那須国造碑

那須国造碑

[18] 那須国造碑は、 石碑です。

[295] この石碑は、 倒れていたのが江戸時代に発見されて以来、 調査、議論されてきました。

日時

時代背景は日本古代の日時

[213] 那須国造碑 (日本国栃木県大田原市) に 「永昌元年己丑四月」、 「歳次康子年正月二壬子日辰節」 とありました。 >>214

[681] 前者は唐永昌元(689)年4月で、 後者は西暦700年1月2日の没後のものと解されています。 >>214

[6] 古代日本で作られた石碑中華王朝の元号が使われた稀有な事例です。

元号年解釈

[1880] 伴信友によると、 当時那須國造碑銘の元号年は 「□□元年」 と剥落ありとされていました。 そのため朱鳥とする説、 永昌とする説、 「元年」も誤読で朱鳥四年とする説がありました。 >>1731

[7] 江戸時代佐佐宗淳 (佐々宗淳) は、 現地調査して碑文を読み取ろうとしました。 「元年」の上の2文字は明瞭ではありませんでした。 拓本を取って見ると 「永昌」 でした。 >>2114

[5] 伴信友は、「真の揩本」を見て 「永昌元年」 だろうと判断しました。 >>1731

[9] 昭和時代井上通泰は、 拓本をよく見ても 「永昌元年」 だとしました。 >>2114


[10] 佐々宗淳は、 はじめこれを本来 「朱鳥元年」 だったと考えました。 「永昌」 と読んだものの、 日本の元号永昌はありません。 文中飛鳥淨御原とあり、 これは天武天皇の時代です。 「永昌」 は天武天皇元号朱鳥と字形がすこし似ています。 「朱鳥」が風化して「永昌」のようになったのかもしれません。 >>2114

[8] 新井白石は、 「朱鳥四年」 だとしました。 「元」 のように見えるものは、 「四」 が風化したものとみられます。 >>2114

[14] 藤貞幹は、 好古小録 で、 「永昌元年」 とは信じられないとし、 本来「朱鳥四年」だとしました。 「永昌元年」 となったのは洗碑による誤刻としました。 >>2114

[17] 屋代弘賢は、 洗碑による誤刻だとし、 その説を聞いてからよく見ると 「永昌元」 に見える文字は 「朱鳥四」 の彫り直しに見えたとしました。 新井白石が 「朱鳥四年」 だとしたのは再現度の低い写しを見たためで、 鮮明な拓本を見ると確かに 「永昌元年」 で、 しかし隠れて 「朱鳥四年」 の跡が見えるとしました。 >>2114

[19] 洗碑は、 支那方面の慣習で、 古くて摩耗した石碑を読みやすくするために彫り直す者がいたようです。 >>2114

[20] 井上通泰は、 日本洗碑が行われたかには疑問があること、 発見当時の調査でその形跡が何も発見されなかったこと、 相当の技量があってもこの改変は難しいと思われることから、 深く検討するまでもないとしました。 >>2114

[15] 新井白石藤貞幹朱鳥の4年が適切であることを主張しましたが、 井上通泰は否定的な見解を示しました。 日本古代の日時

[1881] 佐々宗淳は、 後に考え直してやはり 「永昌元年」 だとしました。 碑文に 「己丑」 とあり、 朱鳥元年は丙戌ですから、 朱鳥でないことは明らかでした。 武后の永昌元年が己丑で持統天皇3年に当たります。 このとき日本の元号はなかったので、 そのため異国の元号を借用したのかもしれません。 >>2114

[12] 新井白石は、 日本では他国の正朔を奉じた例がなく、 「偽周」 (の政権を奪った武后の国)元号を使う理由があるはずもないとし、 文武天皇4年を (元号でなく) 「歳次康子年」 と書いていることを指摘しました。 >>2114

[13] 伊藤東涯は、 輶軒小録 で、 から当地までの距離を考えると、 永昌元年の改元から 「元年四月」 までに到達するのは難しいと指摘しました。 井上通泰は、 伊藤が己丑年四月に碑文が書かれたと誤解したに過ぎず、 実際には庚子年以後に建てられたものであって問題ないとしました。 >>2114


[22] 朱鳥説は元々永昌では意味が通じないと考えられた結果やや強引に生じたものだったようで、 碑文が詳しく検証されるにつれ存立の基盤が失われ、 唱えられなくなったようです。

渡来人関与

[2] 新羅系渡来人の関与を指摘する説もあります。 >>246 普及版 p.131

[21] 鈴木石橋 (鈴木澤民) は、 日本書紀新羅からの渡来人下野に配置されたとあることから、 碑文は渡来人により作られたもので、 そのため唐の元号が使われたとしました。 蒲生君平もこれを主張し、 那須の辺境の民は名分を知らなかったので、 文飾のため元号を使ったものだとしました。 >>2114

[1882] 藤塚知明は、 那須國造考 で佐々説 (>>1881) を佳とし、 やはり 日本書紀渡来人記事より三韓人が碑文を書いたものとしました。 >>1731, >>2114 碑文は漢風でも和風でもなく韓人が書いたものとみられ、 そのため唐の元号になったとしました。 >>2114

[1883] 伴信友は佐々 (>>1881)、 藤塚 (>>1882) の説に賛同しました。 渡来人が碑文を書いた類例として、 大織冠伝百済人が碑文を書いたとあるのを指摘しました。 >>1731

[1885] 伴信友は、 日本書紀 にない元号が当時使われていたと主張していました。 日本古代の日時 すると元号がないから唐の元号を使ったとの考察に反しますが、 伴信友は当時は元号を重視していなかったと主張しており、 そのため碑文に用いられなかったのであって、 新米渡来人に碑文を作らせたので私的に唐の元号が使われたとしました。 >>1731

[4] 滝川政次郎は、 大陸文化の影響が強い土地柄で永昌が用いられることがあった、としました (1974)。 今泉隆雄は、 康子年に元号がないことから、 永昌の次の元号を知らない、 日本書紀持統天皇3年・4年で下野国に移住した新羅系渡来人の撰文と推測しました (銘文と碑文, 日本の古代一四 ことばと文字 1988 所収)。 >>246 普及版 p.131

暦日

[3] 文武天皇元年、 従来の元嘉暦にかわって儀鳳暦が使われるようになりました。 >>352 p.24 (古代の暦日, 大谷光男) 日本古代の日時

[1886] 伴信友は、 碑文に庚子年とあるのは文武天皇4年で、正月2日の日干支も合うと指摘しました。 >>1731

[351] 那須国造碑日付儀鳳暦と一致しています >>352 p.24 (古代の暦日, 大谷光男)

メモ

[11] 日本随筆大成 巻十一, 日本随筆大成編輯部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1914138/1/305 (要登録)