[12] 「えいしょう」 と読むとされます。 >>1, >>26
[14] 元年は、 でした。 >>1, >>3, >>4, >>26
[13] 李自成の順國の元号でした。 >>1, >>3, >>4
[29] 西暦1644年1月1日、 李自成は西安で大順王に即位し、 改元しました。 >>28, >>35
[21] 李自成はから5月まで使いました >>3, >>4。
[36] 3月19日、 明國北京が順國の統治下に入りました。 >>28, >>37, >>38
[30] 、 李自成は北京で大順皇帝に即位しました。 その直後の西暦1644年5月2日、 李自成は逃亡し北京は清國の統治下に入りました。 >>28
[41] 即位の詔勅には「永昌元年」とありました >>40。
[22] 宮文彩はからまで使いました。 李自成の元号を採用したと考えられています。 >>4 (中国歴代年号考), >>26 (中国歴代年号考)
[31] 宮文彩は順の擎天王でした。 に清軍に殺害されました。 >>32
[23] 李自敬は3月まで使いました。 >>4 (大順史稿 第二編〈大順人物志〉卷一)
[43] 李自敬は李自成を継いで大順皇帝に即位しましたが、 3月に死亡しました。 >>42
[24] 李過は11月まで使いました。 >>4 (大順史稿 第二編〈大順人物志〉卷一)
[44] 李過は李自敬死後の順國を率いましたが、 11月に死去しました。 >>45
[25] 李來亨は8月まで使いました。 >>4 (大順史稿 第二編〈大順人物志〉卷一)
[46] 李來亨は李過死後の順國残党を率いましたが、 8月4日に死去しました。 >>47
[48] 順国は北京陥落後勢力を弱めながらも長年存続しました。 一方で順によって滅亡した明の残党である南明勢力 (の一部) とも連携していました。 順が当時いつまで永昌を使い続けたのか、 その根拠となるものが残っているのかは不明です。
[2] 日本語版ウィキペディアは、 2年 () までとしました。 >>1, >>26, >>33
[16] 百度百科は、 2年 () の5月までとしました。 >>3
[9] 中文版维基百科は、 同じ記事内に次の記述があって、 態度が一貫していませんでした。 >>4
[5] 日本語版ウィキペディアは、 元号一覧の明の欄に、 南明と順をも掲載し、 順の永昌を示しています。
[6] 中文版维基百科は、 その他勢力の元号一覧に示しています。
[7] 日本語版Wikipediaの元号記事の前後リンクには、 永昌は示されておらず、 永昌にも前後は示されていません >>1。
[8] 中文版维基百科の元号記事の前後リンクは崇祯の次の元号の3つのうちの1つに挙げています (他2つは弘光と顺治) が、永昌には前後がなく、 崇祯と顺治の前後にも永昌はありません。
[17]
日本語版ウィキペディアには順をいわゆる正統王朝に位置付けるべきで永昌は私年号ではないと考える編集者がおり、
わざわざその旨の記述がありました。
>>1, >>15, >>38, >>39
[27] 日本語版ウィキペディアは、 李自成 >>1 と宮文彩 >>26 で2つの元号記事を立てていました。 後者に(だけ)は前者と同じとする説 (>>22) が書かれていました。
[49] 華夷変態 巻1上, 独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN, https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/3811567 #page=24
[50] 浦和市史 第2巻 [1] (古代中世史料編 1), 浦和市総務部市史編さん室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641210/1/245 (要登録)
[51] >>50 原文に永昌弐年とあるのを永正と解釈。内容から判定?
[52] 栃木県史 資料編 考古 1, 栃木県史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9640766/1/404 (要登録)