[44] 至徳 (旧字体: 至德) は、 日本の公年号の1つです。
[143] 致得が1例知られており、至德の異表記と考えられています。
[55] 字形自体は比較的明瞭な楷書ですが、 実物の劣化および拓本・写真の解像度によると思われる不鮮明さのため、 不明点が残ります。 >>47, >>53
[59]
板碑上部が欠損しており、致は不完全です。
偏の至の上の横線は左端のみ残存します。
旁はメのような部分が残存し、その上に何か書かれていたかは不明です。
配置的には上に𠂉を書ける空間がありますが、メ
にそれと接続した痕跡は見られず、何かあったともなかったとも断定しがたい状態です。
>>53
[56]
年は草書の簡略な字形の系統です。 >>47, >>53
[57]
正/七は >>47 >>53 >>64 では字形がよくわかりません。
正よりは止のようにも見えます。
>>75 では七のように見えます。ただし、横画の交差および左側が若干不自然にも感じます。
[77]
子/丑は、 >>47 >>53 では確かに子とも読めるものの、
縦線が横画の上では左側、下では右側とずれているのが気になります。
丑にしても字形が不審です。子の縦画下部とされる部位は、
七の横画に接続していて、丑、七の両方の不自然さの一因となっています。
[58]
日は >>47 >>53 では存在するのかよくわかりません。
日がありそうな位置は空欄で字形がありません。
[78]
>>65 >>75 では五のような字形が明瞭に見えますが、
>>76 が日番号以下すべて□としているのは、
日番号だけで日がなく不審なためでしょうか。
[54]
干支年は、厳密には「
[146] これまで1例のみ知られており、致得の研究はすなわちその板碑銘の研究となります。
[147] 当該板碑銘の日付の解読は、複数説あります。実字形はいずれとも決め兼ねる、 不明確なものです。あらゆる議論の基礎として、銘文の正確な読みを確定させる必要があります。 ところが、令和時代に至るまで、読み方の検討は記録に残されておらず、 「結論」たる各論者の見解だけが示されています。 (異読の存在も指摘されてきませんでした。各論者が先行研究の調査を行っていないとも思えないのに、 不思議なことです。)
[149] 諸論者とも致得元年 = 至徳元年とする解釈で一致しています。その根拠として、
... のいくつかが指摘されています。
[154] ただし、これらに対して、
... は、致命的とはならずとも、何らかの説明を要します。ところが、 これらは令和時代に至るまで、ほとんど検討されていません。
[158] 私年号と認めるか否かには、若干の立場の違いがあります。 それは主として私年号の定義に関係するものであり、 公年号の至德の異表記であるという見解では大方の一致を見ています。
[159] >>61 は同音性に疑問があることから同音異字年号説に疑問を呈しつつ、 至德と同年の私年号であることには賛同しています。
[67] の図録は、 異年号の板碑の事例の1つとして >>38 を紹介しています。 異年号を僧侶が私年号または縁起の良い文字に書き換えた年号だと説明しています。 >>64
[68] 致得元年は至德元年であると断言しています。 >>64 根拠は示されていません。
[82] やの書籍は、 昭和6年図録と同じく板碑研究者の稲村坦元の著書ですが、 私年号の板碑の事例の1つとして >>38 を紹介しています。 >>99, >>619
[83] 致得は至徳だと思われるとしており、 音通し干支年も一致することを示しています。 >>99, >>619
[95] の柴田常惠の論文は、 域内の板碑の目録であり、 >>38 を紹介しています。 すべてを自ら調査したものでは無さそうで、 >>38 を実見したかは不明です。 >>94
[97] 致得元年が至德元年を指すことは干支から察せられることであり、 地方で改元のことを耳にするも正確な文字を知らず、 推測で書いた結果と思われるとし、元得を類例としています。 >>94
[104] の柴田常惠の論文は、 板碑の紀年の意味解釈を議論したものですが、 >>38 も扱っています。 紀年銘自体に関する議論はありません。 >>103
[41] の板碑概論は、 板碑の私年号や私年号に近きものの事例の1つとして致得の用例 >>38 を紹介しています。 >>3
[42] 致得は至德であろうか、干支年が一致し音通する、 と推測を述べています。 >>3
[1] の自治体史は、 私年号の板碑の1つとして致得の用例 >>38 を紹介しています。 >>46
[42] 致得は至德だと思われるとしており、 音通し干支年も一致することを示しています。 >>46
[48] の書籍は、 板碑の私年号の事例の1つとして致得の用例 >>38 を紹介しています。 >>2
[42] 致得は至德だと思われるとしており、 音通し干支年も一致することを示しています。 >>2
[49] これらのいずれも同系統の解説です。
[133] の 国史辞典 は、 >>38 を紹介して 「公年號に對する宛字」 を使って至德を表した例とし、 私年号の一種ともみなせると解説しつつも、 私年号の表に致得を掲載していません。 >>135
[101] の久保常晴の異年号の論文は、 用例が限られるものの1つとして >>64 から引いて >>38 を紹介しています。 >>100
[102] >>64 を支持して至德であるとし、他の公年号の同音異字年号と同じ類としています。 >>100
[110] >>109 は >>100 を引いて >>38 を紹介しています。
[138] 昭和42年の日本私年号の研究は、 致得を私年号ではない異年号の一種である同音異字年号に分類しています。 >>64 を典拠に >>38 を紹介しています。 >>137
[142]
様式から南北朝時代とし、
音通と干支年から至徳であると推測しています。
徳を得とする事例が多数あることを傍証としています。
>>141
[50] の板碑の入門書は、 板碑の私年号の事例の1つとして致得の用例 >>38 を紹介しています。 >>4
[51] 致得は干支年が一致するので至徳とする、と断定しています。 >>4
[52] また、 板碑の様式から南北朝時代であるとしています。 >>4
[115] の板碑の書籍は、 板碑の私年号の事例の1つとして致得の用例 >>38 を紹介しています。 >>114
左右に銘「□阿弥陀佛往生 致得元年甲子正月五[日]」(私年号)
と記録されています。 >>125
[162] の調査報告書は、 >>38 を紹介し、 致得を私年号とし、 至徳の当て字か、 としています。 >>161, >>163
[60] の板碑の書籍は、 板碑の私年号の事例の1つとして致得の用例 >>38 を紹介しています。 >>250
[61] 先行研究に触れつつ、同音異字年号とするには同音でない点が問題だと指摘しています。 >>250
[62] 私年号とした上で、 干支年と、 板碑の様式が南北朝時代であることから、 年代は至徳であるとしています。 >>250
[63] 私年号の発生理由は、 時宗僧徒の政治への不満の所産か、 としています。 >>250
[70] の図録は、 板碑の私年号の事例の1つとして致得の用例 >>38 を紹介しています。 >>69
[71] 銘文の解読が従来研究と改められている点が注目されます。 その理由は明記されていません。
[72] 私年号で、至徳にあたるとされる、と説明されています。 >>69
[85] の史料集は、 >>38 を紹介しています。 >>84
[86] 銘文の解読が従来研究と改められている点が注目されます。 その理由は明記されていません。 研究史として >>95 を参照しています。それに近い読み方となっているのが興味深いです。
[87]
「
[80] の自治体の文化財資料集は、 >>38 を紹介し、 致得を至徳の私年号と説明しています。 >>79
[106]
>>105 は板碑に関する論文で、本文で直接扱っていませんが、一覧表に
>>38
を掲載しています。紀年を「
[123] 板碑や自治体史の系統の私年号の列挙にしばしば代表例の1つとして紹介されています。
[121]
>>120 は観光案内で、
>>38
を私年号の板碑として紹介しています。
銘文を「
[144] 日本私年号の研究が私年号でないと分類した影響が大きいのか、 その後の私年号の一覧表等にほとんど掲載されていません。
[145] 板碑関係の私年号の解説ではそれ以前も以後も一貫して私年号とされており、 地元の文化財関係の資料でも私年号として扱われ続けていますが、 それ以外の文脈で言及されることは (他の多くの私年号と違って) ほとんどありません。
[8] >>5 は百姓が屋敷を変換する際の証文ですが、 香取まで改元伝達があるのは早くても至徳元年3月のことと思われます。 >>148 ところがこれは至徳元年2月とあり、遡及年号に該当する可能性が高いと言えます。
[9]
元二年説をとる歴史研究者の山田邦明は、
これは至徳2年2月の意味だと主張しています。
[15] これは土地の四至を定めた文書。このタイプの文書で遡及年号はもうアウトでしょう。
[21] この種のものは遡って日を書いていることもあるので、これだけで偽銘とは断言できない。
[37] 新編岡崎市史 2 (中世), 新編岡崎市史編集委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9540743/1/220?keyword=%E8%87%B3%E5%BE%B3 (要登録)
遡及年号 -1月
[28] 和菓子 (5), 虎屋虎屋文庫, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3329048/1/47?keyword=%E8%87%B3%E5%BE%B3%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%9C%88 (要登録)
[23] 和菓子 (6), 虎屋虎屋文庫, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3329049/1/25?keyword=%E8%87%B3%E5%BE%B3%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%9C%88 (要登録) /33
[24] 佐賀県史料集成 古文書編 第28巻, 佐賀県立図書館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9776135/1/216?keyword=%E8%87%B3%E5%BE%B3%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%9C%88 (要登録)
[25] 和歌山県史蹟名勝天然紀念物調査会報告 第18輯, 和歌山県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1113637/1/45?keyword=%E8%87%B3%E5%BE%B3%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%9C%88 (要登録)
[26] 重要美術品等認定物件目録 第2輯, 文部省宗教局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1071803/1/27?keyword=%E8%87%B3%E5%BE%B3%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%9C%88
[29] 会津鶴ケ城, 梁取三義, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9569258/1/19?keyword=%E8%87%B3%E5%BE%B3%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%9C%88 (要登録)
[30] 会津若松史 第1巻, 会津若松史出版委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3048618/1/89?keyword=%E8%87%B3%E5%BE%B3%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%9C%88 (要登録)
[27] 美術史上より見たる仁科氏文化の研究, 一志茂樹, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1257440/1/69?keyword=%E8%87%B3%E5%BE%B3%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%9C%88 (要登録)
[31] 鎌倉府体制形成過程の研究 : 守護・国人・一揆政策と領域的展開, 小国浩寿, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3176069/1/385?keyword=%E8%87%B3%E5%BE%B3%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%9C%88 (要登録)
[32] 大粟文化圏と板碑について, , https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/22/2214.html
阿川宮分の勧善寺所蔵の大般苦経172巻の奥書に,於阿波国名西郡大粟山尾呂野観学坊書写了,至徳4年11月4日とある。元享3年は鎌倉時代末期の年号であり,至徳4年は西紀(1387)で元享3年より64年後の南北朝時代の北朝の年号である。
[33] 研究紀要 第16号 (15) - kiyo_016_15.pdf, , https://www.echiba.org/wp-content/uploads/2022/12/kiyo_016_15.pdf#page=23
[36] >>403
「