[3] 禅源 (y~1763) は、 高麗の私年号とされることがあるものです。
[6] 文化庁のデータベースと日本語版ウィキペディアが私年号説を掲載しています。 >>9, >>8, >>1
[15] 元号とみるかどうかは慎重論があるようです >>13, >>14。
[7] 長崎県が公開している解説は、不明としていて、禅源が元号とも断定していないように読めます。 >>2
[16] 元号名と干支年の間に元号年があれば元号の可能性が高くなりますが、 唯一の用例は元号年干支年表示の形式をとっていて、 元号名にみえるものが本当に元号なのか断定しかねます。
[17] 明らかに禅宗の影響がありそうな名称で、公年号にはなかなかなさそうですが、 私年号ならあり得なくはないものです。
[18] しかし元号名よりは人名のような感じもあります。 高麗では元号を使わない干支年の単記も多いので、 銘文を書いた人の名前 (号) と干支年がたまたま並んだだけという可能性はあります。
[19] 高麗はもちろん朝鮮半島の歴史上ほとんど私年号が知られていないのも、 私年号説にとって懸念材料です。 たまたま日本に渡った1例だけ私年号が現存するというのも無理のある偶然です。
[20]
はちょうど金の滅亡後、
蒙古帝国の時代で元の元号の創設前に当たります。
高麗では元号がなく干支年が使われていました。
[21] という時代性を考慮すると干支年が使われたのは頷けますし、 元号が必要とされて私年号が作られたという説も成り立たないことはなさそうです。
[9] 国指定文化財等データベース, https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/7136
ト書 : 禅源乙巳五月日の刻名及び正平十二〈丁/酉〉十月十八日の後刻銘がある
画賛・奥書・銘文等 : 左肩刻銘:「禅源□(乙)巳五月日晋陽府鋳成□福寺飯子一部」 表面中区上部刻銘:「奉懸鐘一口/右志者為/合輩所成/之業回悉/皆消滅殊/心中所願/成就也/正平十二丁酉/十月十八日/大蔵経種敬白」
禅源は私年号とみられ、乙巳年を高麗朝高宗三十二年(一二四五)にあてられる。慶尚南道晉州の寺院にあったもので、日本の正平十二年(一三五七)に対馬に舶載された旨をしるしており、日韓交渉の資料として価値高いもの。
[8] 文化遺産データベース, https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/155188
禅源は私年号とみられ、乙巳年を高麗朝高宗三十二年(一二四五)にあてられる。慶尚南道晉州の寺院にあったもので、日本の正平十二年(一三五七)に対馬に舶載された旨をしるしており、日韓交渉の資料として価値高いもの。
[4] 新指定重要文化財 : 解説版 4 (工芸品 1)|書誌詳細|国立国会図書館オンライン, , https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000001515054-00
[5] >>1 が引いているのは >>4。電子化されているものの非公開。検索してもそれらしい文字列がヒットしない。
[10] 旅 1023 多久頭魂神社 と 高御魂神社: ハッシー27のブログ, https://0743sh0927sh.seesaa.net/article/202002article_2.html
2017年 5月12日
多久頭魂神社 と 高御魂神社
昨日は上対馬を中心に廻ったので、今日は下対馬を廻る。
現地説明板より 『
多久頭魂神社の金鼓(国指定重要文化財)
指定年 昭和50年6月12日
所有者 多久頭魂神社
高麗時代の大形金鼓でわが国では例がない。総径81cm、面径78cm、肩部に「禅源乙巳五月日晋陽府鋳成□福寺飯子一印」と銘記。制作年は高麗国前高宗32年(1245)とされている。
平成21年12月 対馬市教育委員会 』
「金鼓」とは日本でいう「鰐口」のことだという。「禅源乙巳五月日晋陽府鋳成□福寺飯子一印」の、「禅源」は私年号とみられ、「乙巳」は高麗の高宗32年乙巳(1245年)とみられる。同年に現在の韓国慶尚南道晋州市で製作されたものとされる。
[11] 文化庁月報 (1)(136), 文化庁, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2802993/1/13 (要登録) 左下
白黒写真、銘文判読不可
[34] 当初は「律源」と読まれていました。 >>32, >>36, >>40, >>41
[38] しかも「律源乙 巳五月日」と読まれていて、 「巳五月日」だけが日付と理解されていた >>36 ようです。
[39] 「律源乙」の解釈は不明ですが、人名と考えたのでしょうか。
[35] 晋陽府は現在の慶尚南道晋州市のことです。 >>32
[40] 多久頭魂神社大鉦 | khirin, https://khirin-ld.rekihaku.ac.jp/rdf/nmjh_rekimin_h/14247047?lang=ja&aipTypeId=rdf&aipId=14247047&templateId=nmjh_rekimin_h
律源乙巳五月日 晋陽府鋳成◇福寺飯子一◇(側面陰刻) 奉懸鐘一口 右志者為 合輩所成 之業回悉 皆消滅殊 心中所願 成就成 正平十二丁酉 十月十八日 大蔵経種 敬白 (表面上部に追彫)
[33] >>13 は >>32。>>13 が とするのは第1集の発行年で誤り。
律源乙巳五月 日晋陽府鑄成◯福寺飯 子一口
[23] 「禅源」は高麗に限らず佛教 (禪) 関係でよく使われている語です。
[24] 「禅源寺」も複数ありますが (日本にもいくつか現存します。)、 高麗の江華島にもありました >>22。
[26] 高麗の禪源寺は、 に崔瑀により創建されました。 >>25
[27] 崔瑀は高麗の執権者 (政権幹部) で、 高麗王朝は蒙古の侵攻を受けて7月に江華島に遷都していました。 >>28
[29] 当時の高麗では遷都に起算する江都紀年の例も見られることが注意を引きます。
[30] 「禅源」の紀年もあるいはこうした時代の産物の1つかもしれません。
[31] むしろという重要な年をそのまま記述した一種の大事紀年というべきものかもしれません。