[31] 朝鮮半島の歴代王朝時代の事項を記述する際には、 当該王朝の王名と在位年数を使った紀年 (在位紀年) を用いることがよくあるようです。
[156]
中華文化圏諸国では元号がないとき即位紀年を使うのが一般的で、
朝鮮半島諸国でも古くから行われてきました。
[54]
公的には宗主国である中華王朝諸国の元号が使われていたのですが、
支那王朝の元号の期間は朝鮮王朝の統治と連動しておらず、
歴史書や歴史研究の場では使いづらいのでしょうか。
属国の象徴である支那の元号は使いたくないとの事情もありそうです。
[150] 三国史記 は新羅の元号の記述もありますが、 古い時代は元号がなく、 新しい時代は唐の元号を使っているため、 全体を一貫して記述できるのは即位紀年だけです。 改元と代替わりが必ずしも同期していないので、 本紀を書きやすいのも即位紀年です。 そのため即位紀年による歴史記述が行われ、 以後も踏襲したということかもしれません。
[1354] 即位紀年がいつから始まったのかは定かではありませんが、 古くからの誰々王の何年に何があったという伝承が後に記録され、 史書として現在に伝わっているものと推測されます。 >>7863 #page=9
[1355] 三国遺事や金石文に見られるように、 古くは即位紀年の元号名スロットには (諡号でなく) 王の実名を書いた例が多いです。 国民が王を親しんで呼んだ長年の習慣が表れています。 >>7863
[275] 王の在位が何年間であるかと元年から数えて第何年であるかは、 数え方により一致したり一致しなかったりします。 両者は密接に関係するので >>7866、厳格に区別されることもありますが、 混同されることや、意識的に同一視されることもあります。 それが即位紀年の混乱にも寄与していると示唆する資料もあります >>7864。
[359] 三国史記 では新羅、 高句麗、 百済の建国から即位紀年を使っています。
繼父即位稱元。
とあり、即位紀年の称元が行われていたとしています。
更に踰年称元でないことについて注釈を加えています。
[360] つまり即位紀年は三国の建国の頃から使われていたとするのが 三国史記 の説ということになります。 中国では前漢の時代に当たりますから、 即位紀年が用いられたとしてもそう不思議でもありませんが、 他に確証はありません。
[361] 即位紀年の利用が史実であるかどうか (いつからが史実か)、 史実だとして三国史記の説が正しいかどうかが問題となります。 (前提として、他の事績が史実かどうかもまた問題となります。)
[362] 三国史記 (や他の史書) はすべての王位継承が、前王の死去のほぼ同年に行われたとしていて、 即位紀年も非常に規則的に設定されています (>>281)。 しかしこれは余りに整然としすぎています。 実際には死去の翌年に即位がずれ込むことや、 空位年があった可能性もあります。 >>7866
[363] 大正時代の日本の朝鮮史研究者小田省吾は、 日本書紀 の朝鮮関係記事との比較からこれを検討しました。 それによると、 前王の死去後、新王の即位までの年数を確定させられる情報は検出できませんでした。 しかし両者の死去や即位の記述の不一致例の比較により、 三国史記 編者もすべての王の在位期間を知り得たわけではなく、 史料がない場合も便宜上死去と即位元年を同一年に設定して整理したのではないかと推定しました。 >>7866
[1]
百済の金石文で即位紀年を使ったものが1例だけあります。
[55] 6世紀末に即位紀年と干支年の併記例も1例あり、 王室の仏事のためなのか、類例がないと指摘 >>61 #page=12 されてはいるものの、即位紀年利用の意義と歴史的な位置付けは本格的な研究対象となっていません。
[2156] 百済の孤例を除くと、 当時即位紀年が使われたことが確実なのは高麗時代からです。 新羅時代で現在知られている即位紀年は以後の時代の歴史書の記述に使われているもののみで、 当時即位紀年が実用されたかは明らかになっていません。
[2157] 新羅は唐の属国として唐の元号を使っており、 そうでなければ干支年を使っていましたから、 即位紀年はまだ使われなかったのかもしれません。
[2158] 高麗は建国当時が五代十国の混乱期で、 その後も契丹、宋、元など宗主国と断交したり鞍替えしたりであり、 唐と新羅のような固定的な関係ではなく、 独立性が強い時期が続きました。 即位紀年の出現と普及もこうした環境と無縁ではないかもしれません。
[2] 元号一覧データファイルに機械可読な一覧データファイルがあります。
[151] 即位紀年は朝鮮史の記述で最も重要な紀年法であるにも関わらず、 その一覧表 (王の一覧、在位期間の表ではなく紀年法、元年の一覧表) は案外ウェブ上に多くありません。
[155] Chinese Text Project による一覧表:
[195]
即位紀年は、
即位の当年を元年とする流儀と、
即位の翌年を元年とする流儀があります。
どちらを採用するべきかはどこの国でも問題となっています。
[235] 朝鮮半島の歴代王朝でも、 この2つの数え方の即位紀年が行われてきました。 気づかないで誤って考察してしまう研究者もいるくらいで >>7864、 資料・論文ごとに違っていることがあり、要注意です。
[281] 三国史記 の三国の王の即位紀年を詳しく調べると、 次の通りです。 >>7866
[196] (各国の初代を除き) 即位の翌月から元年としているように見えます。 ただし、新羅の2王と高句麗の1王は、 前王の死去が12月のため、 結果として翌年が元年となっています。 >>7864
[364] 例外の3件 (>>303) はいずれも12月に前王が死去していますが、 12月に死去した王は他にもいて、同年が新王の元年となっています。 つまり、必ず死去翌月を元年にする規則ともいえないのです。 12月に前王が死去した王位継承を詳しく見ると、 次の通りです >>7866。
[380] 実は、 旧王が死去した月に新王の元年の記事がある例が、 新羅に3件あります。 >>7866 (>>290 に該当)
[386] このような 三国史記 の元年の決定方法 (称元法) については、 日本の明治時代から昭和時代の朝鮮史研究者が分析しました。
[396] 藤田亮策の説が現在も定説化していると考えられます。 後の時代の慣習に引きずられて「翌年」「翌月」のような幻の規則性が見えてしまっていただけで、 なんのことはない、「新王のはじまりからが新王の元年」 という素朴な原則ですべて例外なく説明できるというわけです。
[197] 東国通鑑 (成立) の三国時代の即位紀年は、 三国史記 の方法を踏襲しています。 ただし前王が12月に死去した3王のうち、 高句麗の1王だけ違いがあります。 >>7864
[393] 今西竜は、 関係する 三国史記 記事に不審な点があることから、 三国史記 が死去翌年を元年としたのは誤りで、 本来は甲種 (>>365) となるべきものだったと判定しました。 東国通鑑 の変更も、同じように判断したためだとしました。 >>7867
[279] 高麗時代には即位当年を元年とする数え方がまだ一般的だったと考えられています。 >>7866
[280]
ところが朱子学の流行により即位翌年を元年とする数え方が正統とされるようになり、
史書の編纂にも使われるようになりました。
>>7866
[201] 李氏朝鮮国の儒学者権近の編著 東国史略 (成立) や、 李氏朝鮮国の儒学者洪汝河の 木斎家塾東国通鑑提綱 は、 儒教的な立場から、 三国時代の各王の即位紀年も即位の翌年を元年としました。 >>7864
[202] それ以後の歴史書や歴史の記述は、 三国史記 や 東国通鑑 の方式が一般的でありながらも、 即位翌年の方式も使われています。
[203] 高麗および李氏朝鮮の時代については、 諸書とも即位の翌年を元年としています。 >>7864 ただし、特殊例が次の通り王朝初代計2件、高麗に2件、 李氏朝鮮に3件あります。
辽太康九年正是高麗順宗元年(1083 年)。
[243] 高麗や李氏朝鮮の時代に、 史書とは違って即位の当年を元年とした数え方の用例が見つかっています。 文献史料だけでなく金石文にもよく見られ、 即位当年を元年とする数え方が当時用いられたことは疑いありません >>7866。
[261] 東国通鑑で即位の翌年を元年とする徐居正がここ (>>247) では即位当年を元年としていることが注目されます。 >>7864
[277] 光国志慶録 (>>278) は原版後序が当時の年を、即位当年を元年として書いていました。 再板跋はその年を年数はそのまま、 元号名の「上」を王名に置き換えて書いていました。 しかし当時の年は、即位翌年を元年として書いていました。
[1434] 李氏朝鮮時代に入っても、 碑記、 日記、 野乗などには即位当年を元年とした即位紀年が極めて多いです。 >>7863 #page=17
[1435] 粛宗王以後、康煕以来の文化の影響で民間の墓碑、事績碑などにも即位翌年を元年とする即位紀年が少なくありません。 それでも両者の数え方が共に存続するのは、 儒家両班と一般民衆の乖離の表れといえます。 >>7863 #page=17
[448]
光徳の建元年次のずれから、
高麗史
が実際の元号を1年誤っていることが知られます。
高麗時代の初期には実際には即位の当年を元年としていたものが、
次第に翌年を元年とするようになり、
誤って史書が編纂されたものと推測されます。
[186]
大韓帝国最後の皇帝で大日本帝国の李王の純宗の即位紀年は、
皇帝即位翌年から連続する形で死後しばらくまで、
公的にも (
[189] 純宗の即位紀年は、 皇帝即位当年を元年とする 「李王元年」 からの数え方もありました。 y~4081 朝鮮総督府の出版物に出現しています >>188, >>190。
[192] 即位当年からの数え方 y~4081 は現在知られている初出は >>190 で、皇帝退位後ですが、李王として在命中です。 ただしこれは日本側で軽く探しただけなので、より遡る用例もあるかもしれません。
7 千字文 羅洞等編 純祖二十六年(1826)印本 8 千字文 池松旭編 純宗六年(1913)新舊書林印本 9 千字文 崔弘善編 純宗九年(1916)弘壽堂印本 10 篆草諺注千字文 朴永鎮編 純宗九年(1916)天寶堂印本 11 圖像注解千字文 趙慶勣編 純宗十年(1917)印本 12 注解千字文 白斗鏞編 純宗十年(1917)翰南書林印本 13 千字文 張焕舜編 純宗十年(1917)全州七書房印本 14 訂本千字文 尹泰晟編 純宗十二年(1919)天一書館印本 15 圖形千字文 高裕相編 純宗十五年(1922)匯東書館印本 16 漢日鮮三體千字文 姜義永編 純宗十八年(1925)永昌書館印本 17 千字文 高裕相編 純宗十八年(1925)匯東書館印本 18 千字文 李正淳編 純宗十九年(1926)廣安書館印本 19 千字文 玄公廉編 純宗二十一年(1928)大昌書院普及書館印本 20 蒙學圖像日鮮千字文 白斗鏞編 檀紀四二六五年(1932)翰南書林印本 21 日鮮千字文 金益培編 檀紀四二六五年(1932)宇宙書林印本 22 漢日鮮千字文 申泰三編 檀紀四二六七年(1934)世昌書館印本 23 日鮮文新訂類合千字 金東縉編 檀紀四二六七年(1934)德興書林印本 24 日鲜文四體千字文 金璂鴻編 檀紀四二六八年(1935)在田堂書鋪印本 25 訂正新編千字文 李相焄編 檀紀四二六八年(1935)三成書林印本 26 日鮮四體千字文 高敬相編 檀紀四二六八年(1935)三文社印本 27 日鮮圖像千字文 姜義永編 檀紀四二六九年(1936)永昌書館印本 28 日鮮四體千字文 金松圭編 檀紀四二七零年(1937)廣韓書林印本 29 千字文 梁承坤編 檀紀四二七零年(1937)梁册房印本 30 新釋漢日鮮文注解千字文 金東縉編 檀紀四二七零年(1937)德興書林印本 31 四體圖像明文千字文 金赫濟編 檀紀四二八八年(1955)明文堂印本 32 四體圖像注解世昌千字文 申泰三編 檀紀四二八九年(1956)世昌書館印本
[1390] 大日本帝国朝鮮総督府の朝鮮史編修会の編纂した 朝鮮史 は、 高麗時代当時に行われた、 即位当年を元年とする数え方を採用しました。 ただ、
と統一しきれませんでした。 >>7863 #page=16
[1436] 退位した高麗王が再度即位する事例が3件あります。
[1437]
高麗史
はうち2件を何々王後何年のような後元方式でリセットして2回目の在位を数えています。
の2度、王位にありました。 通常即位紀年 (y~4020) として書かれるのは後者を指します。 前者は1年に満たないため史書には表れません。
[1429] >>1420 の用例は前者を指しています。 当時は前者の「即位元年」のような表記もあったかもしれません。
( 2 )最初の入朝の記録としては『高麗史』世家巻第二七、元宗十二年八月丁巳条「蒙古吐蕃僧四人来王迎于宣義門外」で、他に忠烈王元年(一二七四年)、同王二十年(一二九四年)、同王二十八年(一三〇二年)、忠宣王元年(一二九八年)など ...
[1439] これはの誤りの可能性が高そうです。
6 高麗時代部曲制研究 - 73페이지
... 소 의 주 민의 신푼 숟 천민 신푼 으로 기금 까기 이해 하여 왔다 . 551 忠宣王元年( 1298 ) 국가 는 기관 및 개인 이 염 푼욤 소유 , 관매 하는 것 숟 금하고 건국 의 역 푼숟 관찬 하 닌서 , 각 郡縣民 가운 테서 소금 의 끽겁 생산 차 인 免戶 웅 差定 하였다 .
朴宗基, 1990
[1441] これは正しいのかどうか、前後の事実関係を要確認。
[1424] 即位の翌年を元年とする史書における新王の即位当年の記述を参照するとき、 便宜上「誰々王即位年」のような表現をすることがあります。
[1425] そうした慣習と関連があるのか、どちらが古いのか定かではありませんが、 金石文にも同じような表現があります。