[15] 三國史記/卷29 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B729
大和元年
[6] 張今:出土六朝磚銘文字校訂十五則, 先秦秦漢史, 2022-07-13 19:00, , https://mp.weixin.qq.com/s/fbRyDAKiUaleE1FovJ3TTg
東晉馮慶地券
「
[152] かつては太和と泰和の表記違いは十分に理解されていませんでした。 泰□の解釈でも太和と泰和は同じで音通だとわざわざ説明が必要で >>100、 反論されやすい当該説の弱点でもありました。
[205] 喜田貞吉は、 太と泰が通用することを指摘し、 晋書武帝泰始元年条に改元とともに 「改景初暦為太始暦」 とあることを紹介しました。 >>197 七支刀の泰□の文脈でこの通用を紹介したのはこれが初めてと思われます。
[102] 日本国奈良県天理市の石上神宮所蔵七支刀に 「泰□四年」 とあります。
[126] この刀は百済から日本に贈られたものとされています。 >>100
[123] に石上神宮大宮司で歴史研究者の菅政友が再発見し公表し、 以来研究が続いています。 >>121 #page=6
[115] 銘文は損傷が酷く判読困難なところが多く、多くの研究者が解読を試みてきました。 実見が困難で先行説を頼りに推測を重ねた説も出されてきました。 に村山正雄が 石上神宮七支刀銘文図録 >>140 を出版したことで、 精巧な実写真とレントゲン写真を利用できるようになって、 研究環境は著しく向上しました >>121 #page=7。
[127] 1文字目は「泰」と読むのが通説です。
[118] 2文字目は「和」や「始」と読む説が多いです。 >>85
[182] 3文字目と4文字目は「四年」と読まれています。 諸研究者の見解が一致しています。
[142] 5文字目以後は「[五]月十六日」と読まれていますが、 当初より判読困難で、諸説ありました。
[608] 西晋泰始4(286)年、 東晋太和4(369)年、 劉宋泰始4(468)年なとの説があります。 >>100 現在では東晋太和4(369)年説が有力視されているようです。
[192] 星野恒は、 当時日本にも韓土にも当時元号がないとして、 漢土の元号に候補を求めました。 >>184
[193]
星野恒は、
「泰
[208] 喜田貞吉は、 前漢、前秦、南凉、西秦の太初、 魏、後趙、成漢、東晋、北魏「等」の太始を、 日干支から否定しました。 >>197
[194] 他の研究者も、明記せずとも同様の検討を経ていると推測されます。
[233] 李進煕は、 「五月十一日丙午」 と読んで、 日干支がでは合わず、 (y~1355) なら合うと主張しました。 >>228
[1249] 日本書紀 神功皇后五十二年秋九月丁卯朔丙子条の 「七枝刀」 との関係が指摘されます。 西暦252年に当たりますが、 干支2巡繰り下げが通説となっており、 西暦372年となります。 東晋太和4(369)年 (y~868) ならちょうど時期が合います。
[232] 福山敏男はなどを候補に挙げましたが、 そのうち 日本書紀2巡繰り下げと時期があうこの説が通説化しました。 >>228
[120] 昭和時代の研究者坂元義種は、 「泰[和]四年□月十六日丙午正陽」 と読まれていると引いて、 百済が東晋の元号を使った、 としました。 >>119
[153] この時期百済が泰和を使ったかには疑問があります。
[156]
従ってこれより前に百済が東晋の元号を使い、
倭王に贈ることはあり得ないとの理解が強いです。
しかも百済ではこれ以前も以後も、
東晋 (や他王朝) の元号を使った形跡がありません
(
[157] 百済王権に仕える中国系の文筆担当者が東晋を尊崇して使ったとする説もあります >>121 #page=11 (鈴木靖民1983)。
[159] しかし外交上重要な贈呈品に外交上重要な元号を担当者が勝手に使うかには疑問があります。 そこで、 元々東晋から百済が与えられたものを、 東晋との外交関係を倭とも共有する意図で、 百済で仿製して倭に贈ったとする説があります >>121 #page=12。
[217] 現在の大韓民国でもこの説が通説となっています。 >>216
[238] 西晋の泰始 (y~910) とする説がありました。
[175]
菅政友は「
を候補に挙げました >>165 /280。
[179] 現在の研究者の見解と合わせると「11日」はあり得ますが、 「6月」は合わず、該当する日がなくなります。
[180] 五月丙午の吉日と解釈するなら、これは問題とはならなくなります。
[144] 近代日本では高橋健自以来「六月十一日」と読まれ >>197, >>121 #page=8 (高橋健自1914)、 三正綜覧によると西晋泰始4年6月11日は丙午であることから >>197, >>121、 有力視されました。
[158] 劉宋泰始4(468)年 (y~777) とする説があります。
[160] に百済王は宋の鎮東大将軍に冊封されています >>121 #page=12。
[161] 百済で宋の元号を使った例も知られていませんから、 百済で宋の元号を使ったとするのは難しいです >>121 #page=12。
[173]
菅政友は「
[239] 泰初と読む説がありました。
[1]
日本私年号の研究
は、
銘文を
「
[857] 百済独自の元号とする説もありましたが、 当時百済では干支年が用いられたとして否定されています。 >>100
[226] 朝鮮民主主義人民共和国や大韓民国で繰り返し独自元号説が提唱される (そして一部の人々から支持される) 背景には、 純粋な歴史学的興味だけでなく、植民地統治の反動という政治的動機があるようです。 朝鮮民主主義人民共和国や大韓民国には、 百済や高句麗が元号を持っていたことを独立の証とみなし、 過剰な主張をする人々がいます。 七支刀については特にその銘文の解釈を巡って近代日本の通説の百済献上説と朝鮮の通説の百済下賜説の対立があり (現代日本の通説は対等的な贈与説か)、 神功皇后や任那日本府と絡めて、 古代と近現代が接続した政治問題と化しているのです。
[87]
、
朝鮮民主主義人民共和国の金錫亨は、
三韓各国が日本国内にそれぞれ植民地を持っていたとする珍説を発表しました
>>86。
皇国史観への「意趣返し」のようなもので学問といえるレベルにないものですが、
皇国史観バリアで穴だらけでもスルーされてきた日本古代史の基礎を固めるいい契機にはなったのかもしれません。
[94] 論証なく百済の元号とする説は論外だと評されています。 >>85 #page=4
[97] 大韓民国の歴史研究者李丙燾は、 次のように主張しました。 >>85 #page=4, #page=5, >>121 #page=12
[106] 日本書紀紀年については、元の日付はそれ自体誤ったものではないので、 恣意的に誤りとみなすことは不適切といわれます。 >>85 #page=5
[107] 西暦369年5月16日が丙午でないことについは、 五月丙午説が有力とされます。 >>85 #page=5
[108] また、馬韓統一も推測に過ぎず、記録にはありません >>85 #page=5。 この年に建元したとする根拠が見つかりません >>121 #page=12。
[162] 「泰□」が「泰和」だとすると東晋泰和4年が百済泰和元年だったことになり、 無理が生じます。 >>121 #page=12
[220] 大韓民国の研究者홍성화は、 「11月16日丙午」 の日干支と一致する日から、 に比定し (y~4165)、 泰○ (태○) は百済の独自元号と主張しました。 >>218, >>224
[227] 日干支が一致し、しかもそれが即位紀年の4年とも一致するのは、 大変興味深いところであります。 しかし百済が独自の元号を制定し利用していた根拠はこんにちまでまったく見出されておらず、 その事情が説明されなければならないでしょう。
swc541
swc547
swc542
swc543
[236] 日本美術工芸 (434), 日本美術工芸社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2281903/1/18 (要登録)
[73] 元号名は発見後に「太和」と読まれましたが、 現在見られる写真では損傷が酷く1文字目は判読不能とされています。 >>1717
[71] 中文版维基百科は元号名を太和としています。 >>66 根拠不明ですが、参考文献に >>67 があり、それに従ったのでしょうか。
[65] 太和は高句麗の元号とされるがその可能性は低い >>1555 (姜賢淑2015など) というのが近年の評価のようです。 おそらく□和を指すのでしょう。 太はもう候補とも考えられないのでしょうか。
[75] 渤海文化層から出土したとされますが、 渤海の元号で合致するものがありません。 >>1717
[77] 中国の元号でも□和3年丙寅に合致するものはなく、高句麗の元号とされます。 >>1689, >>1717
[78] 조선유적유물도감 4, 조선유적유물도감편찬위원회, はこれを 「[太]和三年歲次丙寅二月廿六日[甲]戌朔」 と読んで、 (y~4136) としました。 多くの研究者がこれに従いました。 >>1717
[72] 中文版维基百科は説 (y~4136) により、 元年はとしています。 >>66 根拠不明ですが、参考文献に >>67 があり、それに従ったのでしょうか。
[81] 임기환は、 日付から 426 486 546 606、銘文から長寿王 (426 486) は難しい。 (y~4135) の可能性が高いとしました。 >>1689
[80] 이승호は銘文や他の高句麗の元号との関係から (y~4135) としました。 >>1717
[1667] 哪些帝王的「年号」「谥号」「庙号」及政权的「国号」史书阙载直到考古重新发现? - 知乎, https://www.zhihu.com/question/319502342/answer/1622757434
□和、カラー写真あるも低解像度で判読不可
[28] 太和は、 新羅の元号の1つです。 新羅最後の独自元号です。
[26] 基本的に太和表記ですが、たまに大和表記されています。
[27] 「大和」表記例:
[61] 非常に平和な世を願ったものといわれます >>1555 が、想像の域を出ません。
[29] 王即位年の改元とする説 (y~270) があります。
[31] 王即位年の翌年の改元とする説 (y~3991) があります。
[60] 紀元編にはとあります (y~4127)。 >>59
[49] 2つは新羅の太和でなく唐の太和、 1つは注釈内の古記からの引用で干支年があるものの信憑性不明、 1つは干支年等なく年の確定は不能です。
[50] 三国遺事には継続年数6年とありますが、3年ないし4年の誤りです。 >>7862
[64]
三国遺事に「
[51] この元号は、宗主国の唐に知られて廃止し、 唐の正朔を奉じることを決めたエピソードで有名です。
[52] 王の即位2年に唐に派遣された使節と唐の皇帝との間でそのやり取りがありました。 このエピソードが即位2年の改元と誤認される要因とも推測されます。 >>7862
[53] また、2年のそのやり取りの後、3年に唐の服制に従いながら、 4年にようやく正朔を奉じるのは遅すぎるようにも思われます。 2年の使節は唐側に記録がなく、4年の使節の記録はあるので、 4年に正朔を受けたとも考えられます。 >>7862
[8] Về một số danh xưng thời chúa Nguyễn, Cổ vật tinh hoa, http://covattinhhoa.vn/news/detail/1369/ve-mot-so-danh-xung-thoi-chua-nguyen.cvth
[12]
Lê Thành Lân
は、
越南における
「"Thái" (chữ Hán "đại")」 (「タイ」、漢字「ダイ」、 >>202 では
「
[3] 元号一覧 (中国) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)#%E5%94%90
大和(827年-835年):一説に「太和」
[14] “大和”还是“太和”, https://baijiahao.baidu.com/s?id=1674428296142469642&wfr=spider&for=pc
[22] 三國史記/卷44 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B744#%E9%87%91%E9%99%BD
太[13]和和二年,興德王三年,
13
原本「大」
[23] わざわざ校訂しているのに「和和」になっているのが謎。 「大」を「太」に訂正したのより後に余分な「和」が挿入された?
[24] 大和とされることが多いこの元号を校訂者はなぜ太和に直したのだろうか。
[55] 日本国福井県に太和7年銘の鐘があります。 朝鮮半島から持ち込まれ、慶長年間に寺に寄贈されたものです。 >>56
[57] 江戸時代の藤貞幹は新羅の太和と考えました。 >>54, >>7862 内藤湖南と稲葉君山も支持しました。 >>7862 明治時代の研究者菅政友も藤貞幹の見解を引いています >>165。
[58] 平子尚が唐の太和と考えました。 藤田亮策も支持しており、 鐘の様式も新羅の太和の時代のものではないとしています。 >>7862 現在はこれが通説となっています。 >>56
還有傳世《重修政和經史證類備用本草》,卷首有牌記署曰:“泰和甲子下己酉冬日南至晦明軒謹記。”[20]錢謙益在入清後爲此書撰寫題跋,謂“泰和甲子下己酉,金章宗太和四年,甲子,宋寧宗嘉泰四年也;至己酉歲爲宋理宗淳祐九年,距甲子四十五年,金源之亡,已十六年矣。猶書‘泰和甲子’者,蒙古雖滅金,未立年號,又當女後攝政,國內大亂之時,而金人猶不忘故國,故以‘己酉’係太和甲子之下與”[21]?