[430] 掌中歴, 懐中歴は 二中歴のもとになったとされる書籍です。
[213] 二中歴の成立過程は多くの研究者が言及していますが、 不明なことが多いです。
[63] >>62 は大正7年で、二中歴の来歴を説明した早い例です。
[74] 昭和13年の >>73 は >>62 を引きつつも尊経閣文庫の複製本の部分写真を掲載しています。
[20] 古往来についての研究 : 上世・中世における初等教科書の発達, 石川謙, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9524887/1/155 (要登録)
[431] 昭和11年の 本朝書籍目録考証 は 本朝書籍目録 に注釈を加えたものです。 >>43
[275] 尊経閣文庫本の複製本に解説があります。昭和12年5月付で育徳財団名義となっています。 >>11
[78] >>77 昭和13年。尊経閣文庫本を実見しているとのこと。 編者不明、現存本は後醍醐天皇時代の写本とする。 掌中歴4巻と懐中歴10巻を合流させたことによる書名とする。 崇徳天皇大治3年の成立と考えるが、順徳天皇時代説もあって一理あるとする。
[838] 整理するとこんなところか:
[850] 「二中歴にあるから平安時代に遡れる」という主張は眉唾物で、 個別ケースごとに検証が必要。
[851] 安全を取るなら南北朝時代までに、となる (古写本の追記でない部分に該当するなら)。 上限が院政期、下限が南北朝時代初期で、これをどれだけ狭められるかはケースバイケース。
[26] >>23 >>24 に橋本義彦の解説『二中歴』(附)『掌中歴』。 >>24 には他に前田綱紀の『二中歴』考閲
[29] https://doshisha.repo.nii.ac.jp/record/15825/files/007000470025.pdf
[16] 国文学研究資料館紀要 (21), 国文学研究資料館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4419884/1/55 (要登録)
[27] 二中歴は 「「掌中歴(しょうちゅうれき)」と「懐中歴(かいちゅうれき)」の内容をあわせて編集したもの」 >>1 とするのが定説になっているが、何を根拠としているのかよくわからない。 本文にはそんなことは書かれていないし、 掌中歴は一部現存するものと比較したのだろうが、 懐中歴は現存していない。 >>11 もこのことは前提としていて説明がない。
[36] >>34 >>35 は二中歴の制作過程を詳しく検討しているが、 掌中歴と懐中歴が主材料という点はやはり前提としていて、 二中歴の限られた注釈のほかは現存する掌中歴しか論拠がないところが危うく感じられる。
[777] >>27 については >>397 >>648 で詳しく検討されていて、その検討内容は妥当と考えられるので、定説通りでよいかと。
[37] >>35 /229 の京兆歴の「私云」の件は興味深い。 「私云」に続く文は掌中歴にあるという。「私」とは誰のことか。 >>35 は二中歴編者だとし、それ以後の書写者だとする説を否定する。 しかし掌中歴を原素材とした二中歴編者が「私云」として引くのはおかしくないか。 原素材とされた掌中歴異本には既に「私云」と書かれていたのだろうか。 (>>35 /139 も参照されたい)
[48] >>9 /33, >>13 /12 の藤氏長者条、 藤原緒嗣から始まる元のリストの後に藤原鎌足から始まる 「或本掌中歴」 からのリストを補っているのが何だか意味深よね。
[84] 女院歴の「二中」は二中歴のことなのか、それとも掌中歴と懐中歴の2つの「中」のことなのか。
[85] 掌中歴と懐中歴の注釈は一様に付いているわけではなく巻3の途中から出現し始める。 正確に言えば巻1の冒頭からいきなり掌中歴は構成が違うと注釈があるが、 その後巻1と巻2にはまったく出てこない。
[86] これはどういうことなのか。掌中歴と懐中歴は途中までほぼ同じで途中から内容が変わり始めるのか。 それとも注釈がなくてもどちらか由来のものをそのまま取っていたり、 混ぜていたりするのか。
[779] >>648 は「今案」「説云」から掌中歴を土台にしたと推定している。
[780] >>648 は年代歴について、 大宝以前の年号を掌中歴に載せていないので 懐中歴 に基づくと認められる、としている。
[781] しかしこの検討で十分だろうか? 年代歴は大宝前後で2部に分かれていて、 後半は掌中歴とよく似ている。
[782] もしそうだとすると異同が明記されていないからといって懐中歴由来とは断言できないことに。 むしろ全巻通して細かく異同を明記する態度が見られるのにここでは何の記載もないことは不審に思うべきかもしれない。
[783] >>728 のように年代歴は他よりも変更が加わりやすい性質がある。
[87] 二中歴の名前の由来はよく説明されるのに掌中歴と懐中歴の名前は全然議論されていないのはなぜか。
[88] そのまま解釈すれば掌中は掌の中、懐中は懐・ポケットの中の意味で使われる語なのだから、 今で言えばハンドブックとか必携とかいうようなものか。
[89] 掌中歴自序は口遊に触発されたと書いているが、 題名のスタイルがずいぶんと違うように感じる。 掌中歴が確立した新しいスタイルなのか、それとも「○中歴」「○中抄」 ブームに乗っかったのか。
[90] 二中歴のもとになったものだけでもこのシリーズの題名のものに 懐中抄, 函中抄, 簾中抄 があり、他にも袖中抄のようなものがあるが、 これらにはどういう関係があるのだろうか。 (更に時代が下るとこれら以外にも「○○懐中抄」のような書物がたくさん作られているようだ。)
[91] 二中歴はそのうち掌中歴と懐中歴を使ったということだが、 なぜこの2つが選ばれたのか。二中歴で使っている他の諸書はなぜ採られなかったのか。 他は「歴」ではないからなのか。
[92] 掌中歴と懐中歴によるところが大きいからなのか。 しかし掌中歴3巻と懐中歴10巻では分量の差が大きい。 懐中歴を掌中歴で増補・校合したとなりそうなものだが。 掌中歴は懐中歴と並び立つほど存在感の大きなものなのか。
[273] 懐中歴と掌中歴の両方が引用されている箇所もあるようなので両方で重複した内容はあったらしいが、 どの程度重複していたのか。 完全な包含関係ならわざわざ2書使わなそうだが。 二中歴には両者がすべて使われているのか、それとも一方だけ選んでいるところもあるのか。
[94] 掌中歴と懐中歴が重視されて編集されたとすると、 なぜ他の○中抄は掌中歴と懐中歴ほど重視されなかったのか。
[856] 日本天文研究会報文 4(4)(16), 日本天文研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3204886/1/26?keyword=%E7%B5%90%E7%B8%84%E5%88%BB%E6%9C%A8 (要登録)
[857] >>856 二中歴は三善行康が書いたと言われている、らしい。誰によって言われているのか。
[18] >>1 この書き方は誤解を招くよなあ。尊経閣文庫本が最古かつ他の諸本がすべて尊経閣文庫本からの派生と推測されていて、 原本が現存せず他の系統の本が見当たらないというのが正確で、 現存唯一の本ということではない。
[46] >>11 >>34 >>35 を読むと室町時代後期 (戦国時代) に尊経閣文庫本からの写本が世に出回るようになったと書かれているので、 ずっと秘蔵されて知られていなかったというわけでもない。
[47] 現代の研究者にとっての重要度のわりに近代初期までの流布範囲や知名度が低すぎるというのは、まあその通りなんだけど。
尊経閣文庫本には順徳天皇の御代に編纂されたとあり、
この部分は虚偽。そんなことが書いてあれば研究者はみな苦労していない。 それとも尊経閣文庫が出版した解説のことを「尊経閣文庫本」と呼んでいる? そんなアホな??
[8] ノート:二中歴 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E4%BA%8C%E4%B8%AD%E6%AD%B4
増川宏一『将棋の起源』(ISBN 4-582-76172-0) P.43 より、加賀前田家に伝わっている写本より、順徳天皇の御代(1210~1221年)に編纂されたと言えるそうです。--Tamago915 2006年3月5日 (日) 12:22 (UTC)
[40] 三善為康 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E7%82%BA%E5%BA%B7
[269] 懐中歴、掌中歴とも著書ということに断定されていて何の注釈もない。
大治4年(1129年)81歳にして正五位下に叙せられる。また、同年には暦道家が8月に閏月を置くのは良くないとして退閏(改暦)を唱えた際には、宿曜道の隆算と共に暦道家の主張に根拠がないことを唱えた。
という事績も。 >>39 これは二中歴に日計歴や閏月歴があることを思うと興味深い。
[271] ただし本朝書籍目録が三善為康の「抄」としていることはやっぱり無視しない方がいいのではとも。
[426] 同一著者だとしたら、なぜ同じ人が2つも似たようなものを作らなければならなかったのか、 には納得できる説明がほしい。
[427] 前田家の新旧写本は冒頭部分が内容は同じなのに字詰違いで体裁は一致していないと。 続く部分は一致しているのに。なぜそんなことが起きるのか。
[428] 途中で何か事情があってやり方を変えたのか。それとも同系統の別の写本が1セットになっているのか。
[211] 堀河天皇の時代というと思い起こされるのが扶桑略記。 しかし扶桑略記には人代歴のような経過年数表示はありませんし、 扶桑略記の末年とは一致していません。 では共通のネタ本のようなものが、と考えてみるのですが、 両者の共通性は見つかりません。 扶桑略記の成立過程については平田俊春の研究がありますが、 二中歴との共通の祖本のようなものが差し挟まりそうな余地はなさそうにも思われます。 同じ堀河天皇の時代というのが偶然にしてはよく出来すぎているように思われるのですが、 それだけではちょっと弱いですね。
[15] https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/48/0/48_48_16/_pdf/-char/ja#page=4
[96] 懐中歴は二中歴が作られた頃には異本がいくつか得られる程度に使われていたらしいが、 いつしか失われた。いつまで存在していたのか研究したものは見当たらない。 中世以後現代まで、二中歴の原資料として以外での言及はほとんどない。
[97] 掌中歴は二中歴が作られた頃には異本がいくつか得られる程度に使われていたらしいが、 多くはいつしか失われ、今はごく一部分が残るのみである。 二中歴にない独自の記述があるため、 二中歴編纂後にも加筆されながら伝写されたことがわかる。 (なお現存本が二中歴編纂に使われた本とどのような関係なのかはまだ検討の余地がありそう。) 完本がいつまで存在していたのか研究したものは見当たらない。 現存本は近世以来研究者に参照されているが、二中歴の原資料としての言及を除けばそれほどよく参照されているわけではない。 群書類従に収録されており近世にはそこそこ知られていたとは思われるが、 現存部分の収録内容がさほど興味を引かれるものではなかったか。
[98] 二中歴がいつどのように作られ、どのように使われたかはほとんど不明だが、 中世後期頃まで追記されながら公家で細々と使われていたのは確か。 中世後期に世に出たが当時の知名度は皆無だったようで、 その後広まったもののほとんど研究者に参照されることなく近代を迎える。 明治時代中頃から少しずつ研究者に使われるようになり、 「掌中歴と懐中歴を合わせて二中歴」 の通説が昭和時代の初め頃までに成立した。
[60] 伴信友全集 第2, 国書刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/991313/1/77 右下
[54] 群書類従 第四輯, 塙保己一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1879724/1/20
[55] >>54 本朝皇胤紹運録頭注の4箇所で二中歴を引いている。
[57] 栗里先生雑著 : 一五巻 下, 栗田寛, 栗田勤, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1087995/1/213
[58] >>57 明治17年逸年号考で二中歴を引いている。
[56] 日本書紀通釈 上篇之1,2, 飯田武郷, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/772295/1/42 右
二中歴を引いている。
年始五百六十九年内卅九年無号不記支干其
間結縄刻木以成政
- 継躰五年 元丁酉
- 善記四年 元壬寅同三年發護成 始文善記以前武烈即位
- 正和五年 元丙午
- 教倒五年 元辛亥 舞遊始
- 僧聴五年 元丙辰
- 明要[十]一[年] 元辛酉文書始出来 結縄刻木止畢
- 貴樂二年 元壬申
- 法清四年 元甲戌法文〻唐渡僧 善知傳
- 兄弟六年 戊寅
- 蔵和五年 己卯 此年老人死
- 師安一年 甲申
- 和僧五年 乙酉 此年法師始成
- 金光六年 庚寅
- 賢稱五年 丙申
- 鏡當四年 辛丑 新羅人来従筑紫至 播磨焼之
- 勝照四年 乙巳
- 端政五年 己酉 自唐法華経始渡
- 告貴七年 甲寅
- 願轉四年 辛酉
- 光元六年 乙丑
- 定居七年 辛未 注文五十具従唐渡
- 倭京五年 戊寅 二年難波天王寺聖徳造
- 仁王十二年 癸未 自唐仁王経渡仁王會始
- 僧要五年 乙未 自唐一切経三千餘巻渡
- 命長七年 庚子
- 常色五年 丁未
- 白雉九年 壬子 国〻最勝會始行之
- 白鳳廿三年 辛酉 對馬銀採観世音寺 東院造
- 朱雀二年 甲申 兵乱海賊始起又安居始行
- 朱鳥九年 丙戌 仟陌町段始又歌始
- 大化六年 乙未
- 覧初要集云皇極天皇四年為大化元年
已上百八十四年〻号卅一代[不記]年号只有人傳言
自大寳始立年号而巳
[854]
勝山記古代年号年代記部分 >>855 (
[861] 宮寺縁事抄 所収 住吉縁起 (明朝体翻刻) に次のようにあります。 >>860
一或本云
元年號間民炳代五百卅九年、結繩驗數、後代刻木勘員、經二百十五年後、明要元年辛酉、 停結縄刻木、文成始、弌弐弎󠄂、以五字勘千万物之間、唐土長曆一年三百六十日、 廻甲乙丙丁戊己庚辛壬癸、當年日、充時子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥、知是初一王民秀王、 其時古國比里万姓、以各衆生往所名之、謂人姓也、古國云唐土也、日生土云日本也、 唐朝古文作濡轤仙濡云人也、日本始書學者、古經明者云人也、從上界雨降伽那云、
弐、有曆字、得組入无量詞意、聽下界那仁波津里之、以渡一二三四五六七八九十百千万、 伊露波中盡詞術字是也、比里古人爲家木影葺板、 弌弍󠄂弎󠄂 弌弍󠄂弎󠄂
[882] 宗像大菩薩御縁起 に次のようにあります。 >>880
已上五代地神
自天祖降跡以来、一百七十九万三十四年甲寅歳、釈迦仏出世、日本国〈仁波〉彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊御宇之末、震旦〈仁波〉周穆王之間也、仏滅後、一千十五年〈仁〉仏法始伝漢土、漢孝明皇帝時也、日本国〈仁波〉人王第十一代垂仁天皇九十六年〈仁〉当也、従
神武天皇御位〈辛酉〉以来経数百歳之年序、其中〈仁〉無年号間、五百三十九年、結縄験数、後代〈仁波〉刻木勘員、経二百十五年後、明要元年〈癸亥〉停結縄刻木始成文字、弌弍弎〓〓、以此五字勘千曼〔萬〕物之間、従唐土長暦一年三百六十日廻甲乙丙丁戊己庚辛壬癸、当年日宛時子丑刁〔寅〕夘辰巳午未申酉戌亥知之、曼〔萬〕姓〈波〉以各衆生住所、名之謂人姓也、人王卅代欽明天皇御宇僧聴五年〈仁〉自新羅国、献釈迦金銅像、法清元年〈仁〉自大唐仏法始〈天〉渡也。
一つ目の〓は「弌」の「一」の部分が「二」を二つ重ねた字、一つ目の〓は「弌」の「一」の部分が「二」と「三」を重ねた字。 三つ目の〓は口偏に「章」。 王+果
[862] 住吉縁起所引或本の冒頭や 宗像大菩薩御縁起 の神武天皇云々の一節は、 明らかに二中歴年代歴冒頭の
年始五百六十九年内卅九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
善記三年發護成 始文
明要元辛酉文書始出来 結縄刻木止畢
法清法文々唐渡僧 善知傳
と関係しています。
[863] 二中歴の意味を読み取り難い注文を膨らませて住吉縁起や宗像大菩薩御縁起を作るのは難しそうです。 だとすると住吉縁起や宗像大菩薩御縁起と二中歴の共通の元ネタがあって、 そのまままたは多少の要約が住吉縁起や宗像大菩薩御縁起、 非常に簡潔に要約したのが二中歴注文ということになりましょう。
[866] となると二中歴とその年代歴の成立時期や鎌倉時代の状態を考える上でも重要かもしれません。
[883] 宗像大菩薩御縁起 は鎌倉時代末期から南北朝時代の写本で原本を写したものとされます。 >>881
[865]
住吉縁起所引或本がいつのものかは明らかではありませんが、
宮寺縁事抄
は鎌倉時代初期頃に編纂されたものであり (
[867] 現存する 宮寺縁事抄 (>>858 の底本) はどうやら原本のようです。 追記等であるような記述は見当たらないので、 鎌倉時代、 編者が死去したまでには本文に含まれていたことになります。
[884] よく見ると 宗像大菩薩御縁起 は干支が2年ずれた癸亥です。一体これはどうしたことでしょうね。
[870] 妻萬大明神之御縁起, 乾元二(1303)年潤四月十九日書之 >>869:
而以後庚午年十一月十九日 庚午日、奉仕大明神君二百四十年、其息男日下部 立成同奉仕百八十三年、此間無文書結繩刻木計物初也、又自元無佛法聖教王法經書、積年一千二百八十年也、甲辰歳初、其後 檜隈盧戸入野宮御子高田天皇戊午年十月十五日、從百濟國阿彌陀佛像奉渡、其後從高麗国、辛酉歳天文地理文曆奉獻、
[871] 宣化天皇の皇居が檜隈廬入野宮, 日本書紀では檜隈高田皇子。
[872] 上宮聖徳法王帝説 の仏教公伝が志癸島天皇御世戊午年十月十二日。 志癸島天皇は欽明天皇だが、 戊午年は日本書紀。
[886] 年数の記述が何を意味するかは昔から議論があるところです。
とあります。
[892]
中世の一般的な説では仏誕はです。
[891] 日本書紀によれば天孫降臨から神武東征開始のまでが一百七十九萬二千四百七十餘歳です。 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊は神武天皇の父親に当たります。
[893] もしが天祖降跡以来1790034年甲寅だとすると、 は360年後で天祖降跡以来1790394年になってしまいます。 日本書紀の数値まで2076年以上足りていません。
[897] 「二千」が脱落したと都合よく考えてが天祖降跡以来1792034年甲寅だとすると、 は天祖降跡以来1792394年になります。 日本書紀の数値まで76年です。
[898] の1015年後はで、 垂仁天皇96年に当たります。 また、漢では2代明帝の時代です。 なおこの数え方は仏暦γ型に当たります。
[899] 二中歴には569年内39年という記載が、他の2つには539年という記載があります。 569年内39年が原形で誤って539年と転写されたとも考えられますし、 569年内539年など他の誤りの可能性もあるのでしょうが、 いずれにせよすっきりする解釈は見つかっていません。 539年は 60 × 9 - 1 という何とも意味ありげな数値です。
[900] 神武天皇辛酉から明要元年癸亥の間に539年と215年という数値があります。 これが両年の間の年数なのかどうかはいまいちよくわかりませんが、 これだけだと仮定して合算すると754年です。569年の誤りとすると784年です。 辛酉年と癸亥年は2年差ですが、 784 = 60 × 13 + 2 + 2 です。 2年余分なのがすっきりしませんが、端点の処理の違いだとすればないこともない、でしょうか。
[901] 日本書紀神武天皇元年 = から 60 × 13 + 2 年進めるとで、 日本書紀景行天皇53年に当たります。
[902] 古代年号通説のは辛酉なので直近のから 60 × 13 + 2 年戻るとで、 日本書紀孝霊天皇51年に当たります。
[905] どちらの解釈もどうにも納得感がありません。
[904] 二中歴と住吉縁起或本では明要元年は辛酉年です。こちらが古代年号の通説です。 宗像大菩薩御縁起では明要元年は癸亥年です。 どちらが原形なのでしょう。なぜこの違いが生じたのでしょう。年数との関係はどうなっているのでしょう。
[903] 二中歴の已上184年年号31代は、 その直前に示された古代年号が31個で、 からまで 700 - 517 + 1 = 184年であるのと一致します。 なおその続きの文言については口遊も参照。
[272] 掌中歴自序は口遊が必要なことの, しか書かれていないと述べている。
[19] 本朝書籍目録考証, 和田英松, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1117041/1/318
[21] 日本地図史, 秋岡武次郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3022553/1/60 (要登録)
[22] 古事類苑 歳時部2, 神宮司庁古事類苑出版事務所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/897572/1/96
[28] 二中歴(ニチュウレキ)とは? 意味や使い方 - コトバンク, デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及, https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E4%B8%AD%E6%AD%B4-592098
[31] DO00360R155.pdf, , https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DO/0036/DO00360R155.pdf#page=6
[33] 173-174.pdf, , http://www.wasan.jp/sugakusipdf/173-174.pdf#page=5
[59] 史籍集覧 (>>13) 旧版と新加のうちの新加の方に二中歴。
[75] 日本地理学史, 藤田元春, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1213166/1/53 (要登録)
[76] >>75 二中歴所収の懐中歴奥付が付された日本地図。これと同系統のものが明の時代の大陸にも流布していた、と。 なお海東諸国紀の日本地図は別系統。