[19] 次の諸本があります。
[45] 原本の成立は村上天皇の天徳から正中の間とされます。
[10] >>6 は金沢文庫本を底本に諸本と校合したもの (巻末解説に説明あり)。 誤りが多く巻頭で訂正されているので注意。
[31] 平泉澄は、 白鳳は諸説あるうち壬申説に一致する (白鳳11年) ことを指摘し >>7、 大化は諸説と合わないものの海東諸国紀の大和と年次が一致するため、 いずれかが誤ったのだと推測しています >>7。
[33] 平泉澄は現存最古の金沢文庫本を底本に選んだものの、 本文および解説ともに金沢文庫本以外の白鳳11年を採用しており、 巻頭の正誤表で金沢文庫本の白鳳22年に訂正しています。 本文と解説を執筆した時点では違いを見落としていたのを、 出版直前になって気付いたのでしょう。 そのため年数の違いに関して何も考察していません。
[32] 下出積與は、 白鳳についての当時の学説に基づき、 白鳳22年とする本文の成立は室町時代を遡らないのであり、 白鳳11年とする本文の成立は村上天皇時代以後のことであり、 原本が村上天皇の天徳年間の成立と伝えられることとも符合すると指摘しています。 >>2 しかし2つの年数の異説の先後関係には特に言及していません。
[34]
下出積與は、
大化が諸説とも合わず、
大和, 大長にしても平安時代までに使われた痕跡がないこと、
大和と年数が一致するとしても、外国人による海東諸国紀が化
を和
とするとは考えられない
(からその原典で既に大和だったと考えられる) ことから、
本書は信用できないとする根拠の1つに挙げています。
>>2
[36] 下出積與は、 3つの紀年のうち2つは古代年号を使いながら、1つは天皇即位紀年であることも不審であり疑うべき点だと指摘しています。 >>2
[37] 本書の大化は、中世以後に使われたいわゆる持統大化説です。 近現代にはほとんど使われていないので、 研究者といえども知らなかったのはやむを得ないところですが、 その不存在を前提にした議論は訂正が必要です。
[49] しかし怪我の功名といいますか、このような議論が >>48 のような大長元年の異説の出現事情を物語っているといってもいいでしょう。 現代の解説で年齢に2説がある >>2507, >>2778 のも、この異説の存在が根拠となっていると思われます。
[38] また、白鳳の年数2説の一方を誤りとする考えもありますが、 白鳳に諸説あることがよく知られていないための誤解であり、 訂正が必要です。 >>961
[39] 白鳳の2つの年数のどちらもが当時の一般的な説に一致しているということは、 一方が他方の単純な誤りではなく、意図的に変更されたことを示唆します。 単純な誤記などで「十一」と「廿二」を取り違えるとは考えにくいでしょう。 書写した者が不審に思って年表か何かで確認して訂正したのでしょう。
[40] どちらが原形でどちらに訂正されたのかは容易には判断できません。 金沢文庫本の白鳳22年の方が現存写本としては古いですが、 他の諸本が揃って白鳳11年となっていますから、それらの共通祖本がより古いという可能性もあります。 現存最古が原形に近いとは限りません >>2。 白鳳11年説をとる尾添本は南北朝時代頃かその後とされており、 時期を確定できないのは遺憾ですが、 南北朝時代の初め頃であれば金沢文庫本の書写時期とそこまで離れていないことになりますから、 古さだけで見ても白鳳11年説は必ずしも分が悪くありません。
[71] また、に印刷された元亨釈書は白鳳11年説をとっています (>>62)。 おそらくの成立時に既に白鳳11年説の 泰澄和尚伝記 があったのでしょう。 そうだとすれば、の金沢文庫本より古いことになります。
[41]
3つのうち1つだけ元号でなく天皇即位紀年であることは従来の研究でも注意されていますが、
その天皇即位紀年の年数にも問題があります。
持統天皇の即位紀年が日本書紀紀年と1年ずれています。
持統天皇紀年は朱鳥と関係して混乱しており (
[50] 現代の解説で比定年を2説挙げているものがありますが >>2507、 天皇即位紀年の年数と干支年や年齢のどちらを取るか解釈が分かれたものです。
[42] 天皇即位紀年だったり元号だったりすることは、 文章の信憑性を疑わせる要素と指摘がなされていますが、 もしこれが写本での改変の結果ではなく原本に由来しているとなれば、 原本が依拠した原資料の表記を引き継いでいる可能性を示唆します。 つまり異なる日付表記を用いる異なる原資料を素材にしている可能性があります。 原本の著者がそれを完全に統一する意思を持ち合わせていなかったことを表します。
[43] ただし天皇名の構成要素の順序はやや独特で、3点とも共通していますから、 この形式に統一する意思が明確に働いていたと言って良さそうです。
[44] ここまで統一されているとなると、天皇即位紀年だけの1つは元号名の「朱鳥」 が欠落したとも考えられます。 朱鳥元年を持統天皇元年とする数え方は他にも歴史上無くはないものの、 他にほとんど見られないので、 誤脱説の方が納得感はあります。 (その場合は >>42 の前提が崩れ何ともいえないことになります。)
[61] 本書から派生したとされる元亨釈書の泰澄の条には、 「白鳳十一年六月十一日」、 「持統六年」 とあります。3つ目の年がなく、相当する場所にはかわりに 「十一歳、十四時」 とあります。 >>53
[62] 元亨釈書著者が見た本は白鳳11年になっていたようです。 著者は1つめの白鳳からは天皇名と干支年を削り、 2つめの持統天皇は漢風諡号のみ残して7年から6年にしています。 (著者が見た本が元々六年だったのかもしれませんが。 元号名は元々なかったのでしょう。) 3つめはなぜか紀年を丸ごと削っています。 大化を介せなかったのでしょうか。 おかしいと思っても干支年を信じる方法もあったはずですが、不思議です。 (改変して引用していないということは、2つめは元々六年だった可能性が高いでしょうか。)
[64] 「十一歳、十四時」はちょうど2つめと3つめの中間に当たる箇所にあり、 以上は11歳のとき、以下は14歳のとき、というつもりで書いたのかもしれませんが、 意味が取りづらい不自然な書き方に思われます。原文ではもっと前の方にあったはずの「十一歳」 が2つめの末尾まで移動させたのはなぜなのでしょう。年齢は冗長だと思って省いたものの、 3つめの年を書けないのでやっぱり必要だとここで補ったのでしょうか。
泰澄上人の生年ですが、泰澄和尚伝記の金沢文庫本には「白鳳二十 二年壬午」となっていますが、尾添本・平泉本では「白鳳十一年壬午」にな っています。しかし金沢文庫本でもその後で持統天皇6年に11歳と書いてあ り、また亡くなったのは神護景雲元年で86歳と書かれています。
この付近の壬午 の年は682年なので、壬午を信用すると、泰澄上人の生年は682年で白鳳11年 であり、よって白鳳は672年から始まると考えられます。
ということでやはり 金沢文庫本の「二十二年」は「十一年」の誤りで、白鳳は672年から始まっ ており、泰澄は682年の生まれで、 。
(00/05/24 13:42)
白鳳という年号ですが、天智天皇元年662年から始まるという説、またその 前年の斉明天皇が崩御し、中大兄皇子の称制が始まった年661年から始まる という説もあるようです。
従って、白鳳22年壬午というのも、白鳳が661年から始まったとすれば682年 ということになり正しいことになります。つまり泰澄和尚伝記の金沢文庫本 は白鳳が661年から始まったという立場で記述してあることになりますので、 単純な書写ミスという訳ではないようです。
『泰澄和尚伝記』によると、泰澄は越前国麻生津の三神安角を父、伊野氏の女性を母として、天武天皇11年(682)6月11日に生まれた。幼い頃から普通の児童とは異なり、泥で仏像を作ったりしていたが、持統天皇7年(693)[11歳を重視すれば持統天皇6年(692)]にこの地を訪れた道昭が神童であることを見抜き、両親にその旨を伝えた。14歳[元和本・大谷寺本では11歳]の時に十一面観音の夢告を受け、越知峯の坂本の岩屋に通い、後年この峰に籠もって修行に励んだ。
第38回(2008.05) 堀大介
大化元年(695) 泰澄の夢の中に、西方に住む高僧が現れる
泰澄の本師
『泰澄和尚伝記』によると、泰澄には、越知峰(越知山のこと)の方面に「本師」(師となる方)がいたように書かれています。持統天皇の大化元年、泰澄は14歳(11歳説もあり)のとき、八弁の蓮華の上に座る夢を見ました。
[74] これらの日付は九州王朝説でも都合よく結論ありきで解釈されて、 九州年号だということにされています。 それによると、
九州王朝説に立った史料批判の結果として、「泰澄和尚傳」は九州年号が使用された原史料に基づいて泰澄の事績を記したか、平安時代10世紀(天徳元年、957年)の成立時に、『二中歴』「年代歴」などの九州年号史料を利用して、大和朝廷に年号が無かった700年以前の記事の年次を表記したものと思われます。いずれにしても「泰澄和尚傳」は平安時代10世紀に成立した九州年号史料であり、九州年号偽作説のように「鎌倉時代以後に次々と偽作された」とすることへの反証にもなる貴重な史料ということができるのです。
ということになっています。 >>73
[75]
二中歷の成立時期は判明していませんが、鎌倉時代頃と考えられており、
その素材となった資料が12世紀の成立とされています。
[76] 朱鳥の元号名の欠落の可能性 (>>44) を指摘した研究者はいなかったのではないかと思われるので、 その当否はともかく、問題提起自体は評価して良いでしょう (結論ありきで当てはめた結果であろうとはいえ)。
[59] 一百七十九萬二千四百七十餘歳も参照。
[52] 福井県史 通史編 1 (原始・古代), 福井県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9540944/1/464 (要登録)
[5] 『福井県史』通史編1 原始・古代, , https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/6a7-02-03-01-01.htm
[1] 泰澄 - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E6%BE%84