緑色の数字は、当時巨椋池に点在していた島の名前です。 現在、向島などにはたくさんの「島」の名から付けた小字があります。
1,槇島 2,夷島 3,大八木島 4,雲雀島 5,源兵衛島 6,大島 7,與五郎島 8,上島 9,下島 10,矢倉島 11,金井戸島 12,津田島 13,上林島 14,東定請(じょいけ)島 15,大河原島 16,大黒島 17,又兵衛島 18,野島 19,月貫島
平安時代になって、大和から平安京への道と言えば、山城の中央部に位置する「巨椋池」の存在が大きく影響した。
即ち陸上を行く限り巨椋池の東側か西側を通ることになる。
東は大和より出て、泉川【木津川】を越え、栗隈一族の古墳群を通り、宇治橋を渡り、岡屋津(港)を過ぎ櫃川【山科川】を越え、大亀谷を北へ。
西は泉川の西を北行、綴喜の古墳群を抜け男山を廻り山崎橋を渡るか、美豆から淀に渡しで越え、葛野川【桂川】に添い北上。
東西を結ぶ交通は、巨椋池の面積が大きく、沿岸の集落も少なかったため、陸路よりも舟によるものが発達していた。
大坂から上れば淀に着き、真っ直ぐ東に行けば岡屋・宇治へ。 よって淀・岡屋・宇治の港は重要な交通拠点であった。
その昔、全ての川は巨椋池に直結しており、また大型船が航行出来るほど水量も豊富であった。
平城京造営の際、近江や丹波などから木材を運ぶため、船で宇治川や桂川を下り、いったん巨椋池に入り、木津川を上り泉の里(木津)で陸揚げされ、大和へ。
当時、泉の里は木材の集積場であった。このことから木津の名が起こったといわれている。
足利幕府が天正元年(1573)、宇治槇島の地に名実ともに滅んだ後、織田信長は天下統一を目指し、まず安土城築城.
そして美濃から京都・大坂にかけての道路や橋梁の整備を行った。 宇治橋の修復もその一つであった。
その信長も天正十年、本能寺に没し、秀吉が跡を継ぐことになる。
秀吉は天下統一を果たした晩年に、伏見に隠居城(指月屋敷)の建設に取りかかる。
その屋敷は慶長の大地震により全壊、すぐ東に本格的な城郭の建設に取りかかる。
近くに旧淀城(納所城)があり、二つも城は不要とのことで淀城は破棄、その建造物は完成を急ぐ伏見城に移築された。
しかしこのことは、伏見だけだはなく宇治を含む山城盆地全体の景観の変化をもたらすことになる、宇治川改修事