[13] 日本では中世から近代初期まである種の史書が多数作られました。 そのうちのいくつかは年代記、 皇代記と呼ばれていますが、 その他の題名のものもあります。
[14] 構成や記事は各書様々ですが、似ているところも多いです。 同名でも内容が大きく異なることがあったり、 別名で伝わっていても内容がほぼ同じだったりもします。
[43] より大きな書物の一部分が年代記的なものとなっていることもままあります。
[44] 勝山記, 王代記, 天寧寺本年代記, 日本帝皇年代記, 田代之宝光寺古年代記, 二中歷, 大日本国帝系紀年古今一覧之図, 縁城寺年代記, 興福寺年代記
[8] 皇代記 - 国立国会図書館デジタルコレクション (昭15) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117198
[9] 皇代記 - 国立国会図書館デジタルコレクション (1940) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438606/1
[10] 群書類従 : 新校. 第二巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション () http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879729/88
[11] 群書類從 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=xEjl-oKQ1-kC&pg=PP5
[12] 群書類從 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=R3xx-RM_kGEC
[96] 九州歴史資料館研究論集 = Study of Kyushu Historical Museum (13), 九州歴史資料館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7948568/1/28 (要登録)
[15] 昭和時代の歴史研究者平田俊春が多くの年代記類を収集して分析しています。 次の2書に関係論文が多数収録されています。
[23] 口遊の年代門に (簡略的な?) 年代記か王代記的なものがあったのかもしれませんが、 現存しません。 成立。
[19] 王年代記はに奝然が宋に伝えたとされるもの。 宋史日本伝に逸文。
[25]
新唐書日本伝にもその一部のようなものがあります。
[18] >>2 によると春日若宮神主千鳥家本皇代記 (前欠、三条天皇 - 白河天皇) が現存最古。 白河天皇時代 (在位 -) 末期。
[17] >>16 によると春日大社社家大東延篤所蔵皇代記 (前欠、敏達天皇 - 崇徳天皇) が昭和時代当時知られていた最古の原本。崇徳天皇時代 (在位 -)。
[27]
友田吉之助は則天武后の混乱時代に作られた唐の釈霊実の
古今帝王年代暦
が日本に伝来し広範囲に影響を与えたと推測しています。
[5] >>117 省略された年代記と案文と大宝以前のこの解釈は逆じゃないのかなあ。 この点は >>119 の解釈のほうが妥当に思われる。
[45] それがそのまま掌中歴に引き継がれたと考える方が素直。
[46] しかしそうすると口遊から掌中歴に引き継がれた「今案」文もある一方で年代門の「今案」はなぜ掌中歴に引き継がれなかったのかという疑問も。
[47] また別の見方をすると、二中歴年代歴の途中に挟まったよくわからない文と口遊の「今案」は、まあ別に似てはいないのだが、 じゃあまったく無関係なのかどうかという問題が。
[48] 似てるのか似てないのかどうとも言える二中歴よりもっと似ているのが 東寺王代記 所引 或記。
[54] 口遊と東寺王代記、 構成は似てるけど内容は全然違っていて、偶然のようにも思えるし、でもまったくの偶然ならここまで似ないようにも思えるし。
[53] 口遊年代門と神皇正統記の元ネタの年代記にも、 なにか関係があったのではと考えたくなってくる。 ただし神皇正統記と東寺王代記は白鳳の位置が違う。
[52] あと本題と関係ないところで、 東寺王代記の1個目の或記と二中歴の例の謎の文の関係性が見える。 例の虫食いは「不記」でよさそうだし、よくわからない「年号31代」は本来は持統天皇までの天皇歴代41人の「卌」が「卅」に誤写されて生じたものに違いない。
[51] 簾中抄 は大宝からの元号一覧の後にこの一節。 簾中抄執筆時は口遊やそれに類する書物が行われていた時代であろうから、 それらを参照して書かれた可能性が高い。逆に言えば 口遊 の原形を推測する材料になる。
[50] 掌中歴 は大宝からの元号の一覧があるが、 前後に注釈はない。
[49] 二中歴 は大宝からの元号の一覧の前に古代年号の一覧がある。 そのためなのか大宝以前に云々はないが、かわりに残骸のようなものがある。
[91] 麗気記私抄は大宝の前の元号は (1) 元年だけで (2) 2年以後はこれを使わず (3) 改元から次の改元までのいつを表すかわからない、と述べています。 (1) (2) と (3) は微妙に意味が違っていますが、「白鳳年」の解説という趣旨を鑑みれば、 時代名として用いて年名としては用いなかったという説でしょうか。
[60] 二中歷の構成と成立についての諸研究に関しては二中歷を参照。
年始五百六十九年内卅九年無号不記支干其
間結縄刻木以成政
- 継躰五年 元丁酉
- 善記四年 元壬寅同三年發護成 始文善記以前武烈即位
- 正和五年 元丙午
- 教倒五年 元辛亥 舞遊始
- 僧聴五年 元丙辰
- 明要[十]一[年] 元辛酉文書始出来 結縄刻木止畢
- 貴樂二年 元壬申
- 法清四年 元甲戌法文〻唐渡僧 善知傳
- 兄弟六年 戊寅
- 蔵和五年 己卯 此年老人死
- 師安一年 甲申
- 和僧五年 乙酉 此年法師始成
- 金光六年 庚寅
- 賢稱五年 丙申
- 鏡當四年 辛丑 新羅人来従筑紫至 播磨焼之
- 勝照四年 乙巳
- 端政五年 己酉 自唐法華経始渡
- 告貴七年 甲寅
- 願轉四年 辛酉
- 光元六年 乙丑
- 定居七年 辛未 注文五十具従唐渡
- 倭京五年 戊寅 二年難波天王寺聖徳造
- 仁王十二年 癸未 自唐仁王経渡仁王會始
- 僧要五年 乙未 自唐一切経三千餘巻渡
- 命長七年 庚子
- 常色五年 丁未
- 白雉九年 壬子 国〻最勝會始行之
- 白鳳廿三年 辛酉 對馬銀採観世音寺 東院造
- 朱雀二年 甲申 兵乱海賊始起又安居始行
- 朱鳥九年 丙戌 仟陌町段始又歌始
- 大化六年 乙未
- 覧初要集云皇極天皇四年為大化元年
已上百八十四年〻号卅一代[不記]年号只有人傳言
自大寳始立年号而巳
[63] 年代歴はここに示した前半の古代年号部分と、後半の大宝以後の部分に分かれます。 両者は明らかに書き方が異なります。
[64]
後半は現存掌中歴とほぼ同文であり、掌中歴に由来することが確実と考えられます。
[65] 問題は前半が何に由来しいつ誰が追加したのかです。いくつかの考え方があり得ます。
[71]
二中歷の大部分は掌中歴と懐中歴に由来するというのが通説となっています。
二中歷の多くの箇所に出典の注釈があることがその主要な根拠です。
ところが年代歴にはこの注釈がありません。
二中歷にはなぜかこの注釈がない部分があり、
その出典については解釈の余地があります。
[72] 懐中歴は現存せず、年代歴的部分があったのかどうかは定かではありません。 しかし歴代元号という基礎的で需要の多い情報が欠けていたとは考えにくいので、 その具体的形式は不明にせよ、何らかの形で含まれていた可能性がかなり高いと考えられます。
[73] 懐中歴と掌中歴は、その両方を出典とする部分の分析により、 同内容であっても編纂方針にそれなりの違いがあったと推測されています。 従って後半部分についても二中歷とほぼ同文が含まれていた可能性もあれば、 それなりの違いがあって、掌中歴寄りのものが選ばれたという可能性もあります。
[74] よって前半は懐中歴に由来するという推測も否定できるものではありません。 ただ、懐中歴と掌中歴の違いを意識し多くの情報を伝えてくれている二中歷の編纂方針からすれば、 前半よりも後半の情報量が明らかに少ないことは不審です。 両者の情報量が異なるなら、多い方に揃えてくれそうなものです。
[75] このような推測が妥当であるとするなら、
という成立過程を想像できます。
元号名 | 年数 | 元年 | 注文 | 山田聖栄帝王年代記 >>29 | 宗像大菩薩御縁起 >>882 | 勝山記 >>854 | 縁城寺年代記 | 興福寺年代記 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
継躰 | 5 | 丁酉 | |||||||
善記 | 4 | 壬寅 | 同三年發護成 始文善記以前武烈即位 | ||||||
正和 | 5 | 丙午 | (正知3)達磨帰西 | ||||||
教倒 | 5 | 辛亥 | 舞遊始 | (安閑)舞楽始ル, 広田大明神顕ル | (教到1)舞遊始 曆作始 | (教到1)歌舞遊始 | |||
僧聴 | 5 | 丙辰 | (5)自新羅国献釈迦金銅像 | (僧聴2)天台大師生 | |||||
明要 | 11 | 辛酉 | 文書始出来 結縄刻木止畢 | (欽明明要6/12/12)百済国仏法来ル 舎利三粒 尺迦絵像来ル (14) 法文来ル 又 八幡大菩薩顕レ給也 | (1)停結縄刻木始成文字 | (欽明)此代八幡応現 | (明要11)自大唐法文来 自仏入滅1500年 | ||
貴樂 | 2 | 壬申 | (欽明13喜楽1壬申) 従百済国聖明王阿弥陀三尊像来ル(一光之内坐三体)今信州善光寺如来是也 従百済国尺迦像持テ来ル、二人(ニタリヌリチケイト云)シソツタリヤチエント云ナリ | (貴楽1)自百済貢釈迦像善光寺如来渡 | (貴楽1)仏法招来 百済国ヨリ五経渡 | ||||
法清 | 4 | 甲戌 | 法文々唐渡僧 善知傳 | (1)自大唐仏法始渡也 | (法清1)自百済国貢易暦医三博士 | ||||
兄弟 | 6 | 戊寅 | |||||||
蔵和 | 5 | 己卯 | 此年老人死 | (欽明20)老人皆死、七十一ヲ為始、満七十ハ残ル也 | (蔵和1)老人皆死 | ||||
師安 | 1 | 甲申 | (師安)[蘇?]目始造寺□ | ||||||
和僧 | 5 | 乙酉 | 此年法師始成 | (欽明26知僧1)人初テ成法師 | 如僧[元] 始作法師 | (蔵和1)日本法師始 (知僧1)自百済国経巻渡即仏法ノ最初也 | (知僧1)天下始成法師 得異材刻仏像 (2) 自百済国沙門曇恵 貢易暦医三書博士 | ||
金光 | 6 | 庚寅 | (金光1)建宇佐宮金光明経渡 | (金光1)因八幡□ | |||||
賢稱 | 5 | 丙申 | (賢補1)筆墨始 日本ニテ五徳博士名付ル (2)十一月一日自百済貢禅律比丘尼及咒禁師仏工寺工等 | ||||||
鏡當 | 4 | 辛丑 | 新羅人来従筑紫至 播磨焼之 | [金光]三 敏達天皇 欽明太子治十四年廿一代 新羅幡磨国明石浦責来 | (鏡帝3)自百済国日羅来 | ||||
勝照 | 4 | 乙巳 | (用明1勝照2)日羅上人来朝ス地蔵菩薩(反化也) | ||||||
端政 | 5 | 己酉 | 自唐法華経始渡 | (崇峻端政1)法花経日本渡ル | [□□収]二 従大唐法華経渡ル光興寺建立 | (端政1)法華経渡 | |||
告貴 | 7 | 甲寅 | (告貴1)三輪宗渡 諸国ニ国分寺立ツ | ||||||
願轉 | 4 | 辛酉 | (欽明願転2)善光寺如来信州伊那之郡於美ノ里羽鳥ノ村ニ如形草堂建也 | (願転2)如来付善光寺信濃国 | |||||
光元 | 6 | 乙丑 | |||||||
定居 | 7 | 辛未 | 注文五十具従唐渡 | [定居]二 仏法始テ伝日本 | (定居4)作太子法花経 | ||||
倭京 | 5 | 戊寅 | 二年難波天王寺聖徳造 | (崇峻景繩4辛巳)聖徳太子葬 | 願転[元] 四天王寺始法隆寺建立 [常色]二 造四天王特天人下玉ウ | (勝照3)始立四天王寺聖徳太子誅守屋 | (定居3)聖徳太子造四天王寺 | ||
仁王 | 12 | 癸未 | 自唐仁王経渡仁王會始 | (推古仁王1)仁王経二巻渡ル | 仁王元 仁王経始日本ニ渡ル 天平聖暦[元] 仁王会始之造大安寺 | (仁王1)仁王経渡 | (仁王1)自大唐仁王経渡 | ||
僧要 | 5 | 乙未 | 自唐一切経三千餘巻渡 | (推古僧要1)一切経同二千余巻渡ル | [仁王]二 従唐土一切経三十余巻持来 僧要元 一切経始渡日本 [白鳳]廿三 十一月依之居病薬師堂ヲ造ル一切経渡ル | (僧要1)一切経二千余巻渡 | (和景繩5)一切経三千余巻渡 (僧要1)一切経二千余巻渡 | ||
命長 | 7 | 庚子 | |||||||
常色 | 5 | 丁未 | |||||||
白雉 | 9 | 壬子 | 国々最勝會始行之 | 白智元 諸国最勝会 | |||||
白鳳 | 23 | 辛酉 | 對馬銀採観世音寺 東院造 |
(天武白鳳11( | |||||
朱雀 | 2 | 甲申 | 兵乱海賊始起又安居始行 | 朱雀元 始兵乱海賊起 大友皇子エ死 諸国郡始之 | |||||
朱鳥 | 9 | 丙戌 | 仟陌町段始又歌始 | (白鳳14)人丸生ル | (朱鳥8)始諸国仁王講定町段 (大化2)人丸此時人也 (大化6辛卯)町段歩定 | 扶桑略記 [持統6年]九月遣使諸國定町段。始置中納言。 | |||
大化 | 6 | 乙未 | (孝徳大化1)始テ年号ヲ定, 定百官 |
[854]
勝山記古代年号年代記部分 >>855 (
[861] 宮寺縁事抄 所収 住吉縁起 (明朝体翻刻) に次のようにあります。 >>860
一或本云
元年號間民炳代五百卅九年、結繩驗數、後代刻木勘員、經二百十五年後、明要元年辛酉、 停結縄刻木、文成始、弌弐弎󠄂
、以五字勘千万物之間、唐土長曆一年三百六十日、 廻甲乙丙丁戊己庚辛壬癸、當年日、充時子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥、知是初一王民秀王、 其時古國比里万姓、以各衆生往所名之、謂人姓也、古國云唐土也、日生土云日本也、 唐朝古文作濡轤仙濡云人也、日本始書學者、古經明者云人也、從上界雨降伽那云、
弌弍󠄂弎󠄂 弌弍󠄂弎󠄂 弐、有曆字、得組入无量詞意、聽下界那仁波津里之、以渡一二三四五六七八九十百千万、 伊露波中盡詞術字是也、比里古人爲家木影葺板、
[882] 宗像大菩薩御縁起 に次のようにあります。 >>880
已上五代地神
自天祖降跡以来、一百七十九万三十四年甲寅歳、釈迦仏出世、日本国〈仁波〉彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊御宇之末、震旦〈仁波〉周穆王之間也、仏滅後、一千十五年〈仁〉仏法始伝漢土、漢孝明皇帝時也、日本国〈仁波〉人王第十一代垂仁天皇九十六年〈仁〉当也、従
神武天皇御位〈辛酉〉以来経数百歳之年序、其中〈仁〉無年号間、五百三十九年、結縄験数、後代〈仁波〉刻木勘員、経二百十五年後、明要元年〈癸亥〉停結縄刻木始成文字、弌弍弎〓〓、以此五字勘千曼〔萬〕物之間、従唐土長暦一年三百六十日廻甲乙丙丁戊己庚辛壬癸、当年日宛時子丑刁〔寅〕夘辰巳午未申酉戌亥知之、曼〔萬〕姓〈波〉以各衆生住所、名之謂人姓也、人王卅代欽明天皇御宇僧聴五年〈仁〉自新羅国、献釈迦金銅像、法清元年〈仁〉自大唐仏法始〈天〉渡也。
一つ目の〓は「弌」の「一」の部分が「二」を二つ重ねた字、一つ目の〓は「弌」の「一」の部分が「二」と「三」を重ねた字。 三つ目の〓は口偏に「章」。 王+果
[862] 住吉縁起所引或本の冒頭や 宗像大菩薩御縁起 の神武天皇云々の一節は、 明らかに二中歴年代歴冒頭の
年始五百六十九年内卅九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
善記三年發護成 始文
明要元辛酉文書始出来 結縄刻木止畢
法清法文々唐渡僧 善知傳
と関係しています。
[863] 二中歴の意味を読み取り難い注文を膨らませて住吉縁起や宗像大菩薩御縁起を作るのは難しそうです。 だとすると住吉縁起や宗像大菩薩御縁起と二中歴の共通の元ネタがあって、 そのまままたは多少の要約が住吉縁起や宗像大菩薩御縁起、 非常に簡潔に要約したのが二中歴注文ということになりましょう。
[866] となると二中歴とその年代歴の成立時期や鎌倉時代の状態を考える上でも重要かもしれません。
[883] 宗像大菩薩御縁起 は鎌倉時代末期から南北朝時代の写本で原本を写したものとされます。 >>881
[865]
住吉縁起所引或本がいつのものかは明らかではありませんが、
宮寺縁事抄
は鎌倉時代初期頃に編纂されたものであり (
[867] 現存する 宮寺縁事抄 (>>858 の底本) はどうやら原本のようです。 追記等であるような記述は見当たらないので、 鎌倉時代、 編者が死去したまでには本文に含まれていたことになります。
[884] よく見ると 宗像大菩薩御縁起 は干支が2年ずれた癸亥です。一体これはどうしたことでしょうね。
[870] 妻萬大明神之御縁起, 乾元二(1303)年潤四月十九日書之 >>869:
而以後庚午年十一月十九日 庚午日、奉仕大明神君二百四十年、其息男日下部 立成同奉仕百八十三年、此間無文書結繩刻木計物初也、又自元無佛法聖教王法經書、積年一千二百八十年也、甲辰歳初、其後 檜隈盧戸入野宮御子高田天皇戊午年十月十五日、從百濟國阿彌陀佛像奉渡、其後從高麗国、辛酉歳天文地理文曆奉獻、
[871] 宣化天皇の皇居が檜隈廬入野宮, 日本書紀では檜隈高田皇子。
[872] 上宮聖徳法王帝説 の仏教公伝が志癸島天皇御世戊午年十月十二日。 志癸島天皇は欽明天皇だが、 戊午年は日本書紀。
[886] 年数の記述が何を意味するかは昔から議論があるところです。
とあります。
[892]
中世の一般的な説では仏誕はです。
[891] 日本書紀によれば天孫降臨から神武東征開始のまでが一百七十九萬二千四百七十餘歳です。 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊は神武天皇の父親に当たります。
[893] もしが天祖降跡以来1790034年甲寅だとすると、 は360年後で天祖降跡以来1790394年になってしまいます。 日本書紀の数値まで2076年以上足りていません。
[897] 「二千」が脱落したと都合よく考えてが天祖降跡以来1792034年甲寅だとすると、 は天祖降跡以来1792394年になります。 日本書紀の数値まで76年です。
[898] の1015年後はで、 垂仁天皇96年に当たります。 また、漢では2代明帝の時代です。 なおこの数え方は仏暦γ型に当たります。
[899] 二中歴には569年内39年という記載が、他の2つには539年という記載があります。 569年内39年が原形で誤って539年と転写されたとも考えられますし、 569年内539年など他の誤りの可能性もあるのでしょうが、 いずれにせよすっきりする解釈は見つかっていません。 539年は 60 × 9 - 1 という何とも意味ありげな数値です。
[900] 神武天皇辛酉から明要元年癸亥の間に539年と215年という数値があります。 これが両年の間の年数なのかどうかはいまいちよくわかりませんが、 これだけだと仮定して合算すると754年です。569年の誤りとすると784年です。 辛酉年と癸亥年は2年差ですが、 784 = 60 × 13 + 2 + 2 です。 2年余分なのがすっきりしませんが、端点の処理の違いだとすればないこともない、でしょうか。
[901] 日本書紀神武天皇元年 = から 60 × 13 + 2 年進めるとで、 日本書紀景行天皇53年に当たります。
[902] 古代年号通説のは辛酉なので直近のから 60 × 13 + 2 年戻るとで、 日本書紀孝霊天皇51年に当たります。
[905] どちらの解釈もどうにも納得感がありません。
[904] 二中歴と住吉縁起或本では明要元年は辛酉年です。こちらが古代年号の通説です。 宗像大菩薩御縁起では明要元年は癸亥年です。 どちらが原形なのでしょう。なぜこの違いが生じたのでしょう。年数との関係はどうなっているのでしょう。
[903] 二中歴の已上184年年号31代は、 その直前に示された古代年号が31個で、 からまで 700 - 517 + 1 = 184年であるのと一致します。 なおその続きの文言については口遊年代記の項 (>>47) も参照。
[55] 二中歷は184年と書いています。そして実際に二中歷に基づく継体元年から大化6年までを干支年に従って計算すると184年あります。
[56] ところが各元号の年数を足し合わせると189年あります。5年多いのです。
[57]
そこで一覧をよく見ると、兄弟が六
とあり、一
に訂正(?)されています。
干支年を信用するなら、これを1年に訂正すると合致します。
余分な5年はここにありました。
[58]
しかし一
から六
への誤りがどのような過程で発生したものか、疑問が残ります。
二中歷の原本あるいは早い時期の写本で独立に発生した誤りなのでしょうか。
それとも更に遡るのでしょうか。訂正したのは誰でしょうか。どのように誤りに気づいたのでしょうか。
[82] 干支年が正しいのに年数が異なるということで、 原資料で両者が同時に執筆されたのか、それともどのような順番で追加されたのか、 という問題が出てきます。
[59] 偶然かもしれませんが、「老人死」に関する年のずれ (>>36) がこの位置であることも気になります。
同(継体天皇)十六年壬寅善記元年
今案。従神武元年辛酉至継躰十五年辛丑。千百七十一年歟。 但甲寅年神武即位之説在之。若據此説。一千七百七十八年歟。 或記云。元年壬寅㠯前一千百 七十八年。無年号。云云。
関連: 神武天皇即位年異説
[99] 建国記念日審議会答申・審議経過, 建国記念日審議会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9541999/1/49?keyword=%E7%B6%99%E4%BD%93 (要登録)
[100] >>99 昭和41年に総理府で開催された建国記念日審議会に参考人として出席した日本暦学会の井本進の見解。 二中歷の記述に基づき、 継体天皇元(517)年丁酉から569年遡って西暦紀元前52年 (日本書紀継体天皇元(507)年丁酉からなら西暦紀元前62年) が国始と推定
[107] >>102 は九州王朝説を前提とした考察で内容には問題が多いが、 研究者が解明しきれなかったか十分な解釈を与えてこなかった「穴」 から奇抜な説が生えてくるいい実例ともいえる。どこに「穴」があるのか探すためにはこうした記事は参考になる。 本家の九州王朝説もそうだが、奇抜な説であろうと出発点となった課題設定は必ずしも間違っていないので、 おかしなものだからといって無視するのではなく、提起された問題の方に真摯に向き合うべきだといえる。
[108] 中でも >>102 の指摘する異体字の問題は、結論を急がず今一度整理する必要がありそうだが、 現存二中歷本文の成立過程に何らかの示唆を与えてくれるかもしれない (し何もないかもしれない)、検討に値する有意義な問題提起と思われる。
[29] 鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ五, 鹿児島県歴史資料センター黎明館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13590143/1/4 4 #page=109 三五五 山田聖栄帝王年代記写
[30] >>29 神武元年から始まり後光厳天皇が最後の記事、その次を今上皇帝とし、 元年のみ応永まで続き、文明14年の書写奥書。 誤字脱字と思われるものが多いが、それも含めて南北朝時代の年代記の姿を伝える貴重な史料では。
[62] 写本でしかも明朝体の翻刻なのであまり断定的なことは言えませんが、 追記が元号程度でほとんどなされないままに書写されているということは、 原本成立後に本文にあまり手が入っていないものと推定しても構わないでしょう。
[40] >>29 元号年 + 干支の干支の部分で十二支が欠落して十干だけのものが何箇所かあります。
[41] >>29 孝徳天皇の大化元年に初めて年号を制定とあるのに、それ以前の天皇の時代にも元号が使われています。
[42] >>29 欽明天皇の条で天智天皇のことを天和と書いています。
[31] 日本思想家史伝全集 第1巻, 東方書院, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1217312/1/17?keyword=%E8%80%81%E4%BA%BA%E7%9A%86%E6%AD%BB (要登録)
[32] >>29 の欽明天皇条あたりの記述とよく似た文章が >>31 にあります。 「太子講式云」で始まる段落なので、太子講式からの引用なのでしょうか。 しかし現在ウェブで見られる太子講式のような題名のもので、 このような文章は見当たりません。
[83] 段落途中に「有記云」とあり、それ以降がよく似た部分なので、 「有記」が >>29 と共通の原典に由来するものなのかもしれません。
[84] 両者を見比べるとよく似ていますが、微妙に違っていて、単純にどちらが原文というわけでもなさそうです。 田代之宝光寺古年代記 の方は寺社縁起か何か仏教系の何かしらの原文があって年代記形式に当てはめたように見えます。 太子伝玉林抄 の方はそのような何かしらの寺社縁起か何かからの引用にも見えますが、 元々は 田代之宝光寺古年代記 のような年代記形式だった痕跡ではないかと疑われる節がないでもありません。 どちらが原形をよく留めているのかも容易には判断しかねます。
[33] >>32 の「老人皆死」などは二中歷の蔵和条「此年老人死」との関連が想定されます。
[35] >>34 は九州王朝説のブログではあるのですが、これが引用する 田代之宝光寺古年代記 に
戊刀兄弟 天下芒鐃ト言健軍社作始也 老人皆死去云々
とあるそうです。 >>34 は二中歷との関連を指摘しています。
[36] >>32 ではのこととされ、 >>35 では兄弟年間 () のこととされ、 二中歷では蔵和年間 () のこととされ、 多少の違いはありますが、大元は同じ情報だったとみてよさそうです。
[38] 「老人皆死スル」は聖徳太子関連の何らかの書物にもあるようです。 >>37
[85] 田代之宝光寺古年代記 と 太子伝玉林抄 の記述は前半部分が古代年号主体で書かれているように見えますが、 「老人皆死」は天皇即位紀年だけで書かれています。 これらの原資料に於いては、 その更に原資料である天皇即位紀年主体の年代記に「老人皆死」などとあったものと、 古代年号主体の寺社縁起様の文章に前半部分があったものとを組み合わせたということなのでしょう。
[86] おそらくその編集以前の年代記かそれより更に前の原資料の段階では「老人皆死」 も何かしらの文脈にあって意味が通る状態だったはずです。 その編集によって仏教関連記事を割り込ませた結果意味が通らなくなったのかもしれません。
[89] 願転2年(即位何年か書いてない)、即位20年(元号書いてない)老人皆死、即位26年知僧元年の順序で記事が並んでいますが、 願転2年記事は喜楽元年記事からひとまとめでどこかから転記したものなのでしょう。 願転は推古天皇時代のはずで、それを欽明天皇時代としたために即位紀年との対応が破綻したので書けなかったのだと考えられます。 原文に何天皇の時代か書いていなかったのか、それとも欽明天皇と誤って書かれていたのか。
137ページ
... 老人皆死スル、○聖徳六年、元年己丑、太子ノ政。。ト直ニシテ国ノ人喜、十七ヶ条之憲法定玉ヘリ、此法量始ナリ、冠位品々ヲ定玉フ、世中事ヲ注置玉フ、太子隠サセ玉ヒテ後、ス クワウキヨク御孫、忍坂大兄王子、后 137 第一編記録・法典.
[145] 近世には蜷川氏が所蔵していた年代記なるものがあり、 私年号の研究者が参照していました。
[146] 現所在や内容の詳細は不明です。
[113] 引用関係:
[139] 「東國佛寺」は検索で年号の論以外見当たらないので、固有名詞ではなく東国にある寺というだけの意味と思われます。
[140] 引用より次の3つの記載があったことが知られます。
[144] このうち >>141 >>142 は >>112 にあり、 >>141 >>142 >>143 は >>137 にあります。
[1] 年代記 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E8%A8%98
[2] 皇代記 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E4%BB%A3%E8%A8%98
[3] KJ00005097748.pdf, http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/15595/KJ00005097748.pdf
[24] 福知山市史 史料編 1, 福知山市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9574210/1/255 (要登録)
[26] 2012no.24_b13_42.pdf, https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900116259/2012no.24_b13_42.pdf#page=23
[101] 瑩山禅師研究 : 瑩山禅師六百五十回大遠忌記念論文集, 瑩山禅師奉讃刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12271380/1/527?keyword=%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E8%A8%98 (要登録)
永光寺所蔵年代記 (の解説)