[183] 中世に使われ始めました。現在ではあまり使われませんが、 伝承などの紹介に出現することが稀にあります。
[184]
明要が最も一般的です。
旧字体で
[185] 他に明安などとされることがあります。
[128] 日本への仏教公伝に関して明要を使った文献群があります。
[152] 日本書紀以来の通説で仏教公伝はとされます。 欽明天皇13年は古代年号の貴楽の元年に当たります。 明要は貴楽の前の元号です。 また、は欽明天皇2年で、 古代年号における欽明天皇の最初の元号です。 この辺りがこの年を仏教伝来に関係した年とされた又は誤った根拠あるいは経緯なのでしょう。
[147]
明要元年
(辛亥年または癸亥年)
に停結縄刻木と始成文字があったとする古記録等があります。
[149] しかしこの種の記述の現存最古は鎌倉時代中期に遡り、 仏教公伝と直接は結びついていません。
[197] 「文成始」が実は原形が「法文成(渡)始」のようなもので、 仏教伝来 ≒ 経文将来の記事だった可能性などないでしょうか。 c.f. >>198
[198] 山田聖栄帝王年代記 には欽明天皇の明要6年12月12日に百済国仏法来るなどの記事があり、 同14年法文来るともあります。
[201] 仏教公伝を上宮聖徳法王帝説は欽明天皇戊午(538)年10月12日, 元興寺縁起は欽明天皇7(538)年戊午12月(日なし)としています。 この干支年を無視して日本書紀の欽明天皇の即位紀年に従って欽明天皇7年とし、 古代年号に換算して明要6年としたのがこの日付なのでしょう。
[129] 貞観政要式目 に、 漢ノ明帝永平十一年から482年経過した日本ノ仁王丗代欽明天王ノ朝明安元年辛酉に伝来云々という記事があります。 >>121 #page=16
[130] 貞観政要式目 は、 からの成立とされます。 >>121 #page=19
の少なくても3種類の本があります。 >>121 #page=24
[143] 貞観政要式目 の影響を受けた書物にも同様の記述があります。
[138]
>>131 について、昭和時代の研究者牧英正は、
昭和時代後期の「
[139] 牧英正はの論文でこれを訂正して、 日本大文典, 如是院年代記, 古事類苑所収茅窓漫録 を参照して明要や明安は僧徒輩の偽作と考えられているものであり、 元年辛酉が正しく4年辛酉は誤りだろうとしました。 >>121 #page=24
[180]
要
から安
へ、元
から四
へ変化したのは、
字形の類似による誤写でしょうか。
明安が本書で独立に発生したものなのか、
他にもあるものなのかは検討が必要です。
[141] また、辛酉年としたのは讖緯説の影響だろうとしました。 >>121 #page=24
[181] これについては少し検討が必要かもしれません。 明要元年とする説より前から辛酉年とする説があったなら讖緯説の影響かもしれませんが、 逆ならそうとも限らず、明要元年とされたことでたまたま辛酉年となったとも考えられます (>>152)。 この種の仏教的な出来事の日時解釈に讖緯説の影響がどの程度あるものなのかも要検討です。
[174]
古田武彦はに九州年号に関する文章で、
天皇家一元主義史観の研究者 (古田武彦の九州王朝説に賛同しない者を指す。)
が古代年号を
「
牧英正氏「差別戒名の系譜」参照 (この点、河田光夫・丸山
晋司氏の御教示をえた。)
とだけ説明しています。 >>170
[175] これは >>135 を指すものと思われますが、これでは何の話題でどういう趣旨で参照しているのかさっぱりわかりませんし、 昭和59年の環境で >>135 の収録雑誌を発見するのは困難だったのではないでしょうか。
[176] かく言う当段落の筆者は >>135 は未見なので >>121 からの推測になってしまいますが、 >>135 では明安を架空の元号と推測していたようです (>>138)。 しかし古代年号であることを知っていた古田武彦は、 九州王朝説の九州年号であると主張しています (>>48)。 そしてまさにその明要を >>170 では九州年号の実用例として紹介しています (>>172)。 古田武彦は牧英正 (や他の研究者) が九州年号を認めていないことを、 一笑に付していると感じたのでしょう。 「〝架空の年号〟」 と書いたのは牧英正による九州年号の扱いを示した引用符で、 注釈はその出典を明示したつもりだったのでしょう。
[177] 古代史も元号も専門外であろう牧英正が明要や明安を知らないのはやむを得ないことで、 架空の元号と推測したのは (結果的に誤りだっただけで) 妥当です (>>140)。 本当に一笑に付したのか、それとも真面目な判断なのかは >>135 を読まないとわかりませんが、 新たな情報を得てすぐに訂正している (>>139) のですから、 意図的に無視しているという邪推は当たらないでしょう。
[178] 無知故の誤解を責めるのであれば、 古田武彦もまた責められることになります。 >>170 はの発行ですが、文末には稿了、 清書了とあります。 ところが >>121 はの発行です。 牧英正が自説を訂正していることを知らずに糾弾するのは不誠実と言わねばなりません。
[179] ところで、 古田武彦は学界が九州年号を認めないことを非難している、それも 「すべて」 一笑に付してきたとまで述べているのですから、 明安1つにしか触れていない牧英正だけを糾弾するのは理不尽であり、 他にも具体例を挙げるべきでした (本当に一笑に付された事実があるのなら、 容易なはずです)。
[162] に種智院大学教授で財団法人同和教育振興会理事の仲尾俊博が出版した書籍は、 貞観政要格式目 を解説する中で、 明要を私年号と説明しています。 >>163
[165] 当時九州年号説の信奉者だった丸山晋司は、 仲尾俊博に手紙を送付しました。 九州王朝説団体の機関誌の記事 (>>63) を提示したようです。 仲尾俊博はそこから参照されている古田武彦の 失われた九州王朝 も読んだようです。 >>163
[166] 仲尾俊博がこれらを読んで私年号との理解に至ったのか、 それ以前から私年号と判断していたのかはわかりません。 いずれにしても、九州王朝説を信奉するとまではいかずとも、 素朴に信用したように読めます。
[167] 仲尾俊博は 貞観政要格式目 の著者についての牧英正の推測 (>>137 からの引用。 >>121 にも同様の記述あり。) を引いて、 それに私年号の推測を加えれば誰か多少わかってくるのではないかと述べています。 >>163
[169] 古代年号は中世以後の日本各地で非常に広範囲にわたって使われており、 単に明要を使っているからといって著者の素性を絞り込むのは困難に思われます。 ただどうやら明要元年に仏教が伝来したという趣旨のもので検索に出てくるのは 貞観政要格式目 の系統ばかりなので、この特徴を情報の伝達経路の推定に使うことはできそうです。 (貞観政要格式目以前でこの特徴を持つものを探し出せれば、 著者の情報源にまで迫れそうですが、どうでしょう。)
[25] 日本国兵庫県神戸市北区山田町坂本に坂本丹生神社と共に廃仏毀釈まで存在した丹生山明要寺に関して、 「明要元年」 の伝承があります。
... なる文書が、 昭和時代初期に所蔵されていました。 >>85 現在の神社ウェブサイトにも所蔵品として掲載されています。 >>88
[95] この勧進文は丹生神社所蔵の最古級の文書のようです。 >>85 おそらく時期が明確なものの中では最古なのでしょう。
[5] また、そのうちの一部分が 「摂州丹生山文亀元年癸亥三月勧進帳云」から始まる引用文 >>4, >>3, >>2 としてこの地域の歴代の地誌に掲載されています。 元は江戸時代に遡りますが >>3、 ほぼ同文なので他は現物を確認していない孫引きかもしれません。
[90]
この文中には
「明要元年
[6] この勧進文によると、 明要寺は欽明天皇時代に日本に来た百済人が明要元年3月3日に開山したのだそうです。
[153] 日本書紀には欽明天皇13年壬申の仏教公伝の他にも に百済王が天皇のために仏像を作って云々の記事があります。 この伝承が百済の王族や元号と絡んでいくのはこのあたりに由来しているのでしょう。
[26] >>3, >>2 では 「明要元年」に「此年号不審」と注釈があります。 >>85 の全文翻刻にはもちろんこの注釈はありません。
[28] >>3 は 播磨鑑 の翻刻です。 >>29 は写本 (大和文華館本) です。 播磨鑑 は自序 (それ以後も編纂継続, 編者はおそらく18世紀中に没) の地誌です。 この注釈は播磨鑑編者によるものでしょうか。
[30] 近世にはまだ古代年号も普通に行われていましたが、 播磨鑑 は現代でも学術的評価が高くその編者平野庸脩はおそらくしっかり学んだ人物で、 古代年号が掲載されるような俗な年表を参照する機会がなかったのでしょうか。
[31] なんにせよ江戸時代時点ではまだ明要の元号と百済を直接結びつける説は出てきていない (少なくてもその痕跡は現在に残っていない) ようです。 (播磨鑑は史実性が疑わしい伝承も史実と区別して収録しているようで、 編者が疑問に思ったにも関わらずこの箇所にそのような記述がないのは、 そうした伝承などもまだなかったのでしょう。)
[7] 明要寺については 丹生山縁起 というものがあり、 元禄13年に作られたものとされます。 そちらの本文には開基の時期はなぜか明言されていません。 割書で「古記」によると欽明天皇3年と書かれています (>>4 の部分引用では欽明天皇3月となっていますが、 直後の解説で欽明天皇3年とあるので、誤植でしょう)。 (>>39)
[92] 丹生山縁起 には「毎歳三月三日迎祭山王天王」 ともあります。 どちらが先かはわかりませんが、明要元年3月3日という日付と関係しているのでしょう。
[94] それにしても、文亀3年に存在し、現在にも伝わる勧進文記載の伝承はなぜ元禄13年に採用されなかったのでしょう。
古記曰欽明天皇三年也
としています。 >>37
[40] は明要2年なので、 >>5 のとは1年ずれています。
[32] 大正時代の地誌には明要を「佛年號」と注釈したものがあります。 古代年号を仏教徒の元号だとする近世以来の通説に従ったものでしょう。
(明朝体)
同寺
は 欽明天皇の御宇(紀󠄄元一二〇〇—三一年)百濟聖󠄁明王の王子 ( 明要元年 佛年號也 ) 童男行者の開基にかゝり、
[98] しかし本書ではどこにも「明要元年」などと書いていないのに、 不自然な箇所に括弧で注釈されています。 先行する地誌か何かに 「明要元年」説と「欽明天皇時代」説があったものを編集した結果こうなったのでしょうが。
[99] 明要を百済の元号だとする説が、 大正時代から昭和時代まで地元で語られていたことが確認できます。
[100] その後も続いているのかは確認できませんが、 ウェブ上の資料で見つからないだけなので、 現在も何らかの形で継承されている可能性はあります。
[41] 丹生山縁起 を掲載した >>37 の地誌 (大正時代) はその後に解説を続けています。引用と地の文の区別が不明瞭で、 一見どこまでが 丹生山縁起 なのか戸惑います。 よく見れば 丹生山縁起 は漢文、 丹生山縁起 の日付 (字下げ) を挟んで続きの解説文は片仮名漢字混じり文なので、 常識的にはそこが境目ですが、 流し読みだと誤認するかもしれません。
[42] 解説は、 新羅に敗れた百済人がこの地方に入植したと考えられること、 「丹生」は「入」、新入民族の意味と解釈できることを説明しています。 そして、
而シテ明要トハ當時ノ百濟ノ年號ナリシナリ。
と述べています。 >>37 それ以上の根拠は特に述べていません。
[43] 解説はまだ続き、此の地方の金物細工もその頃が起源ではないかと推測しています。 >>37
[44] 断定は出来ませんが、書き方から察するに、これらはこの解説の筆者の自説を述べたものだと理解するのが妥当でしょう。
[101] もしそれが正しいなら、明要を百済の元号とする説はこれが発祥ということになります。
[219] 日本の元号になく、百済人が使っているものだから、 百済本国に由来するに違いない、程度の根拠の説だったのでしょう。
[33] には、 地元の金物業界史に、 百済の元号から寺名を定めたと掲載されています。
(明朝体)
彼は山上の自坊を居と定め、寺院には百濟當代の年號を採りて明要寺と唱へた
と云はれます。蓋し丹生山の丹は船の誤冩で、當時は船生山と云ひ、船に因みある山名であつた とのことです (丹生山明要寺縁記)。
[34] 出版時期をみると >>37 の説が引き継がれたものと考えて良さそうです。 ただ >>37 とは書き方が随分と違っていますので、 直接 >>37 に由来するのかはよくわかりません。
[14] その後昭和50年代には次のような解説文が多数見られるようになります。
恵は僧衣をまとい、童男行者と称し、自坊を百済当代の年
号をとりて明要寺ととなえ、あるいは舟井坊ともよんだ。
(明朝体)
[36] 近代の説に直接に由来していることは明らかですが、 約50年の空白がいかなる理由によるものか、 たまたま国会図書館に所蔵されるものがないのか、 不思議ではあります。 それにしてもどれもこれも出典を明確に示さないものばかりなのは困ったものです。
[220] 広く出回っていない地元の出版物や印刷物などにはこれら以外にも同様の記述がありそうに思われます。
丹生神社・明要寺跡、明要寺伝承では、赤石(明石)に上陸した王子恵は一族を引き連れて明石川を遡り、志染川上流、丹生山北麓の戸田に達し、勅許を得て丹生山を中心として堂塔伽藍10数棟を建てた。従って平清盛が福原京から続く参詣道を整備するまでは、丹生山の表参道は丹生山の北側戸田から登る道であった。丹生山の東の山には奥の院を建立して梵帝釈天を安置したためこれが山名に転じて帝釈山地図と呼ばれるに至った。恵は童男行者と称し、自坊を百済の年号を採って明要寺または舟井坊と呼んだ。
[9] の論文には
欽明天皇三年 (五四二・百済
国明要元年) に聖明王太子である童男行者が
[45] 古代年号の通説では欽明天皇3年は明要2年に当たり、1年ずれています。 一般的な年表類を参照したのではなく、 「明要元年辛酉」 の干支から換算したのでもなく、 明要寺の創建年の2説をつなぎ合わせたのでしょうか。
[102] これらの資料を見ると、 それぞれの著者がどう理解していたのかは必ずしも明確ではないものの、 あたかも 「明要が百済の元号である」 ことがこの地方に古くから伝わる伝承の一部分であると誤認しかねない書き方になっています。
[103] しかし明治時代やそれ以前に遡った 「明要が百済の元号である」 と主張する資料は一つも見つけることができませんし、 そのような資料の存在をほのめかすものさえありません。
[104] また、百済に明要という元号があった痕跡は朝鮮半島に残されていませんし、 日本の他の地域にもありません。
[105] 初出の説明 (>>42) は不明瞭ですが、 明要を百済の元号だと考える根拠はおそらく、 日本の公年号を調べても明要は見当たらず、 百済人の活動に関する伝承なので百済本国の元号を使ったのに違いない、 という程度のものでしょう (>>219)。
[106] 百済と明要を結びつける相当に有力な根拠が出現しない限りは、 百済の元号とする説は「成立しないと判明した過去の学説」という扱いが妥当でしょう。
[47] 超古代史系陰謀論説の1つである九州王朝説では、 明要を含む古代年号は九州王朝の元号だとして九州年号などと呼んでいます。 九州王朝説とその提唱者古田武彦は、 昭和時代後期頃にカリスマ的な人気がありました。
[48]
古田武彦は、
の書籍で、
の書状に
「
[53] 九州王朝説の平野雅曠の著書では、 明要寺の開基の伝説があると紹介されています。 そこでは百済当代の年号をとって明要寺と名付けたとされているものの、 明要は九州年号なのだとしています。 >>52 しかし百済説を否定する根拠も九州年号説を肯定する根拠も説明がありません。 なお百済の年号を取ったことも「伝説」の一部のようにも読めます。
[51] 古田武彦は、 の書籍では、 杜山悠が研究し、 丸山晋司が九州年号だと発見したのだと紹介しています。 >>46 しかし具体的には出典を示していません。
[55] 平野雅曠は、 丸山晋司の調査で杜山悠のはりま風土記の旅に伝説が記されているとしています。 >>52 大元の杜山悠の文献は明記されていますが、 丸山晋司については明記されていません。
[171] 人名だけ示しているのですからまだマシな方ではあるとはいえ、 原典にたどり着ける情報を提示しないのは困ったものです。 杜山悠の立ち位置が不明瞭な言及の仕方も不親切です。
[63] 丸山晋司は、九州王朝説グループの幹部でした (その後転向したようですが)。 明要について古田武彦の支持者グループの機関誌市民の古代ニュースの連載に書いていたようで、 それを再構成したものが自著にまとめられています。 >>59
[64] 最初の章なので分だったと思われる部分には、
といったことが書かれています。 >>61
[75] その次の連載回らしい部分では、
といったことが書かれています。 >>62
[80] 杜山悠は作家で、この地域のことに詳しい人物だったようです。 >>77 で九州王朝説に賛同したかのように見え、 >>51 の書き方だとあたかも九州王朝説の関係者のようにも読めてしまいますが、 現在検索で見つけられる限りでは九州王朝説との接点はこの時だけのようです (時代が時代だけに今検索して出てくる情報は一部だけでしょうし、心もとないですが)。 自著でも取り上げた地元の伝承に関係する新説に関心を示しつつも、 心酔するまではいかなかったのでしょう。
[56] それにしても百済元号説が 「伝説」だというのも杜山悠の「研究」だというのも誤解を招く表現で、 「明要元年」の文書は江戸時代から知られており、 百済の元号だとする説は大正時代に出現したものです。
[82] 、古田武彦が講演で明要寺についても語ったようです。 >>81 時系列としては丸山晋司の連載記事の後くらいでしょうか。
[83] それによると丸山晋司からの手紙で明要寺を知った古田武彦は現地で調査しました。 そこで「明要元年」の文書のことを知りました。 >>81 その原本を見たのか、それが引用されたものを見たのかはよくわかりません。
[84] それに基づく見解として語られた内容が、その翌年の著書 >>46 の内容 (>>48) となったようです。
[172] には古田武彦は、 九州年号が九州以外にも用例が少なくない (ので確固として実在しているのに天皇一元史観の研究者が一笑に付してきた) 実例としてこれを紹介しています。 >>170
法隆寺と九州王朝
古田武彦
本稿は一九八二年一〇月二三日、福岡・中央市民センターにおいてもたれました「古田武彦古代史講演会」の内容を原稿化したものです。テープ起こしは前稿同様、三木が担当しました。
最近面白い情報を丸山晋司さん(大阪「古田武彦を囲む会」幹事)に教えていただきました。兵庫県神戸市(三木市との境)に丹生(たんじょう)山明要寺(みょうようじ)がございます。杜山悠さんという郷土史研究の方が『はりま風土記の旅』を書かれております。その中で明要寺は百済から来た人によって開かれたと、土地で言い伝えられているので百済の年号だろうと紹介されておられたのです。
元にかえりまして、丸山さんは百済の年号を調べてみても、「明要」はない。ところが九州年号にはちゃんとあるんです。明要(海東諸国記では「同要」)元年(五四一年)、これではないかと手紙でおっしゃってこられたのです。私もそうでしょう、とお答えし、現地に飛んで行ったのです。
室町期(焼き払われる前)に座主にあたる人が、より大きくしたいと寄付(勧進)の許可を求める文書を書いているのです。この中に明要寺の来歴が書いてありまして「明要元年三月三日にこの寺が建てられた。」干支も「辛酉」と書いてありまして九州年号の明要と全く同じなんです。
丸山さんは明要という名前だけを見て、「どっかにあった、あっ九州年号にあった。九州年号ではないか。」と、こう勘を働かされたのですが、その勘はズバリ当っていたわけです。
「明要元年」というのは年号ですね。しかもその年号は千支によって九州年号の明要とピタリ当てはまりますから、間違いなく九州年号で播暦のお寺の記録が書かれている。この場合は寺の寺号に九州年号がなって、現在まで残っている。
最後に、古田先生の著書を理解した会員諸氏も、次に挙げる例のように、先生の主旨通り「倭国年号」の名称を使っていることを紹介します。
大越邦生氏の「法隆寺は観世音寺の移築か」〈その二〉(多元四四号、二〇〇一年)
◆(1) 丹生山明要寺(神戸市)
寺院は「明要元年辛酉三月三日」(五四一年)創立とされている(沙門祐賢「勧進」文書)。また、丸山氏の指摘により、寺院名の「明要」は倭国年号であることが知られている。
[117] 、 日本共産党の衆議院議員正森成二は、 九州王朝の存在が「すべての歴史書で表明」 されており九州年号を使っていたと「多くの歴史学者の示すところ」 であり、 明要寺の明要は九州年号であると衆議院で発言しました。 >>431
[118] そしてそれが「日本の科学的な歴史」であって皇国史観は正しくないと主張しました。 >>431
また、多くの歴史学者の示すところでは、天皇の大和朝廷がまだ年号を持っていなかった時代に九州王朝は律令を持ち、そして元号を持っておった。善記、こういう元号が五二二年に善記元年ということで出ておりますが、その後大長三年、紀元後七〇〇年まで百七十九年にわたり三十二個の元号を使っていた九州王朝の存在がすべての歴史書で表明されております。
また、播磨の国に明要寺というお寺があります。現在の神戸市ですが、この明要は九州王朝の元号であります。
こういう点を考えてみますと、中曽根総理の言うところの皇国史観というのは、日本の科学的な歴史から見ても必ずしも正統性をから得ないという面があるのではないでしょうか。歴史を学ぶという科学に対して、内閣総理大臣があたかも一つの説だけを正しいとして、それに異を唱える者は国家を転覆する気持ちがあるととられる発言をしたり、九九%の国民は自分と同じ考えであるような説を立てるということはよろしくないのではないかと思いますが、いかがですか。
以下は以前すでに投稿したものですが、改めて記して仏教の伝来についての常識を疑ってみます。
「播磨」に「明要寺」という寺があります。この寺は「百済」から「王子」が来倭して、「勅」(つまり倭国王)により建てられた、と開基に関する文書である「丹生山縁起」に書かれています。この伝承の中では、「赤石(明石)に上陸した百済王子『恵』が一族を引き連れて明石川を遡り、志染川上流、丹生山北麓の戸田に達し、「勅許」を得て丹生山を中心として堂塔伽藍十数棟を建てた。王子『恵』は童男行者と称し、自坊を「百済」の年号を採って「明要寺」または舟井坊と呼んだ。」とされています。この「明要」という年号は「九州年号」の中に存在しているものであり、その「元年」は「辛酉」であり、年次としては「五四一年」と考えられています。(ここでは「百済」からとされています当の百済には「明要」という年号があったないしは使用されたという形跡が全く認められず、これは「西方」から伝わったということを示していると思われ、「九州」からの伝搬の暗喩ではないかと思われます。)
[123] 九州王朝説支持者の >>122 のブログ記事では百済の元号だという説が完全に「伝承」 の内容と説明されています。
[124] >>122 は同時に「百済の元号」の「百済」は「西方」 = 九州王朝という読み替えを示しています。 確証のない筆者の勝手な推測でしかありませんが、 九州王朝説幹部らが百済元号説を黙殺しているのに比べれば推測の論拠を示しているだけずっとまともです。
[107] 九州王朝説関係者らは、昭和時代後期という現在より遥かに難しい環境下で、 明要の用例 (や他の古代年号の用例) を「発見」し調査しています。 地元の地誌には掲載されていたとはいえ、全国的なプロの研究者が取りこぼしていた (または重視しなかった) 事例を地道に集める活動それ自体の功績は評価されるべきでしょう。
[108] 一方で、 「伝承」がいつの時代まで遡れるものか検討することなく九州王朝の遺物と断定していることや、 百済の元号説を一顧だにしない先行研究の軽視の姿勢は、 学術的に好ましからざるものだといえます。
[222] しかも、そうした学術的基盤の危うい「説」が、 カルト系国会議員によって政治の場に持ち込まれ、 ともすれば国政の方向を誤らせかねない使われ方をしてしまっているのは、 真に憂慮するべき事態といえます。
[110] 丹生神社や明要寺の始まりについては明確なことがわかっていないようです。 調査によると平安時代頃にはそのあたりで宗教的な活動があった痕跡が残っているようです。
[111] 現在伝わる開山伝説が確実に遡れるのは安土桃山時代頃まで、 明要寺としての存在が確実に遡れるのは中世後期頃までのようで、 それ以前の丹生山の様子はよくわかりません。
[112] 伝承にある、欽明天皇の時代に百済人が丹生山に現れて寺を作った、 という筋書きは疑問を挟む余地が多いと言わざるを得ません。 仏教伝来の時代にこのような形の寺院が作られることが果たしてあり得るのか、 その寺院がその後の歴史にまったく痕跡を残さずに消えることがあるのか、 にも関わらず「欽明天皇3年」なり「明要元年」 なりの日付だけは安土桃山時代まで忘れられずに伝わることがあるのか、 などの問題に合理的な回答を用意するのは難しそうです。
[113] 開山伝説を詳しく検討しないことには結論を出すのは難しいでしょうが、 おそらく百済人がこの地域にやってきた伝承や仏教伝来関連の伝承など、 複数の伝承が中世頃に混合されて現在伝わる形になったものでしょう。 そうした原伝承の中には「欽明天皇3年」や「明要元年」のような日付が入ったものもあったのでしょう。
[114] 明要が使われたことにはそれほど深い意味はなく、 中世当時に流布していた年表類で欽明天皇の時代に古代年号を載せたものがあったというだけのことでしょう。 多くの古代年号、多くの寺社縁起で起こっている現象で、 明要寺固有の事象ではありません。
[115] 明要寺が特殊なのは、寺の名前が元号名と一致していることです。 この「偶然」が伝承の形成に当然関与したものと推測できます。
[116] ただ、不思議なのは明要寺に関する伝承で「明要元年」は必ずしも強調されていないことです。 「欽明天皇3年」だったり、年が明示されなかったりと、 「明要時代創建だから明要寺」 という意識が必ずしもなかったと思われるのは、いったいなぜでしょうか。
[155]
の兵庫県史は、
全文翻刻を掲載していますが、元号名の明要に
[156] 本書には丹生神社文書が他に4点収録されていますが、関係するものはありません。
[159] 秩父神社の棟札に、 仁王三十代 欽明天皇御宇明要六年丙寅の創建で、 それから今天正廿年壬辰まで一千百四十六年とあります。 >>160, >>126
[186] 古代年号の通説によれば、明要6年はに当たります。 まで、 1592 - 546 = 1046年です。 >>159 の経過年数表示は100年大きな数値になっています。
[189] 秩父神社所蔵秩父大宮妙見宮縁起は、欽明天皇の時代に云々という記事に、
社頭の旧記には明要六とせと書のせけるが、 此頃おひはいまだ年号のことは国つふみには見えねども、 伊豫の温泉の銘にのするもあれば、なきことゝのみはもふしがたし、 麗気記に有りしを出せるものか、明要の六年は壬申の歳也、 享和二年までに千二百三十一年になりぬ
[200] 旧記に明要6年とあるものの、 当時はまだ元号は使われていないはずで不審として本文に採用しなかったものの、 法興のような逸年号の事例もあるので念の為にと注釈に残したようです。
[190] 1802 - 1231 = 571 で、 を明要6年と考えたことになりますが、 これでは壬申年だと述べていることと矛盾します。 この付近ではが壬申年です。 19年ずれていますが、どのような誤解によるものでしょうか。
[202] 明要6年を壬申とすると、明要元年はになります。 このような説は他に未発見で、 筆者が何に基づきそう書いたのかは不明です。 麗気記というのが麗気記私抄を指すとしても、 麗気記私抄の諸写本の明要は古代年号の通説と同じものであるようです。
[203] を明要元年とする説はあるようなので、 それと1年ずれた説も何らかの理由で発生して広まっていた可能性はあります。
明要六年同十四年同宇即位十三年当ル、喜楽元年
壬 申
という記述があります。この記事の後半は喜楽元年壬申がと等しいと述べていると解釈するのが最も合理的ですが、 これと同じような記述が誤写、誤読された結果明要6年 = 壬申年という説が生じる余地はあるかもしれません。 山田聖栄帝王年代記そのものが秩父神社近辺にあった可能性はまずないでしょうが、 似たような年代記類はあったかもしれませんし、 別の時代の別の場所で生じていた明要6年 = 壬申年説だけが伝わってきた可能性は考えてもいいでしょう。
[191] 近世の地誌などは明要を逸号, 逸年号, 日本擬年号などと表現し、 干支年から欽明天皇7年だとしています。 >>195, >>194, >>193, >>192
[215] 関東ハイク手帖, 読売新聞社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2984384/1/61?keyword=%E6%98%8E%E8%A6%81%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)
[216] >>215 欽明天皇明要七年の創建としている。欽明天皇7年 = 明要6年を混同したものか。
[187] 秩父大宮妙見宮縁起は、 允恭天皇の三十四とせ丁亥の創建としています。 また、允恭天皇34年丁亥の頭注 (>>196 では割書) に、 今享和二年までには千三百五十五年とあります。 >>160 /65, >>196
[188] 日本書紀によれば, です。 まで、 1802 - 447 = 1355, 1802 - 445 = 1357 であり、 >>187 は丁亥年からの経過年数表示であることがわかります。
[205] このように秩父神社は允恭天皇の時代に関係するとされます。 また、天正の再建はスポンサーが徳川家康でした。 >>160
[206] そこで昭和時代の >>160 は、 棟札の100年の誤算 (>>186) を実は意図的なものではないかと考えました。 更に100年遡るとに当たるのです。 明要6年丙寅としたのは、 徳川家康と縁が深い寅年としたかったためだとします。 >>160
[207] 確かに偶然にしてはよく出来ていて面白い説ではあるのですが、 もう少し確実な根拠がないと難しいように思われます。
[182] 年代記類や元号一覧などでの利用については古代年号参照。
[209] >>208 永享2年の大江盛行の筆記の縁起に明要2年云々とある。 秀雄は明要2年とは用明天皇2年のことだろうかと注釈している。 備中誌は嘉永6年頃編纂の地誌で、秀雄とは小早川秀雄だろうかといわれている。
[213] >>212 は明要2年壬戌に永徳2年壬戌かと注釈している。年数と干支年の一致による強引な解釈。
[211] >>210 はその原典と思しき写本2通。明要2年壬戌とあり、 >>210 は (ママ) と注釈しているが、その解釈は示していない。 >>214 もママ注。
[217] 大分県史料 30 (第1部 補遺 2 宇佐八幡宮関係文書), 大分県教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9770262/1/123?keyword=%E6%98%8E%E8%A6%81 (要登録)