[121] 同和問題研究 : 大阪市立大学同和問題研究室紀要. 6 巻, p.1-27. - DB00000480.pdf, , https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DB00000480.pdf#page=24
[25] 日本国兵庫県神戸市北区山田町坂本に坂本丹生神社と共に廃仏毀釈まで存在した丹生山明要寺に関して、 「明要元年」 の伝承があります。
... なる文書が、 昭和時代初期に所蔵されていました。 >>85 現在の神社ウェブサイトにも所蔵品として掲載されています。 >>88
[95] この勧進文は丹生神社所蔵の最古級の文書のようです。 >>85 おそらく時期が明確なものの中では最古なのでしょう。
[5] また、そのうちの一部分が 「摂州丹生山文亀元年癸亥三月勧進帳云」から始まる引用文 >>4, >>3, >>2 としてこの地域の歴代の地誌に掲載されています。 元は江戸時代に遡りますが >>3、 ほぼ同文なので他は現物を確認していない孫引きかもしれません。
[90]
この文中には
「明要元年
[6] この勧進文によると、 明要寺は欽明天皇時代に日本に来た百済人が明要元年3月3日に開山したのだそうです。
[26] >>3, >>2 では 「明要元年」に「此年号不審」と注釈があります。 >>85 の全文翻刻にはもちろんこの注釈はありません。
[28] >>3 は 播磨鑑 の翻刻です。 >>29 は写本 (大和文華館本) です。 播磨鑑 は自序 (それ以後も編纂継続, 編者はおそらく18世紀中に没) の地誌です。 この注釈は播磨鑑編者によるものでしょうか。
[30] 近世にはまだ古代年号も普通に行われていましたが、 播磨鑑 は現代でも学術的評価が高くその編者平野庸脩はおそらくしっかり学んだ人物で、 古代年号が掲載されるような俗な年表を参照する機会がなかったのでしょうか。
[31] なんにせよ江戸時代時点ではまだ明要と百済を直接結びつける説は出てきていない (少なくてもその痕跡は現在に残っていない) ようです。 (播磨鑑は史実性が疑わしい伝承も史実と区別して収録しているようで、 編者が疑問に思ったにも関わらずこの箇所にそのような記述がないのは、 そうした伝承などもまだなかったのでしょう。)
[7] 明要寺については 丹生山縁起 というものがあり、 元禄13年に作られたものとされます。 そちらの本文には開基の時期はなぜか明言されていません。 割書で「古記」によると欽明天皇3年と書かれています (>>4 の部分引用では欽明天皇3月となっていますが、 直後の解説で欽明天皇3年とあるので、誤植でしょう)。 (>>39)
[92] 丹生山縁起 には「毎歳三月三日迎祭山王天王」 ともあります。 どちらが先かはわかりませんが、明要元年3月3日という日付と関係しているのでしょう。
[94] それにしても、文亀3年に存在し、現在にも伝わる勧進文記載の伝承はなぜ元禄13年に採用されなかったのでしょう。
古記曰欽明天皇三年也
としています。 >>37
[40] は明要2年なので、 >>5 のとは1年ずれています。
[32] 大正時代の地誌には明要を「佛年號」と注釈したものがあります。 古代年号を仏教徒の元号だとする近世以来の通説に従ったものでしょう。
[98] しかし本書ではどこにも「明要元年」などと書いていないのに、 不自然な箇所に括弧で注釈されています。 先行する地誌か何かに 「明要元年」説と「欽明天皇時代」説があったものを編集した結果こうなったのでしょうが。
[99] 明要を百済の元号だとする説が、 大正時代から昭和時代まで地元で語られていたことが確認できます。
[100] その後も続いているのかは確認できませんが、 ウェブ上の資料で見つからないだけなので、 現在も何らかの形で継承されている可能性はあります。
[41] 丹生山縁起 を掲載した >>37 の地誌 (大正時代) はその後に解説を続けています。引用と地の文の区別が不明瞭で、 一見どこまでが 丹生山縁起 なのか戸惑います。 よく見れば 丹生山縁起 は漢文、 丹生山縁起 の日付 (字下げ) を挟んで続きの解説文は片仮名漢字混じり文なので、 常識的にはそこが境目ですが、 流し読みだと誤認するかもしれません。
[42] 解説は、 新羅に敗れた百済人がこの地方に入植したと考えられること、 「丹生」は「入」、新入民族の意味と解釈できることを説明しています。 そして、
而シテ明要トハ當時ノ百濟ノ年號ナリシナリ。
と述べています。 >>37 それ以上の根拠は特に述べていません。
[43] 解説はまだ続き、此の地方の金物細工もその頃が起源ではないかと推測しています。 >>37
[44] 断定は出来ませんが、書き方から察するに、これらはこの解説の筆者の自説を述べたものだと理解するのが妥当でしょう。
[101] もしそれが正しいなら、明要を百済の元号とする説はこれが発祥ということになります。
[33] に百済の元号から寺名を定めたと、 地元の金物業界史に掲載されています。
[34] 出版時期をみると >>37 の説が引き継がれたものと考えて良さそうです。 ただ >>37 とは書き方が随分と違っていますので、 直接 >>37 に由来するのかはよくわかりません。
[14] その後昭和50年代には次のような解説文が多数見られるようになります。
[36] 近代の説に直接に由来していることは明らかですが、 約50年の空白がいかなる理由によるものか、 たまたま国会図書館に所蔵されるものがないのか、 不思議ではあります。 それにしてもどれもこれも出典を明確に示さないものばかりなのは困ったものです。
[9] の論文には
欽明天皇三年 (五四二・百済
国明要元年) に聖明王太子である童男行者が
[45] 古代年号の通説では欽明天皇3年は明要2年に当たり、1年ずれています。 一般的な年表類を参照したのではなく、 「明要元年辛酉」 の干支から換算したのでもなく、 明要寺の創建年の2説をつなぎ合わせたのでしょうか。
[102] これらの資料を見ると、 それぞれの著者の理解は必ずしも明確ではないものの、 あたかも 「明要が百済の元号である」 ことがこの地方に古くから伝わる伝承の一部分であると誤認しかねない書き方になっています。
[103] しかし明治時代やそれ以前に遡った 「明要が百済の元号である」 と主張する資料は一つも見つけることができませんし、 そのような資料の存在をほのめかすものさえありません。
[104] また、百済に明要という元号があった痕跡は朝鮮半島に残されていませんし、 日本の他の地域にもありません。
[105] 初出の説明 (>>42) は不明瞭ですが、 明要を百済の元号だと考える根拠はおそらく、 日本の公年号を調べても明要は見当たらず、 百済人の活動に関する伝承なので百済本国の元号を使ったのに違いない、 という程度のものでしょう。
[106] 百済と明要を結びつける相当に有力な根拠が出現しない限りは、 百済の元号とする説は「成立しないと判明した過去の学説」という扱いが妥当でしょう。
[47] 超古代史系陰謀論説の1つである九州王朝説では、 明要を含む古代年号は九州王朝の元号だとして九州年号などと呼んでいます。 九州王朝説とその提唱者古田武彦は、 昭和時代後期頃にカリスマ的な人気がありました。
[48]
古田武彦は、
の書状に
「
[53] 九州王朝説の平野雅曠の著書では、 明要寺の開基の伝説があると紹介されています。 そこでは百済当代の年号をとって明要寺と名付けたとされているものの、 明要は九州年号なのだとしています。 >>52 しかし百済説を否定する根拠も九州年号説を肯定する根拠も説明がありません。 なお百済の年号を取ったことも「伝説」の一部のようにも読めます。
[51] 古田武彦は、 杜山悠が研究し、 丸山晋司が九州年号だと発見したのだと紹介しています。 >>46 しかし具体的には出典を示していません。
[55] 平野雅曠は、 丸山晋司の調査で杜山悠のはりま風土記の旅に伝説が記されているとしています。 >>52 大元の杜山悠の文献は明記されていますが、 丸山晋司については明記されていません。
[63] 丸山晋司は、九州王朝説グループの幹部でした (その後転向したようですが)。 明要について古田武彦の支持者グループの機関誌市民の古代ニュースの連載に書いていたようで、 自著にまとめられています。 >>59
[64] 最初の章なので分だったと思われる部分には、
といったことが書かれています。 >>61
[75] その次の連載回らしい部分では、
といったことが書かれています。 >>62
[80] 杜山悠は作家で、この地域のことに詳しい人物だったようです。 >>77 で九州王朝説に賛同したかのように見え、 >>51 の書き方だとあたかも九州王朝説の関係者のようにも読めてしまいますが、 現在検索で見つけられる限りでは九州王朝説との接点はこの時だけのようです (時代が時代だけに今検索して出てくる情報は一部だけでしょうし、心もとないですが)。 自著でも取り上げられた伝承に対する新説に関心を示しつつも、 心酔するまではいかなかったのでしょう。
[56] それにしても百済元号説が 「伝説」だというのも杜山悠の「研究」だというのも誤解を招く表現で、 「明要元年」の文書は江戸時代から知られており、 百済の元号だとする説は大正時代に出現したものです。
[82] 、古田武彦が講演で明要寺についても語ったようです。 >>81 時系列としては丸山晋司の連載記事の後くらいでしょうか。
[83] それによると丸山晋司からの手紙で明要寺を知った古田武彦は現地で調査しました。 そこで「明要元年」の文書のことを知りました。 >>81 その原本を見たのか、それが引用されたものを見たのかはよくわかりません。
[84] それに基づく見解として語られた内容が、その翌年の著書 >>46 の内容 (>>48) となったようです。
[117] 、 日本共産党の衆議院議員正森成二は、 九州王朝の存在が「すべての歴史書で表明」 されており九州年号を使っていたと「多くの歴史学者の示すところ」 であり、 明要寺の明要は九州年号であると衆議院で発言しました。 >>431
[118] そしてそれが「日本の科学的な歴史」であって皇国史観は正しくないと主張しました。 >>431
[123] 九州王朝説支持者の >>122 のブログ記事では百済の元号だという説が完全に「伝承」 の内容と説明されています。
[124] >>122 は同時に「百済の元号」の「百済」は「西方」 = 九州王朝という読み替えを示しています。 確証のない筆者の勝手な推測でしかありませんが、 九州王朝説幹部らが百済元号説を黙殺しているのに比べれば推測の論拠を示しているだけずっとまともです。
[107] 九州王朝説関係者らは、昭和時代後期という現在より遥かに難しい環境下で、 明要の用例 (や他の古代年号の用例) を「発見」し調査しています。 地元の地誌には掲載されていたとはいえ、全国的なプロの研究者が取りこぼしていた (または重視しなかった) 事例を地道に集める活動それ自体の功績は評価されるべきでしょう。
[108] 一方で、 「伝承」がいつの時代まで遡れるものか検討することなく九州王朝の遺物と断定していることや、 百済の元号説を一顧だにしない先行研究の軽視の姿勢は、 学術的に好ましからざるものだといえます。
[110] 丹生神社や明要寺の始まりについては明確なことがわかっていないようです。 調査によると平安時代頃にはそのあたりで宗教的な活動があった痕跡が残っているようです。
[111] 現在伝わる開山伝説が確実に遡れるのは安土桃山時代頃まで、 明要寺としての存在が確実に遡れるのは中世後期頃までのようで、 それ以前の丹生山の様子はよくわかりません。
[112] 伝承にある、欽明天皇の時代に百済人が丹生山に現れて寺を作った、 という筋書きは疑問を挟む余地が多いと言わざるを得ません。 仏教伝来の時代にこのような形の寺院が作られることが果たしてあり得るのか、 その寺院がその後の歴史にまったく痕跡を残さずに消えることがあるのか、 にも関わらず「欽明天皇3年」なり「明要元年」 なりの日付だけは安土桃山時代まで忘れられずに伝わることがあるのか、 などの問題に合理的な回答を用意するのは難しそうです。
[113] 開山伝説を詳しく検討しないことには結論を出すのは難しいでしょうが、 おそらく百済人がこの地域にやってきた伝承や仏教伝来関連の伝承など、 複数の伝承が中世頃に混合されて現在伝わる形になったものでしょう。 そうした原伝承の中には「欽明天皇3年」や「明要元年」のような日付が入ったものもあったのでしょう。
[114] 明要が使われたことにはそれほど深い意味はなく、 中世当時に流布していた年表類で欽明天皇の時代に古代年号を載せたものがあったというだけのことでしょう。 多くの古代年号、多くの寺社縁起で起こっている現象で、 明要寺固有の事象ではありません。
[115] 明要寺が特殊なのは、寺の名前が元号名と一致していることです。 この「偶然」が伝承の形成に当然関与したものと推測できます。
[116] ただ、不思議なのは明要寺に関する伝承で「明要元年」は必ずしも強調されていないことです。 「欽明天皇3年」だったり、年が明示されなかったりと、 「明要時代創建だから明要寺」 という意識が必ずしもなかったと思われるのは、いったいなぜでしょうか。