[7] 光徳 (旧字体: 光德, y~844) は、 高麗の元号の1つです。
[10] 高麗史 (成立) は、 光宗の即位紀年 (y~4044) と光徳 (y~2195) の元年をとしていました。 >>6
[11] ところが明治時代の日本の研究者により光徳2年庚戌碑文が再発見され、 1年ずれていたことが判明しました。 >>5
[12]
高麗時代の初期には即位の当年を元年とする方式が一般的だったのが、
高麗時代の後期以後には翌年を元年とする方式が一般的となり、
誤解されるようになったと推測されています。
>>5
[13]
高麗時代の即位紀年でもこの種の1年ずれが発見されています。
[27] 同じ光宗の時代の撰文とされる碑文に光徳2年と広順3年が同時に使われており、 に既に光徳が使われていないことが知られます。 >>17
[36] 光宗の死後3年の碑文に光宗即位4年とあり、 第4年には光徳が使われていなかった (が後周の元号も使われていなかった) と推測されます。 >>17
[38] 高麗史によれば光宗4年が広順3年ですが、 元年の決め方の違いで光宗4年は実は広順2年だとするなら、 独自元号 → 独自元号を停止して即位紀年 → 後唐の元号、 と切り替えられたと整理できます。 >>17
[40] その場合高麗史にある辛亥年12月の後周元号施行の記事が問題となります。 旧五代史、 新五代史 から、高麗の使者が広順元年辛亥12月に出発し、 広順3年癸丑に冊封使が高麗に到着したものと推測されます。 そこで辛亥12月に光徳を廃止し、癸丑に広順を施行したというのが今西竜の推測です。 >>17
[42] 停止期間を想定せず光徳4年まで続いてから後唐の元号に改めたとするのが >>41 の説です。
[46] その後光宗による写本跋に光德4年と干支付きで書かれたもの (>>43) が藤田亮策により発見され、 元年は1年ずれであることは再確認され、 1年の空白を想定した説は誤りで広順に直接接続することが明らかとされました。 >>7862
[47] 元号名は君主の輝かしい徳を施して人民を教化するの意味とする説があります。 >>1555 (王光錫1991、韓政洙2012)
[41] 青丘学叢 (12), 青丘学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1544535/1/61 (要登録)