[1] 日本国志は、清国人によって日本で編纂された日本研究書です。
[3]
日本国志
のうち
[4] #page=1 神武天皇元年のあと、564年ある旨の注記の後に崇神帝元年があり、そこから1年ごとに記載が続きます。
[23] 神武天皇元年は周の惠王の17年とあります。 崇神天皇の元年は天漢4年とあります。以後漢の元号が続きます。
[24] #page=3 漢の初始元年の次が国 (時代) 名は漢のまま、新莽の始建國の元年となります。 始建國5年の次が天鳳元年から6年、地皇元年から3年となります。 その次が更始帝の元年、二年となります。 その次が建武元年となり、31年まで続きます。その次が中元元年となります。 以後元号が続きます。
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#page=7 漢の滅亡後は「
[6] #page=14 大化元年から日本の元号が書かれます。前年までは天皇即位紀年が書かれています。
[7] 白雉6年の次は斉明天皇の元年から、13年まで続きます。その次が天智天皇の元年になります。
斉明天皇8年の天皇に相当する欄に「
[8] 天智天皇の4年の次 (壬申年) が「
[9] 大友帝 (弘文天皇) の元年の次が白鳳元年です。白鳳13年まで続きます。
[10] 白鳳13年の次 (丙戌年) は朱鳥元年です。朱鳥4年まで続きます。
[11] 朱鳥4年の次 (持統天皇の即位年、庚寅年) が持統帝の元年です。7年まで続きます。
[12] #page=15 持統天皇7年の次が文武天皇の元年です。4年まで続きます。その次が大宝元年です。
[14] #page=16 天平宝字2年の次が大炊帝 (淳仁天皇) の元年です。6年まで続きます。 その次は天平神護元年です。
[29] #page=21 延久4年の次が白河帝の元年で、その次が承保元年です。
[39] #page=25 元德2年の次が元宏元年、2年、3年で、その次が建武元年から2年で、 その次が延元元年から3年で、 その次が後村上帝の元年で、 その次が興國元年から6年で、 その次が正平元年から24年で、 その次が建德元年から2年で、 その次が文中元年から3年で、 その次が天授元年から6年で、 その次が宏和元年から3年で、 その次が元中元年から9年で、 その次が後小松帝の元年で、 その次が應永元年です。
[54] #page=27 寛正5年の次が土御門帝の元年で、その次が文正元年です。
[44] #page=31 貞享3年の次が東山帝の元年で、その次が元祿元年です。 寶永6年の次が中御門帝の元年で、その次が正德元年です。
[46] #page=32 寶歴12年の次が後櫻町帝の元年で、その次が明和元年です。 明和7年の次が後桃園帝の元年で、その次が安永元年です。
[47] #page=33 安永8年の次が光格帝の元年で、その次が天明元年です。 文化13年の次が仁孝帝の元年で、その次が文政元年です。
[49] #page=34 宏化3年の次が孝明帝の元年で、その次が嘉永元年です。
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戊辰年には「
[55] 以上のように天皇即位紀年が独特の使い方です。 践祚の翌年が新元号ではないときに天皇即位紀年としているようですが、 すべてがそうなっているわけでもなく規則性はよくわかりません。
[56] 日本の資料だとこのような使い方はしなそうですが、独自なのでしょうか?
[57] 南朝の元号が選ばれ、 合一後が明徳ではなく後小松天皇の「元年」になっているのが非常に特徴的です。 水戸学系でこのような年表があったりするのでしょうか。