新撰三国運数符合図

新撰三国運数符合図

[1] 新撰三国運数符合図 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F1000000000000046789

[7] 日本における紀年認識の比較史的考察, PDF 9ページ

ト部(吉田)兼倶(一四 三五―一五一一)の『新撰三国運数符合図』 である ((31)) 卜部は、これは自分の 独創であると序文で自負しているが、この 年表は一 五世紀後半から一六世紀前半に作 られたにもかかわらず、写本が数冊今に残 るのみで、これまで印刷されたことがない。

(31)内閣文庫所蔵所蔵番号二三一三四

[13] ホモ・ヒストリクスは年を数える」(10)~キリスト紀年を表す造語『西暦』~ 西暦に代わる通年紀年法としての皇紀(THE PAGE) - Yahoo!ニュース () https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190526-00010001-wordleaf-cul&p=2

室町時代の神道家、吉田兼倶(かねとも、1435~1511)が作成した『新撰三国運数符合図』

[2] 内閣文庫>>1 の最後は「女帝治十三年」で寛永19年までとあります。 その前は「太上皇帝」とあります。 それぞれ明正天皇後水尾上皇を指します。

[3] 寛永20年に明正天皇譲位しました。 19年はその直前となります。 ここまでの天皇の在位年を見るに、 譲位した最終年は前の天皇の在位とし、 新天皇はその翌年から数えています。 明正天皇元年もその例外ではありませんから、 著者が明正天皇譲位を知っていたなら、 治14年で寛永20年までと書いたはずです。

[4] よってこの内閣文庫本の成立はとみて良いでしょう。

[5] >>1PDF 3ページ、中途半端な場所に 「吉田朝臣兼倶撰」 とあります。 これをどう解するべきか。

[6] >>1 は書き足されたようには見えないのですが、 吉田兼倶撰だとすると今上天皇を改めた上で書き足された写本ということでしょうか。