崇禎紀元

崇禎

[26] 崇禎 (y~250) は、 明の元号の1つです。

[27] に進攻される前の全土を統治していた (南明になる前の) 最後の皇帝の時代です。 そのため延長年号としても使われ続けました。

崇禎紀元

[28] 朝鮮半島における崇禎延長年号や類似する紀年法をまとめて崇禎紀元といいます。

[197] 李氏朝鮮ではいろいろな紀年法が使われました ( 朝鮮半島の紀年法 ) が、 崇禎紀元は碑文などに用例が多く、永く残されるものに好んで用いられ、 作文的に飾られたために複雑な形式があります。 >>7863

紀年法

[315] 紀年法の構造によって分類すると次の各種があります。

[317] それぞれ違った元号名で区別されますが、 名前の衝突・混用のため複数の紀年法で同じ元号名が使われています。 元号年干支年の組合せによって区別できるものも多いですが、 区別できないもの (他の文脈情報を考慮しなければ年代を特定できないもの) もあります。

[316] 昔の研究者による分類は、新出用例を考慮しておらず不完全です。

[42] 今西竜 (明治45年) の分類 >>7864

  • [71] 崇禎紀元
    • [12] 崇禎之紀元年: 崇禎元年から数えたもの
    • [13] 崇禎後紀元年:
      • [14] 崇禎元年から数えたもの
      • [15] 崇禎17年甲申の翌年乙酉から数えたもの

[43] 藤田亮策 (昭和33年) の分類 >>7863

[61] (1) は崇禎年と崇禎干支に細分できます。

[75] 丁卯と丙子は朝鮮進攻の年。甲申はの首都陥落の年。 丁卯後は厳密には崇禎紀元に含めませんが、同じ性質のものといえます >>7863

[320] 崇禎紀元のように元号名紀元を付ける用法は、 崇禎に限らずもとからありました。 (例えば >>293 参照。他の地域と時代は元号紀元参照。)

[321] 元号名を「崇禎紀元」と呼ぶものは、旧来の慣習の延長で普通に「紀元」 を付けていただけで、他意はそれほどないと思われます。

[322] 元号名を「崇禎紀元後」と呼ぶものは、 延長年号でない本来の崇禎の時代を「崇禎紀元」 と呼んで、 その時代の後の主君なき時代になって以来、というようなニュアンスで使われ始めたように思われます。 この元号名は崇禎帝の死後から数え始めるタイプの用例の方が古いです。

[323] ところが紀元元期的な意味で使われることも多いので、 崇禎元年から数えたものも「崇禎紀元後」と呼ばれるようになりました (現在西暦紀元前に対して紀元後と呼ぶのと同じ用法)。 違いがわかりにくいので混用されていったと考えられます。

用例

元号年延長年号の用例

[18] 元年から数えたもの (分類 >>11001, 旧分類: >>12, >>14, >>44, >>46)

日時事例

[170] このタイプは元号年の本来の表記で、 延長年号として各地、各時代で見られるものの延長線上にあるのですが、 意識的な延長年号であることを表しているのか、 元号名が独特のものが混じっています。

[173] 「紀元後」系は後述のタイプと衝突しています。

事件起算年数の用例

[128] から数えたもの (分類: >>11000, 旧分類: >>73)

日時事例

[171] 厳密には崇禎紀元ではありませんが、 崇禎改元前年の丁卯年に李氏朝鮮に進攻したことを起点とし、 そのまま元号名丁卯後 (y~4118) としています。


[94] から数えたもの (分類: >>11009, 旧分類: >>47)

日時事例

[172] 丙子年に李氏朝鮮に進攻したことを起点とし、 そのまま元号名崇禎丙子後 (y~4119) としています。 元年は丙子年です。


[314] から数えたもの (分類: >>11011)

日時事例

[297] 崇禎丁丑後 (簡体字: 崇祯丁丑后, y~4125) は大韓民国慶尚南道の古住居の毎年立春の掲示物に書かれているとして、 のウェブ記事で紹介されています >>298。 同記事はが383年だと書いています (>>305) が、 そこで示されている写真は379年のものです (>>296)。 変わらず毎年張り出されているということなのでしょうが、 具体的にいつからいつまで (現在も?) 実施されているのかはよくわかりません。

[311] 逆算すると丁丑年が0年、次の戊寅年が元年になります。

[312] この数え方の古い例は未発見です。最近生じたものなのでしょうか。 それとも古くから細々と続いているのでしょうか。

[313] 丙子年12月に清国李氏朝鮮に進行しましたが、 年が明けて丁丑年1月に講和条約が締結されました。 そのため李氏朝鮮で大っぴらに崇禎を使えたのが丁丑年1月までで、 その続きを数えたものなのでしょう。


[23] の次のから数えたもの (分類: >>11018, 旧分類: >>15, >>48)

日時事例

[174] 明崇禎17年甲申に皇帝が死去、 の首都が陥落したことで 「崇禎」時代が終了し、 その翌年を元年として数えたタイプです (y~4120)。 元号名はいろいろありますが、「後」と称しているのがポイントです。

  • 崇禎十七年甲申後
  • (崇禎十七年後)
  • 後崇禎
  • 崇禎紀元後
  • 崇禎紀元之後
  • (崇禎後)
  • (皇明紀元後)

[175] 崇禎紀元後は先述のタイプと衝突していますが、意味と用例の古さからして、 こちらのタイプが本来のものではないでしょうか。

干支年延長年号の用例

[60] 元号名干支年表示 (分類: >>12001, >>12017, 旧分類: >>44)

日時事例

[40] 元号名崇禎崇禎後崇禎十七年後崇禎十七年後は少々特殊ですが、 形式的には元号名干支年表示で、 他の元号と同じ形態です。

[168] これが干支年の2巡目以降に拡張されます。 (分類: >>12001, >>12017, 旧分類: >>49)

日時事例

[153] 干支の前に/再度/周甲後を付けると干支の2巡目を表し、 /三周, , を付けると3,4,5巡目を表します。

[169] 1回目の崇禎に含まれていた、つまり: 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申を1巡目に入れるかどうかで、その後の数え方が変わってきます。

[177] 1巡目に含める (崇禎延長年号の自然な延長の) 数え方 (分類: >>12001, 旧分類: >>44)

日時事例

[178] 1巡目に含めない (崇禎甲申後 (y~4120) 式の) 数え方 (分類: >>12017, 旧分類: >>44)

日時事例

[188] どちらの解釈によるかで60年ずれてしまうので、慎重な判断が求められます。

[325] 韓国の年号, , http://busan.chu.jp/korea/old/life/etc/nengo.html

4甲子 (写真)

干支年1巡起算の用例

[180] 干支1巡したところを起点に数える方法もあります。 (分類: >>11061, >>11077, >>12061, 旧分類: >>44)

日時事例

[248] 崇禎紀元戊辰後, 大明崇禎戊辰後は崇禎61年が元年

[181] 崇禎再甲申後 (y~4121) は崇禎甲申後 (y~4120) 60年甲申が元年です (61年乙酉ではありません)。


[182] 崇禎再紀後が1例あります。 (分類: >>12061, 旧分類: >>50)

日時事例

[183] >>7863 では「紀」は100年の意味で、 崇禎109年を表しているとしています。 ただなぜ「紀」が100年の意味なのか、他に類似の例があるのかは書かれていません。 同じ >>7863 が別の章では「紀」が12年を表すと書かれているのですが、 そちらは根拠も用例も書かれていません。

[184] 東アジア術数学の方面ではは色々な年数の意味で使われてきました。 が、ここでの「紀」を的確に説明できるものがありません。

[185] 意味は少し違いますが、至元再紀元之年と書く例があります。

[186] 大正時代日本内地の用例にはなりますが、

(戊辰年)は、明の崇禎再紀元にあたる。

と書いた事例があります >>132

[187] 「崇禎再紀後」とは崇禎「再紀元」後、崇禎61年から数えるという解釈の方が収まりがいいのではないでしょうか。 (なおこの用例ではどちらの解釈でもで変わりません。)

日時事例

[226] 皇明紀元後戊辰後 (y~4123) はの次の元年とする数え方。 (分類: >>11061)

その他の用例

[195] 崇禎丙午建祠後 (y~4122) という特殊なものが1例あります。 (分類: >>11039, 旧分類: >>50)

日時事例

[194] これはその場限りの特殊な紀年法の可能性が高そうです。 なぜそのようなものを使ったかといえば、 崇禎紀元を使う風潮があったからなのでしょうから、 これも崇禎紀元の1種と呼ぶべきものではあるのでしょう。

日時事例

[264] 崇禎紀元ではありませんが、この正廟己酉後 (y~4124) も同じような構造の紀年法です。

[196] 似たようなもので誕降後があります。

[294] こうしたものは他にもありそうです。


日時事例

[239] 皇明崇禎紀元之、よくわからない元年,

[293] 同じ 筆苑雜記>>292 では

序 : 龍集丙午(1486)仲冬日南至猶子奉直郞行吏曹佐郞彭召序 序 : 成化丙午(1486)仲冬有日門人通善郞掌隸院司議表沿末序 序 : 成化紀元之二十三年(1487)季秋日門生奉列大夫咸陽郡守夏山曺偉敍 跋 : 皇明崇禎紀元之十四年壬午(1642)仲冬有日八代孫通訓大夫...徐貞履(1584-1659)謹跋 刊記 : 淸風郡重刊 印 : 淺見圖書

となっており、。壬午年が正しいとみてよい。

[283] y~250 より2年も大きい。

[7] 《馬天祥造像記》與北齊武平九年紀年

顧炎武在清代初年記述漢《華岳廟碑》旁刻有一近人題名,題署的年月和姓名爲“崇禎十七年後辛丑和州逸人戴移孝”[22],辛丑年爲清順治十八年,《孟阿妃造像記》中的“武平七年歲次丁酉”不僅與之用意相同,形式亦更爲相似,只是比它少刻一個“後”字而已。

[207] 한국사데이터베이스시스템, https://db.history.go.kr/item/bookViewer.do?levelId=sa_007_0010

從政年表 從政年表 卷一 高宗 5年 戊辰(西紀 1868) 皇明紀元後五戊辰, 上之卽位五年, 二十一歲

[212] 상세보기::해외한국학자료센터, http://kostma.korea.ac.kr/dir/viewIf?uci=RIKS+CRMA+KSM-WC.0000.0000-20160331.NS_0684
序: 丙子(1816)…洪直弼(1776-1852)序
跋: 庚寅(1830)…[韓]益新泣血謹書
遁翁先生年譜後序: 皇明紀元後四庚寅(1830)...[韓]文健敍

関連

[324] 朝鮮半島における他の紀年法との使い分けについては、 朝鮮半島の紀年法を参照。

[329] 同様にの初代皇帝で李氏朝鮮の建国時代でもある洪武を使った紀年もあります。 洪武壬申後

正当性

[326] 李氏朝鮮では、 崇禎南明永暦のどちらが正しいかという小中華意識に基づく議論がありました。 >>388 p.182 (禹2013)

メモ

[1] 崇禎紀元 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A6%8E%E7%B4%80%E5%85%83

[2] 崇禎 (Era) - SuikaWiki Data () https://data.suikawiki.org/era/%E5%B4%87%E7%A6%8E

[3] 자료검색>상세_온라인 | 국립중앙도서관 () http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000025317

崇禎紀元後四庚戌增廣司馬榜目

李氏朝鮮の日時

[5] 金沢大学所蔵/近代教育掛図 0426 文烈公重峯趙先生戦場紀蹟碑拓本 二, , https://web.archive.org/web/20140714133215/http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/kakez4ko/page/0426.html

【注記】 碑文末尾日付「崇禎紀元後八十三年庚寅 立」は西暦1710年にあたる。 0425と一組

[6] 金沢大学所蔵/近代教育掛図 0433 有明朝鮮両王子紀蹟碑拓本, , https://web.archive.org/web/20160304100444/http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/kakez4ko/page/0433.html

【注記】 文禄の役(壬辰倭乱、1592−1593)で日本軍の捕虜となった二人の王子臨海君と順和君の事蹟を記念した碑。 碑文末尾日付「崇禎紀元後五丑月 日 立」は「崇禎紀元後四乙丑月 日 立」(1865)の誤り。 『朝鮮金石総覧』506 所在 咸鏡北道鏡城郡龍城面龍郷洞 年時 李太王二年乙丑(1865)

[8] 승정원일기 모바일, http://sjw.history.go.kr/m/kinglistday.do?kid=SJW-D20010150&treelevel=3&sjwday=15

○ 金龜萬, 以監董廳言啓曰, 今此敬德宮及穆淸殿碑石後面末端年號, 當書以崇禎紀元後幾年, 而第松京, 乃勅使往來之路, 崇禎二字, 似不可直書。今若書以歲在甲戌春三月日建, 則似爲得宜, 而事係重大, 臣等有難擅便, 何以爲之? 敢稟。傳曰, 依爲之。

[10] https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1118&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 #page=11

『春在堂随筆』の記事はほぼ時代順に掲載されて いるが、この直前には朝鮮人宋相琦『玉吾集』についての記事がある。兪樾は 読後感を「詩文はいずれも観る価値がある」としながら、該書では明朝滅亡後 の「順治」年間であるのに明代の「崇禎」の年号が用いられ、さらには拔文が 「乾隆」年間中葉に書かれているにも関わらず、さらに干支を三巡させて「三崇 禎」の年号を用いていたことを非難している。

[203] 朝鮮王朝實錄/純祖實錄/三年 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E5%AF%A6%E9%8C%84/%E7%B4%94%E7%A5%96%E5%AF%A6%E9%8C%84/%E4%B8%89%E5%B9%B4#12%E6%9C%8811%E6%97%A5

[204] 朝鮮王朝實錄/憲宗實錄/附錄 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E5%AF%A6%E9%8C%84/%E6%86%B2%E5%AE%97%E5%AF%A6%E9%8C%84/%E9%99%84%E9%8C%84

憲宗經文緯武明仁哲孝大王,崇禎紀元後二百年丁亥七月十八日誕生。

[205] 숭정 - 나무위키, https://namu.wiki/w/%EC%88%AD%EC%A0%95

조선왕조실록의 정조, 순조, 헌종, 철종 비문에서 네 임금이 태어난 해를 숭정기원후로 표현하였다.

(機械翻訳)

朝鮮王朝実録の正祖、順祖、憲宗、鉄宗碑文で四王が生まれた年を崇政祈願後に表現した。

지금도 유서 깊은 종갓집에서는 제사를 지낼 때 축문에서 숭정 연호를 사용하기도 한다. 물론 현대에 반청사상 때문에 그럴 리는 없고, 단지 집안의 관습이 되었기 때문이다.

(機械翻訳)

今でも歴史ある萩屋では祭司を過ごす際に祝文で崇精の連護を使うこともある。もちろん現代に反請思想のためにそうすることはなく、ただ家の慣習になったからだ。

[295] 숭정기원 환산표 [崇禎紀元 換算表] : 네이버 블로그, https://m.blog.naver.com/hahnguibok/221558823426

[318] hosikitaさんはTwitterを使っています: 「神武紀元は江戸時代の発明のようだが、政府によって用いられるようになったのは明治のこと。黄帝紀元や孔子紀元の登場は清末。仏滅紀元も同時期のもの。しかし、崇禎紀元は17世紀から。 東アジア世界の中で、西洋世界との交流が最も薄かった朝鮮において、紀元による紀年法が初めて用いられた。」 / Twitter, , https://twitter.com/hosikita/status/1026759843854446592

[319] 「紀元」が付くからこのくくりにしたのだろうか。崇禎紀元とそれ以外は性質が違いすぎるので、 このような比較には意味がない。