[1] 日本書紀によると、 初代天皇の神武天皇の崩御の後、3年間の空位期間がありました。
[2] この期間の表現方法はいろいろあります。
[9] 日本書紀神武天皇紀は、 神武天皇76年の崩御で終わっていました。 >>8 その翌年の葬儀の日を「明年秋九月乙卯朔丙寅」と書いていました >>8。
[11] 日本書紀第4巻の綏靖天皇の即位前紀部分に、 「于時太歳己卯」とする太歳記事があり、 その次に 「冬十一月」記事がありました。 続いて 「元年春正月壬申朔己卯」の即位記事があり、 「是年也太歳庚辰」 とされました。 >>10
[12]
このように日本書紀は空位の3年間を天皇即位紀年で書きませんでした。
干支年が書かれてはいるものの、
記事先頭の主たる年の表記に使っていない点で神武天皇即位前紀
[2667]
日本書紀暦日原典の本表は即位紀年と干支を書いていましたが、
神武天皇76年 (「
[22] 日本書紀暦日原典本表ページの柱には年の範囲が示されており、 「綏靖天皇即位前3年」、 「綏靖天皇即位前2年」 とありました。 >>2666 p.37, p.38
[65]
日本書紀暦日原典の解説中の表は、
天皇即位紀年を書いていましたが、
元号名部分に
「
[23]
日本書紀暦日原典所収小川清彦論文の表は、
元号名「
[1034] ウィキペディアの神武天皇記事の年表は、 「神武天皇76年の翌年」 と書いていました。 >>1033
[13] ウィキペディアのタギシミミの反逆記事は、 「神武天皇は神武天皇76年に崩御し、翌年9月12日に畝傍山東北陵に葬られた。神武天皇の諒闇中に二弟を害することをはかった。これは神武天皇崩御より3年後のことである。 この年の11月、」 と書いていました。 >>14
[16] ウィキペディアの綏靖天皇記事は、 「父帝が崩御した3年後の11月、異母兄の手研耳命を誅殺。翌年の1月に即位して」、 「己卯年[注 1]11月、」、 (注1)「己卯年は神武天皇崩御年(神武天皇76年:丙子年)の3年後、綏靖天皇即位年(庚辰年)の前年にあたる。」、 (年表) 「神武天皇76年の3年後」 と書いていました。 >>15
[21] ウィキペディアの手研耳命記事は、 「己卯年[注 1]11月」 (注1)「神武天皇76年(丙子年)の3年後、綏靖天皇元年(庚辰年)の前年にあたる。」 と書いていました。 >>20
[17] 日本書紀の影響の不自然な表現がそのまま残っています。
[19] ウィキペディアの対照表は、 「空位」の 「(1年)」、 「(2年)」、 「(3年)」 と書いていました。 >>18