてもその時までには再発見されていたものと思われます。
[174] 昭和時代中期から平成時代にかけて、 東武皇帝の即位説と改元説を含む政権構想はセットでしばしば紹介されてきたようです。 ただ多くは先行研究が紹介したその概要を繰り返すのみにとどまっていて、 資料の信憑性や実情の解明は、そのような研究も皆無ではないとはいえ (他の私年号と比べればむしろ多い方ではあるのですが)、 あまり進んでいないのが実情のようです。
[168] この改元説は東武皇帝の即位とセットになっています。 ところで奈良時代には即位同時改元が普通でしたが、 その後長らく改元は践祚の翌年とする慣習でした。 ただ王朝交代や権力闘争による王位奪取が頻繁にあった東アジア諸国の例をみると、 正統的な王位交替が行えないときは即座に改元を行い正当性を主張する傾向があるとされます。
と後鳥羽天皇や光明天皇のケースでは慣例通りに1年置いていますが、 史上最も強引な方法で即位にこぎつけた後光厳天皇は践祚の1ヶ月後に早々に改元していることがわかります。
[173] 武家中心の奥羽越列藩同盟がこのような慣例と先例にどれだけ気を配っていたかは定かではありませんが (ゆっくり調査できる状況でもなかったでしょう)、 三種の神器なしで即位した後光厳天皇の先例は心強いものとなりそうです。
[156] 奥羽越列藩同盟成立以前に使っていた藩があったとする説があります (>>128) が、根拠は不明です。
[175] 現在の所大政は政権構想で記述された例があるだけで、 実用した事例は発見されていません。
[300] 昭和時代後期の研究者山下守昭は、 日光屋文書閣僚名簿の再発見に際して初出の論文 (>>139) を引いて、 その説が補強されたとし、輪王寺宮に関係あるとされる家で発見されたのも偶然ではないと指摘しました。 >>296
[301]
また、日光屋文書の逐語解説で、
「
[302] 本文に6月15日とあるのに16日を始期とした理由は不明ですが、 先行研究に従ったものでしょうか。 本文に情報のない終期を明治改元の日としていることや、 私年号扱いしていることも引っかかります。
[176] もし改元が実施され広く布告されていたとするなら、 その後の戦況と勝利した明治政府の統治を考慮にいれたとしても、 「大政元年」表記の文書がまったく発見されず、 改元されたという情報もほとんど世に出ていない現状とはずれが大きいように思われます。 新規の資料が見つからない限りは、 改元の構想があったとしても、実施にまでは至らなかったとみておくのが穏当でしょう。
[203] 日本語版ウィキペディアは慶応4年の6月から9月に利用されたとしています >>7, >>44。この期間の根拠は特に書かれていませんが、 奥羽越列藩同盟の滅亡まで使われたと推定しての記述と思われます。
[205] 平成時代後半の 近代諸元号現象 は郷右近馨所蔵閣僚名簿の白黒写真を掲載しています。 >>187 #page=674 そして大政 = 政権担当の正統は旧幕府を奉じる東北諸藩にあると主張する意図があるが、 それは慶応3年の大政奉還を否定するもので受け入れられなかったと分析しています。 >>187 #page=676, >>188 #page=4
[317] 令和時代初期の同人誌記事 >>306 は、 最新発見東北朝廷閣僚名簿 >>303 を紹介しています。そして東北朝廷構想があったが実現しなかったものとし、 大政は私年号であるとしています。 延寿は異説があると簡単に触れるのみです。
[391] 令和時代初期のオカルト雑誌ムーでもおもしろおかしく紹介されました >>390。
[30] 会津史談会誌 (46), 会津史談会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2260622/1/76 (要登録)
[32] 新評 20(11), 新評社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1807993/1/129 (要登録)
[39] 生駒藩史 : 讃岐・出羽, 姉崎岩蔵, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9569718/1/338 (要登録)
[42] 福岡県警察史 明治大正編, 福岡県警察史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9770228/1/74 (要登録)
[41] 温海町史 上巻, 温海町史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537597/1/299 (要登録)
[35] 現代の眼 19(7), 現代評論社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1771583/1/44 (要登録)
[40] 大郷町史, 大郷町史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9570303/1/320 (要登録)
[29] 紙碑・東京の中の会津, 牧野登, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9538489/1/38 (要登録)
[38] 与板藩史 下巻, 池上大一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9538862/1/85 (要登録)
[27] 郷土史事典宮城県, 佐々久, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9539038/1/88 (要登録)
[28] 郷土史事典秋田県, 国安寛, 柴田次雄, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9539039/1/85 (要登録)
[24] 宮城県の昭和史 : 近代百年の記録 上, 毎日新聞社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9570947/1/40 (要登録)
[26] 川越街道 : 宿場をいろどる歴史の残照, 笹沼正巳 [ほか]著, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643063/1/79 (要登録)
[34] 市史ふるさと登別 上巻, 登別市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9571582/1/105 (要登録)
[33] 多賀城市史 第2巻 (近世・近現代), 多賀城市史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9540943/1/120 (要登録)
[21] https://dl.ndl.go.jp/pid/7947600 (非公開)
60: 六月十六日於奥州改元大政元年ト成上野宮様御事御即位東武皇帝御諱睦運皇后光仙台慶邦公養女実ハ条関白ノ御女也九条殿関白大政
61: とし、年号も慶応から大政元年と改めるという戦略を誰が立案したのかである。輪王寺宮が榎本武揚の計らいで軍艦長
62: 的だった。東武皇帝も大政元年も歴史の彼方に埋没した。輪王寺宮は戦争終了後、東京に戻り謹慎後、伏見
[22] https://dl.ndl.go.jp/pid/7947569 (非公開)
43: 暦八月東武皇帝御守衛大政元年六月十〓御即位凍武帝御妃戯台女御慶邪養女御詳陸運孰拙〓ゴミー直九條関白大政大臣〓米案封醍醐澤右大
23: 固なもので日をもって大政元年とし、輪王寺宮を東武皇帝とする構なかったともみられる。想などがあっ
[23] https://dl.ndl.go.jp/pid/7939172 (非公開)
12: 武皇帝とし、元号も「大政元年」と改元しようとまでした。しかし、新政府軍に対し、幕藩制的秩序を守ろ
[51] catalogue_rev2_R3.pdf, , https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/2021/images/catalogue_rev2_R3.pdf#page=21
[348] 平成時代中頃にウェブで流行した明治天皇すり替え陰謀論にも、 東武皇帝の大政改元は組み込まれています。 >>346, >>212, >>349
幕末維新期の関連年表を下記に掲載します。(年表作成:匿名希望「G氏」)
慶応4(1868)年 大政元(1868)年 6月15日 輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)、諱(いみな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇帝」に即位。慶応4年6月15日を以て、「大政」元年と改元。
[177] これを収録した明王太郎日記 上の刊行は。 他にこの改元記事への言及も見当たらないので、 平成末期に発見された新出資料と思われます。
[178] この改元記事は慶応4年9月の明治改元をうけて書かれたもののようで、 それと対比して奥州の大化を挙げていますが、いつ改元されたのか、 いつそれを知ったのかまでは明らかではありません。
[179] 解説ではこの大化を大政の誤りとしています。 穏当な推測とは思われるものの、 音も字形も似ていない「政」が「化」にいかに変化したのか、 腑に落ちないところではあります。
[180] また、政権構想を除けば東北地方にほとんど痕跡が残っていない大政の噂が、 相模国まで伝わっていたとすると驚くべきことです。 6月から9月ないし10月までのうちにどのような経路で、 どのような速度で広まったのか気になりますし、 それだけ長期間、広範囲に伝播していたとするなら今後思わぬ所で新資料が発掘されるかもしれないと期待が持てます。
[201] 延寿はにリアルタイムに新聞に捕捉され (>>71)、 には史書で刊行されました (>>83) が、 注目されることなく埋もれていました。
[190] この江戸の延寿は昭和42年の日本私年号の研究で再発見され (>>87 >>72)、 広く知られるようになりました。
[191] 大館の延寿は大正6年に史書に収録されていました (>>112) が、 地元の史書などで語り継がれたものの、 元号研究の方面に捕捉されることなく令和時代まで埋もれていました。
[192] 大政はに再発見され (>>139)、 その後数十年かけて少しずつ研究が進んでいます。 大政の資料は東武皇帝の即位と東北政権の構想に絡むため、 純粋な歴史研究に政治思想的な方面も加わって少量ながらコンスタントに言及され続けてきたようです。
[193] タイミング的には日本私年号の研究の出版時点で大政は発見されていましたが、 たまたま久保常晴の知るところになかったようで (>>144)、 日本私年号の研究には延寿だけが収録されました。 その影響もあるのか、 延寿だけに言及するもの、大政だけに言及するものが、 現在に至るまで多いです。 どちらも奥羽越列藩同盟と関係あるといわれていますが、 1つの政権に2つの元号があるのは異常で、その関係が研究されなければなりませんが、 両者同時に言及したものはさほど多くありません。
[379] 昭和時代後期の高木繁吉の論文は両方に言及した早い例ですが、 論文のテーマ的にあまり深く踏み込んで検討していないので、 よくわからないことになっています (>>377)。
[398]
の論文によると、それから遠くない昔に延寿の用例が石川県下で見つかったようです。
[195]
昭和時代末期の板碑とその時代の一覧表は、
中世私年号のリストですが、
「
[199] 板碑とその時代など千々和到の仕事以来、 多くの一覧表で延寿と大政の両方が掲載されるようになりました。 日本語版ウィキペディアが延寿と大政を掲載する >>44 のもその系統と思われます。
[204] 平成時代後半の 近代諸元号現象 は大政を奥羽越列藩同盟の元号として紹介した上で、 日本私年号の研究 から引いて延寿を奥羽越列藩同盟の改元の噂として紹介しています。 >>187 #page=674, >>188 #page=4
[202] しかし平成時代後期の 日本年号史大事典 のように 日本私年号の研究 を引いて延寿だけを紹介するものも残っています >>200, >>189。
と従来説の大幅な見直しを迫る新資料が続々と再発見されました。 今後も新発見が期待されます。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 延寿 - 慶応4年(1868年) 1 『中外新聞』慶応4年5月17日付など。奥羽列藩同盟が使用。 大政 - 慶応4年(1868年)6月-9月 1 『蜂須賀家文書』、『菊池容斎所蔵文書』。奥羽列藩同盟が使用。
[287] Prince Kitashirakawa Yoshihisa - Wikipedia, , https://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Kitashirakawa_Yoshihisa#Bakumatsu_period
Depending on the source, Prince Yoshihisa's planned era name (nengō) is believed to have been either Taisei (大政) or Enju (延寿).
[46] 中には公式より有名なものも?日本史の非公認「私年号」8選を紹介! | 歴史屋, https://rekishiya.com/shinengou/
延寿とは、幕府の滅亡を認めない、あるいはその復活を願っているのか、そして大政とは「幕府だ官軍だと争っていないで、政治の大義を取り戻すべき」という思いが込められているのでしょう。
しかし、新政府が新たに「明治」と改元するや、一気に世が改まったことを全国民が実感したのか、抵抗の機運も立ち消えてしまいました。
[47] 歴史の専門サイトを称しているのにどうしてこんな謎の歴史観を披露してしまうのかが謎。 戊辰戦争の顛末って義務教育の教科書レベルではないの?
[48] 地域によっては戊辰戦争の因縁が未だに解消してないのに、よくこんな無神経なこと平気で書けますね。 それも素人のチラ裏ではなく歴史サイトで。
[49] 記事中の他の私年号の解説もこれと似たりよったりレベル。
[52] 歴史というのは知識の羅列ではない。歴史になにを学ぶのか。
[102] 日本史真面目に学んだ人がこんなこと書くはずないし、 あえてやってるという可能性も。もし炎上したらPV増えてラッキーとか。 時事ネタでそういう炎上商法やってるのがまとめサイトだから、 歴史ネタで対立煽りしようと思うのが出てきても不思議ではないわな。
[289] 東武皇帝をその元号から大政天皇と呼ぶのも東アジア歴史学的には有り得そうなものですが、 そういう呼び方はしないようです。
[290] ウェブ検索で出てくる大政天皇の用例のほとんどは、 自称南朝後裔系自称天皇の一種と関係しています。
[292] その界隈では、大政天皇 = 東武皇帝は仙台藩が奉じた南朝天皇で、 西暦1868年6月15日 (東北政権の閣僚名簿に出現する日付) 即位で、会津藩の奉じた輪王寺宮 (史実の東武皇帝) とは別人、ということになっているようです。 >>291, >>293
[5]
この時代には他にも私年号が使われました。
[277] 延寿の痕跡の近くにはわりとよく延寿院という寺院があったりするんですが、 「延寿」って今も昔も固有名詞に頻出なので、あまり関係ないかもしれません。
[285] 戊辰戦争当時の仙台藩主伊達慶邦の母親が延寿院 >>284 と呼ばれていた。
[286] これは延寿が奥羽越列藩同盟の元号ではない決定的証拠なのでは? 奥羽越列藩同盟内のパワーバランス問題があるときにこんな元号名を使うはずがない。
[185] 南華大學數位論文 - 101NHU05356015-001.pdf, http://nhuir.nhu.edu.tw/retrieve/21073/101NHU05356015-001.pdf#page=48