異種干支紀年法説

異種干支紀年法説

[1] 記録には、現在に続く干支紀年法が通用したはずの時代に、 現在に続く干支紀年法と解釈すると何年かのずれが生じてしまうものが散見されます。 干支年, 1年ずれ, 木星紀年法用例等年表

[2] その大部分は何らかの誤りに過ぎないと解釈されています。しかしながら、

[7] その由来は主に3系統あって、

の組み合わせになります。

[14] 中でも特に >>8 は独創的な歴史観と共に主張されがちです。 天文学暦学の知識をある者が既存の干支紀年法等の知識を得ることなく独立してこの種の紀年法を考案する筋道を考えにくいからでしょうか。

[12] 独創的な歴史解釈を披露する方々にとっては、古代なり異文化なりとの「つながり」 を「発見」することで独創的世界の広がりを作れるから、便利なのでしょうねw

古代の木星系紀年法

[6] 古代支那に於いては実際に現行干支紀年法と異なる太歳紀年法干支紀年法が使われていたことが知られています。 木星紀年法

友田吉之助の異種干支紀年法説

[1040] 昭和時代友田吉之助は、 現行干支紀年法と異なる干支紀年法が行われたと主張しました。

[1041] それによると、

が使われたとされました。また、それらと共に、

が用いられたとされました。

[1048] その利用範囲は研究の進展に従ってどんどん拡大していきました。 日本に限らず、中国高句麗でも用いられたとされました。 日本については、の時代の大陸の倭国から天孫降臨日本列島に到来し平安時代になっても使われたとされました (旧説では国系の渡来人によって日本列島に持ち込まれたとされていました)。 紀年法暦法の組み合わせのうち複数のものは、 歴史書の編纂だけでなく現実の生活において並行して使われていたとされました。

[1049] 古い時代の記録がそうした紀年法暦法によらないのは、 現存する日本書紀続日本紀が改訂版で、 現行の方式に改められたためだとされています。 しかしその改訂が不完全だったり、 旧版に基づいた資料が残っていたりするために、 旧方式が現在に伝わるのだとされています。

[1050] 歴史書の改竄説というのは歴史学と陰謀論のギリギリのラインなんですよねえ... 友田吉之助の説の場合は (成立するかはともかく) 一応しっかり改変の痕跡と想定される改変過程を論理的に説明しようと試みてはいますし、 「悪の政府による隠蔽工作」 のような陰謀論的主張が含まれていないので、ぎりセーフでしょうか...
[1051] ただその「論理的な説明」は神代の神は福井県在住でトンボの化身で黄帝暦を使っていたことが明らか、 という方向性に飛んでいくのがどう評価したらいいのか...

[33] 友田吉之助日本書紀後世改刪説の根拠と挙げた史料のうち日時の表現に関係するもの:

  • [34] 日本書紀成立の研究
    • [35] 第二章 日本書紀後世改删説の再検討
    • [46] 第四章 旧日本紀の逸文
    • [51] 第五章 弘仁私記と旧日本紀
    • [138] 第六章 続日本紀の年代学的研究
    • [264] 第七章 日本書紀の年代学的研究
    • [618] 第八章 奈良時代における四分暦の存在について
    • [698] 第九章 奈良時代の紀年法と中国の紀年法
    • [830] 第十二章 天武紀の改删と旧日本紀
    • [872] 第十三章 和銅日本紀の叙述範囲と撰進年代
    • [886] 増補篇 第一章 二年引き上げられた干支紀年法の源流
    • [932] 増補篇 第二章 好太王碑文と顓頊暦紀年法
  • [976] 天孫降臨の原義
    • [977] 第六章 天孫は西暦前十二世紀末に降臨した, pp.174-207

一年引き下げられた干支紀年法

[5] 一年引き下げられた干支紀年法説は、 現行干支紀年法1年ずれ干支紀年法が使われていたと主張するものです。

  • [52] 日本書紀私記甲本弘仁私記序冷泉聖主弘仁四年>>35 pp.一二三-一二六
  • [15] 菅家文草巻七祭城山神文 「維仁和四年歳次戊申五月癸巳朔六日戊戌」 >>51 p.一二七
    • [16] 現行長暦 (日本長暦, 皇和通暦, 三正綜覧) では仁和4年戊申5月丁酉朔。
    • [17] 1日癸巳なら6日戊戌なので誤写ではない。
    • [18] 現行長暦でこの付近では寛平元年五月朔が辛卯
    • [20] 暦法により1,2日の差を生じることがあるから、 仁和4年の翌年寛平元年5月が「仁和四年歳次戊申五月癸巳朔六日戊戌」である。
      • [21] 干支1年引き下げられた己酉年に位置する
    • [23] この文は仁和4年冬至に書いたもので、5月朔の干支を謝ることはないはず
    • [24] 後日または後人が書いたとき誤って翌年の干支を書いたとすれば、 現行長暦「五月辛卯朔六日丙申」か 日本紀略「五月壬辰朔六日丁酉」とするはず
    • [25] 従って当時使われた紀年法であること間違いない
  • [26] 続日本後紀承和5年「冬十月丙午夜彗星見東南>>51 p.一二八
    • [27] 現行長暦 10月朔乙酉 22日丙午
    • [28] 続日本後紀承和5年「十一月辛未彗星見東方是星起十月廿日至今月十七日」
    • [29] 日本紀略承和5年「冬十月壬寅是夜彗星見東南
      • [30] 22日壬寅なら1日辛巳
      • [59] 続日本後紀によったはずなのに異なるのは、 当時「十月二十二日壬寅」とあったのを現存続日本後紀は長暦によって訂正している
    • [31] 現行長暦でこの付近では承和6年9月朔己卯, 承和6年閏正月
    • [32] 暦法により2日の差が生じることがあるから、 承和6年己酉9月が「[承和五年戊申]冬十月壬寅」
      • [58] 年干支が1年引き下げられている
  • [60] 寛文十三年版日本三代実録貞観17年「三月十三日丙申>>51 pp.一二九-一三〇
    • [61] 宮内庁書陵部所蔵谷森健男旧蔵本「三月十三日癸巳」
    • [63] 新訂増補国史大系編者校合: 現存諸写本は「三月十三日癸巳」
    • [64] 現行長暦 貞観17年3月1日辛巳 3月13日丙申, 貞観18年3月1日己卯
    • [62] 暦法により2日の差が生じることがあるから、 貞観18年丙申3月が「[貞観十七年乙未]三月十三日癸巳」
      • [65] 年干支が1年引き下げられている
    • [66] 日本三代実録編纂時の資料に「貞観十七年三月十三日癸巳」 のようなものがあったが、編者が現行紀年法に換算し忘れた、 諸写本はそのまま伝えているが寛文版本は現行長暦の暦日に訂正されている
  • [67] 寛文十三年版日本三代実録元慶7年「三月三日己巳」 >>51 p.一三〇
    • [68] 宮内庁書陵部所蔵谷森健男旧蔵本「三月三日丙寅」
    • [69] 新訂増補国史大系編者校合: 現存諸写本は「三月三日丙寅」
    • [70] 現行長暦 元慶8年3月1日壬戌
    • [71] 暦法により2日の差が生じることがあるから、 元慶8年甲辰が「[元慶7年]三月三日己巳」
      • [72] 年干支が1年引き下げられている
  • [73] 年干支が1年引き下げられ月朔2日のずれの4例 >>51 p.一三一
    • [74] 従来誤った暦日と片付けられていた
    • [75] 4例まったく同一性質、現行長暦と一定の時間的距離だから、 偶然的な誤りでないこと明らか
    • [76] 1年引き下げられた干支紀年法、 現行長暦とは異質の暦法によっていることわかる
  • [77] 類聚国史巻第二十八天皇還御 「承和五年十二月辛酉朔乙丑」 >>51 pp.一三一-一三三
    • [78] 続日本後紀にこの記事なし
    • [79] 現行長暦 承和5年12月朔乙酉 12月に辛酉も乙丑もなし, 承和4年11月朔辛酉
    • [80] 続日本後紀 承和4年「冬十一月辛丑朔」 類似記事
    • [89] 類聚国史は現存続日本後紀でなくその原本によった
      • [90] 原本がそうだったのは編纂原資料に異質の暦日があり編者が換算しなかった
      • [91] 後人が長暦に合致しないので承和5年から承和4年に移動した
    • [92] 現行長暦の承和4年11月を承和5年12月と呼ぶ = 置閏法を異にする暦法、1年引き上げられた紀年法
  • [93] 日本後紀桓武天皇紀 「延暦十八年春正月丙午朔乙丑」(20日) 和気広虫>>51 pp.一三三-一三五
    • [95] 日本後紀延暦18年2月乙未(21日) 「延暦十七年正月十九日薨」
    • [96] 和気清麻呂伝 「延暦十七年戊寅正月十九日薨」
    • [99] 年と日が違っている、誤写ではない
    • [98] 果たして誤りか
    • [100] 平安時代に一年引き下げられた干支紀年法が行われたことは明らか, よって紀年法差と考えられる
      • [103] 現行紀年法「延暦18年1月20日乙丑」 = 「延暦17年1月19日」
      • [101] 19日乙丑なら1日丁未
      • [102] 現行長暦 1日乙巳
      • [104] 2日ずれがある
    • [105] 仁和4年5月の事例は現行長暦寛平元年5月と2日の差異があるにも関わらず、 日本紀略寛平元年5月朔と1日差, これと同質で日本後紀「延暦18年1月20日」はこれを現行干支紀年法に換算したもの
    • [106] 現行紀年法承和4年を類聚国史が承和5年、 現行紀年法延暦18年を日本後紀が延暦17年
      • [107] 年干支と月朔干支には構造的関連があるが、年号紀年と月朔干支の間にはない
      • [108] 菅家文草仁和4年歳次戊申は仁和4年が西暦888年から1年引き下げられて西暦889年に位置するのではなく、 「歳次戊申」が1年引き下げられて西暦889年の月朔干支を用いている
        • [109] 現行干支紀年法にくらべて年干支が1年引き下げられている
        • [110] 「仁和四年戊申」と称するが現行月朔干支表「仁和五年己酉」に位置する, 仁和5年が戊申年に当たる, 相対的に年号紀年が1年引き上げられている, 仁和4年戊申を仁和5年と称することになる
        • [113] 「仁和四年戊申」と称するが現行月朔干支表「仁和五年己酉」に位置する, 仁和4年が仁和5年に位置しているといえる
          • [114] 換算する場合に仁和4年を仁和5年とすることがあった
            • [116] 暦日の換算が簡便なので、 1年引き下げられた干支紀年法の原資料の暦日を現行紀年法に換算する場合に比較的多く用いられたと推測される
          • [115] 日本後紀延暦18年はこれに属する
  • [117] 日本紀略淳和天皇天長4年「五月庚辰」(20日) 経国集撰上 >>51 p.一三六
    • [118] 現行長暦 5月1日辛酉 20日庚辰
    • [119] 経国集序 「天長四年五月十四日」
    • [120] 撰上に6日差を生ずるはずないので同一時点、この解釈に誤りがなければ14日庚辰、1日丁卯
    • [121] 現行長暦 天長3年5月1日丁卯
      • [123] 序文「天長四年」は現行紀年法天長3年に位置する
    • [122] 1年引き下げられた干支紀年法、月朔干支表天長3年丙午が天長4年丁未に位置するから、 天長4年が丙午年に当たり、 相対的には天長4年が1年引き上げられ、 丙午年に当たる天長3年に位置する
      • [125] 類聚国史承和5年と同一性質、 1年引き下げられた干支紀年法の変形されたもの
  • [126] 文徳実録撰進 >>51 pp.一三七-一三八
  • [134] 平安時代に一年引き下げられた干支紀年法が用いられたことは疑う余地のない事実と断定して誤りない >>51 pp.一三八-一三九
    • [135] 国史編纂の原資料や祭文や国史・経国集などの序文に使用されている
  • [265] 政事要略巻六十九「国史云持統天皇十年冬十月庚午朔乙酉」 >>264 pp.二八〇-二八二
  • [276] 日本書紀持統天皇7年「二月庚申朔壬戌」 >>264 p.二八二
    • [278] 現行長暦 2月朔庚申
    • [277] 北野本および中臣本所引異本「二月辛酉朔壬戌」
      • [279] 字形から誤写とは考えにくい
      • [280] 後人が暦日を改めたとも考えられない
      • [281] 何か根拠をあってこの暦日
    • [282] 政事要略と同一性質の1日のずれ
  • [283] 日本書紀持統天皇8年「五月癸未朔戊子」(6日) >>264 pp.二八二-二八四
  • [290] 日本書紀持統天皇9年「八月丙子朔乙巳」(30日)「九月乙巳朔戊申」 >>264 p.二八四
    • [291] 乙巳が30日なら8月は大、9月1日が乙巳なら8月は小
    • [292] 現存日本書紀は8月を小とするが、旧日本紀の暦法は8月乙巳が存在したため
  • [293] 一年引き下げられた干支紀年法 >>264 pp.二八五-二八八
    • [294] 万葉集18左注「日本書紀曰六年丙寅春三月辛酉朔己卯」
    • [297] 万葉集21左注「紀曰天皇七年丁卯夏五月五日」
    • [300] 本文と即位紀年は合致、干支紀年のみ1年ずれ
      • [301] 左注の誤引用ではない
      • [306] 現存日本書紀は年干支と月朔干支の関係が現行長暦と合致
      • [307] 左注丙寅年が現行紀年法丁卯年 = 西暦667年を指すこと明らか、 左注日本紀の紀年法は現行紀年法より年の干支を1年引き下げているか、 即位紀年が1年引き上げられているとも
        • [308] 左注の月朔干支より、即位紀年の1年引き上げでなく、干支紀年を1年引き下げている
  • [309] 続日本紀文武天皇二年八月丁未条「天智天皇五年」 >>264 pp.二八八-二八九
  • [315] 万葉集50左注「日本紀曰朱鳥七年癸巳秋八月八年甲午春正月冬十二月庚戌朔乙卯」 >>264 pp.二八九-二九〇
    • [316] 日本書紀持統天皇7年「八月戊午朔」8年春正月乙酉朔「乙巳十二月庚戌朔乙卯」
    • [317] 日本書紀持統天皇元年が左注朱鳥元年
    • [318] 左注の作為とは考えられないから、旧日本紀からの引用と見て誤りないであろう
    • [319] 年の干支と月朔干支の関係は一致
    • [320] 左注日本紀と現存日本書紀の年干支は一致
  • [321] 万葉集195左注「日本紀曰朱鳥五年辛卯九月己巳朔丁丑」 >>264 pp.二九〇-二九一
    • [322] 現存日本書紀持統天皇「五年九月己巳朔丁丑」(辛卯年)
    • [323] 年の干支と月朔干支の関係は一致
    • [324] 年干支は移動されていない
  • [325] 現存日本書紀は朱鳥元年のみで廃止されているが、 左注日本紀は朱鳥8年まで使用し、 元年の位置は異なる。 異なる日本紀であること明らかだが干支紀年は同様 >>264 pp.二九一-二九一
    • [326] 天智紀, 天武紀では年の干支が1年引き下げ、 持統紀では現存日本書紀と一致, 干支紀年法は連続性を有するものなのに不可解
  • [330] 現存日本書紀 持統天皇元年丁亥、11年丁酉8月1日譲位 >>264 pp.二九一-二九三
    • [327] 一代要記持統天皇「丁亥歳為元年丙申八月一」譲位
    • [328] 帝王編年記持統天皇 元年丁亥、10年まで、「十年丙申八月一日」譲位
    • [329] 流布本水鏡持統天皇 丁亥元年 10年譲位 (丙申)
    • [331] 1年引き下げられた干支紀年法の丙申年なら、現行干支紀年法丁酉年 = 西暦697年で一致
    • [332]日本紀では持統天皇在位10年、丙申年8月1日譲位と思われる
  • [333] 現存日本書紀持統天皇6年「夏四月丙申朔丁酉」(2日) >>264 pp.二九三-二九四
    • [334] 北野本「四月丙申朔丁酉」(2日)
    • [335] 字形から誤写とは考えられない
    • [336] 同一日付なので換算操作であること明らか
    • [337] 8日差、そのような曆は存在せず不可解
    • [338] 現行長暦 持統天皇7年5月己丑朔、7月戊子朔
      • [339] 4月が7月に位置することあり得ない
      • [340] 朔1日差の5月に位置すると考えられる
    • [341] 天平勝宝9歳3月29日辛酉と同一性質の暦日
      • [342] 「四月戊子朔己丑」は持統天皇6年壬辰と称するが干支を1年引き下げた持統天皇7年癸巳に位置する暦日
    • [343] 北野本の1年引き下げられた干支紀年、 後人の作為とは考えられない、 旧日本紀の暦日の残存
    • [344]日本紀の持統紀は年の干支が1年引き下げられていると見て誤りない
  • [345] 旧持統紀の干支紀年が1年引き下げられているから元年干支が異なるはずなのに、 どちらも元年丁亥 >>264 pp.二九四-二九五
    • [346] 現存持統紀は旧持統紀にくらべて持統天皇即位年を1年引き下げている
    • [347] よって干支紀年が即位紀年を帯同して1年引き下げられているから
    • [348] 現存日本書紀と旧日本紀が天智天皇、天武天皇、弘文天皇の在位年数を異にしているため
    • [349] 持統紀の干支が1年引き下げられているなら、左注の暦日が矛盾する
      • [350] 左注の暦日は現存日本書紀で訂正されているものが混在している
  • [351] 万葉集44左注 「日本紀曰朱鳥六年壬辰五月乙丑朔庚午」 >>264 p.二九五
  • [356] 旧事本紀 >>264 pp.二九七-三一五
    • [357] 仁賢天皇「十一年(戊寅)秋八月庚戌朔丁巳」武烈天皇「元年(戊寅)十一月戊寅朔戊子」 「二年己卯春三月丁丑戊寅」「八年冬十二月壬辰朔己亥」
      • [358] 日本書紀 仁賢天皇「十一年(戊寅)秋八月庚戌朔丁巳」 武烈天皇 (即位前) 「十一年十二月」「元年春三月丁丑朔戊寅」「八年冬十二月壬辰朔己亥」
      • [359] 旧事本紀は武烈天皇元年・2年の位置を日本書紀より1年引き上げている
      • [360] 称元法の違いなら崩御は8年でなく9年になるはず
      • [361] 8年は現存日本書紀、元年・2年は他の資料によったための矛盾と思われる
        • [362] 元年・2年のみ崩年称元法によるか、 現行紀年法より1年引き下げられた干支紀年法のため即位紀年が1年引き上げられているように見えるか
      • [363] 旧事本紀 度会延佳校訂鼇頭旧事紀 「元年」の2字がなく「二年」が「元年」
      • [364] 新訂増補国史大系本 延佳本による
      • [365] 延佳本は日本書紀で校訂したと思われ原形とは考え難い
    • [366] 安康天皇「三年秋八月甲申朔壬辰」雄略天皇「元年十一月壬子朔甲子」「二年丁酉春三月庚戌朔壬子」 「廿三年己未秋八月庚午朔丙子」
      • [367] 日本書紀 安康天皇「三年秋八月甲申朔壬辰」雄略天皇 (即位前 安康天皇3年)「十一月壬子朔甲子」 「元年春三月庚戌朔壬子太歳丁酉」 「廿三年八月庚午朔丙子」
      • [368] 旧事本紀雄略天皇元年が日本書紀より1年引き上げられている
      • [369] 旧事本紀雄略天皇23年は戊午年でなければならないのに1年ずれている
      • [370] 2種の資料によったもの、元年は現存日本書紀以外、 元年のずれは称元法の違いか干支紀年法によるずれ
      • [371] 度会延佳校訂鼇頭旧事紀 (延本) 雄略天皇元年「元年十一月壬子朔」の「元年」がなく「二年丁酉」が「元年丁酉」、 他の諸本と違う
      • [372] 新訂増補国史大系本 元年頭注「元年、延本无。按書紀誤。当削。」 二年頭注「二、当拠延本及書紀作元。」
      • [373] 鎌田純一 先代旧事本紀の研究 (校本の部) 二年頭注「二、拠延本当作元」
      • [374] 延本校訂は延佳が日本書紀と比較して校訂したものと思われる
    • [375] (欽明天皇即位前) 「武小広国押盾天皇四年(己未)冬十月」 「元年歳次己未冬十二月庚辰朔甲申」 「二年(庚申)春正月庚戌朔甲子」 「三年(辛酉)春二月」 「十五年(甲戌)春正月戊子朔甲午」 「三十二年(辛卯)夏四月戊寅朔壬辰」
      • [376] 日本書紀 (欽明天皇即位前) 「四年(己未)冬十月冬十二月庚辰朔甲申」 「元年(庚申)春正月庚戌朔甲子太歳庚申」 「二年(辛酉)春三月」 「十五年(甲戌)春正月戊子朔甲午」 「三十二年(辛卯)夏四月戊寅朔壬辰」
      • [377] 旧事本紀は元年、2年、3年を1年引き上げ。15年、32年は一致。 称元法か干支1年引き下げか。
    • [378] 仲哀天皇「九年(庚辰)春二月癸卯朔丁未」神功皇后「元年冬十月丁巳朔甲子大歳辛巳改為摂政元年」 「二年冬十一月丁亥朔甲午」「三年春正月丙戌朔戊子」「六十九年夏四月辛酉朔丁丑冬十月戊午朔壬申」
      • [379] 日本書紀 仲哀天皇「九年(庚辰)春二月癸卯朔丁未」神功皇后元年「冬十月癸亥朔甲子大歳辛巳即為摂政元年」 「二年冬十一月丁亥朔甲午」「三年春正月丙戌朔戊子」「六十九年夏四月辛酉朔丁丑是年也太歳己丑」
      • [380] 元年10月朔干支相違, 現行長暦元年10月朔癸亥, 2年10月朔丁巳
      • [381] 旧事本紀元年は実は日本書紀2年を指している
      • [382] 字形から誤写ではない
      • [383] 日本書紀甲子日は2日、旧事本紀甲子日は8日でどちらも同じ月
      • [384] してみると旧事本紀辛巳年は干支が1年引き下げられた紀年法
      • [385] 2年、3年、69年が日本書紀と合致するから、 異種の紀年法が混在
      • [386] 称元法の差だとすると、日本書紀と同じ踰年に形式的には見えるが、 旧事本紀元年は実質的に壬午年に位置するから、踰年法より1年引き下げて空位を生じている
      • [387] 従って称元法の差異ではなく旧事本紀が年の干支を1年引き下げている
    • [388] 応神天皇即位前 「歳次庚辰冬十二月皇太后摂政三年立為皇太子時年三歳」
      • [389] 延本 「三歳」を「四歳」と訂正
      • [391] 旧事本紀摂政3年は日本書紀同様癸未年なので4歳のはず, 3歳は紀年法に矛盾が内在
      • [392] 庚辰年が1年引き下げられ辛巳年の位置だったなら3歳と一致するので、 即位前紀「歳次庚辰」も辛巳年に位置しているとわかる
    • [393] 仲哀天皇「元年歳次壬申春正月庚寅朔庚子」
      • [394] 日本書紀 仲哀天皇「元年(壬申)春正月庚寅朔庚子大歳壬申」「二年春正月甲寅朔甲子」
      • [395] 話に違いがあり日本書紀以外の資料を用いていること明らか
      • [396] 仲哀天皇即位が壬申年正月庚寅朔庚子、元年、は共通。その後の日本書紀元年9月、 11月、閏11月の記事が旧事本紀では即位の日。 日本書紀2年1月が旧事本紀元年1月即位日。 日本書紀2年2月、3月、7月、9月が旧事本紀元年2月、3月、7月、9月。
      • [397] 旧事本紀は2種の資料による混同。 日本書紀による仲哀天皇元年壬申と他の原拠からの現行紀年法2年の位置が壬申年
      • [398] 仲哀天皇元年と成務天皇崩御、両者とも西暦190年崩御後辛未年空位。称元法に違いなし。
      • [399] 従って干支を1年引き下げている紀年法。
    • [400] 旧事本紀の一部は現行紀年法より干支が1年引き下げている紀年法を使っている
    • [401] 旧事本紀の大部分は現存日本書紀の紀年法
    • [402] 異種の紀年法の混在は旧事本紀の杜撰さを示す、編者の作為とは思えない
      • [405] 作為なら、日本書紀の紀年法と暦法によるはず
      • [403] 紀年法の性質の違いに留意しなかったか、知らなかった
      • [404] 旧事本紀の1年ずれた干支紀年法は、現存日本書紀成立後の作為でなく、 成立以前に既に存在した紀年法
  • [406] 扶桑略記 >>264 pp.三一五-三二九
    • [407] 応神天皇「四十一年庚午二月十五日天皇春秋百一歳崩一云百廿二崩元年庚寅相当晋第一主武皇帝泰始五年一云当太 始六
      • [408] 太始は泰始の通用だろう
      • [409] 現行紀年法応神天皇元年庚寅 = 泰始6年
      • [410] 扶桑略記応神天皇即位前「庚寅歳正月丁亥日行年七十即位」2年「二年辛卯三月壬子日」
        • [411] >>407 の「元年庚寅」と一致、年齢は71のあず
      • [412] 神功皇后摂政前「冬十二月誕生皇子明年辛巳」
        • [413] 辛巳の前年なので冬12月は仲哀天皇9年庚辰(西暦200年)、応神天皇元年庚寅(西暦270年)には71歳のはず
      • [414] 日本書紀神功皇后摂政前 (仲哀天皇9年) 「十二月戊戌辰辛亥」 応神天皇「元年春正月丁亥朔皇太子即位是年也太歳庚寅」 「四十一年春二月甲午朔戊申天皇崩于明宮時年一百一十歳」
      • [416] 日本紀略 「仲哀天皇九年(庚辰)十二月戊戌朔辛亥」 「応神天皇元年(庚寅)正月丁亥朔即位年七十」 「四十一年(庚午)二月甲午朔戊申崩年百十」
      • [417] 帝王編年記 「仲哀天皇九年庚辰十二月」 「応神天皇元年(庚寅)正月丁亥朔即位七十一」 「四十一年庚午二月崩年百十一」
      • [418] 皇代記 「仲哀天皇九年庚辰誕生」 「応神天皇元年庚寅正月丁亥即位年七十」 「四十一年庚午二月崩年百十一」
      • [419] 皇年代略記 「仲哀天皇九年庚辰十二月」 「応神天皇元年庚寅正月丁亥朔即位七十一」 「四十一年庚午二月甲午朔戊申崩百十一」
      • [420] 皇年代私記 「仲哀天皇九年庚辰十二月」 「応神天皇元年庚寅正月丁亥朔即位七十一」 「四十一年庚午二月甲午朔戊申崩百十一」
      • [421] 年は一致しているのに宝算は不一致
        • [422] 宝算101の紀年法が存在したこと明らか
        • [423] 扶桑略記は紀年法に矛盾を内包している
    • [424] 応神天皇「八年丁酉夏四月」
    • [426] 泰始5年 = 己丑(西暦269年)、中国の干支紀年は後漢以来移動されたことはない、 己丑 = 神功皇后69年。即位70歳が神功皇后69歳に当たることと符合
      • [427] 扶桑略記応神天皇元年は庚寅年と称するが実は神功皇后69年己丑を指している, 扶桑略記が8年に係けるのと照応
      • [428] 日本書紀の9年と異なり扶桑略記が8年なのは、 日中対比、即位宝算と同様に1年引き上げられているから、偶然的な誤りとは考えられない
    • [429] 扶桑略記応神記に2種の紀年法が混在している。
      • [430] 1年引き上げられた紀年法。
        • [431] 旧事本紀では神功皇后元年の干支が1年引き下げられている
        • [432] 干支が1年引き下げられている干支紀年法で神功皇后69年は戊子年、 応神天皇元年は己丑年
        • [433] 扶桑略記宝算70歳は1年引き下げられた干支紀年法 = 旧干支紀年法 = 旧紀年法
      • [434] つまり誕生年と崩御宝算は現行干支紀年法、即位宝算は旧干支紀年法
      • [435] 旧干支紀年法では、泰始5年 = 己丑年 = 応神天皇元年。 現行干支紀年法では、年の干支が1年引き上げられ、泰始6年 = 庚寅年 = 応神天皇元年。
        • [436] 宝算1歳ずれと同一性質。
    • [437] 日中のずれは他にも
      • [438] 顕宗天皇「元年乙丑。相当後魏文帝十四年一云斉王永明三年
      • [439] 仁賢天皇「元年戊辰。相当後魏文帝十七年一云当斉王永明六年
      • [440] 武烈天皇「元年己卯。相当後魏文帝廿八年一云当斉王永元元年
      • [441] 顕宗天皇を1年引き上げている、年干支については1年引き下げている
      • [442] 分注は現行干支紀年法
      • [443] 扶桑略記編者は本文で原拠に従い分注で現行干支紀年法による対比を示した
      • [444] よって扶桑略記編纂当時現行干支紀年法にくらべ年干支を1年引き下げた紀年法による文献が存在したこと明らか
      • [445] 扶桑略記編者の誤りなら分注で現行干支紀年法と合致する一説として記すはずがない
      • [446] 1年ずれという一定数なので偶然的な誤りとは考えられない
    • [447] 他の年代記類も同様
    • [448] 帝王編年記神功皇后 「五十九年己卯当魏廃帝甘露三年也」
    • [451] 写本伝写時、書写者が原本の誤りを発見すれば訂正することが多いだろう
    • [455] 2種以上の史籍、同一事件の記述
      • [456] 事件の記述が相違することがあるのは当然だが、 生起した時点が2回以上とは考えられないから、信憑されるものを準拠として訂正され次第に画一化される傾向
    • [457] 異種の紀年法によるものと知られていた時代は日付の相違はそのまま伝えられるだろう、 記憶が喪失されると誤りとされ訂正が加えられると思われる
    • [458] 内容に後人が作為は可能性あるが、 事件の日付の恣意変改はほとんど考え得られない、標準となるものに合わせられるだろう
  • [461] 続日本紀 >>264 pp.三二九-三三六
    • [462] 1年引き下げた干支紀年法が現存日本書紀成立以前に使用されていたこと明らかにできた
    • [463] 奈良時代に1年引き下げられた干支紀年法が施行されていた事実を明らかにできれば、 旧日本紀が1年引き下げられた干支紀年法によって編纂されたことの1つの根拠となろう
    • [464] 廃帝 (淳仁天皇) 即位前紀 「天平勝宝九歳三月廿旧日辛丑四月四日乙巳」
    • [486] 聖武天皇即位前 「勝宝七歳勅」
      • [487] 続日本紀天平勝宝7年になく、天平勝宝8歳5月1日条に
      • [488] 天平勝宝7歳乙未が1年引き下げられ天平勝宝8歳丙申に位置していたため、 1年引き下げられた干支紀年法の例証
    • [489] 天平勝宝9年当時現実の生活の目盛として用いられたか、後人の換算か
      • [490] 「三月十九日」の日付は同一なのに干支が異なる
      • [491] 類聚三代格所収金石文写経奥書などによれば奈良時代に数字日付が行われ、 間々干支が付記、 数字紀日が基準で干支は付帯的
      • [492] よっていずれも当時の紀日法で同じ「天平勝宝9年3月29日」時点を指すが、 現行紀年法を用いる人は丁丑日と呼び、1年引き下げられた干支紀年法を用いる人は辛丑日と呼んだ
      • [493] 両者はいずれも現実の生活に用いられたといえる
      • [494] しかし一方が現実の暦日、他方が異種の紀年法によって換算した場合もあり得る
        • [495] 1年引き下げられた干支紀年法は現存続日本紀に僅かに痕跡を留めるに過ぎないから、 現存続日本紀以前に行われたと思われる
        • [496] 日本書紀の紀年矛盾同様、改删で編年紀は換算されたのに即位前紀は見落とされたためだろう
        • [497] よって一方から他方への換算なら3月29日辛丑が原拠で3月29日丁丑は換算、 3月29日辛丑が現実に用いられた暦日
          • [498] 宮中記事なので、天平勝宝9年当時現実の生活の目盛、しかも政府が使用したもの
      • [499] 奈良時代に1年引き下げられた干支紀年法が施行されていた明証
      • [500] つまり奈良時代には2年引き下げられた干支紀年法も含め、 2種類以上の暦法、 少なくても2種類の紀年法が用いられた
      • [501]日本紀が1年引き下げられた干支紀年法で編年され現存日本書紀と異なる暦法で編纂されていても不思議でない, 政府記録に用いられているのだから十分あり得る
  • [502] 法隆寺薬師仏造像記「歳次丙午年」 >>264 pp.三二六-三三八
    • [503] 日本書紀用明天皇「二年夏四月乙巳朔丙午癸丑」 (丁未年 2日 9日)
    • [504] 推古朝において1年引き下げられた干支紀年法が行われたことがわかる
  • [505] 下道圀勝圀依母骨蔵器銘「和銅元年歳次戊申十一月廿七日己酉」 >>264 p.三三八
    • [506] 現行長暦 11月1日己未
    • [507] 現行長暦 和銅2年12月1日癸未
    • [508] 暦法が異なると1ヶ月ずれることがある
    • [509] 年の干支が1年引き下げられた干支紀年法
  • [510] 日本書紀推古天皇「廿九年春二月己丑朔癸巳半夜」 (5日) >>264 pp.三三八-三五五
    • [511] 上宮聖徳法王帝説「歳在辛巳十二月廿一日癸酉明年二月廿二日甲戌夜半」
      • [512] 2月1日癸丑
      • [513] 現行長暦 壬午年2月22日甲戌
      • [514] 出典 法隆寺蔵繍帳
        • [515] すなわち中宮寺所蔵天寿国曼荼羅であること明らか
    • [516] 法隆寺釈迦三尊造像記「法興元丗一年歳次辛巳十二月明年正月廿二日二月廿一日癸酉」
    • [518] 上宮聖徳法王帝説 「上宮聖徳法王又云法主王甲午年産壬午年二月廿二日薨逝也」
    • [519] 上宮太子伝「即位廿九年辛巳春二月廿二日半夜」「来年二月廿二日」
    • [523] 上宮太子拾遺記第一「法隆寸安功徳講表白云小治田宮御宇推古天皇御位丗歳歳次壬午即唐高祖神堯皇帝武徳五年二月二十二日甲戌夜半」
    • [524] 壬午年二月二十二日説は法隆寺に伝えられた説とみて差し支えない
    • [525] 聖徳太子伝暦推古天皇二十九年「廿九年春二月」 「来年二月五日或説曰二月廿日必死必死」「明年二月廿二日」
      • [526] 本文は矛盾している
      • [527] 分注は矛盾に気づいて撰者か後人が施したのだろう
      • [528] このような矛盾が生じたのは5日説と22日説が並び行われたから
    • [529] 扶桑略記推古天皇「廿九年辛巳二月廿二日一云丗年壬午二月五日」
    • [530] 帝王編年記, 一代要記など 29年辛巳2月22日
    • [531] 皇代記, 皇年代略記, 皇年代私記など 29年2月5日
    • [532] 南岳大師
      • [533] 扶桑略記敏達天皇6年丁酉6月22日条 陳太建9年6月22日 (敏達天皇6年) 没
      • [534] 唐大和上東征伝, 宝亀10年との比較より、扶桑略記がこれを引用していること明らか
        • [535] 宝亀年間、聖徳太子を南岳大師の後身とする伝説が存在したことがわかる
      • [538] 仏祖統記巻第六 南岳大師 太建9年6月22日没
      • [541] 上宮太子拾遺伝第一 「又依弘賢法花伝第四云陳太建九年丁酉六月廿二日」 「南岳思禅師法門伝云至太建九年六月二十二日」
      • [536] 後身説の年代矛盾は平安時代から問題に
      • [539] 上宮太子拾遺伝入胎異説事「法隆寺旧記中云第三十一敏達天皇元年壬辰唐建徳元年壬辰南岳大師入滅癸巳并此年入胎聖徳太子誕生云々」
        • [540] 入滅を北周建徳元年 (西暦572年) 聖徳太子誕生を翌年の敏達天皇2年癸巳とし、 矛盾を解決
      • [542] 諸書にある南岳大師入滅6月22日は間違いないだろう
      • [543] 聖徳太子6月22日説は奇跡的色釈が濃厚
      • [544] 南岳大師入滅との関連で、歴史的事実の月日と解し難い
      • [545] 成立時点は釈迦三尊造像記・繍帳にあるから養老4年の日本書紀以前であること間違いない
      • [546] 日本書紀の2月5日が歴史的事実だとすると、法隆寺の記録が伝説のみ記録することがあり得るか
      • [547] 造像記などの伝説が1年ずらすのはなぜか
      • [548] 2月5日説も事実か疑わしい、両説とも疑わしいが、成立根拠を明らかにできる2月22日説を有力と認めるべき
      • [549] 壬午年2月22日説は現存日本書紀以前からの有力説と思われるが、 日本書紀の辛巳年2月5日説は孤立的で一般的とは思われない, 特殊な年月日で日本書紀独特の作為
      • [550] 旧干支紀年法の辛巳年 (推古天皇30年) を現行紀年法に切り替えて推古天皇30年にかけるべきを、 切り替えずに推古天皇29年にかけたため、1年ずれが生じた
      • [551] 5日と22日の17日差は直接の換算関係ではない、 いかなる計算で求められたか具体的に明らかにすること困難、 しかし孤立的で特殊な性格ゆえ22日が原形で5日は換算であること間違いない
    • [552] 日本書紀寛文9年刊本:「三十一年」、「三十二年」、「三十三年」、「三十四年」
      • [553] 東洋文庫所蔵岩崎本:「三十年」傍書「一」、「三十一年」「二」、「三十二年」「三イ」、「三十三」「四イ」
      • [554] 中臣本所引異本:、「三十一年」、、
      • [555] 寛文9年刊本 4月丙午朔 9月甲戌朔 10月癸卯朔
      • [556] 現行長暦では32年甲申でなく31年癸未と合致
      • [557] かつて干支紀年法が1年引き下げられ31年壬午、32年癸未とされた名残
    • [558] 日本書紀 推古天皇36年「夏四月壬午朔」
      • [559] 現行長暦 36年4月1日丁丑
      • [560] 字形から誤写でない
      • [561] 現行長暦 35年丁亥4月1日癸未 壬午と1日ずれ
      • [562] 1日ずれなので称元法の違いではなく紀年法と暦法の違い
  • [583] 日本書紀即位前紀 >>264 pp.三五四-三六四
    • [563] 日本書紀 仁賢天皇即位前 「白髪天皇元年冬十一月」「二年夏四月」「五年」
      • [564] 清寧天皇「二年冬十一月」「三年四月乙酉朔辛卯」
      • [565] 顕宗天皇即位前「白髪天皇二年冬十一月」「白髪天皇三年春正月」「五年春正月」
      • [567] 日本紀略仁賢天皇即位前「白髪天皇元年十一月」
      • [566] 紀年が1年引き上げられている, 雄略天皇崩御年から称元法の違いでなく、1年引き下げられた干支紀年法
      • [568] 仁賢天皇即位前紀の原拠は現存日本書紀でなく1年引き上げられた旧日本紀, 仁賢天皇即位前紀だけ換算漏れ
    • [569] 日本書紀 応神天皇元年即位前「歳次庚辰冬十二月」「皇太后摂政之三年時年三」
      • [570] 神功皇后摂政前 (仲哀天皇9年庚辰) 「十二月戊戌朔辛亥」
      • [571] 神功皇后摂政「三年(癸未)春正月丙戌朔戊子」
      • [572] 4歳のはず
      • [573] 旧事本紀同様1年引き下げられた干支紀年法
      • [574]日本紀の断片
    • [575] 日本書紀雄略天皇20年丙辰冬条、分注所引百済記蓋鹵王乙卯年冬
      • [576] 三国史記百済本紀第四 文周王元年 「蓋鹵在位二十一年」 西暦475年乙卯
      • [577] 日本書紀原資料は内容から国内資料とは思われない、 原資料は百済記同様乙卯年にかけていたに違いない
      • [578] 日本書紀編者が故意に1年引き下げて丙辰年にかけるはずない, 旧日本紀編纂時には乙卯年にかけていたに違いない, 現存日本書紀編纂時に年干支を1年引き上げたためずれた
      • [582] 西暦475年の事件を西暦476年にかけたから、実年代は1年引き下げられている, 現存日本書紀は年干支を1年引き上げ乙卯年は丙辰年とされたが、 記事は干支の乙卯に帯同されて1年引き上げられたので丙辰年にかけられることに
    • [579] 例証は必ずしも多いとはいえないが、 養老日本書紀再編纂で紀年法は完全に現行紀年法に切り替えられるべきで、 手落ちから取り残された旧日本紀断片が僅少であることは当然
    • [580] 即位前紀と編年紀の矛盾、紀年と宝算の矛盾、外国資料との齟齬など、 再編纂で注意が行き届かず換算から漏れる可能性が多い部分
    • [581] 続日本紀から検出され奈良時代に現実の生活に用いられた1年引き下げられた干支紀年法が、 日本書紀以外の金石文等から検出され、 日本書紀にも内在する、 万葉集左注日本紀とも一致する、 旧日本紀の紀年法と断定して誤りないであろう
  • [584] 続日本後紀承和6年「八月戊寅以庚午年以乙未年>>264 p.三六五
    • [585] 平田耿二 持統天皇9年乙未 西暦695年
    • [586] 造籍は持統天皇10年
    • [587] 乙未年は持統天皇4年庚寅の造籍の5年後、六年一籍制に合致しない
    • [588] 1年引き下げられた干支紀年法
  • [589] 続日本紀大宝元年「八月癸卯」 >>264 p.三六六
  • [593] 正倉院御物最勝王経竹帙銘 「依天平十四年歳在壬午春二月十四日勅」 >>264 pp.三六七-三六八
    • [594] 国分寺建立勅 天平13年3月24日説と天平13年2月14日説
    • [595] 天平14年壬午は現行紀年法
    • [596] 1年引き下げられた干支紀年法, 天平14年は辛巳年, 辛巳に着目して天平13年2月14日を1年引き下げられた干支紀年法で呼ぶと天平14年2月14日があり得る, 正確には「天平十四年歳在辛巳」とよぶべきだが、 1年引き下げられた干支紀年法による天平14年と呼び、現行干支紀年法により壬午とした, 1年引き下げられた干支紀年法の正しい呼び方ではなく後世の人が過去の年を呼ぶ場合に起こる現象

四分暦

[619] 一年引き下げられた干支紀年法四分暦の一種と併用されていたとも主張されています。

[1079] 初期には顓頊暦 (実際にはそのバリエーション) 説が主張されました。

[597] 日本書紀暦法 >>264 pp.三七二-四三七

[620] 奈良時代の暦法 >>618

[1080] 晩年には黄帝暦 (実際にはそのバリエーション) 説が主張されました。 >>977

[787] 直接関係ありませんが、古代日本四分暦が用いられたとする説は過去にもありました。 平田篤胤太昊古暦を参照。

二年引き上げられた干支紀年法

[1039] 二年引き上げられた干支紀年法

  • [139] 続日本紀の暦日は最近暦学者が疑問提起 (科学史研究第四〇号所収奈良朝前後の暦日, 今井溱)、紀年法は疑いを挟んだ学者なし >>138 p.二二一
  • [140] 大宝元年遣唐使 >>138 pp.二二二-二二九
  • [159] 持統上皇崩御 >>138 pp.二二九-二三四
    • [160] 続日本紀 大宝2年「十二月甲寅」
      • [161] 現行長暦 22日甲寅 12月1日癸巳 12月10日壬寅
    • [162] 皇年代私記持統天皇 「大宝二年十二月十日甲寅
    • [163] 一代要記持統天皇 「大宝二年壬寅十二月十日甲寅」
    • [164] 扶桑略記大宝2年「十二月十日甲寅」
      • [165] 無窮会所蔵藤影尾張真福寺本、宮内庁書陵部所蔵新井白石旧蔵抄本「十二月十日甲寅」
      • [166] 新訂増補国史大系本の底本である文政3年刊本「十二月二十二日甲寅」
    • [168] 帝王編年記大宝2年「十二月十日」
    • [169] 歴代皇紀文武天皇 「大宝二年十二月十日」
    • [170] 興福寺略年代記大宝2年「十二月十日」
    • [171] 紹運要略 「大宝二年壬寅十二月十日」
    • [172] 年代記類の撰者の作為でなく基づくところがあったと思われ、 単純に錯誤と片付けるべきでない
    • [173] 10日、22日のどちらも甲寅、日番号はどちらか断定できずとも干支は甲寅であることを意味する
    • [174] 三正綜覧 文武天皇4(700)年10月と12月 1日乙巳 10日甲寅
      • [175] 年代記類「大宝2年12月10日甲寅」は長暦上現行紀年法文武天皇4年10月または12月にあった
      • [176] 異種の暦法とすれば暦日の差は高々1日、文武天皇4年8月丙午朔か大宝元年2月甲辰朔か大宝元年4月甲辰朔
      • [177] 12月が8月や4月にあるとは考えられないから、文武天皇4年10月か12月としていい
    • [178] つまり続日本紀と年代記類で紀年法が異なり、 年代記類は現行紀年法に対して2年引き上げられている
      • [179] 同じ「大宝2年」でも続日本紀では西暦702年、年代記類では西暦700年
    • [216] 12日差 >>138 p.ニ五一
  • [180] 帝王編年記, 王年代記, 年代記類で全く内容が異なるが同じ性質、 現行紀年法より二年引き上げられた紀年法 >>138 pp.二二三-二三四
    • [181] 現行紀年法より二年引き上げられた紀年法がかつて存在したことを確証している
    • [182] 旧唐書, 新唐書の長安3年、長安元年も現行紀年法と2年引き上げられた紀年法の存在を反映
    • [183] いずれが大宝、慶雲の当時に現実に行われたかは要検討
  • [184] 続日本紀宝亀6年冬10月壬戌条、吉備真備死去。霊亀2年22歳、 天平5年帰朝、 死去時83歳。 >>138 pp.二二五-二三九
    • [185] 81歳のはず
    • [186] 天平5年に帰朝記事なし
    • [187] 天平7年4月辛亥に献上記事あり、3月丙寅の遣唐使帰朝に従ったに違いない
    • [188] 異種紀年法 (2年引き上げられた紀年法) 天平7年は現行紀年法天平5年
    • [189] 霊亀2年は現行紀年法による西暦716年でなく2年引き上げられた紀年法の西暦714年
    • [190] 現存続日本紀は、異種紀年法にくらべて2年引き下げられているが、 たまには「天平5年」のように異種紀年法による位置を現行紀年法で呼んでいるものもある
      • [191] 続日本紀の記事に齟齬が多い、年月日に撞着が多いのは、主としてこれによる
      • [192] 83歳が正しい
  • [193] 続日本紀霊亀2年8月壬子(9日) 「和銅二年六月十七日符」 >>138 pp.二三九-二四二
    • [194] 続日本紀和銅2年6月癸丑にほぼ同一内容の符
    • [195] 続日本紀, 三正綜覧 和銅2年6月1日丙戌 28日癸丑
    • [196] 6月17日癸丑なら1日丁酉
    • [197] 三正綜覧
      • [198] 和銅5年10月と大宝2年6月が1日丁酉 遠すぎる
      • [199] 1日差 慶雲4年7月丙申朔, 慶雲4年9月丙申朔, 和銅5年8月戊戌朔, 慶雲4年が近い
    • [200] 和銅2年が現行紀年法より2年引き上げられていることになる
    • [214] 11日差 >>138 p.ニ五一
  • [201] 続日本紀天平13年3月乙巳(24日) 国分寺建立発願の詔 >>138 pp.二四二-二五二
    • [202] 類聚三代格 勅 ほぼ同文 「天平十三年二月十四日」
    • [203] 政事要略 「天平十三年二月十四日」
    • [204] 日本高僧伝要文抄 「天平十三年歳次辛巳春二月十四日」
    • [205] 続日本紀 天平19年11月己卯 「天平十三年二月十四日」
    • [206] 現存続日本紀編者が 異種紀年法「二月十四日乙巳」を現行紀年法「三月二十四日乙巳」に変換したと推測
    • [207] 三正綜覧 天平11年5月壬辰朔、 天平11年3月癸巳朔 (1日差)
      • [208] 現行紀年法天平13年が異種紀年法天平11年に位置していたこと明らか
    • [209] 興福寺略年代記天平11年 「始建毎州国分尼寺」
    • [215] 39日か40日差になるが、 もし30日以上の差があるなら続日本紀は2月を4月に換算したはず、 なので異種紀年法「二月」と現行紀年法「三月」は同一の月, よって10日差 >>138 p.ニ五一
    • [217] 和銅2年、天平13年とも年は2年引き上げられ、 月は1ヶ月か3ヶ月ずれている
  • [210] 興福寺略年代記養老7年 「又冬建施薬悲田二院于興福寺。古記施薬院養老五年建在之。」 >>138 pp.二四七-二五八
    • [211] 扶桑略記 養老7年 「建施薬院悲田院」
    • [212] 養老5年説、養老7年説があり、 養老7年の位置が養老5年の位置に引き上げられていた紀年法の存在を意味する
  • [218] 現行紀年法と異種紀年法の暦日の10日から12日の差と暦年の2年の差 >>138 pp.ニ五三-ニ五五
    • [219] 平朔のとき、大小月交互、15ないし16ヶ月で連大なので連大がなければ354日、 あれば355日
    • [220] 干支は60日、よって平年1年は6周と6日または5日、2年で11日ずれる
      • [223] 異種紀年法が現行紀年法より2年引き上げられたものであることはこの点でも立証される
    • [221] 続日本紀定朔なので厳密には一致しないが、 年の長さが2日以上の差を生じないから差し支えない
    • [222] 閏年は換算時に月を移動すればいいので暦日への影響は考慮不要
  • [224] 史料が少ないから的確に範囲を定めがたいが、 文武天皇4(700)年から天平11(739)年に異種紀年法が存在したことは確実 >>138 pp.ニ五四-ニ五五
  • [225] 続日本紀は数度の改修で成立したが現存続日本紀にも年代的矛盾が多い >>138 pp.ニ五五-ニ六一
    • [226] 主要因は原資料の切り張りの誤りだろう
    • [227] 年代的矛盾の主因は当時の紀年法の複数性、暦法の複雑性ではないか, 紀年法と暦法が複数あって暦日の換算だけでも困難だった
  • [228] 異種紀年法の性格 >>138 pp.ニ六一-ニ七五
    • [229] 慶雲元年、大宝3年が2年引き上げられている vs 長安元年が2年引き下げられている
      • [230] 干支紀年法は中国伝来、世界的・国際的。 即位紀年法・年号紀年法が民族的・国家的。 対比は干支紀年法を共通目盛りとしたはず。
      • [232] 干支紀年法を無視した対比とする仮定は否定される:
        • [231] 一代要記「大宝二年壬寅十二月十日甲寅」 の「大宝二年壬寅」は現行紀年法と同じ、 「十二月十日甲寅」は現行紀年法文武天皇4年。 つまり「大宝二年壬寅」は現行紀年法文武天皇4年庚子を指す。
        • [233] 帝王編年記「慶雲元年甲辰」が唐長安2年壬寅
        • [234] どちらも年干支を2年引き上げている
        • [235] 異種紀年法の年代が2年引き上げられているということは、 単に「大宝二年」「慶雲元年」の位置が二年引き上げられているのではなく、 年の干支が2年引き上げられている。
    • [236] 現存続日本紀では、異種紀年法によるものを、 現行紀年法に換算されているもの、 換算を失念して異種紀年法によっているもの、 2年引き下げて暦日を現行の暦法に換算したもの、 2年引き下げないで異種紀年法の年の位置を現行紀年法で呼んでいるものもある。
    • [237] 異種紀年法は現実の生活で用いられたか
      • [238] 格に記入されている日付はその当時の紀年法と暦法であること疑う余地ない
        • [239] 天平13年当時、異種紀年法が使われた
        • [240] しかも政府が使用された紀年法・暦法である
      • [241] 官符にある、霊亀2年8月条の「和銅二年六月十七日」も現実に使用された紀年法の可能性
      • [242] 年代記類の持統上皇崩御日、原資料をたどれば続日本紀の草案ではないか、 草案は異種紀年法で記述されていたのでは
      • [243] いずれにしても続日本紀編纂の原資料に異種紀年法の暦日が用いられたことは間違いないだろう
      • [244] 後人の作為なら続日本紀の暦日に合わせるはず
    • [245] 異種紀年法は唯一の紀年法か、特殊な場合に使用されたものか
      • [246] 現存続日本紀からはわからない、現存紀年法に換算して記述されているなら証拠にならない
      • [247] 根津美術館所蔵大般若波羅蜜多経巻二十三奥書「和銅五年歳次壬子十一月十五日庚辰竟」
        • [248] 三正綜覧 11月1日丙寅
        • [249] 干支年も干支日も一致し、現行紀年法同様西暦712年
        • [250] 写経奥書なので当時実際に行われた紀年法、暦法
      • [251] 堀口蘇山所蔵仏説弥勒成仏経奥書「維天平二年歳次庚午八月癸未朔辛卯」
        • [252] 三正綜覧 8月1日癸未
        • [253] 現行紀年法同様西暦730年
        • [254] 写経奥書なので当時実際に行われた紀年法
      • [255] 高山寺所蔵観弥勒菩薩上生兜率天経奥書「維天平十年歳次戊寅六月戊戌朔廿九日丙寅」
      • [257] 伊福吉部臣徳足比売墓誌 「慶雲四年丁未春二月二十五日」 「和銅元年歳次戊申秋七月一日」 「三年庚戌冬十月」 「和銅三年十一月十三日己未」
      • [259] 8世紀に異種紀年法と現行紀年法が存在したのだから、 異種紀年法は特殊な在り方をしたのではないか
      • [262] しかし格や官符に用いられているのは事実、 発布当時の日付そのままなら、現実の生活に用いられた紀年法になる
      • [263] ここまでの史料だけではどちらか決定できない
  • [699] 日本書紀推古天皇「十年冬十月」 >>698
    • [700] 濫觴抄「推古天皇十年十月或曰庚申年上年記」
    • [704] 現行長暦 推古天皇8年庚申 壬戌と2年差
    • [705] 異種紀年法が疑われる
    • [706] 政事要略巻二十五「儒伝云以小治田朝十二年歳次甲子正月戊申朔始用暦日」
    • [713] 上年記は2年引き上げられた紀年法の壬戌年の位置を現行干支紀年法の呼び方に改め庚申年と称した
  • [714] 日本書紀舒明天皇「十三年冬十月」 >>698
  • [747] 2年引き上げられた干支紀年法は続日本紀の範囲の年代だけでなく更に遡った年代にも適用されている >>698
  • [748] 菅家文草巻七祭連聰霊文「維貞観七年歳次乙酉九月甲子朔二十五日戊子」 >>698
    • [749] 現行長暦 9月1日己卯
    • [751] 現行長暦 貞観5年10月朔庚申
      • [752] 4日ずれ
      • [753] 四分暦のような異質の暦法と現行長暦のずれは時代が降るにつれ大きくなる
    • [754] 明らかに年干支2年引き上げられた干支紀年法, 暦法も異なること明らか
    • [755] 祭文なので現実の生活に用いられたことを示す
    • [756] 9世紀後半にも用いられたことがわかる
  • [757] 2年引き上げられた干支紀年法 >>698
    • [758] 現行長暦による暦日と、異なる暦法による暦日がある
    • [759] 異なるものの大部分は月名1ヶ月、朔1日または2日のずれで同一性質
    • [760] 奈良時代続日本紀と異なる暦法が行われたこと疑う余地のない事実
    • [761] 出三蔵記集序巻第十一「秦建元十五年十一月五日歳在鶉尾」 「太歳己卯鶉尾之歳十一月十一日」
      • [762] 前秦建元15年 西暦379年 己卯
      • [763] 歳在鶉尾 = 巳
      • [765] 現行干支紀年法と2年引き上げられた干支紀年法の併記
      • [764] 前秦で2年引き上げられた干支紀年法が行われたことを示す明証
    • [766] 文選巻三魏馬賦の劉良注「其銘曰惟魏四年歳在丙申竜次大火五月丙寅」
      • [767] 後漢献帝建安21年 西暦216年 丙申
      • [768] 竜次大火 = 戌
      • [769] 2年引き上げられた干支紀年法
    • [770] 秦漢瓦磚集録所収瓦当「惟漢三年大并天下」
      • [771] 史記, 漢書 漢5年 (西暦紀元前202) 天下統一
      • [772] 現行干支紀年法 漢高祖5年己亥 3年丁酉
      • [773] 2年引き上げられた干支紀年法 漢3年己亥
      • [774] 紀年法の違いで漢3年と漢5年の違い
    • [775] 帝王編年記 周昭王 「周紀曰二十六年甲寅四月八日」 「釈霊実云二十四年甲寅四月八日」
      • [776] 紀年法の違いによるとすれば年干支を2年引き上げられた干支紀年法
      • [777] 古今帝王年代暦
      • [781] 現行干支紀年法神武天皇元年 周恵王17年 西暦紀元前660年
      • [782] 周僖王3年 西暦紀元前679年 19年差
      • [783] 愚管抄第一皇帝年代記神武天皇 「元年辛酉歳如来の滅後二百九十年云々又相当周世第十六代の主僖王三年云々一説以周恵王十七年辛酉当之此説為吉至当時無相違之故歟」
        • [784] 「恵王17年説が正しい、現行紀年法に合致するから」
      • [814] 奈良時代に数種の年代歴が船載、史籍編纂に影響 古今帝王年代暦
      • [818] 続日本紀「草案」は年代歴ではないか
        • [819] だとすると年代歴は2年引き上げられた干支紀年法
    • [822] 中国で3,4世紀に2年引き上げられた干支紀年法が用いられたこと明らか、 奈良時代で行われること十分にあり得る
    • [823] 釈霊実帝王年代暦を除外しても、2年引き上げられた干支紀年法は中国から伝来と考えられ、 奈良時代に現行干支紀年法と並行して用いられた
    • [824] 2種暦法が並行することはあり得るが、異種の紀年法が並行して現実の生活に用いられるか
      • [825] 大宝元年の一部の人が大宝三年と称するのはあり得ない
      • [826] 大宝元年辛丑に癸卯年と称することはさほど不便ではない, 現実の生活に用いられたと思われる
    • [827] 天平19年条の格より、2月14日は現実の生活で用いられた暦日、 3月24日は現行紀年法の暦日に換算したもの
    • [828] 王年代記等の年代記類の異種の紀年の原拠となった史籍が存在したのではないか、 それは続日本紀の「草案」ではないか
      • [829] 奈良時代の紀年法と唐代の年代歴, 芸林第12巻第3号, 第4号, では2年引き上げられた紀年法は現実の生活に用いられた紀年法ではなく、 過去の年代を編年する場合に使用された、としていたが、その後の研究により改めた
  • [873] 扶桑略記「和銅五年上奏日本紀」 >>872
    • [874] 現行干支紀年法に比べ二年引き上げられた干支紀年法
    • [875] 続日本紀「和銅七年(甲寅)二月己丑朔戊戌」
    • [881] 扶桑略記「和銅七年甲寅正月」
    • [879] 三正綜覧和銅5年2月朔庚子 2月戊戌は59日 正月朔庚午 1月戊戌は29日
    • [880] 2年引き上げられた干支紀年法では「和銅五年正月庚午朔戊戌」に位置する
    • [882] 現存続日本紀の原拠の資料「甲寅年正月戊戌」 (現行長暦和銅5年1月) → 現存続日本紀 現行干支紀年法に改め和銅7年1月に移動しようとしたが、 和銅7年1月庚申朔39日戊戌となるから、2月己丑朔10日戊戌とした
      • [883] もっとも現存続日本紀編者は2年引き上げられた干支紀年法の1月が現行干支紀年法2月であることを知っていたはずで、 簡単に「正月戊戌」から「二月戊戌」に改めた
    • [884] 和銅2年6月17日官符の例のように朔の干支が1日進んでいるとすると、 現行長暦和銅5年1がつ1日庚午 → 2年引き上げられた干支紀年法和銅5年1月1日辛未、 28日戊戌
  • [876] 王年代記「欽明天皇即位十一年壬申歳」 >>872
    • [877] 現行干支紀年法欽明天皇13年壬申
    • [878] 壬申年を2年引き上げている
  • [887] 2年引き下げられた干支紀年法 >>886
    • [901] 戦国期太歳紀年法
      • [902] 西暦紀元前4世紀
      • [903] 2年引き下げられた干支紀年法
    • [898] 印度の木星紀年法
    • [888] 高僧法顕伝 (法顕伝, 仏国伝) 巻末「是歳甲寅晋義煕十二年歳在寿星」
      • [889] 法顕のインド旅行記
      • [890] 東晋義煕10年甲寅 (西暦414年)
      • [894] 寿星 = 辰
      • [891] 足立喜六 「是歳甲寅」とそれ以下が別個の年次、紀行完了と後人の跋文
      • [892] 重要年なので干支のみの簡粗な形式でなく年号と干支の併記で整えたと思われる
      • [893] 現行干支紀年法に比べ年干支を2年引き下げている
      • [895] 義煕9年帰国、自著であり義煕20年の干支を誤らないだろう
      • [896] 干支を2つ表示する必要はない、何か意味があるに違いない
      • [897] 仏教と印度文化を学びに留学して帰国、末尾に印度の紀年法の年次を示すことあり得る
      • [904] 中国でも行われたが西暦紀元前4世紀、 中国の干支紀年法によったものでないこと明らか
      • [905] 義煕12(416)年 = Mahâ Bhâdrapaḍâ = 娵訾 = 寅 (甲寅)
    • [906] 荊州刺史度尚碑 「永康元年歳在鶉尾竜集丁未」
      • [907] 西暦167年丁未
      • [908] 鶉尾 = 巳
      • [909] 2年引き下げ
      • [910] Mahâ Mârgaśîrsha = 実沈 = 巳
      • [911] 印度の木星紀年法であること明らか
  • [912] >>761, >>766, >>770
    • [913] 建元15(379)年を巳 = 木星の起点を娵訾としてこの年に実沈
    • [916] 西暦216年申 → 戌
      • [917] 2年引き上げられている
      • [918] 太歳紀年法で申年には星紀から9番目に当たる鶉尾に
      • [919] 大火から遡って9番目は娵訾
      • [920] 竜次大火は娵訾を起点とした木星の位置を示す
    • [921] 中国で娵訾を起点とする紀年法は存在しない、あり得ないはず
    • [922] 印度では超辰が行われたが
      • [923] 不便なので12次における木星の位置を1次移動させたと思われる
      • [924] 例えば起点において木星は星紀に位置するが、 85年目にその位置を星紀から玄枵に移動させる、 すると歳名は連続する
    • [925] 娵訾から数える2例は木星の起点を娵訾として数えると解して間違いないであろう

評価

[960] 友田吉之助と同時代の研究者である伊野部重一郎は、 友田吉之助の論文に対する反対論文を書いています。 >>958

[962] 伊野部重一郎は、 異なる干支紀年法を考えずとも異なる歴史観による混乱や単なる誤りでずれが説明できることを説いています。 >>958, >>974, >>975 例えば日本古代の日時

[972] 日本書紀持統天皇の最終年8月1日と続日本紀が一致しない問題は、 日本書紀の誤りではないかとしています。 >>958

[973] この時代は改暦とも絡むので諸説あります。 旧暦 しかし何にせよ干支云々なしでより説得力がある説明ができる問題には違いありません。

[971] 平成時代の日本古代史研究者で最も暦法に精通しているであろう細井浩志伊野部重一郎の見解に賛成しています。 >>959

[961] しかし友田吉之助の論文を元にした著書 >>34 では自説を改めてはいませんし、 少なくても明示的には伊野部重一郎の論文を引用して再反論をしていません。 (投稿した論文誌では再反論していますが、それそのものは著書に掲載されていません。) しかし伊野部重一郎の批判に答える形で、 より複雑な説へと変化したようです >>974

[959] 細井浩志, https://kwassui.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=331&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 #page=4

友田氏は、これを「一年引き下げられた干支紀年法」が存在するという、特殊な見方をし ている。しかし、伊野部重一郎氏(伊野部1963)が、友田氏の初出論文に対して批判してい るように、続紀の編纂過程で、暦日の干支への換算を誤ったものとするのが妥当だろう。


[778] 肯定も否定もせずに参照しているだけの事例 >>785, >>788


[1052] 友田吉之助の研究について、その問題提起は研究史上有意義な貢献だったと考えられます。 すなわち、

  • [1053] 干支紀年法が一致すれば同じであることは日常的にも学術的にも常識と理解されてきましたが、 その前提が常に成り立つことは明示的に確認されているわけではありません。
    • [1054] 古代支那については太歳紀年法が時代によって変化していることが近代の研究者によって確認されています。 支那木星紀年法 であるならば他の時代にも異なる干支紀年法が使われた可能性は (結論が肯定的であれ否定的であれ) 想定しないわけにはいきません。
  • [1055] 同じ時代の同じ地域で1つの暦法が使われていることは日常的にも学術的にも暗黙裡に仮定されていることが多いですが、 その前提が成り立つと確認されているわけではありません。
    • [1056] 昭和時代までの研究はまず過去の暦日を復元しなければならないとの課題があり、 資料を集めてその大部分が適合する長暦を作り、例外的な不一致は何らかの誤りとみなして無視する方法が採られていました。 改暦などの例外的な併用を除けば唯一の暦日の系列が得られることを暗黙裡に前提とした作業でした。 複数の暦法の恒久的な共存の可能性を疑うことや、 例外事例にも体系的な規則の存在を疑うことは (結論が肯定的であれ否定的であれ) 必要なことです。
  • [1057] 中世の書物を中心に、 古代史上の日付や年次についての異説が存在する事項が多数存在します。 近代史学の研究者は古い時代に遡れない説をばっさり切り捨ててきましたが、 その結果異説の発生と発展の過程にはあまり目を向けられなくなってしまいました。
    • [1058] 古くない時代に成立した資料でも、古く遡れる所説が記録されている場合はあります。 資料とそこに掲載された説の成立伝来の過程を解明することは (結果古い説と判明するにせよ、そうでないにせよ) 必要なことです。
    • [1059] 古く遡れない説にせよ、中世近世に行われた以上、 思想史や研究史におけるその位置と意義を明らかにすることは、必要なことです。
    • [1060] なかでも各種の年代記類は、 そうした説を伝える重要な媒体であったこと疑いありませんが、 その発生と分化の系譜は未だ部分的にしか解明されていません。
  • [1072] 日本書紀の本紀の日付はあまりに整いすぎています。 友田吉之助が必死で矛盾をかき集めてもわずかに数個しか見つけられませんでした。 果たしてこれは日本書紀の原形なのでしょうか。
    • [1073] 常識的に考えても、他の時代の歴史書などと比べても、 もっと誤りが含まれていてもいいはずです。 これほど整っているのは、 原本の計算が優れているのでしょうか。 それとも伝来の過程で誤りが正されてきたのでしょうか。
      • [1075] 中国正史は各書ごとに誤りの含有率がばらばらのようで、 誤りがほとんどないよく編纂されているものもあれば、 誤りだらけの荒れたものもあるようです。
    • [1074] 日本書紀の暦日の研究は少なくありませんが、 この点はそれほど追求されてこなかったようです。 ただし年次や年数の矛盾は古くから指摘されています。

といった着目点は、歴史上の事実関係を画定させるための土台となる基礎的研究として重要といえます。

[786] それに限らず、こうした史料の矛盾や「常識」すぎるがゆえの基礎的研究の欠落箇所は、 陰謀論説やそうでなくても独創性に過ぎる特殊説の出発点になりがちです。 突飛な結論に導かれる説も、取っ掛かりは納得感の高いふとした疑問であることが多いのです。 本職の研究者が当然視して説明も検証もすっ飛ばすところが、 真実を隠しているという陰謀を導いてしまっています。 時に有害な社会運動にも結びつきがち ( 偽史, 陰謀論 ) なその種の説に対抗する意味でも、 こうした問題点を地道に潰していく作業は歴史研究者に求められる社会貢献でしょう。 (もっとも友田吉之助がそのような問題意識を持っていたわけではないでしょうし、 友田吉之助説はそちらの方向の派生説に都合よく利用されてしまって逆効果になっているのですが... というか友田吉之助説自体がその罠にはまってしまった結果とも...)

[1061] しかし、残念ながら友田吉之助の研究は十分な回答を与えられたとはいえません。

  • [1062] 提示された論理構成は大変に複雑、一部は理解困難ですが、 成立し難い部分が多いように思われます。
    • [1063] 例えば2年遅れ、2年進みの正反対の用例を、 どちらも「二年引き上げた干支紀年法」に結びつけるような強引な議論が展開されています。
    • [1066] 間違いない、あり得ないといった断定的な判断が多いですが、 納得感が少ない場合が多いです。
    • [1067] 四分暦関連は特に事実誤認や牽強付会が多いです。
  • [1064] 同じ時代の同じ社会で区別できない複数の異なる紀年法、異なる暦法が共存する状態が永続できるか、 現実性がないように思われます。
    • [1065] 長期間併存したのに区別の方法も作られず、換算の手引も残らないとは考えにくいでしょう。
  • [1068] 「現行長暦」 は未完であり史料によって改善されるべきものであるにも関わらず、 その認識が不十分なまま「現行長暦」 との相違をことごとく異なる紀年法暦法の根拠に帰しているように見えます。
  • [1069] 対象範囲の時代と地域がどんどん拡大されていくことからわかるように、 日付や干支の矛盾は普遍的に見られるものです。
    • [1070] 誤り、ずれのパターン化や発生原因の追求という方向性で進めた方が有意義な結論に至ったかもしれません。
    • [1071] おそらく友田吉之助は知らなかったのでしょうが、 中国正史には長暦と矛盾する日付が多数あります。 それだけをテーマにした鈍器のような書籍が現在までにいくつか出版されているほどです。 そのすべてが現実の生活で用いられた紀年法暦法の違いだとすると、 友田吉之助の研究どころではない大きな秘密が正史に隠れていることになりますw
    • [1076] 友田吉之助吾妻鏡も研究していたようですが、 なぜか吾妻鏡の暦日はこちらの研究で使っていません。 吾妻鏡の暦日には乱れが多く、 鎌倉時代にも異なる紀年法暦法が使われていたと判明したに違いありませんが...
    • [1077] 中世後期になると異なる暦日が日本列島内部で使われたことが確実です。 旧暦 すると中世後期と吾妻鏡など中世前期と平安時代以前の記録に見られる日付の矛盾のパターンを比較し、 傾向に違いがあれば、どの時代に異なる曆が用いられた可能性がある、 といった分析ができそうです。

[1078] してみると友田吉之助が開拓しようとした新領域は友田吉之助の説が明後日の方向に進んでしまったがために追随者がなく、 未開拓のまま残ってしまいました。別の問題意識からその領域に手を伸ばしてきた研究者によって取り組まれている部分もあるものの、 未だ取り組む価値がある課題は多く残されているように感じられます。

派生説

[812] 本項の内容に限定されないものは友田吉之助参照。

[790] 【偽書】“天皇”と“皇帝”の違い 幻の書物【日本書】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜|古本屋えりえな|note, https://note.com/ai_auwa/n/n14ff70f3742b

[811] NihonShoki_Sakujitsu_9.pdf, , https://u4ren6.org/Moritsune/NihonShoki_Sakujitsu_9.pdf#page=4

[810] , http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/gennten/jikanreki1.htm

[794] 日本書紀はどのようにして成立したのか | 永井俊哉ドットコム, , https://www.nagaitoshiya.com/ja/2010/nihon-shoki-philology/

友田吉之助によると、この時の日付、和銅七年二月戊戌は、異種の干支紀年法においては、和銅五年正月戊戌、つまり、『古事記』序文に記されている『古事記』選上の年月日、和銅五年正月二十八日と完全に合致する[6]。したがって、この『国史』を『古事記』とみなすこともできる。

[792] 日本の合戦一覧 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6%E4%B8%80%E8%A6%A7#cite_note-6

「好太王碑文と顓頊暦紀年法」(友田吉之助著『日本書紀成立の研究 増補版』風間書房、1983年)。好太王碑文の紀年法は通常の暦より干支が1年遅れの顓頊暦を使っているとみられる。このため倭に関する記事の年も全て通説より1年遅れになるとする。

[791] ウィキペディアにはこのように独創的な研究者の説が紛れ込んでいることがたまにある。 ウィキペディアの日時関連記事

大和岩雄の説

[1120] 昭和時代大和岩雄古事記偽書説を主張しましたが、 友田吉之助説に基づいていました。

[798] 大和岩雄古事記偽書説の中心人物の1人。 友田吉之助古事記序文の日付が本来の和銅日本紀の成立日を転用したものだと主張している。 そして和銅日本紀説は古事記偽書説にとって有力な根拠として扱われているという関係。

[1119] 古事記と天武天皇の謎, 大和岩雄, によると >>1118

だから友田氏の二年繰り上がる干支紀年法を論破しない限り、 偽書説の否定は成り立たない。しかし反論はまったくないのである。

[1121] 伊野部重一郎の批判はなかったことに!? このように「反論がない」と主張するのは偽史陰謀論説でよくみられますね。 偽史

[802] 神武天皇 - Uyopedia, , http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

記は137歳とするが、これはもともと127歳だったのが平安時代に多人長(おほのひとなが)によって改竄されたものである(大和岩雄の説)。よって紀の127歳説が本来の伝承。記の序文の年月日は顓頊暦によって換算・同定されているので、そのことを暗示するとともに紀との矛盾を調整するため、10年の水増しがされた。『日本書紀』の儀鳳暦と顓頊暦とでは10年のずれが生じるからである。

[801] 顓頊暦が云々とは友田吉之助の説。 大和岩雄がいつどのようにこれを主張したのか知らないが、 大和岩雄の会社大和書房の雑誌に友田吉之助は何本か寄稿していて、 同じ号に大和岩雄自身と友田吉之助の記事が並んでいることも。

[800] なお同社の別雑誌 >>799 では友田吉之助と共に九州王朝説古田武彦の記事も掲載されていたりします。 (その同じ号に安本美典の記事もあるので、別にそういう系の人達ばかり集めているというわけでもなくその時代の目立っていた人大集合みたいな感じかと。)

[793] ただし友田吉之助の説では暦法違いで10年ずれは起きていない。

牧尾一彦の説

[815] 牧尾一彦友田吉之助説を活用しつつ独自説を展開しています。

[978] の著書 >>813 で説かれています。 それによると旧干支紀年法説は既に同年の前著邪馬臺国と神武天皇でも指摘されていました。 更には日本書紀編年批判試論でも既に論じられていたそうですが、 誤謬や不十分性があって新著で修正再論したのだそうです。 >>813 p.6

[806] >>805 ほかは >>813 の一部を編集して掲載とのこと。 同じ出版社のグループ企業運営サイト。

[804] 令和4年にもなってまだ新しい本出す人いるのすごいな。。

[816] 次のような主張です。 >>813

[1092] 友田吉之助説と比較すると、旧日本紀の存在や一年引き下げられた干支紀年法四分暦は基本的に同じです。友田吉之助が参照していない1年ずれ史料も追加しています。

[1093] しかし友田吉之助説と違って旧日本紀日本書紀とで称元法が異なっていたとしています。 友田吉之助説は称元法の違いではないとして一年引き下げられた干支紀年法の論拠にしていたのですが、 本書にはその点への言及がなく、友田吉之助説との整合性をどう考えているのか謎です。 二年引き上げられた干支紀年法を認めないのも大きな違いです。

[1094]日本紀から日本書紀への変更を「捏造」と呼び、 朝廷の派閥対立にその動機を求めている点も大きな違いであり、 本書が陰謀論側へ一線を越えている部分でもあります。

九州王朝説

[1136] 九州王朝説では現行干支紀年法1年ずれ干支紀年法が使われたと考えられているようです。


[1137] 九州王朝説の信奉者の説で、 九州王朝四分暦が使われたとするものがあります。 令集解所引古記四分暦系文献の引用があるので九州王朝だという謎理論ですが、 古記 を知らない友田吉之助が同じ結論に達していた!と喜んでいるようです。

[1138] しかしなぜか九州王朝説の標準的な説には採用されていないようです。
[797] 倭国の暦法と時刻制度 増田修, , https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin16/rekihouz.html

友田は、「古記」の暦数についての注釈を知らずに、このような結論に到達しているのである。友田の十支紀年法についての研究は、学会では無視あるいは一蹴されているが、真剣に再検討・再評価する必要があろう。『市民の古代研究』誌上で展開された、石川信吉・平野雅曠による倭国干支紀年論も同様である。

[796] ここの人達は「学会では無視あるいは一蹴」されていると被害妄想しがち。
[795] 真剣に検討した結果一蹴されてるんだがなあw
[1130] 古代日本 日本の古代 諸説 [2] 日本の歴史 雑学の世界 娘への遺言, , https://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den093b.htm

金石文を問う / 日本古代碑の再検討・宇治橋断碑について

友田氏の論理によって、宇治橋断碑の大化二年丙午を疑ったのが、重松明久氏である。「大化二年丙午」の年号と干支は、新『日本紀』系年号建てに依拠しているのは、宇治橋断碑が孝徳朝に建立されたものでなく、新『日本紀』の成立以後、養老年間(七一七~七二四年)以後の奈良時代であるとされた。(9)つまり、六四六年建立であれば、干支は「乙巳」でなければならないからであろう。この論点は、至極、明解である。ただ、重松氏は金石文それ自身の分析、研究からでなく、年号論からのみ立論しているという弱点が存していよう。

(7)『日本書紀』中の乙巳大化の存在への疑義を明確にした研究論文は、年号論を研究してこられた丸山晋司氏によれば、次の通り。佐藤宗諄「年号制成立に関する覚書」『日本史研究』第百号。原秀三郎『日本古代国家史研究』東京大学出版会。岡田芳郎「年号の始元」『日本の暦』木耳社。田中卓「年号の成立」『神道史研究』二五ノ五・六号。藪田嘉一郎『日本上代金石叢考』河原書店。重松明久「白鳳時代の年号の復元的研究」『日本歴史』第三一九号。

(9)重松明久氏前掲論文参照。

よみがえる壹與 / 佐賀県「與止姫伝説」の分析

5九州年号の干支のずれについては丸山晋司氏と平野雅曠氏、石川信吉氏との間で論争が展開されている。興味深い問題であるが、本稿の論旨には直接関わらないので、ここでは言及しない。

倭国の暦法と時刻制度

>>797 と同文


[1134] >>10九州王朝説の信奉者の説で、 宋書 (王年代記) の神武天皇甲寅年即位説について、 甲寅と辛酉の7年の差は超辰のためではないかとしています。 簡単過ぎる記述でどういう計算でそのような推測になったのか謎です。


[1139] 九州王朝説の創始者の古田武彦百済1年ずれ干支紀年法が用いられたとしています。 >>1135

[1140] また九州王朝説幹部の古賀達也九州年号とその用例 (とされているもの) のずれを、当時1年ずれ干支紀年法が用いられていたことで解決しようとしています。 >>1133, >>1135, >>1132

[1141] ただしなぜか慎重論を取っています。1年ずれの存在を前提にしていない他の議論との矛盾が生じるからかもしれません。

[1143] でも九州王朝説では日本書紀九州王朝の歴史書の盗用ということになってて、 好きな記事を好きな年数だけ移動して真の歴史を復元しているんですよね... 今更1年ずれくらいどうにでもなりそうなものですが...
[1142] 九州王朝説で史実の九州年号と認定している古代年号の系列とは干支が異なる古代年号の用例はいくらでもあるのに (それこそ九州王朝説支持者が一覧表を作ったりしています)、 そのうちの一部だけ取り上げる基準が謎で、都合の良いずれ方をしたものだけ拾っているようにも見えてしまいます。
[1133] 二つの試金石 九州年号金石文の再検討, , https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu2/koga02ko.html

三、大化五子年土器と干支のずれ

こうした大化五子年土器の史料批判を踏まえて、安田氏は九州年号復原にあたっては同時代金石文が優先するという視点から、共に五年が「子」の年とならない丸山モデルと『二中歴』を九州年号原型案としては不適当とされた。

これに対して、わたしは大化五子年土器と『二中歴』の大化とでは干支に一年のずれがあり、これは干支がずれた暦法が同地域で使用された場合にも起こりうる現象である。

 太政官符
  応以辛未年籍爲甲午年籍事
 右得常陸國解稱。依令。近江大津宮庚午年籍不除。而今無有其籍。仍去弘仁二年具状言上。即依太政官同年七月四日符。就民部省令寫之。而依無庚午籍。僅寫辛未籍。午未両 年。歳次相比。定知庚午始作。辛未終成。名実之違。識此之由也。望請。依件爲定者。大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣宣。依請。
   弘仁十一年五月四日
         (『類聚三代格』国史大系本。異体字・旧字体は古賀が適宜改めた)

一応次の二つの理解が可能だ。

(A)文字通り「辛未年(六七一)」に造籍されたものが「辛未年籍」として常陸国には存在していた。

(B)常陸国(あるいはその一部)では、干支が一年繰り上がった暦法が使用されており、六七〇年の干支は「辛未」であった。従って、庚午年籍と同年に造籍されたものである。

ただ、ここで注目すべきは、この一年繰り上がった年干支の使用が事実であれば、大化五子年土器と『二中歴』の干支のずれと、同方向・同年数となっていることである。

たとえば、大宝二年は寅年で、その年に生まれた一歳の者の名前が干支にちなんだ場合、「刀良」「刀良売」という名前になるのだが、実際は大宝一年生まれの人名に「刀良」「刀良売」が集中しており、大宝二年生まれの人名には翌年の干支「卯」にちなんだ「宇提」「宇提売」「宇麻呂」となっている。こうした一年ずれの人名が持統十年(六九六)生まれの者まで遡って存在しているのである。それ以前は生年干支に一致した名前が多く、持統四年(庚寅、六九〇)生まれまでそうした現象が続く。そして、持統四年以前になると干支に一致する人名が急に少なくなり、その関係が乱れている。

岸氏はこうした現象を造籍時の混乱による錯誤ではないかとされているが、その場合、持統十年の「丙申年籍」造籍時には正しく記録しえた役人が大宝二年籍作成時にはそうした人名と生年干支のずれに気づかず、「一年」間違ったまま六年分の新規戸籍登録を行ったことになる。(注11)

しかし、この場合も干支が一年繰り上がった暦法が持統十年を境に使用されたと考えれば、こうした史料状況をうまく説明できる。しかも、持統十年(六九六)から大宝二年(七〇二)の一年繰り上がった期間内に、大化五子年も入っていることから、やはりそうした一年のずれが無関係に発生し、発生時期も偶然一致したとは考えにくいのではあるまいか。更に推論が許されるなら、持統末年から文武にかけての、こうした「混乱」は、古田武彦氏が提唱されたONライン、すなわち九州王朝から大和朝廷への中心権力の移動が七世紀末(七〇〇)に発生した、という仮説と密接に関わっていることも充分考えられるのである。

(10)岸俊男「十二支と古代人名--籍帳記載年齢考--」『西田先生頌寿記念日本古代史論叢』所収。

同「造籍と大化改新詔」『日本書紀研究』所収。

[1135] 一年のずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑「改刻説」補論 古代貨幣異聞 古賀達也, , https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou31/koga31.html

昨年九月、古田武彦氏らは韓国の武寧王陵碑を見学され、その碑面の字の改刻された痕跡を調査された。そして、武寧王没年干支「癸卯」の部分が改刻されており、原刻は「甲辰」であったことを確認された(注1. )。

こで古田氏は、干支が一年引き上がった暦が百済では採用されており、後に現行暦の干支に改刻された痕跡であるとされた。そして、その改刻時期は同陵に合葬されていた王妃の埋葬時(五二九年己酉。王妃没年は五二六年丙午)に改刻された可能性が高いと指摘された。すなわち武寧王没後数年の間に、百済では暦が現行暦に変更されたと考えられるのである。

私も「二つの試金石」(『古代に真実を求めて』2集)において、「大化五子年土器」の干支が、『二中歴』などに見える九州年号「大化」に比べ干支が一年引き上がっていることを指摘し、干支が一年ずれた暦の存在を示唆したのだが、この武寧王陵碑も同様の痕跡を示していたのである。しかも、百済国王の墓碑という史料性格、学術発掘による発見という理想的な史料価値を有する金石文であることから、干支のずれた暦の存在を証明する動かぬ証拠とも言いうるのであった(注2. )。

以上、内外史料より四点の異暦混在の痕跡を検証してきたのであるが、この異暦混在の事実を受け入れることにより、『日本書紀』や中国史書における百済関連記事年次の全面的な再検討が必要になるばかりか、国内記事においても同様の史料批判が要請されること、自明であろう。と同時に、なぜこの時期、百済は暦の変更を行ったのかという問題が提起されよう。それらの問題は稿を改めて論じたいが、中国における南北朝対立の狭間でゆれる百済のおかれた国情を深く反映しているのではあるまいか。同様に倭国、九州王朝における異暦混在も今後の課題としなければならないと思われるのである(注6.)。

1. 『多元』二八号掲載、古田武彦「虹の光輪」にいきさつが紹介されている(一九九八年十月)。「多元的古代」研究会関東発行。なお本稿の帰結に従うならば、この碑に記された埋葬年干支の乙巳(改刻されていない)も一年引き上がった表記と見なし、従って同乙巳年の実年代は前年の五二四年となるところであるが、その日付干支から判断すると、この碑文の乙巳年は現行暦の五二五年乙巳の日付干支に一致している。従って、同碑文本来の原刻没年干支は一年引き上がった異暦で、埋葬年干支は現行暦で記されているという、一見奇妙な史料状況を示していることになる。このことから判断すると、百済が暦を変更したのは、武寧王没直後、埋葬以前となるのではあるまいか。

2. 干支の異なった異暦については、友田吉之助氏による精力的な研究『日本書紀成立の研究』(風間書房、昭和四四年刊)がある。同書に紹介された数種の暦に、本稿で取り上げた一年干支が引き上がった暦は見えないが、一年下がった暦は見える。もっとも、干支のずれの方向は史料理解の方法により逆転する可能性もあり、本稿の問題も含めてこの点留意が必要であろう。

6. 法隆寺釈迦三尊像光背銘に記された年日付干支より、同文は現行暦によることがわかるが、同光背銘に見える上宮法皇が九州王朝の天子多利思北孤のこととすれば、この時期、九州王朝では現行暦を使用していたこととなる。一方、後代文献に干支が一年引き上がってた九州年号を持つ記事が見える(『肥前舊事』引用「遊方名所略」他)。

また、『寧楽遺文』収録「金銅阿弥陀仏像記(西琳寺縁起所載)」に見える「寶元五年己未」という年号は(通説では斉明五年己未、六五九年とされる)、私見では九州年号「告貴元五年(五九八年、現行暦では戊午)」の誤記であり、この場合も干支が一年引き上がって翌年の己未とされているのではあるまいか。

[1132] 第2865話 2022/10/28, https://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/the-name-of-an-era-for-kyushu-dynasty/post-10740/

『肥前舊事 巻之一』に引用された「遊方名所略」「日本略記」の記事に見える九州年号「勝照二年(586年)丁未」と「鏡帝(當)二年(582年)癸卯」の干支が『二中歴』などの九州年号の干支と一年ずれています。両記事とも翌年干支が付記されており、先に紹介した武寧王墓誌や『万葉集』左注の「朱鳥」と同じ方向の一年のずれです。この後代史料中の異干支九州年号記事を、古代の異干支暦存在の痕跡とすることには慎重にならざるを得ませんが、皆さんに紹介しておきたいと思います。

歳次異読3種類説

[1097] 砂川恵伸九州王朝説の亜種のようなものを発表しています。 九州王朝説に強い影響を受けつつも、 そのすべてには納得がいかなかったようで >>1107 p.5、 例えば二倍年暦説を完全否定する >>1096 pp.87- などは正反対の主張です。

[1126] 日本書紀は真っ赤な嘘で塗り固められたもの >>1107 p.6, 朱鳥九州王朝が制定したが日本書紀はあたかも天武天皇が制定したかのように記述した >>1128 p.79, など本家九州王朝説より弱まってはいるものの、陰謀論説的傾向もいくらか継承しています。

[1098] 砂川恵伸日本書紀の「歳次」用例をもとに、 歳次には3種類の意味があると考えました。 >>1099, >>1103

[1104] α群>>1100β群>>1101>>1102 で、 中国人だけが現行干支紀年法を使っていたのだといいます。 >>1103 pp.49-50

[1105] といっても実は日本書紀中の用例は5個しかなくて、 引用文と即位前紀と紀年に問題がある紀という特殊事例ばかりなのですがね... 編纂過程と紀年乱れの関係の追求のヒントにはなるかもしれませんが...
[1106] >>1096 p.56- は古事記の在位年から日本書紀との称元法の違いを語っています。 古事記元年が云々と述べられていますが、 アマチュア古代史研究者にありがちな在位年数と即位紀年の混同ですね。

[1114] 「・・・の前年」は、日本書紀の編纂から完成までのある時期の校訂作業中の使用法とされます。 >>1113

[1115] 「・・・の翌年」は、西暦699年まで近畿大和文化圏で使われていて、 西暦700年以後は中国と同じ「・・・の歳」で使われるようになったとされます。 >>1113

[1116] また、九州王朝の勢力圏ではそれ以前でも「・・・の歳」で使われていたとされます。 >>1113

[1123] 友田吉之助説の一年引き下げられた干支紀年法は「歳次」の誤解による1年ずれであり、 二年引き上げられた干支紀年法は「・・・の前年」と「・・・の翌年」の誤解による2年ずれなのだとして、 各事例の解釈が述べられています。 事例によっては古事記の曆であるとか、 即位紀年の取り違いであるとかの解釈にもなっています。 >>1118

[1124] 友田吉之助説のように干支紀年法が共存しているとすると、 意思疎通に問題があり常識的に考えてもあり得ない、 とばっさり切り捨てられています。 >>1198 pp.330-331 至極もっともな指摘ではあるのですが、それは「歳次」 の読み方が3種類ある世界にも当てはまるのではないでしょうか... こちらの説は時代と地域がわかれているからセーフという論理なのかもしれませんが......... 1つ1つ個別の用例を検討しないとどの紀年法か判定できないほど混合された状態で伝わっているということは、 やっぱりセーフではないと考えるのが自然だと思いますが........
[1129] を「やどる」と訓ませて「歳次」でその干支を表す用法は、 前近代東アジアでは常識でしたが、現代日本人にとっては常識ではなく、 不思議に感じられるのは確かです。ここでのは元を辿れば十二次の意味なのでしょうが、 といえば「つぎ」、「next」が連想されるのは当然です。 そんなふとした違和感から通説を疑ってみる姿勢は素晴らしいものですし、 常識や古くからの通説は意外と未検証の穴が残っているものですから、 学術的にも有意義な行為といえます。 しかしその結果通説や常識から大きく外れた回答に導かれたとしたら、 やはりそこで一歩立ち止まって考え直してみるべきなのでしょうね。

[1111] については、 古事記日干支用例があるため当時中国暦が使われたと考えられるものの、 元嘉暦等に一致するものがないことから、古いものが使われたとしています。 論衡の時代に倭人の来訪の旨があることから、 春秋戦国時代九州王朝中国暦を導入し、 それが近畿天皇家に伝わり推古天皇時代まで使われたのであって、 春秋戦国時代ないし初の中国暦の可能性があるとしています。 >>1110

[1117] 元嘉暦が使用されている場合、 九州王朝の勢力圏で作成されたものか、 西暦629年以降の近畿大和勢力圏で作成されたものであることを意味しているそうです。 >>1113

[1125] 「古事記の使用した曆」は、月朔干支元嘉暦から8干支遅れ (時代差あり) となるものだったとされます。 それは古事記に出現するだけでなく、平安時代にも使われていたのだというのです。 舒明天皇元年以後は公式には使用されなかったものの、 歴史と伝統のある由緒深い「古暦」で、 天智天皇系王朝が復活した平安時代初期には尊重され私的にあるいは宗教的・因習的なものに使用されていたと思われるそうです。 >>1118

[1122] 本書は一年引き下げられた干支紀年法の提唱者は友田吉之助によると木村正辞だとしています。 >>1118 しかし友田吉之助がそのように述べた箇所は見つけられませんし、 木村正辞はそのように主張していませんし、 本書における木村正辞の論文の引用にもそのような主張はありません。

道安木星紀年法説

[149] これは友田吉之助が指摘した紀年法の問題のうちの1つでもある (引用していないのは、さすがに分野と時代が違いすぎるから気づいていないのだろうけど)。

用例

木星紀年法用例等年表

メモ