[1] 日本の古代には干支年などが使われていましたが、 やがて元号制度が導入されました。
[1252] 日本列島で古代に用いられた痕跡のある紀年法や、 古代の出来事を記述するため当時から現在までにわたって使われた紀年法には、 実に多種多様なものがあります。
[860] 天皇の治世のはじめを元年とし、 区別が必要な場合には元号名スロットに天皇の名前を当てて元号風に記述する天皇即位紀年方式は、 元号が制定されなかった時代の日本の歴史の記述の標準的な方法として、 飛鳥時代から現在まで広く用いられています。
[861] 日本書紀は神武天皇即位から持統天皇まで、 元号があった時期を除き、全面的に天皇即位紀年を採用しました (>>29)。 続日本紀 (>>1049) は文武天皇の大宝の建元以前にこれを採用しました。
[862] 元号名スロットの天皇名として、 現在の漢風諡号のほか、 日本書紀では和風諡号が用いられましたし、 古い時代の文章にはそれ以外の呼称が使われたことがありました。
[545] 「漢風諡号天皇」またはその省略形の
「漢風諡号」
を疑似元号として用い、
日本書紀に従い天皇の即位の頃を元年とする天皇即位紀年は、
歴史学の議論や神社の由緒の記述などで現在まで使われています。
各種の元号一覧の類で、
元号以前の時代における元号に相当するものとされています。
[209] 日本書紀では 大化以前に神武天皇から皇極天皇まで、神功皇后を含めて 36個の擬似元号がありました。 他に大化以後の元号断続期のものがありました (>>210)。
[87] 基本的には日本書紀の記述をそのまま皇紀元年から西暦645年に当てはめた形とされているようです。
[138] 改元はそれぞれの初年の元日として扱われるようです。
[865] 後述の通り、孝徳天皇の時代以後の天皇即位紀年の扱いはいろいろと混乱がみられます。
[863] 日本書紀 の記述のように神武天皇即位からあったとは考えにくいですが、 即位紀年は世界各地で使われた例があり、 日本でも飛鳥時代頃には使われていたようです。 最初は「誰々の時代の頃」のような曖昧な時代記述から始まり、 次第に「誰々の時代の何年」のような形式に発展したようです。
[1034] Wikipedia の神武天皇記事を見ると、 即位前は干支年で表記し、 「辛酉年(神武天皇元年) 」 を経て以後 「神武天皇2年」 のように表記しています。 他に「即位4年2月23日」 のような表記もみられます。 >>1033
[393] 関連: 元興寺伽藍縁起并流記資財帳
[2743] 史学叢説 第1集, 星野恒 稿, [星野幹, 星野彬 共編], , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1026757/1/111 (要登録)
[2744] >>2743 天皇即位紀年の古い例がないことを指摘しています。
[383]
初代の神武天皇の即位前は他のいろいろな方法で記述されます。
[2354] 初期の天皇の在位の間には空位期間がありました。
[2666]
前の天皇の延長年号を使うもの、
干支年を使うものなど、
諸書の表記は様々です。
[2277]
継体天皇から欽明天皇までの時代の
日本書紀
などの記述は混乱しており、
諸説あります。
紀年法もその混乱を反映していろいろあります。
[4] 皇紀は、神武天皇の即位年から起算した紀年法です。
神武天皇即位紀年の自然な延長ですが、
「神武天皇何年」ではなく、
「皇紀何年」などと表記されます。
日本の歴史のほとんどの期間を単調増加する年号で扱えるのが利点です。
もちろん神武天皇の時代から連続して用いられていたものではありません。
神武天皇の即位年から何年という数え方は南北朝時代頃から記録に残っているようです。
紀年法として実用されるようになったのは江戸時代頃でした。
[588] 7世紀の日本では、徐々に元号の導入が進みました。 そのあり方には今なお不明な点が多く議論があります。
[196] 初期年号とその異称 (大化、白雉、白鳳、朱鳥、朱雀) は、中世から近年まで、 いろいろな文献が日本書紀と異なる形で記述していました。 特に古代年号 (>>226) 文献は、 日本書紀とまったく矛盾する時代や順序でこれらの元号が用いられたこととするものがありました。
[197] 異説は古代年号と共にかなり広まっていたようですが、 明治時代に近代的歴史学が成立すると徐々に消えていきました。 しかし白鳳はかなり後の時代まで白雉と別に扱われていました (>>847)。
[770]
推古天皇の頃に使われたとされる元号に法興があります。
同時代的に使われた可能性が高いと見られる、
日本で作られた最古の元号です。
[296] 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に日付として 「法興元丗一年歳次辛巳十二月」 (次の「鬼」まで日付部分とする説もあり)、 「明年正月廿二日」、 「二月廿一日癸酉」、 「翌日」、 「癸未年三月中」 があります。 >>297
[301]
その釈迦三尊像の宣字形台座の下座下框に「辛巳年八月九月」
の墨書があります (>>64)。
これや釈迦三尊像の調査から、
銘文は造像当時のもので後刻ではないと考えられています。
(昭和時代の研究者には後刻説もありました。)
[298] 現在では「法興」を私年号と解し、 「法興元丗一年歳次辛巳」と「辛巳年」を 621年、 「癸未年」を623年と解するのが定説となっています。 >>297
[302] 従って「法興」元号は当時ある程度使われていたものとみられます。 法隆寺周辺など仏教信仰との関係の中で利用されていたと推測されます >>246 普及版 p.338 (田村圓澄, 1968)。
[306] 伊予湯岡碑碑文に 「法興六年十月歳在丙辰」 とあり、596年と解されています。 ただし原碑は行方不明となっています。 >>305
[355] 日本書紀に記録されておらず聖徳太子に関係する記録に残されたこの元号は、 聖徳太子の事績を敬仰するものであって法隆寺などの関係者が私的に使ったとされています。 >>352 p.52
[66]
乙巳の変により孝徳天皇が即位し、
大化の改新と呼ばれる一連の改革が実施されました。
即位直後、
新たに元号として
「大化」
が建てられました。
これが日本の最初の公年号とされます。
[1884]
日本書紀
は、
皇極天皇の第4年 = 孝徳天皇の第1年 = 西暦645年
[1930]
日本書紀
やそれ以後の正史は年の名前を年単位で書いていました (>>1883)。
つまり年内に改元があっても、
年は年頭の記事の1度だけ明記されるので、
年頭から改元日までが遡及年号となっていました。
ところが皇極天皇から孝徳天皇への譲位の前後は、 同じ年が皇極天皇即位紀年と大化の 2通りに書き分けられていました。 編纂方針のぶれのようにも思われますが、 日本書紀 中唯一の譲位によって生じた特例ともみられます。
[840] 日本書紀 は、 改元を譲位の 5日後としていました。 日本書紀 の譲位記事は、 いずれも皇極天皇4年と記述されていました。 (>>1883)
[1932] これをそのまま受け取るなら、 孝徳天皇が即位した後も、 大化の新元号が決定し改元が実行されるまで、 従前の皇極天皇即位紀年が継続されたことになります。
[2543] 現存する金石文や木簡は、 この時代干支年が使われたことを示しています。 当時天皇即位紀年や大化の元号が使われた直接の証拠はありません。 皇極天皇即位紀年も大化の元号も、 現存最古の用例は 日本書紀 とみられます。 残念ながら、 現存する史料から当時の運用を確定させることはできません。
[607] 大化という元号名が追号とする説 (>>519) による場合、 即位から改元までのこの期間をどう解釈するかが問題となります。 称元の日だったとする説もあり得ますし、 歴史的事実を反映しない潤色とする説もあり得ます。
[319] Wikipedia の孝徳天皇記事は、 西暦645年を当初皇極天皇4年、 6月14日から 19日まで孝徳天皇元年、 19日から大化元年としています >>318。 一方で Wikipedia の他の記事 >>322 や元号一覧は、 大化開始日の 6月19日までを皇極天皇4年としていて、 一貫していません。
[321] Wikipedia 方式は、 皇極天皇が既に退位し孝徳天皇が即位しているにも関わらず、 皇極天皇4年と呼ぶのは不適切との考えによるものでしょうか。 しかしこのような紀年法は他に用例がみられず、 敢えてこの5日間だけ特別に扱うメリットもほとんど考えつきません。 そもそもこの天皇即位紀年の体系が 日本書紀 による歴史的確立に依る所が大きいことを思えば、 それと異なる新方式にどれだけの価値がありましょうか。
[841] この時期の日付を生成する場合には、 Wikipedia 方式より、 歴史的に採用されてきた方式の方が適切と思われます。 日付を解釈するソフトウェアの類は、 孝徳天皇即位紀年にも対応するのが良さそうです。
[838] 大化の元号が当時制定されたのでなく、 後の時代に遡って制定されたとする説があり、 はっきりしていません (>>519)。
[839] 他の年を元年とする大化の異説がいくつかありました。
[1399] 法隆寺伽藍縁起并流記資財帳 に、 日本書紀 と1年ずれた大化の用例がみられました (>>406)。 ほかにも例があります (>>1247)。
[1919] 法隆寺の諸問題 昭和9, 鵤故郷舎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1146465/1/65 (要登録)
[1920] 續日本紀研究 (146/147), 續日本紀研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6076152/1/3 (要登録)
[2798] 襲国偽僣考が大化と大和は音が似て混同したのではと指摘していますが >>2797。 もしかすると原形は孝徳天皇の国名即位紀年の「大和元年」「大和2年」... だったのが誤って「大化」に変化して記録された可能性もあるでしょうか。
[2799] 中世でなく上代の日本語でこの混同が起こり得るのか、「大和元年」の痕跡はあるのか、 という課題はありますが。
[2800] 持統大化でなく孝徳大化の変化した「大和」が知られていないのもこの説の弱点。 持統天皇時代に変化する前に「大和」が存在した根拠が皆無になるから。
[107] 孝徳天皇の治世の最初の元号だった大化は、
大化6年、
改元されて白雉となりました。
[68] 日本書紀 には、 大化5年までの記事の後、 「白雉元年春正月辛丑朔。 二月庚午朔戊寅。 (白雉献上の記事) 甲寅。 改元白雉。 」 >>65 とありました。 年始ではなく2月に大化6年から白雉元年に改元されたことがわかりますが、 年内で書き分けることはせず、 年始に遡って白雉元年としていました。 その後白雉5年まで記事が続きました。
[1076] 続日本紀 (>>1049) や 新唐書 (>>542) は、 孝徳天皇の白雉に言及していました。 白雉の存在を裏付けるものとされます。 >>859 p.二〇八
[1206] 現在の Webサイトの用例を見ると白雉のほとんどは 日本書紀 式の本来の650年元年の白雉です。 それ以外の白雉の利用例はほとんど見当たりません。 九州王朝愛好家サイトで652年元年の白雉が頻出しますが、 実用例はほぼありません。
[1207] 白鳳は現在の Webサイトでも寺社縁起を中心に複数の系統が相当数使われていることが確認できます。
[70] 日本書紀 の孝徳天皇より後の時代、 天豐財重日足姫天皇 (斉明天皇) 紀に、 「天萬豐日天皇。後五年十月崩。 」 >>69 とありました。 天命開別天皇 (天智天皇) 紀に、 「天萬豐日天皇後五年十月崩。」 >>72 とありました。 いずれも孝徳天皇の崩御を指し、 天萬豐日天皇 (孝徳天皇) 紀によれば白雉5年10月のことでした。
[1208] 内容の一致から、 ここでいう「後」 とは白雉のこととされています。 中華王朝の即位紀元にも治世途中で改元され、 後世に便宜上 「後元」 などと呼んだ例がありましたから、 それに類するものとされています。
[1867] 伴信友 (>>1038) は、 「後五年」 は元号のない漢初期の改元の例に準拠した書き方で、 当時元号を重視していなかったため (>>1836) としました。 >>1731
[1868] 伴信友 (>>1038) は、 日本書紀 の本文中で大化、白雉を使った例がないことを指摘しました。 その他の方法でもこの時代のことを指した例自体がないので証明は難しいものの、 当時白雉の元号を使って日付を書かなかった証拠になるとしました。 >>1731
[1869] 伴信友 (>>1038) は、 続日本紀 以後なら必ず「白雉五年」のように書くので、 日本書紀改刪 (>>1614) 時に改めるべきところが漏れてしまったのだろうとしました。 >>1731
[2086] しかし 日本書紀 にこの程度の不統一は散見されるのであって、 日本書紀 編纂時に 「白雉五年」 と孝徳天皇の 「後五年」 の2通りの表記法があり、 混在したままになってしまったと理解できるものです。 敢えて改刪を仮定する必然性に欠けます。
[2545] 「後」が白雉であることは通説となっていますが、 当時どちらの表記だったのか、 どちらもあったのか、 どちらもなかったのかは、 よくわかっていません。 白雉の元号が当時制定されたのでなく、 後の時代に遡って制定されたとする説があり (>>519)、 「後」 はその痕跡で有力な根拠とされています。
[518] 孝徳天皇の崩御後白雉の元号は使われなくなり、
次の元号は建てられませんでした。
(朱鳥の終わりと似ています。
[2546] 日本書紀 孝徳天皇紀は、 白雉5年10月壬子条に孝徳天皇の崩御を書いていました。 その後には、 12月己酉条の葬儀記事、 是日条の斉明天皇行幸記事、 是年条の朝鮮3国奉弔記事が続き、 終わっていました。 >>65 年末まで特別の記事がない以上、 白雉5年が12月末日まで続いたとするのが自然な解釈です。
[1145] 大辞林 は、 終了を 「654.10.?」 としました >>1143。 月を特定しているのは崩御の月に基づくのでしょうが、 日まで特定しなかった理由は謎です。
[1144] デジタル大辞泉 は、 終了を 「655年1月?」 としました >>1143。 「?」をつけて不明としながらも示したこの月の根拠は不明です。 旧暦の年末をユリウス暦かグレゴリオ暦に換算したものでしょうか。 (だとしても白雉の開始の時期は西暦に換算されていませんでした。)
[316] Wikipedia の元号一覧および個別記事 >>317 は、 白雉の最終日を旧暦白雉5年10月10日 (ユリウス暦654年11月24日) としました (その次の元号空白期の開始日も同日)。 それ以後の日付の記述には、 孝徳天皇即位紀年を使っています >>318。 Wikipedia 以外にも、 同様に 10月11日以後を孝徳天皇10年とする対照表があります >>323。
[330] 白雉の元号がこの日に終わったとする根拠は、 孝徳天皇の崩御によって元号が用いられるべき期間が終了したとの考え方と思われます。 だとすれば元号不在だからといって崩御後まで孝徳天皇即位紀年で代用するというのもおかしな話です。
[1113]
坂本太郎は、
日本書紀 (>>1104)、
万葉集 (>>1112)、
革命勘文
「巳上一蔀自神倭盤余彦天皇即位辛酉年至于天豊財重日足姫天皇七年庚申年 合千三百廿年已畢」
(皇紀1320
[2547] 孝徳天皇や斉明天皇・天智天皇の時代の金石文や木簡は、 干支年を使っていました。 当時白雉や天皇即位紀年が用いられたという直接の根拠は見つかっていません。 白雉の延長年号が斉明天皇・天智天皇時代にも使われたかどうかは、 不明とするほかありません。 革命勘文 はともかく、 日本書紀 や 万葉集 から、 奈良時代時点では白雉の元号を使っても延長年号は一般的ではなかったとみられます。
[783] 孝徳天皇や斉明天皇の時代を表す元号に白鳳があり、 主に奈良時代頃、 使われていました。 白雉の別名と考えられています。
[871] 平安時代以後白鳳とは天武白鳳 (>>790) との認識が一般的になったようです。 孝徳天皇時代の白鳳の用法は、 それ以後あまりみられなくなります。 天武白鳳に圧倒されたのは事実でしょうが、 孝徳天皇時代の白鳳がその後も細々と使われ続けたのか、 消えてなくなってしまったのかはわかりません。 (新規性のない文献はあまり紹介されないバイアスがあるでしょうから。)
[2082] 伴信友 (>>1038) は、次の根拠を挙げて、 明らかに白鳳は白雉の別称だとしました。 >>1731
[938] 斎藤励 >>556、 坂本太郎 (>>517) >>859 p.二〇八、 西山德 >>937 は、 藤氏家伝 (>>939) の検討 (>>2332)、 古語拾遺 (>>752) の検討から、 孝徳天皇の白雉が白鳳とも呼ばれたとしました。 坂本太郎は、 類聚三代格 (>>1046) も根拠に挙げました >>859 p.二〇八。
[1839] 白雉と孝徳天皇時代の白鳳が同じであることは、 伴信友以来これといった有力な反論もなく、 通説となっています。 (同じでないとする説の例: >>550)
[2302] 平安時代の 口遊 (>>1626) は、 初期元号の一覧に白鳳を挙げていましたが、 孝徳天皇の時代が大化から白雉までとし、 その次の白鳳をどの天皇とも結びつけていませんでした。
[1853] 伴信友 (>>1038) は、 孝徳天皇の時代が大化から白鳳までとするべきで、 誤写だとしました (>>2071)。
[2576] 坂本太郎 (>>517) は、 天武白鳳が生じる過渡期の不安定な状態と考えました (>>1625)。
[2552] 白雉の終了時期が明確でない (>>518) のと同様、 白鳳の終了時期もはっきりしません。 日本書紀 に記載がないため依拠すべき規範がまったく存在しない反面、 白鳳の方が延長年号の用例は多いようです。
[1861] 伴信友 (>>1038) は、 次のように考えました。 >>1731
[759] 斎藤励は、 神皇正統記 が天智天皇時代に白鳳を挙げ (>>746)、 伴信友が天武天皇時代の前まで白鳳が使われたとするのは、 藤氏家伝 (>>642) が白鳳14年とするのが根拠だろうが、正しくないとしました。 >>556 斎藤励は、 斉明天皇が中継ぎで即位したから白鳳を継続したに過ぎないと考え、 天智天皇時代には当然継続されなかったものとしました (>>758)。
[2561] どちらの説も物証がなく、そう考えられなくもないという程度です。 白鳳と書かれた金石文は未だ発見されていません。 日本書紀 には白鳳はありません。 藤氏家伝 のうち、 大織冠伝 が天智天皇時代に白鳳を使わないのは斎藤励の指摘通りですが、 貞恵伝 は白鳳を使いました。 従って現存する奈良時代以前の史料では、 天智天皇時代を表すため白鳳を使うことも、使わないこともあったとしかいえません。
[2332] 藤氏家伝 (>>642) には、 「白鳳」が使われました。 孝徳天皇時代の白鳳の、 現存最古の用例とされます。
[939] 伴信友 (>>1038) >>1731、 坂本太郎 (>>517) >>859 p.二〇八 は、 白鳳5年に孝徳天皇崩御とあるのが 日本書紀 白雉5年と一致することを指摘しました。 西山德は、 白鳳が 日本書紀 の白雉と一致することを指摘しました >>937。
[1079] 昭和時代、 池辺眞榛は、 白鳳とは天武天皇の時代 (>>790) ゆえ、 白鳳は白雉の誤写としました >>937 (古語拾遺新註, 昭和十八年印行本五八六頁)。 当時はまだ天武白鳳の存在が研究者にも信じられていました。
[1242] 日本書紀 の白雉は孝徳天皇の崩御の年までしか使われませんでしたが、 藤氏家伝 の白鳳は孝徳天皇の崩御後にも使われたようです。 大織冠伝 に 「十二年」、 「十三年」、 「十四年」 とありました。 順に素直に読めば (>>1231)、 白鳳12年、 白鳳13年、 白鳳14年となります >>502 (>>550)。 白鳳13年までは斉明天皇の時代、 白鳳14年は天智天皇の時代に当たります。 貞恵伝 に、 「白鳳十六歳次乙丑」 とありました。 天智天皇の時代に当たります。
[558] 大織冠伝 白鳳12年、13年、14年の記事は、 日本書紀 の同内容の記事と、 1年のずれがみられました。 例えば、 大織冠伝 14年の天智天皇の称制は、 日本書紀 では 13年に相当するものでした >>502。
[577] その前後、 白鳳5年 (>>939) や天智天皇摂政6年は 日本書紀 と整合しています。 貞慧伝 の 「白鳳十六歳次乙丑」 も天智天皇称制4年で、 日本書紀 と整合しています >>502。
... のどちらかの解釈を採ることになります。 藤氏家伝 が完全に正しく、 日本書紀 の斉明天皇時代が1年ずれているという可能性もありますが、 そのためにはこの前後の 日本書紀 の記事すべてを、 適宜1年ずらして時系列に矛盾がでないように調整しなければなりません。 これまでそれを検証した人がいるのかわかりませんが、 成立は難しいのではないでしょうか。 他にも複雑な解釈を考え得るかもしれませんが、 藤氏家伝 だけを根拠にそのような説を実証するのは難しそうです。
[1841] 伴信友 (>>1038) は、次のように主張しました。 >>1731
[2572] 論理展開がやや不明瞭なのですが、 伴信友は日本書紀改刪 (>>1614) を議論の前提としており、 それ以前の 日本書紀 と 藤氏家伝 は一致していたと考えていたようです。 現在一致しないのは、 日本書紀改刪 (>>1614) 時の不手際で白雉が1年ずれてしまったためということでしょうか。
[1080] 斎藤励は、 伴信友説について、 藤氏家伝 より 日本書紀 の方が当時に近いため、 日本書紀 の誤りとは考えにくいとしました。 白鳳(白雉)5年、(天智)摂政6年は一致しているため、 12年、13年、14年が誤算だろうとしました。 >>556
[1243] 所功は、 白鳳が斉明天皇と天智天皇の時代に使われたとする説に対し、 1年のずれを考慮すれば13年となり斉明天皇の時代に収まる14年 (>>558) を除けば、 大織冠伝 では天智天皇の時代に使われていないと指摘しました >>502。 この指摘は 大織冠伝 について正しいですが、 貞慧伝 に白鳳16年がある以上、 些事に過ぎないと言わざるを得ません。
[1246] 貞恵伝 の白鳳5年にも 日本書紀 と1年のずれが指摘されています >>1078。
[2573] こちらは干支年も併記されており、 元号年と一致しているので、 単純な誤算とはいえません。 記事の内容も、 構成が違うので、 そもそも同じ時点を指しているのかどうかから検討が必要そうです。
[550] 田村圓澄は、 藤氏家伝 (>>642) 上 (大織冠伝、貞慧伝) を根拠に、次のように推測しました。 >>502
[557] 所功 (>>255) は、 中臣鎌足の死去まで用いられた、 藤原氏が特別な感情を持っていた、 といった点に疑問を呈しました。 根拠として藤氏家伝の紀年 (>>558, >>577) や、 天平9年太政官奏 (>>1048) で白鳳時代と近江の天智天皇時代が区別されていたことを挙げました。 >>502
[2562] 現存する史料から、 白鳳の元号と藤原氏を結び付けて考えるのは自然な流れです。 坂本太郎 (>>517) も、 藤氏家伝 の白鳳から藤原氏と関係が深い多武峯を経て天武白鳳へとつながるルートを想定しました (>>1455)。 しかし 藤氏家伝 の紀年法 (>>1036) は、 田村圓澄のいうほど白鳳と藤原氏の密接な関係を物語るようにはみえません。
[2319] 役小角は、 いわゆる白鳳時代の人物でした。 その人物像は、 確かな情報がほとんど残されていません。 死後、 修験道の開祖として崇められるようになり、 伝承が発展しました。
[2575]
伝承にはよく白鳳が出てきます。
古いものとして、
平安時代後期までに成立したとされる、
箕面寺縁起 (>>2285)
と
扶桑略記 (>>666) 所引 役公伝
があります。
ここで使われている白鳳は主に
2種類あって、
1つは●: 白雉元(650)年
[1536] 扶桑略記 に引用された 役公伝 の内容は 日本霊異記 (>>1378) 系統の役小角伝承とされます。 日本霊異記 上巻28 に似た内容の話がありますが、完全には一致せず、文章としても異なります。 日本霊異記 には 「所以晚年以四十餘歲」 「藤原宮御宇天皇之世」 「大寶元年歲次辛丑正月」 とありました >>1382。 白鳳何年とはこの伝承に後から、 平安時代中期から後期頃に付け加えられたのでしょうか。
[2334] 扶桑略記 は、この白鳳の他に、 天武白鳳を記述していました。 著者は天武白鳳を正しいと考え、 役公伝 の白鳳を不審とみていたようです (>>1531)。
[1759] 箕面寺縁起 と 扶桑略記 所引 役公伝 の前後関係は不明ですが、 扶桑略記 の記述は不審でした。 白鳳47年 → 白鳳56年 → 大宝元年の順に記述されていましたが、 白鳳56年は大宝元年より後になります。 白鳳47年と大宝元年に干支年が併記されているのに、 白鳳56年だけ年数のみです。 「一(年)庚子」が雑に書かれて「六(年)十」 と誤読された可能性は検討する価値がありそうです。
[2317] 白鳳20/21年10月17日だけ「甲午」と日干支が付されているのは不審です。 日本の暦日データベース の使っている旧暦に從うなら、 この付近で10月17日の日干支が甲午となるのは、 和銅3(710)年です。 なにかが間違っているようです。
[2817] 白鳳20年庚午の年干支が原形だった可能性もあります。
[2397] 当麻寺流記 写本に 箕面寺縁起 が引用されていますが (>>2390)、 白鳳の元号年が省略されています。 引用に使った 箕面寺縁起 の時点ですでに省略されていたのでしょうか。 それとも引用者が不審に思って省略したのでしょうか。
白鳳47年、白鳳56年
[1840]
大織冠伝 (>>939)
の斉明天皇時代に当たる白鳳12年、13年、14年は、
白雉と等しい孝徳天皇時代の白鳳だと解釈すると、
日本書紀
と1年ずれています >>1731。
この部分が白雉と一致すると仮定すると、
元年は1年早い孝徳天皇5(649)年
[2563] 伴信友 (>>1038) は、 大織冠伝 は 日本書紀改刪 (>>1614) 前の状態を伝えていると考えました。 それによると元の 日本書紀 の白雉 = 白鳳は、 現在の 日本書紀 の白雉より1年早いものでした (>>1841)。
... と紹介しました。括弧内が伴信友の説明で、 括弧外は斎藤励が伴信友の論旨から調整したものだといいます。 >>556 括弧内の伴信友の説明は、 伴信友が結論としてまとめたものでした。 括弧外の伴信友の論旨とは、 日本書紀改刪 (>>1614) 前と伴信友が考えたもののようです。 伴信友の書き方がやや不明瞭なため、 真意はよくわかりません。
[756] 斎藤励は、 藤氏家伝 に基づき、 白雉 = 白鳳は斉明天皇時代も引き続き使われたとしました。 藤氏家伝 の1年のずれは、換算の誤りとしました。 (>>1080) >>556 此れ以後、 換算ミスが通説となっているようです。
[848]
扶桑略記
などの役小角伝承には、
白鳳の元号を使って持統天皇や文武天皇の時代を表現した例がみられました
(>>2319)。
孝徳天皇の後十数年が経過した時代ですが、
元年は白雉と同じか、
1年遅れて孝徳天皇白雉2(651)年
[1862] 伴信友 (>>1038) は、 一代要記 (>>1735) 天智天皇の條所引の 箕面寺縁起 (>>2285) に、 「白鳳廿年庚午」 とあること、 色葉字類抄 (>>2320) 箕面寺の下に、 「白鳳二十一年辛未十月十七日云々」 とあること (>>2324) を引いて、 年次と干支が一致するので同じ縁起の文にみえるとした上で、 白雉2年が元年で 大織冠伝 と1年ずれているとしました。 仏僧の作り話が混じった縁起なので事実は信用できないが、 年代書などによって年号を決めたものだろうとし、 1年ずれているのは依拠した本がずれていたのか、 記載時に誤ったのか、 とみていました。 >>1731
[849] 1年ずれた大化 (>>1399) にちょうど接続しますが、 関連性は不明です。
[851] 白雉の延長年号だとしても、 天武天皇の朱鳥の時代より更に後の時代をあえて白鳳で表した理由が謎です。 当該記事は文武天皇の時代に流罪になった役小角に関するものですから、 政府批判的な態度で延長年号を使ったという可能性はあるでしょうか。 しかし 扶桑略記 成立は摂関期、 源平合戦すら経験していない時代です。 それより前に作られた逸話にそのような考え方はあり得るのか疑問があります。
[850] 朱鳥が忘れられた年代記の類があって、 孝徳天皇の白雉時代以後文武天皇の大宝まで、 ずっと白鳳で数えることでもあったのでしょうか。 持統天皇や文武天皇の時代まで何十年も離れていますから、 数え間違えて1年ずれるようなことも起こり得そうです。
[71] 孝徳天皇のあと、 斉明天皇が即位しました。 斉明天皇は皇極天皇の重祚でしたが、 日本書紀は皇極天皇即位紀年でも白雉の続きでもなく、 二度目の即位の年 (白雉6年) を 「元年」としていました >>69。
[1104] 日本書紀 持統天皇4(690)年10月に、
乙丑。詔二軍丁筑紫國上陽咩郡人大伴部博麻一曰。於下天豐財重日足姫天皇七年救二百濟之役上。 汝爲二唐軍一見レ虜。
... とあり (続き >>1105)、 引用された詔の文中で斉明天皇即位紀年で斉明天皇7(661)年が言及されました >>859 p.二一一, >>837。
[852] この時代の記述には、 斉明天皇即位紀年の他に、 白雉の延長年号たる白鳳 (>>783) を使ったものや、 異年号である宝元 (>>299) を使ったものがみられます。 しかしいずれも 日本書紀 成立以後のもので、 当時使われたかどうか定かではありません。 当時使われたことが確かなのは、 金石文や木簡にみられる干支年だけです。
[299] 西琳寺の金堂阿弥陀仏光背銘に「寳元五年己未」
とあったと
西琳寺縁起
(鎌倉時代成立)
に記録されており、
斉明天皇5年と解されています。
宝皇女 (斉明天皇)
の天皇即位紀年たる異年号と考えられています。
[2579] 天智天皇 (中大兄皇子) は、 斉明天皇7(661)年7月24日の斉明天皇の崩御に伴い称制し、 天智天皇7(668)年1月3日に即位しました。
[73] 日本書紀 は、 天豐財重日足姫天皇 (斉明天皇) 紀に7年末まで斉明天皇に関する記事を掲載し、 天命開別天皇 (天智天皇) 紀に斉明天皇7年の崩御から後の記事を掲載しました。 約半年分、期間がかぶる形となっていました。 この半年は、 天智天皇紀でも斉明天皇の「七年」とされました。 その次の年が天智天皇の「元年」とされ、 「十年」まで記事が続きました。 >>69, >>72
[2580]
現在の各種対照表などもこれに倣っているものが多いようですが、
異説もあります。
[886] Wikipedia の斉明天皇記事の表は、 斉明天皇7年まで示した後、 8年と9年を括弧付きで示しました。 >>1106 その意図は不明です。
[2882] 日本国志 (>>2881) は天智天皇の即位 (≠ 称制) までを斉明天皇の天皇即位紀年によっています。
[143] 斉明天皇7(661)年を天智天皇元年とするものがあります。 つまり一般的な数え方より1年早く (大きく) なります。 天智天皇の称制 (事実上の代替わり) がこの年だったことを重視したものとみられます。
[547] この方式を採用した例として、 万葉集左注引用日本紀 >>502 (万葉集の紀年, 岡田芳朗, 日本古代史の諸問題, 昭和43年刊)、>>447、 日本年号史大事典 巻末年号対照表 (>>181) などがあります。 天智天皇時代の白鳳の多数説の元年も、 この方式に由来するものでしょうか (>>1682)。
[2584] Wikipedia の天智天皇記事は、 冒頭で称制と (日本書紀 方式の) 元年の1年のずれに注意を促しながら、 歴史の章でこれを混同しそうな曖昧な記述をしていました。 >>136
[222] 天智天皇7(668)年に天智天皇は正式に即位しました。 そこでこの年を天智天皇元年とするものがあります。 日本書紀 自体に次のような6年ずれた記事があり、 元年の決め方の違いによるものとされています。
[221] 日本書紀 天武天皇即位前紀に、 「天命開別天皇元年立爲東宮。 四年冬十月庚辰。 十二月。天命開別天皇崩。」 とありました >>74。 天智天皇の時代に天武天皇が皇太子となったこと、 天智天皇が重病となったこと、 天智天皇が崩御したことが、 天智天皇の1年と4年の出来事と説明されていました。 これに相当する天智天皇紀の記事は、 それぞれ7年、10年となっていました >>72。 つまり6年のずれがありました。
[1105] 日本書紀 持統天皇4(690)年10月乙丑条に、
詔二軍丁筑紫國上陽咩郡人大伴部博麻一曰。 洎天命開別天皇三年。土師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元寶兒四人、思欲奏聞唐人所計、縁無衣粮、憂不能達。
... とあり (>>1104 の続き)、引用された詔の文中に 「天命開別天皇三年」 (天智天皇3年) とありました。 記述内容の整合性より、 天智天皇9(670)年と解されています >>837。 つまり6年のずれがありました。
[2581] 日本書紀 が採用する天皇何年の書き方を一般に天皇即位紀年などと呼び慣わし、 「何々天皇何年」 のように書いていますが、 天智天皇の場合 「天智天皇3年」 と書いても3通りの解釈が生じます。 日本書紀 に有る書き方という意味で 「(日本)書紀何々天皇何年」 のような書き方もあり得るのですが、 天智天皇の場合 日本書紀 だけでも2通りの解釈があります。 「天皇即位紀年」 という総称も天智天皇については紛らわしい呼び方です。
[2582] そこで 「天智天皇称制何年」、 「天智天皇即位何年」 のように書き分けることがあります。 ところがこの書き方も、 日本書紀 の称制何年は称制の翌年が元年なので、 1年分の解釈のずれが生じ得ます。 また、 即位後を 「天智天皇称制8年」 のように書くのは違和感があるかもしれません。 即位何年は明白かと思いきや、 他の天皇でも 「何々天皇何年」 を別称で 「何々天皇即位何年」 と書くことがあって、 天智天皇でも深く考えず「即位」 と書いている可能性を捨てきれません。
[414] 平成時代の日本政府 (内閣総理大臣名、おそらく宮内庁職員作成) の文書で、 日本書紀 から引いて 「天智天皇称制六年二月二十七日」 と述べた例がありました >>411。 日本書紀 そのものにある表記ではなく、 担当者の判断で補ったのか、 参照した文献がこう書いて明確化していたのでしょう。
[2601] 現存する金石文は、 当時を干支年で書き表していました。 天皇即位紀年の現存最古は 日本書紀 とみられます。 天皇即位紀年が当時使われたものかどうか確証はありません。 確かに言えるのは、 日本書紀 編纂の時代までに 2種類の数え方が成立していた (そして混乱もあった) ことくらいです。 日本書紀 所収の詔 (>>1105) が原文そのままであるなら、 持統天皇時代にそのうち1種が既に成立していたことになります。
[2583] 藤氏家伝 (>>642) は、 「摂政六年」 の次の 「七年」 に天智天皇が即位したと書き、 その翌年を 「即位二年」 と書きました。 つまり 日本書紀 の2つの天智天皇即位紀年に相当するものを、 「摂政」と「即位」と呼んでいました。
[2279] 大日本史 (>>2280) は、 即位年からの天皇即位紀年を採用しました。 称制時代は 「壬戌歳」 など干支年で記述されました。 >>2278
[2109] 伴信友 (>>1038) は、 次の事例を挙げて、 天智天皇即位紀年に2種類あると指摘しました。 伴信友は、 天智天皇当時は孝徳天皇時代の白鳳 (>>783) を使い続けていたとしました。 天智天皇即位紀年の混乱は、 後の時代に生じたものとしました (>>1861)。 >>1731
[761] 斎藤励は、 藤氏家伝 (>>642) に基づき、 天智天皇時代は摂政何年、即位何年と数えていたとしました。 斉明天皇は中継ぎで即位したので前の時代の白鳳の元号を使い続けたのであり、 天智天皇の時代になったら使わなくなったのは明らかとしました (>>759)。 >>556
[1045] 藤氏家伝 (>>642) の 大織冠伝 には、天智天皇の摂政の7年、 すなわち天皇即位の年に、 「刊定律令」 とありました。 近江令を指しています。
[273] 平安時代の日本の法令集 弘仁格式 (弘仁11(820)年4月21日成立も現存せず) の序文 (類聚三代格 (11世紀頃成立 >>1046) 所収 >>1043, 本朝文粋 (康平年間成立) 所収 >>1044) に、 「降至天智天皇元年制令廿二巻世人所謂近江朝廷之令也」 とありました。 近江令成立を「天智天皇元年」としました。
[878] 本朝法家文書目録 に 「令廿二巻。天智天皇元年作。近江令是也」 とありました。 >>879 p.一九
[877]
本朝書籍目録
(13世紀頃成立)
に「令
[275] Wikipedia の近江令記事は、 「「天智天皇の命令により藤原鎌足が天智元年(668年)に律令を編纂した」(『藤氏家伝』大織冠伝)」、 「正史の『日本書紀』には近江令制定の記事はない。しかし、天智9年(670年)条 。天智10年(671年)に 。」 と書きました >>274。 括弧内の西暦年を誰がどのような根拠で補ったか不明ですが、 元年と9年の西暦年が2年差で、 明らかに矛盾しています。 前者は即位紀年、後者は称制紀年です。
[2585] 次の時代との境界も壬申の乱の混乱期に当たり、 複数の数え方があります (>>368)。
[978]
天智天皇の時代を中心に白鳳の元号 (>>783)
を当てる説が、
中世頃から現在までみられます。
斉明天皇7(天智天皇称制0、661)年
[1682] 日本書紀 は壬戌年を天智天皇の元年としますが、 斉明天皇が崩御し天智天皇が称制したのは辛酉年でした。 両説とも天智天皇の代始改元と位置付けるものといえます。
[944] 神皇正統記 (>>746) は、 元号名だけで年代を示していませんが、 天智天皇の時代の元号を白鳳としていました。
[1683] 二中歴 (>>1671), 興福寺年代記 (>>1669), 如是院年代記 (>>1673) は、 辛酉年を白鳳元年としていました。
[1108] 天智天皇の時代に白鳳が用いられたとする説が、 いつしかその元年から白鳳が使われたとみなされ、 元年の解釈の違いから2説が生じたのでしょうか。
[1681] 神皇正統記 が示した各天皇と白雉、白鳳、朱雀、朱鳥の元号の流れは、 二中歴 系統の説と似ており、関係性を検討する価値がありそうです。
[2110] 伴信友は、 当時孝徳天皇時代の白雉から改称した白鳳が使われ続けていたはずと考えており、 後の時代に混乱が生じたものとしました (>>1861)。 天智天皇時代の白鳳の説を示したものとして、 次のものを挙げていました。 >>1731
[1685] 坂本太郎は、 天武白鳳説を検討した上で更に異説として 神皇正統記 説 (>>944)、 二中歴・興福寺年代記・如是院年代記説 (>>1683) を挙げ、 その信憑性を「それらの各々を批判する必要を感じない」 程度のものと評しました。 >>859 p.二二八
[1688] これらの文献に先立つ 興福寺伽藍縁起 (>>1632) は、 不思議と天智天皇の白鳳と天武白鳳を結び付ける性質を持ち、 天智説の成立との関係が注目されます (>>1661)。
[1008] 祝部行丸の 日吉社神役年中行事 に、 「第三十九代号大津宮、天智帝志賀都候白鳳二年三月上巳」 とありました。 日吉社神道秘密記 に、 大比叡大明神臨幸の時代として、 「第三十九代天智天皇御宇白鳳二癸酉年三月上巳」 とありました。 >>1001 PDF p.20
[1009] 日吉山王祭礼新記 (奥書貞享5(1688)年) は、 「天智天皇の御寓、白鳳元年」 とあり、 大僧都覚深識文に 「天智聖代大宮権現鎮座ヨリ 従二白鳳年中一至二延暦九年一」 とありました。 >>1001 PDF p.20
[1010] 大僧都覚深の 日吉山王権現知新記 に 「日吉鎮座記ニ云、人王三十九代天智帝ノ御宇白鳳二年三月三日」 とあり、 注記で 「鎮座記ニ云ハニ天智帝白鳳二年ト一誤也、 白鳳二年者天武天皇即位二年也」 と訂正されていました。 注記が覚深のものか、後人の追記か不明です。 >>1001 PDF p.20
[1684] 癸酉年は日本書紀天武天皇2(673)年ですから、 天武白鳳との混乱がみられます。 (天智天皇0(661)年は辛酉、 天智天皇2(663)年は癸亥です。)
[1011] 八塚春児は、 平野神社伝承 (>>1002) も含め、 日吉社関係で天智天皇時代の白鳳の説が一定程度流布していたことは間違いないとしました。 >>1001
[1007] 現代の寺社の由緒を記したものでも、 西暦年換算がこの時代となっているものが少なからずみられます。
[1116] Wikipedia は白鳳の説の1つとして、 「『二中歴』『海東諸国紀』等」 (>>1671) を出典に元年 (西暦661年) から23年 (西暦683年) まで続いたとしています。 >>1114
[970] 同じ Webページに掲載された由緒書だが、この数年間のうちに改訂された。 新しい版は異なる典拠が示され、西暦年換算も変わっている。 その「宝永三年(一七〇六)新川四社大権現由来書」 のリンク先に同書の画像と解説がある。
[977] 出典不明だが、 何らか由緒をまとめた資料によるのだろうか。 現地案内板 (>>975 テキスト、>>976 写真) に似たような説明はあるが、白村江云々や白鳳何年という記述はない。 白村江の戦いは天武天皇の時代でなく、天智天皇の時代。
[954] この年とする説は他に見当たらない。 案内板を写した写真も見つからず。
[955] 桑實寺遷史 は桑実寺で配布されたものらしく、住職の著書でもあり公式見解とみてよかろう。
[956] この寺は西国四十九薬師に属しているので、 その団体たる西国四十九薬師霊場会にも属しているに違いなく、 であるとすればこれも公式見解に近いものといえるが、 西暦年換算が違っている。
[957] 西国四十九薬師としての朱印状の写真あり。 この台紙が桑実寺で用意しているものなのか、 西国四十九薬師全体でまとめて提供しているものなのかわからないが。
[958] 定恵は天智天皇4(665)年12月23日没とされているし、 天智天皇の勅願で天武天皇6(677)年に創建というのは時間が経ちすぎている。 孝徳天皇の白雉とすると、 白雉6年 = 斉明天皇元(655)年だが、 元明天皇は斉明天皇7(661)年生まれで辻褄が合わない。
[76]
天智天皇10(671)年、
天智天皇が崩御し、
弘文天皇 (大友皇子)
が後継者となりました。
ところが翌天武天皇元(672)年
[115] この弘文天皇について、 日本書紀 は即位の記事を掲載せず、 天皇として扱いませんでした。 その後即位説が生じ、 江戸時代に通説化しました。 ただ現在では即位の根拠が不十分で実態は不明とされています。 >>369
[1012] この事実の解釈をめぐり、 壬申年と天武天皇の時代の天皇即位紀年にも混乱が生じました。 しかも中世以来、 天武天皇の時代に朱雀、白鳳の元号が定められたとの説が流布され、 広範囲で信じられていました。 日本書紀 にあった朱鳥も含めた各元号が組み合わさって、 実に様々なバリエーションが生まれました。 この時代の記述は古代日本でも特に酷く混乱しているのです。
[368] 日本書紀は天智天皇没年すなわち天智天皇称制10年の翌年、 つまり壬申年を天渟中原瀛眞人天皇 (天武天皇) の元年としました >>74 (㋐')。
[111] 日本書紀
を引用する学術論文や Webページをはじめ、
それ以外の記事や対照表の類 >>323, >>347 も、
日本書紀
方式を踏襲したものが多いようです
[134] Wikipedia の各記事 >>132, >>133 も 日本書紀 方式と同じく、 天智天皇没年すなわち西暦671年を天智天皇10年、 翌壬申年すなわち西暦672年を天武天皇元年としました (㋐)。ただし、 (㋒):
[91] 弘文天皇の即位を認め天皇即位紀年を建てる立場であっても、 日本書紀に倣い踰年称元を採り 672年を元年とするもの (㋒㋓) と、 即位の671年を元年とするもの (㋔) があるようです。
[185] 弘文天皇を認め天武天皇の元年を即位年とする場合 673年が元年となり (㋓㋔)、 日本書紀より1年遅れます。
[172] 辞書類では弘文天皇に関する記事で天武天皇元年ではなく弘文天皇元年とするものが多いようです >>159。かといってそれによって天武天皇年を遅らせることも無いようです (㋑)。
[180]
一方で対照表の類でしばしば天武天皇年を遅らせる方式
(㋓㋔) が採用されているようで
>>113, >>50、 Webページなどでもそれに従うものがいくらか見られます
[380] かなり古い時代から使われていたようで (>>372)、 在位当時からあった数え方かもしれません。
[181] 日本年号史大事典 巻末年号対照表は天皇即位紀年と元号を併記し、 この期間の元号は空欄となっていますが、天皇即位紀年については天智天皇を称制開始年を元年とするため他より1年早く、 弘文天皇も即位を元年とするため壬申の乱より1年早く2年間、 天武天皇もまた即位を元年としています (それらの前の斉明天皇は日本書紀と同年)。 天武天皇年については日本書紀との違いの注記があります。 (㋔)
[182] この時代の出来事を検討する上で現存史料で最も時代が近い日本書紀は避けて通れません。 日本書紀以来1000年以上にわたり、 各種文献、論文、 Wikipedia、日本の暦日データベース、 多数の Webページなどが日本書紀方式 (㋐) で各年に言及してきました。 この天武天皇紀年をずらすことは混乱の元でしかなく、 好ましい選択には思えません。
[370] 一方で弘文天皇の即位を認めて壬申年を弘文天皇紀年で表現する方法 (㋑㋒㋓) もそれなりに広く行われているのもまた事実です。 この方法を無視することはできそうにありません。
[371] 従って、対照表や実装の類は、 次のような方針を採るべきでしょう。
[2388]
役小角本記
に
「天智天皇六年丁卯四月
天武帝九年庚辰 」
とありました。
これを引いて、
9年は庚辰でなく辛巳だとする論文がありました。
>>2386 PDF 5ページ、17ページ
日本書紀 の壬申年元年方式では9年は庚辰で正しく、
9年が辛巳となるのは癸酉年元年方式です。
なお
役小角本記
は偽書で、
神亀元(724)年
[2542] 寛政6(1794)年、 日下部勝皋は、 薬師寺東塔檫銘を解して 日本書紀 と天武天皇の即位紀年に 1年のずれがあることを指摘しました。 当時壬申年を弘文天皇の元年、 癸酉年を天武天皇の元年と数えていたとしました。 >>2541, >>2540 (>>2541)
[2539] 伴信友は、 藥師寺の塔の露盤の擦銘に 「維清原宮馭宇天皇卽位八年庚辰之歳建子之月」 とある (>>1256) のを引いて、 持統天皇の時代まで壬申年を弘文天皇の元年、 癸酉年を天武天皇の元年と数えていたとしました。 >>2540 PDF p.8
「天武十年(六八二)三月」p.47というのは when.exe MS-DOS版 のせいかもしれません。日本書紀からの引用なので、これは 681年でなければなりません。
[538] 天武元年: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201602/article_28.html
どちらが正しくどちらが間違いというわけではないのですが、 日本書紀に従った紀年の方は、明らかに史実ではない時代まで 遡りますからサブとせざるを得ず、結果壬申年を弘文元年と する方がメインになってしまいます。
[2780] shirin_007_3_375.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/247246/1/shirin_007_3_375.pdf#page=26
[2858] >>2857 弘文天皇の即位を日本書紀が隠蔽、と陰謀論じみたことを書いている。 >>2857 は >>2859 を見よとしている。どちらも同じ著者。 >>2859 はあくまで研究史上の発見として紹介していて、 >>2857 だと江戸時代の発見で真相が解明されたように読める書き方になっている。 著者の真意はわからない。
[2868] 潜竜遺事, 磯田正敬, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/772421/1/107
[388]
昭和時代の友田吉之助は、
現在の干支年と異なる干支紀年法があって日本書紀の旧版はそれを採用していた、
とのかなり大胆な説を提唱しました。
[389] それに対して伊野部重一郎は、そのような概念を導入しなくても説明可能だと反論しました。 例えば、天武天皇前後の時代は次のような 日本書紀 の稿本または旧歴史観があり、 最終的な 日本書紀 の成立までに改められたという考え方を提示しています。 >>408
[116] 干支年は古い時代から新しい時代まで用例が見られますが、 天武天皇の即位紀年が使われたと確実にいえるのは奈良時代頃からのようです。
[114] 古い時代の史料が天武天皇時代を指すとき干支年か即位紀年を用い、 白鳳などの元号はみられません (番号は坂本太郎の論文内の整理番号): 干支年: 墓誌 (1 >>1255, 4 >>580, 6 >>1349), 日本書紀 朱鳥元年七月丁巳条詔 (3 >>1259), 続日本紀 延暦十年春正月己巳条牒 (8 >>1355), 類聚三代格 大同元年閏六月八日官符 (9 >>1356)、 即位紀年: 武智麻呂伝 (7 >>1244), 新撰姓氏録 (10 >>1360, 11 >>1361)、 即位紀年㋐: 大安寺 (5 >>1314)、 即位紀年㋓: 薬師寺 (2 >>1256) >>859 pp.二一二-二一三 近年までに出土した木簡も専ら干支年を使っていました (>>62)。
[117] 坂本太郎は、 天武天皇時代を記述する古い史料が、 独立した性質を持ちながらことごとく白鳳を使わないため、 少なくても平安時代初期まで、 天武白鳳は用いられなかったと推測しました。 >>859 pp.二一二-二一三
[118] ただし「大宝以前の固定性の少い年号」は干支年や天皇即位紀年を用いることが珍しくなく、 例えば白雉を使わない大安寺資財帳 (>>1319), 霊異記 (>>1398) の事例がありますから、元号がなかったとは断言できず、 推測に留まらざるを得ません。 >>859 pp.二一二-二一三
[119] 坂本太郎は、 霊異記 (大化 >>1389), 法隆寺資財帳 (大化 >>406), 孝徳天皇時代の白鳳 (>>783) と大宝より前の元号を使った例があり、 天武天皇時代に元号を使わない 藤氏家伝 (>>642) 下 武智麻呂伝 (>>114 7) に対し 藤氏家伝 上が白鳳を斉明天皇時代にまで使っていること、 天武天皇時代に元号を使わない 美努連岡万墓誌銘 (>>580) が大宝以後の元号を使っていることを挙げて、 いい加減な理由で天武天皇の時代に元号を使わなかったのではないとしました。 >>859 pp.二一二-二一三
[790] 天武天皇時代に白鳳の元号があったとされました (天武白鳳説)。
[156]
多武峯略記
所引
「後記」
に
「白鳳七
[1500] 次にみられるのは百数十年経過した 師元年中行事 でした (>>1499)。
[757] 扶桑略記 (>>666)、 水鏡 (>>1539)、 東寺年代記 に天武天皇2年癸酉3月の白鳳の祥瑞改元記事がありました。 >>556 扶桑略記 は、 天武白鳳説の最有力の史料とされていました >>859 p.二二一。 扶桑略記 で既に癸酉元年説の体系は完成されていたとされます >>859 p.二二二。
[763] 扶桑略記 は白鳳を14年間としていました。 >>556
[1565] 興福寺略年代記 (>>1557) は 扶桑略記 と同じ朱雀、白鳳、朱鳥の元年の系列を踏襲した例として挙げられます。 >>859 pp.二二二-二二三。
[1582] 東寺王代記 (>>1566) は 扶桑略記 と同じ朱雀、白鳳を採用していましたが、 白鳳の13年目に朱雀に改元されたとする「或説」 を書いていました。 必ずしも 扶桑略記 にばかり従ったものでなく (>>1581)、 諸種の異説があってその1つが記録されたものと考えられます >>859 p.二二三。
[1583] 天武天皇元年と白鳳元年の1年のずれから継続年数の異説が生じたとも、 白鳳元年の2説あるいは天武天皇元年の2説の1年のずれから生じたとも、 継続年数が改元年を含むかどうかの解釈のずれから生じたとも推察できます。
[781] 一代要記 (>>1735)、 愚管抄 (>>1508)、 皇代記 (>>1526) その他が壬申年天武白鳳説を採用していました。 >>556 扶桑略記 方式より1年早いものです。 愚管抄 が、 壬申年を元年とする「ややまとまって示された最初の史料」 とされます >>859 p.二一九。 皇代記 には改元理由が加わっており、 ここに至って壬申元年説が 「その体系を完成し、 一つの歴史知識として普遍的な性質を獲得したような感がある」 と評されました >>859 p.二二〇。 これ以後多くの年代記の類でこの説が踏襲されました。
[768] 愚管抄 (>>1508) は白鳳を13年間としていました。 >>556
[1677] 他に天武天皇時代を白鳳とする少数説がいくつかあります。
[931]
太神宮諸雑事記
は、
「白鳳二年
[1678] 壬申元年説を癸酉元年説と逆方向に1年ずらしたものに当たります。 何らかの換算ミスで発生したものでしょうか。
[1679]
興福寺伽藍縁起 (>>1632)
は、
「天武天皇卽位元年白鳳十二
[1680] 天皇即位紀年と天武白鳳が混同され結合されたものとみられます (>>1661)。
[1686] 坂本太郎は、 主要2説を検討した上で更に異説として 大神宮諸雑事記 説 (>>931)、 興福寺伽藍縁起 説 (>>1679) を挙げ、 その信憑性を「それらの各々を批判する必要を感じない」 程度のものと評しました。 >>859 p.二二八
[1772] 伴信友は、 癸酉年を元年とする史料と壬申年を元年とする史料を大量に収集しました。 伴信友は 日本書紀改刪 (>>1614) 説を主張していたので、 癸酉年を本来の天武天皇元年 = 白鳳元年としました。 癸酉年元年説の根據として次のものを示しました。 >>1731
[1807] 壬申年元年説は、 改刪によって壬申年が天武天皇元年になったことで生じたもので、 この1年のずれが改刪の証拠にもなるとしました。 壬申年元年説として、次のものを示しました。 >>1731
[1806] 白鳳から朱鳥への改元について、 次のような矛盾した例を示しました。 これらは著者が自分で年数を計算せず、 古い記録を収集したまま書いたものだとしました。 >>1731
[1835] その他、 琵琶の白鳳にも言及しました。 天武天皇の時代のものか、 銘文がはっきりしない、 としていました。 (>>1813)
[2104] 伴信友は、 孝徳天皇時代の白雉の別称に白鳳があったと考えていました (>>2082)。 天武白鳳も、 元は白雉だったものが、 白鳳に改められたとしました。 >>1731
[2520]
斎藤励は、
伴信友説を紹介するに当たり、
癸酉年3月に白
[762] 斎藤励は、 扶桑略記、水鏡 (>>764)、 帝王編年記 (>>1607)、 皇年代略記、 愚管抄 (>>1508)、 東寺年代記 その他 (>>765)、 神皇正統記 (>>766) より、 朱雀を天武天皇壬申年の元号としました。 続日本紀 (>>281) より公年号たることがわかるとしました >>556。
[767] 斎藤励は、 扶桑略記 (>>666)、 水鏡、東寺年代記 (>>757) より、 天武天皇2年の元号としました。 扶桑略記 (>>763) より、14年間としました。 >>556
[771] 斎藤励は、 日本書紀天武天皇2年3月壬寅に祥瑞記事があること、 白鳳14年丙戌に改元されたとすれば、 天武天皇15年丙戌の 扶桑略記 祥瑞・改元記事や、 日本書紀 朱鳥改元記事と一致するとしました。 一代要記、 皇代記、 愚管抄 その他 (>>781) が元年を天武天皇元年とするのは、 朱鳥元年丙戌の前年を白鳳最終年とし、 そこまで14年と遡って壬申を元年と誤ったものかとし、 愚管抄 (>>768) が白鳳元年壬申としつつ13年間とするのは更に誤りを重ねたものとしました。 >>556
... を示し、天武白鳳の天武天皇時代の実在を否定しました。 孝徳天皇時代の白雉の別称だった白鳳が、 関係性の記憶が失われた時代に 日本書紀 の白雉の祥瑞記事と結び付いて天武白鳳説が生じたとしました。 >>859, >>502 (>>859, >>883)
[1611] 坂本太郎は、 天武白鳳説の根拠とされる史料として、 次のもの (おおむね年代順) を検討しました。 (記号は論文内の整理番号) >>859 pp.二一四-二二四
[1584] これら史料の検討より、 天武白鳳説は村上天皇・円融天皇の時代に初めて現れ、 堀河天皇・鳥羽天皇の時代にやや盛んに流布し、 その後広まったとしました。 ここから読み取れるのはあくまで史料制作当時の巷説・思想であって、 遡って天武天皇時代の事実とするのは 「慎重な史家のとるべき道でない」 と伴信友や斎藤励の説を否定しました。 >>859 pp.二二三-二二四
[1455] 坂本太郎は、 白雉と同じ白鳳 (>>783) を使った 藤氏家伝 と、 天武白鳳の初出 (>>156) の 多武峯略記 が定恵によって結ばれることに注目し、 天武白鳳が生じた理由が多武峯にあったのではないかと考えました >>859 p.二一六。 より強く、 「多武峯だけでの一説ではなかろうかと疑った」 ということでした >>859 p.二一九。 しかし 「不幸にしてそれは見出し難い」 とせざるを得ませんでした。 「白鳳号についての名称上の意識が非常に明らかに存在していたことが、 天武白鳳説を生ぜしめる一つの要素となったとせられぬことはない。」 としました。 >>859 p.二一六
[1501] 多武峯略記 で白鳳が盛んに用いられ (>>156) てから、 次の 師元年中行事 の頃「微弱な一説」 として現れる (>>1500) まで、 百数十年の断絶があります。 坂本太郎が多武峯との特異的な関係を疑ったのはこれによるものでした。 >>859 pp.二一八-二一九
[1625] 坂本太郎は、 孝徳天皇時代の白雉に奈良時代に白鳳の別称が生じ、 平安時代まで併用されるうち、 両者の関係性の知識が次第に失われて別の元号と考えられるようになり、 日本書紀 にもある天武天皇時代の白雉の祥瑞に結びついて天武白鳳説が成立したとしました。 口遊 (>>1626) が白雉と白鳳を列挙しながら白鳳がどの時代かを示さなかったのは、 その過渡期の姿だとしました。 >>859 pp.二二七-二二八
[1525] 坂本太郎は、 扶桑略記 (癸酉元年説) より 愚管抄 (壬申元年説) が後から成立したものであることから、 後者の筆者が前者を参照することはできたものの、 両者の内容の比較から、 それぞれ独自に巷説を記述したものとしました。 元年が異なるのも、 流動しやすい巷説であることを物語っているとしました。 >>859 pp.二一九-二二〇 白雉の祥瑞に結びついて癸酉元年説が生じ、 天武天皇元年を壬申年とするか癸酉年とするか曖昧であったために壬申元年説が派生したものではないかとしました。 >>859 p.二二八
[1687] 坂本太郎は、 天武白鳳説主要2説、 異説2説 (>>1686)、 天智天皇時代の白鳳説 (>>1685) といった異説が頻出することは、 白鳳の成立の根拠が流動して常のない巷説だったことを示すのではないかとしました。 >>859 p.二二八
[847] 江戸時代後期から昭和時代に初期元号の研究が進み、 異説が否定されてきましたが、 白鳳はかなり後の時代まで白雉と別の元号として扱われていました。 美術史上の区分白鳳時代はその名残です。 昭和時代に出版された日本年号大観も、 白鳳を掲載していました。
[911] 一般向けの辞典付属の元号一覧の類では、 20世紀末頃まで白鳳などが掲載されていることがありました (もしかすると21世紀に入ってもあったかもしれません)。
[1117] Wikipedia は白鳳の説の1つとして、 「『麗気記私抄』等」を出典に元年 (西暦672年) から14年 (西暦685年) まで続いたとしています。 >>1114
[912] 寺社の創設の歴史を記した案内板や自治体・観光団体の紹介文、 古い時代の出来事を扱った民間のWebサイトなど、 現在でも白鳳を使って年号を記述する事例は数多くみられます (次に示すのはその一部です)。 天武天皇元年を白鳳元年とするものも、 天武天皇2年を白鳳元年とするものもみられ (それ以外の白鳳もあり)、 中世の混乱が現代に持ち越されている形となっています。
[648] CLDRの和暦, CLDR元号コードがなぜか天武白鳳に対応しています。
[920] 邇幣姫神社由緒記 には白鳳地震が 「白鳳十三年甲寅の四月十四日」 とあります >>919 が、 日本書紀など一般に白鳳地震は天武天皇13(684)年甲申とされています。 この付近で甲寅年は白雉5(654)年で、 干支の誤記と解するのが妥当でしょう。
[2822] 郷土研究東三河ところどころ, 豊田珍彦, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1261780/1/107 (要登録)
[77] 日本書紀には天武天皇14年の次に
「朱鳥元年春正月壬寅朔癸卯。
秋七月己亥朔庚子。
戊午。改元曰朱鳥元年。〈朱鳥。此云阿訶美苔利。〉 」 >>75
とありました。
ここでも元日から先立って朱鳥の元号が使われました。
[780] 斎藤励は、 日本書紀 に朱鳥改元記事があるので実在は疑いないとしました >>556。
[1692] 斎藤励は 熱田縁起 (>>524) の「朱雀元年丙戌」 を朱雀の根拠としました。 >>556。
[784] 斎藤励は天武天皇時代に朱雀があったとするため、 さすがに同じ天武天皇の時代に朱雀2回は紛らわしいので朱鳥とした、 朱鳥が正しいが朱雀とも言ったとしました。 >>556。
[2128] 日本書紀 は、 朱鳥に改元した理由を説明していませんでした。
[2131] 改元前後、天武天皇は重病を患っており、 改元後まもなく崩御しました。 このため、 改元意図は天武天皇の病気平癒祈願と推測されています。 >>502 (岩波日本古典文学大系日本書紀下巻四八〇頁頭注一)
[2137] 日本書紀 によると、 改元の5日前に天武天皇は皇后の持統天皇と皇太子の草壁皇子に政治を委ねたとされます。 すると改元はこの新しい政治体制と関係するとも考えられます。 持統天皇の称制と朱鳥を関連付ける考え方 (>>2113) も、 根底にはこの時系列があるのでしょう。
[2132] 日本書紀の天武天皇9年7月、10年7月に、 朱鳥、朱雀の出現記事がありました。 これとの関連が指摘されました。
[1816] 伴信友は、 日本書紀 天武天皇9年、10年の朱雀によるとする説について、 5,6年前の祥瑞で改元するとは考えにくいとしました。 >>1731
[1815] 中世以後の多くの歴史書が、 天武天皇15年に大和国から赤雉が献上されたことによる改元としていました。 扶桑略記 (>>666) >>1731, >>502 に 「白鳳十五年丙戌、大倭國進赤雉、仍七月改元爲朱鳥改元」 とありました >>1731。 水鏡、 吾妻鏡 などにも同じでした >>1731。 皇年代記 に 「十五年大和國獻赤雉、仍爲瑞改元」 とありました >>1731。 皇代記、 一代要記などが、 大和国から赤雉が献上された祥瑞改元としていました >>502。
[2133] ただしこれは 日本書紀 のような古い記録にない記事で、 信頼できるものかどうか、 定かでありません。
[782] 斎藤励は、 日本書紀 に改元理由がないため、 扶桑略記 (>>666)、 一代要記 (>>1735)、 皇年代略記、 皇代記 (>>1526) に同年赤雉祥瑞による改元、 釈日本紀 に9年、10年朱雀祥瑞による改元とあることを挙げ、 赤雉の祥瑞は他に例がないので朱雀が正しい、 釈日本紀の朱雀は数年前なので不審、 同じ朱雀が再び現れて改元されたのであり、 扶桑略記 が赤雉としたのは 編者の「疎漏」としました。 >>556。
[1819] 伴信友は、 日本書紀 に天武天皇が鳥や赤色を重視した記録があり、 朱雀や朱鳥を建元したのもそれによるものだとしました。 >>1731, >>502 (伴信友は朱鳥と朱雀が天武天皇時代の 2つの元号と考えていました。)
[2134] 直木孝次郎は、 天武天皇が壬申の乱や朱鳥改元で赤色を喜んだと指摘しました。 >>502 (飛鳥奈良時代の研究, 昭和五十年刊, 持統天皇と呂太后, p.126, p.143)
[2136] 伴信友は、 天武天皇の時代の元号に他に白雉、白鳳もあるが、 これは前の時代の元号を再利用したものなので別の話だとしました。 (伴信友は孝徳天皇時代の白雉・白鳳が天武天皇時代に再利用されたと考えていました。)
[2135] 直木孝次郎は、 天武天皇と持統天皇が朱鳥を建元したのは天智天皇の白雉に対抗する意図があったと推測しました。 >>502 (飛鳥奈良時代の研究, 昭和五十年刊, 持統天皇と呂太后, p.126, p.143)
[887]
朱鳥の終わりをいつとするか、
はっきりしないところがあります。
(白雉の終わりと似ています。
[2272] この時期の日時を生成する時、 通常は西暦686年の末までを朱鳥元年とし、 翌年以降を持統天皇元年、2年と数えていくのが適切と考えられます。 朱鳥の日時を解釈する時、 年数の上限を設けずに認識するのが適切と考えられます。
[78]
日本書紀
では、
天武天皇紀が朱鳥元年9月の天武天皇の崩御を境に高天原廣野姫天皇 (持統天皇) 紀に続き、
持統天皇の称制から12月まで朱鳥元年の記事がありました。
その後改めて「元年」となりました。
>>18
なお
日本書紀
は年始から遡及年号を使う編纂方針のため
[327] 現代日本の多くの対照表の類は一般に西暦686年末まで朱鳥元年、 西暦687年初から持統天皇元年としています >>92, >>323。
[141] Wikipedia の元号一覧は持統天皇の称制の日である朱鳥元年9月9日を朱鳥最終日とし、 以後空白期にしています。 この数え方では朱鳥の継続期間は約2ヶ月となります。 しかし他の記事では、残りの期間も朱鳥元年として扱っています >>207。
[93] 古い文献には朱鳥8年まで用例があります >>92, >>269。 ただし元年が1年ずれているものがあります (>>2116)。 江戸時代には、 2年以降の朱鳥の用例を根拠に、 持統天皇の即位 (持統天皇4年) と朱鳥の継続期間を関連付ける説が有力と考えられたようです。
[2113]
西生懐忠は、
鬼室集斯墓 (>>1820)
の
「朱鳥三年」
を説明するため、
天武天皇の崩御後に持統天皇が称制し、
翌年が称制元年、 4年が天皇元年となっていて、
それまで朱鳥を使っていたのが、
後に称制元年を持統天皇元年としたものとしました。
愚管抄 (>>1508)、
皇代略記
が天武天皇没後7年まで朱鳥とすることにも言及しました。
[2122] 新井白石は、 那須國造碑 (>>213) の 「朱鳥四年己丑」 説を説明するため、 己丑年は持統天皇3年、 朱鳥4年に当たり、 その翌年に持統天皇が即位したので、 持統天皇の即位前には朱鳥が使われ続けたとしました。
[2124] 藤貞幹は、 好古小録 で、 那須國造碑 (>>213) の 「朱鳥四年己丑」 説を説明するため、 朱鳥は諸書に 11年まで見えると指摘しました。 >>2114
[2270] 伴信友は次のように指摘し、 乙未年の改元まで朱鳥が使われたとしました >>1731。
[785] 斎藤励は、 伴信友が引用した鬼室集斯墓碑「朱鳥三年戊子」 (>>1820)、 霊異記 (>>1390)、 万葉集 から、 朱鳥は持統天皇時代も使われたとしました。 万葉集は1年誤り、 霊異記から朱鳥7年まであったことが明らか、 万葉集(を訂正)から朱鳥9年甲午まであったとみられるとしました。 伴信友が翌乙未から大化としたのはよくできた説だが疑わしく、 持統天皇時代終わりまで朱鳥が用いられただろうとしました。 >>556。
[789] 斎藤励は、 日本書紀 所収の詔の文面 (>>892) が朱鳥の元号を用いていなかった証拠にも思えるが、 元号も即位紀年も使っていたのだとしました。 その証拠として、 常陸国風土記が大宝以前を干支年で表し (>>787) 後の時代は元号で慶雲元年と書いている、 日本書紀 の孝徳「後五年」 (>>70)、 のような例がある、 としました。 さらには、 ここに 万葉集 の1年ずれ (>>2117) が発生した経緯も推察できるとしました。 >>556。
[2883] 日本国志 (>>2881) は朱鳥を4年までとし、 その次を持統天皇の元年としています。
[2637] 木崎愛吉は、 大日本金石史の年表 (記事の有る年のみ表記) で、 次のように書きました。 >>2638
[2644] 鬼室集斯墓碑を、疑問視しつつも紹介しており、 その発見者として西生懐忠 (>>2113) に言及していました。 >>2638 朱鳥と持統天皇の数え方は、その影響でしょうか。
[2123] 井上通泰は、 新井 (>>2122) が 靈異記 や 万葉集 所引 日本紀 が朱鳥の延長年号を使っているのを引かなかったことから、 新井はそれを知らなかったのだろうとしました。 そしてこれらに朱鳥7年があることから、 称制が理由なら持統天皇4年以後があったはずがないとし、 持統天皇即位まで朱鳥を使ったとするのは妄断だとしました。 当時元号制度が未成熟だったとする伴信友の主張を引いて、 朱鳥8年ないし9年まで用いられたものとしました。 >>2114
[2636]
昭和時代の日本史研究者胡口靖夫は、
西生懐忠 (>>2113) と伴信友 (>>2270) の主張を引き、
更に
万葉集
所印
日本紀
を1年ずれ (>>2117) に言及しつつ示し、
また
日本霊異記 (>>1390)
を示し、
朱鳥は長く続いたとしました。
それを根拠に此の点に関して鬼室集斯墓碑は不審ではないとしました。
佐藤誠実の 白鳳朱雀并法興元考
をも引いていました。
加えて重松明久の
白鳳時代の年号の復
[24] 日本年号史大事典巻末年表は、 西暦686年を朱鳥元年とし、 2年から5年は括弧書き、 それ以後の元号欄は空欄としていました。 >>246 普及版 p.795
[2273] 変換表や実装の類には、 次の大宝元(701)年の改元まで朱鳥とするものもあります。 これといった根拠や主張はなく、杜撰な実装の結果のようにみえます。 (>>412)
[2274] 2年以後の用例はいずれも当時のものでないため、 当時元年だけで終了したのに使われ続けることがあったのか、 後の時代に終了時期が曖昧になって使われるようになったのか、 明確になっていません。 当時から曖昧だったとも推測されます (>>522)。 そもそも元年も当時どれだけ使われたものか明らかではない (>>842) ことに難しさがあります。
[2116]
万葉集
に、
日本書紀
朱鳥元年の翌年、
持統天皇元(687)年
[2271] 江戸時代以来諸説が唱えられてきましたが、 本来の朱鳥が後の時代に誤って 1年ずれて書かれるようになったとするのが通説となっています。
[1828] 伴信友は、 万葉集 1巻左注に 「朱鳥四年庚寅」 から 「朱鳥八年甲午」 まであるのは持統天皇元年から数えたもので、 日本書紀改刪 (>>1614) 後の記述を読み誤ったものだとしました。 >>1731
[2117] 斎藤励は、 持統天皇時代に 日本書紀 式朱鳥と持統天皇即位紀年が併用されていたため、 混同が生じたとしました (>>785, >>789)。 ただし現在までの研究によれば持統天皇時代に天皇即位紀年が実用されたか、 未だ明確になっていません。
[527] 坂本太郎は、 万葉集 の1年ずれ (>>284) は、 代始改元が慣例化した時代、 朱鳥が天武天皇末年 = 持統天皇初年のものであるため、 持統天皇の時代に始まったと錯誤し、 書写時に傍注が本文に混入し持統天皇紀の年が朱鳥の年に転移した可能性があるとしました。 >>502 (>>859, >>883)
[548] 岡田芳朗は、 万葉集左注の天智天皇年が斉明天皇崩御年を元年とする (>>547) ことから、 天武天皇崩御年の朱鳥を持統天皇年と混同した結果、 1年のずれが生じたと推測しました。 >>502 (万葉集の紀年, 日本古代史の諸問題, 昭和43年刊)
[549] 所功は、 岡田説を支持し、 天智天皇は斉明天皇崩御年を元年とし、 朱鳥は天武天皇崩御翌年を元年とする矛盾を持ち、 1年ずれの朱鳥と日本書紀方式の朱鳥が混在している 万葉集左注の史料価値は疑わしい、 と指摘しました。 持統天皇時代の元号名のない年数のみの元号年の用例があって日本書紀の持統天皇即位紀年と一致すること (>>567)、 元号名なしの「十年」が異本で「持統天皇十年」となっており後の加筆と考えられること (>>567)、 を示した上で、 1年ずれの朱鳥 (>>284) は元は年数のみだったのを後で朱鳥と加筆した、 と推測しました。 >>502
[2275] 日本書紀 の構成は、 天武天皇紀の最後に朱鳥元年の天武天皇の崩御に関係する記事があり、 持統天皇紀の最初に朱鳥元年の持統天皇の称制からの記事が続き、 其の次に「元年」 (持統天皇元年)、「二年」と記事が続く形となっています。 前から順に呼んでいけば曖昧さはありませんが、 慎重さを欠いていれば 「元年」 から持統天皇の天皇即位紀年に切り替わっていることに気づかず、 「朱鳥元年」、 (朱鳥)「二年」、 (朱鳥)「三年」 と続いていると誤読してしまうおそれがありそうです。 こうした土壌から、 1年のずれや延長年号が生じたのかもしれません。
[2118] 井上通泰は、 日本書紀 式を採る 日本書紀、 鬼室集斯墓 (>>1820)、 万葉集 1例 (>>2115)、 靈異記 (>>1390) と、 持統天皇元年が元年の 万葉集 4例 (>>284) の2つの数え方が古くからあったとしました。 後者は伴信友の主張を引いて、 日本書紀改刪 (>>1614) により削除されたとしました。 >>2114
[769] 木村正辞は、 現存 日本書紀 と異なる、 朱鳥元年を持統天皇元年丁亥とする日本紀が存在したとしました。 >>502 (日本書紀成立の研究, 友田吉之助, 昭和44年刊)
[544] 友田吉之助は、 坂本説 (>>527) を 「余りにも想像的な解釈」 とし、 木村説 (>>769) がほぼ間違いないだろうとしました。 >>502 (日本書紀成立の研究, 友田吉之助, 昭和44年刊)
按に扶桑略記に。八月天皇幸2野上宮1。立2年號1爲2朱雀元年1。大宰府献2三足赤雀1。仍爲2年號1。とあり。水鏡も同じ。當時大宰帥は栗隈王なり。既に上に見えたり。然れども年號のことは。未(ダ)偏く天下に行はれざりしが故に。此記には。こゝに漏したるなるべし。されどたしかに年號ありしことは。續紀神龜元年の詔に。白鳳以來朱雀以前。年代玄遠。とあれば。扶桑略記水鏡も。誤にはあらず。さればこれよりは。まことに天皇の元年なること。疑ひなきを。次なる二年を以。元年なりと云る説は私なり
按に。本紀に壬申を以。元年と爲たる事は。既にも云る如く。營2宮室於崗本宮1。即冬遷以居焉。是謂2飛鳥淨御原宮1。とありて。此年天皇踐祚し給へること明らけし。【正統記に見えたり。】且扶桑略記等の書にも於2野上行宮1。既立2年號1。爲2朱雀元年1。と云こと。八月に在り。又朱雀二年三月。備後國進2白雉1。仍改2白鳳元年1。と云ることあり。【水鏡。編年記。亦同じ】しかるに後に議ありて。朱雀白鳳の年號を廢し給へれば。壬申を(3603)以元年とし。癸酉を二年と爲給へること。自然の理と申すべし。然るに後の議者。かの藥師寺塔(ノ)擦(ノ)銘に。即位八年庚辰之歳とある文を以。據として。癸酉を元年として。壬申をば大友帝に屬たるは。甚非なり。七月以前は。實に近江朝に係くべきこと。本よりなれど。八月以後は。近江朝既に亡びて。天武天皇踐祚し給ふ。いかでかこれを元年と謂はざるべけん。况や此年十一月。新羅貢調等の事ある。これを元年に係けずして。何れの年にか記さん。塔擦銘の如きは。庚辰歳の。天皇御即位の八年に當れるを以て。書るのみにこそあれ。紀元を改めし文にはあらず。なほいはゞ。持統天皇は。四年庚寅を以。位に即給ひしかども。なほ丁亥歳を以。元年と爲したるにあらずや。みな當時議ありて。定め給ひしことなれば。後世此を彼此と云べきよしなし。しかるに議者の説に。本書壬申を以元年とせしは。直に天武を以。天智の統に接せむがために。此曲筆を致しゝものなり。と云るは。甚しき酷なる論なり。また信友が説の如きは。後人の日本紀を改刪せしものゝ所爲と云り。何の明證ありて。さるあぢきなき説をば立たる。ゆめ/\惑ふべからず。謹て本書の旨に從ひてあるべし
[2603] 蝦名翠, 2007, https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=35174&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1
万葉集』の基本的姿勢は持統称制元年(六八七)を朱鳥元. (二・一四六). 年と設定している。従って「朱鳥四年庚寅の秋九月」の紀 を連想させる。斉明四年(六五八)、紀伊行幸中の斉明天皇. 伊行幸は、持統四年(六九O)九月十三日から二十四日に ...
[617]
日本書紀天武天皇元年
[764] 扶桑略記 (>>666)、 水鏡 (>>1539) に天武天皇壬申年8月の朱雀の祥瑞改元記事がありました。 >>556
[765] 帝王編年記 (>>1607)、 皇年代略記、 愚管抄 (>>1508)、 東寺年代記 その他が朱雀を天武天皇壬申年としていました。 >>556
[766] 神皇正統記 (>>746) が朱雀を天武天皇時代としていました。 >>556
[1762] 伴信友は、 扶桑略記 (>>666)、 水鏡 (>>1539) 愚管抄 (>>1508) などを根拠に壬申年が朱雀としました。 >>859 p.二二九 (丙戌年は 日本書紀 同様朱鳥としました。) 次の根據を示しました >>1731。
[1689] 癸酉年を元年とする説は誤りとしました。 >>1731
[1693] 斎藤励は、 扶桑略記 (>>666) を根拠に壬申年が1回目の朱雀、 熱田縁起 (>>524) を根拠 (>>1692) に丙戌年が2回目の朱雀としました。 >>859 p.二二九
[285] 坂本太郎は、 元号名の再利用を支持せず、 扶桑略記 と 熱田縁起 では後者の史料価値が何倍も高いとして、 壬申年を否定し丙戌年を朱雀としました。 朱鳥と朱雀の関係性から両者は別称であると考えられ (>>1695)、 日本書紀 の朱鳥改元記事がまた丙戌年を朱雀とする根拠となるとしました。 愚管抄 (>>1508, E), 皇代記 (>>1526, F), 扶桑略記 (>>666, G), 水鏡 (>>1539, H), 興福寺略年代記 (>>1557, J), 東寺王代記 (>>1566, K) など (記号は論文内の整理番号) はいずれも天武白鳳説について (>>1611) 同様信頼できるものでないとしました。 >>859 p.二二九, >>502 (>>859, >>883)
[936] 平成時代・令和時代に用いられている日本の私年号である◆朱雀とは無関係です。
[2650] f14-1.pdf, , http://meijiseitoku.org/pdf/f14-1.pdf#page=3
[889] 西暦686年、 天武天皇が崩御したため、 持統天皇が称制しました。 次期天皇とみられた草壁皇子は即位しないまま西暦689年に薨御し、 西暦690年に持統天皇が即位しました。
[193] 日本書紀は、 西暦687年を持統天皇の元年とする天皇即位紀年を使いました。 以後持統天皇11年8月の譲位まで記事が続きました。 これが日本書紀本文の最後でした。 >>18
[891] 日本書紀 方式の天皇即位紀年が一般的ですが、 西暦686年を元年とするものもみられます。 同年が元年の朱鳥がなかったことにしているものまであります。
[24] 日本年号史大事典巻末年表は、 西暦686年を持統天皇の元年としていました >>246 普及版 p.795。
[1257] 日本書紀 に、 天皇即位紀年を用いた詔文が収録されました (>>892)。
[378] 政事要略
(平安時代成立)
廿五巻に、
「右官史記云、太上天皇
[888] この時代を表すため朱鳥が使われることがありました (>>887)。
[855] この時代を表すため唐の元号である永昌が使われた石碑が残っています (>>213)。
[884] この時代を表すため白鳳 (>>848) を使った例が知られています。
[2645] 西生懐忠は、 朱鳥の延長年号の正当性を説明するため、 元来持統天皇の即位年が元年だったと主張しました (>>2113)。
[2646] 木崎愛吉は、 大日本金石史の年表で持統天皇の即位年を元年としました (>>2637)。
[890] 河内春人は、 持統天皇の即位は草壁皇子の薨御による想定外の事態ゆえ、 本来西暦690年が持統天皇の元年だったはずで、 そうなっていない日本書紀紀年は編纂時の史料操作だとしました。 >>590
[2125] 現代日本では、 ごく少数ながら、 持統天皇の天皇即位紀年を持統天皇称制何年という言い方で 3年まで数える例がみられます。
[2126] その場合第4年以降は持統天皇何年のように続けて数えるようです。 (元年にリセットはしません。)
[2127] また、称制元年は、 日本書紀 持統天皇元年とするようです。 天武天皇が崩御した前年の 日本書紀 朱鳥元年ではありません。
[198]
持統天皇9(695)年
[800] 日本書紀 と同じく孝徳天皇の時代に大化があり、 加えて持統天皇の時代にも大化があったとするものの他に、 持統天皇の時代だけに大化を示すものも現れました。
[2263] 持統大化時代の年号を記述するとき、 「大化何年」 とする他に、 区別のため 「持統天皇大化何年」 と明記する例がよくみられました。
[2777] 天皇名か干支年の併記がなければ、 孝徳天皇時代か持統天皇時代かは、 文脈で判断するしかありません。
[2256] 江戸時代、 伴信友は、 次の根拠を示し、 持統大化の実在を主張しました >>1731。
[510] 重松明久は、 持統大化を、 「実在性の濃い年号」 としました。 >>470 (白鳳時代の年号の復原的研究, 重松明久, 日本歴史 第319号, 昭和49年)
[794] 斎藤励は、 伴信友引用各書の記述が一致していることを認めながら、 各書いずれも後世の同系統・同性質の史料で根拠として弱いとしました >>556。 所功は、 持統大化の史料が中世以後にしかなく、 「実在性が濃い」とはいえないとしました >>502。 河内春人は、 持統大化の史料が中世以後にしかなく、 中世の歴史認識であるとしました >>590。
[807] 伴信友は、 当時の元号は 「一時の嘉號の如く」 (>>1836) 今ほど重要ではなかったため、 孝徳天皇の時代にあった大化を再利用することもあり得たとしました。 >>1731, >>502
[806] 斎藤励は、 他の初期元号について再利用を認めながら、大化については、 孝徳天皇時代と持統天皇時代に再利用すべき類似性が見出だせないと否定しました。 持統大化は私年号に過ぎないとしました。 >>556 (ここでいう「私年号」は、同時代的でない私的に利用された元号の意と思われます。)
[793] 重松明久は、 同じ元号を短期間に再利用することはあり得ないとしました >>502 (白鳳時代の年号の復原的研究, 日本歴史 第319号, 昭和49(1974)年), >>590 (同)。
[491] 河内春人は、 白雉や朱鳥との重複という大きな問題点が解決されていないとしました >>590。 河内春人は伴信友説を、 孝徳天皇時代の大化の元号を持統天皇時代に継続的に使用したと説明しており >>590 (>>1731)、 再利用 (元年リセット) でなく継続利用 (元年は乙巳年のまま) したと理解していたようにみえます。
[2258] 伴信友は、 日本書紀 の改刪により記述が削除されたため、 現在の 日本書紀 に持統大化が現れないと説明しました。
[2261] 重松明久や原秀三郎は、 日本書紀 によって持統大化が孝徳天皇時代へと 「遡上的追建」 されたとしました (>>805, >>596)。
[511] 所功は、 持統大化は 日本書紀 成立のわずか24年前であり、 その改元が記録されないはずはなく、 遡上追建 (>>805) は行い得ないとしました。 >>502
[512] 河内春人は、 持統天皇の時代に改元があったとして、 それを抹消して孝徳天皇の時代に移動する必然性に疑問を呈しました。 >>590
[2262] 持統大化の建元の理由は明らかではありません。 持統大化は鎌倉時代頃から使われていますが、 改元理由が記されたのは戦国時代頃の 皇年代略記 (>>707) で、 醴泉が出現したことによるとされていました。 しかしそれは疑問形であって、 著者が確証を持たないまま書いたようです (>>272)。
[803] 斎藤励は、 伴信友説 (>>2256) の朱鳥最終年の翌年がちょうど大化に接続するものの、 大化の名称と醴泉に関係が見出だせないこと、 醴泉と改元に2年の差があること (>>802) から、 祥瑞改元ではないとしました >>556。
[612] 原秀三郎は、 醴泉出現による祥瑞改元で、 次の文武天皇擁立の準備だとしました。 大化とは、 徳知が遠くまで及び醴泉が出現した意としました。 >>590 (二つの大化年号と孝徳大化の虚構性, 日本古代国家史研究, 1980)
[630] 河内春人は、 元号名を祥瑞の名前でなく理由とするのは祥瑞改元の例にないため、 醴泉出現が根拠ではないと「断じてよい」としました。 >>590
[2238] 扶桑略記 などにみられないということは、 平安時代末期以後、 天武白鳳などに遅れて成立したのでしょうか。
[2239] 成立の過程ははっきりしませんが、 元号制度の画期で 日本書紀 と 続日本紀 の狭間でもある持統天皇と文武天皇の間の時期であることが、 関わっているのでしょうか (>>2235)。 持統天皇「九年乙未」が「元年乙未」と誤読されたことから始まった可能性もあります。
[2781] 持統天皇の誕生年が大化年間といわれているのも注目されます。 天皇ごとにまとめられた年代記の類で持統天皇の項に書かれた誕生年が、 後に治世中の元号と誤認された可能性があります。
[2782] 誤認し得る書き方の写本が発見されれば有力な根拠となるでしょうが、 持統大化説の出現と持統天皇大化年間誕生説の出現の前後関係も要注意です。
[2786] この現状では両者の関係性を説明するのがまだ難しい。
[2787] 持統大化は持統天皇治世に始まり、文武天皇治世まで続きます。 孝徳天皇と文武天皇のどちらも軽皇子と呼ばれます。 これも持統大化説の発生に関係している可能性があります。
[2701] 郷土史概論, 大木金平, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3440245/1/87 (要登録)
[2704] 郷土史概論, 大木金平, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/965684/1/89
[2778] えちぜん年代記|越前町 織田文化歴史館, , https://www.town.echizen.fukui.jp/otabunreki/panel/29.html#2-18
第38回(2008.05) 堀大介
大化元年(695) 泰澄の夢の中に、西方に住む高僧が現れる
泰澄の本師
『泰澄和尚伝記』によると、泰澄には、越知峰(越知山のこと)の方面に「本師」(師となる方)がいたように書かれています。持統天皇の大化元年、泰澄は14歳(11歳説もあり)のとき、八弁の蓮華の上に座る夢を見ました。
[194] 日本書紀は持統天皇から文武天皇への譲位を高天原廣野姫天皇の十一年のこととし、 そこで終わっていました。
[79] 六国史の次である続日本紀 (>>1049) の最初の天之眞宗豐祖父天皇 (文武天皇) 紀には、 「高天原廣野姫天皇十一年。立爲皇太子。 元年八月甲子朔元年八月甲子朔。受禪即位。 」 >>80 とありました。同じ年が持統天皇11年とも文武天皇元年とも表現されていました。
[144] 代替わりがあった年を前帝の最終年とし、 翌年を元年とする日本書紀の踰年称元の原則が、 日本書紀と続日本紀の狭間であり、 かつ崩御でなく譲位だった持統天皇11年文武天皇元年には崩れているのです。
[195] そのためここまで天皇即位紀年の交替は常に年末年始でしたが
(例外は2回の天皇即位紀年から元号への建元と
1回の改元のみ)、今回は年内の改元のように各種対照表その他で扱われているようです。
[208] Wikipedia は退位を旧暦持統天皇11年8月1日/ユリウス暦697年8月22日としています >>140。 次の文武天皇は、即位が旧暦文武天皇元年8月1日/ユリウス暦697年8月22日です >>142。
[326] 持統天皇11年を置かず、初日から文武天皇元年とするもの >>323 もあります。 日本書紀 の原則に従うなら、 年始に遡及するこの方式が一貫していますが、 当の 日本書紀 の記述と一致しなくなってしまう問題があります。
[842] 日本の元号が現在に至るまで継続して制定され利用され始めたのは大宝でした (>>106)。 この点には古来議論がなく、金石文や近年出土している木簡の紀年ともよく一致しています。 大宝をもって日本の元号制度の確立したことは疑いありません。
[843] ところがそれ以前にも断続的に元号が存在していた痕跡があります。 しかしその痕跡はあまりに断片的であやふやで、 大宝以後のように確立された制度に支えられたものでなかったことは明らかです。 ではその実態はどのようなものだったか、 というところには、 当時はまったく存在せず後の時代に作られたとする説から、 実は断続なく元号はあったが記録が失われたとする説まで、 古くからいろいろな説が提示されてきました。 平安時代以後に生じた異端説は否定されたものの、 初期元号の成立過程をめぐっては今なお不明な点が多く残されています。
[585] 我々は元号が当然に存在している時代を生きているので、 どうしても元号の誕生に注意が行きがちですが、 元号だけが紀年法ではありません。 初期元号の性質を解明するためには、 当時の人々の紀年や時代認識がいかなるもので、 大化から大宝の時代を経てそれがどう変化したのかを明らかにしなければなりません。
[586] 出土木簡によれば、当時の行政で干支年が主に使われたことは疑いありません。 一方で当時のものとされる金石文や文書には、 何々天皇の時代という形式もよく出てきます。 古くは獲加多支鹵大王の時代に既に使われていました。 その後何々天皇の干支何々年、 何々天皇第何年という表記がみえるようになり、 やがて何々天皇何々元号第何年の表記に発展しました。 この干支年と即位紀年が当時どのように使われ、 支那から伝来した元号の概念がどう影響したのかをみなければなりません。
[587] 支那の元号そのものが日本で使われた形跡がほとんどないのも不思議です。 同じ支那伝来の干支年がこれだけ広く使われていたにも関わらず、 なぜ支那の元号を使わなかったのでしょうか。 干支年は政治性が低く、 元号は政治性が高いという認識を、 日本人ははじめから持っていたのでしょうか。 (それとも単に百済の模倣?) それは法興、大化、大宝の各時代にどう変化していったのでしょうか。
... の3種に大別でき >>590、 異称や空白期の解釈などに様々なバリエーションがあります。
[611] 実在説は、 日本書紀 にあるように当時元号が実施されたと考えるものです。 非実在説と追号説は、 当時は元号が実施されなかったと考えるものです。 非実在説は、 元号は 日本書紀 編纂時に定められたもので、 強い言葉でいえば偽造・捏造として否定的に評価するものです。 追号説は、 元号は当時から 日本書紀 編纂までの間のある時点において、 遡って制定されたと中立的に評価するものです。 追号は元号制度創設当時の漢の武帝の先例があり、 日本でも元号名がなくても天皇即位紀年や改元があったと考えるものです。
[791] 日本書紀は、 大化、白雉、天皇即位紀年、朱鳥、天皇即位紀年、大宝と元号の使用を断続的に示していました。
[792] 平安時代頃から、 年代記類で大化、白雉、天皇即位紀年、 朱雀、白鳳、朱鳥、大化、大宝と天武天皇以後を埋めて示されるようになりました。
[747] 北畠親房は、 神皇正統記 で、 孝徳天皇の大化からの元号を挙げつつ、 文武天皇の大宝から元号が断続しなくなり、 大宝を元号の始めとしました。 (>>746)
[835] 南北朝時代頃から、 継体天皇時代から大宝までの時代に連続的に元号を設定した古代年号説 (>>226) が広まりました。 バリエーションの発生や、 より古い時代の新元号の設定は令和時代に至るまで続いています。
[744] 斎藤励は、 大鏡 (>>742) 大臣の次第を述ぶる條 以下諸書が大宝を最初の元号としていることを指摘しました。 北畠の解釈 (>>747) を引いて、 異説というべきものではないとしました。 >>556
[515] 伴信友は、 白雉・白鳳は孝徳天皇時代から天智天皇10年辛未まで22年間、 朱雀は天武天皇時代初年から、 朱鳥は天武天皇時代末年から持統天皇8年甲午まで9年間、 大化は持統天皇晩年に2年間、 大長は文武天皇初年に4年間と推測しました。 >>502
[2532] 伴信友は、次のように主張しました。 >>1731
[514] 斎藤励は、 次のように推測しました。 >>556
[603] 斎藤励は、 白雉と白鳳を別名とし (>>778)、 孝徳天皇と天武天皇の2度用いられたものとしました。 朱雀と朱鳥も正式には区別されたものの、 朱鳥を朱雀ともいったものとしました。 同じ元号の再利用は支那王朝には前例がありませんが、 伴信友説の通り、 白雉の祥瑞が再出したためで、 大宝以前は元号を重視せず「一時の嘉号」 として用いたものだとしました。 >>556
[1613] 伴信友や斎藤励は、 自身の主張と 日本書紀 の記録が異なる理由を日本書紀の改刪に求めました。 坂本太郎は、 日本書紀改刪 (>>1614) 説も、白鳳や朱雀の実在も否定しました。
[836] 坂本太郎の結論は「大方の支持」を得て通説化したものの、 昭和時代後期にいくつか新説が提示されるようになりました。 >>502
[598] 佐藤宗諄は、 大化、 白雉、 朱鳥は大宝以後に追号されたものとしました >>590 (年号制成立に関する覚書)。
[824] 岡田芳朗は、 大化や白雉の実在を疑わしいとしました。 >>502 (日本の暦, 昭和47年刊, p.92)
[820] 重松明久は、 大化は本来持統天皇時代 (>>805)、 白雉は本来天武天皇時代 (>>530) にあったと主張しました。
[797] 斎藤励は、 元号は断続的に用いられたとする斎藤説は、 大宝以前は断続的だったという古くからの伝承と一致する、 としました。 >>556
[501] 古田は、 九州王朝説の立場から、 日本書紀の白雉と朱鳥は九州年号 (>>226) の改元を換骨奪胎したもので、 天皇の元号は大化のあと大宝まで断絶していた、 と主張しました。 >>470
[256] 所功は、 佐藤らの追号説を「考慮すべき鋭い指摘を含んでいる」とし、 「制度的に確立された大宝 (七〇一) 以降の継続年号」と 「試行的な断続年号」を区別する必要は認めながらも、 大化が実在したとしました (>>815)。 >>461 p.5, >>246 普及版 p.15
[279] 日本年号史大事典の大化の項 >>246 普及版 p.121 は、 大化の使用を「疑問視する考え方も少なくない」とし、 日本書紀の述作または遡っての制定だとする佐藤宗諄説 (1968、1977)、 佐藤説を受けて代始改元はあったが元号は追号されたとする田中卓説 (1977) を紹介しました。 しかし新羅が唐の元号を使わざるを得なくなった事例を引き、 「独自の年号を建てながら、それを公然と使うことが難しかったのではないか」 と結論づけました。 元号―年号から読み解く日本史― も、 独自の元号で改新の思想を示したものの、 「公的 (とりわけ外交文書) に使用することは、まだ難しかったにちがいない。 もしそれを強行すれば、前述した新羅のごとく「中華の年号」 をそのまま使用するように強制される恐れがあったからである。」 としました。 >>352 p.58
[589] 河内春人は、 所功の見解を肯定説の代表例としていますが、 肯定説は 日本書紀 の記述をそのまま認め史料批判を経ていないため単純に支持できないとしました >>590 (>>502)。
[827] 田中卓は、 斉明天皇から持統天皇の時代、 大化 (>>283) と白雉 (>>828) が同時に追号されたとしました。 >>590 (年号の成立, 律令制の諸問題, 1986, 初出 1977)
[816] 新川登亀男は、 大化を和銅年間の追号 (>>595)、 白雉を孝徳天皇崩御後天武天皇時代前半の追号 (>>830)、 朱鳥を日本書紀通り (>>831) としました。
[599] 河内春人は、 祥瑞による白雉とそうでない大化の同時追号とする田中説 (>>827) は考えにくく、 異なる論理による追号とする新川説はあり得るとしました。 >>590
[562] 前川明久は、 孝徳天皇の後、 文武天皇に至るまでの皇位継承が極めて不安定な情勢で行われたことが元号を定められなかった原因とし、 文武天皇の大宝以後皇位継承法が確立して元号が継続的に利用されるようになった、 としました。 >>502 (日本古代年号使用の史的意義, 日本歴史第二四二号, 昭和43年7月)
[583] 嵐義人は、 大宝以前の元号は皇位継承上「治天下」の唱えがたい御宇に慣用されてきた紀年法であるものの 「公年号としての性格は極めて稀薄」 としました。 >>502 (大宝以前における年号の性格――皇位との関連を中心として――, 瀧川政次郎先生米寿記念論文集 神道史論叢)
[584] 所功は、 隋や唐を手本とした当時の政治家が改元し、 元号名をつけなかったり便宜的に「治天下」に代用したことは、 「ありえないと思われる」と指摘しました。 >>502
[600] 河内春人は、 初期元号について次の通り主張しました。 >>590
[621] 河内春人は、 日本書紀の孝徳天皇「後五年」記事から、 元号を伴わずとも称元紀年が機能しており、 称元紀年のリセット、 「当代の更新」 たる改元が実施されたと主張しました。 河内は次のように主張しました。 >>590
[561] 前川明久は、 律令を制定して命名する (大宝律令) ために元号が必要であり、 遣唐使によってこれを唐にも紹介し、 国書にも大宝の元号を用いたと推測しました。 >>502 (日本古代年号使用の史的意義, 日本歴史第二四二号, 昭和43年7月)
[563] 佐藤宗諄は、 7世紀には元号が断続的な上に全国的・画一的でなく、 大宝でようやく国家的な元号として成立したとしました。 元号制度の確立は、 直接的には大宝律令の制定と関係するものであり、 以後継続的に用いられたのは弱体化しつつある古代天皇制を、 天皇の権威を法的に人民に及ぼす元号によって補強するためだったとしました。 >>502 (年号制成立に関する覚書, 佐藤宗諄, 日本史研究第一〇〇号, 昭和四十三年九月)
[564]
所功は、
持統天皇の時代から文武天皇の時代にかけての唐との関係改善により、
律令の完成直前に高度な政治的判断によって元号を使用することが法制化され
[358] 元号―年号から読み解く日本史― は、白村江の戦いや壬申の乱という時世柄、 唐を刺激するような独自の改元が難しかったという可能性に触れつつも、 安定した天武天皇の時代にも改元がされていないことから、 「むしろ当時は、 代始のたびに、また 祥瑞の出現により、年号を改め定めなければ、 という認識がなかったものとみられる。」 としました。 >>352 p.61
[339] 日本年号史大事典は、 法興 (>>770) や宝元 (>>299) のような古代の異年号は、 元号制度の受容の不徹底により生まれたとしました。 >>246 普及版 p.341
[935] 元号制度成立事情を明らかにする上では法興の性質にも注意を向けなければなりません。 法興が聖徳太子の時代に既に使われたかどうかは定かではありませんが、 政権から遠くない、最高レベルの知識層の一部で使われたということにはなります。 大化など初期元号の発達の流れとは、いったいどのような関係にあったのでしょうか。 白雉、朱鳥や8世紀元号のような祥瑞による命名とは明らかに異なりますが、 いつ誰がどのような意図で命名したのでしょうか。
[634] 所功は、 新唐書 には大化がなく代始改元で白雉のように読める (>>2025) ことについて、 新唐書の遣唐使関連の記述は正確とは言えず、 大化非実在の根拠とはいえないとしました。 >>502
[2916] 大八州雑誌 (135), 大八州館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1535000/1/2 (要登録)
[1837] 伴信友は、 初期元号の性質を 「一時の嘉號の如く」 なものだったと説明しました。 漢で元号が生まれた頃の元号例を示して似た性質だとしました。 大宝以後の元号が重要なものと考えられ、 社会全体で利用されたのに対して、 初期元号はそこまで重視されず、 あまり利用されなかったとしました。 よって大宝より前のことは、 それ以後の事例から類推するべきではないとしました。 根拠として、 あるいは帰結として、 次のような事例を示しました。 >>1731
[1878] 伴信友はこの理屈をあまりに都合よく使った感が強く、 挙げられた個々の事例は現在では成立しないとされるものが多いですが、 大宝以後ほど重視されず、 あまり利用されなかったという基本的な性質は、 通説化して現在の研究者にも認められているようです。
[1970] 澤柳大五郎は、 造像銘記の類は大陸より移入されたもので、 日本の上代仏教美術の淵源たる六朝隋唐の造像銘と比較する意義があるとしました。
そのうち紀年について、 支那で干支年のみを記したものが1つもない (支那美術史雕塑篇, 大村西崖に掲載された魏晋南北朝造像記の数百例) のに対し、 日本では元は元号がなかったものの、 定められてからは元号を使ったと推測するのが妥当であろうとしました。
そこで元号との関係により次の4種に分類しました。 >>1939 PDF pp.5-8
[1978] 元号があるときは使ったとする説によれば、第3類が問題となります。 うち、 >>1959 は文章構成上、元号のない時代の干支年が続くので、 統一のため元号でなく干支年を使ったと解し得ます。 >>374 は飾った長文の末に「歳次降婁漆兎上旬」 のような飾った表記で締めているのであって、 元号を使わないのも文章のあやとみなし得ます。 文武天皇2年説を採るなら元号のない年で第1類に入ります。 >>264 は様式から推古天皇2年説が有力と澤柳は考えており、 第1類に入ります。 >>1939 PDF pp.5-8
[1980] そこで真に問題といえるのは >>1937 だけとなります。 (この論文の検討の目的は >>1937 の年代の決定でした。)
... ということで、この表記だけから確証を得るには至らず、 元号があったなら書いたはずと考えるのが妥当ではないかと言えるに留まるとしました。 >>1939 PDF pp.5-8
[503] 平安時代、 弘仁の改元詔書に、 飛鳥時代以前に元号はなく、 難波朝の大化に元号が始まり今に続く、 とありました (>>1698)。 大化から元号が始まったとする歴史認識としてよく紹介されます >>502, >>352 p.57。 更に強く、 大化から現在まで元号が途切れなく続くと解釈する説がありました。
[505] 伴信友は、 日本後紀 所収の弘仁の改元詔書 (>>1698) にある通り、 孝徳天皇から元号が絶えないのは明らか、 としました。 >>1731, >>556 (>>1731) 弘仁当時は 日本書紀改刪 (>>1614) 以前であって、 これが改刪の証拠となるとしました。 >>1731
[881] 斎藤励は、 伴信友の解釈を否定し、 漢文の文飾誇張に過ぎないとしました >>556。 坂本太郎は伴信友の説を否定し、 必ずしも大化以来の継続を示すものではないとしました >>883 p.一一五。 文勢上概要を述べて詳細を省いたに他ならず、 克明な解釈を施すのは大人気ないことであるからです >>859 p.二三〇。
[1895] 伴信友は、 三敎指歸の覺明による抄が、 覽初要集を引いて、 皇極天皇4年を大化元年として以来元号があるとしていた (>>2029) のを引いて、大化以来元号が続くというのは正しいとしました。 >>1731 これも自説に一致するとは伴信友の解釈であって、 覚明注は大化以来途切れなく続くとは書いていませんでした。
[2027] 日蓮大聖人御書全集 報恩抄, http://sgi.daa.jp/gosyo/title/G045.HTM
[448] 江戸時代頃までに成立した 新撰三国運数符合図 には、 文武天皇欄に、元号のはじめと記述がありました。 新撰三国運数符合図
[2854] 日蓮聖人遺文全集講義 第18巻, 大林閣, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1246427/1/106 (要登録)
[2941] 古事類苑 第2冊, 神宮司庁, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1873317/1/273
[798] 日本書紀は、 孝徳天皇元年西暦645年乙巳を大化の元年とし、 6年に白雉に改元されたとしていました。
[815] 所功は、 乙巳の変直後に大化が建元されたことは 「大筋で史実と認めて差しつかえないと思う」 としました。 >>461 p.5, >>246 普及版 p.15
[808] 重松明久は、 孝徳天皇の大化について、 改新の詔などに律令色が濃く後の時代の成立とみられることを指摘しました。 >>502 (白鳳時代の年号の復原的研究, 重松明久, 日本歴史 第319号, 昭和49年)
[810] 所功は、 後世の作為があるなら、 孝徳天皇の大化改元記事を不自然で簡潔にするはずがないとしました >>502。
[597] 河内春人は、 戦後の否定説は大化の改新否定論を背景とするものであるところ、 現在では政治変革の存在は肯定する説が主流となっているため、 大化の改新はなく元号もなかったという短絡的な説は成り立たないことを指摘しました。 >>590
[259]
大化と時代が近いとされる金石文として宇治橋断碑がありますが、
時期と内容には議論があります。
他にもいくつか大化のものとされることがある金石文がありますが、
疑問視されています。
[813] 佐藤宗諄は、 大化の使用を裏付ける7世紀の史料はなく、 8世紀にすらほとんどみられないことを指摘しました。 >>502 (年号制成立に関する覚書, 日本史研究第一〇〇号, ) 重松明久は、 孝徳天皇時代の大化の実用例がみられないことを指摘しました。 >>502 (白鳳時代の年号の復原的研究, 重松明久, 日本歴史 第319号, 昭和49年)
[594]
大化の実在否定説は、
唯一の当時の遺物とされる宇治橋断碑は後の時代 (8世紀以後)
に作られたものとする説に依拠しています。
[811] 佐藤宗諄は、 クーデターと関連付けた改元は異色だとしました。 >>502 (年号制成立に関する覚書, 日本史研究第一〇〇号, )
[814] 所功は、 恵美押勝の乱後の天平神護への改元の例を挙げ、 考えられなくもないとしました >>502。
[528] 佐藤宗諄は、 8世紀初頭の律令制下で代始改元にも祥瑞が伴っていたことから、 それ以前でありながら祥瑞のない大化を異例としました。 >>502 (年号制成立に関する覚書, 日本史研究第一〇〇号, ) 重松明久は、 孝徳天皇の大化について、 祥瑞が明記されていないことを指摘しました。 >>502 (白鳳時代の年号の復原的研究, 重松明久, 日本歴史 第319号, 昭和49年)
[601] 河内春人は、 大化は祥瑞を具象化した名前ではなく徳治思想に関連する吉祥句で、 祥瑞改元ばかりの8世紀の知識で潤色したものでないとし、 7世紀末までに成立していた蓋然性が高いとしました。 追号ゆえ祥瑞でなく吉祥句とするほかなく、 口誦的 (>>606) でもなかったとしました。 >>590
[614] 河内春人は、 「化」とは王化、王の徳が及ぶ支配空間を表すので、 漢や新羅の最初の元号の「建元」 と違って時間的支配という思考からずれており 日本における理念的支配の限界を見て取れる、 評の成立など空間的支配が着手される一方、 時間的支配が視野に入っていない当時の政治状況と合致する、 としました。 >>590
[521] 日本書紀 の 「建元」 と 「改元」 の使い分けが不審なことから大化が後世に追号されたものとする説がありましたが、 支持を得ていません (>>1694)。
[805] 重松明久は、 孝徳天皇の大化を、 日本書紀 新版編者による持統大化の「遡上的追建」としました >>470 (白鳳時代の年号の復原的研究, 重松明久, 日本歴史 第319号, 昭和49年) (>>2261)。
[596] 原秀三郎は、 日本書紀編纂時に藤原氏が藤原鎌足の事績とするため持統大化を孝徳天皇時代に遡上させたとしました >>590 (二つの大化年号と孝徳大化の虚構性, 日本古代国家史研究, 1980) (>>2261)。
[812] 佐藤宗諄は、 大化の元号が「八世紀に述作された可能性がきわめて濃厚」 と主張しました。 >>502 (年号制成立に関する覚書, 日本史研究第一〇〇号, )
[283] 田中卓は、 斉明天皇から持統天皇の時代、 大化と白雉が同時に追号されたとしました。 >>590 (年号の成立, 律令制の諸問題, 1986, 初出 1977)
[833] 河内春人は、 祥瑞による白雉と祥瑞との関連性が見出だせない大化が同時に追号されたとは考えにくいしました。 >>590
[595] 新川登亀男は、 和銅年間に元号制度の歴史的投影として追号されたものと主張しました (>>817)。 >>590 (「大化」「白雉」「朱鳥」年号の成り立ち, 史料としての『日本書紀』, 2011)
[804] 伴信友、 斎藤励、 重松明久は、 日本書紀改刪 (>>1614) 説を支持していました。 その後の研究者は、 改刪説も、 持統大化説 (>>198) も否定しました。 河内春人は、 和銅時代に大化を孝徳天皇の時代として設定する必然性に疑問を呈しました。 >>590
[819] 河内春人は、 孝徳天皇の白雉の改元時に、 孝徳天皇の最初の即位紀年に追号したのが大化だとしました。 大化が 7世紀末までに成立していた (>>601) なら、 孝徳天皇晩年、 斉明天皇、天智天皇は孝徳天皇と距離を取っていたので、 追号する蓋然性はかなり低く、 追号時期は孝徳天皇の時代しか残らないとしました。 漢の武帝は在位途中で追号し、 新羅王は即位後人格的支配が確立してから改元したと考えられることから、 孝徳天皇も在位中に白雉に改元し、 その際に大化と追号したとするのが最も整合的な解釈だとしました。 >>590
[825] 佐藤宗諄は、 白雉は大宝以後に追号されたものとしました >>590 (年号制成立に関する覚書)。
[828] 田中卓は、 斉明天皇から持統天皇の時代、 大化と白雉が同時に追号されたとしました。 >>590 (年号の成立, 律令制の諸問題, 1986, 初出 1977)
[834] 河内春人は、 祥瑞による白雉と祥瑞との関連性が見出だせない大化が同時に追号されたとは考えにくいしました。 >>590
[830] 新川登亀男は、 白雉を孝徳天皇崩御後天武天皇時代前半の追号としました。 >>590 (「大化」「白雉」「朱鳥」年号の成り立ち, 史料としての『日本書紀』, 2011)
[832] 河内春人は、 大化が7世紀制定 (>>601) なら、 白雉と朱鳥も時代を引き下げる蓋然性は低いとし、 8世紀の祥瑞改元が政治状況に関連すると共に大瑞発生に結び付けられるのに対して白雉と朱鳥は大瑞相当ではないことから、 8世紀の通念に基づく追号ではないとしました。 白雉、朱鳥の祥瑞は、 孝徳天皇-持統天皇時代の西周を規範とする思想的背景から政治的に作り出されたもので、 追号でなく「当代を荘厳化するための手段」とするほうが理解しやすいとしました。 >>601
[604] 河内春人は、 白雉改元前年、 阿倍内麻呂死去、 蘇我倉山田石川麻呂失脚など政権主要メンバーがいなくなったため、 政権の求心力回復、王権権威の補完のため祥瑞の創出が必要となり、 白雉改元、 大化追号があったとしました。 孝徳天皇時代の元号制定の中心にいたのは道登だろうとし、 白雉献上時に孝徳天皇に諮問されており、 「祥瑞をイデオロギー儀礼に引き上げたブレーン」 と評価されるべきだとしました。 道登は宇治橋にも関与したことから、 宇治橋断碑は追号後の建碑と理解できるとしました。 >>590
[529] 岡田芳朗は、 白雉が献上されたとしても改元はなかったとしました。 >>502 (日本の暦, 昭和47年刊, p.92)
[530] 重松明久は、 日本書紀 の孝徳天皇の白雉は天武天皇時代の白雉を遡上的に記述したものとしました。 >>502 (白鳳時代の年号の復原的研究, 重松明久, 日本歴史 第319号, 昭和49年)
[821] 重松明久は、 日本書紀の白雉献上から改元までの経緯は潤色が著しいとしました。 >>502 (白鳳時代の年号の復原的研究, 重松明久, 日本歴史 第319号, 昭和49年)
[822] 所功は、 潤飾されていたとしても改元がなかったとまではいえないとしました。 さらに、 重松明久の日本書紀改刪説は天武天皇時代を 「より一層潤飾」 したと主張しているのに、 白雉を他の時代に移動させるのは辻褄が合わないとしました。 >>502
[823] 所功は、 天武天皇時代の白雉は史料にみえないとしました。 >>502
[566] 所功は、 日本書紀の 「後五年」 から、 白雉の元号がほとんど使われなかったものとしました。 >>502
[829] 田中卓は、 日本書紀の 「後五年」 から、 元号名は追号としました。 >>246 普及版 p.123 (1977)
[826] 佐藤宗諄は、 朱鳥は大宝以後に追号されたものとしました >>590 (年号制成立に関する覚書)。
[565] 吉野裕子は、 朱鳥の改元日が7月丙午であって朱鳥と午がともに南を意味すること、 同日命名された飛鳥浄御原宮の浄御原とは「神聖な胎」と考えられることから、 「新生を暗示する改元」が「天皇の死を暗示」するものだとし、 日本書紀の作為を推測しました。 >>502 (日本古代呪術, p.146)
[831] 新川登亀男は、 朱鳥を日本書紀通り当時のものとしました。 >>590 (「大化」「白雉」「朱鳥」年号の成り立ち, 史料としての『日本書紀』, 2011)
[606] 河内春人は、 朱鳥改元年、 天武天皇は病状が悪化し、 持統天皇や草壁皇子に政務を委託したことから、 政権の不安定化の打破、 天武天皇の回復を願って、 祥瑞を強調し元号として共有したものだとしました。 >>590
[1084] 白鳳と朱雀は、それぞれ白雉と朱鳥の別名とされます。 奈良時代かそれ以前に発生したとみられますが、 その過程にはなお不明な点があります。
[1090] 江戸時代以来多くの研究者が、 孝徳天皇の白雉が白鳳とも呼ばれたことを明らかにしました (>>938)。
[1845] 伴信友は、 白雉の雉が卑しげだから鳳に置き換えたのであろうとしました。 日本書紀 によると大化6年に穴戸國から白雉が献上され、 百済人が媚びて祥瑞だというので改元したとあるため、 他の百済人などがさらに媚びて、 雉より鳳がめでたいと注進したのかもしれない、 としました。 >>1731 しかしこの説は推測に過ぎず、その根拠は示されませんでした。 記録が残っていないのは 日本書紀改刪 (>>1614) で削除されたとされます。
[778] 斎藤励は、 天武白鳳 (>>617) があったとしていましたが、 伴信友が 源平盛衰記 (>>777) を根拠に孝徳天皇の白雉がいつしか白鳳となったの同様、 天武白鳳も元は白雉だったとするが、 水鏡一本 (>>1542) を引いて、 孝徳天皇時代と同じかもしれない、 としました。 >>556 しかし 水鏡 の異本のうちの 1つが白鳳を白雉であったに過ぎませんから、 それが元の形であったとする有力な根拠が提出されない限り、 両者が混同されやすかったという以上の結論を導くのは難しいでしょう。
[516] 佐藤誠実は、 白鳳は白雉の別名、 朱雀は朱鳥の別名としました。 >>859 p.207 (史学雑誌一一ノ一一、四九頁), >>502 (白鳳朱雀并法興元考) 佐藤は、 続日本紀 (>>1049)、 類聚三代格 (>>1046)、 藤原家伝 (>>642)、 古語拾遺 (>>752)、 熱田縁起 (>>524) の他はすべて信じられないとしました。 >>859 p.207 (史学雑誌一一ノ一一、四九頁)
[559] 坂本太郎は、 現存史料に忠実に従えば、 養老4(720)年 (白鳳・朱雀のみえない日本書紀の成立) から神亀元(724)年 (>>1077) の4年間に白鳳が出現したことになるとしました。 >>859, p.二〇九, >>502
[560] 所功は、 公文書に使用されたのは成立後相当の年月が経過し、 公年号のように認識されていたためと推測し、 養老4年より前から一部で使用されていたとしました。 >>502
[1085] 田村圓澄は、 藤氏家伝 (>>752) にみえる白鳳は斉明天皇・天智天皇の時代に生まれたものとしました (>>550)。 所功は、 貞慧誄が道賢の原文のままなら白鳳の出現をそこまで遡らせられる >>502 と否定はしませんでした (が田村説全体には否定的でした >>557)。
[1091] 上限を 日本書紀 とする坂本説は、 坂本自身が現存史料に従えばと限定した通り、 強い根拠とはいえません。 日本書紀 に白鳳、朱雀がみえないことは、 当時まだ存在していなかったことの証拠としては弱いもので、 所の指摘の通り既に使われていたとするのが穏当です。 藤氏家伝 が原史料を忠実に伝えるものなら、 田村説の通り白鳳は現役当時に遡り得るものです。 しかしいずれも決定的な証拠とはいえず、 出現時期は不明とするほかありません。
[1077] 「白鳳」 の現存最古の用例は、 続日本紀 神亀元(724)年とされます >>859 pp.二〇八-二〇九。 「白鳳」とあるだけでどの時期に相当するか定かではありませんが、 孝徳天皇時代の白雉を指すとするのが通説となっています。 (>>281)
[1088] 坂本太郎は、 白雉が 日本書紀 や 新唐書 などに見える (>>1076) という外形的証拠、 白雉を得た故白雉と改元したとの「極めて穏当な事件」という内容的解釈から、 白鳳でなく白雉が元の名称としました。 >>859 p.二〇九
[760] 斎藤励は、 古語拾遺 (>>752)、 藤氏家伝 (>>642)、 続日本紀 (>>281) といった文献にみえることから、 白鳳が仏僧の妄作や辺境の私年号でないことは明白としました。 >>556
[1092] 伴信友は、 雉が卑しげなので鳳に置き換えたものとしました。 >>859 p.二〇九 (>>1731)
[1093] 坂本太郎は、 伴説は考え得るものの必然的な関係を示すほどではないと評し、 自身もこの問題を解決し得るとは思えないと謙遜した上で、 次のように補強しました。 >>859 pp.二〇九-二一〇
[1115] Wikipedia は坂本らの白雉・朱鳥の美称説が通説だとしています >>1114, >>1119。 しかし白雉が白鳳に置き換えられた根拠を劉勰の 文心雕龍 第四十八節知音篇としており、 その出典は示していません。 >>1114
[1094] 河内春人は、 当時和語の音声表現が重視されており、 漢字表現が当てられたとき2種類が生じたものとしました (>>602)。
[1101] 祥瑞のランクアップ説は所功の元号関係の文献で半ば確定的に取り上げる >>502, >>246 など通説化していますが、 坂本以後論拠の補充もなく納得感に物足りなさが残ります。 近年提唱された河内説はこの時代の他の元号の問題も含め整合的に説明し得るもので、 注目されます。 両説は矛盾するものでなく、 和語と漢字のつながりが流動的だったものが、 祥瑞ランクに基づき白鳳表記が好まれるようになったと理解できます。
[1695] 坂本太郎は、 朱鳥が支那天文学で星宿南宮の名として知られることを指摘しました。 >>859 p.二二九 (史記天官書, 礼記曲礼上, 爾雅釈天疎, 淮南子天文訓など) 淮南子高誘注に 「朱鳥朱雀也」 とあることから、 白雉・白鳳より遥かに容易に転換し得るものとしました。 >>859 p.二二九
[1089] 所功は、 平安時代中期以後、 正称異称の関係が忘れられたものと推測しました。 >>502
[170] Wikipedia の日本の元号の一覧は、 私年号のうち白鳳と朱雀だけ特別に掲載しています。 それぞれ、白雉と朱鳥の別名 (ただし異説もあり) >>225 とされています。
[300] 日本年号史大事典は、 白鳳と朱雀が 大織冠伝、 続日本紀、 扶桑略記 などにあるが、 坂本太郎 >>859 により白雉、朱鳥の異称であることが示されており、 異年号とはいえない、としました。 またそのようにたやすく言い換えられるところが大宝以降とは異なる脆弱さを読み取れる (所功 1978) と指摘しました。 >>246 普及版 p.338 (筆者「K」 (久野旦雄))
[359] 元号―年号から読み解く日本史― は、 白雉も朱鳥も「当時ほとんど一般に知られていなかったようである」とし、 続日本紀神亀元年の詔 (>>281) を引いて、 「年号として定着せず不安定であったから、 七十数年後奈良時代に入ると、 「白鳳」「朱雀」と言い換えても通用したものと考えられる。」 >>352 p.62-63 としました。
[605] 新川登亀男は、 白雉を百済系と結合した孝徳天皇グループ、 白鳳を高句麗系と結合した藤原鎌足家が用いたとしました >>590。
[381] 元号と改元と日本建国/やまとの謎(125): 夢幻と湧源 () http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-853f.html
[419] mrh_038_001A.pdf () https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/48098/mrh_038_001A.pdf#page=11
[2129] 日本書紀 には、 朱鳥の訓みが敢えて明記されていました (>>77)。 現在のような漢語としての音読みの元号名と違った、 和語の元号名があったことがわかります。 大化と白雉には、 そのような記述はありませんでした。
[1817] 伴信友は、 朱鳥の訓注は元号には似つかわしくないとしながらも、 嘉称 (>>1836) なので大和言葉で呼ぶよう詔があったのだろうとしました。 朱鳥時代は 日本書紀 の編纂と近い時代なので、 このように伝わっていたとして不審ではないとしました。 >>1731
[602] 河内春人は、 日本書紀の「朱鳥」に「アカミトリ」と訓が示されるのは、 文字表記に傾斜した性格の8世紀の元号と違って口誦に傾斜した性格があったためとしました。 文字と音声が別に成立し結合したとは考えにくく、 「朱鳥」から「朱雀」が派生したとするより、 「アカミトリ」という音声が「朱鳥」と「朱雀」の表記がそれぞれ形成されたとする方が整合的に理解できる、 「白雉」と「白鳳」も同様としました。 万葉集巻三、 大津皇子の死去前の歌に 「藤原宮朱鳥元年冬十月」 とあり、 口誦が強く意味を持つ場で元号が使われたのであり、 木簡に現れないことも説明できるとしました。 >>590
[2130] 中華王朝の風習を真似て元号を導入したのだとすると、 漢語でなく和語で元号を決めたというのは不可思議です。 しかし 日本書紀 にはっきりと書かれている以上、 そうだったのだと理解するほかありません。 あるいは初期元号が中華王朝の元号と性質が大きく違っていた証左なのかもしれません。
[1102] 日本書紀 によれば、 白雉は孝徳天皇の崩御により終了 (>>518)、 朱鳥は天武天皇の崩御により終了 (>>887) しました。 その後は元号のない時期となりました。
[190] 新しい元号が建てられなかった理由は定かではなく、 終了の日も明確に示されたものではありません。 元号空白期に当時どのように年が記述されたか諸説あり、 古い時代から現代に至るまで、いろいろな表現法が混在しています。
[615] 斎藤励は、 斉明天皇、持統天皇は中継ぎで即位したので前の時代の元号を使い続け、 天智天皇、文武天皇の時代になったら使わなくなったのは明らかとしました。 白雉、朱鳥とも鳥の名前の祥瑞で、 2つの天皇の時代で用いたこと、 後の天皇がどちらも女帝であることが興味深いとしました。 >>556
[526] 斎藤励が 大織冠伝 により斉明天皇時代まで白雉が使われたとし、 伴信友がそれに加えて天智天皇の漢風嗜好など心理的解釈により天智天皇時代まで白雉が使われたとしました。 坂本太郎は、 一理ないとは思わないとして否定はしませんでしたが、 「むしろこうした議論全体が無意味ではないか」としました。 >>859 p.二一〇。
[522] 坂本太郎は、 大宝以後のように改元の連続がない時代、 旧元号の廃止には特別な意思表示が必要であるにも関わらず、 それが見られない点に注意しました。 政府は代替わりによって旧元号が廃止されたと解釈した (のが 日本書紀 に採られた) のに対し、 世間では継続したと解釈されることがあった (のが 大織冠伝 などに採られた) としても不思議でないとしました >>859 pp.二一〇-二一一, >>502。 朱雀 (朱鳥) は正式には1年でしかなかったため、 この傾向は更に熾烈であったとしました。 >>859 pp.二二九-二三〇。 各種史料が元号でなく斉明天皇の即位紀年を使うことを指摘する (>>1113) とともに、 大織冠伝 に 日本書紀 の記事を否定するほどの力はなく、 むしろ 日本書紀 の記事により否定されるとしました。 >>859 pp.二一一-二一二。 所功らはこの解釈に従い元号停止が明示されなかったため延長年号が生じたとしました >>502, >>246 普及版 p.125。
[1103] 坂本のいうように政府が終了を表明していないなら、 「正しい終了時期」は最初から存在せず、議論は無意味といえます。 ただ坂本は、政府に代替わりによる終了という「正しい終了時期」の認識があり、 民間にはそれと異なる思想もあったとしました。 その根拠といえるものは 日本書紀 のみです。 これがいえるのは代始改元が慣例化した後の時代や中華王朝の価値観の下でのことで、 当時の政府当局の認識とまでは断定しづらいものがあります。 また民間とはいっても延長年号の用例は辺境地や一般大衆によるものではなく、 藤氏家伝 や 万葉集 にみられるものです。 記録に残されず中央貴族にすら徹底されなかった 「正しい終了時期」 は、政府内にすら存在しなかったとする方が説得力があります。
[191] 一覧やソフトウェアの類のなかには、 朱鳥の直前まで白雉を継続させ、 大宝の直前まで朱鳥を継続させるものもあります。 必ずしも特定の学説の主張に結びつくものでなく、 単純化のためまたは不注意により発生したものとみられます。
[108] 日本書紀同様に崩御後も年末まで白雉元年とする対照表もあります >>329。
[15] 国立天文台の日本の暦日データベースは、 神武天皇元年から大宝建元よりも前の期間について、 文武天皇元年を含む天皇即位紀年、大化、白雉、朱鳥のすべてを年単位 (旧暦年) で割り当てていて、3元号の建元日も無視されています >>347。 大宝以後の改元日は忠実に反映されているようです。 不透明な時代を扱いかねての処置なのでしょうが、 時代によって挙動を変えるのはあまり適切な判断とも思えません。
[85] 対照表や変換ソフトウェアの類では、 日本書紀や続日本紀に倣い天皇即位紀年を使うものまたは元号空欄とするものが多く、 このいずれかが適切な処置と思われます。
[412] 次の元号が建てられるまで直前の元号が継続したとみなすものもあります。 日本書紀と比べて不適切な処理のようにも思えますが、 実際には日本書紀以外で白雉や朱鳥が引き続き用いられているような事例が見られ、 明確な終了の宣言がなかったとも考えられるため、 間違いとまでは言い切れません。 実装の便宜と古い時代まで正確に記述する必要性を天秤にかけた結果か、 あるいは空白期の存在に注意を払わなかった杜撰な実装のいずれかでしょう。 新たにソフトウェアを作成する場合の実装戦略として積極的に採用するほどのものとは思えませんし、 元号の一覧表としては適切な表現とはいえません。
[88] 「(白雉後)何年」、 「(朱鳥後)何年」 といった疑似元号を導入するものもあるようです。 歴史的にこうした手法の実績はありませんし、 採用事例も多くありません。 あまり適切な処理とはいえません。
[177] できるだけ当時の表記を尊重する立場なら天皇即位紀年より干支年のほうが適切かもしれませんが、 干支年は60年単位でしか識別できないため、 対照表ならともかく和暦の実装では不適切でしょう。 しかも当時の表記を尊重するなら、 大宝以前はすべて干支年に統一せざるを得ません。
[110] 元号がなければ西暦表記で代用するという立場もありましょうが、 和暦の実装であれば天皇即位紀年の方がより歴史的に適切とも思われます。
[1121] 白鳳時代、白鳳文化、白鳳地震といった語は、 明治時代から昭和時代までの未だ白鳳の性質が明らかになっていなかった頃、 学術的な用語に取り上げられ、美術史などの分野でそのまま現在まで使われています。
[1122] Wikipedia の「白鳳文化」記事は、 白鳳文化を大化の改新 (西暦645年) から平城遷都 (西暦710年) までの飛鳥時代の文化としています。 また天武天皇時代と天智天皇時代の白鳳説を紹介し、 天武白鳳の頃が白鳳文化の最盛期としています。 >>1120
[1118] Wikipedia の「白鳳」 記事は、 白鳳は白雉の別名とするのが通説としつつ、 天智天皇時代の説、 天武天皇時代の説を紹介しています。 白鳳時代の事件には、 西暦661年の斉明天皇崩御から西暦684年の白鳳地震までを挙げていて、 Wikipedia の紹介する天智天皇説の元年から天武天皇説の末年までをカバーしているように見えます。 本来の孝徳天皇時代はなぜか省かれています。 >>1114
[979] 寺社由緒やその他の各地の伝承にみえる紀年は、 現在では元号年に西暦年を併記したものになっていることが多いようです。 元号年のみのものもありますが、 逆に西暦年のみのものもあります。 一覧表のようなデータベース的正確のものでは西暦年が使われがちにみえます。
[980] こうしたものは、もともと元号年や干支年で記述されてきたものが、 明治時代以後の近代化によって干支年が削られ、 西暦年が付されてきたのですが、 具体的にいつ、誰がどのように換算したのかが問題となります。
[981] 大宝以後の元号は大きな問題はないのですが (それでも1,2年の換算ミスや、 旧暦からの換算ミスはありがちです)、 初期元号、とくに白鳳は深刻な状況にあり、 ひどい場合は同じ寺社の伝承でも資料ごとに異なる西暦年が併記されています。 (白鳳の各項に示した実例参照。)
[982] 明治時代から昭和時代まで信じられていた天武白鳳や、 現在信じられている白雉 = 白鳳説に基づく換算は、 そのような対照表もよく流布していたと考えられますから、 理解できます。
[983] それ以外の換算、とくに天智天皇時代の白鳳によるものは、 どんな根拠で西暦年が導かれたのでしょうか。 明治時代以後の日本史研究者には一般的な説だったようにみえないのですが、 歴史学以外の分野の年表などによったのでしょうか。
[984] 干支年や元号年を失わせる形の「近代化」 (実在が疑わしい白鳳を削るという判断もありそう。) は元の情報をたどるのが難しくなる危険性を孕んでいます。 地方の小さな寺社の伝承などは、 そのうち原典資料が散逸して怪しい西暦年の情報だけ残る懸念があります。
[923] 西暦662年は孝徳天皇の白雉元年から数えたときの第13年。 現在の愛媛県神社庁の Webページ >>921 には (この筆者が見た時の状態と同じかどうかは不明ですが、 そうそう変わるものでもないでしょう。)、 西暦年がありません。 「?」 とある通り、換算したものの疑問を感じたのでしょう。 大地震とは白鳳地震を指すので、 天武天皇13(684)年と解さなければなりませんでした。 中世の混乱が遠因、 現代の西暦年への換算が直接の原因となって紀年の誤りが発生した過程が記録された貴重な実例です。
[960] 孝徳天皇の白雉元年を白鳳元年とした西暦年です。 白鳳地震を指すならこの西暦年換算は正しくありません。
[925]
白雉2(651)年を白鳳13年と数えるのは他に例が見当たりません。
何らか誤りでしょうか。
他サイトは西暦651年 = 白雉2年としています >>926, >>927。
白鳳地震で用例が頻出する白鳳13年であることが気になりますが、
関係あるでしょうか。
あるいは天武天皇2(673)年
[2385] 扶桑略記 の判断 (>>1531)、 >>1079
[2387] 役行者顛末秘蔵記 の 「白鳳四季甲子」 を天武天皇時代とし、 干支年が合わないとする論文がありました >>2386 PDF 4ページ、17ページ。 天武天皇の時代だとする記述が 役行者顛末秘蔵記 にあったのか論文著者の判断か不明ですが、 天智天皇時代の白鳳だとすれば干支年は矛盾しません。 なお 役行者顛末秘蔵記 は偽書で、 「于時寶字七年癸酉卯月夏至日」 の道鏡の著書を称しますが、 実際は室町時代とも江戸時代ともされます。 天平宝字7(763)年は癸卯です。
[1000] 日本国滋賀県大津市にある平野神社の由緒は大変興味深いので、 詳しくみてみましょう。
[986] 神社庁、つまり公式サイトとみてよいでしょうが、 「天智称制七年即ち白鳳元年」 なる他のどの説とも一致しない見解が示されています。
[988] 公式
Twitter
アカウントのプロフィールには天智天皇8(668)年
[992] 現地案内板 (翻刻、写真)
では、
「天智称制七年(六六八)」
と
「白鳳元年」
は別の説明に現れます。しかも
「白鳳元年(六四二)」
という、やはり他に例のない説が提示されています。
この西暦年は皇極天皇元(642)年
[996] 先述の写真の案内板と文面は大筋同じなのですが、 細部が少しずつ違います。 引用が正確だとすると、 少しずつ改訂されたバージョンが多数あるということでしょうか。
[997] 平成データだけ、天智7年に「戊辰」と干支年が付記されています。 これは 日本書紀 と一致しています。
[998] 1つ目の由緒にあった白鳳元年は平成データにはなく、かわりに皇極天皇に 642年と書かれていますが、 西暦年の挿入の仕方が文章として不自然で、 編集の痕跡を匂わせます。
[999] 遷宮年が他の天正2(1574)年甲戌でなく天正元(1573)年癸酉となっていることも注目されます。 これは建設のどの段階を採るかによる違いらしいです >>1001。
[994] この解説は怪しい部分を省略して簡略化したのか、皇極天皇時代としか書いていません。
[1002] この神社の由緒については、 当地で生まれ育ったという歴史学者の八塚春児 (後に京都教育大学の教授) が、 平成7(1995)年に詳細に調査した結果を報告しました >>1001。
[1005] それによると、 明治時代と推測される文書に 「人王四十代天武天皇白鳳元年正月下旬」 とあり、 これと別の天智7年説が結びつき現在の奇妙な説明になったようです。 白鳳元年説が何に由来するのかは、残念ながら判明していません。 >>1001
[1006]
皇極天皇の時代については、
皇極天皇3(644)年
[1003] なお、本論文は「天智天皇称制七年」について、 引用文は正しく「六六八」としているのに、 それを直接参照する本文で1年誤って「六六七」 としています。 本論文の本質に関わる重要な部分であるにも関わらずこのようなミスが混入するところに、 年号の扱いの難しさを感じずにはいられません。
[2364] 当麻寺 (當麻寺) は、 日本国奈良県葛城市の寺院です。 現在地での建立は役行者 (>>2319) に関係があるとされますが、 その時期には諸説あります。
[2367]
建久御巡礼記 (>>2361)
は、
「白鳳九年
[2374] 現在の当麻寺はこの説を採用し、 西暦681年としているようです。 しかしこれ年を天武天皇10年とする説と、 天武天皇9年とする説が混在しているようです。 >>2371
[2373] 文化財調査の発表はこれを 「“白鳳九年辛巳”(辛巳は天武天皇10年=681)」 と説明しました >>2370。
[2372] Wikipedia はこれを引用して、 「天武天皇9年(680年)」 と説明しました >>2366。
[2400]
辛巳年は、
日本書紀天武天皇10(681)年
[2401]
もう一方の説は壬申年を元年とする天武白鳳で、
白鳳9年とは日本書紀天武天皇9(680)年
[2389]
当麻寺流記
は、
「天武天皇御宇朱鳥六年
[2398]
朱鳥6年は持統天皇5(691)年
[2399] 乙未年はに当たります。 ここで干支年は唐突感があります。 朱鳥の延長年号が前年の朱鳥9年くらいまでとすることが多く、 乙未年が大化元年、大和元年などとされることがあり、 この辺りを時代の境目とする認識が中世にはあったようです。 それに関係するものでしょうか。
[2426]
上宮太子拾遺記 (>>2433)
の
當麻寺建立事 (縦書き)
は、
「彼寺縁起」 (縦書き)
から引用して、
「天武天皇御宇朱
[2369] Wikipedia は 上宮太子拾遺記 (嘉禎(1237)年成立) 所引 当麻寺縁起 を引用して 「朱鳥6年(692年か)」 と説明しました >>2366。
[2402] 文化財調査の発表は 「『当麻寺縁起』(1237)」 から引いて 「“朱鳥六年辛卯”(辛卯は持統天皇5年=691)」 と説明しました >>2370。 出典は、 西暦年より、 上宮太子拾遺記 所引縁起のことでしょう。 干支年が付されていますが、異本にはあるのでしょうか?
[2403]
干支年や
日本書紀
の朱鳥によれば西暦691年とするのが正しいことになります
(>>2398)。
Wikipedia
の西暦年は、
1年ずれた持統天皇元(687)年
[2417]
仁和寺本
大和国当麻寺縁起
(建長5(1253)年4月25日書写以前に成立、仁治3(1242)年成立か)
は、
「去朱雀元年
[2368] Wikipedia は、 建長5(1253)年成立だという 大和国當麻寺縁起 を引用して、 「天武天皇14年(685年)」 造営開始して 「同16年(687年)」 と説明しました >>2366。 建長5年とあることから、 仁和寺本と同じものを指しているのでしょうか。
[2404]
この天武天皇即位紀年は、
日本書紀
と同じ壬申年を元年とする数え方です。
天武天皇16年は持統天皇元(687)年
[2423] 「辛巳年」が元の伝承だとすると、 白鳳9年説 (>>2400) と一致します。
[2424] 大和国當麻寺縁起 説は天武天皇2年から12年もの時間が経ってようやく白鳳14年に起工したというストーリーですが、 「白鳳14年」「白鳳16年」が元の伝承で、 天武白鳳でなく天智天皇時代の白鳳だとすると、 天武天皇3年、天武天皇5年だったことになり、 時間経過が不自然ではなくなります。
[2365] 古今著聞集 は、 「天武天皇の御宇白鳳十四年」 としていました (>>2360)。
[2405] 干支年がないので特定できませんが、 壬申年元年だとすれば朱鳥元年の前年、 癸酉年元年だとすれば朱鳥元年になってしまいます。 すると壬申年元年方式とする方が自然でしょうか。
[2376] その他、 西南院は 「白鳳12年(683)」 創建と説明されます >>2375。 壬申年を元年とする天武白鳳の数え方です。
[872] 元号を使った年号を解釈するソフトウェアは、 日本書紀 式の正当な表記たる初期年号α群のほかに、 歴史的に使われてきた異称たる初期年号β群や、 異年号たる初期年号γ群にも対応するべきです (が、β群やγ群の実装状況は芳しくありません)。
[873] 加えて、歴史的に使われてきた種々の異説にも対応するべきですが、 同じ元号名で多数の解釈があり得るケースを実装できない構造のソフトウェアもあります (自動で抽出・処理するものなど)。 その場合は最も正統たる初期年号α群を優先するべきです。 利用者に複数の選択肢を提示できる場合など構造上可能な場合には、 異説による解釈も示すべきです。
[413]
和暦の実装の中には、
大化以前の日付を適切に扱えないものや、
西暦の年号を最初の元号たる大化と誤認すること (またはその逆)
で問題を起こすものがあります。
問題を起こさないまでも、
「大化-3年」のような一般的でない負数の大化年が使われることもあります。
[226] 日本の古い時代の元号とされる、 古代年号 (偽年号、逸年号、僭年号、 九州年号) と呼ばれる異年号 (私年号) 群が知られています。
[227] 継体天皇の時代から大宝の頃までに連続的に数十個の元号があるほか、 それ以前の時代にもいくつかあります。 公年号の大化、白雉、朱鳥、 その異称の白鳳、朱雀、 私年号の法興、宝元が含まれることがありますが、 その順序や時代は違っていることもあります。
[334] 中世から現在までの色々な書物に一覧が登場し、 寺社の縁起などに使用例も多々見られるようですが、 その名称や相当年代には様々なバリエーションがあり、 一覧の出入りも激しいようです。
[332] 当時実際に使われたものではなく後世 (中世以後) に作られたり、誤認から生じたりしたものとされています。
[478] 古代年号とされるものの名称や時代は、 史料によりさまざまです。 表記の揺れが激しく文字数すら異なるものや、 名称の一部が不明とされるものまであります。 一覧中で抜けや順序の入れ替わりも多いです。 室町時代、江戸時代と時代を下るにつれて新しい元号が追加されてゆく傾向が指摘されています。
[1907] 法興から大宝の前までの重視されなかった時代の断続的な元号 (>>1906) が伝わっていたところに前後に仏僧が偽年号を作って年代記を創り始め、 書写の誤りなどもあって諸説が生まれた。 海東諸國記 にあるのもその類。 そのような年代記に従って歴史を書いたり社寺縁起を書いたり、 仏僧の虚言も出来た。
[1908] 偽年号が僧徒が作ったというのは、 僧聽、 知僧、 僧要、 願轉、 金光など仏説によって作ったであろうものがあり、 無学の僧のものらしく用字は拙くひどいものが多い。
[1909] 偽年號が作られたのは近年ではない。 源平盛衰記、 平家物語 などに崇峻天皇の時代の端政、 敏達天皇の時代の金光がある。 平家物語 善光寺炎上の段、 此如來欽明天皇の御宇に及びて、 彼國より此國へ徒らせ給ふに、 常に金色の光を放たせ給ふ、 是に依て年號をば金光と號すと云へり
[1911] 水鏡 のある本に、 継体天皇の時代の末尾、 此御時はじめて年號を書給ふ、 としてその25年辛亥から安閑天皇時代を敎到、 宣化天皇の時代に僧聽、 欽明天皇から敏達天皇の時代を喜樂、金光、 敏達天皇から用明天皇、崇峻天皇の時代を勝烈、 舒明天皇の時代を聖徳、命長、 などを書いている。 この元号の記述は元の本にはなく、 後人が書き換えたもののようだ。
[1912] 濫觴抄 継体天皇の時代に善記を挙げている。 本朝年號の條に、 繼體十六年壬寅善記元年、 自注に、 或記云、元年壬寅㠯前一千百七十八年無年號云々、 とある。 今按從神武元年辛酉至繼體十五年辛丑、 一千百七十一年歟、但甲寅年神武卽位之説在之、 若據此説者一千百七十八年歟、 自此以後至大寶雖相續、普通記不載之、 大畧以大寶以後載歟、 とある。 (この文書は上下巻あり、 下巻は建長4年まで。上巻と比べると少し欠けているとみられる。)
[1913] 正和年中に劔工のことを書いた書にも、 善記、敎到がある。 敎到は狛朝葛の續敎訓抄、 豊原統秋の體源抄に、 丙辰記を引いて、 ともに安閑天皇の時代の元号とある。 このような類はほかにもあったが忘れた。
[1914] 壒嚢鈔 に、 吾朝には初は年號無りき、人皇第廿六 代武烈天皇の御世に、始て善記と云ふ號ありしか ども、不次して有無不定なり、其後第卅七第孝徳 の御世に、大化、白雉、天武の御時、朱雀、白鳳なむ ど云號ありしかども今年紀に不連、第四十二代文 武天皇の御宇大寶よりこそ絶ぬ事とはなりにけ れ、但又善記より次第する本あり、白鳳を天智の御 世に繋け、大化を天武の末に係たる本あり、此本 頗違ふ事多き故に、是を不用と云、只文武天皇五 年に係る、大寶より次第するを善とするなり、 とある。 取るに足らない説だが古い議論として珍しいので引用した。
[1915] 藤貞幹が証文20数種類、朝鮮籍も含めて収集した 逸號年表 がある。 それに見つけたものを書き加えて証文80数種類書き加えている。
[1916] いろいろあるが古いものは孝霊天皇の時代に善記、烈滴とあるのがはじめのようだ。
[2000] 善光寺縁起 続群書類従28上釈家部 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=EjQKz9Fs2p0C&pg=RA1-PA30#v=onepage&q&f=false
[2649] 「神治枯」 など従来の古代年号研究で捕捉されてこなかった出典不明の謎元号が見える。 古代年号の増殖はなおも進行中なのだろうか。
[2824] 大日本仏教全書 150, 仏書刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/952854/1/204
[2899] 故実叢書 第18, 吉川弘文館[ほか], , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1120459/1/133 (要登録)
[2665] Taro12-t226.jtd - t226.pdf, , http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/kaihou/t226.pdf#page=5
[532] 「二中歴」, , https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/cahierdusud/history/nichureki.html
[1249] 「二中歴」, , https://web.archive.org/web/20181106043840/http://www.geocities.jp/cahierdusud/history/nichureki.html
[2846] 姫路市史 第3巻 (歴史編), 姫路市史編集委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2990193/1/31 (要登録)
師安 私年号
[533] 夏正から周正へ, , https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/cahierdusud/history/kasei.html
[2740] 夏正から周正へ, , https://web.archive.org/web/20181106043840/http://www.geocities.jp/cahierdusud/history/kasei.html
[2741] 聖徳太子傳記 [2] - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/2550872/1/141
[2867] 駿河国新風土記 第9,10輯, 新庄道雄, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1174538/1/26
善記
[2680] 群馬県史料集 第8巻 (縁起篇 1), 群馬県文化事業振興会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2989053/1/109 (要登録)
[2681] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/12 (要登録)
[2850] 仙台市史 第1巻, 仙台市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1688505/1/40 (要登録)
瑞政
[1027] 日本社会事彙 下巻, 経済雑誌社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1805636/1/580
[2693] 伏敵編 付録, 山田安栄, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3436444/1/61 (要登録)
[2712] 国史の研究 総説, 黒板勝美, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1075909/1/86
[2715] 筑紫史論 第1輯, 波多野晥三, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9775448/1/120 (要登録)
[2852] huru4.pdf, , https://www.town.soeda.fukuoka.jp/docs/2014121000014/files/huru4.pdf#page=5
[2753] 37_01_16.pdf, , http://ajih.jp/backnumber/pdf/37_01_16.pdf
[2757] >>2753 の論文。 麗気記私抄 の古代年号を紹介している。 麗気記私抄 は以前から古代年号の史料として紹介されていたが、 この論文の重要な指摘は、 本書は他書と違ってその来歴に言及しているところ。 すなわち、 麗気記私抄 は役行者の説として古代年号を列挙している。
[2758] 他の役行者関連の伝承と同じく史実とは思われないが、 役行者と結び付けられる形で古代年号が (少なくても室町時代には) 流布されていた点は無視できない。 役行者の伝承には平安時代から白鳳の (異常な年数の) 延長年号が出現している。 そして 麗気記私抄 が古代年号を注釈したのも 麗気記 に「白鳳年」と書かれていたことによる。 果たしてこれらの材料にはどのような関係が見出だせるであろうか。
[2759] 麗気記私抄 でもう1箇所注目するべきなのは、 大宝から元号が始まるという当時の通説であろうものとの整合性が説明されている点。 すなわち、
と説明している。役行者がそう述べていると。 これは古代年号の出自に関わるかもしれない意味深な説明で、 どうしてこんな説が出てきたのかは追求してみる価値があろう。
[2762] また、この説明は、今まで難解で意味不明とされてきた 二中歴 の例の不記年号只有人伝言の下りとも何か関係があるかもしれない。 年号を書かないと元年しかない、は繋がりがありそう (どちらが原型かはわからないし、 どちらも原型ではないかもしれない)。 二中歴はその後に「自大宝始立年号而已」 とよくわからないことが書いてあるが、 麗気記私抄 だとこれ以(已)来年号は断絶しない、大宝以(已)前は元年だけで云々、 という書き方になっていて、こちらだと意味は明白。 どちらかの表現からどちらかの表現へ直接変化したとは言い難いが、 関係を疑ってみたくはなる。
[2835] 元年だけで云々、も現在の常識だけで否定してはいけないのかもしれない。 というのも 類聚三代格 に「白鳳年」が出てくる (>>1048)。 みんな白鳳「年間」の意味だと勝手に補完しているが、 そう解釈するしかない理由は特にない。 そうなると江戸時代の通説(?)だった「一時の嘉号」説ももう一度考え直す価値があろう。 大陸の制度の元号を大化から導入した、 と日本書紀以来みんな思い込んでいたけど、 大陸式の元号制度を導入したことが明らかなのは大宝から。 それ以前の3つは本当に元号だったのか。 なぜ大宝前の金石文に元号が書かれていないか、 なぜ大宝前の元号に空白期間があるのか、 日本書紀の「後五年」 (>>70) とは何か、 あたりの問題がまとめて解決できる可能性も出てくる。
[2836] まあ 麗気記 も 麗気記私抄 も中世のものなので、 こんなものをいくら調べても古代はわからないのだけど、 なにか突破口が見つかればラッキーくらいの軽い気持ちで考えてみたらどうだろうね。
[2764]
>>2763 は
麗気記私抄
の3写本を調べて該当部分を引用している
pp.
[2765] 麗気記私抄 は写本がいくつか現存するらしく、 現在はそのうちの1本の昭和初期の翻刻が国立国会図書館デジタルで閲覧できるが、 写本原本をウェブ上で公開しているところはない。 写本は状態が悪いようなことが後書きで解説されているし、 本文中にちょくちょく中略とあるのも翻刻者が略したのではなかろう。 古代年号のリストも途中で何箇所か省略されている。
[2766] >>2763 の調査だと他の写本では略されていないらしい。 が、3本で一致しないところがおおく、元号名の文字も違いが目立つ。 現存する写本だけが悪いというより、伝写の過程にかなりの問題があったとみえる。
[2767] 3本とも (省略部分は他の写本と同じとみなせば) 孝徳天皇からは扶桑略記式で、 それ以前に独自の元号が足される形態。 二中歴の方が古そうだからと本職の研究者からも九州王朝説の人々からも 麗気記私抄 はあまり顧みられておらず、 >>2763 は元の九州年号が 扶桑略記 の影響で変形した結果だと主張している。
[2769] だが実のところ 麗気記私抄 も 二中歴 の該当部分もいつまで遡れるかはっきりとはわかっていないし、 どちらも引用元があるようなことを言っているので、 大元がいつなのかは本当によくわからない。 麗気記私抄 が参照する 麗気記 は後醍醐天皇の頃なのかどうかという感じ、 現存 二中歴写本も後醍醐天皇の頃なのかという感じ。 偶然なのか似たような時代感だな? と現状これくらいのふわっとした情報しかないので、 麗気記私抄 より 二中歴 が古いはずと信じて視野を狭めてしまうのは危うそうだ。
[2770] そうなると 日本書紀 型 → 扶桑略記 型 → 麗気記私抄 型と徐々に古代年号が増殖していき、 そこから変形した 二中歴 型が発生した、 という可能性が見えてくる。 扶桑略記 の古代年号をすべて含むのに元年と順序が違う 二中歴 型が突然どこかから湧いて出てきて、そこから先祖返りして 麗気記私抄 型が生じた、とするよりも流れとしては自然に感じる。
[2754] 国史の研究, 瓜生寅, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/769391/1/114
[2756] 広文庫 第15冊, 物集高見, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/969109/1/211
[2755] 熊本年鑑 第19巻 昭和41年, 熊本年鑑社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3012335/1/63 (要登録)
[2773] 「両京制」の成立, , https://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou36/furuta36.html
[2805] 塩尻 : 随筆 上, 天野信景, 室松岩雄 校, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/991406/1/204
[2837] 西暦紀元 - Uyopedia, , http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E8%A5%BF%E6%9A%A6
余談というか珍説
2)『二中歴』その他の中世文書(鎌倉期)などに「大化」以前の年号と称するものが大量に伝えられ、「逸年号」と呼ばれるが、その中で二番目に古いものとして「經明」という年号がある。經明元年は垂仁天皇十三年という。ところが垂仁天皇十三年には『日本書紀』をみても改元(または建元)するに値するようなこれといった記事がない。そこで「これは誤記で、正しくは三十年ではないか」と考えてみると垂仁天皇三十年はまさしく西暦紀元元年に相当するのであり、「經明」という年号は西暦紀元と同じ紀年であることがわかる。
[2862] 伊予史談 (160), 伊予史談会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/8100708/1/15 (要登録)
[2803] 丹後史料叢書 第3輯, 丹後史料叢書刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1175339/1/124
[2804] 熊谷家伝記 第4編, 熊谷直遐, 市村咸人 校訂, 伊那史料叢書刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1876546/1/48 (要登録)
[2806] 類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿 上 原名守貞漫稿, 喜田川季荘, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1053410/1/29 (要登録)
[2807] 国語国文の研究 (21), 京都国語国文研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1476909/1/65 (要登録)
[2810] 本居宣長全集 第13巻, 大野晋, 大久保正 編集校訂, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2971189/1/302 (要登録)
[2812] 修訂駿河国新風土記 下巻, 新庄道雄, 修訂: 足立鍬太郎, 補訂: 飯塚伝太郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537280/1/75 (要登録)
[2825] 大八州雑誌 (135), 大八州館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1535000/1/2 (要登録)
[2821] 大八州雑誌 (180), 大八州館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1535045/1/18 (要登録)
[2826] 朝鮮群書大系 : [正]24輯続24輯続々24輯別集7輯 續々第三輯, 朝鮮古書刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1915331/1/17
[2827] 朝鮮群書大系 : [正]24輯続24輯続々24輯別集7輯 續々第五輯, 朝鮮古書刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1915351/1/214
[2828] i13_01034_0001.pdf, , https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i13/i13_01034/i13_01034_0001/i13_01034_0001.pdf#page=7
[2831] 続日本史 巻之2, 一色重熈, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/772423/1/39
[2832] 聖世紹胤録 乾, 東条琴台 (信耕), , , https://dl.ndl.go.jp/pid/769873/1/24
[2833] 古今人物年表 天, 早川蒼淵, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/992084/1/10
[2834] 阿波國郷土史年表 : 研究用稿本, 飯田義資, 羊我山人 撰, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1085728/1/147 (要登録)
[2842] 神祇全書 第4輯, 佐伯有義 等編, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/991328/1/132 (要登録) 右上
[2844] p1bfm1g71k14dt1u7u1fhvj92aa8.pdf, , https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/2017/201705/p1bfm1g71k14dt1u7u1fhvj92aa8.pdf#page=1
智僧
[2847] 明石市史資料 第5集 (古代・中世篇), 明石市教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9576242/1/21 (要登録)
鏡常
[2848] 廿日市町史 通史編 下, 廿日市町, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9576496/1/577 (要登録)
たんしゃう (端政)
[2849] 群馬県史料集 第8巻 (縁起篇 1), 群馬県文化事業振興会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2989053/1/109 (要登録)
[2845] null, , http://www.torashichi.sakura.ne.jp/yaridamasono47.html
紛らわしいもの
[2829] >>1917 これ欽明天皇時代の古代年号の金光と関係ありそう...
[2830] 「刺」と「光」が混同され得るとはただちに肯定できないものの、 崩し字で「刺す」の偏と「光」が似た字形になる可能性はありそうなふいんき。 実際に混同し得るレベルの崩しの実例がどこかで見つかれば確度は高まる。
[2851] https://sucra.repo.nii.ac.jp/record/17143/files/KY-AA11946779-07-02.pdf
[2864] 薩摩の刀と鐔, 福永酔剣, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2507782/1/25 (要登録) /29 左下
[2942] 大八州雑誌 (167), 大八州館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1535032/1/15 (要登録)
[2908] 大八州雑誌 (180), 大八州館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1535045/1/18 (要登録)
[2917] 平田篤胤全集 4, 平田盛胤, 三木五百枝 校訂, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1907672/1/32 (要登録)
[2695] 日本史学新説, 広池千九郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/770755/1/6
[2696] 口永良部島の伝説, 安山登, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9545590/1/13 (要登録)
[2697] 熊本年鑑 第19巻 昭和41年, 熊本年鑑社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3012335/1/63 (要登録)
[2698] 広文庫 第15冊, 物集高見, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/969109/1/205
[2699] 国史の研究, 瓜生寅, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/769391/1/114
[2700] 日韓古史断, 吉田東伍, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/993752/1/249
[2702] 伊那 43(9)(808), 伊那史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4431645/1/11 (要登録)
[2703] 百家随筆 第三, 図書刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1883766/1/30 (要登録)
[2705] 蕗原拾葉 第20輯 (善光寺史略), 上伊那郡教育会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1142914/1/8
[2706] 現代コリア (365), 現代コリア研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7958515/1/3 (要登録)
[2707] 中古の政治と法制, 滝川政次郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2995860/1/28 (要登録)
[2711] 古代日韓鉄文化, 宍戸儀一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1908718/1/52 (要登録)
[2716] 大分の歴史 2 (古代), 大分合同新聞社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9770055/1/221 (要登録)
[2717] 筑紫史論 第4輯, 波多野晥三, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9639925/1/77 (要登録)
[795]
伴信友は、
持統天皇大化3年
[796] 斎藤励は、 新しい史料にしか見えないこと、 藤井貞幹が見たという解文の真偽も定かでないこと、 海東諸国紀 も絶対に信用できるといえない上に天武2年戊戌改元としており一致しないこと、 続日本紀に記載なく大宝を建元したとあることから、 私年号に過ぎないとしました。 >>556
[2890] 甲府繁昌記, 遠藤甲斐吉, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/765024/1/7
[500] 栗田寛 (>>324) は、 中世、 仏教関係者が海外との交流の中で、 日本の古い時代に元号がないことに問題を感じ、 古代年号を作ったと推測しました。 >>324
[473] 久保は、 古代年号を南北朝時代までにまとまったものと推測しました。 その根拠は、 古代年号を収録した文献として最古で書写年代が明らかなものとして永徳年間の 建長寺本和漢年代記があったためでした。 建長寺本和漢年代記にない善記 - 貴楽は室町時代に追加されたものとしました。 皇代記や 二中歴 (>>1671) などは書写段階で古代年号が書き加えられた可能性を否定できないため、 保守的に推測したものとみられます。 >>470 久保は古代年号の仏教色の濃さから、 仏教関係者により作られたものとしました (>>497)。
[474] 所は、 善記以後の古代年号が 「出揃った時期は、もう少し古く鎌倉末期ころとみて差しつかえない (けれどもそれ以上に遡ることはむずかしい)」 としました。 所の主張の根拠は 二中歴 (>>1671) でした。 >>470
[499] 所功は、 古代年号を作ったのは 「おそらく鎌倉時代(末期)の僧侶か仏教に関係の深い人物と推測して大過ないと思われる」 としました。 >>470
[492] 古代年号の改元年や継続年数がどのように定まったのかは、 はっきりしていません。史料による違いも多いです。
[493] 大宝以前の初期年号について、 古い時代の古代年号史料は、 日本書紀の初期年号を穴埋めする形ではなく、 日本書紀と矛盾する形の異説 (>>196) を示していました。 これは古代年号の成立過程を推測する上で重要なヒントと思われます。
[494] 古代年号の改元時期は、 日本書紀による天皇の代替わりの時期と整合しません。 古田は、これを天皇家とは別の権力の存在を示すものだと主張しました。 所功は、 代始改元の原則が中世には崩れていたことから、 「南北朝期ころにまとめあげられたことを裏書きしているのかもしれない」 と指摘しました。 >>470
[495] 古代年号の元号名は、 他の日本の元号や、 他国の元号と比較しても、 かなり異色です。 3文字のものや、 元号らしさが感じられないものもあります。 総じて仏教色が強い文字遣いです。
[496] 二中歴 (>>1671) の古代年号には、 命名の由来とおぼしき仏教関係記事が添えられていました。 >>470
[497] 久保は、 日本書紀や聖徳太子伝暦に出典を求められるものが 「大部分を占めている」とし >>470、 中世の聖徳太子信仰との関係を指摘しました。 ただ所功は「出典確認は、さらに検討の余地もあるであろう」 と指摘しました >>470。 ほとんど史料がないところに推測を重ねたものゆえ、 強引な解釈と言わざるを得ないものもありました。
[498] 古田は、九州王朝の出来事に関係しているとして元号名の由来を解しました。 しかし所功はこれを「あまりに恣意的な解釈が多く、 とうてい成立しがたい」と批判しました。 >>470
[2750] hyena_no_papaさんはTwitterを使っています: 「@nemurikappa @hoshisora_c >列擲 >烈擲 >列滴 という変化ですか?逸年号って文字の異同が多いんですよね。公年号でも同様に文字の異同が多いんですかね? >余り真面目に考えなくても良い 文字の異同にこだわる人なんで、つい「真面目に考え」たくなります^^;」 / X, , https://twitter.com/hyena_no/status/1686727022620663808
[506] 扶桑略記 (>>666) 孝徳天皇条は、 「初立二年号二為二大化元年一。」 とし、大化を最初の元号としていました。 >>502
[484] 古代年号を掲載する文献として、現在一応最古とされる 二中歴 (>>1671) は、 大宝以後の公年号のリストの前に区別して、 古代年号のリストを掲載していました。
[487] 中世の日本では皇年代記の類がよく作られ、 古代年号が書かれていました。 約40種を調査した報告 >>470 (神皇正統記の基礎的研究, 平田俊春, 1979) でも、 古代年号の出典を明記したものは見当たらなかったようです。
[486] 1471年、 李氏朝鮮で 海東諸国記 が成立しました。 海東諸国記 は日本の各天皇の一覧表に元号の一覧表を示しており、 大宝以前に (特記なく) 古代年号を示していました。 出典は不明ながらも、当時の日本で作られていた、 南北朝時代頃成立の年代記、皇代記の類と推測されています。 >>470
[1038] 江戸時代、 伴信友は多くの資料を集め、 初期元号の体系を明らかにしようと試みました >>1731。 坂本太郎はこの基礎的な作業の功績を高く評価しました >>859 p.206。 実際現在までに知られる主要な史料のほとんどが、 整理されて伴信友の著書に掲載されていました。 初期元号に関する情報が含まれないものも含め膨大な数の文書を読んで調査したはずです。
[2085] 伴信友は、 弘仁の改元詔書 (>>1698) の記述から、 大化から元号が途切れず続いたと考えました (>>1893)。 古代から江戸時代までにわたって蓄積された多くの金石文や文献の記述から、 大化、 白雉・白鳳、 朱雀、 白雉・白鳳、 朱鳥、 大化、 大長、 大宝と途切れなく続いた初期元号の列を復元しました (>>751)。 これから外れた異説も示して否定しました。 古代年号は根拠のない造作と否定しました。 >>1731
[2514] 伴信友は、初期元号は大宝以後のように重視されたものではない、 一過性の美称のようなものに過ぎないと考えました。 同じ元号の再利用など大宝以後の常識に背く事象も、 そのような性質ゆえのことと理解しました。 (>>1837)
[2516] 伴信友は、 日本書紀改刪 (>>1614) 説を提唱していました。 現存最古の文献である 日本書紀 と自説が矛盾するのは、 改刪の結果だとしました。 >>1731
[2530] 大長は明治時代に斎藤励に否定され (>>741)、 白鳳と朱雀と改刪説は昭和時代に坂本太郎に否定され (>>517)、 持統大化は昭和時代に所功に否定された結果、 伴信友の復元した初期元号の列はまったく成立しなくなってしまいました。 しかしそれまでの歴史書等の主張を整理し議論の土台を提供したことや、 大宝以降と異なる初期元号の性質を提示したことの意義は小さくありません。
[2531] 伴信友の判断を誤らせてしまったのは、 現存最古の文献たる 日本書紀 は信用できないとの理解を議論の出発点にしたことでしょう。 日本書紀改刪 (>>1614) 説を前提に、 他の遥かに新しい文献の説でも採用し、 矛盾はすべて改刪のせいと説明しました。 友達の友達から聞いた的な怪しげな噂まで信用してしまいました (>>795)。
日本書紀 に不審な点が多いのは事実ですし、 日本書紀 の原本やそれに近い時代の写本が現存しない以上、 改刪がないとは断言できず、 その可能性を追求したことには意義がありました。 かといって、 奈良時代頃ならまだしも、 中世や近世の文献に、 日本書紀 を修正する力を求めたのは、 過大評価だったと言わざるを得ません。
といっても伴信友は古代年号をほとんど相手にしなかったように、 どんなものでも 日本書紀 より重視したわけではありません。そこには伴信友なりの判断基準があったようです。
[315] 続和漢名数 (貝原益軒) は、 「此の偽年号、浮屠の妄作する所なり」 としました。 >>303
[324] 逸年号考 (栗田寛) は、 「多くは中古以来僧徒の人の国へゆききおほくありし頃より、 皇国の古へに紀号なきを厭ぬ事に思ひて造出たるならん。 其の文字づかいもいと拙く、 仏家の語を用ゐたるにて知るべし。」 としました。 >>303
[325]
文政3(1820)年、
鶴峯戊申は
襲国偽僭考
で、
「九州年号と題したる古写本」
などを出典に古代年号を紹介し、
「年号連綿」たることを確認し
「今按ずるに、
文武天皇の大宝以前の年号は、
九州年号とまがへるものあらんもしるべからず」
としました。
>>303
これが
「九州年号」
という語の初出です
>>470。
「九州年号と題したる古写本」
の正体はまったく不明です。
[741] 明治末年、 斎藤励は、 海東諸国紀, 如是院年代記 (>>1673), 二中歴 (>>1671) などが継体天皇時代からあったとする古代年号について、 仏僧の妄作か、 そうでなくても西部で私用されただけで、 開始年・終了年もばらばらで名前も乱れており、 信用できないものと通説化しており、 公年号の最初は大化だと述べました。 >>556
[1039] 佐藤誠実は、 上代史料以外は信用できぬものとし、 白鳳と朱雀は白雉と朱鳥の異称たることを明らかにしました。 後に坂本太郎はこの論考を正しいと認め、 自身も同様の結論を示しました。 ただ佐藤の論文は単純すぎて従来の異説を否定しなかったために、 定説となり得なかったとしました。 >>859 p.207
[517] 坂本太郎は、 上代史料に加えて後代史料も詳細に検討し、 白鳳と朱雀は白雉と朱鳥の異称たることを明らかにしました。 >>859, >>502 (>>859, >>883) これにより白鳳と朱鳥の問題は決着したと考えられています。
[328]
古田武彦は、
「天皇家以前に年号をもっていた公権力―それは九州王朝以外にない」
としました。
(1963)
>>303
[485] 古田は当初日本の 麗気記私鈔、 如是院年代記 (>>1673)、 襲国偽僣考 を挙げつつ、 李朝の 海東諸国記 が「正確であると思われる」 と主張しました。 二中歴 (>>1671) にはなぜか言及していませんでした。 後に所功はこの主張に根拠がないと批判しました。 >>470
[255] 所功は、 「九州王朝」が「九州年号」を使っていたという異説 (失われた九州王朝―天皇家以前の古代史―, 古田武彦, 昭和48年) は 「学問的にまったく成り立たない」 >>461 p.5, >>246 普及版 p.15 と完全に切り捨てていました。
[331] 所功は古田説について 「恣意的な解釈が多く、とうてい成立しがたい」とし、 継体天皇の時代から元号が建てられているのは 扶桑略記 (>>666) 欽明天皇十三年条に、 継体天皇朝に仏教私伝があったと記されていることに関係するのではないかと指摘しました。 (1978) >>303
[313] 同書には所功のまぼろしの〝九州年号〟 (1983) に掲載された「いわゆる〝古代年号〟一覧」が再録されました。 >>6250
[356] 同著者のより新しい著書 元号―年号から読み解く日本史― は、 異年号や偽年号とされるものは私年号とは違って 「私的であれ該当時期にあったとは認め難い、 かなり後代に作られたとみられるもの」 であって、 「一部の論者が〝古代年号〟とか〝九州年号〟と呼んで、 実在したに違いないと熱烈に主張する年号らしきもの」 と紹介しました。 >>352 p.53
[357] 元号―年号から読み解く日本史― の古代年号に関する記述は、 まぼろしの〝九州年号〟 を数行に要約したものです。すなわち、 久保は和漢年代記の頃までにまとまったとしたものの、 「それより少し前の鎌倉末期 (十四世紀前半) 成立とみられる」 二中歴 (>>1671) にあるとし、 また海東諸国紀にあるなどかなり広まっていたものの、 平安時代以前に遡る確実な史料がなく、 仏教色が顕著な元号が少なくないことから、 鎌倉時代に入ってから仏教関係者が造作したと「考えるほかないであろう」 としました。 >>352 pp.53-54
[2714] 前川清一は熊本県の私年号小考で、 古代年号について日本私年号の研究の説を基本としつつ、 注釈で鶴峯戊申や古田武彦の九州年号説も紹介しました。 ただしそれに対する評価は特に書いていません。
[27]
平成時代になると九州年号説から派生したと思われる独創的な亜種説が、
陰謀論などとも絡み合いつつ展開されています。
[106] 大宝以後、元号は継続して建てられるようになり、現在に続いています。
[286] 公文書で元号を使用することは大宝律令で規定されたといいます >>457。 大宝律令は現存しませんが、養老律令 >>458 に
... とあります。
釈云はく、大宝・慶雲の類、之を年号と云ふ。 古記云はく、年号を用いよ。 謂ふこころは、大宝と記して辛丑と注さざるの類なり。 穴云はく、年号を用ゐよ、 謂ふこころは、延暦と云ふ是なり。 問ふ、近江大津宮の庚午年籍は、未だ知らず、何の法に依りて云ふや。 答ふ、未だ此の文を制する以前に云ふ所のみ
... とありました。古記とは大宝令の注釈書でした。 養老令と大宝令とおそらく同文だったのであろうと推測されています。 >>246 普及版 p.130
[290] また貞観式 (小野宮年中行事所印逸文)、 延喜式太政官式に 「およそ諸司の年終帳 それ年号下注せよ」 とありました。 >>246 普及版 p.74
[288] こうした一連の法令や法解釈により、従来の干支年表記が廃され、 現在に続く元号年表記が日本の公式の紀年法となりました。
[360] 国家の基本法である大宝令において官から出す文書も民から出す書類も元号年を使うことが定められたのは、 日本が独自元号を用いる独立国であること、 統一国家として官民共通の年代表記をすることが明確にされたものであると評されています。 >>352 p.64
[289] これらの条項がいつ失効したのか、あるいは現在も有効なのかは不明です。
[3] 官僚機構の整備により文書行政が拡大したところ、 大化の改新から60年経過した西暦705年には干支年が一周し、 年次表記が混乱するおそれが出てきたことから、 元号年の記入を義務付けることで 「連綿とした書類整理が可能となった」 (榎村寛之 2001) と推測されています。 >>246 普及版 p.130
[1250] 上野三碑 (>>218) には干支年から元号年への移行が忠実に現れており、 律令の施行による干支年から元号年への移行が東国でも同時期になされた証左と評されています。
[294] その他全国各地の金石文でおおむね大宝時代を境に干支年から元号年に移行した様子が見られます。
[582] 用例を見るに、 元号年単記方式と元号年・干支年併記方式が早い時期から混在していたようです。
[1818] https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/9/9911/7757_2_%E6%9B%B4%E5%9F%B4%E5%B8%82%E5%86%85%E3%81%9D%E3%81%AE2%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E5%B1%8B%E4%BB%A3%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4%E5%87%BA%E5%9C%9F%E6%9C%A8%E7%B0%A1.pdf #page=15
[2745] 元岡・桑原遺跡群8 - 全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/20439
PDF2つめ #page=75
[82] 続日本紀 (>>1049) の文武天皇の紀には、 文武天皇の即位から4年まで記事が続いた後に、 「大寳元年春正月乙亥朔。 三月丙子。 甲午。對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。」 >>81 とあり、ここでも年始から新元号で記述されました。
[361]
大宝は改元ではなく建元と記されており、
元号制度の創建であることが示されています。
[291] 大宝の建元は金の献上を祥瑞としたとされていますが、 後に虚偽が判明したと記録されています。 制定済みの大宝儀制令に元号利用が定められていたため、 その施行までに元号を建てる必要があった政府の意図が考えられる、 といわれています。 (所功 1978) >>246 普及版 p.127
[362] 大宝2年、 遣唐使が送られました。 大使の粟田真人は大宝律令制定にも関わっており、 大宝律令も唐に献上したのではないかという説があります。 さらには、 大宝の元号による国書を持参した可能性も指摘されています。 >>352 pp.65-66
[83] 続日本紀 (>>1049) のこれ以後の改元の年も、基本的に年始から新元号を使って書かれたようです。 (基本的に最初の日付のみ年を明記するスタイルなので、年始以外は元号が省略されています。) ただし天平、天平感宝、天平勝宝と年に2度改元された天平21年は、 「天平勝寳元年春正月丙寅朔」から始まりますが、 「天平廿一年二月丁巳。」などと天平21年を明記した記事も混じっていました >>84。
[346] 倭の五王の頃、支那王朝から暦がもたらされたと考えられています。
[354] 宋に朝貢した倭の五王の外交文書では、 宋の元号が使われていたと考えられます。 >>352 p.47
[876] 5世紀、6世紀頃から干支年の記された遺物がみられるようになり (>>2)、 この頃から日本でも一部で干支年が使われうようになったことがうかがえます。
[348] 日本書紀によると、 欽明天皇14年、 百済から暦博士が来朝しました。
[349] 日本書紀によると、 推古天皇10年に百済から観勒が来朝し、 天文学や暦学を教授しました。
[1225] 政事要略 は、 推古天皇12年から暦日が使われるようになったとしていました。 (>>376)
[350] 日本書紀の雄略天皇時代以後は元嘉暦によって記述されていると考えられています。
[366] 日本書紀天智天皇10年11月条に、 「月生二日」 とありました。 朔から数えて2日、すなわち暦日の2日と同義と解されています。 >>365
[367] 朔自体は目視できず、 原始的には哉生明 (はじめて明を生じる = 三日月) が使われたと考えられるところ、 敢えて「月生」と表現するのはそうした原始暦法の名残ではないかとの説もありました。 しかし「月生」日付法は唐でも行われていたことがわかり、 この説は否定されました。 >>365
[1031] 万葉雑記 色眼鏡 その十七 続日本紀と日食観測 - 竹取翁と万葉集のお勉強, 2013年02月09日, https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/dd770d07ff8666a9512c5ff6677ae26e
[853] 大宝以後の事件名や用語は日本の元号によるものが多いですが、 大宝以前のものは干支年によるものが多いです。
[278] 日本書紀には朱鳥に因んで飛鳥浄御原宮と命名されたとの記事があります。 (どう因んでいるのか現代人には明らかではなく、議論があります。)
[1086] 日本列島各地に残された古い時代の金属器や石碑などに、 当時の日付の記述の銘文がみられます。
[856] 日本列島に残された最古の日時記録は、 支那王朝 (漢、魏など) の元号でした。 それぞれ大陸から移入されたとみられるものもあれば、 日本列島で製造されたとする説があるものもあります。 列島製としても模造品の可能性があり、 直ちに日付を運用していたと結論づけることはできません。
[353] 漢に朝貢した奴国や、 魏に朝貢した邪馬台国の外交文書では当時の支那の元号である建武中元や景初を使ったに違いなく >>352 p.46、 倭の五王の宋への遣使でもまたそうだったでしょう (>>354) が、それ自体はまったく現存していません。
[2] その後の時代の日本では干支年が主に使われました。 金石文にもこれが残されました。 干支だけでは年代が特定できないため、 その遺物や周囲の状況から推定されています。 時代が下ると天皇即位紀年につながるもの、 元号のようなものも現れてきました。
[99]
東大寺山北高塚古墳
(日本国奈良県天理市)
出土中平銘大刀に、
「中平□
[2880] Xユーザーの可怜小汀さん: 「東大寺山古墳(天理市) から出土した金象嵌「中平□年」銘鉄刀のレプリカ。復元品には「中平六年(189年)」と銘記してあるが、何か根拠があるのかね https://t.co/0QXdJjLgK6」 / X, , https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1764129032537518480
[57] 3世紀頃の中華王朝の元号が記された鏡が日本各地で見つかっています >>58, >>56。
[1134] 大田南5号墳 (日本国京都府京丹後市) 出土、 安満宮山古墳 (日本国大阪府高槻市) 出土、 国立博物館保管の3面の方格規矩四神鏡に、 「青龍三年」 とありました。 魏青龍3(235)年と解されています。 >>56, >>1138, >>1139
[1135] 鳥居原狐塚古墳 (日本国山梨県西八代郡市川三郷町) 出土平縁神獣鏡に 「赤烏元年」 とありました。 呉赤烏元(238)年と解されています。 >>56, >>1140
[1123] 神原神社古墳 (日本国島根県雲南市加茂町) 出土三角縁神獣鏡に 「景□三年」 とありました。 魏景初3(239)年と解されています。 >>58
[1132] 和泉黄金塚古墳 (日本国大阪府和泉市) 出土画文帯四神四獣鏡に 「景初三年」 とありました。 魏景初3(239)年と解されています。 >>56, >>1131
[1133]
景初4年の銅鏡が日本列島から2面出土しています。
景初4年は大陸で実用が確認されない延長年号のため、
解釈には諸説あります。
[1125] 蟹沢古墳 (日本国群馬県高崎市) 出土、 森尾古墳 (日本国兵庫県豊岡市) 出土、 竹島御家老屋敷古墳 (日本国山口県周南市) 出土の3面の三角縁神獣鏡に 「□始元年」 とありました。 魏正始元(240)年と解されています。 >>58, >>1128
[1136] 安倉高塚古墳 (日本国兵庫県宝塚市) 出土平縁神獣鏡に 「赤烏七年」 とありました。 呉赤烏7(244)年と解されています。 >>56
[1137] 上狛古墳 (日本国京都府木津川市) 出土といわれる平縁神獣鏡に 「元康□年」 とありました。 晋元康年間と解されています。 >>56
[1127] 日本国大阪府和泉市久保惣記念美術館所蔵画文帯同向式神獣鏡に 「建武五年」 とありました。 後漢建武5(29)年の可能性は低いとみられ、 南斉建武5(498)年が定説とされてきましたが、 後趙建武5(339)年説もあります。 >>1126
[102]
石上神宮
(日本国奈良県天理市)
所蔵七支刀には、
「泰□四年□月十六日丙午正陽」とありました。
ある年、ある月の16日正午と解されています。
この刀は百済から日本に贈られたものとされています。
>>100
3世紀から5世紀で諸説あります。
[2612]
平安時代に存在していたとされる護身剣に、
「歳在庚申正月」
などとありました。
銘文より百済から贈られたものとされ、
七支刀との関係も取り沙汰されています。
現物は失われて久しく、
偽造とする説もあります。
西暦300年説、
西暦360年説 (七支刀の西暦372年に近い)、
西暦420年説、
西暦660年説 (百済滅亡の年)
があるようです。
[97] 稲荷山古墳出土鉄剣 (日本国埼玉県行田市出土) に「辛亥年七月中記 」 とありました。 西暦471年と解するのが通説とされ、 一説に西暦531年と解されています。 >>96
[98] 江田船山古墳出土鉄刀 (日本国熊本県出土) には 「治天下獲□□□鹵大王世 八月中 」 とありました。 5世紀頃、 獲加多支鹵大王の治世の8月と解されています。 >>96 第何年か明記されませんが、 後の天皇即位紀年につながるものと考えられます。
[95] 隅田八幡神社人物画像鏡 (日本国和歌山県橋本市) に、 「癸未年八月日十 」とありました。 西暦443年8月または西暦503年8月と解されています >>94。 「日十」は10日と解する説もありますが、 他に類例がなく、 続く文の一部と解されています。
[103]
元岡古墳群
(日本国福岡県福岡市)
出土金錯銘大刀に
「大歳庚寅正月六日庚寅日時 」とありました。
西暦570年と解されています。 >>96
干支に大歳と書かれていることが注目されます。
[443]
四天王寺に伝わる丙子椒林剣に
「丙子」
とありました。
5世紀説から8世紀説まであって、評価は定まっていないようです。
[1212]
伊予湯岡碑逸文に、
「法興六年十月歳在丙辰」
とありました。
推古天皇4(596)年10月と解されています。
法興の元号があること、
元号年と干支年の間に月名が割り込んでいること、
干支年が「歳在」で記述されていることが注目されます。
[266] 法隆寺献納銅造如来半跏像 (原所在地日本国奈良県生駒郡斑鳩町) に、 「歳次丙寅年正月生十八日記高屋」 とありました。 推古天皇14(606)年1月または天智天皇5(666)年1月と解されています。 >>267
[271] 法隆寺金堂薬師如来像光背銘 (日本国奈良県生駒郡斑鳩町) に「歳次丙午年」、 「歳次丁卯年」 とありました。 それぞれ西暦586年、 607年と解されています。 >>270 刻まれたのは更に後の時代とみられています。
[64]
法隆寺金堂釈迦三尊像
(日本国奈良県生駒郡斑鳩町)
光背銘に
「法興元丗一年歳次辛巳」と「癸未年」
(>>296)、
台座墨書に「辛巳年八月九月」 >>59 とありました (>>301)。
それぞれ推古天皇29(621)年、
推古天皇31(623)年、
推古天皇29(621)年と解されています。
歳次と書かれていることが注目されます。
[308]
天寿国繍帳銘文に、
「歳在辛巳十二月廿一癸酉日入」、
「明年二月廿二日甲戌夜半」
とあったとされます。
621年、
622年と解されています。
ただしいずれの箇所も上宮聖徳法王帝説所収のもので、
現存していません。
銘文成立は7世紀頃とされますが、正確な時期には諸説あります。
>>307
歳在と書かれていることが注目されます。
[1935] 法隆寺戊子年銘釈迦如来及び脇侍像 (日本国奈良県生駒郡斑鳩町) に、 「戊子年十二月十五日 」 とありました。 推古天皇36(628)年12月25日と解されています。 >>1934 持統天皇2(686)年12月25日説もありました >>1943。
[202] 穴太廃寺 (日本国滋賀県大津市) 出土平瓦片には 「庚寅年」、「壬辰年」とありました。 それぞれ西暦630年、 西暦632年と解されています。 >>201
[1938]
宇治橋断碑
(日本国京都府宇治市)
の現存しない部分にあったとされる碑文に、
「大化二年 丙午之歳」
とありました。
大化2(646)年と解されています。
建碑はそれ以後とされます。
[1247] 山州名跡志 巻之十五所引舊記所引宇治橋銘 >>2016, >>1977, >>649 および 見聞談叢所引銘文 >>649 に 「大化元年 丙午之歳」 とありました。
[2017] 大化2年の誤りとされます。 >>649 「舊記」は不明ながら、2書とも近世のものですから、 妥当でしょう。 ただし 法隆寺伽藍縁起并流記資財帳 の1年ずれ大化 (>>406) と同じ数え方である点は要注意です。
[62] 7世紀の遺跡からは干支紀年を持つ木簡が多く出土しています。 >>59 大宝律令施行まで、 行政上はもっぱら干支年が用いられていたようです。
[60] 前期難波宮跡 (現日本国大阪府大阪市、白雉3(652)年-天武天皇15(686)年) 出土木簡に 「戊申年」 とありました。 大化4(648)年と解されています。 >>59 本項執筆時点で木簡紀年の最古例とされます。
[1365] 藤原京跡 (現日本国奈良県、持統天皇8(694)年-和銅3(710)年) 出土木簡に、例えば次のようなものがありました。
[61] 三条九ノ坪遺跡 (日本国兵庫県芦屋市) で出土した木簡には 「三 壬子年」とあり、 白雉3(652)年を指す可能性が高いとされています。 >>59, >>417, >>418 本項執筆時点で木簡紀年の2番目に古い例とされています。
[1209] ただこのように干支年の前に元号年数だけを記述した例は他に見られません。 導入初期の試行錯誤とも考えられますが不安が残ります。
[1211] 元号名のない天皇即位紀元 (>>70) とすれば、 元号名が表記されないのは必ずしも不都合ではないとも主張できます。 が、孤例であることにはやはり注意が必要です。
[1210] 宝亀3(772)年では時代が進みすぎですが、否定はできません >>59。
[2887]
三
と「壬子年」を一連のものとみない考え方もあります。
[2886]
三
が元号年でないなら和銅5(712)年の可能性もあります
>>59。
[2889] 干支年の木簡で和銅年間はやや新しすぎでしょうか。 だと最古の紀年木簡より古くて不適でしょうか。 白雉3(652)年も現存最古の大化4(648)年 (>>60) と比べて十分古すぎともいえますが...
[2884] AN00396860_19_044_045.pdf, , https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/8834/1/AN00396860_19_044_045.pdf
[2614] 兵庫県立考古博物館|ひょうご考古学情報 / 館蔵品紹介, , http://www.hyogo-koukohaku.jp/collection/p6krdf0000000w01.html
[206] 夏見廃寺 (日本国三重県名張市) で出土した 大形多尊塼仏片には「甲午年」とあり、 649年と解されています >>212。
[204] 野中寺 (日本国大阪府羽曳野市) 塔跡出土平瓦に 「庚戌年正月」 とありました。 650年1月と解されています。 >>205
[1937] N-165 銅造観音菩薩立像(法隆寺献納) (原所在地日本国奈良県) に、 「辛亥年七月十日記笠評君名左(又は大)古臣辛丑日崩去辰時故 」 とありました。 白雉2(651)年7月10日と解されています。 >>1936 崇峻天皇4(591)年7月10日説もありました。 釈読や解釈にも議論がありました。 >>1939
[264] N-196 法隆寺献納甲寅年銘光背 (原所在地日本国奈良県生駒郡斑鳩町) に、 「甲寅年三月廿六日」 とありました。 >>265, >>1939 推古天皇2(594)年3月26日 >>265, >>1939, >>1943, >>1941 または 白雉5(654)年3月26日 >>1939, >>1943, >>1941 と解されています。 制作地が日本か大陸かは不明です >>1942。
[1944] 観心寺阿弥陀如来像光背銘 (原所在地日本国大阪府河内長野市) に、 「戊午年十二月」 とありました。 斉明天皇4(658)年12月と解されています。 >>1943, >>1949
[1213]
西琳寺金堂阿弥陀仏光背銘逸文に、
「寳元五年己未正月」
とありました。
斉明天皇5(659)年1月と解されています。
宝元の元号があることが注目されます。
[203]
野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像
(日本国大阪府羽曳野市)
銘文に、
「丙寅年四月□八日癸卯開」
とありました。
天智天皇5(666)年4月と解されています。
日付解釈には異説もあります。
[126] 船氏王後墓誌 (日本国大阪府) には「阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」、 「戊辰年十二月」 とあり、それぞれ西暦641年、 西暦668年と解されています。 日本で現存する墓誌の最古の紀年とされていますが、 成立はそれよりやや遅れて7世紀の終わり頃とされています。 >>124, >>125
[1255]
小野毛人墓誌に
「営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」
とありました。 >>1254
天武天皇6(677)年
[1256]
薬師寺東塔檫銘
(日本国奈良県奈良市)
に
「維清原宮馭宇
天皇即位八年庚辰之歳建子之月」
とありました。
建子月は11月に当たります。
干支年より、
日本書紀天武天皇8(679)年
[1950] 法隆寺 (日本国奈良県生駒郡斑鳩町) 所蔵黄地平絹幡(戊子年銘) に、 「戊子年七月十五日記丁亥」 ないし 「戊子年七月十五日丁亥」 とありました。 持統天皇2(688)年7月15日と解されています。 >>1951, >>1952
[1958] 采女氏塋域碑 (原所在地日本国河内国石川郡春日村帷子山) 逸文に、 「己丑年十二月卄五日」 (縦書き) とありました。 >>1957, >>1956 持統天皇3(689)年12月25日と解されています。
[1948] 鰐淵寺 (日本国島根県出雲市) 観世音菩薩立像台座銘に 「壬辰年五月」 とあり、 持統天皇6(692)年5月と解されています。 >>1947
[1946] 法隆寺 (日本国奈良県生駒郡斑鳩町) 所蔵造像記銅板銘文に 「甲午年三月十八日」 とありました。 持統天皇8(694)年3月18日と解されています。 >>1945
[257] 妙心寺 (日本国京都府京都市) 梵鐘に、 「戊戌年四月十三日壬寅収」 とありました。 文武天皇2(698)年4月13日と解されています。 >>258
[374] 長谷寺銅板法華説相図 (日本国大分県中津市) 銘文に 「歳次降婁漆兎上旬」 とありました。 戌年7月上旬を表します。 時期は不明確で諸説あるものの、 文武天皇2(698)年7月上旬と解されています。 >>373 (他に朱鳥元(686)年7月上旬、 和銅3(710)年7月上旬、 養老6(722)年7月上旬、 宝亀元(770)年7月上旬の各説があります。)
[213]
那須国造碑
(日本国栃木県大田原市)
に
「永昌元年己丑四月」、
「歳次康子年正月二壬子日辰節」
とありました。
前者は唐永昌元(689)年4月で、
後者西暦700年1月2日の没後のものと解されています。
当時日本の元号がなく、
朝鮮半島からの渡来人の影響で唐の元号が使われたと考えられています。
那須国造碑の日付は当時の新暦儀鳳暦と一致しています。
[2876] 01yoshinaga.pdf, , https://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/05/01yoshinaga.pdf
[1251] 大宝律令の施行後、元号年が主として使われるようになりました (>>288)。
[293] 大宝以後も干支年は根強く利用され続けたことが 続日本紀記事や金石文、木簡などから窺えます (佐藤 2000)。 >>246 普及版 p.130
[63] しかし8世紀以後干支年の紀年を持つ木簡の出土例は少なくなっています。 >>59 かわって大宝元年、 大宝二年をはじめ元号年の紀年を持つ木簡が見られるようになります。 >>246 普及版 p.130
[581] 正倉院文書の御野国、 豊前国、 陸奥国の戸籍には、 「太寶二年」 とありました。 >>502
[1953]
長谷寺
(日本国大分県中津市)
銅製観音菩薩立像に、
「壬歳次攝提格林鐘拾
[1959] 法起寺 (日本国奈良県生駒郡斑鳩町) 三重塔露盤銘逸文に、 「壬午年二月廿二日」、 「戊戌年」、 「乙酉年」、 「丙午年三月」 とありました。 >>698 それぞれ、 推古天皇30(622)年12月22日、 舒明天皇10(638)年、 天武天皇15(685)年、 慶雲3(706)年3月と解されています。 露盤は現存せず、 聖徳太子伝私記 (嘉禎4(1238)年成立) に引用されたものが伝わります。 偽作説もありましたが、 現在は真作と考えられています。
[1262] 文祢麻呂墓誌 (日本国奈良県宇陀市出土) に 「 慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」 とありました。 >>1263 慶雲4(707)年9月21日没後に作られたものとされます。
[579] 威奈大村卿墓誌銘 に、 「 以二大寶元年一律令初定 四年正月 慶雲二年 同 歳十一月十六日 四年二月 慶雲四年歳在丁未 四月廿四日 其年冬 十一月乙未朔廿一日乙 卯 」 とありました。 >>1264, >>1265 慶雲4(707)年の没後のもので、 大宝元(701)年 >>502 (寧楽遺文下巻, p.967) から没年までの元号年が見えます。
[1266] 下道圀勝弟圀依母夫人之骨蔵器 (日本国岡山県小田郡矢掛町出土) に 「以和銅元年歳次戊申十一月廿七日己酉成」 とありました。 和銅元(708)年11月27日と解されています。 >>1267
[1281] 銅製伊福吉部徳足骨蔵器 (日本国鳥取県岩美郡宇部野村出土) に 「 藤原大宮御宇大行天皇御世慶雲四年歳次丁未春二月二十五日從七位下被賜仕奉 和銅元年歳次戊申秋七月一日卒 三年庚戌冬十月 故謹録錍和銅三年十一月十三日己未」 とありました。 和銅3(710)年11月13日に作られたものと解されています。 >>1282, >>1284, >>1285, >>1286
[1291] 奈良県佐井寺僧道薬墓出土墓誌 (日本国奈良県天理市出土) に 「和銅七年歳次甲寅二月廿六日命過」 とありました。 和銅7(714)年2月26日没後のものと解されています。 >>1292
[1960] 栗原寺 (日本国奈良県桜井市) 三重塔鑢盤銘文に、 「 大倭国浄美原 宮治天下天皇時 以甲午年始至於和銅八年合廿二年中 和銅八年四月 」 とありました。 >>1961, >>1962 それぞれ天武天皇時代、 持統天皇8(694)年、 和銅8(715)年4月と解されています。
[1963] 元明天皇陵碑 (原位置日本国奈良県奈良市) に、 「養老五年歳次辛酉冬十二月癸酉朔十三日乙酉」 とありました >>1939。 養老5(721)年12月13日と解されています。 この碑は行方不明になっていたのが江戸時代に発見され、 東大寺要録 (12世紀頃成立) を参考に複製されたものといいます >>1964。 原碑は判読不能とされます >>1965。
[1293]
太安萬侶墓誌
(日本国奈良県奈良市出土)
に
「左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」
とありました。
>>1294
養老7(723)年
[218] 上野三碑 (日本国群馬県高崎市) に、 それぞれ、 山ノ上碑 「辛巳歳集月三日」 >>215、 多胡碑 「和銅四年三月九日甲寅」 >>216、 金井沢碑 「神亀三年丙寅二月二十九日」 >>217 とありました。 それぞれ天武天皇10(681)年10月3日、 和銅4(711)年3月9日、 神亀3(726)年2月29日と解されています。 (>>1250)
[1967] 観禅院梵鐘銘文に 「神亀四年歳次丁卯十二月十一日」 とありました。 >>1969 神亀4(727)年12月11日と解されています。
[1269]
山代忌寸真作墓誌
(日本国奈良県五條市発見)
に
所知天下自輕天皇御世以来至于四継仕奉之人河内國石川郡山代郷従六位上山代忌寸真作 戊辰十一月廿五日□□□□〔逝去〕又妻京人同國郡郷移蚊屋忌寸秋庭 壬戌六月十四日□□□〔逝〕」
とありました。
文武天皇時代から4代にわたって仕えた人物と妻の墓誌とされます。
日付はそれぞれ、
神亀5(728)年
[1295] 金銅小治田安万侶墓誌 (日本国奈良県奈良市出土) に 「左琴神亀六年二月九日」 「 神亀六年歳次己巳二月九日」 「右書神亀六年二月九日」 とありました。 神亀6(729)年2月9日の没後のものと解されています。 >>1296
[1029] 上毛及上毛人 (294), 上毛郷土史研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3567484/1/7 (要登録)
... (縦書き) とありました。 >>1940, >>1955, >>1270
[1996] 「飛鳥淨御原 天皇」 は 「飛鳥淨御原宮⃞天皇」 とするものもありました。 1字剥落のようにも見えますが、 「大行 天皇」 が空欄を入れていることから、 こちらも空欄と解するのが適当とされます。 >>1955
[1997] 最後の天平2年10月「一」日 は、判読困難です。 「一」、「二」とされることもありますが、 「卄」と読んで3年忌に当たる天平2年10月20日と刻んだものとの説があります。 >>1955
[1995] それぞれ、 天武天皇13(684)年1月16日、 大宝元年5月、 霊亀2年1月5日、 神亀5年10月20日、 天平2(730)年10月20日と解されています。
[1999] 天武天皇13年1月16日については、 日本書紀 春正月甲申朔庚子条に相当し、 1日の差があります。 >>1955
[1298] 奈良県行基墓出土墓誌断片 (日本国奈良県生駒市出土) に 「□一年二月□〔丁〕」 とありました。 天平21(749)年と解されています。 >>1297
[1345] 現存するのは断片のみですが、 大僧正舎利瓶記 (行基舎利瓶記, 大僧上舎利瓶記) として写しが伝わります。 次のような日付がありました。 >>1346, >>1347 天平21(749)年3月23日のものと解されています。
[1301] 石川年足墓誌 (日本国大阪府高槻市出土) に 「 當平成宮御宇天皇之世天平寳字六年歳次壬寅九月丙子朔乙巳 以十二月乙巳朔壬申葬于 」 とありました。 >>1300 天平宝字6(762)年9月と解されています。 (9月1日、12月1日と解する >>1302 のは誤訳。)
[1304] 宇治宿禰墓誌 (日本国京都府京都市出土) に 「□雲二年十二月」 とありました。 慶雲2(705)年または神護景雲2(768)年と解されています。 空白は1文字分ですが、 「景雲」と2文字表記されることもあるため否定できません。 >>1303
[1307] 高屋枚人墓誌 (日本国大阪府南河内郡太子町出土) に 「寳龜七年歳次丙辰十一月乙卯朔卄八日壬午葬」 とありました。 >>1306 宝亀7(776)年11月28日と解されています。
[1308] 紀吉継墓誌 (現日本国大阪府南河内郡太子町出土) に 「維延曆三年歳次甲子朔癸酉丁 酉 」 とありました。 延暦3(784)年1月25日没後のものと解されています。 >>1309
[1904] 法隆寺 (日本国奈良県生駒郡斑鳩町) 五重塔天井格椽裏落書に、 「六月肺出」 とありました。 肺は彗星を意味するとみられます。 >>2008 pp.370-371
[397]
漢の元号が書かれた金石文である通称室見川銘板が昭和時代に出土しました。
清国で作られたものと推測されています。
[2107]
国立歴史民俗博物館所蔵の琵琶(銘「白鳳」)は、
白鳳時代のものと伝えられる琵琶です。
銘文に
「白鳳六丁」
などと書かれているとされます。
天武天皇元年壬申を元年とする天武白鳳によれば、
白鳳6(677)年は丁丑年で、
この4文字と矛盾しません。
一応西暦677年と解されています。
[1813] 伴信友は、 当時知られていた不明瞭な銘文 「白鳳丁六」 より、 「丁丑」 とすると白鳳5年だとしました。 「十六」 との説もあるが白鳳16年はない、 としました。 >>1731
[2510]
「白鳳十一年壬午正月」
と書かれた古瓦があったと、
江戸時代の記録に残されていました。
天武天皇元年壬申を元年とする天武白鳳と干支年が一致するので、
一応天武天皇11(682)年1月と解されています。
[1811] 伴信友は、 天武白鳳説のうち癸酉年を元年とするものを正しいとしたので、 1年ずれが生じるこの古瓦を偽造と判断しました >>1731。
[1820]
鬼室集斯墓とされる八角石柱
(日本国滋賀県日野町鬼室神社)
に、
「
[2675] 日本刀の元祖の天国の作った刀の銘に 「久視元年八月一日」 のものがあったとされます。 >>2608, >>2674
[2676] とされます。 当時日本の元号がないため唐の元号が使われているとされます >>2608, >>2674。
[2677] 刀銘の二月八月銘は後世に常用されたとされ、 その慣習が成立した後の偽銘と考えられています。 >>2608
[2678] また、同じ天国の作とされ現存する小烏丸には銘文がありませんが、 かつては「大宝□年」銘があったといわれ、 弐年説と参年説があり、また大宝2年8月25日説があります。 しかしやはり偽銘と考えられています。 >>2608
[1272]
楊貴氏墓誌
(現日本国奈良県五條市出土)
は、
江戸時代に発見され、その後行方不明となっていますが、
「
天平十一年八月十
二日記
歳次己卯」
(縦書き)
とありました。
一応天平11(739)年
[1273] 年月日の後に更に歳次何々と年干支を書くのはこの時代他に例がなく、 しかも「記」を挟んで次の行にあることに疑問が持たれています。 両者の字形が異なることから 「歳次己卯」 は追刻とされますが、それを除く銘文が右側に偏りすぎていることが注目されます。 こうした不審点や他の理由から、 信憑性には疑問が持たれています。 >>1271
[1215] 三国志 (陳寿著、西暦280年以後成立) 内通称 魏志倭人伝 に、 三国時代当時の倭に関する記述がありました。
[1217] 陳寿による原文に、 倭人の寿命について 「其人壽考或百年或八九十年」 とありました。 >>1219
[1218] 裴松之による注釈 (南宋元嘉6(429)年成立) に、 「魏略曰其俗不知正歲四節但計春耕秋收爲年紀」 とありました。 >>1219
[1222] 晋書 (648年成立) に、 「不知正歲四節,但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年,或八九十。」 とありました。 >>1221
[1216] 当時の倭に中華王朝のような整備された暦法がなく、 農耕により年を数える原始的な自然暦があるのみだったようです。
[1220]
この記述は春年と秋年の2年で現在でいう1年を数えていたとする二倍年暦説の根拠の1つに使われていますが、
学術的根拠が希薄で疑問視されています。
[1900]
金剛場陀羅尼経
写本に、
「
[1903] ちなみに石田茂作は論文でこれを 「歲次丙戌 (天武天皇十四年)」 (縦書き) としていました。 >>1902 p.366 壬申翌年の癸酉年を天武天皇元年とした数え方となります。
[44] 古事記 (和銅5(712)年成立) は、 歴史書でした。 日本の現存最古の史書とされます。
[2009] 神代から推古天皇の時代までを扱っていました >>47, >>43。 ほぼ同時代を扱った 日本書紀 ほど日付の記述は多くありません。 序文を除き、 元号は使われませんでした。
[46] 序文には、 誰々天皇の時代、 というような表現がいくつかありました。その他に、
... とありました。 >>47 それぞれ、 天武天皇2(673)年2月、 和銅4(711)年9月18日、 和銅5(712)年1月28日と解されています。
[45] 本文では、 経過年数や人物の年齢を記したものの他に、 崩年が「壬子年十一月十三日」 >>43 のように干支年と漢数字の月日で示されました。 例外的に「戊子年三月十五日癸丑日」 >>43 と日干支も併記したものもありました。
[864] 六国史の第1、日本書紀 (養老4(720)年成立) は日本最古の正史で、 古事記 からやや遅れて成立した現存する日本で2番目に古い歴史書です。
[423] 日本書紀の最古の紀年のある記事は神武東征であり、 「及年四十五歳。 是年也太歳甲寅。 其年冬十月丁巳朔辛酉。天皇親帥諸皇子舟師東征。」、 すなわち「甲寅年冬十月丁巳朔辛酉」 なる日付が示されていました。 >>5
[421] 神武天皇の年齢を逆算して更に何年か遡ることはでき
(
[422] それ以後神武東征時代については同様に干支年で日付が記載されました。 >>5
[105] 日本書紀は以後の天皇については摂政、称制、壬申の乱のような空位時代も前後の天皇や天皇に準じた神功皇后の時代に組み込んでいますが、 神武東征については初代天皇という特殊性のためか、 神武天皇時代には組み入れられていません。 干支年で記述されるのは日本書紀でここだけです。
[28] もちろんこれは日本書紀編者らによる紀年法であって、 神武東征が史実かどうかの議論は置いておくとしても、 当該時代の実際の日時制度は定かではありません。
[16] 皇紀が神武天皇の即位紀年の延長として定められたためか、
皇紀元年以前も数年間連続した期間があるにも関わらず、
この期間は蔑ろにされがちです。
この神武東征期間を扱う紀年法もいくつかあります。
[29] 神武天皇即位後、 最初の元号である大化より前の時代について、 日本書紀などでは天皇即位紀年が用いられてきました。
[9] 神武天皇の即位について日本書紀には 「辛酉年春正月庚辰朔。天皇即帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。」 >>5 とする記事があり、 以後ここからの年数で記述されました。
[10] 例えば次の記事は「二年春二月甲辰朔乙巳。」 >>5 とあり、 神武天皇の即位2年目、 2月すなわち朔日の日干支が甲辰である月、 日干支が乙巳である日、 すなわちが表されていました。 神武天皇のみならず以後の天皇の時代、 日本書紀に続く各正史でもこの日付形式が採用されました。
[30] 朔日を表すときは、 「廿四年春二月丁未朔」 >>11 のごとく日干支は1つだけ記述されました。
[32] 月内のいつかを表すときは、 「廿三年春三月」 >>11 のように月まで記述されました。
[33] 年内のいつかを表すときは、 「廿五年」 >>25 のように年まで記述されました。
[34] 「五年秋八月庚寅朔壬寅。 冬十月。」 >>25、 「三年冬十月辛未朔癸酉。 十一月。 是歳」 >>25、 「廿二年春三月甲申朔戊子。 丁酉。」 >>25、 「四十一年春二月甲午朔戊申。 是月。」 >>25 のごとく、年、季節、月が前項と同じ時省略されたり、 「この歳」、「この月」のような表現が用いられたりもしました。
[49] 「三月上巳」「二年春三月上巳」 >>48 のような表現もありました。 (上巳の節句 = 3月3日)
[52] 日本書紀では「何々朔」または「何々朔何々」 といった日の表記がほとんどでしたが、 続日本紀以後では 「何々朔」または「何々」 となりました。
[17] 天皇即位紀年は、「元年」、 「二年」のように年番号のみで表されていましたが、 他の天皇の在位中を参照する必要があるときは 「天豐財重日足姫天皇三年」 >>18 (斉明天皇3年)、 「天渟中原瀛眞人天皇元年夏六月」 >>18 (天武天皇元年6月) のように天皇名と共に表記されました。
[23] 天皇の他、神功皇后の時代についても、 「冬十月癸亥朔甲子、群臣尊皇后曰皇太后。是年也、太歲辛巳。則爲攝政元年。 二年冬十一月丁亥朔甲午、」 >>22 のように同様の方法で記述されました。 次巻では「攝政六十九年夏四月。」 >>25 のように参照されました。
[192] 天皇名は「天豐財重日足姫天皇」のような和風諡号で記述されました。 現在ではこれを「斉明天皇」 のような漢風諡号に置き換えて表記するのが一般的となっています。 簡略化して単に「斉明」のように表記することもあります。
[424] 神功皇后については、現在では 「神功皇后摂政何年」 >>135、 「神功皇后何年」、 「神功何年」 >>135、 「摂政何年」 >>135 といろいろな表記がみられます。
[21] 日本書紀の漢文原文では「天渟中原瀛眞人天皇元年」 のように元号年の表記の形を採っており、 現在もこの年を表記する際「天武天皇元年」のように元号風に取り扱う慣例となっていますが、 日本書紀の一般的な書き下し文では 「天渟中原瀛眞人天皇の元年」などと助詞を挟んで2語として扱っているようです。 年以下についても「二年の春の二月甲辰の朔の乙巳」 のように助詞をいくつも挟んで書き下し文とするようです。
[13] 天皇即位紀年相互の関係は「太歳己卯」 >>12 のごとき太歳の干支年の記述により知ることができました。
... していました。
[1726] ほとんどの代替わりには天皇即位紀年や元号の変更について特に何の記載もなく、 暗黙的に変更されていました。
[42] 日本書紀の景行天皇紀には、 「活目入彦五十狹茅天皇 九十九年 秋七月己巳朔卯己卯。太子即天皇位。因以改元。 是年也太歳辛未。 」 >>41 とあり、新天皇即位により改元されたとありました。
[1722] 日本書紀で大化より前の「改元」の記事はこれだけです。 「建元」の記事はありませんでした。
[1723] 大化の建元は、 「改天豐財重日足姫天皇四年爲大化元年」 とありました (>>67)。
[1724] 白雉の建元は、 「改元白雉」 とありました (>>68)。
[1729] 斉明天皇即位前紀に 「 十三年冬十月。息長足日廣額天皇崩。 明年正月。皇后即天皇位。 改元四年六月。讓位於天萬豐日天皇。稱天豐財重日足姫天皇。曰皇祖母尊。天萬豐日天皇。」 とありました >>69。
[1725] 朱鳥の改元には、 「改元曰朱鳥元年」 とありました (>>77)。
[1727] 日本書紀 の次、 続日本紀 (>>1049) の最初の元号である大宝には、 「建元爲大寶元年」 とありました (>>829)。
[1694] 日本書紀 の 「建元」 と 「改元」 の使い分けが不審なことから、 日本書紀改刪 (>>1614) 説や大化を追号とする説 (>>521) を唱える人がいました。 こうした説は支持を得ていません。
[1881] そうした説は建元とするべきところが改元とされることを不自然だと指摘しています。 しかし 日本書紀 は建元という語をまったく使っていませんし、 今も (おそらく当時も) 改元と建元を厳密に区別するべきとの意識は強くありません。 建元でないからおかしいとの論理を成立させるのは難しそうです。
[1882] 日本書紀 の元号と天皇即位紀年の扱い方に外形的な区別が見られないことを考えれば、 建元と書き分ける方がむしろ不自然という主張も成り立ち得ます。 改元と建元を区別するべきというのは元号が連綿と続くのが当然になった現在の常識に偏った見方とも思えます。
[490] 重松明久は、 日本書紀が孝徳天皇の大化を (建元でなく) 改元としており不自然なことを指摘しました。 >>502 (白鳳時代の年号の復原的研究, 重松明久, 日本歴史 第319号, 昭和49年)
[809] 所功は、 皇極天皇の天皇即位紀年から大化の元号への変更を改元と呼んで不自然でないと指摘しました。 >>502
[817] 新川登亀男は、 大宝と慶雲の改元記事が 「改元為某年」、 大化と和銅以後が 「改某年為某年」 とされていることから、 大化の改元記事は和銅年間以後のものとしました。 >>590 (「大化」「白雉」「朱鳥」年号の成り立ち, 史料としての『日本書紀』, 2011)
[818] 河内春人は、 大化紀全体が律令知識で潤色されており、 改元記事の文体が影響を受けている可能性もあり根拠にならないとしました。 >>590
[1696] 伴信友は、 天武天皇の天皇即位紀年から朱鳥の元号への変更が建元でなく改元とされるのは不審だと指摘しました。 >>1731, >>859 p.二三〇
[1733] 伴信友は、 日本書紀改刪 (>>1614) によりそれ以前の元号を削除した時、 改元から建元への修正を忘れたためだとしました。 >>1731, >>859 p.二三〇
[525] 坂本太郎は、 大化が建元でなく改元であること、 大化や白雉を経て中断があっても建元とする必然性がないこと、 斉明天皇紀の「気軽な意味」の改元の用例があること (>>1732) から、 これを否定しました。 >>859 p.二三〇, >>502 (>>859, >>883)
[1697] 伴信友は大化以来元号が途切れなく続いていたとする詔の解釈を示していました (>>505) が、 これは 日本書紀 の建元と改元の区別を重視した伴説と矛盾するものです。 続日本紀 によれば大宝が建元され、それ以前に元号はなかったとされます。 伴説に從うなら 日本書紀 のみならず 続日本紀 も改刪されたものとせざるを得ません。 >>859 p.二三〇
[1893] 伴信友は、 大宝の前に大長の元号があったとしていました (>>1870)。 続日本紀 が大宝を「建元」 としたのは、 大長までが元号を重要なものとみなさなかった時代 (>>1837)、 大宝からが重要に扱う時代となったことによるものとしました >>1731。 坂本太郎の指摘の通り、 あまりに自説に都合の良い解釈を重ねた矛盾した主張と評さざるを得ません。
[1732] 伴信友は、 日本書紀 斉明天皇即位前紀に改元四年 (>>1729) とあるのは皇極天皇の即位による称元から4年を表し、 元号の改元とは意味が異なるとしました。 >>1731
[1866] 伴信友は、 それと同時に、 皇極天皇は舒明天皇の崩御後攝政となり、 翌年即位したところ、 敏達天皇7世孫と遠く女子なのに皇太子を差し置いて即位したのであって、 故に遠慮して当初は前帝の治世に加えて年を数え、 その後改元ノ年を立てたのだろう、 これは漢初の即位紀年の改元に近い、 としました。 >>1731
[1846] しかしながら、 日本書紀 の舒明天皇即位紀年と皇極天皇即位紀年の境界は編集上の都合で年単位に設定されたと理解するのが自然で、 後世の逾年改元のような扱いが当時既にあったと考える根拠はありません。 仮にそうであるとしたところで、 前帝の最終年とその翌年での改元は単なる称元と考えるのが普通で、 治世途中の改元 (>>1867) と同一視するのは難しいでしょう。
[26] 日本書紀には他の書物の引用という形で、 「魏志云、明帝景初三年六月、」>>22、 「百濟記云、壬午年、」>>22、 「六十六年。是年、晉武帝泰初二年。」 >>22 といった形の年の表現も一部に含められました。 日干支でなく日子で書いたものもありました。
[1259] 日本書紀 朱鳥元年七月丁巳条 (朱鳥の改元は7月戊午なので、実際はまだ改元前) に 「丁巳。詔曰。天下百姓由貧乏而貸稻及貨財者。乙酉年十二月卅日以前。不問公私皆兔原。」 とありました。 >>75
[1260]
乙酉年は天武天皇14(685)年
[1397]
日本書紀
持統天皇6(692)年
[892] 日本書紀 持統天皇7年11月己亥条に 「試飲二近江国益須郡醴泉一。」、 持統天皇8年3月己亥条に 「詔曰、粤以二七年歳次癸巳一、醴泉涌二於近江国益須郡賀山一。」 とありました >>502。
[1258]
後者の7年
[893] 斎藤励は、 この時代の詔書は元から漢文で、 日本書紀 編者の漢訳ではなく原文にあったものとしました。 >>556
[55]
日本書紀と古事記の自然な解釈は寿命や記述の矛盾が生じるため、
そのまますべて歴史的事実とすることはできません。
記紀や他の史料をどう解釈するべきかについて、
古くから様々な議論があります。
ほぼ確実とみられる学説から、
著しく独創的なファンタジーまで多様で膨大な数の提案があります。
[1614] 江戸時代の伴信友や明治時代の斎藤励は、 日本書紀後世改刪説を主張しました。 これは、 奈良時代に 日本書紀 がいったん成立した後、 大規模に書き換えられたことがあり、 現在伝わる 日本書紀 はその改変後のものだとする説でした。
[1728] その根拠には、 「改元」と「建元」の使い分け (>>1694) など数点が挙げられていました。 改刪によって壬申の乱前後の記述が大幅に書き換えられて、 天武天皇元年が癸酉年から壬申年の1年ずらされたとされました。
[1615] 伴信友と斎藤励は天武白鳳や持統大化などの元号が実在したと考え (>>751, >>514)、 それらが改刪により削除されたものと主張しました。 日本書紀 と異なる初期元号説にとって 日本書紀 との矛盾は強い否定材料となりますが、 改刪説はその 日本書紀 の史料価値を下げるものですから、 都合が良いのです。
[1624] 日本書紀後世改刪説は、 昭和時代、 坂本太郎により完全に否定されました。 以後そのままの形で支持する歴史学者はいないようです。 坂本太郎は天武白鳳説との関係も特に検討して問題点を指摘し、 少なくてもそれに明快な解答が与えられない限り、 天武白鳳説の消極的理由に採用できない >>859 p.二二六 としました。 (改刪前を復元できないのですから、積極的理由になり得ないことは言うまでもありません。)
[2517] 伴信友は、 大化から大宝まで、 元号が途切れず続いたとしました。 それが現在の 日本書紀 に掲載されていないのは、 改刪の結果としました。 次のように説明しました。 >>1731
[779] 斎藤励は、 元号の再利用は後世からみれば異様なので、 日本書紀改刪時に天武白鳳 (と孝徳天皇の白雉の別名の白鳳) は捨てられたとし、 朱雀も朱鳥と紛らわしいことと、 伴信友説の通り弘文天皇の時代にかかってしまうことから、 省かれたとしました。 >>556
[1025] 坂本太郎は伴信友の改刪説を否定しました。 伴信友の白鳳その他の元号についての論は、 改刪の論拠というよりは改刪を前提とする結論であるとし、 古い時代の文献に現れないものであって、 改刪説の否定に論証の必要もないとしました。 >>883 p.一一五。 そこで改刪説否定論文では初期元号に深入りしなかったのですが、 別の論文では、 改刪説を前提とする伴信友の初期元号に関する主張 (の一部) も検証しました。
[1537] 天武白鳳や朱雀の最有力史料とされた 扶桑略記 (>>757) について、 仏徒の造作による物語や取るに足らぬ街談巷説が多い 扶桑略記 の異説は他に有力な証拠がない限り信頼できず、 日本書紀 の改刪の根拠にはなし得ないとしました。 >>859 p.二二一
[1619] 壬申年が大友天皇紀、 癸酉年以後が天武天皇紀だったとする伴信友説は、 壬申年8月から天武天皇朝となるのと同様な場合に 日本書紀 の歴代の紀年で取られていることもあるのであえて不思議とするべきではないと認めつつも、 日本書紀 当初版がその壬申年8月から癸酉年3月を朱雀としていたとするのは妙な関係になるのではないかと指摘しました。 >>859 p.二二六 日本書紀 の原則に従うなら遡及年号を使い、 大友天皇紀は朱雀元年、 天武天皇紀は初年が白鳳元年となるのが妥当でしょう。
[1620] 逆に、 現行 日本書紀 の通り壬申年を天武天皇元年とする方が、 8月の壬申の乱がおさまって泰平を寿ぎ祥瑞により朱雀と改元したとするに似つかわしい、 改刪するならむしろ何もない所に朱雀を書き加える方が順当で、 伴信友説はそれに逆行するものだとしました。 >>859 p.二二六
[1621] さらに、 元号の削除の必要性にも疑問を呈しました。 白鳳が前の時代と同じだから削除するというのは薄弱で、 しかも孝徳天皇時代は 日本書紀 編纂当時は白雉なのだから紛らわしくなく、 改刪時のことだとしても孝徳天皇の白雉を白鳳に改めず天武天皇時代だけ削除する理由が考えられないとしました。 >>859 p.二二六
[1622] 日本書紀 によれば朱鳥は天武天皇の晩年、 闘病中の慌ただしい時にわずか2ヶ月用いられたもので、 「甚だいぶかしい事件」でした。 白鳳や朱雀を削除する腕前のある改刪者が、 それ以上に不審なこの朱鳥を削除しなかったのは不審としました。 >>859 pp.二二六-二二七
[1623] 坂本太郎は更に、 朱鳥が 万葉集 や 日本霊異記 のような当時の文献に見える 「のに反し、白鳳・朱雀の全然見出されないことの相違をこれと関係させて考える場合、 白鳳・朱雀削除説はいかに無力となることであろう。」 >>859 p.二二七 としました。 この理屈は不明瞭で、 改刪説の立場なら、 普及していた朱鳥は削除しようにもできなかったなどと反論できそうです。
[1400] 法隆寺伽藍縁起并流記資財帳 (天平19(747)年2月) は、 法隆寺の資財帳でした。 次の日付が見えました >>407。
[799]
「小治田天皇大化三年歳次戊申」 (>>406)
の小治田天皇は普通推古天皇ですが、
日本書紀
の大化は孝徳天皇時代でした。
しかも 日本書紀
大化3年は丁未で、
戊申は大化4年で、
1年ずれがありました。
>>404
干支年を信じるなら孝徳天皇2(646)年
[280] 伴信友は、 法隆寺縁起 (>>1400) 「小治田天皇大化三年歳次戊申九月廿一日己亥」 を引いて、
... としました。 >>1731
[1852] 皇極天皇が小治田宮にあったのは皇極天皇元(643)年12月21日から皇極天皇2(643)年4月28日で、 その後は飛鳥板蓋宮に遷宮しました。 乙巳の変の舞台も板蓋宮でした。 この宮号の説明には疑問が残ります。
[1311] 大安寺伽藍縁起并流記資財帳 (天平19(747)年2月勘録) は、 大安寺の資財帳でした。 次の日付が見えました。 >>1312
[642] 藤氏家伝 (天平宝字4(760)年成立) は、 藤原氏の歴史書 (伝記集) でした。 日本書紀や続日本紀にない記述が含まれることが注目されます。 共通する記事もあり、関係性は古くから議論されてきました。
[643] 上巻に藤原鎌足についての 大織冠伝、 貞慧 (定恵) についての 貞恵伝、 現存しない藤原不比等条がありました。 下巻に藤原武智麻呂についての 武智麻呂伝 がありました。 現存3伝には、次の日付が含まれました (出現順) >>646。
[644] 大織冠伝 と 武智麻呂伝 は、 何年何月に何々との記事を繰り返し示す 日本書紀 などの歴史書に近い記述形式でした。 貞恵伝 はそのような形式を取らず文量も比較的少ないものでした。
[1036] 藤氏家伝 の年号記述は、 次のように整理できます。
[1035] 所功の論文は、 坂本太郎の論文から 大織冠伝 を孫引いていますが、 同じ部分で古い版では 「白鳳十三年」 >>502 (>>517)、 新しい版では 「白鳳十二年」 >>246 普及版 p.123 (坂本太郎一九四八) として1年ずらしています。 坂本太郎の論文には 「例の大織冠伝には、白鳳十二年、十三年と記される」 >>859 p.二一〇 とありました。 より完全なものを引用しなおしたのでしょうか。 大織冠伝 は前表の通り年数しか書いておらず、 「白鳳」は坂本太郎が文脈上補ったものです。
[1037] 「坂本太郎一九四八」がどの論文か明記されておらず不明です。 セットで引用されている >>883 が昭和18(1943)年なのを誤ったものでしょうか (そちらの論文には 大織冠伝 言及なし)。
[1228] この時代の金石文や木簡、あるいは 日本書紀 など他の文献にみえる紀年の方式はいろいろありますが、 一方 藤氏家伝 の紀年はそれらと必ずしも一致せず、しかし各伝ごとに一貫しています。 だとすると、原資料の紀年にそのまま従った結果ではなく、 各伝の編者が意図的に統一したと想定する必要がでてきます。 藤氏家伝 の編者によるものでなく、 藤氏家伝 の編者がみた原資料の編者によるものかもしれません。 意図的というのは単に読みやすいようにという程度かもしれませんし、 何か政治的な意図かもしれません。 いずれにしても、 藤氏家伝 が編纂された時代の記述方法であって、 当時リアルタイムで使われた方式かどうか、 慎重な検討が必要になるということです。
[2331] 藤氏家伝 には「白鳳」 が使われていますが、 この解釈にはいろいろと問題があります (>>2332)。
[1239] 天智天皇の時代は、 「摂政何年」 「即位何年」 と異様な書かれ方をしていました。 いずれも前年に天智天皇の称制、即位の記事があるため、 順に読み進めれば天智天皇の称制、即位紀年であることは明らかですが。
[1240] 古い時代のように「天智天皇何年」形式にできなかったのは、 称制と即位の2つがあるためでしょう。 でも「天智天皇称制何年」形式にしなかったのはなぜでしょうか。 また古い時代のように「歳次何々」をつけなかったのはなぜでしょうか。 編者は天皇即位紀年より元号に近しいものとみていたのでしょうか。
[1241] 天智天皇の即位後在位中なら、 誰のと限定せずに 「摂政何年」 「即位何年」 と数えていていたとしても不自然ではありません。 果たしてその当時まで遡り得るものでしょうか。
[1244] 武智麻呂伝 には 「天武天皇即位九年」 と漢風諡号の天武天皇が使われました。
[1362] 坂本太郎は、 「漢風諡で記されたことは疑うべきであるけれど、 武智麿伝の価値については定論があるからここに加えた」 と漢風諡号たることを指摘しつつ、 有効な史料の1つとして扱いました。 >>859 p.二一二
[787] 常陸国風土記 (奈良時代初期成立) に、 「難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世癸丑年」 >>786、 「難波長柄豊前大朝馭宇天皇之世己酉年」 >>788 のようにありました。
右檢山上憶良大夫類聚歌林曰飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征始就于海路
... とありました。舒明天皇元(629)年、 斉明天皇7(661)年と書かれています。
[2115] 萬葉集 卷三大津皇子被死之時云々の左註に 「右藤原宮朱鳥元年冬十月」 とありました。 天武天皇丙戌年を元年とする数え方でした。 >>2114
[284] 万葉集左註に「朱鳥四年」「朱鳥六年」とありました。 >>246 普及版 p.125 持統天皇元年を朱鳥元年とする数え方で、 日本書紀 と1年のずれがありました。 次の例がありました >>502。
[567] 万葉集左注に日本紀曰とあるうち、 持統天皇時代のもので元号のないものは、 3例ありました。 これを持統天皇の即位紀年とすれば、 現在伝わる日本書紀と年数、干支、記事内容とも一致します。 >>502
[1049] 続日本紀 (延暦16(797)年成立) は、 六国史第2の日本の正史です。 文武天皇の即位(797年)から桓武天皇延暦10(791)年までを収録していました。
[1075] 続日本紀 文武天皇4(700)年3月己未条の道照和尚伝に、 「孝徳天皇白雉四年」とありました。 >>639
[1280] 続日本紀 大寶三(703)年秋七月甲午条に、 「甲午。詔曰。籍帳之設。國家大信。逐時變更。詐僞必起。宜以庚午年籍爲定。更無改易。」 とありました。 >>1279 庚午年籍 (天智天皇9(670)年) への言及がありました。
[281] 続日本紀神亀元(724)年十月丁亥朔条に、 「白鳳以来朱雀以前年代玄遠」 とありました。 >>639 白鳳から朱雀までの時代が遠くなってしまってよくわからないので云々という詔でした。
[2138] 白鳳と朱雀は、 元号名と解されています。 しかしいずれも正史に現れる元号名ではありません。 それが正史の記事、しかも詔の文中に現れることが注目されます。 これは白鳳と朱雀の現存最古の用例とされます。
[755] 伴信友や斎藤励は、 白鳳や朱鳥が2度元号として使用されたと主張したため、 それぞれがどちらを指すか検討しました。
[1795] 伴信友は、 天武天皇の時代前後を指すのであって、 壬申の乱後の混乱や、 日本書紀改刪 (>>1614) で当時のことがわかりにくくなっているのを指しているとしました。 「年代玄遠」 といっても 40、50年ほど前のことに過ぎず、 婉曲表現であるとしました。 >>1731
[2141] 斎藤励は、 伴信友その他の学者が天武白鳳 (>>617) とするのは牽強付会で、 「年代玄遠難明」とはいえないし白鳳と朱雀の順序がおかしいとしました。 >>556
[2142] 伴信友の時代にも既に、 伴信友説によれば白鳳と朱雀の順序が逆で不審であり、 朱雀は朱鳥の誤りで天武天皇時代だけを指すものだとの説がありました。 >>1731
[1796] 伴信友は、 続日本紀 のどの本にも朱雀とあること、 その解釈ではこのやり取りの意味が明らかにできないことから否定し、 順序が逆なのは婉曲表現ゆえと問題にしませんでした。 >>1731
[2139] 斎藤励は、 白鳳は孝徳天皇時代の白雉 (>>760)、 朱雀は天武天皇時代の朱雀 (>>790) を指すとしました。 >>556 これによれば孝徳天皇の頃から壬申の乱の頃までとなります。 あるいは天智天皇時代前後とも解せるでしょうか。
[1083] 坂本太郎は、 この記事からどの時代か決定することは不可能とし、 2回使用されていたなら時期を特定できない表現が使われなかったはずだ、 と2回使用説を否定しました。 >>859 p.二〇九
[2140] 坂本太郎は、 白鳳は孝徳天皇の白雉を指し、 朱雀は天武天皇の朱鳥を指すとしました。 >>859 これによれば孝徳天皇の頃から天武天皇の頃までとなります。 孝徳天皇の大化が含まれないのが気になりますが、 元より大まかに昔のあの頃という意味の表現だったのでしょう。
[2143] 神亀元(724)年から見て、 白雉元(650)年は74年前、 朱鳥元(686)年は38年前です。 例えば令和元(2019)年からみたときの昭和20(1945)年から昭和56(1981)年、 平成元(1989)年からみたときの大正4(1915)年から昭和26(1951)年に相当します。 現在に置き換えて考えてみても、 大昔というには仰々しいかもしれませんが、 一昔二昔前であるのは確かです。 第二次世界大戦前後の社会の大変化のように、 当時も壬申の乱や大宝律令、平城遷都のような変革期を経ています。 平時であっても40年前の現場スタッフがそのまま残っている可能性はそれほど高くないでしょうから、 既に当時の事情がわからなくなっていたとしても不思議でありません。
[1276] 続日本紀 天平寶字八(764)年秋七月丁未条に、 益人 >>1275 の戸籍に関する記事がありました。 「丁未。先是。從二位文室眞人淨三等奏曰。伏奉去年十二月十日勅。紀寺奴益人等訴云。 後至庚寅編戸之歳。 有僧綱所庚午籍。 但近江大津宮庚午年籍不除。 依庚午籍勘者可從沈。 」 >>1274 と庚午年籍 (天智天皇9(670)年)、 庚寅年籍 (持統天皇4(690)年) への言及がありました。
[1278] 続日本紀 寶龜十(779)年夏六月辛亥条に、 「辛亥。 自庚午年。至大寳二年四比之藉。並注忌部。而和銅元年造藉之日。 」 と庚午年籍 (天智天皇9(670)年) 以来の戸籍への言及がありました。
[1355] 続日本紀 延暦十(791)年春正月己巳条に、 「己巳。典藥頭外從五位下忍海原連魚養等言。謹検古牒云。 飛鳥淨御原朝庭辛巳年。貶賜連姓。 」 とありました。 >>1354
[752] 古語拾遺 (大同2(807)年2月13日) は、 神道の文献でした。
[1050] 「至于難波長柄豐前朝白鳳四年 」 とありました。 >>753 難波長柄豐前朝とは孝徳天皇時代のことです。
[1850] 異本にはこの白鳳を白雉とするものがありました。 >>1731 p.五百八十四
[1851] 本朝月令 (>>2062) >>1731 p.五百八十四、 師光年中行事 (>>1489) >>2066 などにこの部分が引用されており、 いずれも白鳳とありました。
[2061] 年中行事秘抄 にこの部分が引用されていました >>2059, >>1731 p.五百八十四。 ある本には朱書きで 「白雉カ」 (縦書き) と注釈がありました >>2059。
[2068] 公事根元 にもこの部分が引用されているとされますが >>1731 p.五百八十四、 公事根源 (応永29(1422)年成立) に 「白鳳四年」 (縦書き) とありました >>2067。
[1849] この記事に相当するものは 日本書紀 にはありませんでした。 >>1731 p.五百八十四
[2057] 伴信友は、 「至難波長柄豐前朝白鳳四年」 (縦書き) とあることを引き、 白雉とある異本は 日本書紀 に合わせて書き換えたものだとしました。 >>1731 p.五百八十四
[1081] 坂本太郎は、 この白鳳は孝徳天皇の白雉の意味としました >>859 p.二〇八。
[2058] 西山德は、 どの天皇の時代の出来事かは重視され、 誤り難いと思われるため、 孝徳天皇時代と解して良いとしました >>937。
[1358] 新撰姓氏録 (弘仁6(815)年成立) は、 日本の氏族事典でした。 わずかな部分のみ現存します。
[1360] 新撰姓氏録 巻二高橋朝臣条に、 「天渟中原瀛真人天皇 謚天武 十二年改膳臣賜高橋朝臣」 とありました。 >>1359
[1704] この天武天皇12年の元年が壬申年か癸酉年か、 判断できる材料がありません。
[1705] 現代の辞書類その他は壬申元年の日本書紀天武天皇12(683)年説を採っています。 根拠は不明です。 >>1700, >>1702, >>1703, >>1706, >>1710
[1708] 高橋氏と関係のある高椅神社 (日本国栃木県小山市) の縁起類は癸酉元年の天武天皇12(684)年説を採っています。 根拠は不明です。 >>1707, >>1709, >>1712, >>1714, >>1715, >>1716, >>1717 ほかにもこの説を採るものがあります >>1713。
[1361] 新撰姓氏録 第十一藤原朝臣条に、 「天命開別天皇 謚天智 八年賜藤原氏 男正一位贈太政大臣不比等 天渟中原瀛真人天皇 謚天武 十三年賜朝臣姓」 とありました。 >>1359
[1719] 現代のWebサイトで壬申元年の日本書紀天武天皇13(684)年説を採るものがあります。 根拠は不明です。 >>1718
[640] 上宮聖徳法王帝説は平安時代頃の成立とされますが、 記紀と異なる古い史料に基づく信用度の高いものと理解されています。 >>310
[311] 上宮聖徳法王帝説には、 法隆寺金堂坐釋迦佛光後銘文 (>>296) や 天寿国繍帳銘文 (>>308) が収録されていますが、 それ以外に日時を記したものとして 「戊午年四月十五日」、 「壬午年二月廿二日夜半」、 「來年二月廿二日」、 「明年二月廿二日」、 「歳次丙午年」、 「丁未年六七月」、 「志癸嶋天皇御世戊午年十月十二日」、 「庚寅年」、 「小治田天皇御世乙丑年五月」、 「七月」、 「飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日」、 「□□天皇御世乙巳年六月十一日」、 「辛卯年四月」、 「乙巳年八月」、 「丁未年四月」、 「秋七月」、 「壬子年十一月」、 「戊子年三月」、 「甲午年」、 「壬午年二月廿二日」、 「庚戌春三月」、 「惟古天皇即位十年壬戌」、 「十三年辛丑春三月十五日」、 「辛丑年」、 「癸卯年」、 「戊申」、 「己酉年三月廿五日」、 「癸亥年」、 「癸酉年十二月十六日」、 「丙子年四月八日」、 「戊寅年十二月四日」、 「乙酉年三月廿五日」、 「承歴二年【戊午】」、 「甲寅年十月癸卯朔壬子」、 「推古天皇卅四年秋八月」、 「廿二年甲戌秋八月」、 「卅五年夏六月辛丑」 があります。 >>309
[312] 干支年の前にどの天皇の治世か示して時期を明らかにするもののほか、 推古天皇の干支年を伴わない天皇即位紀年が見られることが注目されます。
[1378] 日本霊異記 (日本国現報善悪霊異記、平安時代成立) は、 現存最古の説話集です。 日本各地、広い時代のいろいろな説話が収録されています。 歴史書ではなく、 そのまま歴史的事実とはいえない内容が多いものの、 当時の人々の歴史認識を推測する手がかりにはなります。
[1379] 年数を特定しない誰々天皇の時代のような記述もありますが、 他に次のような日付が上巻に見られます >>1382。
[1395] その他中巻、下巻にも 中7 「以天平廿一年己丑春二月二日丁酉時」 中39 「奈良宮治天下大炊天皇淳仁帝御世天平寶字二年戊戌春三月」 下16 「奈良宮御宇大八嶋國白壁天皇世光仁朝寶龜元年庚戌冬十二月廿三日之夜」 下38 「帝姬阿倍天皇御世之天平神護元年歲次乙巳年始」 など多くの用例がみられました。
[750] 日本後紀 (承和7(840)年成立) は、 六国史第3の歴史書でした。
[1698] 弘仁元(810)年9月19日改元詔書が次の通り収録されました。
[524]
熱田太神宮縁起
(寛平2(890)年成立)
は、
熱田神宮の縁起でした。
[1690] 貞観年間の縁起を元に作成されたものとされます。 現在に伝わるものは数種類あり、 細部や注釈が異なります。 参考熱田大神宮縁起 (参考本) 刊本は、 明和6(1769)年、 伊藤信民が数本を参照して校閲したものでした。 >>859 p.二二九
[1691] 古代の天皇即位紀年やその後の時代の元号が見られる他に、 次のような記述がありました。
[2013] 先代旧事本紀 (9世紀頃成立) は、 歴史書でした。 神代から推古天皇時代までを扱っていました。
[2014] 本文は平安時代頃成立、 推古天皇時代の紀年のある序文はその後加えられた偽書とする説が有力です。
[2020] 本文では神武東征から推古天皇まで日付が書かれていました。 おおむね 日本書紀 方式をとっているようですが、細部 (干支年の書き方など) に若干の違いはみられました。
[2078] 興福寺縁起 (昌泰3(900)年藤原良世著) は、 興福寺の縁起でした。
[2079] 「天開別天皇卽位二年歳次己巳冬十月」 (縦書き) >>2077 (「天開別天皇卽位二年歳次己巳」 (縦書き) >>1731) とありました。 天智天皇即位年元年に当たります。
[2381] 日本三代実録 (延喜元(901)年成立) は、 歴史書でした。 六国史の第6です。
[2383] 元慶元(877)年12月16日条に、 「十六日壬午。 以禅院寺為元興寺別院。禅院寺者、遣唐留学僧道照、還此之後、壬戌年三月、 」 とありました。 >>2382 天智天皇元(662)年3月と解されています。
[2384] 元慶元(877)年12月27日条に、 「廿七日癸巳。勅。 右京人前長門守従五位下石川朝臣木村、 。木村言。 始祖大臣武内宿祢男宗我石川、 。 清御原天皇十三年、賜姓朝臣。 」 とありました。 >>2382
[1626] 口遊 (天禄元(907)年成立) は、 教科書でした。 現存するものは弘長3(1263)年の真福寺本の系統です。
[1630] 年代門 に、 次のようにありました。 >>1629
今案。自大寳元年迄今年惣二百七十年。昔大 寳以往有年號。曰大化。白雉。白鳳。朱鳥。凡 從大化至白雉合九載。其後齊明天智二帝。雖 治天下專無年號。轉更至天武治天歳號朱鳥。 其後持統一帝無年號。亦天武御天歳號大寳。 從此以來永以不絶也。
[2070] 白鳳が言及されながらどの天皇の時代にも挙げられていないのが注目されます。
[2071] 大化と白雉は、 合計9年とされますが、 日本書紀 によれば10年とされるもので、 誤算か誤写とみられます。 >>1731
[2214] この注記の前に歴史の記述の部分があったようですが、 現存せずどのような形だったかはっきりしません。 簾中抄 (>>2198) には大宝以後の元号一覧の後に大化、 白雉、白鳳、朱鳥に言及した注釈がついており、 あるいは同様の構成だったのでしょうか。
[571] 太神宮諸雑事記 (9世紀末頃成立して以後まで加筆 (以前)) は、 伊勢神宮の歴史書でした。
[1665] 異なる表記が混用されており、異なる原資料をつなぎ合わせたものでしょうか。
[1666] 特に不審なのは天武天皇の時代で、 1つの段落で3つの連続する年を白鳳、天皇即位紀年、白鳳と書き分けています。 著者や書写者は疑問を持たなかったのでしょうか。 それともいずれかの段階で白鳳への置き換えがあり、 1箇所見落としがあったのでしょうか。 この白鳳は2つの主要な天武白鳳説のどちらとも異なり、 1年のずれがあります。
[1667] 天武天皇時代のうち朱雀何年に干支年が省かれているのも不審です。 何者かの注釈に或云とあるのは、 いずれかの年代記の類に朱雀が壬申年から1年継続とあるのに朱雀3年で不審に思ったためでしょう。 全体的に年代順で配列されているのですから、 この朱雀は白鳳より後の時代とみなすべきで、 壬申年なら時代が戻り、しかも白鳳とかぶってしまいます。 朱雀何年に干支年を書けなかったのもそれが理由でしょうか。 次の持統天皇時代の記事が持統天皇4年からはじまっているのですから、 この朱雀3年は持統天皇3年か持統天皇2年とみるのは都合が良すぎる解釈でしょうか。
[2819] >>2818 「朱雀」が「私年号」だからその記事は信用できず、持統天皇時代ではないか、 もっと後世の出来事ではないか、とする説がある (この著者は否定的)。 確かに「私年号だから」を理由に信憑性を否定までするのは行き過ぎているが、 このケースでは本来持統天皇時代の記事の可能性は想定したほうがいい。
[2062] 本朝月令 (10世紀前半頃成立) は、 年中行事ガイドでした。
[2063]
現在は一部のみが伝わります。
第2巻 (4月-6月)
が現存する他、
引用された逸文が諸書にあります。
[2069] 西宮記 (10世紀頃成立) は、 儀式ガイドでした。 構成の違う異本が複数知られています。
[2072] 伴信友によれば、 十月宰相行列の條に、 「菅簦云々、白鳳制云、三品已上聽菅簦云々」 とありました。 >>1731
[2076]
国立国会図書館所蔵の江戸時代の本によると、
「
[2073] 神道大系本由来のテキストデータによると、2箇所:
第二巻/臨時三/車/本文/輦、太子老親王大臣僧正等、依宣旨乗之、 △菅?、公卿及祭使、御禊前駈持之、〈白鳳制云、三品以上、聴菅?也、〉行幸時、王卿已下雨具、用市女笠、
臨時四/車/本文/輦、太子老親王大臣僧正等、依宣旨乗之、 △菅?、公卿及祭使、御禊前駈持之、〈白鳳制云、三品已上、聴菅?也、〉行幸時、王卿以下雨具、用市女笠、
... とありました >>2074。 文中「菅?」は「菅簦」とみられます。
[376] 政事要略 (長保4(1002)年11月成立後追記) は、 政務ガイドでした。 現在は一部のみが伝わります。
[2065] 廿五巻に、 「儒傳云、以小治田朝十二年歳次甲子正月戊戌朔始用暦日」 とありました。 >>375, >>377 (儒伝は逸書) 「小治田朝十二年歳次甲子」とは推古天皇12年です。
[542] 新唐書 (北宋仁宗嘉祐6(1060)年成立、康治2(1143)年頃までに日本伝来) は、 唐国の歴史書でした。 中華王朝の正史の 1つです。
[635] 新唐書 東夷伝日本条は、 神代以来の日本の歴史を記していました。 編者が入手できた資料が限定的だったとみえ、 著しく簡潔なダイジェストとなっています。
[2022] 宋史 (西暦1345年成立) は、 宋国 (北宋・南宋) の歴史書でした。 中華王朝の正史の 1つです。
[2023] 宋史 日本伝は、 神代以来の日本の歴史を記していました。 その多くは、 日本の奝然が唐に献上した 王年代記 (逸書) からの引用の形をとっていました。
[748] 新唐書 の日本に関する記述と 宋史 所引 王年代記 の内容はよく似ており、 同系統と考えられています。 ただし細部に違いもあります。
[637] 紀年に関係する箇所だけみても、 とても不完全で不正確なものでした。 最初の日本の元号の言及は白雉で、 その次は大宝でした。 その後の元号も網羅性は低いものでした。 天皇の情報の方がまだ充実していますが、 それも不正確でした。
[636]
新唐書
の日本と支那の紀年の対応の最初は、
「欽明之十一年,直梁承聖元年。」
でした
>>633。
支那南北朝時代の南朝の国、梁の承聖元年は、
西暦552年壬申です。
日本書紀
では欽明天皇13年に当たり、
2年のずれがあります。
[2021] 新唐書 に、 「永徽初、其王孝徳即位、改元曰二白雉一。 献二虎魄大如斗、馬瑙若五升器一。」 とありました。
[2025] 白雉が孝徳天皇の代始改元と認識されていたように読めます >>502。即位と改元が同時と明記してはいないので、 別タイミングと解せなくもありませんが、不自然です。 筆者はこれ以上正確な情報を持っていなかったので、 このような表現にしかなり得なかったと理解するべきでしょうか。
[2024] 続日本紀 に白雉4年遣唐使の記事があり、 その記録に基づくとする説があります。 >>502 (坂本太郎)
[1100]
聖武天皇の時代に白亀なる元号があったとされますが、
これも日本側の記録に見えないものです。
[2026] 王年代記 は日本から持ち込まれた書物のはずですが、 日本側に現存する記録と比べて著しく不正確です。 それ以外にも遣唐使が数度行き来しており、 唐国に長く居住していた日本人もいました。 にも関わらず、 新唐書 執筆時点で正確な情報がほとんど残っていなかったことになります。
[2607] 九州王朝説批判1, , http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu_text1.htm
[1046] 類聚三代格 (11世紀頃成立) は、 平安時代の歴代日本の法令集である三代格式を集成したものでした。
[1048] 類聚三代格 所収天平9(737)年3月10日太政官奏には、 「従白鳳年迄于淡海天朝」 とありました。 >>1041, >>364
[1082] 坂本太郎は孝徳天皇の白雉と同じ白鳳としました >>859 p.二〇八。 理由は明示されませんが、 白鳳年から天智天皇時代までという前後関係によるものでしょう。
[1356] 類聚三代格 巻十六所収大同元(806)年閏六月八日官符に、 「応尽収入公勅旨并寺王臣百姓等所占山川海嶋濱野林原等事 右件検案内、従乙亥年曁于延暦廿年、一百廿七歳之間、 依慶雲三年詔旨一切停止、 依延暦十七年十二月八日格行之、 」 とありました。 >>364
[1357]
乙亥年は天武天皇4(675)年
[1047] 類聚三代格 には、 弘仁格式序 (弘仁11(820)年) が収録されていました (>>273)。
[666] 扶桑略記 (寛治8(1094)年-嘉承2(1107)年頃成立) は、 皇円が神武天皇から堀河天皇寛治8(1094)年まで、 天皇ごとに出来事をまとめた歴史書でした。 以後の歴史書をはじめ、大きな影響を与えました。
[1539]
水鏡
(院政期末-鎌倉初頃成立)
は、
神武天皇以来の時代を扱った歴史物語でした。
大部分が
扶桑略記
を言い換えたに過ぎないものとされています。
[1087] 扶桑略記 は、 孝徳天皇の大化と白雉、 文武天皇の大宝2年以後は 「大寶二年壬寅」 のように元号名を明記し、 文武天皇5年以前は 「元年壬申」 のように天皇即位紀年の年数だけを書いていました。 >>667
[2492] 天武天皇時代は特殊で、 天皇即位紀年を使いつつ、 次のように改元記事を掲載していました。 >>667
[1530] これは壬申年を元年とする朱雀や、 天武天皇2年を元年とする白鳳の現存する初出の例とされます。
[772] 伴信友は、 扶桑略記 が天武天皇の時代について、 2年に白鳳改元とし、 白鳳を14年間とし、 壬申を元年とし、 15年を朱鳥の改元とする矛盾ぶりは、 編者が自身で計算せず、 参照した記録をつなぎ合わせただけだったためとしました。 >>556
[773] 斎藤励は、 伴信友の指摘は意図を掴みかねるところがあるものの、 扶桑略記 の15年丙戌を白鳳15年と伴信友が誤解したもので、 扶桑略記は天武天皇の即位紀年で一貫していて正しい、 としました。 >>556
[774] 斎藤の指摘通り天武天皇の項では一貫していますが、 伴の指摘の通り大宝以後の他の元号の説明とは違いがあり、 不審と言わざるを得ません。 元々天武天皇の項は天皇即位紀年で記述され、 後から元号の説明が挿入されたのではないか、 と疑う余地があります。
[1540] 水鏡 天武天皇時代の朱雀、白鳳、朱鳥の改元の時期と理由も、 扶桑略記 と完全に一致します。 >>1538
[2493] 水鏡 は文として順番に説明していく形をとっているので、 扶桑略記 と同内容でも、 年数が実は天皇即位紀年であることがよりわかりにくくなっています。 水鏡 だけを読んだ人は、まず間違いなく白鳳の年数と解してしまうでしょう。 (水鏡 著者自身がそう誤解していた可能性も高いでしょう。) 伴信友は、 15年改元とするのは14年の誤りだと指摘しました (>>1802)。
[1542] 水鏡 諸本のうちの1本 >>1544 に、 「朱雀といふ年號を白鳳とぞかへられし」 の 「白鳳」 が 「白雉」 となっているものがありました >>1544, >>556 (水鏡詳解)。
[2815] 扶桑略記天武天皇条の改元記事が他条と整合しないので、 後から追加された可能性がありますが、 水鏡 に同じ改元記事があるということは、たとえそうだとしても 水鏡 の成立よりは前 (= 扶桑略記の古い本か、 扶桑略記がもとにした年代記) になります。
[2816]
濫觴抄
も
扶桑略記
からの派生記事を多く含みますが、
「
[675]
扶桑略記
文武天皇五年辛丑正月同月条の引用する
役公傳
(佚書、役小角の伝記)
に、
「藤原宮御宇
[1531] 扶桑略記 編者 (皇円) の注釈 (私詞) は、 時系列の辻褄が合わない上に白鳳は14年しかないのに不審だ、 としていました。 >>1535, >>667
[1532] 白鳳が14年しかないとするのは 扶桑略記 の採用した天武白鳳説でした。 扶桑略記 の編者にとって、 2つの矛盾する白鳳の説があっても、 一方は信用に値するもので、 他方は信用に値しないが一応書き留めるべきと判断するものではあった、 ということになります。
[1533] 役公傳 の白鳳は、 白雉に連なるもので注目されます (>>2319)。
[1541] 水鏡 には、 役小角への言及はありますが、 白鳳の元号は使われませんでした。
[2210] 水鏡 1本の注に、 「天智天皇治十年、白鳳十年辛未崩、」 とありました。 >>1731
[2496] 天智天皇時代の白鳳の一種ですが、主流説と1年のずれがあります。
[2497] 水鏡 中巻の先頭に目次があり、 天皇名に元号が示されていました。 元号に添えられた数字は継続年数のようです。
[2500] ある本には次のようにありました >>2499。
卅八 孝德天皇
卅九 齊明天皇 大化五 白雉五 四十 天智天皇 四十一 天武天皇
朱萑一 白鳳十 一 >>2498 朱 鳥 灬は一 一四十二 持統天皇
四十三 文武天皇 朱鳥八 大化二 大宝三 慶雲四
[2498] ここで、 「白鳳十」の次の文字は、 「一」の下に接して汚れのような点がついたものです。 古典選集本文データベース は 「〔三〕」 と解しました。 >>2499
[2501] またある本には次のようにありました >>2494。
卅八 孝德天皇
卅九 齊明天皇 大化五 白雉五 四十 天智天皇 四十一 天武天皇
朱雀一 白鳳十三 朱鳥一 四十二 持統天皇
四十三 文武天皇 朱鳥八 大寶二 大寶三 慶雲四
[2502] この元号の記述は本文と一致しません。 本文成立後に別個に書き加えられたものでしょうか。
[742] 大鏡 (白河院の頃成立) は、 歴史物語でした。
[681] 古代についての日付を、 孝徳天皇の「元年乙巳」、 「五年つちのとのとり」、 「天智天皇十年二月三日」 のように書いて元号は示さず、 孝徳天皇と天智天皇の間 (ここでは斉明天皇に言及なし。) で 「かの時年號あらざれば月日申しにくし」 とし、 (天武天皇と持統天皇の時代の年号に言及なく、) 「文武天皇の御時に年號定りて大寶元年といふ」 としていました。 (縦書き) >>743
[2080] ある本の注には、 「齊明天皇治七年、白鳳十三年辛酉崩御」 とありました。 >>1731
[2195] 伴信友は持統大化説の関係で 大鏡目録 を引用していました。年次は異本により異同があったようです (>>1830)。
[2255] 伴信友によると 大鏡裏書 に朱鳥の記述があったようです (>>1824)。
[632]
掌中歴
(平安時代後期
[295] 元号一覧の最初を大宝としており、 それ以前に何も示していませんでした。 >>631
[351] 月の大小と閏月の一覧表が掲載されていました。 >>631
[1466] 師元年中行事 (鳥羽天皇 (在位嘉承2(1107)年-保安4(1123)年) の頃いったん成立し追筆) は、 行事の一覧表でした。
[1468] 行事がいつ始まったなどと注釈されることがあり、 天武天皇時代については次のようなものがありました。 >>1463, >>859 p.二一八
[1475]
著者中原師元の親中原師遠
[1477] 師遠年中行事 には 師元年中行事 の天武天皇時代の説明はまったくみられません。 かわりに次の説明がありました >>1476。
[1479] まったく内容が一致しないということは、 師元年中行事 の天武天皇時代の記述は中原氏に伝わった信頼できる記録に基づいたものではない可能性が高くなります。
[1480] 1月8日 「天武天皇九年始説金光明経於宮中及諸寺」 は、 日本書紀 天武天皇9年5月乙亥朔是日条「始説金光明經于宮中及諸寺」と一致します。
[1481] 1月17日 「天武天皇九年正月大射宮門内」 は、 日本書紀 天智天皇9年春正月乙亥朔辛巳条「詔士大夫等大射宮門内」と一致します。
[1483] 1月16日 「天武天皇三年正月拝朝大極殿詔男女無別踏歌」 は、 似た文言が次に示すものなどいくつかの文献に現れます。
[1490] 1月11日 「天武天皇四年三月始任官云々」 は、「云々」とあり、 後半を省略しての引用であることを窺わせます。
[1485] 1月15日の宮内省進御薪事は、 他の文献では別の説を示しています。
[1497] 師元年中行事 の天武天皇の記述の根拠は不明ですが、 いずれも当時存在した他の文献からの引用の可能性が高そうです。 しかしその引用の方法、あるいは引用した文献が、 信頼できるものだったのか疑問を持たざるを得ません。
[1498] 坂本太郎は、 天武天皇時代の1例のみ白鳳の元号であることから、 「後世の攙入と見ることは余りに独断に過ぎるにもせよ、 少くとも本書著作の当時においては、 白鳳号と天武朝との関係がきわめて稀薄であった」 としました。 白鳳が信頼できる記録に基づくものなら、 師元が他の日付にも適用したであろうからです。 >>859 p.二一八
[1499] 坂本太郎は、 師元年中行事 が最初に成立したとみられる鳥羽天皇の頃に、 白鳳元年を天武天皇壬申年とする微弱な一説が存在したのだろうとしました。 >>859 p.二一八
[1632] 興福寺伽藍縁起 (久安元(1145)年成立) は、 寺社縁起でした。
[1658] 異なる原資料からまとめたものなのか、日付表記がばらばらで規則性が見い出せません。
[1660]
天智天皇8年
[1661] 天武天皇元年白鳳12年
[1502]
袋草紙
(保元年間
[1505] 巻1 大嘗会歌次第 に、
天武天皇御宇白鳳二年癸酉十一月始之。但歌不見。
... とありました。 >>1503, >>859 p.二一九
[1507]
日本書紀天武天皇元(672)年
[1506]
日本書紀
天武天皇2(673)年
[2191] 伴信友によると、 「持統天皇大化三年、譲位輕皇太子」 とあった (>>1832) ようです。
[2193] それと同じ箇所かどうか不明ですが、 「持統天皇 十年十一年譲位輕太 子号曰太上天皇」 (縦書き) とありました >>2192。 ここで「十年」は在位年数でしょうか。 「十一年」は譲位年でしょうか。 (持統天皇11(697)年が譲位年です。)
[2320] 色葉字類抄 (12世紀頃成立以後数度改変) は、 辞書でした。 大きく異なる本が複数伝わっており、 何度か追補されたといわれています。
[2323] 現存する3巻本の箕面寺の項には、 「白鳳卄一年十月十七日甲午」 (縦書き) とありました。 >>2322, >>2328
[2324] 伴信友によると、 色葉字類抄 の箕面寺の項には、 「白鳳二十一年辛未十月十七日云々」 とありました。 >>1731
[2285] 箕面寺縁起 (承安3(1173)年以前成立) は、 寺社縁起でした。
[2288] 神武天皇の時代から大宝元年までの日付のある記事がありました。 天皇の事蹟や元号の一覧ではないため断片的ですが、 次のようにありました。 >>2286
[1463]
袖中抄
(文治年間
[1464] 第3巻、 かつまたの池 の条に、
天武天皇飛鳥浄御原宮。 大和国高市郡也。 帝王系図云。 白鳳九年十一月依皇后病造薬師寺云々
[1465] この 帝王系図 は中原氏によるものとされ、 時期より中原師元 (>>1466) の可能性があるとされます。 >>859 p.二一七
[2198] 簾中抄 (平安時代末期頃成立) は、 便覧でした。
[2205] 天皇一覧に元号と年数が示されていました。 孝徳天皇に元号が初めて定められたとし、 「大化五年白雉五年」 (縦書き) とありました。 天武天皇に 「朱雀一年白鳳三年朱鳥一年」 (縦書き) とありました。 持統天皇に 「朱鳥のこり七年大化四年」 (縦書き) とありました。 >>2204, >>2206
[1782] 伴信友は、 天武天皇の時代に 「朱雀一年白鳳十三年朱鳥一年」、 持統天皇の時代に 「朱鳥殘七年、大化四年」 とあったとしました。 ある写本には朱雀と朱鳥を前後に書き「十」が脱落したものがあり、 誤りと考えられる、 としていました。 >>1731
[2201] 大宝以後の元号の年数がまとめられていました。 元号一覧 >>2202, >>2207 と、 天皇ごとの元号一覧 >>2200, >>2209 がありました。 前者の後に、 大宝の前に大化、白雉、白鳳、朱鳥という元号があったと書かれていました >>2203, >>2208。
[2361] 建久御巡礼記 (建久2(1191)年以後成立) は、 旅行記でした。
[929] 多武峯略記 (建久8(1197)年成立) は、 多武峰の寺社に関する事項をまとめたものでした。 逸書を含む諸文献からの引用が多く含まれており、 それぞれに由来するいろいろな日時表記もみられました。
[131] そのうち白雉、白鳳の時代の記述には次のようなものがあります。 2系統の異本があって内容が大きく異なります。 両本の内容に、そして両本に引用された各書の内容には相互に矛盾もあります。 本書の成立の過程でも、その後の伝来でも、 関係する伝承に混乱があったことがうかがえます。
[123] 上巻第5 草創
[128] 上巻第10 地主
[129] 上巻第11 住侶
[130] 上巻第13 佛事
[137] 下巻第2 堂舎(付佛像)
[146] 引用元ごとにも日付表記の方式は違い、 天皇と干支年を組み合わせたもの、 元号方式のもの、 元号と干支年を組み合わせたものなどがみられます。 次のような事実が明白です。
[1456]
両本の成立過程には不確定な点もあるようです。
[1457] 異なる日付表記が混在するということは、 編纂時や書写時に引用元の表記が大きく改変されずにそのまま伝えられたものと期待できます。 しかしながら、 藤氏家伝 と引用文を比較すると編者が改変していたことが判明します。 やはりここにも慎重な検討は必要です。
[120]
群書類従
本
草創
で引用された
「後記」
は、
千満によるものとあります。
千満
[153]
その「後記」
第2「或説」
に
「白鳳七
[155]
諸説示された中で一番古そうだという「荷西記」
は、
「天智天皇治天下丁卯」
「天武天皇治天下戊寅」
と書いていました。
「後記」第2「或説」は、
その紀年法を
「天智六
[930]
坂本太郎は、
最初荷西記が不用意に記したとしても、
或説として長らく伝えられるはずがなく、
千満が後記で荷西記から引用したものではないかとしました。
従って他に「白鳳」を使った信頼できる記録に頼ったものではなく、
千満が当時の説に従い天武白鳳に書き換えたものとしました。
>>859 p.二一五
高橋照彦は坂本説を支持し、
天暦年間
[157] 群書類従 本 佛事 に後記から引用した白鳳が2例ありました。 坂本太郎は明らかに千満によるものとしました。 >>859 pp.二一五-二一六
[1458]
天暦年間
[158]
群書類従
本
草創
で引用された
「旧記」
に
「高宗儀鳳三
[1451]
「旧記」
は建久8(1197)年から見て「旧」で、
下巻6 末寺
に萬寿2(1025)年の記述がある、
比較的新しいものです。
「古記」
と同一だとすると、
下巻2 堂舎
より嘉応年間
[1459] 高橋照彦は内容や「白鳳」 を使っていることから、 荷西記 や後記を踏まえた折衷案とみました >>928 PDF 11-12ページ。
[1452] 群書類従 本 堂舎 に 「荷西記云」 でなく 「荷西記」 とある部分があって、その前後の部分の意味が解しがたいですが、 そこに「白鳳」も含まれます。 この部分は 神道体系本では絶妙に異なっており、 両者の成立の過程も気になります。
[1453] 坂本太郎は、 「荷西記」 に続く部分が 「荷西記云」 と引用された部分と同趣旨で別表現を取っていることを指摘し、 荷西記の意を取って記したものだと解しました。 従って白鳳も荷西記に由来するものでなく、 表現を置き換えたものに過ぎないとしました。 >>859 pp.二一六-二一七
[1460]
群書類従
本上巻11
住侶
に
「或説云」
として、
定惠の死去が
「白鳳十四年十二月二十三日」
とありました。
現行説では日本書紀天智天皇4(665)年
[1461] 群書類従 本の他の 「白鳳」 と同じく天武天皇時代とすると、 時代が大きくずれてしまいます。
[1555] 多武峰は天仁2(1108)年と承安3(1173)年に大規模な焼き討ちに遭いました。 多武峰略記 の原資料の保存状態に悪影響はなかったのでしょうか。
[2030] 三教指帰 (延暦16(797)年12月1日成立後改訂) は、 宗教書でした。
[2031]
三教指帰
に覚明
[2029] 覚明注の 「延暦」 の元号の解説中、 元号の説明として、 「覧初要集云皇極天皇四年爲大化元年自此以來有元」 (縦書き) とありました。 >>2032
[2053] 和漢事始 (>>2039) にもこの部分が孫引きされていました >>2051, >>2052。
[2034] 二中歴 (>>1671) の元号一覧の大化の横に細字の注釈で、 「覧初要集云皇極天皇四年爲大化元年」 (縦書き) とありました。 >>2035
[2033] 伴信友は、 覚明注所引 覽初要集 に 「皇極天皇の四年を大化元年とす、是より以來年號あり」 とあることを紹介し、 大化を皇極天皇の元号とするのは誤りだとしました >>1731 p.五百九十二。 たしかに皇極天皇が改元したかに読める文面ですが、 日本書紀 (>>1723) 以来の表現で、伴の理解が誤りでしょう。 (伴信友は 日本書紀改刪 (>>1614) 説に関係するこの部分をよく知っていたはずなのに、 不思議です。)
[2918] 日本随筆大成 別巻上, 日本随筆大成編輯部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1914157/1/327?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83 (要登録)
[1508] 愚管抄 (承久2(1220)年に一旦成立、承久の乱後改訂) は、 史論書でした。 巻1 皇帝年代記 に歴代天皇ごとの事蹟がまとめられていました。
[1511] 元号に関係して次のような記事がありました。 >>1509
- 孝徳 十年 元年甲寅
- 御諱軽。皇極弟ナリ。同母ナリ。乙巳年六月十四日庚戌即位。同日以中大兄皇子立東宮。天智天皇也。摂津國難波長柄豊碕宮。后三人。皇子一人。
- 左大臣阿倍倉橋麻呂 五年三月七日薨。
- 大紫巨勢徳大臣 大化五年四月廿日任大臣。
- 右大臣蘇我山田石川麻呂 馬子大臣子。大化五年三月被人告謀反得誅自死。
- 大紫大伴長徳連 大化五年四月任。白雉二年七月薨。
- 内大臣○内臣の誤。大錦上中臣鎌子連 大化元年任。一名鎌足。天児屋根尊廿一世孫。小徳冠中臣御食子卿之長男也。大化元年六月三日。誅殺人鹿。即賜恩賞。授内大臣。詔日。社 獲安。寔頼公力。仍拝大錦冠。授内大臣。封二千戸。軍國磯要任公處分云々。
- コノ御時年号ハジメテアリ。大化五年。白雉五年。八省百官ヲサダメテヲク。國國ノサカイミツギモノヲ定ム。唐ヨリ文書寶物ヲヲクワタセリ。
- 白雉五年正月鼠ヲヲク大和國ヘムレユク。遷都ノ前相トイヘリ。
- 齊明女 七年 重祚 元年乙卯
- 左大臣大紫巨勢徳大臣 四年正月薨。
- 天智 十年 元年壬戌
- 内大臣大織冠藤原鎌子 天皇八年十月十五日為内大臣。賜姓藤原氏。同十六日薨。年五十六。在官廿五年。
- 御母齊明天皇ウセタマイテノチ。七年マデ御即位シタマハズ。
- 又東宮ノ御時漏刻ヲツクラル。鎌足ヲ内大臣ニナシテハジメテ藤原ノ姓ヲタマウ。
- 齊明天皇ノ位ニツカセタマウ支干ハ七年ノ後トモミエズ。相続シテタヘズトミユ。ウセタマイテ後七年マデ國主モヲハシマサヌニハアラザルニヤ。七年トアルハ天智ノ御即位アルベキヲ。猶御母ノ女帝ニ重祚ヲセサセマイラセテ。七年ノ後崩御。其後御即位カトココロエラルル。
- 天武 十五年 元年壬申
- 諱大海人。舒明第三子。天智同母。大和國飛鳥浄御原宮。天智七年ニ東宮トス。
- 左大臣大錦上蘇我赤兄臣 元年八月被配流。
- 右大臣大錦上中臣金連 元年八月被誅。
- 大納言蘇我果安 元年八月坐事被誅。大納言起自此。于時五人也。
- 又年号アリ。朱雀一年。元年壬申。白鳳十三年。元年壬申。支干同前。年内改元歟。朱鳥八年。内一年。天武十年ニ太子草壁皇子ヲ東宮トス。
- 持統女 十年 元年丁亥
- 太政大臣浄廣一高市皇子 天武第三息。四年七月五日任。十年七月十三日薨。中納言起自此云々。
- 此御時年号アリ。朱鳥ノノコリ七年。大化四年。元年乙未。ウヅエ踏歌ナドイフ事。此御時ハジマル。大化三年ニ位ヲ東宮ニユヅリタテマツリテ。太上天皇ノ尊号ヲタマハリタマウ事コレヨリハジマル也。ソノノチ四年ハヲハシマス。
- 文武 十一年 元年丁酉 御年廿五
- 大化三年戊戌二月為東宮。
- 知太政官事刑部親王 天武第九子。大寶三年正月廿日任。慶雲二年五月七日薨。
- 大納言藤原不比等 大織冠二男。大寶元年任。
- 参議大伴安麻呂 参議始自此。
- 大化残一年。无年号三年。大寶三年。元年辛丑。年号此後相続不絶。律令ヲ定メラル。官位ニシタガイテ装束ヲ定メラル。冠ヲタマヘケルヲトドメテ位記ヲツクリ給フ。慶雲四年。元年甲辰。五月七日改元。
[1513] これより前の時代の天皇の記事では、 「綏靖太子。綏靖廿五年正月戌子為東宮。」、 「孝元第二子。同廿二年為東宮。」、 安康天皇記事内「安康三年八月。」、 「大臣巨勢男人大臣 武内子。天皇廿年九月薨。」、 「大臣稲目宿禰 卅一年三月薨。」、 のような年の表記を使っていました。 一定の法則性はありつつ、 複数の表記法が混在していました。
[1514] 孝徳天皇から文武天皇の記事にも複数の表記法が混在しますが、 一貫していないという点では前の時代と共通しています。
[2751] 愚管抄年代記は簾中抄 (>>2198) の影響が指摘されていますが、 この部分の記述もよく似ています。
[2377] 当麻寺流記 は、 宝亀6(775)年4月成立を装った偽書でした。 寛喜3(1231)年以前成立とされます。 現在では偽書とされますが、 その後の当麻寺の縁起類に影響を与えました。
[2378]
「推古天皇之御宇卄年
[2433]
上宮太子拾遺記
(嘉禎3(1237)年成立か
[2428] 聖徳太子誕生以後の出来事が、 天皇ごと、 年ごとに記述されました。 最初のうちは聖徳太子の年齢、天皇即位紀年、干支年の併記で年を表していました。 一部の時期には法興元世の元号年も併記していました。
[2434] 聖徳太子没後も、 同じ巻のうちは年齢の代わりに入滅後第何年のような表記がありましたが、 毎年のように表記揺れが見られました。
[2436] 記事は引用が多く、引用文内は原書通りのため天皇即位紀年や干支年が混在していました。 次のような記述もありました。
[2468] 定光、 大花は引用以外では使われていないことに注意が必要です。 本書成立後の書写の過程でその部分だけ挿入されたとは考えにくいでしょう。 本書成立前にこれらの元号が使われていたこと、 法興元世は採用し、これらは採用しないと著者が判断する理由が何かあったことになります。
[2435] その後はほとんどで天皇即位紀年と干支年が使われました。 大宝以後は元号が使われました。
[2431] 孝徳天皇の項は、 記事中に元号が大化であると説明されたものの、 それまでの天皇と同じく天皇即位紀年で元年から10年まで数えられ、 白雉には言及がありませんでした。 >>2430 1547/00269, >>2453, >>2459
... として壬申の乱の記事がありました。
[2444]
天武天皇の項は、
「白鳳十三年元年
[2463]
8年
[2445]
白鳳は
「十三年
[2446] 持統天皇の項には、ここまでなかった治世の年数 「御宇十年」 (縦書き) がありました >>2430 1547/00287, >>2455。以後文武天皇、元明天皇にもありました。 これより前には、 敏達天皇や孝徳天皇のほか、 斉明天皇に「治七年」 (縦書き)、 天智天皇に「治十年」 (縦書き)、 天武天皇に「治十五年」 (縦書き) とあり、 これより後の「元正天皇」からは「治九年」 (縦書き) と書かれていました。
[2447] 持統天皇の時代は次のようにありました。 >>2430 1547/00287, >>2455, >>2469
元年 丁 亥 朱 鳥 灬は一 三年也二年丙 戊 子 同四年 三年丁 己 丑 同五年 四年戊 庚 寅 同六年 正月即位 五年巳 辛 卯 同七年 六年甲 七 辰 七年 未乙 关 巳 八年 甲 午 此一年無年号 大化元年 乙 未 二年 丙 申 此中間支干大相違以證夲可審定
写本では最後の一行だけ別筆の書き込みでした >>2455。 大日本仏教全書本には、 「朱⃞」とありました >>2459。
[2441]
文武天皇の項は、
「元年
[2442] その文武天皇元年には、 「大化三年也」 (縦書き) とありました。 >>2430 1547/00288, >>2455, >>2459
[2439]
元号年による年の表記は、
「天平二十年 元年
[2440]
元年だけ年数が来るところに継続年数が来る形はやはり無理があるのか、
誤写でしょうか、
「元年寳龜十一年 元年
[2469] 本書は 日本紀 や 扶桑略記 も出典として大量に引用していますが、 孝徳天皇から文武天皇の時代の紀年はそのどちらとも一致していません。 著者はどのような判断でこのような構成にしたのでしょうか。 あるいは書写の過程で書き換えられたのでしょうか。
[2470] 白鳳を継続年数13年とするのは、 扶桑略記 系の天武白鳳が天武天皇2年から天武天皇14年まで13年間継続とするのを、 誤って天武天皇元年から13年間としたものでしょうか。 朱鳥元年を天武天皇14年とするのは、それによって1年ずれたのでしょうか。
[2471] 持統天皇の時代は特に混乱しており、 混乱していると注釈がついていました。 その注釈が朱書ということは、 成立後の写本に書き込まれたものでしょうか。 各年の書き込みも、 最初からあったのならもう少し違った表現になりそうなものです。 著者はある考えに従って1説を書き示したものが、 書写の過程で他の年代記と「校合」してかえって混乱してしまったのでしょうか。
[2472] 主として書かれている干支年は、 日本書紀 の持統天皇時代と矛盾しません。 この大枠は著者が最初に設定した時間軸なのでしょうか。 それとも書写の過程で整理された結果なのでしょうか。
[2475] 持統天皇元年から5年には、 朱鳥の3年から7年と書かれていました。 これは天武天皇時代のずれをそのまま継続させたものでした。
[2473]
小さく書かれている干支は、
持統天皇2年から持統天皇4年までは、
実際より2年遅れています。
持統天皇2年
[2476] 持統天皇の前の天武天皇時代は、 天皇即位紀年でなく白鳳と朱鳥が使われていました。 持統天皇の大化と文武天皇の大宝以降は、 元号が使われていました。 持統天皇の前半と文武天皇の前半だけ、 天皇即位紀年を主として、 元号を併記する形を採っていました。 前の天皇の元号の継続のとき新天皇の天皇即位紀年を使うという規則性はあるのですが、 その解釈を巡って混乱が生じたのでしょうか。
[2477] 持統天皇8年には、 1年無年号とありました。 ところがその前の持統天皇6年、7年にも元号はないので、 矛盾しています。 朱鳥が7年まで書かれているので、 元のバージョン (?) で持統天皇即位紀年と朱鳥が混同されていたとすると、 この2年のずれがちょうど埋まって第8年だけが元号なしになります。
[2474] 小さく書かれている干支の持統天皇5年から7年は、 4年までと逆に、実際より2年進んでいます。 持統天皇5年に「巳」、 持統天皇6年に「甲」、 持統天皇7年に「乙未」 とありました。 このうち持統天皇5年が朱鳥7年でした。 実際には持統天皇7年が巳、 持統天皇8年が甲、 大化元年 (持統天皇9年) が乙未でした。 つまり7年が巳で、その2年後が乙未という関係が共通しています。 こちらも持統天皇即位紀年と朱鳥が混同されて生じたものでしょう。
[2466] 裏書の 欽明天皇御代事 に、 次のようにありました。 >>2467 1547/00310
元年
庚 申 曾 偏虫食 聽第四年也十二月即位 二
辛 酉 明要元十一年ヨリ 舊事本紀云秋七月 三
モ 戊 十三
貴米元。二年ヨリ王代記云貴樂元 モ 申 冬十月 百済國委蓋仏像經論日夲仏法㝡初也當 如来滅後一千五百一年也云〻 モ 申 十四年
关 酉 十五
法清元四年ヨリ 甲 戌 十九
兄弟元年 戊 刀 卄
蔵智元 五年アリ 己 卯 卄五
師安元 甲 申 卄六
智僧元年 五年 乙 酉 卅一
金光六 庚 寅 元 年
元
庚 申 [ 傍⃞僧聽第四年也 ] 十二月卽位。 二
辛 酉 明要元。十一年舊事本紀云。秋七月。 三
壬 戌 十三
貴樂元。二年アリ。王代記云。貴樂元 壬 申 冬十月。 百濟國。委蓋佛像經論。日本佛法最初也。當二 如來滅後一千五百一年一也。云云 壬 申 十四
癸 酉 十五
法清元。四年。 甲 戌 十九
兄弟元年。 戊 寅 二十
藏智元。五年 己 卯 二十五
師安元。 甲 申 二十六
智僧元年。五年 乙 酉 三十一
金光元。六年。 庚 寅
[2478] この裏書は、読者が他の年代記から写したものでしょうか。 本書の成立より後に書かれたものでしょうが、 どれだけ古いものでしょうか。 本編で使われていない古代年号が多いことが注目されます。
[2356] 古今著聞集 (建長6(1254)年成立後増補) は、 説話集でした。
[2360] 巻2の36に、 「當麻の寺は推古天皇の御宇、聖德太子の御すゝめによりて麻呂子親王の建立し給へる也。 天武天皇の御宇白鳳十四年に高麗國の惠觀僧正を導師として供養をとげらる。 其日天衆降臨しさま〲の瑞相あり。 行者金峯山より法會の塲に來りて私領の山林田畠等數百町を施入せられけり。 」 (縦書き) とありました。 >>2358, >>2359, >>2357
[2266]
師光年中行事
(文永元(1264)年成立、中原師光
[2267] 天智天皇や斉明天皇の時代は天皇即位紀年で記述されました。
[1496] 「天武天皇十一年」 (縦書き) >>1486、 「天武天皇五年」 (縦書き)、「同十二年」 (縦書き) など天武天皇時代は天皇即位紀年で記述されました。
[2265] 「持統天皇四年」 (縦書き) >>2264 のように持統天皇は天皇即位紀年で記述されました。
[2268] 伴信友は 師光年中行事 に朱鳥が使われたとしました (>>1824) が、 どの箇所を指すのか不明です。 続群書類従 本にはそれらしき記述が見当たりません。 写本によっては持統天皇4年が朱鳥5年と書かれていたりするのでしょうか。
[1735] 一代要記 (後宇多天皇 (在位文永11(1274)年-弘安10(1287)年) 頃成立し以後追記) は、 歴史書でした。 江戸時代に発見され流布されました。 天皇ごとに政府首脳や出来事がまとめられていました。
[1737] 大宝以後は元号年 (かそれに干支年を併記したもの) で表されました。 初期天皇の時代は、
... と書くのが原則となっているようですが、若干の例外もありました。 >>1736, >>1734
[1742] 孝徳天皇の年表見出し部分は 「大化元年乙巳」 「二年丙午」 ・・・ 「五年己酉」 「白雉元年庚戌」 ・・・ と元号年が使われました。これは大宝以後と同じ書き方でした。 >>1734
[1744] 白雉元年の記事は
「白雉五年庚戌大化六年二月自長門國
進白雉仍改白雉
[1743] 孝徳天皇諸臣経歴中に 「元年」 「五年」 「天皇元年」 「天皇五年」 と混在していました。 >>1734
[1741] 天智天皇の経歴に、 「孝徳元年乙巳六月為皇太子」とありました。 >>1736 44コマ
[1745] 天武天皇年表見出し部分は 「白鳳元年壬申」 「二年癸酉」 ・・・ 「十三年甲申」 「十四年乙酉」 「朱鳥元年丙戌」 とありました。 >>1734, >>1736
[1748]
元年壬申から十三年甲申までには、
「元年壬申
[1749] 天武天皇の経歴と年表の元年壬申の前に、 他の天皇には見られない、 特別な注釈の段落がありました。 >>1736, >>1734
癸酉歳太宰府獻三足赤雀仍改元朱 雀即白鳳元年也正月朔役行者生大 和國平群人也
三月近江朝遣 使大唐 見箕面 寺縁起
こちらの癸酉を「壬申」と注釈し、 この段落の前に「朱雀元」と挿入されていました。 >>1734 これも他の写本には見られません。 >>1736
[1746] 14年に「旧本無之」 >>1734 など >>1736 の注記がありました。
[1750] 「白雉元年壬申三月備後國進白雉仍改 為白鳳 」とありました。 >>1736
[1751] 「朱鳥元年丙戌大和國獻赤雉因瑞改元 六月天皇病患草薙劔送置于尾張國熱 田社按朱鳥元年立齊王今年九月帝崩 而斎王猶御坐之由見如何」 とありました。 >>1736
[1752] 天武天皇の年表の後に 「 又箕面縁起云白鳳二十年庚午 行者登金峯山召諸神欲渡石橋於金剛 山」 とありました。 >>1734
[1747] 天武天皇諸臣経歴中に (大宝以後を除けば) 「十年」 「持統天皇朱鳥四年四月」 (草壁太子の没年) 「天皇十一年」 「元年八月」 (壬申の乱関係) 「二年」 「十二年」 「九年」 「朱鳥元年十一月」 「天武十一年壬子」 (正しくは壬午) 「文武天皇三年」 とありました。 >>1734
[1755] 持統天皇の経歴は干支年でしたが、 即位年が遅いためか 「丁亥歳為元年第四年庚寅正月一日戊寅即位」 と独特の方法で表記されました >>1734, >>1736。
[1753] 持統天皇の年表は天皇即位紀年で書かれていましたが、 「七年癸巳改元大化 」 とありました。 >>1734
[1754] 持統天皇諸臣経歴中に (大宝以後を除けば) 「朱鳥四年四月」 (草壁太子の没年) 「天皇十一年」 「天皇四年」 「元年」 とありました。 >>1736
[1756] 文武天皇の経歴は 「持統十一年丁酉二月 立皇太子」 のように天皇即位紀年と干支年の併記でした。 崩御は「丁未」と干支年でした。 >>1734
[1757] 経歴中、 (即位年 = 持統11年) 「十一月大嘗會美乃尾張異本 云大化四年十一月己卯大嘗會始之」 とありました。 >>1734
[1758]
文武天皇の年表中に役小角関係の記事がみえます。
元年丁酉に注釈で
「箕面縁起云白鳳四十八年丁酉二月十日 」
とあります。 >>1734
この部分は他の写本にはありません。 >>1736
三年己亥本文に
「箕面縁起云朱鳥十三
[2310] 箕面寺縁起、 箕面縁起 の引用が数箇所あります。 いずれも現存する宮内庁書陵部所蔵旧九条家本 箕面寺縁起 (>>2285) と比較すると、 似たような記述は確かにありますが (>>2319)、 そのまままったく同じ文言はみられません。 一代要記 が参照したものがどんな形だったかわかりませんが、 一代要記 引用部をそのまま信用するわけにはいかないことになります。
[2303] 大和葛城宝山記 (13世紀以前成立) は、 寺社縁起でした。
[2306]
「金剛山緣起云。
白
[2307] 類聚既験抄 (鎌倉時代末期頃成立) は、 寺社縁起でした。
[2311] 「而藤原宮 御宇文武天皇白鳳卅七年二月十日。被流遣伊 豆大島。 白鳳五十二年十二月廿五 日。即勅使到來彼島。 以□寳九年辛丑正月一日。」 (縦書き) とありました。 >>2309
[1547]
年中行事秘抄
(永仁年間
[1551] 天武天皇時代のことを天武天皇何年と天皇即位紀年で書いていましたが、 一例だけ 伊勢斎宮事 に
天武天皇白鳳元年四月十四日。以大来皇女献伊勢神宮依合戦願也。
... とありました。 >>859 p.二二二
天武天皇白鳳元年四月十四日丙辰朔己巳欲遣侍大来目皇女于 天照大神宮而合居泊瀬斎宮是先潔身稍近神之所也 十四日以大来自皇女獻伊
勢 >>1548 では丗 神宮依合戦願也
夏四月丙辰朔己巳。欲遣侍大來皇女于天照大神宮。而令居泊瀬齋宮。是先潔身。稍近神之所也。
四月十四日,以大來皇女,獻伊勢神宮。始為齋王。依合戰願也。
... から派生したものとみられます。
[1554] 天武天皇2年を白鳳とするのは 扶桑略記 (>>666) と同じ癸酉元年の天武白鳳説です。
[2060] 他に 古語拾遺 からの引用の白鳳がありました (>>2061)。
[1526] 皇代記 (後伏見天皇 (在位永仁6(1298)年-正安3(1301)年) の頃成立した後加筆) は天皇ごとにまとめられた歴史書でした。
[683] 群書類従本 皇代記 は、 次のように書いていました。 >>651
[1527] 天武天皇時代の3つの元号は、 愚管抄 と元年と継続年数が一致します。 (扶桑略記 (>>666) とは一致しません。) 白鳳と朱鳥の改元理由は 扶桑略記 と一致します。 (朱雀は一致しません。) 坂本太郎は、 著者の材料が僅少ではなかったことを物語るものとしました。 >>859 pp.二二〇-二二一
[2479] 吾妻鏡 (正安2(1300)年頃成立) は、 歴史書でした。
爰善信申云、 天武天皇御宇二年八月、帝遷坐野上宮給之 時、自鎮西献三足赤色之雀仍改元爲朱雀元年。 明年三月、自備後國、献白雉。又改朱雀二年、爲白 雉元年。同十五年、自大和國、進赤雉之間、改年號、 爲朱鳥元年。
... とありました。 >>2480, >>2483, >>2484, >>2485
[2486] 伴信友は、 「白鳳十五年自大和國獻赤雉爲朱鳥元年」 (縦書き) と引用していました >>1731。 同じ箇所を指すと思われますが、 こちらでは白雉でなく白鳳になっています。
[2487] 現在 Web で閲覧できる 吾妻鏡 はいずれもこの部分を白雉にしていますが、 伴信友が見たものは白鳳だったのでしょうか。
[2488] 善信 (三善康信) の発言は、 扶桑略記 の該当部分 (>>1087) とほぼ同じです。 扶桑略記 か、それと同系統の書物の内容を紹介したものでしょう。 ただし、
[775] 平家物語 は、 軍記物語です。 異本が多く内容は少しずつ異なります。 源平盛衰記 は 平家物語 の異本の1つですが、 違いが多いものです。 成立過程には諸説ありますが、 13世紀頃とされます。
[2002] 源平盛衰記 には、古い時代の日付が次のようにありました >>776。 「景行天皇御宇」 「仲哀天皇二年の九月」 「神功皇后御宇」 「仁徳天皇元年」 「履中天皇二年」 「允恭天皇四十二年」 「安康天皇三年」 「継体天皇五年」 「宣化天皇元年」 「孝徳天皇大化元年」 「斉明天皇二年」 「天智天皇六年」 「天武天皇元年」 「桓武天皇御宇、延暦三年十月」 「同十二年正月」
< 養和二年五月二十七日、改元有て寿永と云。>
五月
同廿七日に改元の定あり、改養和二年為寿永元年。 天智天皇十年に崩じ給しに、天武天皇固辞して即位し給はず、大伴皇子の乱ありて、次年の天武元年七月に彼皇子を被誅き。同八月に太宰府より三足の赤雀を献ず、仍て年号とす、朱雀是也と左大臣経宗被申けり。大外記頼業は、白雉を改て白鳳として、十一月に大嘗会を被行きと申ければ、忽に改元ありけるとかや。
[1791] 伴信友は、 「よつて年號とす、朱鳥これなりと、左大臣經宗申されけり」 とあるのは「朱雀」の誤りで、 写本か著者の伝聞で誤ったものとしました。 >>1731
[2101] 現在のテキストには「朱雀」とあるようですが、朱鳥とする本と朱雀とする本があったのでしょうか。 原型はどちらだったのでしょうか。
其後長者東夷を催て、白鳳元年壬午
P0349
始て不破関を置て、美濃国にて軍構し給へり。
... とありました。 >>776
[1898] 「壬午」は「壬申」の誤り >>1731とされます。 壬申の乱が壬午年にあるはずがなく、 誤りであるのは明らかですが、 書き誤ったまま伝写され続けてきたことになります。 なおこの付近の壬午年は、 天武天皇11(682)年です。
[1671] 二中歴 (順徳天皇 (在位1210-1221) の頃から後醍醐天皇 (在位1318-1339) の頃までに成立) は、 便覧でした。
[475]
二中歴は、
掌中歴と懐中歴
(平安時代後期
[476] 現存する 二中歴 (改定史籍集覧纂録類所収) と 掌中歴 (続群書類従雑部所収) の「年代歴」 部分を比較すると、古代年号が掌中歴になく、 二中歴にのみ記載されています。 二中歴は、 掌中歴に基づくことを表す「手」、 懐中歴に基づくことを表す「心」 のどちらの注記もこの部分に付していません。 よってこの部分は二中歴の編者により補われたものとみられます。 >>470
[2037] 大化の注釈に 覧初要集 からの引用がありました (>>2034)。
[2752] 二中歴自体には簾中抄 (>>2198) の影響が指摘されていますが、古代年号部分は 簾中抄 説とは違う説が提示されています。
[2242] 紹運要略 (南北朝時代頃成立) は、 天皇家の経歴を集めた便覧でした。
[2244] 次のようにありました。
[2254] 本書の日付表記はおおむね規則的にみえますが、 持統天皇時代を元号で記述した2例 (と注記された1例)、 大化元年を干支年だけで「己巳年」 (乙巳年の誤りか) と書いた1例、 「天武天皇即位元年」と書いた1例はそこから外れています。
[746] 神皇正統記 (延元4(1339)年成立) は、 歴史書でした。
[1668] 初期元号について次のように書いていました。 >>745
○第四十二代、文武
もんむ 天皇は 。又即位五年辛丑かのとうし より始はじめ て年号あり。大宝たいはう と云い ふ。これよりさきに、孝徳かうとく の御代に大化たいくわ ・白雉はくち 、天智の御時白鳳はくほう 、天武の御代に朱雀しゆじやく ・朱鳥しゆてう なんど云い ふ号ありしかど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号の始はじめ とする也。
[1557] 興福寺略年代記 (後光厳天皇 (在位観応3(1352)年-応安4(1371)年) の頃成立して以後加筆) は、 歴史書でした。
[1560] 天皇や元号ごとに出来事がまとめられていました。 大宝以後は、 1年毎に、 元号年や天皇や出来事が記述されていました。 それ以前は、 天皇毎に何年に何があったと記述されていました。 >>1559
[1561] 孝徳天皇の項には、 次のようにありました。 >>1559
元年大化元年始置左大臣
二年道登法師始造宇治橋
五年始置八省百官 六年為白雉元年
白雉四年 元興寺道昭入唐
[1562] 天武天皇の項には、 次のようにありました。 >>1559
元年朱雀元年二年白鳳元年 作大官大寺
三年自對嶋貢銀 百済大寺 高市大寺 六年賀茂祭始 九年始立藥師寺 十五年朱鳥元年
十六年大友皇子建立三井寺
[1563] 天武天皇は「壬申年即位治十五年」 >>1559 であるにも関わらず 16年の記事があるのが不審です。
[1564] 孝徳天皇と天武天皇の2例だけ他の時代と違う特別な構成のため、 一貫性の破れと断言することは難しいですが、 孝徳天皇時代は大化と白雉の元号を使っているのに対し、 天武天皇時代は天武天皇即位紀年を使っている違いは指摘できます。
[2215] 皇代暦 (歴代皇紀) (延文元(1356)年年頃までに成立後加筆、文明9(1477)年頃改訂成立後加筆) は、 歴史書でした。 天皇ごとに出来事などがまとめられており、 元号の名前や元年、年数などが示されていました。
[2217] 孝徳天皇時代の大臣欄などは 「大化元年六月十四日」 (縦書き)、 「大化五年三月」 (縦書き) のように元号年が使われました。 ただし元号年の次の行など繰り返しを避けるためか、 「元年」 のように年数だけの表記もみられました。 崩御は 「白雉五年十月十日」 (縦書き) とありました。 >>2216
[2228] 元号の欄には次のようにありました。 >>2216
大化五年 元 乙巳 初年号 七月 元年十二月 遷都
二年始造宇治橋
造之 或道照 道誉 法師
白雉五年 庚 戌 二月改元長门 国上白雉也 五年正月
[2229] 白雉の元号の説明の仕方はこの後の各元号の原則的な表記とほぼ同じ規則によるものです。 大化は干支年に「元」とある点が違います。 最初の元号のため表記の説明が必要だったための例外でしょうか。
[2218]
斉明天皇、
天智天皇時代には元号がなく、
天皇即位紀年が使われました。
天智天皇は
「治十年
[2219]
天武天皇欄には、
元年は壬申とありました。
治世は
「十五年
[2220] 元号の欄には次のようにありました。 >>2216
朱鳥
雀イ 元年丙戌壬申イ 元年正月下
不 称即位大友皇謀叛大臣 八人配流
元年信濃国献赤鳥 仍為瑞建元
白鳳十三年
元年 壬申 癸酉 朱鳥一
八イ 年元年 丙戌 東鑑云
大和国献朱
赤 雉仍瑞 改元朱鳥イナシ
[2237] 伴信友によると、 ある校本に、 朱雀元年壬申、 白鳳十三年元年癸酉とありました。 普通本には朱雀元年壬申 (ある本には丙戌)、 白鳳十三年元年壬申とありました。 >>1731
[2222]
この天武天皇 (と続く持統天皇、文武天皇) の元号の書き方は、
大化、白雉、元明天皇の和銅以後と違っています。
本来なら
「
[2221] 第1と第2の朱鳥の双方が丙戌年とされていることも注目されます。 同じ元号を不注意で二重に書いてしまったことが疑われます。 考えられるストーリーは、
... といったものではないでしょうか。
[2223] 持統天皇記事は、 「朱鳥五年正月即位」 (縦書き)、 「大化三年八月一日譲位」 (縦書き)、 草壁皇子欄に 「朱鳥四年四月」 (縦書き) とありましたが、 大臣欄などは 「天皇四年」 (縦書き)、 「元年正月」 (縦書き) など天皇即位紀年を使っており、 混在していました。 >>2216
[2224] 元号は次のように書いていました。 >>2216
朱鳥残七年
朱鳥二年八月
大化四 戊 乙イ 申 未イ 二イ 年元年 乙巳 未イ 三
元イ 年丁未イナシ 七月天下大旱四年
イナシ 三月道昭和尚卒
[2230]
前の天武天皇の第2の朱鳥には1年とあり、
持統天皇に残7年とありました。
ところが持統天皇の大化には4年とあって、
次の文武天皇に大化は挙げらていませんでした。
異本では朱鳥に8年と残7年とありました。
孝謙天皇に「
[2232] 日本書紀 孝徳天皇大化4(648)年は戊申年です。 は乙巳年、 大化3(647)年は丁未年です。 つまりこれらの干支は孝徳天皇時代とみなして振られたもので、 しかも継続年数4年が大化4年と混同されたものです。 大化という元号だけ見て誤って干支年に換算したものでしょうか。 それとも元々孝徳天皇時代の記述だったものがあやまってここに混入したのでしょうか。
[2234] 「乙巳」が異本で「乙未」となっているのは、 この時代に乙巳年がなく、 ちょうど持統天皇9(695)年があったため、 同音の誤記として訂正されたのでしょうか。
[2231] 日本書紀 持統天皇2年に 「秋七月丁巳朔丁卯、大雩。旱也。」 とありました。 3年7月記事との関係が疑われます。 持統天皇2年が朱鳥3年とされ、大化3年と誤られたものでしょうか。
[2233] 同様に4年3月の記事は、 続日本紀 文武天皇4年3月己未条の道照和尚死去の記事が、 文武天皇4年から大化4年に誤って混入したものとみられます。
[2225]
持統天皇の後、
「已上卌一大載日本紀
[2226] 文武天皇記事には 「持統天皇十一年丁酉 八月一日甲子受禅」 (縦書き) とあり、 大臣欄に 「天皇四年」 (縦書き) とあって天皇即位紀年を使うところと、 中納言欄に 「大化元年」 (縦書き) とあるところが混在していました。 >>2216
[2227] 元号の一覧の部分には大宝と慶雲しかなく、 しかも 「慶雲四年五月十日」 (縦書き) に何々を祥瑞として改元、 のような書き方がされていました。 >>2216 日付のようなわかりにくい書き方ですが、 慶雲は4年継続で、改元日は前の元号の最終年の5月10日、 という意味です (慶雲4年5月10日の出来事の記事ではありません)。 文字の大きさも間の取り方もほとんど前後の文とかわりません。 元年の干支年も欠けており、他の天皇の時代の元号の書き方とまったく異なっています。
[2236] 本書の記述は朱雀から持統大化までの異説の成立過程がたまたま保存されたかのように解釈し得る、 注目するべきものです。 しかし本書の成立は 扶桑略記 など異説の初期から何百年か経過しています。 本書の当該記述が前の世代の文書からそのまま引き継がれたものか何かなら別ですが、 成立の過程ではなく、既に成立した異説の影響を受けて混乱が深まる過程ということになります。
[1566] 東寺王代記 (文中3(1374)年-天授6(1380)年頃成立して以後加筆) は、 歴史書でした。
[1573] 天皇ごと、元号ごとに記事がまとめられていました。 大宝以前は天皇ごとに、何年に何があったと記述されました。 >>1567
[1574] 孝徳天皇の記事は、 天皇即位紀年により記述され、 大化と白雉は改元記事に現れるのみでした。 ただし引用文中に白雉何年と書かれた例はありました。 >>1567
[2197] 孝徳天皇の元年を丙午(646)年とし在位9年間とする説が併記され誤りかとされていました >>1567, >>2196。
[1575] 天武天皇の記事は、 天皇即位紀年により記述されていました。 元年から十五年まで記事がありました。 次のような改元記事がありました。 >>1567
[1579] 持統天皇の記事は、 天皇即位紀年により記述されていました。 元年から九年まで記事がありました。 次のような改元記事がありました。 >>1567
九年。建大化號。
或記云。已上四十一代無年號相續云々。或 記云。孝徳元年始建大化號。六年改元白 雉。齊明天智不立年號。天武元年建朱雀 號。二年改元。白鳳十四年改元。朱鳥號至 持統之七年。九年建大化號。大化至文武之 二年。五年建大寶。爾來年號相續。至今也 云々。
[1580] 文武天皇の記事は、 大寶の建元まで天皇即位紀年により記述され、 大寶以後元号ごとに記述されていました。 天皇即位紀年部分は二年から五年まで記事がありました。 五年の記事は次のようなものでした。 >>1567
五年。始號大寶號。或記云。四年無年號云 云。
[1581] 天武天皇の元年を朱雀、 2年を白鳳とするのは 扶桑略記 (>>666) の系統ですが、 天武天皇15年でなく天武天皇14年を次の改元とするのは異なり、 しかも朱鳥でなく朱雀としています。 それも「或説」と敢えて書かれています。 本書の他の部分も含め必ずしも 扶桑略記 ばかりに依拠したものとは考えられません >>859 p.二二三。
[734] 鴨脚本 皇代記 (室町時代頃成立、古典保存会刊) は、次のように書いていました。 >>733
[1610] 本朝皇胤紹運録 (応永33(1426)年成立後追記) は、 皇室の系図でした。 天皇家の人名に親子関係が記述され、 各人の経歴が添えられていました。 室町時代に成立後、 各時代の記述が追記されていきました。 内容に違いのある多数の異本が現在に伝わっています。
[2145] 新しい時代では元号年を使うのが基本でした。 本によって表記が違うようで、 「天長元七七」 (縦書き) のように略式のもの >>2149 もあれば、 「天長元年七月七日」 (縦書き) のようなもの >>2149 もありました。 書写時に脱落したのか、 「延暦四十一卄五」 (縦書き)、 「同七正十五」 (縦書き) >>2149 と 「延暦四年十一月」 (縦書き)、 「同七年正月」 (縦書き) >>2147 のように本によって日付の形式だけでなく値まで違うこともあります。 表記には揺れもあって、 「天長十年二月廿八日」 (縦書き) と書いた隣の行に 「嘉祥三 三 廿一」 (縦書き) とあったりもしました >>2147。 その他、干支が入っているなど細かい例外はいくつもあったようです。
[2151]
古い時代では、
「二年正月甲子」 (縦書き)、
「神功三年
[2152] 孝徳天皇の時代は、 大化と白雉の元号で日付が記述されました。
[2154] ある本では、 孝徳天皇記事に 「大化元六十一受禅」 (縦書き)、 「白雉五十十崩」 (縦書き) などとありました。 >>2153
[2162] 更に加えて孝徳天皇について、 「乙巳歳即位乙巳歳誕生六月十四日受禅六十四七月 始有年号曰大化十二月遷都云々」 (縦書き)、 「十年甲寅十月十日崩云々」 (縦書き) とありました。 >>2161
[2155]
有間皇子記事に
「白雉五年
[2157] 別のある本では、 孝徳天皇記事に 「乙巳歳誕生 六月十四日受禅六十四七月始有年号曰大化」 (縦書き)、 「白雉五年甲寅 五年巳酉三月山田大臣云々」 (縦書き)、 「在位十年十月十日崩」 (縦書き) などとありました >>2156。
[2158] 乙巳年に誕生と即位があり、 60歳で即位したようにも思えますが、 他史料と合わず不審です。 元は乙巳(645)年6月14日即位の記事だったのが、 どこかから誕生が混入したのでしょう。 64歳かのような記述も元は6月14日だったのでしょう。
[2163] 7月から大化に改元されたとするのは 日本書紀 と一致しません。
[2164] 白雉5年記事は、元は有間皇子の記事にあったのが、 いつの間にか孝徳天皇記事に混入したのでしょう。 年号が二重にあるのは不審です。 甲寅年は 日本書紀 白雉5(654)年です。 己酉年はこの付近では 日本書紀 大化5(649)年です。
[2160] 「在位十年」は在位年数表記に見えますが、月日が続くので日付表記にもみえます。 同じ本の他の天皇を見ると、新しい時代では在位元号何年のように書かれていて、 舒明天皇は「在位十三年十月九日崩」 (縦書き) と書かれているので、天皇即位紀年だとわかります。
[2159] 斉明天皇、天智天皇の時代は天皇即位紀年で記述されました。 天智天皇記事に 「元年は壬戌」 (縦書き)、 「孝徳大化元六立太子」 (縦書き)、 「八 正即位私云七年春正月十五日戊子即位日本記説」 (縦書き)、 「同十辛未十二三崩」 (縦書き)、 「壬戌正月践祚」 (縦書き)、 「元年壬戌」 (縦書き) などとありました >>2161。
[2165] 元年は 日本書紀 と同じ称制元年です。 この数え方なら即位は7年になるはずですが、 8年正月に別説7年と書き添える形になっています。 そして崩御が10年なのは 日本書紀 と同じです。 前の記事に元号名もなにもないのに「同」 とあるのは若干不審です。
[2181] 別の本の天智天皇記事は、 「孝徳大化元年乙巳六月為太子」 (縦書き)、 「壬戌正月践祚」 (縦書き)、 「戊寅正月即位」 (縦書き)、 「治六年三月都彳近江国 大津宮」 (縦書き)、 「御宇十年辛未歳十二月 三日崩」 (縦書き)、 「元年壬戌」 (縦書き) などとありました >>2180。
[2170] 元明天皇記事に、 「斉明七年辛丙降誕」 (縦書き) などとありました。 >>2161 別の本には 「文武天王 辛酉誕生」 (縦書き) とありました。 >>2180
[2182] 斉明天皇7年は辛酉(661)年で、これが生年とされています。
[2169] 大友皇子記事に、 「天智十五任太政大臣」 (縦書き)、 「朱鳥元年」 (縦書き) とありました >>2161。
[2190] 別の本の大友皇子記事に 「朱雀元年」 とあったようです (>>1768)。
[2183] また別の本の大友皇子記事に、 「天智天王十正五任太政大臣」 (縦書き)、 「天武天王元年七月依謀」 (縦書き)、 「壬申歳七月卄三日」 (縦書き) とありました。 隣接する施基皇子記事にも同様の記述があって、 誤って重複して混入したようです。 >>2180
[2173] 天武天皇記事に、 「元年ハ壬申」 (縦書き)、 「天智七戊刀為皇子」 (縦書き)、 「白鳳二正卄六即位」 (縦書き)、 「朱鳥元丙戌九九崩」 (縦書き) などとありました。 >>2171
[2185] 別の本の天武天皇記事に、 「白鳳二年癸酉二月卄六日即帝位」 (縦書き)、 「朱雀元年壬申七月誅大友皇子」 (縦書き)、 「天智天王七年戊刃二月為皇太㐧」 (縦書き)、 「朱鳥元年丙戌九月九日崩」 (縦書き) などとありました。 >>2184
[2166]
持統天皇記事に、
「孝徳元降誕 天武三二為皇后」 (縦書き)、
「朱雀五正一即位 大化三
[2186] 別の本の持統天皇記事に、 「朱鳥二年丁亥即位」 (縦書き)、 「御宇十年大化四年丁酉八月 一日譲位」 (縦書き) などとありました >>2180。
[2178] 大津皇子記事に、 「依謀及朱鳥元年被誅」 (縦書き) などとありました。 >>2174 別の本でも「朱鳥元年」 (縦書き) とありました。 >>2187
[2175] 草壁皇子記事に、 「天武十二立太子」 (縦書き)、 「朱鳥四年四月」 (縦書き)、 「宝字二年」 (縦書き) などとありました。 >>2174
[2188] 別の本の草壁皇子記事に、 「天武天皇十年二月為太子」 (縦書き)、 「持統天王朱鳥四年 四月」 (縦書き)、 「宝字二年」 (縦書き) などとありました。 >>2187
[2176] 文武天皇記事に、 「白鳳十二癸未降誕」 (縦書き)、 「大化三二立太子十五」 (縦書き)、 「同八一即位今日受禅」 (縦書き)、 「五年三卄八為大宝元」 (縦書き) などとありました。 >>2174
[2189]
別の本の文武天皇記事に、
「大化三年二月為皇太子」 (縦書き)、
「同年八月一日受禅同日即位」 (縦書き)、
「大化四年丁酉改元
[2172] 文武天皇の最初の4年は 「文武三八」 (縦書き) >>2171, >>2184、 「文武四四」 (縦書き) >>2171 のようにありました。 聖武天皇記事に 「辛丑歳 誕生」 (縦書き) とありました >>2174, >>2187。 辛丑年は大宝元(701)年です。
[2177] 元正天皇記事に、 「白鳳十辛巳降誕」 (縦書き) などとありました。 >>2174 他の本に 「辛巳歳誕生」 (縦書き) とありました。 >>2187
[2179] 舎人親王記事に 「文武十一浄大貮位」 (縦書き) とありました。 >>2174, >>2187 この日付がいつを指すのかわかりません。
[2194] 伴信友によると、 紹運要録 太上天皇の部に 「持統上皇大化三年丁酉八月一日、 譲位于文武」 とありました (>>1832)。 紹運録 から派生した文書でしょうか。
[2168] 孝徳天皇、天武天皇、持統天皇の時代がある場所では元号、 ある場所では天皇即位紀年で一貫性がありません。 朱鳥と朱雀は記事により逆転して使われています。 文武天皇の大宝以前の時代は天皇即位紀年と干支年が混在しますが、 元号は使われていません。 こうした不整合が初期段階から存在したのか、 書写の過程で混入したのか、 これだけでは判断のしようがありません。 いずれにしても一貫した編纂方針で日付の表記が整理されたものでないことは明らかです。
[2407]
大乗院寺社雑事記
(長禄年間
[2408] 長禄2(1458)年4月5日条に、 「古記」 からの写しで、 次のようにありました。 >>2406
[2414]
Wikipedia
は、
扶桑略記
を出典に崇福寺建立を西暦668年とします >>2413。
扶桑略記
は、
崇福寺緣起
を出典に、
天智天皇の
「七年戊辰正月十七日」
に建立としました >>2412。
天智天皇7(668)年
[2415] 日本書紀 は、 天武天皇9(680)年11月12日に薬師寺建立が発願されたとしていました。 天智天皇白雉9年は、天武天皇白鳳9年の誤伝でしょうか。 白雉9年は、 日本書紀 に従っても異説に従っても、 天智天皇時代には入りません。
[1585] 二十二社註式 (文明元(1469)年成立) は、 主要寺社の成立についてまとめた文書でした。
[1587]
日吉社
の項に、
「山家最要略記。日吉七社降臨垂跡時代事。扶桑明月集云。
[1588] その引用部には祭神の由来が書かれており、
[1599] 坂本太郎は、 次のような理由を挙げて、 この引用部が大江匡房によるものとしては甚だ怪しく、 後代の造作か改変があったものだとしました。 >>859 p.二二四
[1605] 桓武天皇は天応元(781)年に践祚、即位していますから、 翌延暦元(782)年を「即位」とするのは誤りです。 とはいえそれまでの天皇即位紀年の流れから筆が滑ったとみれないこともなく、 この点は坂本のいう程強い根拠としづらいようにも思われます。
[1606] 康和元(1099)年1月11日の遡及年号について、 改元は承徳3(1099)年8月28日でしたから、 半年以上遡って新元号が使われたことになります。
[1669] 興福寺年代記 (後土御門天皇 (在位寛正5(1464)年-明応9(1500)年) の頃成立して以後加筆) は、 興福寺の歴史書でした。
[1673] 如是院年代記 (建仁寺年代記) (元亀元(1570)年頃成立) は、 如是院の歴史書でした。
[707] 皇年代略記 (戦国時代-江戸時代初期成立) は、 歴史書でした。
[1825] 伴信友は、 又一説として 「朱鳥二年丁亥、受禪不改元至八年甲午」 とあった (>>725) ことを引いて、 8年は持統天皇8年すなわち朱鳥9年で、 書き方が悪いだけで朱鳥の異説ではないとしました。 >>1731
[2212] 8年甲午が朱鳥8年だとすると、 1年のずれが生じることを指しているのでしょう。 最初からこのような朱鳥と持統天皇の天皇即位紀年が混在した理解しづらい文を書いたとは考えづらいですから、 元は別に書かれたか、 途中で朱鳥の元号が混入したものでしょうか。
[2213] 乙巳とする異本が生じたのもこの混乱に関係するものでしょう。
[272] 持統大化の祥瑞 (>>509) は、 日本書紀 の記述 (>>892) と類似します >>502。
[802] 斎藤励は、 醴泉の出現時期を 皇年代略記 の編者が誤解したものとし、 編者もこれを祥瑞と断定せず疑念を持っていたことも指摘しました (>>803)。 >>556
[2089] 八宗傳來集 (正保4(1647)年成立) は、 仏教書でした。
[2090] 仏教宗派の日本傳來前の発祥を 「如來入滅何年」 (縦書き) と仏暦で記述し、 日本での経緯を 「天皇元号何年」 形式で記述していました。 >>2091
[2092] 日本の古い時代のものとして、次の例がみられました。
[2039] 和漢事始 (元禄10(1697)年出版) は、 雑学事典でした。
[2041] 日本書紀 (「日本紀」) を引いて 「孝徳天皇大化五年二月」 (縦書き) のように書いている所がありながら >>2040、 「孝徳天皇三年」 (縦書き) のように書いている所もありました >>2042。
[2055] 「年号」 の項には、 日本紀 と 覧初要集 (>>2056) からの引用により、 大化から元号が始まったことが説明されていました。 また、 正統記 (>>746) を参照して元号が途切れない大宝を始めともいうことが補足されていました。 継体天皇時代から続くとする元号は佛人の偽作とされていました。 >>2051, >>2052
[2038] 附録の 國朝年號譜 は、 日本の元号の一覧表でした。 天皇ごとに元号・改元日が示されていました。 すべてではないものの、 元号の由来の考察が示されていました。 >>2043
[2280] 大日本史 (17世紀編纂開始、明治時代完成) は、 歴史書でした。
[2325] 熊野年代記 (18世紀頃成立後改訂) は、 歴史書です。
[2327] 現代語訳とされる Webページ (どの程度原本を反映しているか不明) によると、 文武天皇以前の時代について、 大化、白雉、白鳳、朱鳥、大宝以後の元号が併記されています。 大化、白雉、大宝以後は正史と一致しますが、 白鳳と朱鳥は次のようにありました。 (記事のない年次は抜けています。) >>2326
[2350] 丙戌年は天武天皇15年で朱鳥元年のはずが、 まじったのか朱鳥15年になっています。
[2351] 持統天皇2年から持統天皇5年が、朱鳥2年から5年となっています。 日本書紀 と1年のずれが生じています。
[2352]
持統天皇8(694)年
[86] 元号一覧の類が取り扱いを開始する時期は様々です。次のような例が見られます。
[248] 一覧表や実装の類で、 史実性に疑いが持たれ史実だとしても年代に訂正が必要とみられる古代の天皇即位紀年や、 当時のものではなく中世に創られたとされる古代年号をどう扱うべきか、 疑問に思う向きもありましょう。
[104] Wikipedia のように、 通常記事では神武天皇から武烈天皇までは西暦と対応しないものとし、 別に項を立てて西暦と対照させる方針を採るものもあります。 >>139
[251] 近現代の一覧表や実装の類のほとんどは古代年号を完全に無視しています。
[249] 天皇即位紀年や古代年号、あるいは皇紀などが史実と異なるとしても、 日本国内で歴史の記述のために長年使われてきたことには違いありません。 西暦 (キリスト紀元) の元年にイエスキリストが誕生したかどうかがもはや西暦にとって意味を持たないのと同様に、 これらの紀年法も日本で使われてきた紀年法として、 対応し続けるべきと考えられます。
[250] 西暦と違っていかにもな名前を持つ天皇即位紀年は天皇の即位年がずれると歴史的事実と年号の矛盾が明確になって使いづらくなるかもしれませんが、 そのような新たな定説が成立したときには他の紀年法 (おそらく西暦) で記述することになるでしょうから、 既存の紀年法はこれまでの用法で書かれた日付を理解するためのものとして、 従来の定義のまま残されるべきでしょう。
[254] (久野健 ) https://core.ac.uk/download/pdf/159511709.pdf
[262] pdf15_02.pdf () http://www.mus-his.city.osaka.jp/education/publication/kenkyukiyo/pdf/no15/pdf15_02.pdf
[341] () http://tsukudaosamu.com/pdf/7-1.pdf#page=42
[446] 「天寿国繍帳」と「戌寅暦」 () http://www.wagoyomi.info/boinreki.html
[447] 参考資料 万葉集/日本紀と日本書紀との年号の相違問題 - 竹取翁と万葉集のお勉強 () https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/06e0132d9ba6618fba9c72a5a7af026e
[449] () http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005156.pdf
[450] () http://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/820/1/BA67898227_2004_106_117.pdf
[451] () http://inoues.net/study/mokkan_pdf.pdf#page=5
[452] 古事類苑 (歳時部三, 年號上, 名稱, 第 1 巻 156 頁, ) http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000156.html
[453] 古事類苑 (歳時部三, 年號上, 年號通載, 大化, 第 1 巻 158 頁, ) http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000158.html
[454] 古事類苑 (歳時部四, 年號下, 逸年號【入】, 第 1 巻 340 頁, ) http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000340.html
[2914] untitled - article_2_8.pdf, , https://www.kansai-u.ac.jp/nenshi/sys_img/article_2_8.pdf#page=2
[456] 岩屋岩蔭遺跡巨石群/春分・秋分の頃の観測/SUNBEAM [金山巨石群と太陽暦] () http://www.seiryu.ne.jp/~kankou-kanayama/kyoseki/taiyou/2_4.html
[459] 縄文学研究室//研究ノート () https://www.jomongaku.net/note/landscape.html
[460] 岩屋岩蔭遺跡 - 星たび () http://www.hoshitabi.com/kanayama/iwayaiwakage.html
[858] 西暦紀元 - Uyopedia, http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E8%A5%BF%E6%9A%A6%E7%B4%80%E5%85%83
[1040] 九州王朝説に対する批判 - 頑固爺の言いたい放題 () https://blog.goo.ne.jp/sagamiyakko123/e/bb47e7aadb9a2b149a18dd147d628287
[1142] CiNii 論文 - 我国に於ける所謂古代年号に関する二三の問題 () https://ci.nii.ac.jp/naid/110000476943
[1672] 埼玉県立久喜図書館へ: 肥さんの夢ブログ () http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2013/12/post-a0dc.html
[1918] 行基伝の研究 () http://web.kyoto-inet.or.jp/people/honda5/ron14.htm
[1933] 好太王碑、 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘、 那須國造碑のどれも揃って過去の事跡には元号を使い、 現在の日付には干支年だけしか使わないのは、 何か意味があるのだろうか。
[1966] () http://www.manyo.jp/ancient/report/pdf/report1_03_a_study_in_the_cmpilatory.pdf
[2028] 御書本文|創価学会公式サイト () https://gosho-search.sokanet.jp/page.php?n=691
[2112] 日本の名琴一 () http://orange.zero.jp/zad70693.rose/meiqin/nihonmeiqin1.html
[2102] 何の根拠もない妄想だけどこんなのはどうか。 古代、 天皇の名前と宮城の名前と時代の名前は密接な関係にあった。 だから何々宮天皇御世何々年のように書いた。 朱鳥の改元記事に宮号制定記事が付されているのは、 重病で死期を悟った天皇が、 自分の治世と宮殿に生前追贈しようとしたのだった。 だから朱鳥は本来天武天皇元年からの即位紀年の追号だったが、 いつしか忘れられ改元記事だけが残ったため、 崩御年が元年と理解されるようになった。
[2509] () https://dil-opac.bosai.go.jp/publication/nied_tech_note/pdf/KJ-01_057.pdf#page=7
[2604] 和銅日本紀と古事記との関係 (, ) http://kenkokusi.web.fc2.com/kojiki/2.5.html
[2605] 「『日本書紀』の記述と合致」という紀年大刀に関する疑問 紀年と暦 庚寅銘は元嘉暦なのか: 天漢日乗 () http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2011/09/post-66a2.html
[2606] 大和 (私年号) - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7)
この「貴楽」とい う年号は、中世に流行した偽年号 (しばしば「私年号」と呼ばれるが、 「偽年号」と呼ぶべきだろう) の一つで、
貴楽元年 vs 2年
六要9-5, , http://www.biwa.ne.jp/~takahara/rokuyou09_05.html
c.f. 仏暦
[2625] https://sucra.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=17143&item_no=1&attribute_id=24&file_no=1&page_id=26&block_id=52
[2626] 国史大系. 第9巻 公卿補任前編 - 国立国会図書館デジタルコレクション, 経済雑誌社, 1897-1901, http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991099/11
[2627] 本地垂迹資料便覧, http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/MISHIMA.html
[2632] 大日本金石史. 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション, 木崎愛吉, 大正10, http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960208/149
[2654] プロジェクト‐ノート:紀年法/ガイドライン - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E2%80%90%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3#%E5%88%86%E9%A1%9E%E5%95%8F%E9%A1%8C%EF%BC%88%E3%81%9D%E3%81%AE2%EF%BC%89
[2656] (, ) http://torashichi.sakura.ne.jp/nichijiudaiou.html
[395] 56_97.pdf, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua/56/3/56_97/_pdf/-char/ja
[425] 本朝通鑑. 第3 - 国立国会図書館デジタルコレクション, 林恕 撰, 大正7-9, http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945843/105
[428] 🐯子さんはTwitterを使っています 「661年の方は九州年号かと思ったけど665年もあるので、もしやこの世界線では朱鳥元年(686年)まで白雉が続く……? https://t.co/DfXrxFB0Xs」 / Twitter (, ) https://twitter.com/Afterman_hai/status/1408511257238327298
[433] https://ncu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=212&item_no=1&attribute_id=25&file_no=1&page_id=13&block_id=17
[436] 0007.pdf, , http://kyusyu-kodaisi.sub.jp/qpdf/0007.pdf#page=3
[437] (, ) http://www.torashichi.sakura.ne.jp/nichijiudaiou.html
[444] , https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/kiebine2002/teito.htm
[507] Monmu period - Wikipedia (, ) https://en.wikipedia.org/wiki/Monmu_period
[531] 天寿国繍帳銘に見える間人王の忌日: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201202/article_3.html
[535] 自然暦: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201401/article_15.html
[2667] 三条九ノ坪遺跡木簡(1点)(平成13年度指定) | 兵庫県立 考古博物館, 兵庫県立考古博物館, , https://www.hyogo-koukohaku.jp/modules/collection/index.php?action=PageView&page_id=18
[2820] 皇典講究所講演 3(25), 皇典講究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1563261/1/26 (要登録)
[2670] report1_03_a_study_in_the_cmpilatory.pdf, , https://www.manyo.jp/ancient/report/pdf/report1_03_a_study_in_the_cmpilatory.pdf
[2671] http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=1756 #page=18
[2672] 大日本仏教全書. 118 - 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952822/81
[2713] 大八州雑誌 (135), 大八州館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1535000/1/2 (要登録)
[2732] 日本古代史の諸問題, 岡田芳朗 等著, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2966839/1/55 (要登録)
[857] 元号を考える, 鈴木武樹, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12208591/1/38 (要登録)
[2869] 同志社大学デジタルコレクション () https://dgcl.doshisha.ac.jp/digital/collections/MD00000999/#?cv=26
[2913] 春湊浪話(『三十輻』所収) 1/3_Taiju's Notebook (, ) https://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/1775_shunso_rowa_1.htm