遼の元号

遼の元号

[23] 契丹族の国では元号を使っていました。

建元前

[3] 遼史 は、 本紀最初の年 () を 「唐天復元年,歲辛酉」 と唐の元号で書きました (y~1290)。 それ以後は 「明年秋七月」 「明年春」 「明年歲甲子,三月」 「明年七月」 「明年二月」 とかなり強引に「明年」で書き繋ぎました。 >>1

[2] その次 (文脈によれば更に翌年, ) に、 「元年春正月庚寅」 として、 初代太祖皇帝即位記事がありました。 「九年春正月」 「冬十月戊申」 まで続きました。 >>1 (y~1966)

[4] その次 (文脈によればその翌年) に、 「神冊元年春二月丙戌朔」 とありました (y~395)。 以後元号で書かれました。 >>1

[6] 即位紀年の時期のことは、 「太祖元年」 (遼史) >>20、 「太祖即位五年」「六年春」 (遼史) >>42、 「遼太祖耶律阿保機元年>>5、 「契丹主耶律阿保機元年四月」 (遼史参照) >>7、 「耶律阿保機元年(907)」 (遼史参照) >>9、 「太祖(耶律阿保機)元年(公元907年)」 >>8、 「太祖(耶律阿保机)元年(公元907年)」 >>10、 「辽太祖元年」 >>24 のように書かれてきました。

[43] 遼史 は更に遡って、

遙輦耶瀾可汗十年,歲在辛酉,。十月,。十一年,。十二年,。十五年,遙輦可汗卒,遺命遜位於太祖。太祖即位五年,

と先代の即位紀年 (y~3746) をも使っています。 >>42, >>44


[11] 中文维基百科は、 天復の次の (最後の) 唐の元号天祐契丹では2月 (10日 >>15, >>17) まで使ったとしました。 >>12, >>17 最初の元号である神冊改元直前を指すようです。

[16] 以前は一時12月までとしていました。 >>13, >>14 その出典は中国歴代年号考でした。 >>17 (2月の出典は遼史でした >>17。)

[19] 中文维基百科は、 天祐の開始を4年 () としていました。 >>12, >>18 (以前は一時、元年からとしていました。)

契丹・遼

[25] 契丹 (時代により国名が違いますが、同じでした。) は、 元号を使っていました。

[26] 現在では漢字で書かれた元号名がよく知られていますが、 契丹文字元号名もありました。 元号名

[49] 契丹元号

[28] 渤海国を滅ぼして建国した東丹国は、 本国の属国でしたが、 独自の元号を使っていました。

[27] 五代十国の10国の1つ北漢は、 属国でしたが、独自の元号を使っていました。

[29] の時代に渤海人が建てた興遼元号を使っていました。 興遼の元号

[45] 契丹國志/跋 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E8%B7%8B#%E5%A5%91%E4%B8%B9%E5%9C%8B%E5%BF%97%E8%B7%8B_%E7%A8%8B%E6%99%89%E8%8A%B3

北遼と西遼

[71] 神曆

[21] shirin_001_2_206.pdf, 羽田亨, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/246801/1/shirin_001_2_206.pdf#page=24

[39] 西遼の年号: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201410/article_7.html

[46] 十驾斋养新录五 第35页 (图书馆) - 中国哲学书电子化计划, Donald Sturgeon, , https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=34766&page=35&remap=gb

東遼と後遼

[38] 天統 (天统), 元統 (元统) >>36, >>37

[37] ryou6-18, http://ecaps.nekonikoban.org/kosen/ryou6-18.html

東遼の元号は調べると「元統」と出るんですが、先生方の記述によりますと、 「元統」と記載のある「元史」は誤記であって、「天統」が正しいとの事です。 当方は未確認ですが、ソースは「论金代官印的学术价值」に記載ありとの事。


[30] 後遼の最後の2人の君主、 耶律统古与 (-) と耶律喊舍 (-) が天授を使ったとする説がありました >>32

[35] 天授通宝という貨幣があって、 年号銭説がありました。 >>34, >>36

[31] この元号を掲載しているものは少なく、 中文Wikipediaなどは元号欄を空欄としていました。

[33] 天授は他の王朝にもありました。 天授
[34] ryou8-10, https://ecaps.nekonikoban.org/kosen/ryou8-10.html

「天授」とは何か? 大先生によると後遼国の最後の元号”天徳”の後に、”天授”があったとの説明でした。 当方はよく判りません。

違う視点で調べた所、 遼の第3代皇帝である耶律兀欲の諡号が「天授皇帝」ではないですか。 その説が当たっていれば鋳造は天禄の頃という事になります。

[36] 契丹钱币揭秘之六: “天授元、通宝”辽铸之辨析_peiyuanbo448_新浪博客, 泉痴山人, 2014/7/3, , http://blog.sina.com.cn/s/blog_4b99e63e0102uwgq.html

1218年,统古与复杀金山而自立,称辽国王,改元“天授”仅数月,喊舍又杀死统古与,亦自立为王,仍沿用“天授”年号,长达近两年。

蒙元时记汉地史实很少,对汉地年号多有错漏,连最亲信东辽国的年号“天统”,都错记为“元统”。《元史》怎会记录一个叛逆集团的僭伪年号?金国此时已行将就木,奄奄一息,又远在数千里之外,更不会关心边鄙之事。

大遼元年と契丹元年

[51] 中華人民共和国ウェブサイトでは 「契丹元年」 や 「大遼元年」 と書かれた貨幣の写真や情報が出回っています。 >>50, >>53

[59] 真贋は不明です。紹介している人々は真作と信じているようですが。

[52] の建国のを表しているのだとされています。 >>50, >>53 契丹はどちらも最初から使われていた呼称だとする説に立脚して、 どちらも建国初年と解されているようです。

[58] 「大遼元年」 は鋳造とする説もあります。 >>57 契丹を称したのがとされています。 1年ずれていますが、前年に鋳造したはずということでしょうか。

[417] 臆造类之背阴刻文钱 ——鎏金宫钱堪作证(十二) - 知乎, 辽金宫藏 草撰, 辛丑年 子月望, 发布于 2022-01-04 12:18, https://zhuanlan.zhihu.com/p/453018310

[418] >>417 三、12.

[72] 片面を使いまわして裏面でまったく違う紀年。 関連: 盛昌

[73] このような「大遼年」はいつの時代という設定も特になくて、 なんとなくありそうな組み合わせで作っているだけなのかもしれません。

[54] 契丹解决“钱荒”的措施之七, 国民一员, 2017-07-22, , http://www.360doc.com/content/17/0722/07/424013_673218810.shtml

钱牌是契丹人对中囯钱币的又一大贡献,它的第一枚作品是始发于公元907年,即天朝元年、契丹元年、也即是大朝元年、大辽元年、太祖元年;配合国家行用钱“千秋万岁”而铸行的契丹大字面值五十文的钱牌。

[55] 契丹元年銭・大辽元年銭は出て来ない記事。

[60] 「大遼元年」 と書かれた金石文があると紹介されていますが、詳細不明です。 検索しても他の情報源は出てきません。 誤植の可能性もあります。

[56] 安定镇 - 快懂百科, https://www.baike.com/wikiid/2252765959768914916?view_id=3emn1o068g7myo

圣缘寺位于大渠村东口外。修建工程极大,山门大殿都是雕梁画栋,殿内四壁彩绘精美,中央高大佛像和两边十八罗汉塑像都是全身,栩栩如生。院中有大槐树一棵,主干高有16米左右,主干圆径为3.66米,枝繁叶茂,夏日纳凉可容纳数十人。树之东侧,有高达两米,宽1.5米大方碑一座,碑文为汉、满两种文字,其中有一段记载:“本圣缘寺于大辽元年重修,西南距礼贤八里,北距南阳屯八里”等字样,该寺至解放初期尚保存完好.1953年,因改建学校而将殿内一切设施悉被拆毁,大碑被推倒深埋地下,大槐树于1983年3月6日夜被大火烧毁,至今大槐树残壳尚在大殿遗址尚存。


[61] かがみ 特別號, 大東急記念文庫, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3431402/1/23 (要登録)

[64] >>61 に蔵書印に「大遼元年」の事例があると書かれているものの、

>>62 には 「高麗国十四葉辛巳歳蔵書大宋建中靖国元年大遼乾統元年」 とあり、同様のものの誤植の可能性。

[65] >>63 は 「乾統二年」。

[66] 干支年建中靖国から、乾統元年が正しい。 >>63 も誤植なのか?


[67] 契丹時代当時にも、その後の前近代各時代各地でも、 建国紀元ないし国名即位紀年のようなものが使われた形跡はまったく見当たりません。

[68] ここで挙げたわずかな現代の発見事例も、実在性は非常に疑わしいと言わざるを得ません。

[69] 遼史 は建国のから建元までの期間を即位紀元で記述しています (y~1966)。 当時それが使われたとする証拠はなく、 史書記述のための紀年法の可能性が高いですが、 それを他の時代の事例と同じように国名で呼ぶなら、確かに 「契丹元年」 「大遼元年」 はあり得ます。

[70] 紀年銭の事例もそういったあたりの類推で作られたものかもしれません。

メモ

[48] 辽年号钱考释_参考网, , https://www.fx361.com/page/2022/0513/10307927.shtml