[16] 仏暦 (B.E.、仏紀) は、 釈迦を記念した紀年法です。
[17] タイでは公私ともに最も一般的な紀年法として用いられています。 その他各国の仏教界などで用いられています。 釈迦の生没年に諸説あり、バリエーションが数十種類あります。
[563] 現代日本では仏暦が最も普及した呼称のようです。 他に仏紀と呼ばれることもあります。 略記として B.E. も使われます。 仏滅紀元として紹介されることが多いようですが、 この呼び名が日付表記で実用されることは少ないようです。
[564] 英語では Buddhist Era、略称 B.E. ということが多いようです。 BE と表記されることもあります。
[565] 大韓民国では 불기 (仏紀) と呼ばれるようです。
[38] 仏暦 (仏紀) と呼ばれるものの多くは仏滅紀元、 すなわち釈迦 (釈尊、仏陀) の死去 (入滅、仏滅) を元期とするものです。
[39] ただしその元期の特定には諸説あります。 主要なものに、現在タイで使われている南伝仏教説と、 かつて東アジアで使われていた北伝仏教説があります。 現在の学術研究者はまた別の没年を推定しています。
[529] 釈迦の誕生 (仏誕) を元期とするものもあります。
[41] 西暦がイエスキリストの生誕年と一致しないとみられるのと同様、 仏暦が歴史的事実としての釈迦没年と一致しなくても紀年法として支障はないと考えるのが一般的とみられます。
[1219] その一方で、あまりに多くの変種が混在し使われ続けているのは、 相互運用性への支障があまりに大きく、実用上の課題といえます。
[45] 次の類型があります。
[669] アジアの広い地域、長い時代に使われてきたので、 いろいろな日時表示法が使われてきました。
[670]
東アジアでは、元号年と似た表記法で、
元号名スロットに仏暦を表す呼称を入れて表記されてきました。
単独のほか、干支年併記もみられました。
[1083] 現代の越南では 「Phật Lịch 2555」 >>685 「PL.2564」 >>1088 のように表記するようです。
[668] 欧米式では 「B.E. 2500」のように前置することが多いようですが、 「2500 B.E.」 のように後置されることもあります。
[671] 西暦と併記されることも多いです。前置、後置どちらもあります。 その他日本の元号など各地の紀年法との併記がみられます。
[18] 東南アジアで広く用いられています。 特にタイ王国では国家の正式な紀年法として公私ともにほとんどの場面で用いられています。
[40]
日本国外務省調査の外交官信任状等の状況によると、
タイ、ラオス、スリランカが仏暦を使っていました。
[591] 仏暦は利用される地域と時代が幅広く、いろいろな暦法と組み合わされて使われてきました。
[1221] 現代でも、地域や集団により、 グレゴリオ年始に合わせるか、 旧来の暦法の年始に合わせるか、 流派の違いが残っています。
[1076] 暦法や年始の違いの換算が繰り返されてきたことが、 1,2年違いのバリエーションを創出した原因(の1つ)と推測されています。
[1077] 紀年法としての成熟の度合いはともかく、 仏滅から何年という言い方は、 釈迦の死去後の古代印度で既に生じていたようです。 ただそれは組織的かつ継続的に広く使われ続けるものとはならなかったので、 金石文や文献史料に多く残って正確な仏滅年代を伝えるには至らなかったのです。
[1067] 昭和時代の日本の仏教研究者林屋友次郎は、 次のように推測しました >>1065。
[869]
玄奘は、
唐初に入竺しましたが、
大唐西域記
(唐貞観20(646)年成立)
に
「仏涅槃より諸部に異議あり、
或は千二百余年と言い、或は千三百余年と言い、或は巳に九百を過ぎ未だ千年に満たずと言う」
と書き、
当時既に印度で仏滅年代に諸説あって一定しなかったことを伝えています。
>>700 pp.
[1078]
印度ではその後仏教が衰退し、
他宗教の紀年法が使われました。
[1082] 西暦5世紀初頭、 法顕が印度を経由してスリランカを訪問し、 そこで知られていた当時の仏滅年代説を漢土に伝えました (>>956)。
[15] スリランカの法令は英領時代を引き継ぎ基本西暦を使っていますが、 西暦1977年の憲法の前文は仏暦βに西暦を併記していました >>14。
[24]
タイは仏暦を公私ともに広く用いています。
他にもいくつかの暦法と紀年法があります。
[44] 西暦1912年が仏暦2455年なので、 0年が西暦-543年 (紀元前544年)、 1年が西暦-542年 (紀元前543年)。 西暦を仏暦にするには 543 を加算すればいい。 α
[111] 外国人観光客は仏暦をあまり意識せずに過ごすこともできるようです >>110。
[1211]
2桁年号も使われます。
[43] 「紀元前543年」が正しい。 西暦2011年から西暦2017年に修正されるまで、誤っていた: 「タイ太陽暦」の版間の差分 - Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%A4%AA%E9%99%BD%E6%9A%A6&diff=62492744&oldid=61055252。 この計算は間違いやすい。
[1244] 劉永華:18世紀以來荷屬東印度華人的紀年、認同與多元時間_人類學之滇 - 微文庫, 2018-11-08 12:51:45, https://www.gushiciku.cn/dc_tw/109465737
此外,一些華人寺廟的銘刻中,還使用佛曆紀年。如爪哇日尿(Yogyakarta)《重修鎮靈宮碑記》,題為“佛曆二千五百二十年(1963)歲次癸卯”立(《彙編》2.2: 654-655)。
ρ
當然,也存在其他兩種紀年的複合紀年方式,如雅加達福莆仙總義祠《法生群化》匾,匾末署“公元一九七八”和“佛曆二五二二”(《彙編》2.1: 107),這是佛曆與公元紀年的組合事例。
β
[1085] 現代の越南では、 仏教寺院で仏暦βが使われることがあります。 >>685, >>1088
[1090] 仏暦とグレゴリオ暦との年始の違いを間違いがちと解説されています。 逆に言えば西暦年と同じくグレゴリオ年始から始まると考えるケースと、 仏暦年始からと考える (正式の方法とみなされる) ケースの2法が混在しているということです。 例えば、 まで2556年 (西暦年からみればα)、 から2557年 β です >>1089。
[1086] 越南語版 Wikipedia は、 仏暦の項で、 東南アジアで使われるインド系の暦法と仏滅紀元β・αを解説しています。 >>1084
[1227] Buddhist Calendar, , https://www.tuvienquangduc.com.au/quocte/01pgkhaptg-mocls.html
在豪州越南人。仏暦β
[956] 法顕伝 (高僧法顯傳, 仏国記) は、 法顕の東晋隆安3(399)年-東晋義熙9(413)年の天竺旅行記。
[874] 唐時代前後、 仏滅の年代には異説が多くありました (>>696, >>873, >>870, >>871, >>872)。 >>700 p.二六〇
[870] 釈迦方志 は、 仏滅を紀元前56年としました。 >>700 p.二六〇
[871] 法苑珠林 は、 仏滅を紀元前537年としました。 >>700 p.二六〇
[872] 6世紀頃の道安の 二教論 は、 仏滅を周襄王15年 = 紀元前637年としました。 >>700 p.二六〇
[696]
周の時代の出来事を書いたという
周書異記
(佚書)
は、
釈迦の誕生を明王26年
[724]
恵恩は、
自身の誕生年の梁武帝天監14(515)年を末法82年としていました。
>>700 p.
[734]
久保常晴はこれを仏滅紀元前948年
[735] 末法まで2000年とすると仏滅は西暦-1567年、 1500年とすると西暦-1067年となり、 一致しません。 1500年から120年 (干支2巡) 進めれば西暦-947年となります。
[943] 隋大業年間開始の房山石経発願者静琬は、 正法500年、 像法1000年とし、 唐貞観2(628)年を末法第75年目としました。 γ2年ずれ >>914
[1044] 六朝時代、 仏誕を周荘王10年甲午 (紀元前687年)、 仏滅を紀元前608年μとするのが通説でした >>1043。
[873]
費長房は、
歴代三宝紀
(長房録、隋開皇17(597)年
[993] 歴代三宝紀 は自説の他に更に異説を5つ示していました。
釋迦生時、當周莊王九年。春秋・魯莊公七年夏四月、星不見、夜明、是也。 至魏武定八年、凡一千二百三十七年。
従仏般泥洹一 到二永興七年二月十一日一、 横並 凡巳八百八十七年余七月十有一日、至レ今丙戍 歳、今為二九百一十五年一 是比丘康日所レ記也、又󠄂至二慶暦六年丙戌 歳一共計一千九百九十四年
... とありました。
北宋慶暦6(1046)年
[732] ところでこの文章には辻褄が合わないところがあります。
[939] 慧思によるとされる 立誓願文 は、 仏誕以来の年を干支年で書いたり、 自身の略歴を末法何年と書いたりしていました。 >>940 本書は西暦558年成立とされますが、 江戸時代から現在まで偽書説があります。 >>914
[942] 西暦515年
[1100] 中華民国の頃、仏暦ηが使われていました。 これを大乘佛曆, 大乘佛历と呼ぶことがあります >>1111, >>1099。
[1106] 佛祖統紀 (西暦1269年成立) は、 仏誕を周昭王24年4月8日、 仏滅を周穆王52年2月15日としました。 これにより西曆2021年を中國佛诞曆3048年とする数え方が現在まで使われています >>1105。 ζ
[1195] 仏暦ζは清国や中華民国の他に、 清国の属国だった李氏朝鮮とその流れを引く大韓帝国、 日本領朝鮮で使われました。 日本での用例は未発見です。
[1243] 中華仏教会の機関誌 仏学叢報 は、 民国紀元と 「釈迦牟尼仏応世何年」 を併記していました。 >>1242 方式不明。
[1101] 西暦1913年と西暦1923年に、 仏誕2940年、仏誕2950年の記念行事が開催されました。 >>1111, >>1099 ζ
[268] 、 中華人民共和国杭州で開催された世界仏教フォーラムのパンフレットは、 2500年としていました。β (>>268)
[269] 当時、 中国仏教協会国際部主任の普正は、 中華人民共和国でも仏暦の使用がごく一部で広まってきており、 大韓民国のものと一致しているβと述べました。 中華人民共和国の仏教に詳しい大韓民国の専門家は、 文化大革命で仏教が破壊された中華人民共和国では大韓民国との交流で復元が進められており、 仏暦もフォーラム以前は見られず、 初の大規模イベントに当たり大韓民国の影響で採用したものだとしました。 報道は、 大韓民国の誤りが周辺国に悪影響を与えたものだとしました。 >>256
[1223] 蓮池大師戒殺放生文図説 佛暦2535年発行 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」, 東京都古書籍商業協同組合, https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=87308723
[876] 朝鮮半島でも仏滅からの年数が使われてきました。 他の地域と同じく異説も多いですが、時代によって傾向に違いがあります。
[1258]
昭和時代初期の朝鮮史研究者鮎貝房之進は、
朝鮮半島の日時表示の特徴的な事例を抽出した論文
[789]
昭和時代の朝鮮史研究者藤田亮策は、
朝鮮半島の紀年法を総まとめした論文
[791]
「仏誕」としてまとめているものの、
仏滅から何年という例も含まれていました。
異説の多いのは、
唐伝、
南方伝と時代と教派による違いがあったもので、
「
[790] 昭王24、25、26年とするのは昭王甲寅とするものの年代推定の相違で、 同一系統と考えられます。 ζ2年ずれ ζ1年ずれ ζ
穆王42、52、53年も穆王壬申の系統と考えられます。 γ11年ずれ κ γ
共王その他の例は極めて少ないです。 >>606
[512] 新羅時代の金石文に仏滅からの経過年数を書いた例がいくつか知られています。 その年数の数え方は互いに一致しません。 同時期の唐や日本の遺物にも諸説あることと軌を一にするのであります >>700。
[517] 高麗時代には、 仏暦γで数えた例がいくつか知られています。 同じく13世紀頃の日本でもγが主流となったことが注目されます >>700。
[562] 李氏朝鮮時代や日本統治時代はζを使っていました。 次のような用例が知られています。
[631] この他釈迦誕生・入滅から何年が経過、といった日付表記以外の用例もいくつか知られています >>606。
[609] 大韓民国でも建国当初引き続き北方仏紀が使われました (>>607)。 朝鮮民主主義人民共和国の事情は不明です。
[234] 大韓民国の仏教では、大韓民国の紀年法たる西暦と共に、 仏暦β型もよく用いられているようです。 例えば最大の仏教団体の大韓仏教曹渓宗は、 文書に仏暦βと西暦を併記しているようです。 古い時代についての記述では、即位紀年や元号も併記されることがあるようです。
[459] 西暦1960年代にαを採用しました。 さらに西暦1970年頃にβを採用し、現在に至っています。 西暦2007年に一部でαが使われましたが、 現在 Web でみられる用例のほとんどはβです。
[607] 大韓民国建国の頃は、前時代に続き北方仏紀が使われていました (>>562)。
[230] 大韓民国で使われた仏暦は、 西暦1962年まで北方仏紀、 その後南方仏紀に移行した >>177, >>191, >>181 とする説があります。 西暦1962年にカンボジアで開催された第6回世界仏教徒会議に初参加したことが契機になったための変更 >>181 と説明されます。 ところが実際の第6回世界仏教徒会議は、 に開催されました (>>220)。
[233] ただの書き間違いの可能性もありますし、 会議参加と変更が2年にわたっていたのを略したため両方とも西暦1962年と書かれてしまった可能性もあります。 西暦1962年が切り替えの前なのか後なのか、中途なのかもはっきりしません。 決定と施行が2年にまたがっていた可能性もあります。 仏暦α型、β型の1年のずれによる換算の誤りの可能性もあります。
[247] 根拠の曖昧なこの西暦1962年説より、 次に示す西暦1966年説の方が信憑性が高いと思われます。 西暦1962年説は誤りなのでしょうか。 それとも移行の何らかの段階を表してはいるのでしょうか。
[246] 西暦1966年、 大韓仏教曹渓宗の第13回 조계종 중앙종회(임시회) (中央宗議会臨時会) は、 世界仏教徒会議の仏暦α型の採用を決定しました。 >>240, >>251, >>306
[231] その後の調査でこの時の決定の詳細は発見できなかった (>>340) といいます。決定の事実自体は確認されたのでしょうか。 世界仏教徒会議のような西暦との併記の表記法について、 大韓民国でどう表記するかは議論されなかった >>306 といいます。
[288] 、 大韓民国は世界仏教徒会議決議に基づき仏暦を採用しました。 >>282 これがどの機関の決定なのか、 >>246 との関係はどうなのか不明です。
[232] 西暦1962年説も西暦1966年説も、 世界仏教徒会議に基づくという点は一致しています。 しかしいずれも具体的にどの決議なのかは明らかにしていません。 (>>260, >>229, >>228)
[254] 、 大韓民国の仏教メディア 법보신문 (当時大韓民国唯一の仏教メディア) がα型を採用しました。それ以前は北方仏紀を採用していました。 >>251
[248] その後いずれかの段階でα型からβ型に移行しました。
[253] 大韓民国の週刊仏教メディア 대한불교 は、 発行号に 「佛紀 2513年 9月 20日」 とあり、 発行号に 「佛紀 2514年 9月 27日」 とあり、 ここで1年進んでいました。ところが変更の説明は何もありませんでした。 >>251
[250] その他の有力説に、 1970年代にスリランカとの交流で1年ずれたとする説がありました。 >>240 (西暦1969年第9回世界仏教徒会議 (>>359) と関連付けた >>333 か。)
[249] にソウルで開催された世界仏教指導者会議との関連を指摘する説もありました。 (>>333)
[508] 西暦2007年の騒動で変更の理由が調査されましたが (このとき >>253 が判明しました)、収穫は得られなかったようです。 約40年後で、当時の意思決定層は難しいとしても、 その時代を過ごした人がまだ生存していたはずなのに、 有力な証言も資料も見つけられなかったというのは不思議です。
[509] 状況から、 組織的な決定による変更ではなく、なし崩し的に変化したものとみられます。 当時の仏教界ではほとんど仏暦が用いられなかったか、 新聞を見て記入する程度の非日常な存在でしかなかったのでしょう。
[262] 、 第17回世界仏教徒会議 (21 - 29 October B.E. 2533 (1990)) が大韓民国で開催されました (>>392)。 このとき、 世界仏教徒連盟中央本部職員が大韓民国の仏暦のずれに気づき、 問題を提起しました >>256。
[266] 当時世界仏教徒連盟大韓民国本部の 사무국장 (事務局長) だった 이치란 위원 (委員) によると、 仏暦の問題のために、 世界仏教徒連盟中央本部が作成した共同宣言文以外のすべてで西暦を使わざるを得ませんでした。 >>256 配布資料案を何度も修正することになるなど、 文書制作は困難を極めました >>271。 世界仏教徒会議で西暦が使われたのは、前にも後にもこのときだけでした >>271、当時の写真あり。 西暦を使うことになったのは、 서울대회 (ソウル大会) 대회장 (大会長) だった 서경보 の意見によるものでした >>271。 서경보 の大会挨拶は 2534年βとされましたが、 中央本部で作成された宣言文は 2533年αとしており、 2つの仏暦が混在したのも前代未聞でした >>271。
[272] 、 世界仏教徒連盟は大韓民国に、 仏暦の修正を要請しました >>282。 이치란 によると、 準備中タイの中央本部と何度も行き来して打ち合わせを行い、 中央本部は標準の仏暦を使用することを要求したのに対し、 大韓民国側の組織委員会は統一の重要性を認識せず、 これを拒みました >>271。
[264] 이재창 (>>261) の説明によると、 世界仏教徒連盟大韓民国本部の 회장 (会長) の 박동기 教授は、 大韓民国本部理事会を招集し、 仏暦を修正することを決定し、 各宗派に修正を要求する文書を送付しました。 >>256 この時期はで会議直後と説明されています >>256 が、 第17回会議の直後とはいえず、 第18回会議 (27 October – 3 November B.E. 2535 (1992)、台湾) よりも後であって不審です。
[265] 文書送付はその年 (西暦1993年?) の2月でしたが、 秋開催の 종단 정기총회 (宗派定期総会) で議論されることなく、放置されました。 >>256
[510] 西暦2006年頃から2008年頃にかけて、 βからαに変更するべきではないかと仏教界全体を揺るがす大論争が巻き起こりました。 当初はβは誤りでありαに修正するべきとの主張が大勢を占めましたが、 最大宗派が現状維持を主張し、移行は進みませんでした。 結局αに移行するべき根拠に乏しいと結論付けられ、 大山鳴動してうんたらかんたらというような騒ぎでした。
[241] 以前から仏教学者や僧侶には大韓民国の仏暦が誤っていると指摘する者があり、 海外との関係で問題が生じることもありましたが、 対策は講じられてきませんでした。 修正されると大韓民国仏教の歴史とアイデンティティーが傷付けられるため、 とされていました。 >>240
[261] 동국대학교 (東國大學校) の 명예교수 (名誉教授)、 이사 (理事) の 이재창 は、 講義でたびたび大韓民国の仏暦の誤りを指摘していました。 >>256
[267] 이치란 (>>266) は、 西暦1980年代にタイを訪問して以来大韓民国の仏暦の誤りを調べていたといい、 国際行事で大韓民国の仏暦を外国側からたびたび不思議に思われていたといいます。 >>256
[252] 、 大韓民国の仏教メディア 법보신문 は、 1970年の新聞でα・βの1年のずれが発生した (>>253) ことを突き止め、 当時の大韓民国の仏暦βは誤っていたと報じました。 >>251
[255] 記事によると、 世界仏教徒会議上級副会長の 양장운 は、過去の誤記が今に続くと聞いたことがあるとした上で、 大韓民国の誤りが国際的な場で混乱を招くおそれを指摘しました。 불교방송 (仏教放送) の 홍사성 상무 (常務) は、国際化が進む中で問題になるので、 正式な手続きで修正するべきだとしました。 >>251
[257] 報道を受け、 世界仏教徒連盟大韓民国本部の 임선교 회장 (会長) は、 に予定されていた 세계불교도우의회 사전 세미나 (世界仏教徒連盟事前セミナー) で仏紀誤り問題を正式議題として上程し、 改正を求めること、 한국불교종단협의회 (韓国仏教宗派協議会) を通じて各宗派に修正を求める文書を送付することを方針として示しました。 世界的に統一されているのに大韓民国だけが誤っており、 困難でも必ず改正しなければならないとしました。 >>256
[259] 진각종 (大韓佛敎眞覺宗) 통리원장 (統理院長) 회정 (悔淨) 정사 (世界仏教徒連盟大韓民国本部の 이사 (理事)) は、 ずれていることは既知だったが原因が不明で問題提起されなかったとし、 判明したからには翌年のセミナーで修正すると述べました。 >>256
[268] 조계종 총무원 (曹渓宗総務院) 関係者は、 に中華人民共和国杭州で開催された世界仏教フォーラムのパンフレットが 2500年βとすることから、 修正は不要とコメントしました。 >>256 (>>269)
[270] の報道 (>>252) のわずか 1週間後のの報道で、 仏暦の誤りは恥ずべきもので修正するべき、 今まで専門家や媒体は何をしていたのだ、 との読者や専門家の多数の見解が示されました (>>257, >>259, >>261, >>267 など、 >>268 のみ反対)。 이치란 (>>266) は、世界標準の仏暦を誤っているのは大韓民国だけであって、 早急に修正の議論が必要だとしました。 >>256
[275] 、 大韓民国の第1, 第2の規模の宗派が修正に積極的だと報じられました。
[273] 조계종 종회의원 (曹渓宗宗議員) の 초격 は、根拠のない独自の仏暦は国際化にそぐわず、 今次の臨時中央宗議会で提起するとしました。 종회의원 (宗議員) の 의연 は、 何年も放置し続けてきたことを反省しなければならず、 宗派で議論するよう最善を尽くすとしました。 조계종 총무원 사회부장 (曹渓宗総務院社会部長) の 지원 は、 間違いは当然修正しなければならず、 調査を開始し改正の先頭に立つとしました。 >>271
[274] 한국불교태고종 (韓国仏教太古宗) は、 世界仏教徒連盟の正式な改正の文書があれば積極的に対応するとしました。 태고종 사회부장 (太古宗社会部長) の 법현 は、 大韓民国だけの独自仏暦は恥ずべきことで、 宗務会議に上程して検討するとしました。 >>271
[278] 、 世界仏教徒会議の大韓民国本部は、 中央本部に大韓民国の仏暦について報告しました。 >>276
[277] 、 報告を受けて世界仏教徒会議中央本部は、 한국불교종단협의회 (韓国仏教宗派協議会)、 태고종 (韓國佛敎太古宗)、 천태종 (大韓佛敎天台宗)、 진각종 (大韓佛敎眞覺宗) ほか各宗派に対し、 仏暦の修正を公式に要請する文書を送付しました。 中央本部事務総長の Phallop Thaiarry は、 α型が正しく大韓民国のβ型は誤りで、 修正が必要だとしました。 その理由として、 西暦1950年の第1回世界仏教徒会議が2493年と記録されたことα、 世界仏教徒連盟加盟国のすべてのイベントでα型を正式に使用していることを挙げました。 >>276
[279] なお、 Phallop Thaiarry は、 仏暦がどう利用するかは加盟国の裁量に委ねられるとしましたが、 世界仏教徒連盟副会長の 양장운 との電話会談で、 大韓民国が西暦1956年の世界仏教徒会議決議を踏まえているなら仏暦α型を使わなければならないという意味だ、 と説明しました。 >>276
[283] 世界仏教徒連盟に強制力はなく、 また国内事情に訂正依頼を出すのも異例のことだといいます。 법보신문 は、 中華人民共和国に輸出した (>>269) など周辺国に悪影響を与え続けていることが原因にあるとしました。 >>282
[327] 종단협 = 한국불교종단협의회 (韓国仏教宗派協議会) の 사무총장 (事務総長) の 홍파 (관음종 (観音宗) の 총무원장 (総務院長)) は、 世界仏教徒連盟からの正式な要請を受け、 誤りを放置することはできないとし、 速やかに 이사회 (理事会) を開いて各宗派と正式に議論するとしました。 >>326
[328] に世界仏教徒連盟大韓民国本部の新しい 회장 (会長) に指名された 진각종 (眞覺宗) 통리원장 (統理院長) の 회정 は、 国際化が進む中で恥であるとし、 韓国仏教宗派協議会を通じて各宗派と議論しながら眞覺宗が主導して修正する方針だとしました。 に予定される世界仏教徒連盟国際学術フォーラムでα型を使う予定だとしました。 >>326
[329] 태고종 (太古宗) と 천태종 (天台宗) も、それぞれの宗務会議で正式に問題を確認していたと報じられました。 >>326
[330] 一方、 조계종 (曹渓宗) 関係者は、 まだ世界仏教徒連盟の要請文書を受け取っておらず、 受け取っても主要宗派が集まって決めることではなく、 韓国仏教宗派協議会で意見を集めて慎重に検討するべきだ、 と消極的な見解を示しました。 >>326
[290] 、 大韓仏教曹渓宗の 조계종 중앙종회 (曹渓宗中央宗議会) 정기회 (定期会) が開催されました。 종회의원 (宗議員) の 성묵 が世界仏教徒連盟の修正の要請への対応を質したのに対し、 총무원 기획국장 (総務院企画局長) の 원철 は、 한국불교종단협의회 (韓国仏教宗派協議会) と資料を収集し歴史的経過を検討すると共に、 世界仏教徒連盟を通じて各国の学説を総合的に検討する、 幅広い議論が望ましいとの見解を表明しました。 >>289
[291] 법보신문 は、 원철 の答弁は、 当初3年間 조계종 중앙종회 (曹渓宗中央宗議会) の 결의 (決議) によりα型を用い、誤ってβ型に変わったのを見落としていること、 当時中華人民共和国もβ型を使っていたとしたことを批判しました。 >>289
[293] 성묵 は、質問後の取材に対し、 西暦1966年の決定後単純な誤りでβ型になったとわかったので、 公聴会などで正確な原因を知り、間違いなら正さなければならないとしました。 大韓民国が誤っていることは明白で、 現在のみならず将来のために一刻も早く修正が必要だとしました。 答弁に対しては、 법보신문 報道を無視しており、 文化大革命の中華人民共和国や、 世界仏教徒会議開催地のネパールがβ型を使ったはずがない、 と非難しました。 調査の進行を見守り、進展がなければ宗派で特別委員会を設置する意向を示しました。 >>292
[299] こうした修正派に対し、現行β型から慌てて修正する必要はないという意見も少なくなかったようです >>297。
[243] 、 大韓仏教曹渓宗の 총무원장 (総務院長) の 지관 (韓国仏教宗派協議会の 회장 (会長)) は、 新年記者会見で、仏暦は修正しないと述べました。 >>240
[237] 、 世界仏教徒連盟大韓民国本部 (World Fellowship of Buddhist Korea Regional Centre、WFBK) は、定期 이사회 (理事会) で、 の第1回世界仏教徒連盟国際会議 (>>307) で仏暦を 2550年αとすると決定しました。 これは大韓民国仏教界がβ型からα型に訂正する初めての決定と報じられました。 >>343, >>294
[295] 加えて、 大韓民国仏教界全体で修正するため、 한국불교종단협의회 (韓国仏教宗派協議会)、 대한불교、 조계종 중앙종회 (曹渓宗中央宗議会)、 国際交流団体などに通知しα型を普及させていく予定であり、 そのためには韓国仏教宗派協議会レベルで議論と実践していく必要があるとの認識で関係者らは一致していたといいます。 >>294
[344] 理事会参加者の1人は、 β型への固執は国際交流を放棄し時代に逆行するもので、 今回のα型採用が修正につながるものだと期待を示しました。 이사 (理事) や関係者は、 中華人民共和国など周辺国にも影響を与えることになると予測しました。 >>294
[242] 、一般紙 ソウル新聞 で問題が報じられました。 >>240
[245] に大韓民国で開催予定の第4回仏教学結集大会の準備委員会は、 記者会見で、 2551年αを採用すると発表しました >>240, >>297。
[236] 、 大韓仏教曹渓宗の 제174회 조계종 중앙종회(임시회) (第174回中央宗議会臨時会) が開催されました。 、 議題が決定され、 大韓民国の当時の仏暦が当初の宗の決定や世界とずれている問題についての불기사용문제해결을위한특별위원회 (仏紀使用問題解決特別委員会) を、 주경 を含む5名で構成するべきことが上程されました >>235 18., >>238。 、 特別委員会を設置することと委員選出を議長団に一任することが満場一致で決議されました >>239, >>240, >>297。 大韓民国の当時の仏暦は誤っており、 修正が必要なため調査すると議論された >>240 ようです。
[244] 주경 は、 世界仏教徒連盟国際会議や仏教学結集大会がα型を採用した以上、 現行β型にこれ以上固執できなくなり、 宗派レベルで修正のため早急に対策が必要になったとしました。 >>297
[298] 曹渓宗当局はここまで変更を渋っており、 これは電撃的な決定でした >>240。 修正の発表が相次いだことで問題を放置できなくなったための方針転換とされました >>240, >>297。
[301] 、 불기사용 문제 해결을 위한 특별위원회 (仏紀使用問題解決特別委員会) は、第1回会合を開催しました。 >>300
[302] 5名の委員中、 発議した 주경 と 선문、 성묵、 보인 の4名が参加し、 주경 を満場一致で 위원장 (委員長) に選出しました。 >>300
[303] 会合では現状が報告され、今後の活動計画が詰められました。 まずα型が採択された第13回臨時中央宗議会の議事や β型に移行した西暦1970年当時の関係者を調査すると共に、 世界仏教徒連盟の協力を仰いで各国の現状を把握し、 各宗派の状況も調べることとしました。 それを踏まえて 한국불교종단협의회 (韓国仏教宗派協議会) との連絡会議を開催し、 修正の正当性を示して各宗派代表の意見を求めることとしました。 加えて、 修正による混乱の防止策を専門家と検討することとしました。 >>300
[304] また、前年の中央宗議会当時、企画室が、 簡単に決められる問題ではなく、 公聴会で慎重に検討する必要があると表明したことが槍玉に挙げられました (>>330 か?)。 주경 は、 公聴会は大人数を集めて決定するためのもので、 一方仏暦問題は決定事項を理由なく勝手に変えた問題であって、 その経緯を調べて正す必要があり公聴会は不要と一蹴しました。 >>300
[309] 한국불교학회 (韓国仏教学会) は、 内外の学術団体・仏教団体102箇所、すなわち、 宗教新聞社・放送局、 各宗派総務院長、宗議長、 한국불교종단협의회 (韓国仏教宗派協議会)、 25개 교구 본사 (25教区本部)、 学会、 종립대학교 총장 (総長)、이사장 (理事長) などに対し、 仏暦の修正を要請しました。 >>306, >>311 翌年のカレンダーでα型に修正することが推奨されました >>318。
[312] 회장 (会長) で 충남대학교 (忠南大學校) 명예교수 (名誉教授) の 이평래 は、 翌年に仏教学結集大会を控えており、 国際大会では国際基準の仏暦を使うべきだとしました。 特別委員会の設置に触発され、宗派と学者が協力することで修正が促進されると考えたといい、 誤りを正すのは学者の義務で責任があるとしました。 >>311
[307] から 、 大韓民国のコモドアーホテル慶州・朝鮮で、 世界仏教徒連盟国際会議 (翌年開催の世界仏教徒会議の事前イベント >>343) が開催されました。 ここでは事前の決定 (>>237) 通り世界仏教徒連盟方式の 「불기 2550년(2007)」αが採用されました。 修正が提案されて以来初めてのα型の実用となりました。 >>306
[308] 世界仏教徒連盟世界本部は、 翌西暦2008年に予定されていた第24回世界仏教徒会議 (14 - 17 November B.E. 2551 (2008)) で、 各国の仏暦を統一して使用することとする決議文を再採用すると発表しました。 >>306 (決議の再採用とはどういう意味かよくわかりません。 再決議するということか、 以前の決議を継続 or 再確認するということなのか。 第24回の議事録には該当しそうな記述は見当たりません。 次回・次々回に再採用して統一を推進すると正式発表した >>318 との報道も同じものでしょうか。 なお、「10年前」にも統一して使用するべく決議した >>318 と世界仏教徒連盟事務総長が語っていたようです。 10年前ではありませんが、 西暦2002年の決定 (>>411) を指すのでしょうか。)
[325] このとき、各国の関係者に取材して大韓民国の仏暦のずれについて尋ねたところ、 一笑に付されたといいます >>318。
[314] 、 仏紀使用問題解決特別委員会の 第2回会合が行われました。 >>313
[310] 仏暦の修正の正当性を確認し、 修正時の1年のずれの処理を議論する予定と報じられていました。 >>306
[315] 会合では実務委員の委嘱の結果が報告されました。 동국대 불교문화연구원 전임연구원 (東国大仏教文化研究院専任研究員) の 조준호 (박사 (博士) >>331) の委嘱が確認されました。 >>313
[316] 仏暦使用の経緯については、 材料が不足しているとの結論に至り、 再収集して検討することになりました。 >>313
[319] 조준호 は、 会合の場および取材に対し、 β型が誤りではなく、 タイによって改変されたとする説を提示しました。 >>318
[320] 조준호 によると、 スリランカ・印度など南アジアの英文書籍や日本の学者の資料では、 西暦1950年の世界仏教徒連盟設立当時は 2494年βでした。 これを2493年αとするのは、 世界仏教徒連盟の Webサイトのみでした。 世界仏教徒連盟が 지관 に送付した文書でも、 西暦1950年は2493年αと記載されていました。 このことから、 世界仏教徒連盟は西暦1950年を2494年、 西暦1956年を2500年としていた可能性が高く、 本部がタイに移転してから、 タイに合わせて1年ずらしたものと考えられました。 >>318
[321] ただし、 조준호 は仏暦の根拠とされる西暦1950年と西暦1956年の決議文を入手し、 検証しなければならないことは認めていました。 本当に西暦1956年にα型が決議されたなら、 それは約束であるから履行しなければならないともしました。 当時の決議文がタイにあるか、 ネパールにあるか、 どこにもないかわからないとし、 世界仏教徒連盟は根拠のない自分達の方法 (α) を勝手に使っている確率が高いとしました。 タイによる作為説は 조준호 の推測に過ぎず、証拠はありませんでした。 >>318
[322] β型へ切り替えられたのは、 世界の宗教指導者大会の準備において、 主張な参加国たる印度やスリランカの仏暦に合わせた可能性があり、 大韓民国の誤りとは断定できないとしました。 >>318
[323] α型へ修正することについては、 変更に伴う混乱が考えられ、 伝統的な仏教国がβ型を使っているのだから、 β型のままでも問題ないとしました。 α型を使っている国の存在については、 世界仏教徒連盟が (決議文に基づかずに) α型を推奨したのに従っただけの可能性が高いので、 考慮する必要はないとしました。 国際イベントと国内表記で別々にしてもよく、 β型に変更された理由を特定することなくα型に戻すべきではないとしました。 β型を使う現状が中央宗会議の決定に違反していることは否定できないので、 根拠を示してβ型で良いと決議する必要があるとの見解を示しました。 >>318
[317] 、 仏紀使用問題解決特別委員会の第3回会合が開催されました。 >>313, >>331
[332] 会合で 조준호 博士は、 世界仏教徒連盟は仏暦を統一したことがなく、 タイに中央本部移転後、 タイの仏暦に変更したものだと主張しました。 その根拠として、 世界仏教徒連盟設立の中核となったスリランカ、ミャンマーなどが西暦2007年を 2551年βとしていること、 世界仏教徒連盟設立当時 (西暦1960年) 2494年βと暗黙に了承されていたこと、 西暦1956年を2500年βと計算していたこと、 タイがこれらより1年遅れていたαこと、 仏暦を統一しようとする決議が見当たらないことを挙げました。 決議がなかった根拠として、 世界仏教徒連盟が決議を提示せず、 口頭でのみ統一された仏暦αの利用を要求していることを挙げました。 >>331
[333] 更に 조준호 は、 世界仏教徒連盟本部移転後の西暦1966年、 仏暦がなかった大韓民国にタイが仏暦αを推奨し、 西暦1969年の第9回世界仏教徒会議 (13 – 20 April B.E. 2512 (1969)、マレーシア、 >>359) で採用されたスリランカ式仏暦βやの世界仏教指導者会議 (ソウル) の影響で大韓民国が仏暦βに切り替えたとしました。 >>331
[334] 委員らは 조준호 の報告に共感を示したものの、 状況証拠に限られ確実な証拠に欠くとして、 調査のための宗議会まで会期を延長することを決めました。 >>331
[336] 特別委員会は、ここまでの調査結果を第175回中央宗会議に報告書として提出しました。 報告書は大韓民国現行仏暦βを重視する立場で書かれており (と報道記事の筆者は評しており)、 修正の要請は世界仏教徒連盟全体ではなく、 タイの立場によるものだとの見解を示していました。 主要仏教国の利用状況は、 βがインド、スリランカ、ミャンマー、大韓民国、中華人民共和国、 ベトナム、チベット、モンゴル、台湾の9ヶ国、 αが日本、タイ、ラオス、カンボジアの4ヶ国であるとしていました。 >>335
[338] 特別委員会委員長の 주경 は、 世界仏教徒連盟内でも仏暦は統一されておらず、 どれが正しいか断定することは難しいとし、 西暦1956年の決議文を入手することが最も確実であるとの見解を示しました。 >>335
[337] これに対し、学者らの大半は、 各国の利用状況より世界仏教徒連盟の決議が優先されるべきと考えていました。 また報告は慎重で公平ではないと指摘する者もありました。 >>335
[340] の報道によると、 特別委員会は西暦1966年の中央宗会議の決議文を発見できず、 確実な結論を導けない状況でした。 現行の仏暦βが誤りとの主張の根拠となる当時の決議文を上半期中に発見できなければ、 βを利用し続けて構わないという結論で特別委員会は解散することになっていました。 >>339
[342] 、 特別委員会の第4回会合が開催されました。 委員らは、 仏教国12ヶ国が大韓民国と同じ仏暦βを使用していること、 αとβは仏滅を元年とするか周年で数えるかの違いに過ぎず、 βには無理がなく間違っているとは言い難いことから、 조준호 の報告に賛同しました。 従って現行βに問題はないとの結論にまとまりました。 特別委員会は、 世界仏教徒連盟の決議文を入手後、 最終報告書を作成する予定としました。 >>341
[345] この後の動向は報じられておらず、不明です。 大韓民国の最大宗派の曹渓宗が変更不要と判断した以上、 他宗派関係者や仏教研究者なども、 これを無視して変更を進めるのは難しかったものと思われます。
[1265] 기년법 - 나무위키, https://namu.wiki/w/%EA%B8%B0%EB%85%84%EB%B2%95
[1266] 標準はβ、タイはαと解説。
[47] 日本の仏教は、歴史的に日本政府 (朝廷や幕府) との結び付きが強かったためもあってか、 仏暦や独自の紀年法は発達しませんでした。 北伝仏教系の仏暦が一部使われましたが、 例外に留まりました。
[530] 現在は一部寺院で限定的に種々の仏暦が使われています。
[1011] 高野雑筆集, 空海は、2説示していました。 >>1010
地神の末にあたりて、釋迦如來天竺に出給けり。
鷲嶺に月かくれ、鶴林に烟盡て (釈迦入滅) 、一千四百八十年にあたつて、我朝第三十代欽明天皇十三年に、百濟國より始て金銅の釋迦の像・經論・幡盖等奉りけり。
... とありました。
>>865, >>863, >>864
欽明天皇13(552)年が1480年とすると
西暦-927年(紀元前928年)
[716]
久保常晴は、
古今著聞集
を引いて、
仏滅は紀元前938年である
>>700 p.
[867]
久保常晴はνの2例 (>>799、>>716 後者)
を引いて、
仏滅紀元前928年説の根拠は不明ながら、
壬子歳に基づくのであるから、
穆王と匡王の壬子説が結合したものかと推測しました。
>>700 p.
[868] 壬子に基づくというのが何をいうのかよくわかりません。 穆王壬子は周穆王33年 = 西暦-968年 (紀元前969年)。 西暦-937年 (紀元前938年) は癸未、 西暦-927年 (紀元前928年) は癸巳です。
[711]
2例目は文の構成上あり得ない間違い方です。
これは最初に書いた文を修正した時に誤りが混入したと解するべきでしょうか。
久保常晴の論稿は、
[946] 日本の天台宗の僧侶安然の 教時諍 は、 費長房録 (>>873) に書かれた6説を示しました。 佛法年代記 を根拠に、 そのうち2説を正しいとしました。 >>945
[28] 中世から近世の日本では、 西暦-948年 (紀元前949年) を元年とする数え方が最も広く使われました。 平安時代に流行した末法思想 (>>36) はこの数え方が基本となっています。 γ
[25] 扶桑略記 (平安時代末期成立) は、 如來滅後年を併記していました。 γ
[26] 最古は 「應神天皇」の「元年庚寅」 (西暦270年) で、 「如來滅後一千二百一十九年」 でした。 >>29
[27] 最新は 「應德元年」 (西暦1084年) で、 「如來滅後經二千三十三年」 でした。 >>29
[689]
鎌倉時代から江戸時代まで多くの文献や金石文が仏暦γで数えていました。
>>700 p.
[1311] 日本古典の成立の研究, 平田俊春, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3006623/1/173 (要登録) /205
[697]
末法灯明記
は、
日本延喜20(801)年
[733]
末法灯明記
は中世の日本で広く参照され大きな影響を及ぼしました。
仏暦γ説の拡散に貢献したものと考えられます。
>>700 p.
[767] 末法灯明記 には、 次のようにありました。 >>768, >>769, >>771, >>770
問云若爾者。今世正當何時。 答滅後年代雖有多説且擧兩説。 一法上法師等、依周異記言、佛當第五主穆王滿五十三年壬申入滅。 若依此説從其壬申至我延暦二十年辛巳一千七百五十歳。 二費長房等、依出魯春秋、佛當周第二十一主匡王班四年壬子入滅。 若依此説從其壬子至我延暦二十年辛巳
一 >>700 では脱字 千四百十歳。 故知。今時是像法最末時也。
[768] つまり当時多説あったうち、2説を紹介していました。
延暦二〇 年は辛巳年ではなく、二一年 (八󠄂三一) に相当するのである。したがって干支󠄂を尊重すれば仏滅は紀元前八󠄂二九 年となる。これは干支󠄂二巡遅れることになる。また魯氏春秋説についても紀元前四八󠄂八󠄂年の計算となり干支󠄂二巡 の遅れを見るのである点を一応ここで注意して置きたい。
... と書きました >>700 pp.
... とおかしなことを言っています。何らかの誤解があるにしても、 どう間違ったのか謎です。
(
1 ) 益田宗「欽明天皇十三年仏教渡来説の成立」(坂本太郎博士還暦記念会 編『古代史論集』上、吉川弘文館、一九六二年)。(
11 ) 田村圓澄「末法思想の形成」(『史淵』六三、一九五四年)。(
14 ) 田村圓澄「欽明十三年仏教渡来説と末法思想」(『日本歴史』一七八、 一九六三年)。(
16 ) 田村圓澄「末法思想と道慈」(『続日本紀研究』=一四、一九六五年)(
18 ) 水野柳太郎「日本書紀仏教伝来年代の成立について」(『続日本紀研 究』一二一、一九六四年)。同「日本書紀仏教伝来記事と道慈」(『続日本 紀研究』一二七、一九六五年)。(
19 ) 小谷仲男「ガンダーラ弥勒信仰と階唐の末法思想」(気賀沢保規編『中 国仏教石経の研究』京都大学学術出版会、一九九六年)。(
37 ) 楠山春樹「中国仏教における釈迦生滅の年代」(平川彰古稀記念論集 『仏教思想の諸問題』春秋社、一九八五年)。(
49 ) 楠山注(37 )論文に復元掲載される『周書異記』を見れば一目瞭然のこ とであるが、②説では釈迦の入滅年は「穆王五十二年壬申」とされてい る。しかし、日本では流通の過程でいつしか「五十二年壬申」ではなく、 「五十三年壬申」とする誤説が広まるようになっていった (ただしどち らも干支が壬申であるため、末法に入る年次の計算は同一になる)。推察 するに、おそらく『末法灯明記』が「五十三年壬申」としたのが後世に大きな影響を与えたものと思われる。たとえば『神皇正統記』は「五十 三年壬申」としている。近代でも、橋川正「平安末期に於ける末法到来 の意識」(『仏教研究』六―三、一九二五年)、寺崎修一「日本末法思想の 史的考察」(『文化』一―四、一九三四年)、田村注(
11 )論文。数江教一 『日本の末法思想』(弘文堂、一九六一年)、田村注(14 )論文。注(16 )論 文。益田注(1 )論文。水野注(18 )論文。小谷注(19 )論文などみな「五十 三年」としている。しかし、やはり正しく「五十二年壬申」として議論 を進めるべきだと私は考える。なお、『教行信証』は、本文で述べたよう に、「五十一年壬申」としているが、これも流通の過程で生じた誤説とし なければならない。
[906] 齋藤彦松は、 昭和32年6月22日、23日の学会で 佛滅年紀に據る「末法燈明記」の撰󠄃述期の研究 と題して発表しました。 その概要が学会誌に収録されていますが >>907、 結論のみの要約しか掲載されていません。 他の場で詳細を公表したことがあるのか不明です。
[908] それによると、34の仏滅年紀を収集し、 平安時代前期は1つも正計算と合致しないこと、 末法灯明記 の2つの仏滅年紀はすべて正計算に合致することから、 末法灯明記 の撰述の上限は平安時代前期に入らないと結論づけました。 >>907
[909] 残念ながら収集結果は数値のみですが、次の点数でした >>907。
[1039] 久保常晴は、 日本や朝鮮半島の金石文や文献から、 平安時代初期までばらばらの仏滅年代が使われていたものが、 平安時代末期以後おおむねγに統一されること、 朝鮮半島でも同様の傾向があることを示しました。 >>700
[1040] 石田瑞麿󠄃は、 ばらばらの年代 (>>795, >>1011, >>1024, >>946, >>1032) がγに統一されていく傾向 (>>1026, >>1033, >>25, >>691, >>1035) から、 γ説はまず天台宗教団の正統の源信らではなく民間で認められ、 固定化されたものが、やがて皇覚あたりで教団人も認めるようになったものと推測しました。 >>1006
[725] κから更に1年ずれたλの例もありました。
[737]
日本正安2(1300)年
[738]
久保常晴は、
多数説の仏滅紀元前949年説と2年のずれがあることを、
説明が思いつかず単なる誤りだろうかとしていました。
「正安2年」
は報告者 (川勝政太郎)
が信頼できるから誤っていないはず、
とみていました。
>>700
[739] この崖仏は半分が満潮時海水面の下にあって摩耗が激しいようです。 Web 上では紀年銘部分の写真が見当たりません。
[749] 現地で実見した者の Webページによると、 「陸に近い砂浜の奥に、小さな石碑のようなものがありました。右手に天保二(1832)年とあります。 こちらは磨崖仏の脇にある文章を写し取っているのだそうです。左から2行目「于時正安二庚子年九月日…」とあるのが見えます。こちらは磨崖仏に書かれている内容と同じことが書かれています。実は潮と風雨にさらされるうちに銘文は判読しにくくなっていたのですが、この記録のお陰で正確に知ることができます。正安二年とは1300年となります。」 のだということです >>748。
[750]
その写真内の天保の石碑横面は、少し判読しづらいのですが、
「
[751]
さて写真によれば天保の石碑には、
「
[752] 天保の石碑には 川勝政太郎が判読できなかった文字も書かれていますが、 天保当時は判読できたのでしょうか、 それとも推測が含まれるのでしょうか。 「年」と「歳」、 「正安二年□」 も諸説少しずつ違っていますが、実物にはどう書かれていたのでしょうか。
[753] さて、これらどの釈読を採用するとしても、 仏滅年の解釈にはあまり影響がなさそうです。 干支が庚子と書かれていたなら、 2年が実は3年や4年という可能性はないことになります。 ただし川勝政太郎が干支を「□」としたことには注意が必要です。 天保当時既に年数と干支年が判読困難で、 かろうじて2年と読んで干支年を推測した可能性も出てきます。 (3年辛丑、 4年壬寅なので庚子とはかなり字形が違います。 誤読だとするならほとんど判読できなかったということでしょう。)
[931]
顯淨土眞實敎行證文類
(教行信証、日本元仁元(1224)年草稿)
は、
末法灯明記 (>>697)
を引用しつつ >>933, >>935、
周穆王51年壬申から日本元仁元(1224)年
[936] 存覚は、 教行信証 の注釈書 六要抄 で、 2183年でなく2173年γを書き誤ったものではないかと指摘しました。 日本延文5(1360)年庚子が2309年としました。 γ >>934, >>914
[720] 概数ながら仏暦γで数えたとみられる例がいくつか知られています。
[721]
2000余年や2200余年と年数を明示しない金石文 (>>720)、
源平盛衰記 (>>894) >>700 p.
[722]
こうした現象は、
末法以前こそ、
末法の到来を恐れてその年代を明確にする必要があったものの、
末法に入って時が経つに従ってそれを明らかにする必要性が認められなくなった結果と考えられています。
>>700 pp.
[777]
μ
に基づくと考えられる
>>700 p.
[788]
当時の通説γではなくμを採用した理由は不明ですが、
μでは未だ末法に入っていないことになるためではないかとの推測があります。
>>700 p.
[779] 仏法伝来次第 は、 日本治承4(1180)年以後成立とされますが、 支那の元号や日本の元号の他に仏暦を使って日本伝来以前の時期を表していました。 次のようにありました >>778。
[786] このうち漢永平7(西暦64)年が600年中とする (>>784)
のを601年から699年の範囲とすると、
仏滅は紀元前537年から紀元前635年となり、μがこの範囲に入ります。
>>700 p.
[712]
日本への仏教公伝
(日本書紀によれば西暦552年)
を1200年余とする (>>785)
のを1201年から1299年の範囲とすると、
仏滅は紀元前747年から紀元前649年となり、
範囲が少しずれてしまいます。
>>700 p.
[787] 同じ文章中で矛盾した数え方が混在しているのは、 仏暦が一括して計算して求められたものではなく、 本書またはその元になった書物にある値をそのまま引き継いだからでしょう。 仏滅何年の表記が一定していないのも、 ただの文章表現上の揺れではなくネタ元の表記に引きずられたのかもしれません。
[713]
久保常晴は後者 (>>712) に言及しつつも前者 (>>786)
より紀元前608年説μがあったものとし、
末法灯明記 (>>697)
所引
魯氏春秋 (>>699)
の壬子入滅説に源を発するのではないかと推測しました。
>>700 p.
[31] 日本の戦国時代-江戸時代初期頃に作られた年代対照表 新撰三国運数符合図 >>13, >>258 は、 天竺について釈迦の死後を佛滅後何年と表していました。 γ
[32] 神武天皇の元年 (西暦-659年) は「二百九十年」でした。 明正天皇の元年たる寛永7年庚午 (記載された最終年、西暦1630年) は「二千五百七十九年」でした。 >>30
[677] 江戸時代に作られた長暦 皇和通暦 の早稲田大学 Webサイト公開本に、 仏暦の書き込みがありました >>679。
綏靖の三一年と三二年の中間やや三二側の欄外に、 「釈迦入滅ヨリ三百 九十九年メ」 (縦書き) と黒字で書き込まれていました。
その直下、年数欄内の「三一」と「三二」の間に、 「此年孔子生 周霊王卄一年」 (縦書き) と朱字で書き込まれていました。 年数の「三一」の上、 朱字の「年孔」 の右側に朱書の縦線があって、 31年を指しているように思われなくもありません。
[680] 綏靖天皇31年は-550年 (紀元前551年)、周霊王21年です。γ 綏靖天皇32年は-549年 (紀元前550年)、周霊王22年です。η 現在孔子の生年は-550年 (紀元前551年) または-551年 (紀元前552年)とされているようです。 書入者は31年γを意図していたのでしょうか。
[664] 明治時代から昭和時代前期には、 引き続き一部で北伝系仏暦が使われました。
[596] 昭和時代前期には、皇紀が流行しました。 昭和15(1940)年には紀元2600年記念行事が国を挙げて実施され、 仏教界も例外ではありませんでした。 現在でも、例えば街中の地蔵台座の紀年で見かけることがあります。 (仏教以外では鳥居などにみられます。)
[597] 昭和時代中期には南方仏紀2500年の記念事業が開催されました (>>523)。わずか十数年の間に2600年から2500年に100年逆戻りするとは、 当時の人はどう思っていたのでしょうか。
[598] 読売新聞 のアーカイブで検索すると、 「仏暦」 の初出は タイの作家たち 盛んな創作活動、戯曲も, 岩城雄次郎, でタイ暦としての紹介とみられます。 以後もほとんどはタイ暦とみられますが、 [京都の千二百年]山背の建都(上)延暦は末法か, 林屋辰三郎, のようにそうではないとみられるものもあります。 ミャンマーにおける「仏暦正月」を報じた例もありました >>600。
[599]
[政治考現学]内外党首選び事情 新進党、ユニークな開放型「実験」,
は
「
《各国の党首選びの例》
◆タイ
仏暦2524年政党法で「総会にお
[601] 同じく「仏紀」 は初出が の衆議院本会議記事、 続いて 「仏紀二五四一年、秋」, 吉岡生夫, (題名が掲載当時を指すとすれば、α)、 と2例しかみつかりません。 「仏滅紀元」は1件も見当たりません。
[1290] 国立国会図書館デジタルコレクションによると (その蔵書の性質によるのかもしれませんが) 近代には仏教書で「仏滅後何年」と書いたり、元号や皇紀や西暦と併記したりして仏教関係の出来事の時期を書いたものが大量にありました。昭和時代後期になるとそうした書物は少なくなっていき、学術研究で引用や簡単な説明で言及されるもの中心に変わっていきます。
[1309] 現代仏教 11(111);2月號, 大雄閣, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/11185606/1/21 (要登録)
[1310] 世界仏教 5(4), 世界仏教協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3556916/1/28 (要登録)
[48] 現代日本では、一般社会と同様に日本の元号、 西暦、その併記がよくみられます。 一般社会よりはやや日本の元号を使う傾向が強いと思われます。
[49] それらに加えて仏暦も使われます。 仏暦の利用度は個別の寺院によって様々なようで、 まったく使わない (少なくてもWeb上には痕跡がみられない) ところが多いですが、 年始など特別な日に紹介する程度のところや、 カレンダーには記述しているところもあれば、 少数ながら日付表記にまで積極的に使っているところもあります。 ほとんどの場合、日本の元号、 西暦、併記の3種のいずれかとの併記ですが、 仏暦が先のこともあれば、仏暦が後のこともあります。
[50]
多くの場合、日本の元号、西暦、仏暦のどれを使うかに統一された方針はみられず、
同じ文書内でも混在することは珍しくありません。
仏教界全体、あるいは宗派ごとの統一的な方針もない、または強制力の弱いもののようです。
(仏暦が使われ得ることを除けば、一般社会の状況と同じです。
[109] 日本人の多くは仏教徒ですが、仏暦の認知度はかなり低いとみられます。 Web で検索しても、むしろタイ暦としての方が知られているようです。
[526] 現代日本の仏教で仏暦を扱う場合、 αが多く、 他にβεγηθιがみられます。 曹洞宗を中心にδがみられ、仏紀と呼ばれています。 この他、実用されるものか誤記か判断が難しい、 1年程度ずれた用例が数件みられます。
[527] 昭和時代中期には、 東南アジアの影響でβが使われ、 仏紀や南方仏紀と呼ばれていました (>>524)。 主流の呼称が仏紀から仏暦へと移行したのは、 キリスト紀元の一般的な呼称として西紀が衰退し西暦に統一されたことと合わせて考える必要がありそうです。
[528] 日本国内で仏暦各種が使われているとはいえ、 補助的なものが多いようで、日常的な利用はみられません。 多数のバリエーションがあるのも、 他の寺院との情報交換に供されていないからこそでしょう。 各バリエーションの利用が古くから続く伝統なのか、 近年 (例えば全日本仏教会のα採用後) 広まったものかは不明です。
[535] 日付表記に実用する紀年法としてのγは現代ではほとんどみられないようですが、 2ch などに投稿される仏滅以来の年数に言及した記事では、 γらしき数値がみられることがたまにあります。
亡くなった年(前544年)を仏暦の元年と考えているのはミャンマーやスリランカであり、亡くなった年の翌年(前543年)を元年と考えるタイ、カンボジア、ラオスとは、仏暦における元年が1年ズレている。
β、α
一周忌と一回忌では、意味が異なるということだ。
ほかにも、人は0歳で生まれて1年経ったら1歳になるが、小学校に入学するときは0年生ではなく1年生が最初となる。
0を基点とするか、1を基点とするか。
全日本仏教会も、紀元前544年を仏暦の元年としている。 他方、私が属している曹洞宗では、教科書『仏教概論』に記載してある入寂の年は紀元前383年。 また、同じ曹洞宗が毎年発行している手帳には、西暦2018年の手帳になぜか 「仏紀 2584年」 と記されている。
これは入寂の年を紀元前486年とし、なおかつ入寂ではなく降誕の日、つまりはブッダが生まれた日を紀元として考えた仏暦である。 入寂年の計算式を示すと、
2584年-2018年-80年=紀元前486年
となる。 80年というのは、ブッダが亡くなった歳の年齢。 ブッダは80歳で亡くなった。 したがって、紀元前486年から80年遡り、ブッダの生まれた年を計算すると……
486年+80年=566年
δ
[1218] なお、 日本国鹿児島県奄美地方や日本国沖縄県には、 仏教が日本本土ほど普及していません。 そのためなのか、 仏暦の用例も確認できません。
[1307] 日本の仏教諸派の中では日蓮の系統の宗派が特に仏滅からの年数に関心を持っているように見えます。 日蓮がいくつかの文書で仏滅から当時までの年数を書いていたことに関係しています。
仏滅後今に二千二百二十二年也
文永十年太歳癸酉八月三日
γ
一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず。
建治二年[太歳丙子]七月二十一日 記之
γ
而るに仏御入滅ありては既に二千二百二十七年なり。
仏滅後既に二千二百二十七年になり候に、
弘安元年戊寅九月六日
γ
神世十二、仁王九十代、仏滅後二千二百余年未曾有の大瑞也。
文永八年十一月二十三日 日 蓮花押
建治元年(1275.06) 真筆あり
仏滅後二千二百三十余年が間、いまだいでざる大長星、いまだふらざる大地しん出来せり。
人皇八十五代後堀河院、東海道十五ケ国第十二に相当る安房の国長狭の郡東条の郷小湊片海人の御子息なり。
仏滅度後二千百七十一年の時代貞応元年壬午二月十六日御誕生なり、八十七代四条院の御宇天福元年御年十二にして清澄山に登り給ひて御師匠は道善の御房、同御宇に延応元年十八才にして御出家あり十月八日なり、御学文の次第、初には浄土宗本山に於て御談義と云云。
日本貞応元(1222)年が2171年 γ
[1057] 身延山大学 リポジトリ, NetCommons, https://minobu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=536&item_no=1&page_id=13&block_id=21
PDF 101頁
[1041] Vol.9 , No.1(1961)039岡田 榮照「日蓮の遺文及び曼荼羅に現れたる佛紀」.pdf, , http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E5%8D%B0%E5%BA%A6%E5%AD%A6%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E5%8D%B0%E5%BA%A6%E5%AD%B8%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%B8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%AC%AC9%E5%B7%BB%E7%AC%AC1%E5%8F%B7/Vol.9%20,%20No.1(1961)039%E5%B2%A1%E7%94%B0%20%E6%A6%AE%E7%85%A7%E3%80%8C%E6%97%A5%E8%93%AE%E3%81%AE%E9%81%BA%E6%96%87%E5%8F%8A%E3%81%B3%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85%E3%81%AB%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%82%8B%E4%BD%9B%E7%B4%80%E3%80%8D.pdf
[1042] Vol.45 , No.1(1996)039石川 力山「『末法燈明記』と道元禅」.pdf, , http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E5%8D%B0%E5%BA%A6%E5%AD%A6%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E5%8D%B0%E5%BA%A6%E5%AD%B8%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%B8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%AC%AC45%E5%B7%BB%E7%AC%AC1%E5%8F%B7/Vol.45%20,%20No.1(1996)039%E7%9F%B3%E5%B7%9D%20%E5%8A%9B%E5%B1%B1%E3%80%8C%E3%80%8E%E6%9C%AB%E6%B3%95%E7%87%88%E6%98%8E%E8%A8%98%E3%80%8F%E3%81%A8%E9%81%93%E5%85%83%E7%A6%85%E3%80%8D.pdf
[1303] 日蓮宗系各派では 「仏滅度後二千二百二十余年」 と 「仏滅度後二千二百三十余年」 の計算ないし筆写の違いが現在に至るまで相互の対立点となっています。
総本山第六十世阿部日開(日顕の実父)は、昭和三年の登座直後、本尊を間違って書写した。「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべき讃文を、「仏滅度後二千二百二十余年」と書写してしまった。
これが、いわゆる“御本尊誤写事件”だが、誤写された本尊は何体であったかは不明である。
その結果、阿部日開は過ちを認め、訂正文を書き、自署花押したのである。
「御本尊二千二百二十余年並に二千二百三十余年の両説は、二千二百三十余年が正しく、万一、二千二百二十余年の本尊ありとすれば後日訂正することとする。依って弟子旦那は二千二百三十余年の本尊を信ずべきものである。 以上 六十世 日開 花押」
この相伝書によれば、まぎれもなく「仏滅度後二千二百三十余年」と認めることが正しい。そこには、議論の余地はない。
宗祖日蓮大聖人の御立場においては、年代によって「仏滅度後二千二百二十余年」「仏滅度後二千二百三十余年」とお認めになっている。しかし日興上人に連なる代々の法主においては、「仏滅度後二千二百三十余年」が正しい書写であることが、この相伝書より明らかとなるのである。
[1304] >>1302 「仏滅」で検索するといくつかの寺の棟札に 「仏滅度後二千二百二十余年之間」云々と書かれているものが掲載されています。
[1279] 日蓮宗の一代五時鶏図に仏滅後の年数らしきものがあります。 この資料は
本抄は、釈尊一代五時の説法の次第と中国・日本に成立した諸宗派との関連、また釈尊の立場と諸宗の立てる諸宗が一目瞭然に見渡せるように書かれたメモ、あるいは覚書といってよい。
ところで本抄御執筆の年代については文永9年(1272)、文永10年(1273)、建治元年(1275)説があり、したがって、大聖人51歳、52歳、あるいは54歳の御時の著作ということになる。おそらく、若い弟子たちを教育するための教材として構想されたものではないだろうか。御真筆は西山本門に現存する。
というものです。 >>1278
となっています。
竜樹の出現は仏滅後六百七十八年である。
と訳しつつ
「仏滅後六七八」とあるのは、竜樹の生涯を表すと思われるが、御真筆には「仏滅後三六八」とあり、意味は定かではない。
と解説しています。
[1286] 漢数字の位取り記数法はこの時代に似つかわしくないように思われます。 実際本書の他の年数は「十」が入っています。
[1287] この時代の日付表示と解釈するなら 「仏滅後三六八」は仏滅後3年6月8日の略記とみなすのが妥当なのでしょうが、 すると時代が全然違って釈迦の死後すぐということになってしまいます。
[427] 日本の仏教の代表的な組織である全日本仏教会は、 世界仏教徒連盟設立初期の会議で、 「仏旗、仏紀の普及」 を日本から提案し、決議として採択されていました (>>214)。全日本仏教会設立当初から仏旗の普及に努めたらしき形跡が機関紙からうかがえます。 しかし仏暦については、2500年記念事業 (>>523) を除き、不審なくらいに言及が見当たりません。
[463] 機関紙の初期は基本的に昭和の元号を使っていて、 西暦は国際行事関連でたまに使われることがある程度でした。 国際会議の報告中で昭和が使われることもありました。
[115] 機関紙 全仏 はまで昭和の元号を使い、 表紙の号数も昭和の元号年 (年数のみ) にしていました >>116 が、 から突如西暦年で となり、 表紙は2桁西暦年となりました >>117。
[118] 変更の説明は見当たりませんが、 このタイミングは昭和天皇のご病状の悪化と関連していることが明らかです。
[119]
西暦年化された
も、
本文中には「昭和
[122] 年度の呼称は「昭和六十三年度」 >>116 のように従来元号でしたが、 号掲載の理事会の議案紹介は 「一九八九年度」 >>121 と西暦年でした。 しかしその 1989年になると「平成元年度」 と元号に戻り、以後元号年表記のまま続けられたようです。 (令和改元の平成31年問題と同じ、延長年号を忌避したものでしょうか。)
[120] 西暦年化以後、発行日や第3種郵便物認可の日も西暦年表記になりました >>117。一般の雑誌などは西暦年メインで使っていても法的手続きである認可日は元号とすることが多いように見受けられるので、 ここまで徹底しているのは珍しいです。 その割に本文に元号が残存しているのは、 機関紙の編集部と他の部門の温度差でしょうか。
[125] 全仏 「仏暦2537年8月 (1994年)」号から、 表紙に仏暦αが併記されるようになり >>124、 (問い合わせがあったのか) 後にタイ方式に合わせたものだと説明されました >>123。 αを選択した理由は説明されましたが、 併記することにした理由は説明されませんでした。 また、 表紙以外での利用は確認できません。
[126] この決定が機関紙の編集部門のものなのか、 全日本仏教会全体のものなのか不明です。 一般にはよく全日本仏教会の決定として参照されているようです。 (機関紙は組織の顔ですから、判断が取り消されていない以上、 どちらにしても組織全体の決定とみて良いのでしょうが。) 全日本仏教会の採用している方法だから、という根拠でαを採用するものもみられます。 一方で全日本仏教会の傘下でも他の方式を採用しているところもみられますから、 拘束力はそれほど強くないようです。 (元号ではなく西暦を優先する決定も、傘下で広く追随されているとはいえません。)
[524] これより前、 仏暦αが全日本仏教会や日本国内の寺院で利用された事例があるか不明です。 西暦1978年に日本で開催された世界仏教徒会議では、 仏暦βが使われていました (>>374)。 西暦2008年に日本で開催された世界仏教徒会議では、 仏暦αが使われていました (>>413)。
[129] 全日本仏教会の西暦を重視し 「「日本国の元号」を全く無視している」 >>128 方針を批判する人も複数いるようです。 そうした人達は、 日本の仏教を代表する全日本仏教会の反政府的な活動に疑問を持っているようで、 特定の集団の思想で組織が動かされているとみているようです。
[130] その当否はともかくとして、 元号を「全く」無視しているというのは事実誤認でしょう。 西暦への統一は徹底していませんし、 全日本仏教会のこの方針が日本の仏教界に強い影響を与えているようにも見えません。
[132] ためしに現在どのように日付が記載されているか、 機関紙 全仏 の 「No.644」 号を見てみます。 >>131
[133] ここから推測できるのは、 機関紙の編集部門は西暦を使い、 全国仏教会の活動でも西暦が主として使われるものの、 編集部門以外の部門では徹底しておらず、 傘下の各組織もそれぞれの方針を持っていて、 それをそのまま受け入れる編集方針を持っているのであろうということです。 元号を積極的に使わないとしても、排除しようとする意思がないことは、 理事長の発言からもうかがえます。 仏暦は依然併記されていますが、 それ以外では利用の痕跡がありません。
仏暦の表示について
四百号より本誌表紙に「仏暦二五三七年」 と表示するようにいたしました。
仏暦には諸説がございます。中村元氏の紀 元前三八三年が、研究者の間では有力な仏滅 年です。これによりますと今年は二三七七年 ということになります。ところが、世界的に 最も普及している仏暦は、今年を二五三七年 とするものです。
W F B 本部のあるタイでは 公文書にもこの仏暦を使用しています。全仏 はW F B の日本センターでもありますので、 この「仏暦二五三七年」を採用しました。
α
6 ページ ... 三十七回全日本仏教徒会議が、仏紀ニ五四〇年二九九七年)十月十六日、神戸市 において開催されるにあ
α
「仏暦」使用の全日本仏教会を撲滅せよ
[150] 日本の宗派の1つ、浄土真宗の真宗大谷派 (東本願寺派) は、 西暦1999年の内局通達で、 宗務機関文書における 「西暦 (元号)」 という表記法を定めました。 >>3
[151] しかし宗派に属する寺院まで徹底されてはおらず、 他の宗派の寺院同様、いろいろな表記がみられます。 西暦を積極的に使うことを高く評価する者がいる >>5 一方で、仏暦αを使い普及させようとする者もいます >>3。
https://web.archive.org/web/20080518100420/http://www.oct.zaq.ne.jp/vows/syoutoku/syoutoku011.html
一方、我が真宗大谷派は公文書に『元号』ではなく、『西暦』を使っている。それに対して、「伝統教団が何故?」とか「仏暦にしては」といった声を聞くことがあるが、それらは申しわけないが、浅薄なナショナリスティクな考え方と言わねばならない。
もっと大きく物事を見てみよう。なるほど、日本は、元号を用いてきたが、それは元々、中国文化である。また、明治までは、天変地異があったり、大事件があると、新たな出直しとして元号が変えられた。天皇の即位から死亡までを、ひとつの元号で表わすなんてことは、明治の造作にすぎないのである。仏暦はどうだろう。個人が趣味的に用いるにはよいと思うが、年代のはっきりしないものを基準に用いるのはいかがなものかと思う。世界の多くの人々と通じる基準を用いる事が世界の中の自分の位置を明確にする事につながるのである。季節との違いが、そこにはある。
―――以上 『顛倒』04年11月号 No.251より―――
今年は仏紀二五五七年になります。年号の数え方は般涅槃を元年にしているので、お釈迦さまが涅槃に入られて二五五七年経ったことになります。
β
1954年、釈尊が入滅して2500年目に当るため、ビルマではこれを記念して第6回の仏典結集会を開催しました。
β2年ずれ
日本上座仏教修道会では、淨心庵・瞑想堂開庵25周年にあたる仏暦2561年11月3日に三宝の師である、バッダンタ・ウ・ケサラ大長老とバッダンタ・ウ・ニャーヌッタラ大長老のお二人の大恩師を導師として、総勢20名の比丘サンガによって、シーマー(戒壇)認定儀式を行いました。近い将来その土地の上にシーマー(戒壇)の建物と、仏塔を建立いたします。
日本上座仏教修道会のシーマー(戒壇)は、ちょうど20年前の1996年7月28日(日)、ミャンマー国より、バッダンタ・ウ・ケサラ大長老とバッダンタ・ウ・ニャーヌッタラ大長老を含む8名の比丘サンガを迎え、シーマー(戒壇)の認定儀式を行って以来、尊く存在し続けました。
[1272] 在日朝鮮人を中心に信仰される仏教系の寺院である朝鮮寺は、 日本国大阪府を中心に日本各地にあります。 仏教に朝鮮や日本の土着信仰が習合した教義となっています。
[1273] の調査では、 日本國大阪府大阪市生野区の曹渓宗の寺の経歴に 「仏紀2522年(?)」 が出現しています。 >>1174
[1274] 「(?)」とある意味は明らかではありませんが、 報告者がいつを指すか明らかにし得なかったということでしょうか。 「仏紀」 が使われていたことは確実でしょうが、なぜ比定できなかったのか疑問は残ります (当人ないし周囲の者に聞き取りはできたはず)。
[1175] 仏暦βだとすると、2522年は西暦1978年にあたり、 経歴に矛盾は生じません。
[1276] 曹渓宗は大韓民国の宗派の1つです。 在日朝鮮人の仏教にはいくつかの系統がありますが、 そのうち大韓民国の仏教界と結びつきが強いものに属するようです。 >>1174 すると仏紀は大韓民国の曹渓宗から伝来したものでしょうか。
[1275]
に日本国生駒山地の朝鮮寺を訪問した
>>1270
という者が現地で入手したカレンダーには、
「
[1277] この朝鮮寺が大韓民国の仏教界と交流があるのかはわかりませんが、 カレンダーには大韓民国の国旗で祝日が示されているので >>1271、 朝鮮民主主義人民共和国系ではなく大韓民国系であることがわかります。 仏紀も大韓民国の系統に連なり使われているものでしょうか。
(17)禅法寺
[曹渓宗 韓公和 (法名禅法華、公照、女性) 生野区中川西 2-25-6]
[住職経歴] 年齢50代。済州道城山浦に生まれすぐ大阪に 来る。 1972年頃から家で仏を祭る。 1975年家を寺にする。 1981 年金峰山より公照の名をもらう。仏紀2522年(?)に清光寺(2) で菩薩受戒。
[創立] 1975年家の二階を直し寺にする。
(調査:飯田、’88 12/2)
タイでは、とくにお役所関係では西暦ではなく仏暦を使ってますよね。 占いでも聞かれるので、生まれた曜日・時間とあわせて、 自分の生まれた年の仏暦も覚えておくと何かと役立ちます。
で、この仏暦、てっきりタイでだけ使っているのだと思っていたのです。
しかし、今日立ち寄った都内某所のお寺で、こんな貼り紙に遭遇!
恭賀新春
仏暦二五五〇年
〓〓 画像加工消去 寺
α
お寺ではもっぱら西暦は使わず和暦を用いる。西暦を用いて文書を書くと、先達から批判が来ることさえある。西暦は西洋の暦であり、しかも、イエス・キリスト生誕の年代がベースになった暦だから、お寺にはふさわしくないというのがその根拠である。
ただし、和暦よりもふさわしい暦がある。釈迦の没年から起算する仏暦である。仏教界で発行されるカレンダーなどには、和暦や西暦の横にしばしば仏暦が併記される。ちなみに今年は仏暦2562年である。仏暦を用いると仏法が脈々と受け継がれている趣が出て私は好きだが、残念ながら日本では現実的な暦として通用しない。さらには、近代仏教学による研究では、釈迦の没年を紀元前383年(西暦)とするのが有力であり、そうすると暦が160年ほどもずれてしまう、という問題点もある。
α
さて、改元である。仏教界でこれをどう祝うか。和暦はあくまで世俗社会の暦であるから、お寺に改元は関係ない。しかし、仏教が伝来して千数百年もの歳月が経つから、お寺文化と皇室文化をいまさら切り離すのも無理である。
いっそのこと改元を盛大に祝うのも一計かもしれない。だが、
8月のご案内 (B.E. Buddhist era 仏暦2555)
「念仏はなぜ難信なのか」(在家仏教講演 2011.1より)(第1回)
β
[197] 皇紀二千五百九十六年 野生司香雪 / A.D.1936 Kosetsu Nosu | Yusuke Kawasaki | Flickr, https://www.flickr.com/photos/u-suke/3155960623
野生司が絵の具の色を奪うコンクリートの灰汁と格闘していたとき、突き止めたのは、日本の墨の、絶対に色あせぬ事実だったという。その墨をもって、画業の終わりに記されたのは、次のような言葉であった。
此壁畫ハ大菩提協會ヨリ日本政府を通ジテ依嘱セラレ 佛紀二千四百九十八年ヨリ同二千五百二年ニ至リテ完成ス
皇紀二千五百九十六年
>>197 写真には英訳もあり。インド語 (ヒンディー語?) 訳もあるが途切れている。 英訳では年号はそれぞれ 「1932」δ、 「1936」δ、 「A.D. 1936」。
日本では昔から、神武天皇が即位し日本が建国された年(西暦換算で紀元前660年)を基準とする「皇紀」(今年は2679年)が用いられたり、釈尊の没年を基準とする「仏暦」(諸説あるが、伝統的に用いられてきた仏暦では今年は2968年)が用いられてきた。日蓮宗では、本年は日蓮聖人ご降誕798年、立教開宗767年、ご入滅738年であり、こうした歴年数も大切にされている。
(論説委員・柴田寛彦)
γ
浄土真宗の旅
成道の地 ブダガヤ (インド)
今年は仏暦二五三三年(南方暦)南無阿弥陀仏のみ教えは、長い年月をかけて、インドからヒマラヤを越え、ゴビを渡り中国で花開き、わが国へ伝わった。教えを伝えた方々のご苦労ははかり知れない。
[94] これが何年か確定できる情報がない。α型なら西暦1990年。 β型なら西暦1989年。
38/3/3
阿弥陀経のふるさと・祇園精舎
[95] 年月日のようにみえるが解釈が難しい。 仏暦下2桁年号なら前段の5年後。 昭和38(西暦1963)年は文脈上不自然、 西暦1938年もあり得ないだろう。 この後次のような項目が続くところから、 「第38号平成3年3月」 の意味の可能性が高いか。
七高僧第二 北インド 天親菩薩 41号平成4年3月
七高僧第四 中国 道綽禅師 45号 平成5年7月
46号 平成5年12月
48号 平成6年7月
平成7年3月
52―7―11
[96] これも「第52号平成7年11月」と解するべきか。
このように、仏歴には諸説があり、そのために一般化もされていません。もし、宗派で仮に特定して使用したとしても西暦を併記しなければなりたちません。
私たちは、西暦を世界共通の国際歴として解釈しています。国際化が進む中で、教団としても、広く世界を視野に入れた活動をしていかなければならないとの立場からです。また、事実、浄土真宗は海外にも多くの拠点を持っています。浄土真宗のみ教えの普遍性を考えましても世界共通の国際歴の採用は大切なことだと考えます。
来年は、西暦1999年になりますね。9が並ぶといよいよ「ドン詰まり」の感を深くします。歳末気分ならぬ「世紀末気分」が、あちこちに漂っているような気がしないでもありません。しかし考えてみれば、西暦というのはグレゴリオ歴のことで、キリスト教の年間行事に合うように作ってあります。クリスマスの一週間後に一年の始まりがあるのは、そのためなのだそうです。
ちなみに仏教では、仏紀という年号を使います。来年は仏紀2564年、つまり26世紀のまん真ん中であります。平成の年号ならば若々しい11年です。余り世紀末という漠とした空気に囚われずに、一人ひとりの心と言葉を見つめて暮らしたいと思います。
θ
平成11年(仏紀2564年)2月の行事ご案内
こういう時だけ仏紀を併記するのも唐突ですが、暦も色々あって、世界中が世紀末という訳でもないということを言うために、併記を続けたいと思います。
θ
平成十二(庚辰<かのえたつ>)閏年 西暦二〇〇〇年、仏紀二五六五年 元 旦
θ
「コンピュータ 越すに越されぬ 二千年」という川柳を面白く拝見した覚えがあります。まさに今、世界中が固唾を呑み、無事に年越しができるかを見守っているという、希有な年明けとなっている模様であります。
昨年はミレニアム(千年間、至福千年)という耳慣れない言葉が急に飛び出し、話題となりました。それは西暦、つまりグレゴリオ暦を生み出したキリスト教の中では、きっと特別な意味で語られる言葉なのだと思います。しかし、地球上のすべての人が今年を二千年目と思っているわけではなく、平成ならば十二年、仏暦では二五六五年ですし、調べた所では、イスラム暦なら二六六二年、ユダヤ暦では五七六一年に当たっているようです。皆それぞれ、自分たちにとって最も大きな意義のある出来事を紀元として、歳月を計っているわけであります。してみると年号というのは、あたかも滔々と流れる大河の水に、それぞれ持ち前の「万年筆」でインクの染みを付けているようなものなのではないかという思いがいたします。
世の中には色々な「時間」があるものです。仏教の歴史観は、「無始よりこのかた」と言い、「未来際を尽くすまで」と言って、世界の初めと終わりを説きません。仏暦で何年と数えるのも、おそらく西暦に影響された結果であって、インドには全く異なる時間の物差しがありました。
平 成 二 十 二 庚 寅 年
西暦二〇一〇年 仏暦二五七五年 元 旦
θ
平 成 二 十 三 辛 卯 年
西暦二〇一一年 仏暦二五六五年 元 旦
2006年11月15日(水)「しんぶん赤旗」
入滅を紀元とする暦法は、仏滅紀元といって、仏教徒の多い東南アジア諸国で使われています。
日本でも仏暦を重んじている僧侶が書く位牌(いはい)などに使われる場合がありますが、一般化していないために手紙などでは西暦(キリストの生誕年といわれている年を紀元元年とする暦法)と併記することが多いようです。
仏暦には入滅を元年とする暦法とその1年後を元年とする暦法の2種類があります。どちらも入滅を西暦で紀元前544年としています。この釈迦没年は仏教伝承のなかで流布されたもので、入滅を元年とするか、1年後から数え始めるかも、ゼロの概念を知っていたインド文明の影響とか宗教的な解釈の違いとかの諸説があります。
入滅を元年とする仏暦はスリランカやミャンマーなどで使われ、入滅1年後を元年とする仏暦はタイ、カンボジア、ラオスなどで使われているようですが、世界的な交流がすすんでいる現在ではこれらの国で西暦も通用しています。
全日本仏教会の機関誌『全仏』には、1年後の立場で仏暦が書かれ、西暦を添え書きしています。入滅1年後を元年とすれば、西暦に543(こよみ)を足すと仏暦になる、と語呂あわせでいわれます。日本の仏教徒のなかには、駄洒落(だじゃれ)のような計算方法をきらい、伝承された入滅年を元年として、今年は仏暦2550年とこだわる人もいます。(平)
〔2006・11・15(水)〕
入滅α、 1年後β、 仏暦2550年β
zen, 2012/3/3 19:04:05
仏忌(ぶっき) 2579年 仏陀の涅槃から算定する中国暦に基づくといわれる。
χ
仏成道暦(ぶつじょうどうれき) 2544年 仏陀の誕生をB.C.566年、般涅槃を同486年と定めたもので、成道に重点を置いたもの。
ε 1年ずれ
仏誕(ぶったん) 2578年 仏忌と同じだが、1年の表記上のズレがある。
δ
仏暦(ぶつれき) 2556年 タイ国制定の仏暦。仏暦2455年(西暦1912)にタイ国で制定した仏暦で、日本の元号に相当する。西暦と同様に1月を新年度とする。
β
制定 α
仏暦 2557年 ブッダ暦。ウェーサーカー月が新年度になりスリランカ、ミャンマーなどがこれに従っている。ただし、2548年とする説もある。
β 1年ずれ
異説 ε 5年ずれ
仏紀(ぶっき) 2557年 上記の仏暦2549年を仏紀に替えた表記。仏暦、仏忌、仏誕などを仏紀と表現することもある。
β 1年ずれ
B.E. 2556年 英語によるBuddhist eraの省略表記。
β
全国大会意見発表(要旨)
2、九州ブロック代表 熊本県第48番 神照寺住職 岩崎哲秀
日本の仏教興隆を願い、全日本仏教会において各宗派の仏紀(仏暦)を調査し「日本仏紀」(案)を制定していただきたい
〈回答者:森副理事長〉
仏紀・仏暦にはさまざまな説明があり、書に残すことはありませんでした。調べることは可能かと思いますが、この件につきまして、全日本仏教会に委ねたいと思います。
「仏暦(ぶつれき)」は「仏滅紀元(ぶつめつきげん)」とも表現されます。
仏暦のことを、「タイの仏暦」・「タイ暦」ともいわれることもありますように、南伝仏教による入滅の年を仏滅紀元元年としています。
日本でもどういうわけか、西暦紀元前543年が仏滅紀元元年として、仏暦をカウントしています。
全日本仏教会は1994年10月の機関誌「全仏」第402号にて、世界的に普及している仏暦(没年を西暦紀元前544年)そしてタイの公文書でも使用されている仏暦を採用するように報告しています。
使っている人もいれば、使わない人もいる
そりゃ当たり前でしょうと思うでしょうが、日常生活において元号が使いにくいように西暦による考えが浸透している現代では、あえて仏暦を使う必要がないのです。
しかし全く使われていないかと言えば、そんなことはありません。
ですので他の紀年法が誕生や即位などを記念するのとは異なり、仏教を開かれたお釈迦様の亡くなられた年を起点とする仏暦とは、仏法を聞きいただいていく後の私たちにとって「最大のご縁」であり、「最大の関心」となるのだと思います。
普段は西暦や元号を使うのですが、仏教行事をする時には仏暦も採用し、心の中の関心事として仏法のご縁を届けられた仏様に思いはせるのだと感じます。
仏暦と皇紀は、西暦元年からの差は「543年」と「543年+117年」です。
「543・117」を「こよみ・いいな」で覚えてみて下さい。
仏暦のことを”Bhudda Era”と表現します。eraには「時代、時期、紀元」の意味があります。
省略した形は“B.E.”となります。
ですので令和2年なら、仏暦はB.E.2563、西暦はA.D.2020となります。
α
しかし西暦2020年(令和2年)を仏暦2563年とせずに、仏暦2586年と表す人もいます。
δ
マイナーな「西暦の数字+566」の誕生年が基準の仏暦を使用するお坊さんもいます。
曹洞宗では釈尊誕生の年を起点としているようだ
参考サイト『曹洞宗の「仏紀」の数え方https://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/90b8213ccea93eec6c1f1185cf02f2c7(つらつら日暮らし)』
この曹洞宗のお坊さんのブログ記事を参考にすると、明治の仏教学者高楠順次郎の「仏誕」に数字を合わせているようです。
【2.皇紀・仏紀・仏暦変換】 西暦(新暦)と皇紀・仏紀との相互変換を行なえます。皇紀とは、日本書紀に記される神武天皇即位の年を元年とする紀元であり、仏紀は釈迦の没後1年後を元年とする暦です。
西暦 [ 794 ] 年
皇紀 [ 1454 ] 年
仏紀 [ 1360 ] 年
仏暦 [ 1336 ] 年
[525] 仏紀δ 仏暦ι
[1183]
日本の仏教系宗教団体の平等大慧会の教主梅本禮暉譽の経歴を書いた
Webページの年表に、
「仏紀」
欄があります。
それによると元年は
西暦-839年 (紀元前840年)
[536] 日本の代表的な掲示板サービスだった
2ch
は、
のエイプリールフールに当たり、
一部の板で仏暦を日時表示に利用しました。
西暦2005年が仏暦2547年でした。
ι
[127] 政治活動家?の中川陽夫は、 東洋暦と称して仏暦γを平成時代後期頃から使っているようです。 平成や令和と併記しています。それ以前は平成を使っていたようです。 >>533, >>534
東洋暦と西洋暦
西洋暦はキリストが誕生を紀元としている。
東洋暦は釈尊の入滅を紀元とする。
西洋暦は2012年
東洋暦は西洋暦紀元前949年2月15日を紀元と。
東洋暦は2961年
平成24年 6月 17日
中 川 陽 夫
[199]
世界仏教徒連盟は、
世界各国の仏教団体で構成される世界最大規模の仏教団体です。
総会である世界仏教徒会議は数年おきに各国持ち回りで開催されています。
[201] WFB の Webサイトは、 英語のページでは 「13 Feb B.E.2563 (2020) 」 >>202 など仏暦α型に西暦を併記しています >>200 が、 「Thursday 6 February 2020」 >>203 のように西暦単記のものもちらほらみられます。 タイ語のページでは、 「เสาร์ที่ 3 สิงหาคม พ.ศ. 2562」 >>204 (2562年8月3日土曜日)、 「๑๕ ตุลาคม พ.ศ. ๒๕๖๑」 >>205 (2561年10月15日) のように仏暦α型単記です >>206。 どちらも著作権表示は 「Copyright © 2015 THE WORLD FELLOWSHIP OF BUDDHISTS.」 と西暦年です >>200, >>206。
[209]
第1回会議
(25 May - 6 June B.E. 2493 (1950)、スリランカ)
の決議には「25th May 2493 (1950)」
とあり、
決議番号にはそれぞれ「2493 (1950)」と付されていました。
議事録には題名に「2493 (1950)」とあり、
本文に「26 My to 6 June, 2493」とありました。
>>208
これが当時そのままのものであれば、当初から仏暦α型が使われていたということになります。
ただ第1回を含む初期会議の決議録・議事概要記録の体裁や書きぶりは、
何年か経過してから改めての編纂を思わせます。
議事概要記録は何年か後に振り返るような文面です。
決議録も冒頭の説明文や決議番号
[207] 第1回会議の決議文には、日付表記は見当たりません。
[284] 第1回会議 (25th May 2493 (1950)) で仏暦の統一が議論されたとする説があります >>282 が、議事録からは確認できません。
[285] 世界仏教徒連盟の事務総長は、 第1回の文書に仏暦αで日付が記載されたとしました (>>277)。
[286] 初回から仏暦が使われていたとすると、 会期中または事前の準備段階で、 各国間で調整が必要になったことは想像できます。
[1102] 西暦1950年の第1回世界佛教徒友誼會で、 仏誕が紀元前623年、 仏滅が紀元前543年と決められたとする Webページがありました >>1107, >>1111, >>1099, >>1105, >>1134。 台湾で発行された仏教辞典 佛光大辭典 にも書かれていたようなので、 その出典は不明ですが、 それなりに根拠があるのではないかとも思われます。
[1108] 加えて、 仏暦は仏滅から起算すると決めたと説明する Webページもあります >>1111, >>1099, >>1134 が、その出典はまったく不明です。
[347] 第2回会議 (25 - 30 September B.E. 2495 (1952)、日本) で、 「Buddhist Era の普及」 が決議されました (RES. 9/5/GC 2/2495 (1952))。 それによると、 各国専門家会議を組織して Buddhist Era の疑問を研究し、 結果を次回会議に提出することとしました。 >>346 これが決議文中の仏暦を指す語句の初出でした。
[348] この回の他の決議には、 「the Third World Buddhist Conference to be held in 1954」 と西暦年が使われた例がありました。 他に、 「requests ... to compile as one of the enterprises to be undertaken in commemoration of the 2,500th anniversary of Maha Pari- nirvana of the Buddha Sakyamuni」 という形で来たる仏滅2500年への言及がありました。 >>346
[500] 専門家会議が実際に設置されたのか、 次回第3回会議の決議がそれを反映したものであるのかは、不明です。
[214] 第3回会議 (3 - 6 December B.E. 2497 (1954)、ビルマ) では、 「仏滅二千五百年記念事業」 >>147 「仏紀二千五百年記念事業」 >>147 (「the Sanbuddha Jayanti, the 2500th anniversary of the Passing Away of the Buddha」 >>210 (RES. 47/22/GC 3/2497 (1954))) の実施が決議されました。 決議文は実施期日を 「sacred year (B.E. 2500―2501)」 >>210 としていました。 全日本仏教会の会報はもう少し詳しく、 からとしていました >>147。 他の決議には「year 2500 B.E.」の表記もありました >>210 (RES. 27/2/GC 3/2497 (1954))。 2500年が西暦1956(昭和31)年ならβ、 西暦1957(昭和32)年ならαです。
[216] また、 仏陀の記念日を調査し世界的に統一された仏教暦を確立すべく専門家の特別委員会を設立することが決議されました >>210。 (この会議以外でも記念日の調査や各国の祝日化がたびたび決議されました。) この決議文では、宗教行事の日取りという意味の暦なのか、 経過年数や紀年法まで含んでいるのかはっきりしません。 当時の全日本仏教会の会報に掲載された報告には、 相当するとみられる 「仏教の降誕会、涅槃会、成道会等を一定の日に世界的に定める樣推進する」 との項目があり、前者のようにも思われます。 >>147
[349]
更に、仏教徒の統合や相互理解の推進も決議され、
その中に記念日を記入した暦書 (Buddhist Almanac) の出版や、
当年を2498年とする Buddhist Era β
の普及が含まれていました。
>>210 (RES. 52/27/GC 3/2497 (1954))
全日本仏教会会報にも
「日本提案」として
「仏旗、仏教紀元の普及推進に関する件」
>>147 が挙げられていました。
この決議本文の仏暦βと決議番号の仏暦αが矛盾することは明白で、
決議番号が後年に付されたものと推測される
[351] この回が決議文中の 「B.E.」表記の初出で、 β型の初出でもありました。
[211] 別の決議には 「the First WFB Conference in Colombo in 1950」 >>210 (RES. 44/19/GC 3/2497 (1954)) や 「in 1952」 >>210 (RES. 55/30/GC 3/2497 (1954)) や 「in 881 C.E.」 >>210 (RES. 56/31/GC 3/2497 (1954)) のように西暦年もみられました。
[1103] 西暦1954年の第3回大会で仏教国家が仏暦を紀元とすること、 西暦1954年を仏暦2497年とすることが決められたαと説明する Webページがあります >>1111, >>1099, >>1134。 出典は不明です。 (同じ頁が直前の段落で第1回大会で決められた (>>1102) とも書いていて、関係は不明です。)
[1109] 中文版 Wikipedia にも同様の記述がありましたαが、 仏滅が紀元前544年と決められたともありました。 第1回大会で紀元前543年と決められたとも書いてあって (>>1102) 矛盾しています。 しかも第3回で仏教国家が仏暦を紀元とすること、 西暦1954年を仏暦2497年とすることが決められたα ともありました。 >>1105 出典は付されていますが、その出典 Webページに該当する記述がなく、 真の出典は不明です。
[1104] なおその Webページはその仏暦を小乘佛曆と呼んでいますが (この呼び方は中文 (簡体字、繁体字とも) でままみられます。)、 仏誕の前は西暦 + 543 年α、後は西暦 + 544 年β >>1111, >>1099 と説明していました。 (一方で大乘佛曆は西暦年と一致させていました。) 出典は不明です。
[1110] 中文版 Wikipedia は、 仏滅を紀元前544年としたのを0年にしたのが南伝仏教α、 1年にしたのが北伝仏教βと説明していました。 当該記事が説明する第3回決議に北伝側が違反していることになりますが、 何も説明がありません。 >>1105
[1135] 百度百科 は、 西暦年に543を足すという説明αと、 仏誕前は543α、後は544βを足すという説明の2系統の説明が混じって書かれており、 説明と例示が一致しないなど混乱しています。 編集履歴を見ると、 別のタイミングで2つの説明が追加され、 その後内容の整合性を持たせようと編集して混同が生じたものと思われます。 なおその後者は当初他の 佛历计算方法 と題したWebページを出典としていましたが、 現在既に消失しておりその内容は確認できません。 例示から、 西暦1972年前後に最初に書かれたものと思われます。 >>1134
[226] 第4回会議 (15 - 21 November B.E. 2499 (1956)、ネパール) では、 世界仏教徒連盟中央本部の設置について、
... と2年間ずつ決議しました。 また次回会議の実施を 「in Thailand in B.E. 2501 (1958)」 α と決議しました。 >>215
[352] これが決議文中α型の初出で、西暦との併記の初出でもありました。
[353] ここで注意しなければならないのは、 2年ずつの期間を3つ並べているにも関わらず、 仏暦2502年が何の断りもなく飛ばされている点です。 1年間本部を設置しない理由も考えにくく、 単純なミスで起こり得るような誤りでもなく、大変不審です。 この2年×3の西暦年が併記されていませんが、 「next」とあることから当年は含まないとみられ、 決議当時が2499年だとするなら、α型です。
[454] 全日本仏教会の機関紙の報告には、次のようにありました。 (縦書き) >>453 PDF 1ページ 年の途中から途中までを表すものか、3年の期間が2年間というよくわからない記述になっています。
[369] 議事概要記録には、それぞれ次のようにありました。 >>367 決議文と年次がずれている上に、最初の4年間は暦年でなく年度なのか、 2年 + 2年 = 3年のよくわからない記述になっています。 α
[537] 仏暦がグレゴリオ年でなく Wesak など異なる年始である可能性も検討するべきですが、 それにしても不可解です。
[538] 本部移転3決議と大会会場決議で年表記が違うのは、 決議案の起草者が異なるためとみていいでしょうか。 そうであるとすると、 タイでの大会実施の決議案を起草したのはタイ代表で、 自国方式の仏暦α型を使ったのでしょうか。
[539] α型採用決議は実在せずタイによる改変だと主張する大韓民国の研究者 (>>319) なら、この不自然な状況は決議文が改竄された証拠とでも言うのでしょうか。 (この決議文を入手したかどうかは不明。) そういわれても納得してしまいそうな混乱した状況ではあります。
[355] 第5回会議 (24 - 30 November B.E. 2501 (1958)、タイ) では、前回決議通り、 西暦1961年-1962年の本部の場所が決定されました。 >>354 N.B. これを第4回の3つ目の期間と照合すると、2505年が西暦1961年となります。
[371] 第5回の議事概要記録には、 第4回の決定でスリランカから移転して2501年から2503年のビルマに本部設置となり、 第5回にその後タイに本部設置となることが記載されました。 加えて、実際には2503年に移転されず、2506年までビルマのままだったことが記載されました。 >>370
[499] どの記録も素直に読めない不審な記述が含まれていて解釈に苦しみますが、 決議文以外で最も時代が近い全日本仏教会の記録を重視しつつ比較すると、 仏暦αと解するより仏暦βと解する方が適切に思われます。
[368] この回は、仏紀2500年記念としてネパール国主催の記念行事と共に盛大に開催されました (>>433)。 第4回会議の議事概要記録には、 「2499 (1956)」 年αは 「This was the year of Buddha Jayantī, the commemoration of the 2,500th anniversary of Śākyamuni Buddha's parinirvāṇa.」 と仏滅2500年だったことが記されました >>367 が、1年のずれがあってよくわからない記述になっています。
[350] 第4回会議で西暦1956年を2500年とするβことが決議されたとする説が大韓民国にあります >>177, >>181, >>195, >>163。しかし議事録にはそれらしきものを確認できません >>225。 西暦1957年の第4回会議 (ネパール) で西暦1957年が2500年と決定したα説 >>240, >>251 もあります。
[260] 大韓民国の 조계종 국제교류위원회 (曹渓宗国際交流委員会) 위원 (委員) で 세계불교연구원 (世界仏教研究院) 원장 (院長) の 이치란 は、 西暦1956年の決議の当時、 南方仏教の紀元を採用することになった立役者はチベットで、 チベットが積極的に賛同したので北方仏教諸国も反対しなかったとし、 このことは世界仏教徒連盟の創設メンバーである 미야바라 上級常任理事、 티텐츄 マレーシア代表、 スリランカの 말라라세케라 博士の弟子の 아난다 구루게 博士などに直接確認したものであるとしました。 >>256
[280] のみならず、 世界仏教徒連盟の事務総長も、 世界仏教徒連盟の仏暦αは西暦1956年に決議されたもので、 加盟国は仏暦をどう利用するかの裁量を持つものの、 世界仏教徒連盟決議の仏暦を使うのであれば、 それはαであるとの見解を示しました (>>279)。
[281] 世界仏教徒連盟文書によると、 西暦1956年の第4回会議 (ネパール) で、 仏暦αを採用すること、 括弧で西暦を併記することを公式に採択しました。 >>276 そのような表記が決議文に採用された (>>226) という意味ならば、一応正しいといえます。
[287] に世界仏教徒連盟が正式にαを採用したことを踏まえ、 に正式に初めて2500年が使用された、 という説明もあります >>282, 306。 決定翌年施行という意味でしょうか。根拠は不明です。
[356] 第5回会議の決議文中では、 「14th October 1956」 と西暦年がありました。 他には日付はなく、 決議の欠落に関する後年の注記らしきもの (>>355) に 「the years 1961‐1962」 「28th November 2501 (1958)」α とあるくらいでした。
[220] 第6回会議 (14 - 23 November B.E. 2504 (1961)、カンボジア) では、 事務局に対し 「resolutions No. 7 and No. 27 passed at the Conference held in 1954」 を実施するよう決議されました >>219。 ところが参照された第3回会議の決議7番はどうにもそれらしき内容ではありません (27番は一応該当しますが)。 全日本仏教会の会報は、 「一九五四年ビルマの第三回世界仏教徒会議で第七号決議案及び、第廿七号決議案「...」が通つたが」 云々とし、 専門委員会設置の決議 (>>214) を引いていました >>146。 「決議」でなく「決議案」とあるのは筆が滑っただけとも考えられますが、 気にかけておくべきでしょう。決議案を2つ示して内容が1つなのも不審です。 この時期にはまだ決議番号が確立していなかったのでしょう。
[221] ともあれ、 総会で採択されてもその通り実行されるとは限らなかったことがわかります。 全仏通信 を信じるなら、仏教の宗教暦の画定委員会もこの時点で設置されていなかったことになります (今回こそ設置されたのかは不明です)。
[357] この回では、その「in 1954」以外にも、 「1962‐1963」、 「1963‐1964」 のように西暦年が使われました。 >>219 会場写真にも会期が 「6-11 November 1966」 とあったのが写っています。 >>362
[229] 西暦1962年の会議で南方に世界的に統一されたとする説が大韓民国にあります >>160 が、この年に開催された記録はなく、 誤解により生じた説でしょう (>>230)。
[228] 西暦1967年のビルマの会議で南方と北方の紀元が異なるため、 南方に統一することが決議されたとする説もあり、 西暦1956年説を紹介する大韓民国の Webページの1つが続けて説明しています >>177。 西暦1956年に決定したという説明との関係が不明で矛盾する上、 西暦1967年は不開催年で、 ビルマ開催はこれまでに第3回だけでした。 これも誤解により生じた説でしょう (>>254)。
[359] 第7回、第8回と決議文中に年号は見えませんでした。 第9回 (13 – 20 April B.E. 2512 (1969)、マレーシア) の決議文には 「in May 1968」 と西暦年が使われました >>358。 なおこの回で、 タイの中央本部の恒久化が決議されました。
[361] 第10回 (22 - 27 May B.E. 2515 (1972)、スリランカ) の決議文には、 「as soon as possible, at least by the end of 1972」、 「The Tenth General Conference of the World Fellow- ship of Buddhists held in this island of Ceylon (Sri Lanka) where it was founded in the year 2494 of the Buddhist Era (1950 A.D.)」β、 「in the UNESCO programme and budget (Document 17C/5) for the period 1973/74」、 「in July 1972」、 「the Eighth General Conference held in Chiangmai in 1966」、 「in May 1968」 と西暦年が多く、設立年だけ仏暦βでした。 >>360
[363] 第11回 (20 - 25 February B.E. 2519 (1976)、タイ) の決議文中には西暦年が頻出しました。 >>364
[365] この回では、 仏誕2600年記念行事実施が決議されました。 それによると、 西暦1956年が仏滅2500年として祝われたβため、 仏誕2600年は西暦1976年-1977年に当たるとされました。 正確な日付の決定は現実的でないことから1年間祝うものとし、 国の事情により前後数ヶ月延長することも可とし、 この2年間が祝賀期間としました。 >>364
[366] ここまで数回決議文中にほとんど仏暦の利用が見られず、 この回はむしろ仏暦を避けているようにも見えます。 文中明言こそされていませんが、仏誕2600年の期間決定には国ごとの事情が云々とあって、 仏暦をめぐる対立があったとも解しえます。 この回の会場はタイαで、 言及された仏滅2500年と1年のずれがあることが注目されます。
[374]
第12回会議
(1 – 6 October B.E. 2521 (1978)、日本)
の宣言文には、
題名に「1978」 (原文にあった題名かは不明)、
末尾の紀年に
「October 6, 1978」
とありました。
本文中、
「October 1st through 6th in the
year 2552 B.E. (1978)」、
「inaugural conference of the World Fellowship of Buddhists held in
Sri Lanka in 2494
[502] 全日本仏教会の機関紙には、大会宣言の日本語版が掲載されました。 日付はそれぞれ次のようにありました。 (縦書き) 「仏紀二五二二年 (一九七八年) 十月一日より六日」 「仏紀二四九四年 (一九五〇年六月六日)」 「一九七八年十月六日」 >>501
[375] 決議文では西暦年が使われました。 特に Lumbini Year の決定は 「the year 1979」 とされました。 >>373 (RES. 201/9/GC 12/2521)
[381] 第13回会議 (21 – 29 November B.E. 2523 (1980)、タイ) の宣言は、 題名に 「B.E. 2523 (C.E. 1980)」α とあり、 本文に 「November 22nd through 28th in Year B.E. 2523 (C.E. 1980)」α、 「Declaration made by us in Japan in the Year B.E. 2521 (C.E. 1978)」α とありました。 >>378
[382] 更に、 仏教暦 (Buddhist calendar) とりわけ Wesak 日が各国で異なることから、 特別委員会を設置して現状を再研究して Buddhist Era と Wesak の日付の統一を目指すことが決議されました。 >>379 これについて前回第12回会議の団結と連帯委員会に日本が 「仏歴の国際的採用のウエサカを統一した日に行なおう」 を提案しましたが、次回第13回会議まで継続審議となっていました >>503。
[383] この年は創立30周年に当たり、 記念硬貨も発行されました (>>224)。 記念の皿?も作られたようで、写真によると次のようにありました >>380。α
[388]
この回の決議録が当時のものだとすれば
[386] 第14回会議 (2 - 7 August B.E. 2527 (1984)、スリランカ) の宣言文では、 本文中西暦年が1箇所のみ出現しました。 決議文もほとんどが西暦年でした。 1箇所だけ「B.E. 2528 (May, 1985)」α とありました。 また 「resolution 108/2/GC7/2507 (1964)」αなど従来の決議の参照がいくつかあり、 決議文中の決議番号の初出でした。 >>385
[387] 第15回会議 (26 November - 2 December B.E. 2529 (1986)、ネパール) では、宣言題名、決議文中にいくつか西暦年のみ見られました。 第16回会議 (19 - 26 November B.E. 2531 (1988)、米国) では、決議文中に1例西暦年が見られるだけでした。
[392] 第17回会議 (21 - 29 October B.E. 2533 (1990)、大韓民国) の宣言本文では、西暦年のみが使われました >>389。 議事概要記録もこれ以前の年は仏暦単記または併記が多い中で、 この年は題名以外西暦単記となっていました >>391。 一方で決議録は仏暦αと西暦の併記で統一されていました。 「B.E. 2506 -2533 (1963-1990)」のような範囲の記述もあり、 決議文中の範囲の併記は初出でした >>390。
[263] このとき大韓民国の仏暦βと世界仏教徒会議中央本部 (タイ) の仏暦αの1年の違いが問題となり、折衷案として西暦が採用されました (>>262)。
[393] 第18回会議 (27 October – 3 November B.E. 2535 (1992)、台湾) でも、宣言本文や議事概要記録で西暦年が使われました。 決議文は併記していますが、1例 「by the year 2000」 と西暦年単記がみられました >>394。 節目として西暦2000年が選ばれたものと思われます。
[395] 第19回会議 (22 – 29 November B.E. 2537 (1994)、タイ) では、宣言題名、宣言本文、議事概要記録が仏暦αと西暦の併記 (議事概要記録に1例だけ英暦に仏暦αの併記) がありました >>396, >>398。この回から形式が変わったのか、 決議は2項しかなく、従来の決議番号は使われなくなっていました >>397。
[399] 第20回会議 (29 October – 2 November B.E. 2541 (1998)、豪州) の宣言、議事概要記録は仏暦αと西暦の併記で統一されていました。 一方で会場写真には 「29 OCTOBER ~ 2 NOVEMBER. 1998」 と書かれた看板が写っていました >>400。
[401] 第21回会議 (5 - 9 December B.E. 2543 (2000)、タイ) の宣言題名には「2000」とありました >>402。 宣言本文に 「the year Buddha Day (Vesak) 2001 to Buddha Day (Vesak) 2002 as the International Year of Metta (loving kindness)」 と西暦年があり、 議事概要記録にも転記されました >>402, >>404。 しかし決議録では仏暦αと西暦の併記でした >>403。 議事概要記録の他の日付も併記でした >>404。 Webサイトのロゴ画像 (当時のものと思われますが、不明) には、 「2493-2543」αとありました >>405。
[406] 第22回会議 (9 - 13 December B.E. 2545 (2002)、マレーシア) では、 宣言題名で仏暦α、西暦の併記、 宣言本文で西暦、 決議で西暦 >>408、 議事概要記録で併記が見られました。 会場写真には、 「December 9 - 13, 2002」 とありました >>407。 Webサイトのロゴ画像 (当時のものと思われますが、不明) には、 「9-13 Dec 2002」とありました >>412。
[409] なお決議文中に 「the Declaration of Peace and Reuni- fication of the Korean Peninsula, dated June 15, B.E. 2000」 とあり >>408、 調印の6.15南北共同宣言を指すとみられますから、 「B.E.」は誤記です。
[411] Webサイトには、 Buddhist era (B.E.) の後に括弧書きで C.E. を記述する方式を世界仏教徒連盟グループで利用することを決めたのであり、 世界仏教徒連盟本部その他の従来の慣習通り B.E. 2545 は C.E. 2002 であるα、 と記述があります >>410。 決議録に見当たらず、下位の会合による決定とみられますが、不明です。
[213] 以後は概ね 「5-9 November B.E. 2561 (2018)」 のようなα併記で統一されているようですが、 「by the 2015 earthquake」 のような西暦単記も珍しくありません。 >>212
[504] 、 大韓民国で世界仏教徒連盟国際会議が開催されました。 大韓民国の仏暦βと世界仏教徒連盟の仏暦αの 1年のずれが問題となり、大韓民国内で大論争となりましたが、 結果αが採用されました。 (>>307)
[413] 第24回会議 (14 - 17 November B.E. 2551 (2008)、日本) の会場写真によると 「November 14th-17th, 2008」 と看板にありました >>414。 宣言文・議事概要記録中に 「the forthcoming celebration of the 2600th anniversary of the Buddhahood in Vesak 2011」 >>505, >>415 とありました。他は併記でした。 ロゴにも「14-17 NOV. 2551/2008」α とありました >>416。 第29回会議 (5 - 9 November B.E. 2561 (2018)、日本) のロゴは 「2018」でした >>426。 (>>308 も参照。)
[507] なお全日本仏教会機関紙に日本語の大会宣言文が掲載されており、 そこでは (縦書き) 「平成二十年十一月十三日から十七日」 「来る二〇一一年のべサックにおける釈尊成道二千六百年記念行事」 とありました >>506。
[417] 第25回会議 (13 - 17 November B.E. 2553 (2010)、スリランカ) の会場写真によると 「14th to 17th November, 2554/2010」β と看板にありました >>418。 議事録中には「B.E. 2553 (2010)」 >>419 のような世界仏教徒連盟表記αか、 西暦年が使われていました。
[420] なお議事概要記録中 「the inaugural conference of The World Fellowship of Buddhists was held in B.E. 1950」 とあり、「B.E.」は誤記です。 >>419
[422] 第26回会議 (11 - 16 June B.E. 2555 (2012)、大韓民国) の会場写真では日付部分が一部隠れて確証がありませんが、 2012年と西暦年のみ壁に記載されたようです >>421。 議事録中には世界仏教徒連盟表記αか、 西暦年が使われていました。 第28回会議 (26 - 30 September B.E. 2559 (2016)、大韓民国) の宣言中の日付も世界仏教徒連盟表記αでした。
[424] 第27回会議 (14 - 19 October B.E. 2557 (2014)、中華人民共和国) の会場写真によると、 壁面に 「17 October B.E.2557(2014)」α とありました >>423。 議事録中には世界仏教徒連盟表記αか、 西暦年が使われていましたが、1箇所 「16-18 October 2014 (B.E.2557)」 と逆順の例もありました >>425。
[224] 創立20周年、30周年には、タイバーツ記念硬貨が発行されました。 「B.E.2493-2523」 のように仏暦が刻印されていました。 >>222, >>223 (>>380 の写真に「21-29 NOVEMBER 1980」)
[227] 第17回 (21 - 29 October B.E. 2533 (1990)、大韓民国) のテーマは 「Buddhist Challenges Into the Next Decade」 でした。 decade は「次の10年」とも解せなくはありませんが、 開催年を考えれば西暦1990年代とみるべきでしょう。 第20回 (29 October – 2 November B.E. 2541 (1998)、豪州) のテーマは 「Buddhism and Challenges in the 21st Century」 でした。 第26回 (11 - 16 June B.E. 2555 (2012)、大韓民国) のテーマは 「Buddhist Ecological - Environmental Thought & Practice for the 21st Century」 でした。
[377] 議事概要記録に 「This would, no doubt, be one of the challenges for W.F.B. in the 2533's (1990s).」という記述もありました >>376。1990年代と解するべきでしょうが、 「2533's」では意味が不明です。
[218] 議事概要記録には、 「2505-2506 (1962-63)」 という西暦だけ2桁年号化された表記例もありました >>217。
RES. 9/5/GC 2/2495 (1952) (1)
POPULARIZATION OF THE BUDDHIST ERA
A Conference of experts from various countries shall be formed to study the question of a Buddhist Era, so that the result may be reported to the next Conference.
(1) See also Res. 52 (H)
Buddhist Political Thought: A Bibliography. [Outlines and Bibliographical Index, SAIS, Summer Session, 1952
School of Advanced International Studies, 1952 - 146 ページ
World Fellowship of Buddhists News Letter (The only periodical of the W.F.B.) (Colombo) No. 1 (August) 2495 B.E., 1951 C.E. —
The Buddhist World (Colombo). Vol. I, No. 1 (1st Nov., 1950/2494)— (A newspaper published every other Wednesday)
β
RES. 48/23/GC 3/2497 (1954)(1)
That whereas in the interests of Buddhist unity and solidarity it is desirable that the main Buddhist observances connected with important events in the life of Lord Buddha be held in identical dates all over the Buddhist world, this Conference resolves that a special committee of experts be appointed to investigate the various Buddhist calendars and make suitable recommendations for the adoption of a universally acceptable Buddhist calendar.
(1) (2) See also Res. 2, 99, 133, 182 and 202
RES. 52/27/GC 3/2497 (1954)
That this Conference regards it important that in order to establish Buddhist unity and solidarity and to bring about mutual understanding among the Buddhists everywhere, all efforts should be made, including following:
(E) The publication of a Buddhist Almanac in English and if possible in other languages containing matters of interests to Buddhists such as Buddhist Calendar of sacred and ceremonial dates, etc;
(H) Popularization of the Buddhist Flag and the Buddhist Era taking the present year as 2498 B.E;
β
RES. 101/16/GC 6/2504 (1961)
Resolved: That the Secretary General of the World Fellowship of Buddhists be requested to implement resolutions No. 7 and No. 27 passed at the Conference held in 1954 and that the Secretary General publish a list of all resolutions passed since the World Fellowship of Buddhists was founded indicating which of these resolutions have been implemented and which not.
IN COMMEMORATION OF 20TH ANNIVERSARY — OF THE WORLD FELLOWSHIP OF BUDDHISTS. Initials W.F.B. appears above and Buddhist era (BE) dates 2493-2513 below. Dates are synonymous with AD 1950- 1970.
α
The Buddha Jayanti was celebrated in the year 1956 as the twenty-fifth centenary of the Mahaparinibbana (the great passing away) of the Buddha. Prince Siddhartha, the Bodhisatva, was born eighty years prior to Mahaparinibbana and the Buddha was considered to be eighty years old when he passed away. Therefore Prince Siddhartha's twenty-sixth birth centenary falls within the period 1976-1977. In view of the time differences accepted from country to country now depending on the geographical situation of each country, we need not be concerned about the exact date and month of the year for this celebration. It may also be considered scientifically unrealistic to expect a precise date for our purpose in view of the time differences referred to above. Therefore the whole year from the Vesak (May) Full Moon day of 1976 to Vesak Full Moon Day of 1977 may be considered as the centenary year. If necessary this may even be extended both ways be a few months if such exten- sions are found useful for special reasons in any particular country. What is important within this year is to focus the attention of the world on the relevance of the teachings of the Buddha to present day society, which needs them more now than they were ever needed before.
66 ページ この仏紀年代に関する質問をしたことについて、高句 88 に仏教が入りすでに二百余年 が経過した五六年にネパ—ルで行われた第四次世界仏教徒大会で決議された一九五 六年を仏滅後一一五〇〇年とする仏紀年代がいたのであり、李朝仏教においても同じく
β
12 ページ 世界仏教徒連盟(WFB)ーその組織と理念ー財団法人全日本仏教会事務総長鱗淵正浩 世界仏教徒連盟(World Fellowship of ... (3)仏紀の問題。(4)仏教徒の平和実現のため の具体的実践方策等が論議されると共に、第2回WFB 大会を、日本で開催されたい旨 ...
Already at that conference a motion was set up "that the said World Fellowship of Buddhists adopt the year 2494 as the established year of the Buddhist Era as of date (i.e. 1950 A.D.) and ... that a copy of this resolution be circulated to all known Buddhist organizations and socie- ties for information and acceptance” 83. It was then deferred for consi- deration. The Committee of experts formed after the Second W.F.B. Conference84 decided in favour of the Theravāda Era which was adopted in a resolution of the Third Conference in 195485. In spite of these attempts to reach a lasting agreement concerning the Buddhist Era, this question has remained controversial not only in
β
RES. 211/9/GC13/2523 (1980)
The Thirteenth General Conference:
Having noted with apprehension diversity among the member countries regarding the Buddhist calendar and, in particular the date of Wesak,
Resolves to request the Ad-hoc committee appointed to deal with the matter to study the situation once again, and to arrive at a universal agreement for the Buddhist Era and date for Wesak, taking into account the traditions prevailing in the various countries.
[648] Thailand: Headquarters of the World Fellowship of Buddhists - World Fellowship of Buddhists - Google ブックス, World Fellowship of Buddhists, National Identity Office, Office of the Prime Minister, 1984, https://books.google.co.jp/books?id=WeMEAAAAMAAJ&q=2494
at this first conference of the World Fellowship of Buddhists, this 6th day of Asadha B.E. 2494 (June 6, 1950) do hereby adopt, enact and give to ourselves this Constitution.
β
[651] Thailand: Headquarters of the World Fellowship of Buddhists - World Fellowship of Buddhists - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=WeMEAAAAMAAJ&dq=2493
The World Fellowship of Buddhists (WFB) was founded on 25th May 1950 (B.E. 2493) in Colombo, Sri Lanka,
α
At the conference, adoption of using the Buddhist era (B.E.) followed by the C.E. in parentheses for communications in the WFB family. In this connection, B.E. 2545 is equivalent to C.E. 2002 of which in fact, it has been the traditional practice of the WFB Headquarters, the WFBY Headquarters, and the WBU.
In addition, resolve of VESAK Day be observed as World Meditation Day was adopted.
[34] 支那や日本では、釈迦の死去を周穆王53年(西暦紀元前949年、-948年) と考えました。 >>258 PDF 8ページ, >>672 γ
[35] 支那では、 正法500年、像法1000年を経た北斉天保3(西暦552)年から末法としました。 γ >>258 PDF 8ページ, >>914
[36] 日本では、 正法1000年、像法1000年を経た永承7(西暦1052)年をもって末法としました。 >>258 PDF 8ページ
[674] 日本の日蓮宗の開祖日蓮 (承久4(1222)年2月16日、仏暦γ2171年-弘安5(1282)年10月13日、仏暦γ2231年) は、 如来滅後五五百歳始観心本尊抄 を著しました。 北方仏紀γの5五百年 = 2500年で、末法時代を指しています。
[496] 世界仏教徒会議の第2回 (西暦1952年 >>347)、 第3回 (西暦1954年 >>214) で、仏滅2500年記念事業を世界的に展開していくことが決められました。 以後数年に渡り各国で国家ぐるみの記念イベントが相次いで実施されました。
[431] 昭和31(1956)年には「東南アジア仏教圏の仏紀二千五百年」 >>430 PDF 1ページ 「佛紀二千五百年」 >>430 PDF 4ページ 「仏滅二千五百年」 >>430 PDF 4ページ で世界的に国家ぐるみの行事が行われました。 β
[432] セイロンでは仏跡の修復に莫大な費用が投入されました >>430 PDF 4ページ。
[429] 「仏紀二千五百年」を記念した仏教百科事典が編纂されました >>428, >>430 PDF 4ページ。
[449] -、 セイロンで仏紀二千五百年記念式典が開催されました >>437 PDF 2ページ, >>437 PDF 3ページ, >>464 PDF 4ページ, >>470 PDF 2ページ。 日本の皇太子殿下 (現在の上皇陛下) の招聘が計画されました >>430 PDF 4ページ が、その後言及がないので実現しなかったのでしょう。
[450] 、 セイロンで仏紀並に建国二千五百年祝典が開催されました。 日本からは三笠宮殿下・妃殿下御夫妻が参列されました。 >>448 PDF 2ページ, >>464 PDF 4ページ, >>470 PDF 2ページ
[462] 、 セイロンで仏紀二千五百年記念祭 (ブツダジヤヤンテイ) が開催されました。 >>456 PDF 4ページ, >>464 PDF 4ページ, >>470 PDF 2ページ
[461] -、 セイロンで仏紀二千五百年の最終記念行事として、 国際仏教徒会議が予定され、 各国代表が招聘されました。 >>456 PDF 3ページ
[434] 印度では、 政府主催で >>453 PDF 5ページ に仏紀二千五百年祝賀祭が盛大に開催され、 シンポジウムに各国から代表が招聘されました。 >>430 PDF 4ページ, >>437 PDF 2ページ β
[580] インドでは記念切手が発行されました。 >>577
[433] ネパールでは、 に仏紀二千五百年を記念した第4回世界仏教徒会議が仏誕の聖地で盛大に開催されました (>>226)。 >>430 PDF 4ページ, >>448 PDF 3ページ, >>452 PDF 1ページ, >>470 PDF 2ページ (事前の全日本仏教会の阿部国際局長談話には、 「仏紀二五〇〇年慶祝の年に偶々ネパールに於ける㐧四回世界仏教徒会議に日本代表団が参加出来た事は 」 とありました >>452 PDF 1ページ。)
[435] ビルマでは、 第6回仏典結集の完結を祝って >>430 PDF 4ページ, >>437 PDF 2ページ, >>442 PDF 3ページ, >>470 PDF 2ページ、 から、 仏紀二千五百年記念式典が開催されました >>442 PDF 3ページ, >>470 PDF 2ページ。
[581] ビルマでは記念切手が発行されました。 >>577
[439] パキスタンでは、 に東パキスタンのチタゴン近郊のラウザンで仏紀二千五百年祭が開催されました。 >>437 PDF 2ページ ネパールの世界仏教徒会議と重なる時期に仏紀二千五百年祭が開催されました >>470 PDF 2ページ。
[436] タイでは、 -に仏紀二千五百年記念祝典が開催されました >>456 PDF 2ページ, 3ページ, >>467 PDF 3ページ, >>470 PDF 2ページ, >>477 PDF 1ページ, >>494 PDF 4ページ。 から に王城前広場で仏紀二千五百年の大祝典が開催されました >>447 PDF 1ページ。 には中心行事のウエサーカ祭が実施されました >>447 PDF 1ページ。
[458] 発行時点の全日本仏教会会報では検討中とされ詳細がありませんでした >>430 PDF 4ページ が、 >>447 PDF 1ページ、 >>456 PDF 2ページ に開催予定が掲載されていました。 α
[482] 昭和33年には第5回世界仏教徒会議がタイで開催されました (>>355)。 前年の仏紀二千五百年祝典の延長として、 莫大な国家予算を計上して記念事業が予定されました >>478 PDF 2ページ。
[466] カンボジアでは、 -に記念祝典が開催されました >>464 PDF 4ページ, >>467 PDF 3ページ, >>470 PDF 2ページ。
[471] ラオスでは、 -に政府主催の仏紀二千五百年記念祭が盛大に開催されました >>470 PDF 2ページ, >>472 PDF 2ページ。
[583] ラオスでは記念切手が発行されました。 >>577
[455] 中華人民共和国では、 初旬に仏紀二千五百年祝典が予定されました >>453 PDF 8ページ。 日本代表団はから約1ヶ月間、 各地の仏紀二千五百年記念祝典に参加しました >>470 PDF 2ページ。
[523] 日本は東南アジア各地の祝典に政府代表、仏教界代表を派遣した他、 国内各地でも記念イベントが実施されました。
[438] 昭和31(1956)年、 「仏教二千五百年運動」を中核に日本全国で活発に活動することとされ >>430 PDF 1ページ、3ページ、 各地で講演会など仏紀二千五百年記念行事が実施されました >>437 PDF 4ページ。
[445] の花まつりを中心に大々的な仏紀二千五百年記念行事が予定され、 前年末から準備されました >>430 PDF 4ページ (「南方仏教二千五百年協賛記念事業」 >>442 PDF 4ページ、 「仏紀二千五百年記念伝道」 >>452 PDF 3ページ, 4ページ、 仏紀二千五百年記念事業に関する懇談会、 仏紀二千五百年協賛記念事業委員会 >>442 PDF 2ページ など)。
[584] 、 全日本仏教会は、 から1ヶ月間の 「花まつり・仏陀2500年記念月間」 記念行事に合わせて記念切手を発行するよう、 日本政府の郵政大臣に 「仏陀2500年記念切手発行申請書」 を提出しました。 >>577
[585] 、 日本国憲法第20条との関係を憂慮した郵政省は、 文部省調査局に切手発行の是非を照会しました。 文部省は、 「記念行事の計画は仏教系の機関誌に散見されるだけで国が主催ないしは後援する予定のものはない」、 「もし今回の行事(花祭り・仏陀2500年記念月間)に記念切手を発行すれば、国が特定の宗教的世界観を勧奨したようになるので問題がある」 と回答しました。 そのため郵政省は記念切手発行を却下しました。 >>577
[446] 、 京都府京都市の円山公園音楽堂で全日本仏教会主催の南方仏紀二千五百年協賛ウエサーカ (世界仏陀の日) 大祝典が開催されました。 >>437 PDF 3ページ 、 NHK から印度に向けて記念放送が予定されました >>437 PDF 4ページ。
[443] 全日本仏教会の機関紙は「本年が仏紀二千五百年に当る」 >>437 PDF 3ページ、 「南方仏紀二千五百年の記念すべきこの年」 >>442 PDF 1ページ、 「本年は南方仏紀の二千五百年という記念すべき聖なる年」 >>442 PDF 1ページ と明言し、 「南方仏紀二千五百年協賛の意義ある新年度」 >>437 PDF 4ページ としていました。 β
[444] の機関紙には、 ウエサーカの解説を全日本仏教会事務総長の北畠敎眞が書いていました。 「南方仏紀二千五百年を記念して、セイロ ン・ネパール・ビルマ・カンボジア等の諸 国はこぞつてウエサーカ祭を行ひ、釈尊の 遺徳を讃えるための行事をおこなつてい る。 仏紀二千 五百年説が、日本や支那の紀年と相違して いるのは計算の基準が異るためであつて、 日本仏教徒もその趣旨を賛し、むしろこれ に同調して、いよいよ南北仏教の提携を緊 密にすることが肝要である。」 としていました。 >>442 PDF 3ページ
[451] 、 英字新聞 The Japan Times は、 全日本仏教会の折衝によって付録に仏紀二千五百年の記念特集号として日本仏教の各宗派を紹介しました。 >>448 PDF 2ページ
[457] 長田恒雄作詞、 伊藤完夫作曲の仏紀二千五百年記念曲 仏陀 が制作され、 NHK で放送されていました。 >>437 PDF 3ページ 記録映画 釈尊をたづねて の製作へ仏紀二千五百年記念事業として協力することが検討されました。 >>456 PDF 2ページ 全日本仏教会は 「南方仏紀二千五百年協賛 花まつりポスター」 を制作しました。 國際佛教傳道会は 「南方仏紀二千五百年奉賛記念」 のポスターを制作しました。 >>464 PDF 4ページ
[576] -、 東京国立博物館は秋の特別展として仏紀二五○○年を記念する仏教美術展を開催しました。 仏教芸術各分野約160点が展示されました。 >>575
[460] 昭和32年度の仏紀二千五百年の記念行事として、 から までの予定で日本を含むアジア各国に仏教美術学術調査団が派遣されました。 またの㐧五回全日本仏教徒会議に各国代表を招聘し歓迎国際仏教会議を開催する予定としました。 >>456 PDF 3ページ
[465] 昭和32年、 福岡県仏教連合会、 仏舎利奉讃会主催の仏紀二五〇〇年記念仏舎利奉讃花まつり大会・展覧会が大々的に予定されました。 >>464 PDF 2ページ
[473] 、 茨城県水戸市千波湖畔で茨城県仏教連合会は、 世界平和茨城仏舎利塔建立奉賛会の仏舎利塔定礎式に合わせ、 「「仏紀二千五百年記念」県仏教徒大会」を実施を予定しました。 >>472 PDF 1ページ
[574] 、 東方学会と毎日新聞社はインド仏跡踏査隊を派遣しました。 京都大学教授の長尾雅人を隊長とし、 仏教学、美術史学、考古学の専門家の隊員6名が4ヶ月の予定でインド北部で調査しました。 >>573
[469] の㐧五回全日本仏教徒会議では、 昭和33年に南方仏紀二千五百年祭典に協賛して日本で式典を実施することが提案されました。 >>468 PDF 2ページ 国内イベントはあったものの国際行事がなかったため機運が高まったとされ、 秋頃に実施が見込まれていました。 >>470 PDF 2ページ
[476] 国会議員の協力により昭和33年度予算に「仏教文化会議補助金」 として計上され、「アジア文化会議」として準備委員会が設置されました。 >>474 PDF 8ページ 東南アジア諸国を重視する岸信介 (昭和32(1957)年に内閣総理大臣就任) の外交姿勢が後押しになったといわれています。 当初外務省予算に「アジア仏教文化会議」準備費用3000万円が計上されましたが、 社会党議員が日本国憲法第20条に抵触すると主張し 「アジア文化会議」に改められました。 >>577 この理由から、仏教関係者が個人の立場で参加する形が採られました。 >>474 PDF 8ページ 「仏教」が除外されたことに反発した一部の仏教関係者は、 ボイコットまで主張したといいます。 >>577 かろうじて開催にはつなげられたものの、 政府主催で国を挙げた記念イベントが開催された東南アジア諸国とは対称的な態度です。
[475]
の㐧六回全日本仏教徒会議㐧三部会では、
南
[495] その後 (の「最近」)、 アジア文化会議は「釈尊二五〇〇年を賛える会」に改称された >>494 PDF 2ページ とされます。 仏教系議員を中心とする人々の熱意によって「釈尊を讃える会」が発足しました。 >>483 PDF 1ページ 「釈尊二千五百年を讃える会」の会長は、石橋湛山 (前内閣総理大臣、日蓮宗僧侶) でした。 >>488 PDF 2ページ 「釈尊二五〇〇年を讃えるの会」には他に 安藤覚 (衆議院議員) が属していました。 >>478 PDF 1ページ 「釋尊2500年をたゝえる会」 >>483 PDF 1ページ、 「釈尊二千五百年を讃える会」 >>488 PDF 2ページ は東京大会 (>>481) を主催しました。 この会が主催し、式典から宗教色を排除するという条件で予算3000万円が支出されました >>577。
[479] 全日本仏教会は昭和33年夏に釈尊二千五百年祝典実行委員会を組織しました。 >>488 PDF 2ページ、3ページ
[480] -花まつりにかけて、 釈尊二五〇〇年祝典が全国で盛大に開催されました >>477 PDF 3ページ, >>488 PDF 1ページ-3ページ, >>491 PDF 1ページ, >>494 PDF 1ページ-2ページ。 の全日本仏教会常務理事会で日程が決められました >>478 PDF 1ページ。 全日本仏教会事務局は準備に忙殺されました >>478 PDF 4ページ, >>488 PDF 4ページ, >>490 PDF 1ページ-4ページ, >>492 PDF 7ページ, >>493 PDF 2ページ-3ページ。 、 近畿2府4県の仏教会代表懇談会は、 仏紀二五〇〇年記念式典への協力を決議しました >>478 PDF 3ページ。
[481] 釈尊二五〇〇年祝典、 釈尊二五〇〇年を記念する祝典行事、 釈尊二千五百年記念として、 -に東京で記念大会仏教主義によるシンポジウム等、 -に全国各地方大会 (京都大会、大阪大会、愛知県大会、福岡県大会、広島県大会、石川県大会、 静岡県大会、神奈川県大会、山形県大会)、 に東京都知事主催歓送パーテイーが予定されました >>478 PDF 1ページ, >>483 PDF 1ページ-4ページ。 その他に奈良、福井、栃木でも開催されました。 地方イベントはまで続きました。 >>488 PDF 2ページ
[484] 「記念ポスター その一」には、 「釋尊2500年祝典 東京大会 3月27日→31日 地方大会 4月1日→8日」 (横書き)、 「2500TH MARCH→APRIL 1959」 (横書き時計回り90度回転) とありました。 >>483 PDF 1ページ
[486] 釈尊二千五百年を讃える記念行事の一環で釈尊をたたえるうた いかなる日にも ―ゴータマ・ブッダ頌― が長田恒雄作詞、 伊藤完夫作曲で制作されました。 >>483 PDF 1ページ (>>457 との関係は不明。)
[489] 各国代表が招聘され、 ビルマ、 カンボヂヤ、 セイロン、 インド、 ラオス、 マラヤ、 パキスタン、 中華民国、 シンガポール、 タイ、 ヴエトナムの代表が参列しました。 >>488 PDF 2ページ、3ページ (参加者リストあり)
[586] この情報とやや不整合なため同じ会か不明ですが、 南ベトナムと大韓民国との外交関係の配慮から、 北ベトナムと朝鮮民主主義人民共和国は招聘されず、 中華人民共和国は政府宛でなく仏教界個人が招待されました。 >>577
[485] この祝典の開催までには日本政府と難しい折衝があったようです。 世間の一部にも批判的な意見があったようです。 祝典は政府資金を投入せず、仏教徒の献金により運営されました。 地方によっては官民共同で準備が進められましたが、 それは「むしろ恵まれた地区」だったといいます。 >>483 PDF 1ページ
[487] 、 釈尊二千五百年アジア文化会議記念切手が発売が予定され >>483 PDF 4ページ、 「釈聖2500年・アジア文化会議」記念切手が発売されました >>577。 「釈聖二千五百年アジア文化会議記念 1959」 と書かれていました >>577 (写真あり)。
[587] 「釈尊」でなく「釈聖」となったことについて、 日本国憲法第20条の関係から、 内閣法制局は 「釈迦という聖人、つまり釈聖、道徳の最高峰としての釈聖の2500年に当り、その人格をほめ讃え、アジアの文化交流を図る国際文化会議であって、仏教会議ではなく、つまり宗教的色彩を全く帯びない行事である。」 との見解を示しました。 >>577
[441] 一応仏教行事として盛大に祝いながらも、 一方であくまで「南方仏紀」に「協賛」するという立場で一定の距離を置こうとする、 北方仏教系の日本仏教の微妙な立ち位置が細部に感じられます。 「全国各府県市町 村仏教界の自主的活動に於て夫々独特の仏教 運動の展開をねらつたのであるが、仲々之が 末端への主旨伝達が困難であつた」 >>452 PDF 4ページ と国内のイベントは想定ほど盛り上がらなかったようで、 「昭和三十一年度は南方仏紀 二千五百年に協賛したる為インド ネパール、セイロン国等への日本 仏教親善使節団の渡航が相次ぎ、 之に比して国内運動がいさゝか軽 視された嫌いもあつた」 との批判までありました >>456 PDF 2ページ。 には、 「南方仏教諸圏では仏紀二千五百 年を記念して祝典が特に盛 んである」とありました。 >>464 PDF 4ページ
[588] 昭和31年β、昭和32年αの2500年を、 東南アジア各国が一通り祝い終えた後の昭和33年にようやく祝い、 しかも左派政党の反対や憲法解釈問題で gdgd で当の仏教界が不満たらたら、 郵便切手に至っては昭和34年発売で2500年から3年遅れという惨憺たる有様でした。 節目の年が何年ずれても気にしないのは、 日本仏教界にとって縁の薄い南方仏紀ベースの祝典だったからに違いありません。 この後日本で仏暦β・αが定着しなかったのも当然でしょう。
[440] 米軍新聞 Stars and Stripes (星条旗新聞) は、 南方仏紀二千五百年を記念した 「仏陀の誕生日」 との1ページ分の記事を掲載しました。 日本各地の花まつりも詳しく紹介しました。 >>437 PDF 4ページ
[497] 台湾 (中華民国)、 南北朝鮮、 南北ベトナム、 マラヤ・シンガポール、 蒙古、 ブータン、 シッキム、 チベットの状況は不明です。 このうち中華民国、 マラヤ、 シンガポール、 ベトナム (南北どの立場かは不明) は日本の記念行事に代表を派遣しており (>>489)、 全日本仏教会と交流があったようですから、 記録がない以上国際的な行事は実施されなかったとみるべきでしょう。
[498] なお、各行事について祝典、祭、記念行事など呼称は一定しません。 翻訳によるものか、 原名称に揺れがあったものか、 一連の行事中の1イベントとしての記念式典のような包含関係があるものか、 事情は詳細に検討が必要ですが、 同じ行事とみられるものが同じ記事でも別々に呼ばれていることがあり、 細部までこだわっていなかったことは間違いありません。 「二千五百年」「二五〇〇年」「2500年」の表記揺れも同様と思われます。 ただ「仏紀2500年」「南方仏紀2500年」「仏陀2500年」「釈尊2500年」 やそれに相当する各国言語の呼称の違いは、 慎重に検討する価値がありそうです。
[559] 釋眞弌 (山口真一、真宗大谷派教心寺住職、 国際仏教エスペランチスト連盟事務局長、 日本仏教エスペランチスト連盟理事長) は、 西暦2006年から自身の Webサイトや教心寺の Webサイトで仏暦α・西暦を併記しています >>3, >>152。 Webサイトで仏暦を推奨する文書を公開しています >>3。 (西暦単記の部分もあり、使い分けは定かでありません。)
[560] 釋眞弌らによって創刊された国際仏教エスペランチスト連盟機関紙の表紙には、 「B.E.2545」と表記されました。これはα型のようですが、 その根拠を問われたといいます。 >>3
[561] その機関紙の第8号 La Esperanta Budhano n-ro 8 novembro, B.E. 2552 (2009), bulteno de Budhana Ligo Esperantista (BLE) は、表紙写真 >>558 の通り、仏暦αと西暦の併記を継続しているようです。
仏暦は、東南アジアではわりあいに普及しています。ただ、今年が仏暦2549年(B.E.2549、BE=Buddha Era)であるというのは、タイ・ラオス・カンボジアのはなしであって、ミャンマーやスリランカでは仏暦2550年です。どちらも、釈尊入滅をB.C.544年としているのは同じなのですが、その年を0とするのか1とするのかの違いがあるために1年ずれてしまいました。ゼロの観念をもっていたインド文化からすれば、2549年ということになりますが、時々論争になることがあります。そのためもあるのか、日本でも仏暦を使おうと思うと、この問題にぶちあたり、結局決めることができないから採用しない、ということがあるようです。実は私自身、4年前に国際仏教エスペランチスト連盟の機関誌を創刊した時、表紙にB.E.2545と書いたら、「その根拠は何か」と言われた経験があります。これは実に微妙な問題ではありますが、そのことで論争しても意味がないと思います。ですから私は、全日本仏教会に「とりあえず」したがって、2549年とします。
2549 α
2550 β
真宗大谷派では、宗務機関の発する文書には西暦(元号)という年数表記をすることになっているそうです。電話で本山総務部に尋ねてみると、西暦1999年に内局通達というかたちで、このように定まったそうです。それに反対するわけではありませんが、仏教徒の組織ならば何らかのかたちで仏暦を入れられないものか、と思います。
(B.E.2549年/A.D.2006年12月18日脱稿)
[173] フランスで創立され日本や大韓民国など世界中で活動する宗教団体ラエリアンムーブメントは、 教祖が仏紀ζ型の3000年に出現した弥勒だとしているようです。
[174]
ただしこの宗教団体は仏紀でなく西暦や AH
を使っているようです。
阿含経には“仏紀3000年に三世、すなわち過去 ・ 現在 ・ 未来の火を明かす真実がが現われてその7日後にマイトレーヤが現れる”と予言されている。北方仏教の仏仏紀に従う場合、仏紀3000年になる年はまさに1973年である。
北方仏教仏紀3000年 = AD 1973
仏教の年度、すなわち仏紀を表記するには南方仏教と北方仏教の主張がお互いに違っていた。1962年世界仏教人大会でこの問題を論議した結果、南方仏教の主張を採用することにした。この時から世界的に仏紀の表示は統一された。2003年は仏紀2547年だ。
β
北方仏教の仏紀に従う場合、仏紀3000年になる年はまさに1973年である。
弥勒菩薩ラエルは1973年12月13日異星人エロヒムに遭遇し、6日間に渡って彼らからメッセージを受け取り、彼らの地球大使に任命された。そして7日目から人類の最後の預言者としての活動を開始した。
ζ
◎ 불교는 태국, 미얀마 등 동남아시아를 중심으로 한 남방불교와 중국, 한국, 일본 등을 중심으로 한 북방불교로 나뉘어 발전하였다. 남방불교와 북방불교는 사용하는 불기가 서로 다르다. 남방불기는 BC 544년을 기준으로 하고, 북방불기는 BC 1026년을 기준으로 삼는다. 불교를 숭상하고 크게 일으켰던 인도 아소카왕의 비문에도 BC1026년(계축년)을 불기 원년으로 삼고 있다.
◎仏教はタイ、ミャンマーなど東南アジアを中心とした南方仏教と中国、韓国、日本などを中心とした北方仏教に分かれて発展した。南方仏教と北方仏教は、使用する打撃が異なる。南方吹きはBC 544年を基準とし、北方吹きはBC 1026年を基準とする。仏教を崇めて大きく起こし、インドアショーカ王の碑文にもBC1026年(ギェチュク年)を吹き元年としている。
◎ 세계의 불교 종파 간 불기가 통일되지 않음으로 해서 불편이 따르자, 1956년 네팔 카투만두에서 개최된 제4차 세계불교도우의회(WFB) 총회에서 남방불기를 채택하기로 의결함으로써 그후 세계 각국의 불기는 통일되었다.
◎世界仏教宗派間の打撃が統一されていないにしても不具合が従おう、1956年、ネパールカトマンズで開催された第4回世界仏教徒連盟(WFB)総会で南方打撃を採用することで議決することにより、その後、世界各国の吹きは統一された。
2016년을 남방불기로 표시하면 불기 2560년, 북방불기로 표시하면 3043년이다. 따라서 석가모니부처가 예언한 미륵 도래 시기, 즉 (북방)불기 3천년은 1973년이다.
2016年に南方打撃で表示すると、非加熱2560年には、北方打撃で表示すると、3043年である。 したがって釈迦牟尼仏が予測した弥勒到来時期、すなわち(北方)吹き3000年は1973年である。
南方β
北方ζ
1973년(불기 3,000년) 2호의 표지
1973년 7월에 발간
동2호의 내용에 불기 3,000년 7월이 표기
『 위의 자료는 불교계 월간지 「불교사상 2호」로서, 1973년 7월 25일자로 발간되었다. 이에 수록된 내용 중 불기 3,000년 7월 2일에 원고를 썼다고 표기한 것은 1973년 7월이 불기 3,000년 7월임을 증거하고 있다. 』
1973年(非加熱3,000年)2号の表紙
1973年7月に発刊
同2号の内容に吹き3000年7月に表記
「上記の資料は、仏教界月刊誌「仏教思想2号」として、1973年7月25日に発刊された。これ収録された内容の中で打撃3000年7月2日に原稿を書い表記したのは、1973年7月に吹き3000年7月であることを証明している。」
계룡산 「동학사 대웅전」의 건물에 북방불기 사용
또한 최근에 세워진 사찰도 여전히 북방불기를 사용하기도 한다. 아래의 사찰 상량판에는 서기 2010년, 불기 3037년이라고 선명하게 적혀 있다.
最近に建てられた寺院もまだ北方打撃を使用することもある。下の査察商量版には、西暦2010年には、吹き3037年と鮮明に書かれている。
2977 庚寅 4283 32 1950 25 2493
[900] t106_001.pdf, , http://www.totetu.org/assets/media/paper/t106_001.pdf
[899] 駒澤大学佛教学部論集 26 015原 実「仏誕伝説の背景」.pdf, , http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%AD%A6%E9%83%A8%E8%AB%96%E9%9B%86/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%A6%E9%83%A8%E8%AB%96%E9%9B%86%20%2026/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%A6%E9%83%A8%E8%AB%96%E9%9B%86%2026%20015%E5%8E%9F%20%E5%AE%9F%E3%80%8C%E4%BB%8F%E8%AA%95%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E3%81%AE%E8%83%8C%E6%99%AF%E3%80%8D.pdf
[1259] 仏誕・仏滅の年代研究や年代研究史の研究は多いですが、 紀年法としての仏暦の研究はそれほど多くありません。
[1260] 金石文集などで仏暦を含む銘文等を集めて年代を決定したようなものはままあります。 (他の研究の基礎的作業として) 個別事例を検討した研究もままあります。
[1261] 日本のものは、昭和時代の研究者久保常晴によるこの問題をテーマにした論文があります。 ただし近世以後はカバーされていません。 (日本の項参照。)
[1262] 朝鮮半島のものは、昭和時代の研究者らが金石文を中心とする紀年法等の研究の一貫で仏暦の事例も検討されました。 ただし近代以後はカバーされていません。 (朝鮮半島の項参照。)
[1263] 東亜仏教の南伝説への移行という重大イベントが近代に起こっているのですが、 近現代の仏暦の使われ方はほとんど未解明です。
[157] 仏教では、仏暦のほか、 西暦や当地の紀年法も使われます。
[158] 仏教派生の宗教団体が独自の紀年法を定める事例もあります。
[634] 東アジアでは仏陀の生きた時代の記述に、 周王朝の即位紀年を使うことがありました。 日本の昭和時代の歴史研究者の論文すらその延長線上にありました >>606。 現在であれば西暦のような長期間を扱いやすい紀年法で記述するところです。 さて、その周王朝の各王の在位年代も、 歴史学研究の進展によってずれが生じています。 そのため年代の換算にも注意が必要です。
1968 (B.E. 2512)
β
[6] 太陽暦、タイ - ウィキペディア。 ( ()) https://th.wikipedia.org/wiki/%E0%B8%9B%E0%B8%8F%E0%B8%B4%E0%B8%97%E0%B8%B4%E0%B8%99%E0%B8%AA%E0%B8%B8%E0%B8%A3%E0%B8%B4%E0%B8%A2%E0%B8%84%E0%B8%95%E0%B8%B4%E0%B9%84%E0%B8%97%E0%B8%A2
[7] ( ()) http://www.ratchakitcha.soc.go.th/DATA/PDF/2455/A/264.PDF
西暦(キリスト紀元年)と仏歴(仏滅紀元年)の区分を明記するために、
英語では、B.E.2553 (Bhuddha Era) と表示しますが、
タイ語では、下記の略語を年数の頭に付けて表記します。
●西暦2010年 = ค.ศ. 2010 ค.ศ. ๒๐๑๐ ( 発音 = コー・ソー )
ค.ศ. = คริสต์ศักราช クリット・サカラーツ ( キリスト紀元年 )の略語
●仏暦2553年 = พ.ศ. 2553 พ.ศ.๒๕๕๓ ( 発音 = ポ-・ソー )
พ.ศ. = พุทธศักราช プッタ・サカラーツ ( 仏滅紀元年 ) の略語
[10] () http://nihon-thaikyokai.go-web.jp/Portals/0/24_%E8%B2%A1%E5%9B%A3%E6%B3%95%E4%BA%BA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%8D%94%E6%9C%83%E3%80%85%E5%A0%B1_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E8%99%9F.pdf#page=13
[11] () http://nihon-thaikyokai.go-web.jp/Portals/0/33_%E8%B2%A1%E5%9B%A3%E6%B3%95%E4%BA%BA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%8D%94%E6%9C%83%E3%80%\85%E5%A0%B1_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E8%99%9F.pdf#page=56
[541] 汉化佛教参访录-佛教导航 () http://www.fjdh.cn/wumin/2010/03/094751100544.html
タイの公用暦は、พ.ศ.(ポーソー、Put Sakaratの略)といい、直訳すると仏暦となるが、周辺の仏教国においても採用されているわけではなく、タイ独自の暦ともいえる。1913年にタイで公式に採用された。
[657] Early Use of the Buddhist Era in Burma () http://www.myanmarnet.net/nibbana/pdf/budhiera.pdf
[675] () https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DH/0008/DH00080R013.pdf
[676] 八宗伝来集 () https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0943/index.html
[681] () http://www.konan-wu.ac.jp/~nobutoki/eden2.pdf#page=7
[682] 保立道久さんはTwitterを使っています 「親友の僧侶からは「仏誕二五八三年元旦」という賀状がきた。核時代後年号(after N=AN)は イスラム暦の方々にも使いやすいと思う。」 / Twitter (午後6:23 · 2018年1月1日 , ) https://twitter.com/zxd01342/status/947760232050016257
[683] 名誉白人 池沼害吉さんはTwitterを使っています 「#害鉄 HPにタイ仏暦を表示できるようにしました。 http://t.co/XveyqSoIIR」 / Twitter (午前1:26 · 2015年4月13日 , ) https://twitter.com/gaikitirail/status/587290669921632256
一般には1112年[2]か1113年に作られたとされる。これは碑文の中でチャンシッターの即位を仏暦1628年とし、王が28年在位したと述べていることを根拠にしている。
【日時】平成25年(2013)2月13日(水)AM9:15~
【場所】タイ王国 ワットポー(Wat Pho)
[688] BuddhistEra · Day.js, , https://day.js.org/docs/en/plugin/buddhist-era
[898] 祖書に現れたる仏滅年代, 塩田義遜, 大崎学報 第四八号
(>>700 から引用)
[1224] 【歴代皇紀】, http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0091-001401&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E7%9A%87%E7%B4%80%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=23
[1225] 南アジアの文字, , https://coin-walk.site/Z064.htm
释迦大师示灭一百一十九年
[1229] 西暦表記を求める会: タイでの年の表記方法, 2021年12月23日木曜日, , https://seirekiheiyo.blogspot.com/2021/12/blog-post_23.html
在東京タイ王国大使館の広報部に電話で教えてもらうことができました。
公文書は、学校も含めて仏歴のみ(西暦なし)。
ただしパスポートは西暦表記。 仏暦の使用が法律で決められているのかを尋ねましたが、明確にすぐ回答はできないとのことでした。仏歴が一般的で混乱はない、とのことだったので、法規定はないのかも知れません。とにかく、皆さん、気にしていない、とのことでした。
在東京大使館のホームページの記事における年の表記はすべて西暦でした。パスポートと同じくその場、その場で通用するように使い分けているのでしょう。
[1230] 国史の研究 総説, 黒板勝美, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1075909/1/85
[1231] 動向 (6)(1369), 動向社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2781072/1/14 (要登録)
[1232] 欧米之仏教 第1編, 浄川香雲, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/816302/1/33 (要登録)
[1233] 落葉の掃きよせ 4, 響洋会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1599681/1/5 (要登録)
[1234] 著作権関係法令集, 内務省警保局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1343083/1/63
[1235] 大阪仏教 1(6), 大阪仏教社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1599649/1/16 (要登録)
[1236] 教史綱要 : 台学階梯, 天台宗務庁学務課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/819201/1/4
[1237] 耕地整理研究会報 (33), 耕地整理研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1505727/1/14 (要登録)
[1238] 仏教学関係雑誌論文分類目録 昭和6年~昭和30年, 竜谷大学図書館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3013128/1/100 (要登録)
という論文があるとのこと。