[22] 現在までに用例は1つだけ見つかっています。
[15] 日本国福岡県嘉麻市上山田の五社稲荷神社に設置されている案内板に、 同社の起源が金宝2年10月15日とあります。 >>1, >>2
[16] この案内板はに既に存在したようです。 >>4 様式から見て昭和時代後半頃に書かれたものでしょうか。
[17] 頃の写真がありますが >>2、 には発見できなかったとの報告があります >>3。
[18] 案内板は日本武尊による創建の伝承を記しています。 素直に読めば金宝2年は日本武尊の時代ですが、 日本武尊の時代より後の時代を指すという解釈もできないことはありません。
[20] 案内されている由来や年月日は、この神社や地元に伝わる伝承に基づいているのでしょう。 そうであるなら近世や近代の地誌や自治体史などにも記録されている可能性があります。 しかし今のところ未発見です。
[38] 昭和時代にこの内容でまったくの捏造の縁起の案内板が作られるとはなかなか考えにくいですから、 何らかの原拠はあるのでしょうが、不意の誤記の可能性もあります。 案内板の制作時ではなくもっと前の伝写の段階での誤写の可能性も十分あり得ます。 伝承それ自体や「金宝」紀年がいつまで遡れるものなのか調査が必要です。
[19] 日本武尊の事績を約1900年前のことと書いています。 設置年が昭和時代後期頃とすれば、 日本書紀による日本武尊の時代はちょうど1900年前に当たります。 この約1900年前という時期の記述は古来の伝承によるものではなく、 案内板の建立時に計算したものの可能性があります。
今より約一千九百年前、当時の大和(倭)の天皇は、景行天皇にて第三子の皇子倭建命は九州の国を平定の命受け前方に流れております山田川の下流、遠賀川の河口から建命の一行は船でこの地に参りました。 当時、この地方は疫病が蔓延していて多くの人々が苦しみ死んでいくあり様を見られた倭建命は哀れを思い、叔母上が斎宮として務めておられる伊勢神宮の下宮に祭神されている、五元行の神、通称、五社大神に万民救済の祈願をされ、当神社の岩屋に金宝二年十月十五日、祭鎮されたのが五社稲荷神社の謂れであります。 (案内板より)
神社めぐりの参考にしているホームページでこのように案内されており、この案内板があるものと期待したのですが、見当たりません。探すのをあきらめて、さらに上に石段をあがっていきます。
[23] 平成時代後期頃に九州王朝説信奉者らに知られるようになりました。 >>4, >>9, >>13
[24]
九州王朝説は、中世以後に用例が見られる古代年号の一部を九州年号と称し、
古代の九州王朝なる勢力が制定したものだと主張しています。
[25] この説では金宝は金光の誤りと主張されています。 疫病の流行という共通点と、 倭建命の時代に元号があるはずがないという根拠が指摘されています。 >>9, >>13, >>11
[26]
しかし金
という共通文字や「ホウ」と「コウ」というまま似た音から転訛の可能性は否定できないものの、
両者に関係する伝承は疫病という1点を除くと全く類似点がありません。
[36] 伝承が史実かどうかという問題もありますが、 そもそも疫病の流行は確実な記録が残るだけでも相当な頻度で発生しているものであり、 記録に残らないもの、局所的なものを含めれば無数にあったことでしょう。 疫病が流行したというただその1点で同一の史実を指すと断定するのは非常識的な態度と言わざるを得ません。
[37] また、 案内板の誤字という可能性も否定できない中で、 案内板の典拠となった原伝承の調査もすることなく断定的に論ずる方法は歴史学的に問題外でしょう。
[28] 現地では金宝と表記されていますが、この説ではなぜか旧字体で金寶とされています。 >>9, >>13
[31] この説は久留米大学公開講座でも講義されたようです。 >>13, >>32 「こんぽう」 (金光は「こんこう」) と発音されています。 >>32 この読み方に根拠があるのかは不明です。
[34] 講義の音声によると、金寶が金光であることはかなり確度が高いものと扱われているようです。 >>32 にもこの説があたかも確定的な史実であるかのように (少なくてもそう誤認されても当然な書き方で) 論拠に組み込まれています。 >>11
http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/ 一昨日、嘉麻市上山田に指圧の施療所を探している時に、道路わきの鳥居の横の神社の由来の説明文が目に入りました。何でも、1900年前にヤマトタケルが当地に来て庶民を救い、この神社を建立した、というように書いてあります。建立年月日が、「金宝二年十月十五日」とありました。
九州年号に「金宝」などあったかな、と思い出せず、ネットで調べてみましたが分かりません。鎌倉時代の僧侶がいい加減に造ったものなのかなあ、今度又近くに行くことがあったら神社の人に聞いてみようかと思っています。その神社は「五社稲荷神社」という名前でした。地名研究会のFさんに今度お会いした折にでも聞いてみようと思っています。
[7] http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/ はこのブログ著者のWebサイトだが、既に消滅。 そこからの引用のようにも見えるが、 Internet Archive 所蔵分にはこれに相当する部分を見つけられない。
九州年号資料の『善光寺縁起』に「金光元年庚寅歳天下皆熱病」という文言が記されている。十干中「庚」は陽の金にあたり、「四寅剣」の光で邪気を払う意味で「金光」という元号は誠にふさわしく、大流行する「邪悪な熱病」を退ける為にこの剣が作られ、改元されたのではないか。
また九州の棟上寅七氏によれば、福岡県嘉麻市上山田下宮の「五社稲荷」の由緒に、同社は、一九〇〇年前の金寶二年、倭建命が疫病が蔓延していて、多くの人が苦しみ死んで行く有様を見て伊勢神宮から勧請されたと書かれているという(註2)。倭建命時代に元号があるはずもなく、これが九州年号「金光二年」の誤伝とすれば『善光寺縁起』の「天下皆熱病」とも一致する。
(註2)ブログ「棟上寅七の古代史本批評」二〇一一年十月十四日より引用
久留米大学公開講座に於ける講演(2012年) (古田史学の会)
なお、福岡県嘉麻市上山田下宮の「五社稲荷」の由緒に、「金寶二年に、倭建命が、疫病が蔓延し、多くの人が苦しみ死んで行く有様を見て伊勢神宮から勧請された」と書かれているという。これは九州年号「金光二年」の誤伝と考えられ『善光寺縁起』の「天下皆熱病」と一致する。(棟上寅七氏による)
[14] >>4 の「地名研究会」は >>13 の団体? >>13 のウェブサイトの 「編集員」「監修」が古川清久となっており「Fさん」に当てはまる。
[40] また、このようなブログ記事がある:
もちろん、当会は地名研究会と称してはいますが、実質的には古代史(九州王朝論)の研究会ですから、半年間は久留米大学に張り付き、その合間に研究会を行うことも発展の一つと受け入れることはできるかも知れません。
③福岡県嘉麻市上山田下宮の「五社稲荷」の由緒に、金寶(金光)二年に疫病が蔓延したとあること。