[33] 現在の朝鮮半島では、 北鮮で主に主体暦と西暦が、 南鮮で主に西暦が用いられています。 歴史的には多種多様な紀年法が用いられました。
[32] 朝鮮半島 (韓半島) は中国の支配下にあったため、基本的には支那の元号 (特定の時期のみ独自の朝鮮半島の元号) を使っていたようです。
米軍政府 | 1945年 | 9月〜 | |
大韓民国 | 檀君4281年 | 1948年 | |
〃 | 檀君4294年 | 1961年 | |
〃 | 西暦1961年 |
ソ連軍占領下 | 1945年 | 9月〜 | |
朝鮮民主主義人民共和国 | 西暦1948年 | ||
〃 | 西暦1997年 | 〜9月8日 | |
〃 | 主体86年 | 1997年 | 9月9日〜 |
[31] 朝鮮半島の歴代王朝時代の事項を記述する際には、 当該王朝の王名と在位年数を使った紀年 (在位紀年) を用いることがよくあるようです。
[156]
中華文化圏諸国では元号がないとき即位紀年を使うのが一般的で、
朝鮮半島諸国でも古くから行われてきました。
[54]
公的には宗主国である中華王朝諸国の元号が使われていたのですが、
支那王朝の元号の期間は朝鮮王朝の統治と連動しておらず、
歴史書や歴史研究の場では使いづらいのでしょうか。
属国の象徴である支那の元号は使いたくないとの事情もありそうです。
[150] 三国史記 は新羅の元号の記述もありますが、 古い時代は元号がなく、 新しい時代は唐の元号を使っているため、 全体を一貫して記述できるのは即位紀年だけです。 改元と代替わりが必ずしも同期していないので、 本紀を書きやすいのも即位紀年です。 そのため即位紀年による歴史記述が行われ、 以後も踏襲したということかもしれません。
[1354] 即位紀年がいつから始まったのかは定かではありませんが、 古くからの誰々王の何年に何があったという伝承が後に記録され、 史書として現在に伝わっているものと推測されます。 >>7863 #page=9
[151] 即位紀年は朝鮮史の記述で最も重要な紀年法であるにも関わらず、 その一覧表 (王の一覧、在位期間の表ではなく紀年法、元年の一覧表) は案外ウェブ上に多くありません。
[155] Chinese Text Project による一覧表:
[1355] 三国遺事や金石文に見られるように、 古くは即位紀年の元号名スロットには (諡号でなく) 王の実名を書いた例が多いです。 国民が王を親しんで呼んだ長年の習慣が表れています。 >>7863
[275] 王の在位が何年間であるかと元年から数えて第何年であるかは、 数え方により一致したり一致しなかったりします。 両者は密接に関係するので >>7866、厳格に区別されることもありますが、 混同されることや、意識的に同一視されることもあります。 それが即位紀年の混乱にも寄与していると示唆する資料もあります >>7864。
[359] 三国史記 では新羅、 高句麗、 百済の建国から即位紀年を使っています。
繼父即位稱元。
とあり、即位紀年の称元が行われていたとしています。
更に踰年称元でないことについて注釈を加えています。
[360] つまり即位紀年は三国の建国の頃から使われていたとするのが 三国史記 の説ということになります。 中国では前漢の時代に当たりますから、 即位紀年が用いられたとしてもそう不思議でもありませんが、 他に確証はありません。
[361] 即位紀年の利用が史実であるかどうか (いつからが史実か)、 史実だとして三国史記の説が正しいかどうかが問題となります。 (前提として、他の事績が史実かどうかもまた問題となります。)
[362] 三国史記 (や他の史書) はすべての王位継承が、前王の死去のほぼ同年に行われたとしていて、 即位紀年も非常に規則的に設定されています (>>281)。 しかしこれは余りに整然としすぎています。 実際には死去の翌年に即位がずれ込むことや、 空位年があった可能性もあります。 >>7866
[363] 大正時代の日本の朝鮮史研究者小田省吾は、 日本書紀 の朝鮮関係記事との比較からこれを検討しました。 それによると、 前王の死去後、新王の即位までの年数を確定させられる情報は検出できませんでした。 しかし両者の死去や即位の記述の不一致例の比較により、 三国史記 編者もすべての王の在位期間を知り得たわけではなく、 史料がない場合も便宜上死去と即位元年を同一年に設定して整理したのではないかと推定しました。 >>7866
[195]
即位紀年は、
即位の当年を元年とする流儀と、
即位の翌年を元年とする流儀があります。
どちらを採用するべきかはどこの国でも問題となっています。
[235] 朝鮮半島の歴代王朝でも、 この2つの数え方の即位紀年が行われてきました。 気づかないで誤って考察してしまう研究者もいるくらいで >>7864、 資料・論文ごとに違っていることがあり、要注意です。
[281] 三国史記 の三国の王の即位紀年を詳しく調べると、 次の通りです。 >>7866
[196] (各国の初代を除き) 即位の翌月から元年としているように見えます。 ただし、新羅の2王と高句麗の1王は、 前王の死去が12月のため、 結果として翌年が元年となっています。 >>7864
[364] 例外の3件 (>>303) はいずれも12月に前王が死去していますが、 12月に死去した王は他にもいて、同年が新王の元年となっています。 つまり、必ず死去翌月を元年にする規則ともいえないのです。 12月に前王が死去した王位継承を詳しく見ると、 次の通りです >>7866。
[380] 実は、 旧王が死去した月に新王の元年の記事がある例が、 新羅に3件あります。 >>7866 (>>290 に該当)
[386] このような 三国史記 の元年の決定方法 (称元法) については、 日本の明治時代から昭和時代の朝鮮史研究者が分析しました。
[396] 藤田亮策の説が現在も定説化していると考えられます。 後の時代の慣習に引きずられて「翌年」「翌月」のような幻の規則性が見えてしまっていただけで、 なんのことはない、「新王のはじまりからが新王の元年」 という素朴な原則ですべて例外なく説明できるというわけです。
[197] 東国通鑑 (成立) の三国時代の即位紀年は、 三国史記 の方法を踏襲しています。 ただし前王が12月に死去した3王のうち、 高句麗の1王だけ違いがあります。 >>7864
[393] 今西竜は、 関係する 三国史記 記事に不審な点があることから、 三国史記 が死去翌年を元年としたのは誤りで、 本来は甲種 (>>365) となるべきものだったと判定しました。 東国通鑑 の変更も、同じように判断したためだとしました。 >>7867
[279] 高麗時代には即位当年を元年とする数え方がまだ一般的だったと考えられています。 >>7866
[280]
ところが朱子学の流行により即位翌年を元年とする数え方が正統とされるようになり、
史書の編纂にも使われるようになりました。
>>7866
[201] 李氏朝鮮国の儒学者権近の編著 東国史略 (成立) や、 李氏朝鮮国の儒学者洪汝河の 木斎家塾東国通鑑提綱 は、 儒教的な立場から、 三国時代の各王の即位紀年も即位の翌年を元年としました。 >>7864
[202] それ以後の歴史書や歴史の記述は、 三国史記 や 東国通鑑 の方式が一般的でありながらも、 即位翌年の方式も使われています。
[203] 高麗および李氏朝鮮の時代については、 諸書とも即位の翌年を元年としています。 >>7864 ただし、特殊例が次の通り王朝初代計2件、高麗に2件、 李氏朝鮮に3件あります。
[243] 高麗や李氏朝鮮の時代に、 史書とは違って即位の当年を元年とした数え方の用例が見つかっています。 文献史料だけでなく金石文にもよく見られ、 即位当年を元年とする数え方が当時用いられたことは疑いありません >>7866。
[261] 東国通鑑で即位の翌年を元年とする徐居正がここ (>>247) では即位当年を元年としていることが注目されます。 >>7864
[277] 光国志慶録 (>>278) は原版後序が当時の年を、即位当年を元年として書いていました。 再板跋はその年を年数はそのまま、 元号名の「上」を王名に置き換えて書いていました。 しかし当時の年は、即位翌年を元年として書いていました。
[1434] 李氏朝鮮時代に入っても、 碑記、 日記、 野乗などには即位当年を元年とした即位紀年が極めて多いです。 >>7863 #page=17
[1435] 粛宗王以後、康煕以来の文化の影響で民間の墓碑、事績碑などにも即位翌年を元年とする即位紀年が少なくありません。 それでも両者の数え方が共に存続するのは、 儒家両班と一般民衆の乖離の表れといえます。 >>7863 #page=17
[448]
光徳の建元年次のずれから、
高麗史
が実際の元号を1年誤っていることが知られます。
高麗時代の初期には実際には即位の当年を元年としていたものが、
次第に翌年を元年とするようになり、
誤って史書が編纂されたものと推測されます。
[186] 大韓帝国最後の皇帝で大日本帝国の李王の純宗の即位紀年は、 皇帝即位翌年から連続する形で死後しばらくまで、 公的にも (>>183) 私的にも >>187 使われました。 y~4080
[189] 純宗の即位紀年は、 皇帝即位当年を元年とする 「李王元年」 からの数え方もありました。 y~4081 朝鮮総督府の出版物に出現しています >>188, >>190。
[192] 即位当年からの数え方 y~4081 は現在知られている初出は >>190 で、皇帝退位後ですが、李王として在命中です。 ただしこれは日本側で軽く探しただけなので、より遡る用例もあるかもしれません。
[1390] 大日本帝国朝鮮総督府の朝鮮史編修会の編纂した 朝鮮史 は、 高麗時代当時に行われた、 即位当年を元年とする数え方を採用しました。 ただ、
と統一しきれませんでした。 >>7863 #page=16
[1436] 退位した高麗王が再度即位する事例が3件あります。
[1437] 高麗史 はうち2件を何々王後何年のような後元方式でリセットして2回目の在位を数えています (>>174)。
の2度、王位にありました。 通常即位紀年 (y~4020) として書かれるのは後者を指します。 前者は1年に満たないため史書には表れません。
[1429] >>1420 の用例は前者を指しています。 当時は前者の「即位元年」のような表記もあったかもしれません。
[1439] これはの誤りの可能性が高そうです。
[1441] これは正しいのかどうか、前後の事実関係を要確認。
[1424] 即位の翌年を元年とする史書における新王の即位当年の記述を参照するとき、 便宜上「誰々王即位年」のような表現をすることがあります。
[1425] そうした慣習と関連があるのか、どちらが古いのか定かではありませんが、 金石文にも同じような表現があります。
[1567] 近代日本の研究者によると朝鮮に元号はないと言われていたようです。 実際には独自の元号も一時期存在したことは史書に明記されていて、 朝鮮史研究者には常識だったのですが、 ほとんどの時代に中国の元号を奉用してきたため、 そう言われることがあった模様です。
[405] 朝鮮半島諸国独自の元号の始まりは十分明らかにはなっていませんが、 他国の事例から三韓時代には未だ建元せず、 三国時代に建元されるようになったと推測されます。 三国の中では高句麗が最も早いと推測されます。 >>404
[546] 高句麗、百済、新羅、加羅諸国では記録に残らない元号の存在が研究者によって推測されてきました。 >>7862 実際に高句麗の金石文からいくつかの文献史料にない元号が発見されており、 その他の時代にも存在が想定されます。 百済は昭和時代頃まで存在説がありましたが、現在では存在しないとする説が有力になっています。 加羅諸国も現在は存在しないとする説が有力そうです。
[1582] 新羅以外の元号が記録に残らなかったのは、 三国史記編者が新羅の王族だったため新羅のみ記録に残した可能性や、 新羅が朝鮮半島を統一したために新羅史観が支配的になった可能性が指摘されます。 >>1555 (王光錫1991, 鄭雲竜1998)
[406] 高麗は初代王の天授の16年に後唐の元号を使い始めましたが、 4代王の光徳で一時独自の元号を復活させました。 この前後は五代十国の混乱時代で、 光徳の直前の2,3代の王の時代にも未知の元号があった可能性も想定されましたが >>404、 現在まで発見されていません。 幸中が使われたという説があります。
[547] 北鮮方面は漢の4郡など古くから中華王朝の統治下にありましたから、 干支年や漢の元号のような中国の日時制度が早い時期から使われていたと考えられます。 >>7862
[1345] 帯方郡の塼には稀に干支が使われています。 >>7863
[548] 百済人や新羅人が干支年を使い始めたのは、 早くても4世紀以後と考えられます。 具体的にいつからかは物証がなく想像の域を出ません。 >>7862
[1346] 元号実施以後も、元号と併用でまたは単独で干支年は非常によく使われました。 >>7863
[1347] 公的な文書に元号を使っても、 略式の私文書や半公文書では干支年のみとすることがよくありました。 近世の売買公券、 戸籍、 書簡には干支年のみの例が多いとされます。 >>7863
[1348] 元号名干支年表示も使われました。 高麗時代に特に多く、 唐末から宋代の風潮を伝えたものと考えられています。 >>7863
[130] 記事は概ね規則的に記述されていますが、細かい点まで見ると微妙に規則から外れている箇所もいくつかあります。
[126] 新羅建国から後百済滅亡までの三国時代、新羅統一時代、後三国時代の各年について、 干支年、 中華王朝の元号、 三ヶ国の即位紀年を並べています。
[127] 更に、各王の即位、死去・退位、改元、重大事件が記載されています。
[128] 即位紀年には元号名が明記されず、年数だけが並べられています。 元号は改元年に書くだけで、元号年は書かれていません。
[129] いくつかの中華王朝の元号は、 いつ新羅が改元を知った、 新羅は使わなかった、 といった記載もあります。
[133] どちらもたまたま判明したもの、記録が残ったものが収録されているだけで、 それ以外がすべて新羅でも実施された、改元日から日が経たないうちに施行された、 とも断言できません。 改元翌年に知ることが実は珍しいことではないのなら、 他の短命元号が実施されなかった可能性があります。
[134] 実施されなかったと明記されているものは、 改元伝達に時間がかかって次の改元に至ったものもあるでしょうし、 内乱等が理由で意図的に施行を保留していた可能性もあるのかもしれません。
[146] 三国史記 記事本文中では、 中華王朝の元号と即位紀年の一方または両方 (と干支年) が入り混じっています。
[147] 即位紀年の元号名部分の王名は、必ずしも年表の王名の表記と一致しません。
[149] 三国時代は各国の王紀年、 統一時代は唐の元号が基本となっているように見えますが、 そうでない箇所も多いです。
[148] 記事本文中に出現する紀年の表記法を統一しようという意志は強くなさそうです。 原資料の違いによるところもあるのでしょうか。 中国正史でも本文中の紀年はあまり洗練されていない傾向はありますが、 朝鮮の場合は即位紀年と元号が並行しているので余計にぐちゃぐちゃになって見えます。
[158] 同じように中華王朝の統治下にあった時代が長い越南の史書の場合、 本紀では干支年に越南の元号・越南の即位紀年と中華王朝の元号を併記するスタイルが確立しています。
[159] それに対して 三国史記 は本紀の記事日付が朝鮮半島の即位紀年のみで、 年表を見ると中華王朝の元号や干支年と対応付けることもできるという仕様になっていて、 本文中の紀年は先述の通り不統一になっています。 年表があるのは便利ですが、本文だけを読みにくいのは難点です。
[135] 三国遺事 は基本的に中華王朝の元号 (と干支年) を使っています。 第1卷では中華王朝の元号に対して、 朝鮮半島の各国の王の即位年が書かれています (が即位紀年は使っていません)。 本文中ではたまに各国の王の即位紀年 (と干支年) が出てくることもあります。
[140] いくつかの避諱元号が出現します。 よく知られていない謎元号が連発されるので、 解説がないとなかなか読みづらいです。
[141]
唐の末期に、光化, 天祐の延長年号が出現します。
同時期に元号のかわりとしての即位紀年の例もあります。
[145] 他の国の史書にあまり見られない表現として、 「誰々王代何々何年」 という元号年がたびたび出現します。 他国なら元号を制定した皇帝を書く所ですが、 朝鮮では制定者と王名が違っています。
以地皇四年甲申崩。
1年ずれ
劉聖公更始元年癸未。即位年表云。甲申即位
1年ずれ
[142] 三國史記/卷26 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B726
百済聖王
十六年,春,移都於泗沘,一名所夫里。國號南扶餘。
[143] 三國遺事/卷第二 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E9%81%BA%E4%BA%8B/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%BA%8C
按三國史記。百濟聖王二十六年戊午春。移都於泗泚。國號南扶餘。
[162] 高麗史 の年表には、 各年の干支年、 中華王朝の元号、 高麗王の即位紀年 (元号のある王は元号) が並べられています。 >>160, >>161, >>170
[163] 维基文库本の年表では元号がある王は在位の最後までその元号になっています。 本紀の方で
又賜曆日,自是,除天授年號,行後唐年號。
という記事がありますが >>167、年表ではそれ以後も天授が使われています。
[171] 別の本では天授16年まで元号名がありますが、 廃止翌年の17年からは元号名なしになっています。 >>170 こちらの方が本来の形なのかもしれません。 光德は元年にだけ元号名があり、廃止当年の2年からが元号名なしになっています。
[164] 本紀は王ごとにまとめられており、 記事の日付は (元号名なしの) 即位紀年の年数で書かれています。
[165] 建元記事には元号名がありますが、日付表記には使われません。 年表に示されるだけです。 本文記事中で参照するときは、王名が元号名として即位紀年が使われています。
[166]
本紀および年表に中華王朝の元号採用の記事はありますが、
本紀の方が少し詳しい説明があります。
国名が書かれているだけで、具体的な元号は書かれていないこともあります。
元号をやめたという記事や、元号をやめて干支年にしたという記事もあります。
元号の利用をやめた後に同じ元号を再開したという記事もあります
[168] 年表記事はおおむね規則的ですが、たまに例外があります。
[172] 年表中、 「金天會」 が元年から15年までありますが、 8年だけなぜか 「遼天會」 になっています。 >>167, >>170 ただの誤記でしょうか。
[169] 年表中、北元の 「元泰定帝元年」 だけ「帝」が付きます。その次の 「元泰定二年」 からは付きません。 泰定帝は一世一元で元号名が皇帝名としても使われているため、 書き方が乱れたのでしょうか。
[174] 重祚が2組あり、 「忠肅王後元年」 「忠惠王後元年」 のように後元が表記されています。 ただし 「忠肅王後四年」 の次がなぜか 「忠肅王五年」 に戻っています。 >>160
[176] 朝鮮王朝実録 は李氏朝鮮の建国から大韓帝国の大日本帝国併合まで、 各王ごとに即位紀年で編集されています。
[177] 王ごとなので、 元年の前に「即位年」があり、 前王の最終年のうち、新王の即位以後が収録されています。
[178] 太陽暦への改暦以後は新暦日付で、 巻頭に陰暦が併記されています。
[183] 大韓帝国最後の皇帝で大日本帝国の李王だった純宗の実録は、 本編は 三年 の退位 () までで終わりますが、 純宗實錄附錄 が更に続きます。 付録の 三年 は同じから始まり、 死後の 二十一年 のまであります >>184。
[193] 東国通鑑 は、 記事の日付を、 全体を通して干支年を使い、 朝鮮各国の王の即位紀年と中華王朝の元号を併記する形としています。
[1747] 漢は西暦紀元前108年に朝鮮半島に4郡を設置しました。 他の漢の領土と同様に、 漢の元号などの当時の中国の日時制度が使われたと考えられます。
[2027] 楽浪郡や帯方郡の統治下にあった北鮮を中心に多数の紀年塼等が出土しています。 もっとも、漢地から渡来した氏族が利用していたものと考えられていて、 在来の住民の利用例ではありません >>61 #page=12。
[2059] やは、 高句麗の「王権の発動とは異なる私的な次元での年号の使用例」 で、しかも地下の墓室に使用されているに過ぎないものと理解されています。 >>2060
[549] かつて朝鮮半島と満州南部にあった高句麗国では、 干支年が使われた他、 元号が使われた時期もありました。
[2067] 高句麗に滅ぼされた楽浪郡や帯方郡の旧領では、 併合後も東晋の元号など中華王朝の元号の用例がしばらく残されています (>>2059)。 残留した漢人などが使ったと推測されます。
[550] 文献史料には高句麗の元号は記録されていませんが、 金石文にいくつか見られます。
[2049] 高句麗は漢土の分裂時代にあって、 複数の王朝から冊封を受けながらも、 独自の元号を使っていました。 一方の元号を奉じて臣属を表象することを避け得る環境でした。 >>61 #page=13
[2068]
唐と新羅によって滅ぼされた後に記録が失われたのか、
史書には高句麗の独自元号はまったく記述されていませんが、
近代以後金石文が続々と発見され、少しずつ様子がわかってきました。
それでもなお出土数が少なく情報量はごくわずかで、
各元号の年代比定には複数説があって確定しかねる状況です。
[1581] 永和, 咸和, 建武, 大安が高句麗の元号とされたことがありますが、 その可能性は低いとされます。 >>1555 (姜賢淑2015など)
[2069] 20世紀の偽書に、それを遡る用例のない元号群の記述があります。 一部の超古代史や宗教の関係者はそれを信仰しているようです。 日本でいう古代年号と性質は似ていますが、 それより遥かに新しいものです。
[2073] 比定年代は不確定なところもありますが、 楽浪郡・帯方郡の滅亡以後の時代の各王の元号とされるのは偶然ではないでしょう。 旧領に残った漢人が高句麗に吸収されたのもあるでしょうし、 諸王朝の乱立と晋の弱体化で高句麗も独自の建元を指向したというのもあるでしょう。
[1562] 高句麗の元号は中国の元号の模倣でなく即位紀年から独自に発展したものだ >>1559 との説があります。しかし永楽のみが高句麗の元号とされていた時代の説なので再考を要しますし、 高句麗人が中国の元号と接触してこなかったと考えるのは無理があります。 何をもって「模倣」とするかにもよりますが、影響を考えないのは難しいでしょう。
[2070]
高句麗の元号の研究は近現代、特にここ数十年で急激に進展したこともあって、
元号一覧などでの扱いはあまり芳しくありません。
日本語の一覧や詳しい説明はほとんどありません。
韓国語でも網羅しているものはまずなく、
先行研究を多く紹介している論文でも論旨と関係の薄いものや偽書由来のものを省いていて不完全だったりします。
[1633] 未見:
[68] かつて朝鮮半島にあった百済国では、 干支年が使われました。
[1939] 高句麗、新羅、渤海には独自元号が見つかっているので、 百済でも独自の元号があったのではないかと考えるのは自然です。 近代日本の研究者はそう推測していました。
[1940] ところがこれまで百済の元号の記録も金石文も発見されていません。 かといって中華王朝の元号を奉じた明確な例も見つかっていません。 滅亡以後は旧百済地域にも中華王朝の元号の用例があるにも関わらずです。 >>61 #page=4. #page=8
[2026] 4、5世紀には紀年例が未発見です。 6世紀以降干支年が用いられています。 6世紀末には即位紀年と干支年の併記例も1例ありますが、 王室の仏事のためなのか、類例がありません。 >>61 #page=12
[1957] 翰苑百済条に 「随二六甲一以標レ年」 とあります。 >>1949
[1958] 翰苑百済条雍公叡注所引括地志に 「用二宋元嘉暦一。其紀年無二別号一、但数二六甲一為二次第一」 とあります。 >>1949
[2052] 其の後の周書, 隋書, 北史の百済伝にも、 元嘉暦を使い建寅月を年始としたことが記されています。 >>61 #page=13
[2055]
百済が元嘉暦を日本に伝えたことは日本側の史書にも記録があります。
[96]
百済から日本に伝わったとされる護身剣には干支年が使われています。
日本書紀所引百済三書には干支年が使われています。
[1961] 昭和時代の研究者坂元義種は、 当時の説により建興は百済の元号としながらも、 それ以前およびそれ以後の金石文の干支年用例および 翰苑 を引いて、独自の元号は長続きしなかったと推測しました。 >>1949
[1941] 百済が独自の元号を持たないことで中国への従属性の強さとするのが一般的見解でしたが、 それには疑問の声もあります。 >>61 (年号論, 大井剛, アジアの中の日本史V・自意識と相互理解, )
[2056] 平成時代の日本の研究者濱田耕策は、 百済では一貫して干支年が用いられていたとしました。 独自に建元せず中華王朝から自立を強調せず、 宗主国の元号を奉じず臣属関係を明示しないことで高句麗との対立や日本との通好を保った、 国際関係のバランス維持がなされていたと推測しました。 >>61 #page=14, #page=15
[2053]
百済から日本に伝わったとされる七支刀には泰□の元号年があり、
東晋の元号とする説が有力です。
しかし百済では東晋の元号を奉用した形跡がなく不思議です
>>61 #page=13。
[2058] 百済の地で出土した「鳳二年」は、百済滅亡後に使われた唐の儀鳳2年に過ぎません (>>1989)。 百済の紀年法の検討 >>61 では一応取り上げられていますが、 独自元号説を提唱した人はいなそうなので、 可能性を潰すために検証しているに過ぎないとみられます。
[1551] 建興はかつては百済の元号と考えられていましたが、 現在は高句麗の元号とされています。
[2054]
百済ないし日本に亡命した百済人が使ったとされる元号がいくつかありますが、
いずれも偽書を初出とするものです。
[2057] 旧唐書巻84劉仁軌伝によると、 百済を滅ぼした唐は、 百済旧領で唐の暦と元号を施行しました。 >>61 #page=15
[2028] 新羅では5世紀の高句麗の元号の用例が発見されていますが、 高句麗から離れた5世紀後半以後、 干支年の用例が見られます。 >>61 #page=12
[504]
新羅の元号は三国史記に改元記事等があるものの、用例はほとんどありません。
[1552] 延寿はかつては新羅の元号とされていましたが、 現在は高句麗の元号とされています。
[503]
大昌は金石銘に用例があります。
開国、建福、仁平は
三国史記
や
三国遺事
に用例が引かれています。
[505] 新羅の元号の用例が少なく、干支年が使われることが多いため、 元号はあまり使われていなかったのではないかとの見解もあります。 >>463 /143
[552] 改元と即位やその他重大事件の関係はほとんど見られず、 どのような意図で元号が運用されていたのかはよくわかりません。 >>7862
[1563] 慶事や凶事に因んで改元されていたとする説もあります >>1559 が、 各改元の事由が十分に検討されていない段階で結論を急ぎすぎている感があります。 慶事で改元がなされるなら、即位で改元されない理由が必要です。 元号制度が中国の元号の模倣であるなら尚の事です。
[1547] 高句麗や百済の公年号が知られていない (いなかった) のに対して新羅だけ公年号を建てていたことについて、 建国が遅い新羅が対抗のため文化を強力に摂取しようとしていた点や、 直接中国と国境を接していなかった点が指摘されていました。 >>1543 現在では高句麗に公年号があったと考えられている点は訂正が必要ですが、 中華王朝との距離は指摘の通りでしょう。 実際唐との関係が密接になった統一新羅では独自元号を断念しています。
[2050] 新羅は独自の元号を使った時代も冊封は受けており、 唐に叱責されるまで冊封と正朔を奉じることは直結していませんでした。 >>61 #page=13
[554] 建元 (y~529) は新羅の元号の最初とされます。
[555] 三国史記と三国遺事に建元の建元記事があり、 が元年に当たります。 >>7862
[556] 継続年数を明記したものはなく、次の開国の改元記事から、 それまで存続したと考えられています。 >>7862
[557] その他の用例は見つかっていません。 >>7862
[558]
本来建元は元号名ではなく建元記事に過ぎなかった可能性もあります。
昭和時代の研究者久保常晴も果たして元号と見なし得るかは疑問だと述べています
>>1543 p.
[514] 唐の正朔を奉じる前の紀年にも月日を書いたものはあり、 日干支から暦法が推測できる例もあります。 唐の戊寅暦によっていたのかもしれませんが、 確証はありません >>7862。
[493]
唐の属国となった新羅では、
太和を最後に独自元号を廃止し、
唐の元号を使いました。
[513] その後の時代に書かれた歴史の記述では、それより前に遡って唐の元号 (やそれ以前の国の元号) が使われることもたまにあります。
[662] 金石文用例によれば、いつも唐の元号が使われたのではなく、 日常的には即位紀年や干支年が使われることが多かったようです。 >>7862
[512] 金石文用例から唐の元号と暦法が新羅でも比較的正確に施行されていたことが知られます。 >>7862
[663] といっても唐本国の改元通知が届くのが遅かったのか、 旧元号が使われ続けた事例が知られます。 特に唐の混乱期にその傾向がみられます。 >>7862
[665] 改正月への対応がどうだったのかは十分な情報がありません。
[724] 短期間に終わった元号が多く、 使われなかったものもありそうですが、 記録も同時代用例もないものは判定が困難です。
[667] 唐ではからまで年の字に載が採用されました。 天宝4年銘に載が使われ、 天宝17年銘に年が使われているのは大変興味深いといえます。
[725] 新羅は唐が征服した百済と高句麗から唐を駆逐するなど、 唐の属国となったといっても必ずしも忠実に臣従していたわけではありませんが、 元号については、少なくても記録に残る限り、忠実に唐に従っていました。
[726] 則天武后や安史の乱の頃は (情報伝達の遅れのほかにも) いくらか独自の判断があったのでしょうが、 唐の元号を完全に停止したり、独自の元号を建てたりするには至っていません。 唐の滅亡後も、結局は五代政権の元号を使っています。
[727] それに対して反乱政権 (長安, 後百済, 後高句麗, そして高麗) が独自の元号を建てているのは注目に値します。 新羅政府が唐の元号から離れることを選ばなかったとしても、 新羅人の頭の中から唐の元号を使わないという選択肢は消えておらず、 しかも漢土の人々と同じように独立国は元号を建てるものだという考え方を持っていたのです。
[738] 新羅時代末期、唐は滅亡し、五代十国の時代となりました。 新羅では五代政権の元号が使われました。
[408] 高麗国は宗主国が二転三転しました。 そのたびに違う国の元号を奉じたり、独自の元号を建元したり、 元号を停止して干支年を使ったりしました。 >>7862
[728] 宗主国の元号を使う場合でも、 避諱元号に置き換えている場合や、 延長年号を使っている場合があります。 >>7862
[729] 民間では干支年がよく使われていました。 >>7862
[730] 高麗王の即位紀年もよく使われていました。 当時は王の即位年を元年としていましたが、 後に即位の翌年を元年にして史書が編纂されるようになったため、 注意が必要となっています。 >>7862
[731] 文献中では、当時実際に使われていた元号がそのまま書かれていることが多く、 後から宗主国が変わっても、それに応じて遡って書き換えるようなことはあまりしません。 そのため同じ文獻にも諸国の元号が混在することになります。 後から逆算して元号を書いたようなものもあるにはありますが、 それでも元号を使わなかった時代は干支年のみで表されるのが普通です。 >>7862
[776]
高麗の建国初期には天授の独自元号がありましたが、
金石文や文獻に用例が残る (>>737) のは五代政権の元号ばかりです。
>>7862
令和時代になっても金石用例は未発見です。
>>1555 p.
[777] 高麗史にあるように高麗太祖16年に冊封され正朔の頒与があったのは確かだとしても、 それ以前から既にその元号が使われていたと考えられます。 >>7862
[786] 特に同光7年、8年の延長年号の用例がある (>>757, >>759) のは、 後から逆算して当てはめたのではなく、当時実際に使われたものと推測されます。 >>7862
[792] 清泰、天福、開運と徐々に改元を知るのが遅れているのではないかと指摘されますが >>7862、 清泰4年の延長年号 (>>764) は後唐から後晋への政権交代と関係する可能性があります。 情報伝達の遅れだけでなく能動的な判断もあったのかもしれません。
[834]
宋の建国後、建隆の時代には、
高麗には峻豊の用例が残ります。
独自元号説もありましたが、
現在では避諱元号と考えられています。
[835] 11月には乾德に改元されました (>>812) が、 高麗史は12月に北宋の元号を利用開始したと書いています (>>808)。 これが独自元号説の最大の根拠の1つでしたが、 高麗史の著者が避諱元号であることを知らず、 この年に冊封使があったのでそう解釈したものだろうとされています >>7862。 前月の改元の伝達が記録されたのだとすると時系列が自然になりますが、 交通事情と戦況は検討しておかねばなりません。
[837] 次の乾德は、 乾德9年 (開寶4年) の用例があり (>>829) ます。 当時は宋と高麗は陸続きでなく、 海上往来の困難から正朔を受けず古い元号が使われ続けたのか >>7862 と推測されます。
[840] 太平興國, 雍熙, 端拱, 淳化の文獻用例は少ないですが、理由は不明です。 >>7862
[937] その後高麗は契丹に服属しますが、 両国関係は良好ではなく、 元号を廃止したり、 宋の元号に切り替えたりした時期もあります。
[969] 遼の元号が公用される時期も、次第に宋の文化的影響が増大し、 宋の元号をも併用した例が少なくありませんでした。 >>7862
[956] 金石文等の元号はおおむね高麗史の記録通りに元号を切り替えていますが、 いくつか興味深い事例もあります。
[413] この時代は宋を奉じていたはずで、文頭にも「大宋」とありますが、 日付は干支年です。 あるいは元号が憚られることもあったのではないかとも推測されています。 >>404
[957] 宋の元号に切り替えられてすぐの時期であることと、関係がありそうです。
[423] 宋と遼の元号を混用した碑文もあります。 >>404 高麗史によれば4月に高麗国は契丹の元号を使い始めました。 裏表でちょうどそれをまたいでいて、元号の変わり目が忠実に反映されています。
[427] 契丹では太平11年に改元がありましたが、 関係悪化のため高麗国はこれに従わずにしばらく太平を使い続けました。 高麗史に記載がありますが、 金石文からもそれを裏付けられるのです。 >>404, >>7862
[1334] 宋の元号と遼の元号が書かれたもので、 宋の元号が宋暦 (y~4109) とだけ書かれた事例があります。
[1339] 複数ある序文に、遼の元号と、宋の元号と解し得るものがあり、 ちょうど同じ日と解釈できます。
[538] 公式には遼の元号が使われたとされる時期にあたります。 宋の方は元号名が書かれていませんが、遼を憚ったものと解釈されます >>502。 それでも宋の年月日を書くことまではゆるされたのは興味深いものです。 元号名がなければ諸侯王等即位紀年のように (そして朝鮮半島の即位紀年のように) 支障ないとの意識があるのでしょうか。
[539] 「周」は、8周年のような意味か >>502 とする説もありますが、王春正月的なニュアンスと解するべきでしょうか。 だとすると諸侯王等即位紀年とは逆に儒教的な周制の理想の王朝を宋に重ねたものということになります。 (この時代にそのような思想で序が書かれ得るかは要検証。)
[1342] 周正月をそのままの意と解釈するなら、建子月、 つまり現行農暦でいう前年10月の意味になります。 >>7862 すると序と後序の間に2ヶ月あったことになるでしょうか。 しかしそのように年始を移動させた表記は類例なく、 この時代に異なる年始が行われたとも考えにくいところです。 (逆に後序の9ヶ月後に序が書かれたというのはやや不自然か。)
[958] ところで前に宋の元号が公用されてから久しく、 その間他に宋の元号を使った事例が見られないということは、 宋の元号が密かに使われ続けたのではなく、 直近の遼との関係悪化に伴う宋との接近が影響しているのでしょうか。
[1340] 藤田亮策は、 避諱元号の項に入れつつも、不明としていました。 均如と同時代だとしても後唐、 後晋、 後周の頃に類似の元号なく、 (y~861) の誤脱とすると時代が空きすぎるとしています。 >>7862
[542] 公式には遼の元号を採用しているにも関わらず、 なお宋の元号が併用され続けたことが知られる例です。 >>502
[1351] 遼の天慶が廃止され干支年を使うこととなった (>>967) 後も、 天慶や宋の元号の用例はしばらくありました。 >>7863 #page=7
[1171] 宋の宣和が使われた (>>997) のは、民間の往来の他に、 宋使も来訪したためとされます。 >>7862
[1169] 遼が滅亡し金の時代となると、 金の元号が使われるようになりました。 公用は皇統からですが、それ以前にも用例はあります。
[1183] 貞祐はその後の改元に追随されず長く使われました。 金の衰退で正朔を頒ち得なくなったためとされます >>463。 その間の興定、 元光、 正大は用例もなく、使われなかったと思われます >>7862。
[1186] には公式に金の元号が廃止され、 以後干支年が使われるようになりました。
[433] 金の元号の公用時代でも、 宋の元号もしばしば使われました。 民間では元号廃止以前から干支年だけの金石文がしばしばみられます (>>430)。 本心では金に服属していなかった証左といわれます。 >>404
[434] 金の元号が使われなくなると、干支年や啓統紀元も使われました。
[1187] 元の中統以後、高麗にも正朔が頒てられるようになりましたが、 それまで三十数年間干支年利用の習慣から急に元の元号が利用されるようになったかは、 疑問があるとされます。 実際に金石文から一般では干支年が使われたことが知られます。 しかしやがては元の元号が使われるようになりました。 >>7862
[733] 元の至元は2回あり、どちらも使われるので注意が必要です。 後者は高麗でも後至元、至元後と書いて区別することがあります。 >>7862
[1353] 元の元号の利用期間中も、一般には干支年のみの紀年がよく使われていました。 元に接近する勢力と、 反発する士人や民衆との様相を反映していると説明されます。 >>7863
[1188] 元末には、明党と元派の対立で何度も切り替えがありました。 そのためか当初は洪武を使った金石文や文獻は極めて少なく、 多くは干支年によっていました。 >>7862
[428] 高麗では元号を停止して干支年のみ使うようになった時期が何度かありました。 開城江華等の荒塚より盗掘された墓誌銘で干支年のみのものが多く、 この時期のものの可能性を検討するべきだと明治時代の研究で指摘されています >>404 が、その後の研究ではどうなっているのでしょう。
[732] 正確にいつからいつまで干支年だけを使っていたのか、 はっきり区別するのは難しいとされます。 >>7862
[468] 史林 = The Journal of history 7(3)(27), 史学研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/11005195/1/56 (要登録)
[1503] https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=2753&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
がありますが、確実な根拠の見当たらない幽霊元号です。
[1276] 李氏朝鮮を建国した勢力は (元派で仏教徒が多い守旧派に対して) 朱子学信者が多く明に依存した国家体制を作ろうとしました。 そのため明の正朔を奉じて忠実に実施しました。 >>7862
[1278]
明の属国時代は、
公文書や金石文では悉く明の元号を正確に使っています。
日本宛ての国書にも使いました
(
[1522] 1月8日に後金は李氏朝鮮に進攻しました (丁卯胡乱)。 3月3日に和議が成立しました。 >>1520, >>1521 李氏朝鮮は明の元号の天啓を使わないこととされた >>1520, >>1521 といいますが、どれだけ実行されたのかはよくわかりません。 その後も明の元号は使われています。
[1524] 丁卯胡乱をうけて李氏朝鮮は、 後金宛て国書では明の元号の天啓を使わないこととしました。 >>1523 #page=5
[1310] 4月26日、 李氏朝鮮は清の元号の建元を承認しないことを決めました。 >>1525
[1279] 12月9日、 清は李氏朝鮮に進攻しました (丙子の乱)。 1月30日、李氏朝鮮は清の属国となり、 正朔を奉じることになりました (丁丑約条) >>7862, >>1525, >>1523。 1月28日付詔勅で清は李氏朝鮮に対し明の元号を停止し清の元号を用いることを要求しました >>1526。 李氏朝鮮はそれを受け入れました。
[1280] 以後清への国書などの公文書の他に民間でも稀に清の元号の崇徳や順治が用いられることもあったものの、 ほとんどは干支年や崇禎紀元や即位紀年を使いました。 >>404, >>7862, >>7863 #page=33 稀に洪武後紀年が使われました。
[1535]
対清文書、平安道・咸鏡道・黄海道・京畿道、
観象監暦書などの清国人の目に触れやすいところでは清の元号が用いられました。
江原道・忠清道以南や、
一般祭享祝辞その他公私文書では、
崇禎紀元や干支年が用いられました。
>>1532 p.
[1529] 親明派の李敬輿は清の元号を使用しませんでした (が何度も清国で拘束されました)。 >>1523 #page=26
[1527] 李氏朝鮮政府は明に従属する祭祀も続けており、 1月1日乙丑の宮中祭祀では明の元号が使われました。 >>1523 #page=11
[435] 日本への国書も多くは干支年でした。
[1530] 5月25日壬辰、 観象監の暦書で明の元号の崇禎を使わないことが決められました。 7月27日癸巳、 崇徳を使うことが決められました。 >>1523 #page=28
[1528] 明滅亡後の閏6月1日辛巳、 仁祖は教書により清の元号使用の徹底を求めました。 >>1523 #page=17
[436] 康煕年間以後、清本国の学者との交流が進み、 自然と清の元号を使う例が増えました。 墓碑には乾隆を使ったものが少なくありません。 >>7862
[1281] しかし一般には干支年や崇禎紀元の利用が李氏朝鮮末期まで続き、 紀年銘の大半を占めています。 >>7862 金石文等には崇禎紀元が多く、 民間の帳簿では干支年が圧倒的です。 >>7863
[1357] 李氏朝鮮の記録、帳簿などでは歴年は必ず誰々王何年干支の即位紀年と干支年の併記形で記述されました。 >>7863 #page=9
[1536]
11月、
清国の弔問団が粛宗の陵墓を訪れました。
ところが山陵の表石には崇禎が書かれていたので、
李氏朝鮮政府は板壁による隠蔽工作まで行いました。
>>1632 p.
[1533] 通文館志 は、 3月から5月の間に刊行された初刊本の巻8 紀年 には即位紀年の下に明の元号と清の元号が書かれていました。 ところが8月から12月の間に刊行された重修改補刊本では、 明の元号と清の元号は削除されていました。 >>1632
[1534] 元号は細字で、明の元号の下に清の元号が書かれました。 記事は崇禎9年から始まりますが、そこには清の元号はなく、 清の元号は崇徳2年 (崇禎10年) に始まります。 明の元号は弘光元年 (乙酉年) まで続き、 その翌年からは清の元号だけが書かれました。 >>1632
[1537]
明の元号の削除は陵墓の件と同様に清国への対策のためと推測されます。
清の元号も共に削除したのは、それだけを残すことも朝鮮人の観念上許され難いためと考えられます。
>>1632 p.
[1502] 明と清の建国紀元のようなものと朝鮮王の即位紀年を併用し、 干支の異名で仰々しく書いた事例があります。
[1500] 金之何年は後金から清に変わって皇帝に即位してからを数えた建国紀元です。
[1498] 大明後何年は明の建国後68年がスタートで、疑問が残ります >>7863。 の土木の変で明の皇帝英宗 (正統帝) は蒙古に捕縛されました。 あるいはそれが関係しているのでしょうか。 それにしても正統元年から起算するのはどういう理屈なのでしょうか。 大明の「後」とあることに意味があるのでしょうか。
[1504] 干支1巡分少なく数えていたとすると、 から260 + 60年遡った元年は (>>1509)。 ちょうど元と明の交替期になりますが、 元、明、高麗のどの視点でも微妙にキリの悪いタイミングに当たります。 から267 + 60年遡った元年は (y~4040, 高麗史の数え方)。 これも「大明後」に相応しい起点とは思えません。
[1512] 実は数え間違いではなくて 「大明後二百六十年金之六十年也我聖上即位之二十二年也」 が明の260年と金の60年を足すと粛宗22年になるという意味だ、 と考えるとぴったり合いますが、 この書き方でそう解釈するのは難しい気がします。
[1505] 誤算ないし漢数字の誤写で実は360年前, 160年前だとしても、元年はあまりいい位置に来ません。
[1511] 「我聖上即位之二十二年也端蒙大淵獻歲」 は本当に同じ年なのか?という疑問も。 間に「也」が挟まっているのと、 次にもう1つ異名干支年だけの記述があるので。 でもそうするとその前の 「大明後二百六十年金之六十年也我聖上即位之二十二年也」 にも「也」が挟まっているので、 大明後と金之はセットで我聖上即位之とはまた別とも解釈できるものの、 「我聖上」が誰なのかヒントがなくなってしまう。
[1344] キリスト教が伝えられると、 耶蘇紀元も信者の間では知られるようになりました。 >>7863
[1294]
李氏朝鮮の末期、大韓帝国の時代には、
清の元号が公用する必要がなくなり、
かわりにいろいろな紀年法が使われました。
[120] kakenreport2.pdf, , http://nagaikazu.la.coocan.jp/kuratomi/kakenreport2.pdf#page=161
[2142] 平成時代の日本の近代諸元号現象は、 大韓帝国の元号を中心に清国属国時代の崇禎紀元や日本統治時代の日本の元号にも触れています。 大韓帝国の元号については光を表す文字が含まれることを指摘し、皇帝の威光と解しています。 日本時代には日本の元号の奉用が生活全般にまで強要されたとしていますが、 具体的な事例や根拠は示していません。 >>2141
[38] 日韓併合条約が施行されたには、 隆煕四年八月二十九日の大韓帝国の官報號外 >>39 と、明治四十三年八月二十九日の朝鮮総督府官報第一號 >>40 が発行されました。
[41] 大韓帝国の併合に伴う明治の元号への移行は、 特に法令で明示的な指示が出されていないようです。 朝鮮総督府官報第1号中では日韓併合条約中の大韓帝国側署名の日付のみ隆煕で、 それ以外 (当日付けの日本の法令) の日付はすべて明治です。
[42] 大韓帝国の官報には以前から統監府の法令を掲載するため明治が使われていましたが、 それ以外ではずっと隆煕でした。
[43] 朝鮮総督府官報は、末まで一般販売され、 以後関係者に無料配布されました。大韓民国政府の Webサイトにはこの末までのものが収蔵されており、 (大日本帝国政府機関なので当然ながら) 一貫して昭和が使われていました。
[66] 当時京城府が発行した乳幼兒健康手帳には、 「昭和 年 月 日交付」(左横書き) と印字され、 「20. 3. 4」 とスタンプが押されていました。 横書き登場 p.166 図19-11 「昭和20.年3.4月 日交付」 と印字された文字列の空白部分とスタンプの数字がずれていることから、 現在でも使われているような年月日押印用のタイムスタンプが当時も使われていたことが窺えます。
[44] 大韓民国政府の官報 Webサイトに収蔵されている朝鮮総督府後最初の官報は 付米国軍政府官報で、 朝鮮語、日本語、英語のいずれも西暦を使っていました >>45。
[402]
大韓民国では、はじめ大韓民国が、
次に檀君紀元が公用されました。
[450]
その後西紀に改元されて現在に至ります。
[2114] 民間ではこれらの公用暦、公用紀年法に加えて、 大韓民国の旧暦や様々な紀年法が使われています。 大韓民国成立以後に新作されたものも多いです。
[2116] 大韓民国の私年号、私的紀年法は、 政治的性質の強いものと、 宗教的性質の強いものとに分けられます。
[64] 大韓民国では西暦 (キリスト紀元) が使われています。
[1568] 渤海国は内外満州の南部から北鮮の北部にかけて存在した国です。 中華人民共和国、ロシア連邦、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のそれぞれが自国史の一部と主張しています。 21世紀初頭には政治問題化しましたが、 現在は (決着のつかないまま) 沈静化しています。
[1569] 高句麗の遺民による建国とされますが、直接の継承性はありません。 伝統的には朝鮮史の枠外で扱われてきましたが、 大韓民国では当然に自国史としていて、 その影響で近年の日本でも朝鮮史扱いすることがあります。
[1572]
渤海国では独自の元号が使われました。
[1573] 昭和時代頃までの年表や元号一覧等、 論文などは渤海の元号を朝鮮半島の元号として紹介していません。
韓国の年号として、日本ではこれまで二〇前後の年号
が紹介されてきたが、韓国では四〇前後が知られてい る。
(明朝体) と書いています >>1555 が、 実際にはその増分のほとんどは渤海の元号を加算したに過ぎません。
[1587] 同論文は日本でも渤海の元号を朝鮮半島の元号に組み入れた事例を2つ挙げています。
[1591] 1つは教科書裁判への関与で知られる大学教員の矢沢康祐がに共産主義系教員団体の歴史教育者協議会の機関誌歴史地理教育に寄稿した記事です。 >>1589
[1594] この記事は昭和の元号危機の頃に元号存続に反対する立場から元号の歴史をまとめたものです。 全4ページがおよそ3分されて中国本土、 朝鮮半島、 越南の事情が語られています。 中国本土と越南の大部分が元号廃止の経緯に割かれているのに対し、 朝鮮半島は歴史をなぞって説明しています。 朝鮮が中国の元号を強制されたのは外向きで、 国内では干支年や即位紀年が使われたと力説されています。 (朝鮮と越南 (と日本) 以外の周辺諸国には言及がありません。)
[1595] そのうち
[1590] もう1つは日本の元号の専門家所功らのの書籍です。 確かに同書には朝鮮半島と渤海の元号の「コラム」があります。
[1592] しかしよく見るとそれは前著で2つのコラムだったものを、 構成上1つにまとめたに過ぎません (>>1586)。 朝鮮半島の元号を三国時代から大韓帝国まで説明した後に、 渤海の元号の説明を付け足した雑な構成です (なぜそうなったかといえば、前著でその順番で並んでいたからでしょう)。
[1593] コラムの題名も朝鮮半島と渤海を併記しています。 そしてその直前のコラムはベトナムと西夏の元号を紹介しています。 果たしてこれは西夏史を越南史に組み込んだものでしょうか。
[2124]
また、同じ前著の巻末には
[1596] 「日本でも渤海の元号が朝鮮史扱いされている」 という代表事例がこの2つ (と本論文) くらいしかないのなら、 むしろ日本では渤海の元号は朝鮮史扱いされることはほとんどないといっていいでしょう。
[1938]
の日本の研究者による百済の紀年法の論文
>>61
は、高句麗や新羅の事例に続いて渤海の事例を参照しています。
それを承けて
「
[2134] の元号についての日本の学術書の巻末年表は、 渤海の元号を「朝鮮」欄に掲載しています。 ただその年表は奇妙な点が多いものです (>>2129)。
[1571] 歴史的連続性、 地理的範囲、 政治体制と紀年法の関係、 伝統的な取り扱われ方のいずれの観点でも、 朝鮮半島の元号と渤海の元号は違いが多く、 両者を同カテゴリーに入れる必要性はありません。
[2121] >>2120 本文は中華王朝の歴代。上側に朝鮮紀年との対応関係が書かれている。
[398] 明治時代から昭和時代の日本の代表的な朝鮮史研究者の1人である今西竜は、 朝鮮半島の即位紀年や元号の近代歴史学的な研究を切り拓きました。
[470] 近代日本の朝鮮史研究者小田省吾は即位紀年の解明に功績がありました (>>363)。
[458] >>457 >>459 金石文研究者向けの手引きの元号解説部分。
[501] 言語学的観点から朝鮮史を研究した鮎貝房之進は、 朝鮮半島に見られる金石文から特徴的な日時表示の例を抽出して分析しました。 >>502
[532] 昭和時代中期時点で朝鮮史の年表はいくつか出版されているものの、 研究環境として良好とはいえないと、 藤田亮策は評していました。 >>7862 実際、高麗史の研究に不可欠なはずの遼の元号が掲載されていないこと1つで既に不備どころではないレベルなのですが、 そのことすら明確になっていなかったのが各書出版当時の学界の現状だったのでしょう。
[1564] 昭和時代後期に朝鮮史研究者井上秀雄が、 正確な朝鮮史年表がないと極言されている >>1559 と書いています。 誰が言っているのか書いていませんが、 藤田亮策の論文を引いているので、 その記述を踏まえたものでしょう。本人の評価は書いていませんが、 肯定的に紹介したものです。
[1565] 令和時代初期に朝鮮語研究者吉本一は、 井上秀雄の論文を引いて正確なものは皆無とまでいわれると書いています。 >>1559 やはり本人の評価は書いていませんが、 肯定的に紹介したものです。
[1566] 孫引きで本人の言葉でないのは気になりますが、藤田亮策の憂いた状況は未だ継続中だということのようです。
[471] 朝鮮半島の紀年法は今西竜と小田省吾の研究で大方が解明され、 昭和時代中期の時点では研究者の常識でこれ以上追求するべき課題もないかとも思われていました。 >>7862
[472] 昭和時代の朝鮮史研究者藤田亮策は、 大東亜戦争の終戦後の困難な状況がありながらも、 改めて複雑な朝鮮半島の紀年法事情を整理しました。 >>7862
[473] 常識になった今西竜と小田省吾の研究に付け加えただけと本人は謙遜していますが、 多種多様で複雑な朝鮮半島の紀年法を総合的かつ十分な詳細さで解説した初めての論文で、 後続の研究者には重宝されたに違いありません。 新発見の元号の情報が古くなっていることを除けば、 他は現在でも十分通用するものです。
[1540] 藤田亮策はかねてからこうしたものを制作していたようですが、 戦後の混乱で資料ともども失ってしまったそうで、 不完全なものとならざるを得なかったことが何箇所かに書かれています >>7863。 大東亜戦争はもちろん、その後の朝鮮戦争と冷戦のため、 多くの研究成果が失われ、何十年も研究が遅れてしまったのは、実に残念なことです。
[1544] 昭和時代中期の元号研究者久保常晴の 日本私年号の研究 >>1542 は、日本の私年号の近代的研究を確立した名著として有名ですが、 前提事項として大陸の元号事情も簡単に解説しています。
[1545] 朝鮮半島の元号については、 藤田亮策の研究 >>74 に基づき概要を紹介し、 いくらかの補足と、 私年号研究の観点からのコメントを加えています。
[1546]
新しい知見は多くありませんが、
避諱元号や反乱政権の元号はやや詳しく解説があります。
[1548]
なお三国史記にない金石文発見の元号は、
史書から漏れた可能性があるとしつつも、
一律で私年号として紹介されています >>1542 p.六二。
[1558] 昭和時代後期に出版された元号廃止派の大学関係者らが主導して制作された書籍 >>1557 に、 朝鮮の元号をまとめた章があります >>1559。 本書執筆者には極左集団と関わりを持っていた人物も含まれ、 多くが元号制度や天皇制の廃止を求める内容となっていますが、 本章の執筆者である朝鮮史研究者の井上秀雄についてウェブ上ではそうした情報は見つけられません。
[1560]
朝鮮史の研究者といっても紀年法関係で目立った業績はなく、
本稿も先行研究の概要を紹介し自身の解釈を述べているに過ぎませんから、
学術的に見るべきところは多くありません。
先行研究が朝鮮人の事大主義的傾向をよく読み取っていたのに対し、
本稿は朝鮮人の自主性を強調する傾向にあるのは、時代性でしょうか。
[1561] なお本書の他のほとんどの章は元号廃止を主張するために差し障りない程度の少々の学術的知識を披露するような内容となっていますが、 本章は元号制度に対する意見をほとんど述べず、 末尾で標準語と方言になぞらえて民族文化である紀年法の意義を示唆する程度にとどめています。 本章とあといくつかの章だけは、ぎりぎり学術論文といえる域にあります。
[1606] に中華民国台湾の研究者が朝鮮と越南の元号を比較した日本語 (台湾正体表記) 論文を発表しています。 >>1607
[1608]
中華王朝の周縁国家の元号というテーマでこの2つの国を選んだのでしょうが、
しかしその越南部分は元号一覧以外の内容がほぼ皆無 (その一覧も事典から作ったもの)
で、学術的な評価は高くありません (
[1609] 実はこの論文のうち、越南部分は >>1589 の越南に非常によく似ています。 朝鮮半島部分と結論部分は >>1559 に非常によく似ています。 表記はまったく同じではなく、一部は要約されていますが、 大まかな記載内容と構成は同じで、 文章だけでなく表もほぼ同じです。 別表一は高麗史から作成とあってオリジナルかもしれませんが、 別表二は事典から作成とあります。 つまり完全オリジナルな部分はほとんどありません。
[1610] おもしろいことに >>1589 も >>1559 も本論文から引用されています。 各章の冒頭のちょっとした文への注釈で示されていて、 あたかもその一部の出典であるかのように見せられていますが、 実はそこから始まる文章がまるまるすべてその引用文献に由来しているのです。 びっくりしますね。
[1612] どちらも日本の昭和時代後期に書かれたもので、 学術的評価 (新規性や有用性) はさほど高くない文獻です。 大きめの図書館になら所蔵されているのかもしれませんが、 令和時代になって国立国会図書館デジタルで全文閲覧可能になってやっと再発見されたような文章です。 中華民国でこの論文を提出当時に読んで流用に気づく人はいなかったのでしょう。
[1614] ちなみにこの著者は他に日本の元号についての論文も発表しています。 >>1613 こちらの論文は滝川政次郎の元号考証を引いていますが >>1613 #page=104、 それ以外でも元号考証と同じ流れで似たような表現が長く続く箇所があります。 ただこちらの論文は元号考証と似ていない箇所も多いです。 他に種本があるのか、独自なのかは不明です。 (どこかで見たような解説が続くのですが、内容的に必然的に似てしまうものなので、 オリジナルではないとも断定できません。といっても「どこかで見たような」 解説だけで、新規性は感じられません。)
[1576] 平成時代後期に出版された 日本年号史大事典 は、コラムとして朝鮮半島の元号を紹介しています。
[1580] 執筆陣に朝鮮半島の元号の専門家がいないのか、不完全で古い情報になっています。 (引用しているのが所功1977だけです。)
[1585] 同じ執筆陣のの新書では、 日本年号史大事典の朝鮮半島のコラムと、 その直後にあった渤海の元号のコラムをひとまとめにしたものが1つの 「コラム」として収録されています。 (関連: >>1587)
[1586] 基本的には2つのコラムと同内容ですが、後三国時代に一言言及があり (具体例なし)、 大韓帝国の元号が列挙されるなど少々加筆されています。
[2127] に日本で発行された元号についての学術書 >>2125 には、 近代朝鮮の紀年法についての論文が1本収録されています。
[2129] 本書巻末には東アジアの元号の年表があります。 この表は東アジアを 「中国」、「日本」、「朝鮮」、「ベトナム」に分類して公年号と西暦の対応関係を示しています。 >>2126
[2130]
この年表では朝鮮は不思議な扱いになっています。
朝鮮欄に収録されているのは、
渤海の元号と李氏朝鮮・大韓帝国の元号のみです。
そして日本以外は国名・王朝名が書かれていますが、
渤海国には「
[2132] 渤海初代王の「大祚栄」は、即位紀年が注釈なく元号と同じように記載されています。 一方で元号名不明の渤海後期の諸王には何も記載がありません。
[2133] 誤植なのか、李氏朝鮮と大韓帝国の元号は、なぜか 「ベトナム」 欄にも重複して掲載されています。
[1556]
の日本の学会誌の元号特集に、
朝鮮半島の元号の紹介論文があります。
>>1555
[1604] 本論文は元号特集という関係上か元号 (それも主に独自の元号) に限って解説していて、それ以外の紀年法にはほとんど言及がありません。 近年の発見や大韓民国の研究者の論文を紹介しているのはありがたいです。 大韓民国での最近の研究状況は日本語でほとんど紹介されておらず貴重です。 (欲を言えば大韓民国の論文をもっと網羅的に紹介してほしかったですが、 紙幅もありますし、取っ掛かりになる主要論文があるだけでも助かりました。)
[1601] 本論文は、独自の元号が自立性の表れ、他国元号の利用が依存性の表れとする定説に対し、
を引いて元号制定と自立性は必ずしも単純な関係ではないと指摘しています。 >>1555
[1602]
確かに他国元号の利用はケースバイケースで個別の事情の勘案が必要なのは言うまでもありませんが、
一方で東アジアの歴史において元号を利用する (正朔を奉じる)
ことが重大な政治的意味を持っていたのは動かしようのない事実です。
[1603] 大まかに言って
は元号と国家独立性の関係を強調する傾向にあり、
は元号と国家独立性の関係を希薄に説明する傾向が見られます。
[59] 李朝、大韓帝国、日本領朝鮮時代の紀年法使い分け: 李氏朝鮮の日時参照。
[1] 元号一覧 (朝鮮) - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE)
[29] 国立国会図書館デジタルコレクション - 日用便覧. 第14次(大正11年) ( 版) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/984817/25?viewMode=
[35] 国立国会図書館デジタルコレクション - 韓国条約類纂 : 附・各国関税対照表 () http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798123/332
[36] 朝鮮における時憲暦の受容過程とその思想的背景, 全勇勳, 東方學報 京都 第84册(2009) : 302-281頁, () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134678/1/jic084_302.pdf
[51] 1879년 면주전(綿紬廛) 세폐수가초책(歳幣受價草冊) | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ () https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00020574
[52] 1884년 면주전(綿紬廛) 세폐예비수가초책(歳幣預備受價草冊) | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ () https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00020572#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-2843%2C-199%2C10558%2C3971
[53] 경제-회계/금융-영수증 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ () https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00022334#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=405%2C394%2C1191%2C337
[543] 改曆及建元ニ關スル件 - Wikisource ( 版) https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%94%B9%E6%9B%86%E5%8F%8A%E5%BB%BA%E5%85%83%E3%83%8B%E9%97%9C%E3%82%B9%E3%83%AB%E4%BB%B6
[57] 最後の新聞 () http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/saigo_002.htm
[58] 最後の新聞 () http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/saigo_003.htm
[37] 朝鮮王朝実録 - Wikisource () https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E5%AE%9F%E9%8C%B2#.E8.A7.A3.E9.87.88
[62] タイムテーブル・タイムトラベル~時刻表歴史館 米軍政下の釜山地方交通局(1945年) (ttmuseum著, ) http://ttmuseum.blog.fc2.com/blog-entry-8.html
[63] () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238216/1/shirin_057_6_912.pdf
[67] s'さんはTwitterを使っています: 「凱旋門。 パリの凱旋門より10メートル高い。が、興味はない。本命は隣の売店。政治宣伝画が売られているからだ。 大好き。プロパガンダポスター大好き。 赤い方を約五千円で購入した。 意味は、書かれている通りである。 家に飾る予定だ https://t.co/IjK2veV3p0」 / Twitter () https://twitter.com/ssmnsss/status/1180361787679498240
[69] 宗教界の乙未(2015)年、新年の法話・メッセージ:매일종교신문 () http://www.dailywrn.com/sub_read.html?uid=5865
[76] ②県立女子大_39_縦組.熊倉浩靖.pdf, https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/12104/1/%E2%91%A1%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%A4%A7_39_%E7%B8%A6%E7%B5%84.%E7%86%8A%E5%80%89%E6%B5%A9%E9%9D%96.pdf
[77] 伴信友全集. 第4 - 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991315/163
[80] 檀紀(だんき)・隆熙(りゅうき)・開国(かいこく)・ 韓国の元号の計算方法 - 大阪の女性司法書士・行政書士ブログ 悠里(ゆうり)事務所 (, ) https://www.shihou-syoshi.net/yuriblo/2018/04/post-1545.html
[81] (, ) http://s.s3.riums.jp/0018.s3/upload/_or_file_00000045.pdf
[82] アラベスク ソウル陥落 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3576.html
[83] アラベスク 南北郵便交換 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3420.html
[84] アラベスク Seoul 陥落 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3366.html
[85] アラベスク コピー (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3145.html
[86] アラベスク CTO (かきたがわ, ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3096.html
[87] アラベスク 金日成 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2884.html
[88] アラベスク インフレ (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1948.html
[89] アラベスク 日韓国交正常化50周年 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1672.html
[90] アラベスク 西大門局 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1357.html
[91] アラベスク キリル文字 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3523.html
[92] アラベスク 切手趣味叢書 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2959.html
「琉球併合」=植民地化の「シンボル」となった元号。
といってますけど、国が公用紀年法を定めて国民に利用させるのは普通のことなんですよねえ。 だってそうしないと日付書けないでしょう。 大韓帝国の皇帝は退位したのにいつまでも大韓帝国の元号を使わせる方がおかしい。 琉球人は元号を使うな、朝鮮人は皇紀を使うな、 とか言ってたらそれこそ人種差別でしょう。
[122] 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで日本の国の制度を何でもかんでも 「植民地化の「シンボル」」 にするのはおかしい。当時は日本の一部だったのだから日本の制度が適用されるのは当たり前。 植民地政策を批判したいなら、当たり前でないところ、害があったところを非難するべき。
[123] また、元号に関して琉球と朝鮮の事情はまったく異なるので一緒くたに語るのは誤り。
[94] 好太王碑文と顓頊暦紀年法 - 島根医科大学紀要 1 - 掲載誌名一覧 - 島根大学学術情報リポジトリ () https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/ja/list/journals/%E5%B3%B6/M-BMU/1/--/item/31882
[95] (, ) http://www.ayc0208.org/2_8/doc/28_KR.pdf
[97] kikuchijotokodaishakai2.pdf, , https://kofunkan.pref.kumamoto.jp/kikuchijo/download/pdf/kikuchijotokodaishakai2.pdf
[99] 大韓民国忠清南道扶餘郡恩山面恩山里恩山別神堂でに実施された恩山別神祭で読まれてた祝文のうち、 「別神祝文」と呼ばれる将軍の名が列挙された文書には、 「維歳次壬申三月丙子朔二十九日甲辰」 とありました。 >>437
[100] これが紹介された書籍では縦書きで印刷されていました >>437 p.340 が、 当日の白黒写真 (原稿およびそれを持つ人物が供物に向かう写真で、 文面を知っていればなんとか判読できる程度の解像度) >>437 p.344 によれば手書きの左上横書きでした。
[101] 当時干支や漢字が用いられていたことがわかります。 現状は不明。
[102] プロジェクト‐ノート:紀年法/共有ウォッチリスト - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E2%80%90%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95/%E5%85%B1%E6%9C%89%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88#%E8%8E%AB%E6%9C%9D%E3%81%AE%E5%BA%83%E6%94%BF%E3%80%81%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E3%81%AE%E5%BB%B6%E5%98%89%E3%81%BB%E3%81%8B%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7%E3%80%81%E5%BE%8C%E7%99%BE%E6%B8%88%E3%81%AE%E6%AD%A3%E9%96%8B
[103] shirin_051_4_455.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/237877/1/shirin_051_4_455.pdf#page=22
[104] 『福井県史』通史編1 原始・古代 (, ) https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-01-02-03-05.htm
[105] Report82.pdf, , http://www.aisf.or.jp/sgrareport/Report82.pdf#page=103
また、高麗前期のおもしろい逸話として、高麗が宋に 送った外交文書に、宋の年号と契丹、遼の年号を同時に書いた記録も残されています。朝鮮時代の人たちの認識で書いていたなら、このような部分を修正したりして入れたかもしれないのに、そのまま引用をするのが基本的に高麗史編纂の大原則だったといえるようです。
#page=126
忠宣王の長子の王鑑と次子の王燾(後に忠肅王)はそれぞれ1310年(忠宣王後2)正月と1313(忠宣王後5)3月に「世子」として王位を継承した記録から両方ともに世子だったことが確認できる。
#page=140
こうして北元は禑王3年(1377) 2月に禑王を冊封し、。次いでナガチュは、ムンバラブカを派遣して親善を図り、北元は豆亇達を派遣して恭愍王神位に祭祀をさせた。北元が高麗にこのような関心を示すと、高麗はついに北元の年号である宣光を使った31。
#page=142
しかし、いくばくもしないで同年9月に高麗は明の洪武年号を再び使い始めた。これは一方では北元の皇帝が没し、新しい皇帝が即位したので、これまで使ってきた年号をそのまま使いにくく、他方では高麗に対する明の宥和政策と関連があった。洪武年号を使って親明態度を示すと、明は高麗に対する宥和政策を以前のような圧迫政策へと変えていった。
一方、北元はほとんど1年ぶりである1379年6月に僉院甫非を派遣して、郊祀を行ない、年号を天元に改称すると報告した。また、高麗は同年7月に永寧君王彬を北元に派遣して郊祀を行ない、年号を変えたことを祝賀した。このように高麗は明の洪武年号を使った後も、北元と続けて外交を結んでいた。明との関係がまだ正常化しておらず、緊張関係が続いていたため高麗としては北元との関係を絶つことを急ぐ必要はなかった。他方では、高麗が明との事大関係を回復させても北元と関係を維持する両端政策を維持することを決定した可能性も否めない。
[106] kikuchijotokodaishakai2.pdf, , https://kofunkan.pref.kumamoto.jp/kikuchijo/download/pdf/kikuchijotokodaishakai2.pdf#page=11
[107] 魏書/卷100 - 维基文库,自由的图书馆 (, ) https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%AD%8F%E6%9B%B8/%E5%8D%B7100
[108] 6世紀の高句麗金銅仏、中国北京で発見:매일종교신문 () http://www.dailywrn.com/10399
[109] 忘れへんうちに Avant d’oublier: 蓮華座4 韓半島三国時代 (, ) http://avantdoublier.blogspot.com/2014/08/blog-post_29.html
[112] NAVER 학술정보 > 백제 금석문 연구, https://academic.naver.com/article.naver?doc_id=79506007
[113] ANALYSIS OF THE RECORDS ON REIGN STYLE AND CALENDRICAL DATA OF THREE KINGDOMS PERIOD (B.C. 57 - A.D. 935) IN KOREA.pdf, https://www.koreascience.or.kr/article/JAKO202115153150363.pdf
[114] 고구려관련 금석문(4세기) - 역사관련 재밌는 얘기들 - 한국사를사랑하는모임, https://m.cafe.daum.net/cjwhc/1nxV/7425?listURI=%2Fcjwhc%2F1nxV
[115] 高句麗 - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
[116] 연호/고구려 (r66 판) - 나무위키, https://namu.wiki/w/%EC%97%B0%ED%98%B8/%EA%B3%A0%EA%B5%AC%EB%A0%A4?rev=66
[117] 朝鮮半島年號列表 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E5%B9%B4%E8%99%9F%E5%88%97%E8%A1%A8
[119] 木簡研究 = Proceedings of the Japanese Society for the Study of Wooden Documents (2), 木簡学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4424287/1/58 (要登録)
[456] 朝鮮史大系 年表, 小田省吾 等著, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1242297/1/18
[75] 韓国人「韓国も日本のように年号を使ったら、お前らは〇〇何年生まれだ?」 : カイカイ反応通信, 2020年06月14日14:55, http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/56862723.html