[1] 記録には、現在に続く干支紀年法が通用したはずの時代に、
現在に続く干支紀年法と解釈すると何年かのずれが生じてしまうものが散見されます。
干支年, 1年ずれ, 木星紀年法用例等年表
[2] その大部分は何らかの誤りに過ぎないと解釈されています。しかしながら、
- [3]
誤りでは片付けられず、現在に続く干支紀年法と異なる紀年法が使われた可能性が指摘されるものが少数あります
- [4]
誤りで説明が付くものも含め、例外的な事例をかき集めて独創的な解釈を加えることで、
他にない独創的な解釈を展開したり、陰謀論を繰り広げたりする類の説がまま行われています
[7]
その由来は主に3系統あって、
の組み合わせになります。
[14]
中でも特に >>8
は独創的な歴史観と共に主張されがちです。
天文学や暦学の知識をある者が既存の干支紀年法等の知識を得ることなく独立してこの種の紀年法を考案する筋道を考えにくいからでしょうか。
[1040]
昭和時代の友田吉之助は、
現行干支紀年法と異なる干支紀年法が行われたと主張しました。
[1041]
それによると、
が使われたとされました。また、それらと共に、
が用いられたとされました。
[1048]
その利用範囲は研究の進展に従ってどんどん拡大していきました。
日本に限らず、中国や高句麗でも用いられたとされました。
日本については、周の時代の大陸の倭国から天孫降臨で日本列島に到来し平安時代になっても使われたとされました
(旧説では秦国系の渡来人によって日本列島に持ち込まれたとされていました)。
紀年法と暦法の組み合わせのうち複数のものは、
歴史書の編纂だけでなく現実の生活において並行して使われていたとされました。
[1049]
古い時代の記録がそうした紀年法や暦法によらないのは、
現存する日本書紀や続日本紀が改訂版で、
現行の方式に改められたためだとされています。
しかしその改訂が不完全だったり、
旧版に基づいた資料が残っていたりするために、
旧方式が現在に伝わるのだとされています。
[33]
友田吉之助が日本書紀後世改刪説の根拠と挙げた史料のうち日時の表現に関係するもの:
[5] 一年引き下げられた干支紀年法説は、
現行干支紀年法と1年ずれた干支紀年法が使われていたと主張するものです。
- [52]
日本書紀私記甲本弘仁私記序
「冷泉聖主弘仁四年」
>>35 pp.一二三-一二六
-
[15]
菅家文草巻七祭城山神文
「維仁和四年歳次戊申五月癸巳朔六日戊戌」
>>51 p.一二七
- [16] 現行長暦 (日本長暦, 皇和通暦, 三正綜覧) では仁和4年戊申5月丁酉朔。
- [17] 1日癸巳なら6日戊戌なので誤写ではない。
- [18] 現行長暦でこの付近では寛平元年五月朔が辛卯
- [20] 暦法により1,2日の差を生じることがあるから、
仁和4年の翌年寛平元年5月が「仁和四年歳次戊申五月癸巳朔六日戊戌」である。
- [23] この文は仁和4年冬至に書いたもので、5月朔の干支を謝ることはないはず
- [24] 後日または後人が書いたとき誤って翌年の干支を書いたとすれば、
現行長暦「五月辛卯朔六日丙申」か
日本紀略「五月壬辰朔六日丁酉」とするはず
- [25] 従って当時使われた紀年法であること間違いない
- [26]
続日本後紀承和5年「冬十月丙午夜彗星見東南」
>>51 p.一二八
- [27] 現行長暦 10月朔乙酉 22日丙午
- [28]
続日本後紀承和5年「十一月辛未彗星見東方是星起十月廿日至今月十七日」
- [29]
日本紀略承和5年「冬十月壬寅是夜彗星見東南」
- [31] 現行長暦でこの付近では承和6年9月朔己卯, 承和6年閏正月
- [32] 暦法により2日の差が生じることがあるから、
承和6年己酉9月が「[承和五年戊申]冬十月壬寅」
- [60]
寛文十三年版日本三代実録貞観17年「三月十三日丙申」
>>51 pp.一二九-一三〇
- [61]
宮内庁書陵部所蔵谷森健男旧蔵本「三月十三日癸巳」
- [63]
新訂増補国史大系編者校合: 現存諸写本は「三月十三日癸巳」
- [64] 現行長暦 貞観17年3月1日辛巳 3月13日丙申, 貞観18年3月1日己卯
- [62] 暦法により2日の差が生じることがあるから、
貞観18年丙申3月が「[貞観十七年乙未]三月十三日癸巳」
- [66]
日本三代実録編纂時の資料に「貞観十七年三月十三日癸巳」
のようなものがあったが、編者が現行紀年法に換算し忘れた、
諸写本はそのまま伝えているが寛文版本は現行長暦の暦日に訂正されている
- [67]
寛文十三年版日本三代実録元慶7年「三月三日己巳」
>>51 p.一三〇
- [68]
宮内庁書陵部所蔵谷森健男旧蔵本「三月三日丙寅」
- [69]
新訂増補国史大系編者校合: 現存諸写本は「三月三日丙寅」
- [70]
現行長暦 元慶8年3月1日壬戌
- [71] 暦法により2日の差が生じることがあるから、
元慶8年甲辰が「[元慶7年]三月三日己巳」
- [73] 年干支が1年引き下げられ月朔2日のずれの4例
>>51 p.一三一
- [74] 従来誤った暦日と片付けられていた
- [75] 4例まったく同一性質、現行長暦と一定の時間的距離だから、
偶然的な誤りでないこと明らか
- [76]
1年引き下げられた干支紀年法、
現行長暦とは異質の暦法によっていることわかる
- [77]
類聚国史巻第二十八天皇還御
「承和五年十二月辛酉朔乙丑」
>>51 pp.一三一-一三三
- [78]
続日本後紀にこの記事なし
- [79]
現行長暦 承和5年12月朔乙酉 12月に辛酉も乙丑もなし,
承和4年11月朔辛酉
- [80]
続日本後紀 承和4年「冬十一月辛丑朔」 類似記事
- [89]
類聚国史は現存続日本後紀でなくその原本によった
- [90]
原本がそうだったのは編纂原資料に異質の暦日があり編者が換算しなかった
- [91]
後人が長暦に合致しないので承和5年から承和4年に移動した
- [92]
現行長暦の承和4年11月を承和5年12月と呼ぶ = 置閏法を異にする暦法、1年引き上げられた紀年法
- [93]
日本後紀桓武天皇紀
「延暦十八年春正月丙午朔乙丑」(20日) 和気広虫没
>>51 pp.一三三-一三五
- [95]
日本後紀延暦18年2月乙未(21日) 「延暦十七年正月十九日薨」
- [96]
和気清麻呂伝 「延暦十七年戊寅正月十九日薨」
- [99] 年と日が違っている、誤写ではない
- [98] 果たして誤りか
- [100] 平安時代に一年引き下げられた干支紀年法が行われたことは明らか,
よって紀年法差と考えられる
- [105] 仁和4年5月の事例は現行長暦寛平元年5月と2日の差異があるにも関わらず、
日本紀略寛平元年5月朔と1日差,
これと同質で日本後紀「延暦18年1月20日」はこれを現行干支紀年法に換算したもの
-
[106]
現行紀年法承和4年を類聚国史が承和5年、
現行紀年法延暦18年を日本後紀が延暦17年
- [107]
年干支と月朔干支には構造的関連があるが、年号紀年と月朔干支の間にはない
- [108]
菅家文草仁和4年歳次戊申は仁和4年が西暦888年から1年引き下げられて西暦889年に位置するのではなく、
「歳次戊申」が1年引き下げられて西暦889年の月朔干支を用いている
- [109] 現行干支紀年法にくらべて年干支が1年引き下げられている
- [110]
「仁和四年戊申」と称するが現行月朔干支表「仁和五年己酉」に位置する,
仁和5年が戊申年に当たる,
相対的に年号紀年が1年引き上げられている,
仁和4年戊申を仁和5年と称することになる
- [113]
「仁和四年戊申」と称するが現行月朔干支表「仁和五年己酉」に位置する,
仁和4年が仁和5年に位置しているといえる
- [114]
換算する場合に仁和4年を仁和5年とすることがあった
- [116]
暦日の換算が簡便なので、
1年引き下げられた干支紀年法の原資料の暦日を現行紀年法に換算する場合に比較的多く用いられたと推測される
- [115] 日本後紀延暦18年はこれに属する
- [117]
日本紀略淳和天皇天長4年「五月庚辰」(20日) 経国集撰上
>>51 p.一三六
- [118]
現行長暦 5月1日辛酉 20日庚辰
- [119]
経国集序 「天長四年五月十四日」
- [120]
撰上に6日差を生ずるはずないので同一時点、この解釈に誤りがなければ14日庚辰、1日丁卯
- [121] 現行長暦 天長3年5月1日丁卯
- [123] 序文「天長四年」は現行紀年法天長3年に位置する
- [122]
1年引き下げられた干支紀年法、月朔干支表天長3年丙午が天長4年丁未に位置するから、
天長4年が丙午年に当たり、
相対的には天長4年が1年引き上げられ、
丙午年に当たる天長3年に位置する
- [126]
文徳実録撰進
>>51 pp.一三七-一三八
- [134]
平安時代に一年引き下げられた干支紀年法が用いられたことは疑う余地のない事実と断定して誤りない
>>51 pp.一三八-一三九
- [135]
国史編纂の原資料や祭文や国史・経国集などの序文に使用されている
- [265]
政事要略巻六十九「国史云持統天皇十年冬十月庚午朔乙酉」
>>264 pp.二八〇-二八二
- [276] 日本書紀持統天皇7年「二月庚申朔壬戌」
>>264 p.二八二
- [283] 日本書紀持統天皇8年「五月癸未朔戊子」(6日)
>>264 pp.二八二-二八四
- [290] 日本書紀持統天皇9年「八月丙子朔乙巳」(30日)「九月乙巳朔戊申」
>>264 p.二八四
- [293]
一年引き下げられた干支紀年法
>>264 pp.二八五-二八八
- [294]
万葉集18左注「日本書紀曰六年丙寅春三月辛酉朔己卯」
- [297]
万葉集21左注「紀曰天皇七年丁卯夏五月五日」
- [300] 本文と即位紀年は合致、干支紀年のみ1年ずれ
- [301] 左注の誤引用ではない
- [306]
現存日本書紀は年干支と月朔干支の関係が現行長暦と合致
- [307] 左注丙寅年が現行紀年法丁卯年 = 西暦667年を指すこと明らか、
左注日本紀の紀年法は現行紀年法より年の干支を1年引き下げているか、
即位紀年が1年引き上げられているとも
- [308]
左注の月朔干支より、即位紀年の1年引き上げでなく、干支紀年を1年引き下げている
- [309]
続日本紀文武天皇二年八月丁未条「天智天皇五年」
>>264 pp.二八八-二八九
- [315]
万葉集50左注「日本紀曰朱鳥七年癸巳秋八月八年甲午春正月冬十二月庚戌朔乙卯」
>>264 pp.二八九-二九〇
- [321]
万葉集195左注「日本紀曰朱鳥五年辛卯九月己巳朔丁丑」
>>264 pp.二九〇-二九一
- [325]
現存日本書紀は朱鳥元年のみで廃止されているが、
左注日本紀は朱鳥8年まで使用し、
元年の位置は異なる。
異なる日本紀であること明らかだが干支紀年は同様
>>264 pp.二九一-二九一
- [326]
天智紀, 天武紀では年の干支が1年引き下げ、
持統紀では現存日本書紀と一致,
干支紀年法は連続性を有するものなのに不可解
- [330] 現存日本書紀 持統天皇元年丁亥、11年丁酉8月1日譲位
>>264 pp.二九一-二九三
- [333] 現存日本書紀持統天皇6年「夏四月丙申朔丁酉」(2日)
>>264 pp.二九三-二九四
- [334]
北野本「四月丙申朔丁酉」(2日)
- [335]
字形から誤写とは考えられない
- [336]
同一日付なので換算操作であること明らか
- [337]
8日差、そのような曆は存在せず不可解
- [338]
現行長暦 持統天皇7年5月己丑朔、7月戊子朔
- [341] 天平勝宝9歳3月29日辛酉と同一性質の暦日
- [342] 「四月戊子朔己丑」は持統天皇6年壬辰と称するが干支を1年引き下げた持統天皇7年癸巳に位置する暦日
- [343] 北野本の1年引き下げられた干支紀年、
後人の作為とは考えられない、
旧日本紀の暦日の残存
- [344] 旧日本紀の持統紀は年の干支が1年引き下げられていると見て誤りない
- [345]
旧持統紀の干支紀年が1年引き下げられているから元年干支が異なるはずなのに、
どちらも元年丁亥
>>264 pp.二九四-二九五
- [346]
現存持統紀は旧持統紀にくらべて持統天皇即位年を1年引き下げている
- [347]
よって干支紀年が即位紀年を帯同して1年引き下げられているから
- [348]
現存日本書紀と旧日本紀が天智天皇、天武天皇、弘文天皇の在位年数を異にしているため
- [349]
持統紀の干支が1年引き下げられているなら、左注の暦日が矛盾する
- [351]
万葉集44左注
「日本紀曰朱鳥六年壬辰五月乙丑朔庚午」
>>264 p.二九五
- [356]
旧事本紀
>>264 pp.二九七-三一五
- [357] 仁賢天皇「十一年(戊寅)秋八月庚戌朔丁巳」武烈天皇「元年(戊寅)十一月戊寅朔戊子」
「二年己卯春三月丁丑戊寅」「八年冬十二月壬辰朔己亥」
- [366]
安康天皇「三年秋八月甲申朔壬辰」雄略天皇「元年十一月壬子朔甲子」「二年丁酉春三月庚戌朔壬子」
「廿三年己未秋八月庚午朔丙子」
- [375]
(欽明天皇即位前) 「武小広国押盾天皇四年(己未)冬十月」
「元年歳次己未冬十二月庚辰朔甲申」
「二年(庚申)春正月庚戌朔甲子」
「三年(辛酉)春二月」
「十五年(甲戌)春正月戊子朔甲午」
「三十二年(辛卯)夏四月戊寅朔壬辰」
- [376]
日本書紀 (欽明天皇即位前) 「四年(己未)冬十月冬十二月庚辰朔甲申」
「元年(庚申)春正月庚戌朔甲子太歳庚申」
「二年(辛酉)春三月」
「十五年(甲戌)春正月戊子朔甲午」
「三十二年(辛卯)夏四月戊寅朔壬辰」
- [377]
旧事本紀は元年、2年、3年を1年引き上げ。15年、32年は一致。
称元法か干支1年引き下げか。
- [378]
仲哀天皇「九年(庚辰)春二月癸卯朔丁未」神功皇后「元年冬十月丁巳朔甲子大歳辛巳改為摂政元年」
「二年冬十一月丁亥朔甲午」「三年春正月丙戌朔戊子」「六十九年夏四月辛酉朔丁丑冬十月戊午朔壬申」
- [388]
応神天皇即位前 「歳次庚辰冬十二月皇太后摂政三年立為皇太子時年三歳」
- [389] 延本 「三歳」を「四歳」と訂正
- [391]
旧事本紀摂政3年は日本書紀同様癸未年なので4歳のはず,
3歳は紀年法に矛盾が内在
- [392]
庚辰年が1年引き下げられ辛巳年の位置だったなら3歳と一致するので、
即位前紀「歳次庚辰」も辛巳年に位置しているとわかる
- [393]
仲哀天皇「元年歳次壬申春正月庚寅朔庚子」
- [400]
旧事本紀の一部は現行紀年法より干支が1年引き下げている紀年法を使っている
- [401]
旧事本紀の大部分は現存日本書紀の紀年法
- [402]
異種の紀年法の混在は旧事本紀の杜撰さを示す、編者の作為とは思えない
- [406]
扶桑略記
>>264 pp.三一五-三二九
- [407]
応神天皇「四十一年庚午二月十五日天皇春秋百一歳崩一云百廿二崩元年庚寅相当晋第一主武皇帝泰始五年一云当太
始六年」
- [408] 太始は泰始の通用だろう
- [409] 現行紀年法応神天皇元年庚寅 = 泰始6年
- [410]
扶桑略記応神天皇即位前「庚寅歳正月丁亥日行年七十即位」2年「二年辛卯三月壬子日」
- [412]
神功皇后摂政前「冬十二月誕生皇子明年辛巳」
- [413]
辛巳の前年なので冬12月は仲哀天皇9年庚辰(西暦200年)、応神天皇元年庚寅(西暦270年)には71歳のはず
- [414]
日本書紀神功皇后摂政前 (仲哀天皇9年) 「十二月戊戌辰辛亥」
応神天皇「元年春正月丁亥朔皇太子即位是年也太歳庚寅」
「四十一年春二月甲午朔戊申天皇崩于明宮時年一百一十歳」
- [416]
日本紀略
「仲哀天皇九年(庚辰)十二月戊戌朔辛亥」
「応神天皇元年(庚寅)正月丁亥朔即位年七十」
「四十一年(庚午)二月甲午朔戊申崩年百十」
- [417]
帝王編年記
「仲哀天皇九年庚辰十二月」
「応神天皇元年(庚寅)正月丁亥朔即位七十一」
「四十一年庚午二月崩年百十一」
- [418]
皇代記
「仲哀天皇九年庚辰誕生」
「応神天皇元年庚寅正月丁亥即位年七十」
「四十一年庚午二月崩年百十一」
- [419]
皇年代略記
「仲哀天皇九年庚辰十二月」
「応神天皇元年庚寅正月丁亥朔即位七十一」
「四十一年庚午二月甲午朔戊申崩百十一」
- [420]
皇年代私記
「仲哀天皇九年庚辰十二月」
「応神天皇元年庚寅正月丁亥朔即位七十一」
「四十一年庚午二月甲午朔戊申崩百十一」
- [421]
年は一致しているのに宝算は不一致
- [424]
応神天皇「八年丁酉夏四月」
- [426]
泰始5年 = 己丑(西暦269年)、中国の干支紀年は後漢以来移動されたことはない、
己丑 = 神功皇后69年。即位70歳が神功皇后69歳に当たることと符合
- [429]
扶桑略記応神記に2種の紀年法が混在している。
- [430] 1年引き上げられた紀年法。
- [431] 旧事本紀では神功皇后元年の干支が1年引き下げられている
- [432] 干支が1年引き下げられている干支紀年法で神功皇后69年は戊子年、
応神天皇元年は己丑年
- [433] 扶桑略記宝算70歳は1年引き下げられた干支紀年法 = 旧干支紀年法 = 旧紀年法
- [434] つまり誕生年と崩御宝算は現行干支紀年法、即位宝算は旧干支紀年法
- [435]
旧干支紀年法では、泰始5年 = 己丑年 = 応神天皇元年。
現行干支紀年法では、年の干支が1年引き上げられ、泰始6年 = 庚寅年 = 応神天皇元年。
- [437]
日中のずれは他にも
- [447] 他の年代記類も同様
- [448] 帝王編年記神功皇后
「五十九年己卯当魏廃帝甘露三年也」
- [451] 写本伝写時、書写者が原本の誤りを発見すれば訂正することが多いだろう
- [455]
2種以上の史籍、同一事件の記述
- [456] 事件の記述が相違することがあるのは当然だが、
生起した時点が2回以上とは考えられないから、信憑されるものを準拠として訂正され次第に画一化される傾向
- [457] 異種の紀年法によるものと知られていた時代は日付の相違はそのまま伝えられるだろう、
記憶が喪失されると誤りとされ訂正が加えられると思われる
- [458] 内容に後人が作為は可能性あるが、
事件の日付の恣意変改はほとんど考え得られない、標準となるものに合わせられるだろう
- [461]
続日本紀
>>264 pp.三二九-三三六
- [462]
1年引き下げた干支紀年法が現存日本書紀成立以前に使用されていたこと明らかにできた
- [463]
奈良時代に1年引き下げられた干支紀年法が施行されていた事実を明らかにできれば、
旧日本紀が1年引き下げられた干支紀年法によって編纂されたことの1つの根拠となろう
- [464]
廃帝 (淳仁天皇) 即位前紀
「天平勝宝九歳三月廿旧日辛丑四月四日乙巳」
- [486]
聖武天皇即位前 「勝宝七歳勅」
- [487] 続日本紀天平勝宝7年になく、天平勝宝8歳5月1日条に
- [488] 天平勝宝7歳乙未が1年引き下げられ天平勝宝8歳丙申に位置していたため、
1年引き下げられた干支紀年法の例証
- [489] 天平勝宝9年当時現実の生活の目盛として用いられたか、後人の換算か
- [490] 「三月十九日」の日付は同一なのに干支が異なる
- [491] 類聚三代格所収格、金石文、写経奥書などによれば奈良時代に数字日付が行われ、
間々干支が付記、
数字紀日が基準で干支は付帯的
- [492] よっていずれも当時の紀日法で同じ「天平勝宝9年3月29日」時点を指すが、
現行紀年法を用いる人は丁丑日と呼び、1年引き下げられた干支紀年法を用いる人は辛丑日と呼んだ
- [493] 両者はいずれも現実の生活に用いられたといえる
- [494] しかし一方が現実の暦日、他方が異種の紀年法によって換算した場合もあり得る
- [495] 1年引き下げられた干支紀年法は現存続日本紀に僅かに痕跡を留めるに過ぎないから、
現存続日本紀以前に行われたと思われる
- [496] 日本書紀の紀年矛盾同様、改删で編年紀は換算されたのに即位前紀は見落とされたためだろう
- [497] よって一方から他方への換算なら3月29日辛丑が原拠で3月29日丁丑は換算、
3月29日辛丑が現実に用いられた暦日
- [498] 宮中記事なので、天平勝宝9年当時現実の生活の目盛、しかも政府が使用したもの
- [499] 奈良時代に1年引き下げられた干支紀年法が施行されていた明証
- [500] つまり奈良時代には2年引き下げられた干支紀年法も含め、
2種類以上の暦法、
少なくても2種類の紀年法が用いられた
- [501]
旧日本紀が1年引き下げられた干支紀年法で編年され現存日本書紀と異なる暦法で編纂されていても不思議でない,
政府記録に用いられているのだから十分あり得る
- [502]
法隆寺薬師仏造像記「歳次丙午年」
>>264 pp.三二六-三三八
- [503] 日本書紀用明天皇「二年夏四月乙巳朔丙午癸丑」 (丁未年 2日 9日)
- [504] 推古朝において1年引き下げられた干支紀年法が行われたことがわかる
- [505]
下道圀勝圀依母骨蔵器銘「和銅元年歳次戊申十一月廿七日己酉」
>>264 p.三三八
- [510] 日本書紀推古天皇「廿九年春二月己丑朔癸巳半夜」 (5日)
>>264 pp.三三八-三五五
- [583] 日本書紀即位前紀
>>264 pp.三五四-三六四
- [563]
日本書紀
仁賢天皇即位前 「白髪天皇元年冬十一月」「二年夏四月」「五年」
- [564]
清寧天皇「二年冬十一月」「三年四月乙酉朔辛卯」
- [565]
顕宗天皇即位前「白髪天皇二年冬十一月」「白髪天皇三年春正月」「五年春正月」
- [567]
日本紀略仁賢天皇即位前「白髪天皇元年十一月」
- [566] 紀年が1年引き上げられている,
雄略天皇崩御年から称元法の違いでなく、1年引き下げられた干支紀年法
- [568] 仁賢天皇即位前紀の原拠は現存日本書紀でなく1年引き上げられた旧日本紀,
仁賢天皇即位前紀だけ換算漏れ
- [569]
日本書紀
応神天皇元年即位前「歳次庚辰冬十二月」「皇太后摂政之三年時年三」
- [575]
日本書紀雄略天皇20年丙辰冬条、分注所引百済記蓋鹵王乙卯年冬
- [576]
三国史記百済本紀第四 文周王元年 「蓋鹵在位二十一年」 西暦475年乙卯
- [577]
日本書紀原資料は内容から国内資料とは思われない、
原資料は百済記同様乙卯年にかけていたに違いない
- [578]
日本書紀編者が故意に1年引き下げて丙辰年にかけるはずない,
旧日本紀編纂時には乙卯年にかけていたに違いない,
現存日本書紀編纂時に年干支を1年引き上げたためずれた
- [582]
西暦475年の事件を西暦476年にかけたから、実年代は1年引き下げられている,
現存日本書紀は年干支を1年引き上げ乙卯年は丙辰年とされたが、
記事は干支の乙卯に帯同されて1年引き上げられたので丙辰年にかけられることに
- [579]
例証は必ずしも多いとはいえないが、
養老日本書紀再編纂で紀年法は完全に現行紀年法に切り替えられるべきで、
手落ちから取り残された旧日本紀断片が僅少であることは当然
- [580]
即位前紀と編年紀の矛盾、紀年と宝算の矛盾、外国資料との齟齬など、
再編纂で注意が行き届かず換算から漏れる可能性が多い部分
- [581]
続日本紀から検出され奈良時代に現実の生活に用いられた1年引き下げられた干支紀年法が、
日本書紀以外の金石文等から検出され、
日本書紀にも内在する、
万葉集左注日本紀とも一致する、
旧日本紀の紀年法と断定して誤りないであろう
- [584]
続日本後紀承和6年「八月戊寅以庚午年以乙未年」
>>264 p.三六五
- [589]
続日本紀大宝元年「八月癸卯」
>>264 p.三六六
- [593] 正倉院御物最勝王経竹帙銘 「依天平十四年歳在壬午春二月十四日勅」
>>264 pp.三六七-三六八
- [594] 国分寺建立勅 天平13年3月24日説と天平13年2月14日説
- [595] 天平14年壬午は現行紀年法
- [596] 1年引き下げられた干支紀年法, 天平14年は辛巳年,
辛巳に着目して天平13年2月14日を1年引き下げられた干支紀年法で呼ぶと天平14年2月14日があり得る,
正確には「天平十四年歳在辛巳」とよぶべきだが、
1年引き下げられた干支紀年法による天平14年と呼び、現行干支紀年法により壬午とした,
1年引き下げられた干支紀年法の正しい呼び方ではなく後世の人が過去の年を呼ぶ場合に起こる現象
[1039] 二年引き上げられた干支紀年法
- [139]
続日本紀の暦日は最近暦学者が疑問提起 (科学史研究第四〇号所収奈良朝前後の暦日, 今井溱)、紀年法は疑いを挟んだ学者なし
>>138 p.二二一
- [140] 大宝元年遣唐使
>>138 pp.二二二-二二九
- [159] 持統上皇崩御
>>138 pp.二二九-二三四
- [180]
帝王編年記, 王年代記, 年代記類で全く内容が異なるが同じ性質、
現行紀年法より二年引き上げられた紀年法
>>138 pp.二二三-二三四
- [181]
現行紀年法より二年引き上げられた紀年法がかつて存在したことを確証している
- [182]
旧唐書, 新唐書の長安3年、長安元年も現行紀年法と2年引き上げられた紀年法の存在を反映
- [183]
いずれが大宝、慶雲の当時に現実に行われたかは要検討
- [184]
続日本紀宝亀6年冬10月壬戌条、吉備真備死去。霊亀2年22歳、
天平5年帰朝、
死去時83歳。
>>138 pp.二二五-二三九
- [185] 81歳のはず
- [186] 天平5年に帰朝記事なし
- [187] 天平7年4月辛亥に献上記事あり、3月丙寅の遣唐使帰朝に従ったに違いない
- [188] 異種紀年法 (2年引き上げられた紀年法) 天平7年は現行紀年法天平5年
- [189] 霊亀2年は現行紀年法による西暦716年でなく2年引き上げられた紀年法の西暦714年
- [190]
現存続日本紀は、異種紀年法にくらべて2年引き下げられているが、
たまには「天平5年」のように異種紀年法による位置を現行紀年法で呼んでいるものもある
- [193]
続日本紀霊亀2年8月壬子(9日) 「和銅二年六月十七日符」
>>138 pp.二三九-二四二
- [201] 続日本紀天平13年3月乙巳(24日) 国分寺建立発願の詔
>>138 pp.二四二-二五二
- [210]
興福寺略年代記養老7年 「又冬建施薬悲田二院于興福寺。古記ニ施薬院養老五年建在之。」
>>138 pp.二四七-二五八
- [211] 扶桑略記 養老7年 「建施薬院悲田院」
- [212]
養老5年説、養老7年説があり、
養老7年の位置が養老5年の位置に引き上げられていた紀年法の存在を意味する
- [218]
現行紀年法と異種紀年法の暦日の10日から12日の差と暦年の2年の差
>>138 pp.ニ五三-ニ五五
- [219]
平朔のとき、大小月交互、15ないし16ヶ月で連大なので連大がなければ354日、
あれば355日
- [220] 干支は60日、よって平年1年は6周と6日または5日、2年で11日ずれる
- [223]
異種紀年法が現行紀年法より2年引き上げられたものであることはこの点でも立証される
- [221] 続日本紀は定朔なので厳密には一致しないが、
年の長さが2日以上の差を生じないから差し支えない
- [222] 閏年は換算時に月を移動すればいいので暦日への影響は考慮不要
- [224]
史料が少ないから的確に範囲を定めがたいが、
文武天皇4(700)年から天平11(739)年に異種紀年法が存在したことは確実
>>138 pp.ニ五四-ニ五五
- [225]
続日本紀は数度の改修で成立したが現存続日本紀にも年代的矛盾が多い
>>138 pp.ニ五五-ニ六一
- [226]
主要因は原資料の切り張りの誤りだろう
- [227]
年代的矛盾の主因は当時の紀年法の複数性、暦法の複雑性ではないか,
紀年法と暦法が複数あって暦日の換算だけでも困難だった
- [228]
異種紀年法の性格
>>138 pp.ニ六一-ニ七五
- [229]
慶雲元年、大宝3年が2年引き上げられている vs 長安元年が2年引き下げられている
- [230]
干支紀年法は中国伝来、世界的・国際的。
即位紀年法・年号紀年法が民族的・国家的。
対比は干支紀年法を共通目盛りとしたはず。
- [232] 干支紀年法を無視した対比とする仮定は否定される:
- [231]
一代要記「大宝二年壬寅十二月十日甲寅」
の「大宝二年壬寅」は現行紀年法と同じ、
「十二月十日甲寅」は現行紀年法文武天皇4年。
つまり「大宝二年壬寅」は現行紀年法文武天皇4年庚子を指す。
- [233]
帝王編年記「慶雲元年甲辰」が唐長安2年壬寅
- [234]
どちらも年干支を2年引き上げている
- [235]
異種紀年法の年代が2年引き上げられているということは、
単に「大宝二年」「慶雲元年」の位置が二年引き上げられているのではなく、
年の干支が2年引き上げられている。
- [236]
現存続日本紀では、異種紀年法によるものを、
現行紀年法に換算されているもの、
換算を失念して異種紀年法によっているもの、
2年引き下げて暦日を現行の暦法に換算したもの、
2年引き下げないで異種紀年法の年の位置を現行紀年法で呼んでいるものもある。
- [237]
異種紀年法は現実の生活で用いられたか
- [238] 格に記入されている日付はその当時の紀年法と暦法であること疑う余地ない
- [239] 天平13年当時、異種紀年法が使われた
- [240] しかも政府が使用された紀年法・暦法である
- [241] 官符にある、霊亀2年8月条の「和銅二年六月十七日」も現実に使用された紀年法の可能性
- [242] 年代記類の持統上皇崩御日、原資料をたどれば続日本紀の草案ではないか、
草案は異種紀年法で記述されていたのでは
- [243] いずれにしても続日本紀編纂の原資料に異種紀年法の暦日が用いられたことは間違いないだろう
- [244] 後人の作為なら続日本紀の暦日に合わせるはず
- [245]
異種紀年法は唯一の紀年法か、特殊な場合に使用されたものか
- [873] 扶桑略記「和銅五年上奏日本紀」
>>872
- [874] 現行干支紀年法に比べ二年引き上げられた干支紀年法
- [875] 続日本紀「和銅七年(甲寅)二月己丑朔戊戌」
- [881] 扶桑略記「和銅七年甲寅正月」
- [879] 三正綜覧和銅5年2月朔庚子 2月戊戌は59日 正月朔庚午 1月戊戌は29日
- [880] 2年引き上げられた干支紀年法では「和銅五年正月庚午朔戊戌」に位置する
- [882] 現存続日本紀の原拠の資料「甲寅年正月戊戌」 (現行長暦和銅5年1月)
→ 現存続日本紀 現行干支紀年法に改め和銅7年1月に移動しようとしたが、
和銅7年1月庚申朔39日戊戌となるから、2月己丑朔10日戊戌とした
- [883] もっとも現存続日本紀編者は2年引き上げられた干支紀年法の1月が現行干支紀年法2月であることを知っていたはずで、
簡単に「正月戊戌」から「二月戊戌」に改めた
- [884]
和銅2年6月17日官符の例のように朔の干支が1日進んでいるとすると、
現行長暦和銅5年1がつ1日庚午 → 2年引き上げられた干支紀年法和銅5年1月1日辛未、
28日戊戌
- [876] 王年代記「欽明天皇即位十一年壬申歳」
>>872
[960]
友田吉之助と同時代の研究者である伊野部重一郎は、
友田吉之助の論文に対する反対論文を書いています。
>>958
[962]
伊野部重一郎は、
異なる干支紀年法を考えずとも異なる歴史観による混乱や単なる誤りでずれが説明できることを説いています。
>>958, >>974, >>975
例えば日本古代の日時
[972]
日本書紀の持統天皇の最終年8月1日と続日本紀が一致しない問題は、
日本書紀の誤りではないかとしています。
>>958
[971]
平成時代の日本古代史研究者で最も暦法に精通しているであろう細井浩志も伊野部重一郎の見解に賛成しています。
>>959
[961]
しかし友田吉之助の論文を元にした著書 >>34 では自説を改めてはいませんし、
少なくても明示的には伊野部重一郎の論文を引用して再反論をしていません。
(投稿した論文誌では再反論していますが、それそのものは著書に掲載されていません。)
しかし伊野部重一郎の批判に答える形で、
より複雑な説へと変化したようです >>974。
[778]
肯定も否定もせずに参照しているだけの事例 >>785, >>788
[1052]
友田吉之助の研究について、その問題提起は研究史上有意義な貢献だったと考えられます。
すなわち、
- [1053] 干支紀年法が一致すれば同じ年であることは日常的にも学術的にも常識と理解されてきましたが、
その前提が常に成り立つことは明示的に確認されているわけではありません。
- [1055] 同じ時代の同じ地域で1つの暦法が使われていることは日常的にも学術的にも暗黙裡に仮定されていることが多いですが、
その前提が成り立つと確認されているわけではありません。
- [1056]
昭和時代までの研究はまず過去の暦日を復元しなければならないとの課題があり、
資料を集めてその大部分が適合する長暦を作り、例外的な不一致は何らかの誤りとみなして無視する方法が採られていました。
改暦などの例外的な併用を除けば唯一の暦日の系列が得られることを暗黙裡に前提とした作業でした。
複数の暦法の恒久的な共存の可能性を疑うことや、
例外事例にも体系的な規則の存在を疑うことは (結論が肯定的であれ否定的であれ) 必要なことです。
- [1057]
中世の書物を中心に、
古代史上の日付や年次についての異説が存在する事項が多数存在します。
近代史学の研究者は古い時代に遡れない説をばっさり切り捨ててきましたが、
その結果異説の発生と発展の過程にはあまり目を向けられなくなってしまいました。
- [1058]
古くない時代に成立した資料でも、古く遡れる所説が記録されている場合はあります。
資料とそこに掲載された説の成立伝来の過程を解明することは
(結果古い説と判明するにせよ、そうでないにせよ) 必要なことです。
- [1059]
古く遡れない説にせよ、中世や近世に行われた以上、
思想史や研究史におけるその位置と意義を明らかにすることは、必要なことです。
- [1060]
なかでも各種の年代記類は、
そうした説を伝える重要な媒体であったこと疑いありませんが、
その発生と分化の系譜は未だ部分的にしか解明されていません。
- [1072]
日本書紀の本紀の日付はあまりに整いすぎています。
友田吉之助が必死で矛盾をかき集めてもわずかに数個しか見つけられませんでした。
果たしてこれは日本書紀の原形なのでしょうか。
- [1073]
常識的に考えても、他の時代の歴史書などと比べても、
もっと誤りが含まれていてもいいはずです。
これほど整っているのは、
原本の計算が優れているのでしょうか。
それとも伝来の過程で誤りが正されてきたのでしょうか。
- [1075]
中国正史は各書ごとに誤りの含有率がばらばらのようで、
誤りがほとんどないよく編纂されているものもあれば、
誤りだらけの荒れたものもあるようです。
- [1074]
日本書紀の暦日の研究は少なくありませんが、
この点はそれほど追求されてこなかったようです。
ただし年次や年数の矛盾は古くから指摘されています。
といった着目点は、歴史上の事実関係を画定させるための土台となる基礎的研究として重要といえます。
[1061]
しかし、残念ながら友田吉之助の研究は十分な回答を与えられたとはいえません。
- [1062] 提示された論理構成は大変に複雑、一部は理解困難ですが、
成立し難い部分が多いように思われます。
- [1063] 例えば2年遅れ、2年進みの正反対の用例を、
どちらも「二年引き上げた干支紀年法」に結びつけるような強引な議論が展開されています。
- [1066]
間違いない、あり得ないといった断定的な判断が多いですが、
納得感が少ない場合が多いです。
- [1067]
四分暦関連は特に事実誤認や牽強付会が多いです。
- [1064] 同じ時代の同じ社会で区別できない複数の異なる紀年法、異なる暦法が共存する状態が永続できるか、
現実性がないように思われます。
- [1065] 長期間併存したのに区別の方法も作られず、換算の手引も残らないとは考えにくいでしょう。
- [1068]
「現行長暦」
は未完であり史料によって改善されるべきものであるにも関わらず、
その認識が不十分なまま「現行長暦」
との相違をことごとく異なる紀年法や暦法の根拠に帰しているように見えます。
- [1069]
対象範囲の時代と地域がどんどん拡大されていくことからわかるように、
日付や干支の矛盾は普遍的に見られるものです。
- [1070]
誤り、ずれのパターン化や発生原因の追求という方向性で進めた方が有意義な結論に至ったかもしれません。
- [1071]
おそらく友田吉之助は知らなかったのでしょうが、
中国正史には長暦と矛盾する日付が多数あります。
それだけをテーマにした鈍器のような書籍が現在までにいくつか出版されているほどです。
そのすべてが現実の生活で用いられた紀年法や暦法の違いだとすると、
友田吉之助の研究どころではない大きな秘密が正史に隠れていることになりますw
- [1076]
友田吉之助は吾妻鏡も研究していたようですが、
なぜか吾妻鏡の暦日はこちらの研究で使っていません。
吾妻鏡の暦日には乱れが多く、
鎌倉時代にも異なる紀年法や暦法が使われていたと判明したに違いありませんが...
- [1077]
中世後期になると異なる暦日が日本列島内部で使われたことが確実です。
旧暦
すると中世後期と吾妻鏡など中世前期と平安時代以前の記録に見られる日付の矛盾のパターンを比較し、
傾向に違いがあれば、どの時代に異なる曆が用いられた可能性がある、
といった分析ができそうです。
[1078]
してみると友田吉之助が開拓しようとした新領域は友田吉之助の説が明後日の方向に進んでしまったがために追随者がなく、
未開拓のまま残ってしまいました。別の問題意識からその領域に手を伸ばしてきた研究者によって取り組まれている部分もあるものの、
未だ取り組む価値がある課題は多く残されているように感じられます。
[1136]
九州王朝説では現行干支紀年法と1年ずれの干支紀年法が使われたと考えられているようです。
[1137]
九州王朝説の信奉者の説で、
九州王朝で四分暦が使われたとするものがあります。
令集解所引古記に四分暦系文献の引用があるので九州王朝の曆だという謎理論ですが、
古記
を知らない友田吉之助が同じ結論に達していた!と喜んでいるようです。
[1134] >>10 は九州王朝説の信奉者の説で、
宋書 (王年代記) の神武天皇甲寅年即位説について、
甲寅と辛酉の7年の差は超辰のためではないかとしています。
簡単過ぎる記述でどういう計算でそのような推測になったのか謎です。
[1139]
九州王朝説の創始者の古田武彦は百済で1年ずれの干支紀年法が用いられたとしています。
>>1135
[1140]
また九州王朝説幹部の古賀達也は九州年号とその用例 (とされているもの)
のずれを、当時1年ずれの干支紀年法が用いられていたことで解決しようとしています。
>>1133, >>1135, >>1132
[1141]
ただしなぜか慎重論を取っています。1年ずれの存在を前提にしていない他の議論との矛盾が生じるからかもしれません。
[1132] 第2865話 2022/10/28, https://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/the-name-of-an-era-for-kyushu-dynasty/post-10740/
『肥前舊事 巻之一』に引用された「遊方名所略」「日本略記」の記事に見える九州年号「勝照二年(586年)丁未」と「鏡帝(當)二年(582年)癸卯」の干支が『二中歴』などの九州年号の干支と一年ずれています。両記事とも翌年干支が付記されており、先に紹介した武寧王墓誌や『万葉集』左注の「朱鳥」と同じ方向の一年のずれです。この後代史料中の異干支九州年号記事を、古代の異干支暦存在の痕跡とすることには慎重にならざるを得ませんが、皆さんに紹介しておきたいと思います。
[149]
これは友田吉之助が指摘した紀年法の問題のうちの1つでもある (引用していないのは、さすがに分野と時代が違いすぎるから気づいていないのだろうけど)。