永昌

永昌

[11] 永昌 (y~314) は、 支那の元号です。

[12] 「えいしょう」 と読むとされます。 >>1, >>26


[14] 元年は、 でした。 >>1, >>3, >>4, >>26


[13] 李自成國の元号でした。 >>1, >>3, >>4

[29] 西暦1644年1月1日李自成西安大順王即位し、 改元しました。 >>28, >>35

[21] 李自成から5月まで使いました >>3, >>4

[36] 3月19日、 北京國の統治下に入りました。 >>28, >>37, >>38

[30] 李自成北京大順皇帝即位しました。 その直後の西暦1644年5月2日李自成は逃亡し北京國の統治下に入りました。 >>28

[41] 即位の詔勅には「永昌元年」とありました >>40

[34] 李自成に殺害されました。 >>28, >>35

[22] 宮文彩からまで使いました。 李自成元号を採用したと考えられています。 >>4 (中国歴代年号考), >>26 (中国歴代年号考)

[31] 宮文彩擎天王でした。 軍に殺害されました。 >>32

[23] 李自敬3月まで使いました。 >>4 (大順史稿 第二編〈大順人物志〉卷一)

[43] 李自敬李自成を継いで大順皇帝に即位しましたが、 3月に死亡しました。 >>42

[24] 李過11月まで使いました。 >>4 (大順史稿 第二編〈大順人物志〉卷一)

[44] 李過李自敬死後の國を率いましたが、 11月に死去しました。 >>45

[25] 李來亨8月まで使いました。 >>4 (大順史稿 第二編〈大順人物志〉卷一)

[46] 李來亨李過死後の國残党を率いましたが、 8月4日に死去しました。 >>47

[48] 国は北京陥落後勢力を弱めながらも長年存続しました。 一方でによって滅亡したの残党である南明勢力 (の一部) とも連携していました。 が当時いつまで永昌を使い続けたのか、 その根拠となるものが残っているのかは不明です。


[2] 日本語ウィキペディアは、 2年 () までとしました。 >>1, >>26, >>33

[16] 百度百科は、 2年 () の5月までとしました。 >>3

[9] 中文维基百科は、 同じ記事内に次の記述があって、 態度が一貫していませんでした。 >>4

[5] 日本語ウィキペディアは、 元号一覧のの欄に、 南明をも掲載し、 永昌を示しています。


[10] 百度百科は、 元号一覧に示していません。

[6] 中文维基百科は、 その他勢力の元号一覧に示しています。

[7] 日本語Wikipediaの元号記事の前後リンクには、 永昌は示されておらず、 永昌にも前後は示されていません >>1

[8] 中文维基百科の元号記事の前後リンクは崇祯の次の元号の3つのうちの1つに挙げています (他2つは弘光顺治) が、永昌には前後がなく、 崇祯顺治の前後にも永昌はありません。

[17] 日本語ウィキペディアにはをいわゆる正統王朝に位置付けるべきで永昌私年号ではないと考える編集者がおり、 わざわざその旨の記述がありました。 >>1, >>15, >>38, >>39 私年号

[27] 日本語ウィキペディアは、 李自成 >>1宮文彩 >>26 で2つの元号記事を立てていました。 後者に(だけ)は前者と同じとする説 (>>22) が書かれていました。

[49] 華夷変態 巻1上, 独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN, https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/3811567 #page=24


[50] 浦和市史 第2巻 [1] (古代中世史料編 1), 浦和市総務部市史編さん室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641210/1/245 (要登録)

[51] >>50 原文に永昌弐年とあるのを永正と解釈。内容から判定?

[52] 栃木県史 資料編 考古 1, 栃木県史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9640766/1/404 (要登録)

永昌私年号といっている。