[1] 日本の江戸時代末期から明治時代初期にかけ、 西洋式の日時制度の影響を受け、 日本の日時制度には大きな変革がもたらされました。
[60]
文化4(1807)年、
仙台藩の大番士の遠藤曰人は、
誰彼集
を出版しました。
夕暮集蘭序
として、
アルファベットの影響を受けた奇抜な書体、奇抜な表記の文章を掲載しました。
そこには、
「
[55] 旧暦は、 元々支那のものをそのまま使っていましたが、 江戸時代に日本独自の暦法が開発され、 日本の経度に合わせて計算されるようになりました。 貞享暦、宝暦暦、寛政曆、天保暦は京都の経度、 時刻を使っていました。
[32] 渋川春海は、 はじめ授時暦採用を働きかけましたが、 失敗しました。 渋川は里差 (経度差) がずれの原因と気付き、 大和暦を完成させました。 貞享元(1684)年3月、 日本政府 (朝廷) は大統暦の採用を決定しましたが、 渋川は里差問題を指摘し、 大統暦ではなく大和暦改め貞享暦へと改暦されることになりました。 >>31
[33] 渋川は、 マテオリッチの世界図 (坤輿万国全図、 1602年成立) に基づき、 北京と京都の里差を 15度としました。 >>31
[37] 1800年頃、 伊能忠敬は全国測量を行い、 経度の測定も試みました。
[34] 高橋至時は、 その 暗入利亜暦考 によると、 カラッパ暦を参照したり、 英国航海暦から計算したりと、 大変苦労して里差測定を試みました。 享和2(1802)年、 ロンドン・京都間を としました。 享和3(1803)年、 ロンドン・京都間を としました。 >>31
[35] 渋川景佑の新巧暦書 (文政9(1826)年成立) の序は、 パリ・京都間を8時54分27秒、 グリニジ・パリ間を9分16秒 (ラランデの値)、 従って としました。 >>31
[36]
ロシア人のクルーゼンシュテルン
(長崎に来航)
は、
(
[27]
江戸幕府の天文方の渋川家は嘉永七甲寅歳 (= 安政元年)
から
万国普通暦として旧暦、グレゴリオ暦、
ユリウス暦の対照表を毎年発行していました。
[28] 朔望や二十四節気などについて、 日本の京都の平時と、 グレゴリオ平時 (旧天文時) が併記されていました。
[30] 時刻は24時間制で記述されました。 分と秒は漢数字2桁、 時は「初」(= 0) または「一」から「二三」の漢数字で表されました。
[75] 幕末、 日本政府 (江戸幕府) は欧米諸国と条約を締結しました。 条約では両国の暦法・紀年法が併用されました。
[77] 日仏修好通商条約 の署名の日付は、次のようにありました。 >>76 (5) PDF 4ページ
[77] 日仏修好通商条約 の第3条 >>76 (3) PDF 7ページ、 第20条 >>76 (5) PDF 3ページ、 第22条 >>76 (5) PDF 4ページ には、 両国が同意した期日が記載されていました。
[87] 日仏修好通商条約 に基づく 貿易章程 には、 時間の長さが次のようにありました。 >>76 (5) PDF 6ページ
[146] 日本とロシア帝国の条約では日本の元号と露暦 (キリスト紀元 + ユリウス暦) が併記されました。 >>145 /25, >>145 /27 >>145 では括弧書きで更にグレゴリオ暦の月日も併記されていますが、 それも含めて条約原文にあるのかは不明です。
[125] 大日本国大清国修好条規 - Wikisource, , https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E6%B8%85%E5%9B%BD%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E8%A6%8F
[729] 江戸時代の状況については、江戸時代の時刻も参照。
[52] 施行の改暦ノ布告 >>53 により、グレゴリオ暦と定時法が実施されました。 それまでは不定時法だったといいます (江戸時代の時刻参照)。 日の出と日の入により時刻が決まるため、季節と位置によって変動がありました。
[140] Time Changes の JAPAN は、にグレゴリオ暦が採用されたが、 庶民は太陰暦を使い続けた、としていました >>139。
[4] 明治7年、 各地の郵便局に運送時刻管理のための時計が設置されました。 正午計によって地方真太陽時に合わせられていました。 >>1031
[223] 明治時代初期には、各地の地方時が用いられていました。 気象台では京都時、電信局や編暦では東京時と、 分野ごとに異なる“標準時”も使われていました。
[334] この時期の時刻について、色々な (相互に矛盾する) 情報があります。 そのほとんどは、根拠が定かではありません。
[393] 中央標準時制定時点で各地の地方時が用いられていてばらばらだった旨が政府内で述べられているので
(
[474] 京都時は京都標準時とも呼ばれますが、 当時からそのように呼ばれていたという資料は見つかっておらず、後の時代の俗称でしょう。
[226] その後明治21年/1888年1月1日より中央標準時が実施されました。
[218] 実施に先立つ明治20年/1887年7月4日には、各府県庁所在地の地方時との時差一覧が官報の觀象欄に掲載されています >>217。
[141] Time Changes の JAPAN はに が採用されたものの、政府のみで庶民は用いなかった >>139 としていました。根拠は不明です。
[144] Time Changes の JAPAN は に Formosa, Pescadores group, Yaeyama group, Miyako group は 、 それ以外は が庶民にも施行された >>139 としていました。 根拠は不明です。
[157] 以後、 各都市の報時機構は中央標準時ベースに切り替えられました。 地域により多少の移行の遅れはあったかもしれませんが、 庶民が用いなかったと全国的にいえるほど普及しなかったということはないはずです。
[730] 以後の状況については、中央標準時、夏時刻の項を参照。
○標準時ト各地方時トノ差
昨明治十九年七月十二日勅令第五十一號ヲ以テ来ル明治二十一年一月一日ヨリ英國綠威ノ東經百三十五度ノ子午線時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定メラレタルニ就テハ明年一月一日ヨリハ本暦ヲ初メ其他凡テ時刻ヲ記スルモノハ全國皆此標準時ニ依ラサルヘカラス故ニ各地方ニ於テ從來用ヒ來レル其他ノ時刻(地方時)ト此度定メラレタル標準時トノ差ヲ知ラサレハ百時差支ヲ生スルヿアルヘシ依テ左ニ各地方廳(根室函館ノ如キハ即今地方廳所在ノ地ニアラスト雖モ昨年マテ縣廳所在ノ地タリシヲ以テ特ニ之ヲ附記ス)ニ於ケル時差ヲ掲ケ以テ地方時ヲ改テ標準時トナシ或ハ標準時ヲ知リテ地方時ヲ求ムルノ便ニ供ス(内務省)
減ノ部
府縣廳所在地 時差 和歌山 三十三秒 兵庫 三十四秒 大阪 一分五十五秒 京都 三分〇〇秒 滋賀 三分十七秒 福井 四分四十九秒 三重 五分五十三秒 石川 六分三十三秒 岐阜 六分五十一秒 愛知 七分三十三秒 富山 八分四十九秒 長野 十二分四十一秒 靜岡 十三分二十九秒 山梨 十四分十三秒 新潟 十六分十秒 群馬 十六分十七秒 埼玉 十八分三十三秒 神奈川 十八分三十五秒 東京 十九分〇八秒 栃木 十九分三十四秒 秋田 二十分十七秒 千葉 二十分二十九秒 山形 二十一分〇九秒 福島 二十一分三十七秒 茨城 二十一分五十七秒 函館 二十二分五十三秒 靑森 二十二分五十九秒 宮城 二十三分二十九秒 岩手 二十四分二十五秒 札幌 二十五分三十一秒 根室 四十二分二十秒 加ノ部
府縣廳所在地 時差 德島 一分四十七秒 鳥取 三分十一秒 岡山 四分二十七秒 高知 五分五十五秒 島根 七分五十一秒 愛媛 八分五十八秒 廣島 十分十二秒 大分 十三分三十六秒 山口 十四分十五秒 宮崎 十四分二十三秒 熊本 十七分十二秒 鹿兒島 十八分〇四秒 福岡 十八分二十七秒 佐賀 十八分四十九秒 長崎 二十分三十一秒 沖繩 二十九分十九秒 地理局觀象臺ニ於テハ毎日標準時ノ正午ヲ全國各電信局ニ電報スルカ故ニ電信局所在ノ地ハ同局ニ至リ精密ナル標準時ヲ聞知スルヲ得ヘシ然レ𪜈電線未タ接セサル地方即沖縄等ニ於テハ暫ラク從來用ヒ來レル地方時ニ就キ前記ノ分秒ヲ加減シテ標準時ヲ求メサルヘカラス即加ノ部ニ列セル地方ハ其地ノ時刻ニ前記ノ分秒ヲ加ヘ減ノ部に列セル地方ハ其地ノ時刻ヨリ前記ノ分秒ヲ減スレハ即チ標準時ヲ得ルモノトス若シ既ニ標準時ヲ知リテ地方時ヲ求メントスルモノハ右加減ヲ相反シ加ト書スルモノハ標準時ヨリ此差ヲ減シ減ト書スルモノハ標準時ニ此差ヲ加フレハ即地方時ヲ得ヘシ
[126] 石垣島と東京には1時間の時差があった…2つ存在した日本の標準時/7月13日の話 | Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌], FLASH編集部, 投稿日:2021.07.13 08:50, https://smart-flash.jp/sociopolitics/149547
標準時が導入される以前、日本各地の時間は少しずつ異なっていた。各地で太陽が南中する時刻をもとに正午を定める、地方標準時というものが使われていたからだ。
[338] tzdata の Asia/Tokyo
は、
の標準時施行までの
LMT
を、
としています。付けの注記によれば、
理科年表1996年版の東京の座標東経135度44分40秒90に基づく値です
>>159, >>277。
[63] の tzdata の改訂以前は、 としていました >>62。 Shanks (2003) >>270 は、 Tōkyō を 35N42 139E46 としています。 これは湯島聖堂の位置を表しているようです。
[341] この理科年表由来の東京の座標は、 大正7年/1918年9月19日文部省告示號外の値に基づき理科年表/暦象年表や暦 (いずれも東京天文台/国立天文台編集) において大正9年/ 1920年版から採用され、 平成14年/2003年版まで用いられていました。 (その翌年から世界測地系に移行しました。)
[64] 東京天文台は明治21年/1888年設立で、 明治24年/1891年版の暦からその位置が暦計算に用いられていました。 >>340
[65]
ということは
平成11(1999)年時点の東京の代表点として適切な値でしたが
(他に日本経緯度原点でもよかったかもしれませんが)、
明治20年/1887年以前の東京の位置として妥当な値とは言いきれません。
[23] そのため tzdata を誤りだと主張する人達がいますが >>194, >>348, >>349, >>350, >>153, >>276、 修正を提案した人はなぜかいないようです。
[66]
標準時制定以前、
日本全国の唯一の時刻といえるものはありませんでした。
東京に限っても単一の代表時刻といえるものを確定させることはできません。
したがって以前の
Asia/Tokyo
の値は当時の東京中心のどこかでありさえすればよく、
それ以上の厳密性を求めても意味はありません。
(世界の他の都市でも同じようなものです。)
[67] もし何らか根拠のある数値を採用するべきだとすれば、 当時東京時として電信などで使われていた時刻 (の理論値) である、 日本政府の暦の東京の値が適切でしょう。 この値を知るのは平成11(1999)年時点では困難でしたが、 現在は国立天文台が Web で公開しています >>56。
[69] 東京奠都により、 暦の基準も京都から東京に変更されました。
[57] からまでの暦は東京の時刻に基づき計算されていました >>56。
[259] 標準時実施後は中央標準時により計算されていました。
[370] 気象観測結果の正確な記録には時刻が必要となりますし、 全国の結果を比較したり、天気図を作成したりするためには、 各地の観測時刻を揃える必要があります。
[225] 明治初期の気象観測は地方時に基いていましたが、 明治9年/1876年10月から京都時の観測も行うようになりました >>252。
[260] には京都時による天気図が作成されました (現存最古の日本の天気図) >>251。 日時は Thursday, March 1. 1883. 6 A.M. Kioto Time. と記載されていました >>973。
[224] 明治16年/1883年7月2日の官報第1号の「地理局報告」欄には、 「明治十六年七月一日京都時午前六時東京時午前六時十六分長崎時午前五時三十六分」 と注記があります >>222。
[261] 明治18年/1885年 (?) 1月1日には地方時の観測を廃止し、 京都時に統一されました >>253。
[208] >>207 によると、次の時刻が用いられました。
[371] 中央標準時施行後は、そちらを採用しています。 西部標準時や夏時刻の実行中も、中央標準時を使っていたようです。
[2065] 明治24年-明治28年の中央気象台年報には、 観測時は帝國標準時 (英文では Japanese standard time) とありました >>2064, >>2066。
[2067] 明治29年の中央気象台年報には、 観測時は中央標準時 (英文では Central standard time) とありました >>2068。
[2069] 明治30年-明治44年の中央気象台年報には、 観測時は中央標準時 (英文では Central standard time)、 ただし臺灣は西部標準時 (Western S. T.) とありました >>2070, >>2074。
[2071] その後の年には、 石垣島、 大韓帝国 (後に朝鮮)、 関東州、 滿洲、 支那にも観測地点が増えていっていますが、 観測時の説明はほぼ変わりませんでした。
[2076]
[2073] 大正13年-昭和11年の中央気象台年報には、 観測時は中央標準時 (Central Standard Time)、 ただし臺灣と滿洲 (昭和10年と昭和11年は滿洲國) は西部標準時 (Western S. T.)、 ただし旅順は中央標準時 (C. S. T.) とありました。 日界は夜半、 二十四時制、 日照時数観測は真太陽時とありました。 >>2078, >>2080, >>2081, >>2072
[2083] 昭和12年の中央気象台年報には、 観測時は中央標準時 (Central Standard Time)、 ただし臺灣は西部標準時 (Western S. T.) とありました。 日界は夜半、 二十四時制、 日照時数観測は真太陽時とありました。 >>2082
[2086] 昭和13年-昭和14年の中央気象台年報には、 観測時は中央標準時 (Central Standard Time) とありました。 日界は夜半、 二十四時制、 日照時数観測は真太陽時とありました。 >>2085, >>2087
[2089] 昭和15年の中央気象台年報には、 観測時は中央標準時とありました。 日界は夜半、 二十四時制とありました。 >>2088
[2084] この他観測項目ごとに10時や22時を日界とする旨の注記がありましたが、 年ごとに少しずつ違っていました。
[355] 南洋群島でも中央標準時基準の同時観測が行われていました。
[253] 国立公文書館 アジア歴史資料センター ( 版) http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A07061702900
[254] 明治18年?1月1日より、地方時による気象観測を廃し、京都時による観測のみに変更。
[143] 海軍制度沿革 巻15, 海軍大臣官房, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1886727/1/250 (以下各ページ)
[266] 明治11年4月1日より、東京時が全国の電信局へ送信されるようになりました。
[459] >>458 に東京時から標準時への移行時の取り扱いの規定が収録されています。
[165] 国際電信会社の中には、標準時実施から何年も経った1899年頃に、 次のような情報を提示していたところもあったようです >>148。
[166] こうした時差を示していた会社が実際にその時期にもこれを使っていたのか、 あるいは古い情報が更新されずに残っていただけなのかは不明です。 東京よりも西の横浜を1分進んでいるとしている会社があるのも謎です。
[255] 明治時代初期の鉄道は、東京近郊路線は東京時、 京阪神路線は大阪時を用いていました >>389 16ページ、>>248, >>1031。
[533] 北海道の炭鉱鉄道 (官営幌内鉄道) では、 札幌時計台の時刻が採用されました (通知)。
[373] 標準時施行後はそちら (昭和のサンマータイム期間中は夏時刻) を採用しています。
[47] 明治時代に鉄道が開業してから昭和時代までの切符は、 時代により何度か形式が変更されましたが、 日本語や英語等欧米語による駅名や説明が記述されていました。
[48] 国鉄の切符は、 当初日本語が横書きの場合右横書き、 欧米語は左横書きでしたが、 運賃改正以後印刷分から、 日本語の横書きも左横書きに改められました。 横書き登場 p.119
[49] 出札時に切符に押される日付印は、 左横書きで日・月・年の表記でしたが、 このとき年・月・日に改められました。 横書き登場 p.119
[50] 時刻表冊子は、 明治20年代から出版されるようになりました。 明治22(1889)年の 日本全国汽車時間表、 -の 汽車汽船旅行案内、改称して 公認汽車汽船旅行案内 は、 漢数字、 縦書き、 右綴じでした。 横書き登場 pp.121-122
[51] 創刊の 汽車時間表 (後の JTB時刻表) は、 アラビア数字、 左横書き、 左綴じでした。 「大正十四年三月十一日改正」の時刻表では、 時刻は 「8.01」 のように表記されていました。 (例外的に着駅が縦書きで記載され、 その右横の行に左90度回転した横書きで時刻が表記される (下から上に表記される) 部分もありました。) 午前と午後は違う書体で印字されており、 11.59 と 12.00 の間が境界でした。 (0時台はなく12時と表記。) 横書き登場 pp.121-122
[291] 江戸時代には、和時計その他を根拠に、城内には太鼓で、 城下町には鐘により定期的な報時が行われていました。
[292] 明治以後は午砲やサイレンに置き換わっていき、 その根拠も電信等で受信した標準時となっていきました。 西洋式の置き時計や懐中時計も徐々に普及してきました。
[102] 1859年/安政6年6月2日の横浜開港から1899年/明治32年7月17日の返還まで、 いくつかの都市に居留地がありました。
[105] 居留地内で独自の時刻に関する定めがあったかどうかは不明です。 欧米人は (居留地内外に関わらず) 自国式の日時を使っていたものと思われます (西暦、グレゴリオ暦またはユリウス暦、曜日、定時法)。 時間帯は、地方時と思われます (標準時施行後は標準時かもしれません)。
[552] 国際的な電信の会社が日本の都市の時刻として示していたもの (>>165) が、当時の欧米人が各都市で用いていた時刻だったと思われます。
[138] 霊山歴史館紀要 (3) - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/4425138/1/3 (要登録)
[96] 明治国家の展開と民衆生活 : 和歌森太郎先生還暦記念, 和歌森太郎先生還暦記念論文集編集委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12228250/1/7 (要登録)
[6] 幕末の政情不安の中で、
日本各地でいろいろな私年号が使われた記録が残されています。
[173] 日本国石川県能登地方に永佳元年の用例があり、 幕末頃と推測されています。
[174] 日本国奥羽地方の一部で万政元年の用例があり、 の元号名の誤記と考えられています。
[15] 東海地方や九州北部の一部でに亀光元年が使われました。 >>18
[161] の蛤御門の変で京都侵攻・御所襲撃に失敗した長州藩では、 朝敵のためか、 京都の朝廷による慶応への改元を無視した元治の延長年号が使われました。
[5]
一部の海外在留日本人がに孝明天皇の天皇即位紀年統仁を用いました。
[20] 四国や九州の一部でに天晴元年, 天星元年, 天政元年, 天成元年が使われました。 飛騨の一部でに天政元年が使われました。
[239] 人吉藩内の一部でに神治元年が使われました。 >>18 近江国の一部でに神治元年が使われました。
[121] 東日本や広島県下の一部でやに延寿が使われたり、 改元デマがありました。
[219] の戊辰戦争期の東日本では、 奥羽越列藩同盟と関係して大政, 大化という元号案や改元デマがありました。
[120]
明治改元は戊辰戦争中でもあり、
特に東北地方、北海道方面への改元の伝達の実態の解明が必要と思われます。
[299] 榎本武揚の函館政権は、独自の元号を用いず、
明治を使っていたようです。
維新の際にあっては、榎本武揚らによる共和国宣言のことがあり、年号改
元の動きもあったが、まもなく降伏した。
としていました。 >>149 p.
[94]
明治時代になっても慶応を使い続けた幕臣もいたといわれます。
[117] 幕末期の私年号は狭い範囲で独自に発生、流通したという前提で個別に検討されることが多かったようですが、 近接する時期に全国的に用例が散らばっている以上、 社会情勢とリンクした一体的な現象として総体的な視点から検証するべきとも考えられます。 特に、 孤立例だからその著者の世直し思想を反映しているに違いないという短絡的な議論がされてきたものは、 他の時代の私年号の研究の進展も踏まえ、再考されるべきです。 未だ新用例の発見が相次いでいることからわかるように、 この時代の史料はまだまだ未発掘のものが多く眠っていることを忘れてはいけません。
[158] 平成時代末期の 近代諸元号現象 は、 幕末に各地で私年号が用いられたことから、 幕藩体制末期の機能不全と、各地域の自治組織の一定の隆盛を想定できるのではないかと指摘しています。 >>156 #page=4, #page=5
[16] 戊辰戦争を最後に明治時代を通して (特殊な自由自治, 永清, 天運, 大靖, 征露を除き) 私年号が発生していないことには注意が必要です。
[122] 確かに明治改元時に朝廷は一世一元を導入しましたが、 明治時代の時点では未だ実績のない宣言に過ぎませんし、 それとて明治初期の国民にどの程度知れ渡っていたか疑問と言わざるを得ません。 従って、私年号の消滅は国民が改元がないことを知っていたからではありません。
[123] 戊辰戦争と箱館戦争でいったん内戦が終結したとは言え、 その後西南戦争まで士族反乱は繰り返されましたし、 農民一揆は各地で多発し、自由民権運動へとつながっていきます。 国民にとってはそうした戦乱・騒乱はもちろんのこと、 朝令暮改のような諸制度の改革で、 幕末よりもひどく混乱した日々を送っていたのかもしれません。 にも関わらず、そうした要素は私年号の発生につながっていないのです。
[124] こうした事実から、 幕末の私年号の多発は、 公年号の改元の乱発に誘発されたものではなかったろうか、 という仮説が立てられましょう。 天晴が京における改元の風聞から発生したといわれているのがその有力な傍証となります。
[132] と書いていましたが、西南戦争の頃に新治元年が使われたことがわかりました。 明治時代初期にはまだ私年号の発生が続いていた可能性がでてきました。
[26] 切支丹暦では西暦年と干支年が併記された例が残っています。
[99] 明治元年の切支丹暦に 「天主降生千八百六十八年歳次戊辰」 とありました。 >>98
[43] 西暦併用を求める会: 1950年参議院文部委員会元号廃止法案調査 () https://seirekiheiyo.blogspot.com/p/1950.html
[14] 明治3年に出版された 輿地誌略 は、 世界の地誌で、洋書を翻訳編輯したものでした。 本書の表紙や序文には日本の元号や干支年が書かれていますが、 文中では、 年号によるのは捜索するのに便利でないとして、 刊行された明治3年から遡って何年前の書き方で統一されていました。 西洋紀元を得るには 1870 から引くようにと注釈があります。 >>8
[167] 明治の開始日については、表やソフトウェアなどの扱いが様々で、
混乱した状況にあるようです。太陽暦 (グレゴリオ暦) の導入が明治6年なので、
それ以前は当時旧暦を使っていましたが、
明治5年以前の日時に対応する場合でも、正しく換算していないことがよくあります。
[168] 改元日は、旧暦9月8日、グレゴリオ暦10月23日です。 しかし誤ってグレゴリオ暦9月8日としているものもあります。
[169] 明治への改元までは年初に遡って改元とする考え方があり
[10] 年始に遡るという考え方は、
少なくても現代日本における過去の日時の記述方法としては、
主流とはいえません。 (また当時の方式として正しいとも言い切れません。
[160] 「明治150年 徳島の古文書で見る明治維新」展を企画して | 国立公文書館, https://www.archives.go.jp/publication/archives/no070/7983
その一方、半田村の商人酒井弥蔵は、慶応4年9月8日の明治改元を自身の狂歌集「年号改元狂歌集」の中で次のように読んでいる。「慶応の四年は九月八日まで、けふ(今日)九日は明治元年」「慶応の四年を限り辰(断つ)のとし、巳(明治2年)は明らかに治まれる年」こうした狂歌に民衆のとまどいは見えない。これまでの禍根を断ち、新しい社会に対する期待が見えている。
[162] バインダー1_7627599605b67ef5e64cca.pdf, , https://archive.bunmori.tokushima.jp/monjo_pdf/tenji-kaisetu_7249023953e451f06d3b9/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC1_7627599605b67ef5e64cca.pdf#page=7
[163] 徳島県立文書館 - 古文書詳細情報, https://archive.bunmori.tokushima.jp/srch/srch_arch_detail.php?pno=1&no=%EF%BD%BB%EF%BD%B6%EF%BD%B201029000
[39] 皇室典範では、それに従い践祚後に改元することが定められました。
[3] 林善助の正午計 - 時刻の標準及時計の試験器 () http://www.kodokei.com/ot_011_8.html
[21] 茜堂の鐵路趣味|硬券切符の歴史 () http://akane-dou.com/rekisi.html
[24] 官報. 1890年10月31日 - 国立国会図書館デジタルコレクション (大蔵省印刷局 [編]著, [1964]-) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945456/1
[25] 貴重資料展示室029 江戸後期の天文暦 - 国立天文台暦計算室 () https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/exhibition/029/
[45] () http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1953/pdf/195301.pdf#page=11
[46] () http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1952/pdf/195212.pdf#page=5
[92] 五行学歴史年表(3) 明治時代~昭和時代①-戦前|五行学研究所 () http://www.interq.or.jp/chubu/sarai/historyJapan3.htm
[101] 幕末芸州広島藩研究会広報室さんはTwitterを使っています 「@ka_003_ori 憶測でごめんなさい。 戊辰戦争にて戦死したのは慶応4年7月ですが、お墓を建てたのが戦後の明治に入ってからだと考えると実際は9月が改元だったとしても建てた日から数えで元号を計算してしまい7月でも明治と表記したのではないか?という考えでまとまりました。 たしかに戦中に墓は建てないですよね…」 / Twitter (午前7:07 · 2019年9月22日 , ) https://twitter.com/geisyuhiroshima/status/1175531974263328768
[107] (, ) http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~shkky/wakumon/no-09/9-01-matsui.pdf
[108] アメリカ独立宣言 - Wikisource (, ) https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%AE%A3%E8%A8%80
[109] 活版印刷機 – 平野富二 () http://hirano-tomiji.jp/archives/category/%E6%B4%BB%E7%89%88%E5%8D%B0%E5%88%B7%E6%A9%9F
[110] <懐かしの立命館>学生証 | | 立命館あの日あの時 | 立命館 史資料センター準備室(旧・立命館百年史編纂室) | 立命館大学, http://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=161
明治三十何年何月何日の年月日だけ空欄で手書きで記入する方式のうち、 丗が印字済で下1桁年だけ手書きの事例
[111] 境田稔信さんはTwitterを使っています 「東亜公司の『日華新辞典』(明治40、光緒33)を入手。 一見、三省堂の『漢和新字典』(明治37)かと思った。 内容は三省堂の『日本新辞林』(明治30)を基礎にしたらしい。 奥付に発行兼印刷者で亀井忠一(三省堂)。 しかし『三省堂出版編年目録 修訂版』(昭和48)には記載なし。 「発售」=発売。 https://t.co/XUoWEvNTiT」 / Twitter (午前8:51 · 2020年10月30日 , ) https://twitter.com/pX03dDIs4dQ1G3x/status/1321962812055318528/photo/4
[112] 北(ロシア)の黒船乗組員墓地 見学会が開催されました。|伊豆下田 玉泉寺ブログ (, ) https://www.izu-gyokusenji.or.jp/blog/2020/12/post-1.html
[113] サマンサ ラジオさんはTwitterを使っています 「今日は、英語の勉強です。黒船が下田に来た時、乗組員の一人が事故で亡くなりました。その方のお墓が下田にあるそうです。そのお墓の文字を、英語を全く知らない日本人絵師が描きました。英語の得意な方、得意でない方、何と書いてあるか読んでください。 https://t.co/7HyursDx7J」 / Twitter (午後1:28 · 2021年2月16日 , ) https://twitter.com/samansacat/status/1361532811035906056
[130] おまつのブログ: 頒暦日月食記事との突合(寛政暦) (, ) http://omatsuja2.blogspot.com/2021/05/ksEclipse14.html
[131] 英米社会実務事典 - 国立国会図書館デジタルコレクション, 芝染太郎, 昭和15, http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1111686/285
[133] yhkondoさんはTwitterを使っています 「文献を扱う仕事をしている人間にとって、「日本の古本屋」サイトは最高の場所だ。コロナで図書館利用がいろいろ不便なので、調べたい本が簡単に買えるのはありがたい。これは明治元訳の新約聖書の初版。https://t.co/FZIvVTBEvz https://t.co/ulyBzhLlwu」 / Twitter (, ) https://twitter.com/yhkondo/status/1472749664252592130/photo/1
[134] yhkondoさんはTwitterを使っています 「ちょっと珍しい刊行年のルカ伝と使徒行伝があったので買ってみた。普通の漢文訓点聖書かと思ってよく見ると違う!片仮名じゃない。韓国語の吐が加点してあるいわゆる懸吐文だ。調べてみると、韓国にもほとんど残っていない、李樹庭(イ・スジョン)が1884年に橫浜で刊行した懸吐漢韓聖書だった。 https://t.co/y3gix7m3s4」 / Twitter, , https://twitter.com/yhkondo/status/1487349468706263040
[135] yhkondoさんはTwitterを使っています 「明治聖書研究を見ていると『福音新報』という新聞の1088号(大正5年5月)というのがよく引用される。たしかに重要な資料なのだ。今回も図書館にマイクロでも見に行くかと思っていたが、念のため、日本の古本屋サイトで検索するとその号をドンピシャで売っていた!本当にすごいサイトです。 https://t.co/EnBEAZCFNY」 / Twitter (, ) https://twitter.com/yhkondo/status/1493829917108490240/photo/1
[136] ロシア領事館と箱館聖堂|日本正教会|ハリストス正教会 The Orthodox Church in Japan (, ) https://www.orthodoxjapan.jp/hakodate.html
[137] 「午前」「午後」: suchowan's blog, https://suchowan.seesaa.net/article/202108article_15.html
ronso1120300010.pdf, https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/12294/ronso1120300010.pdf
「西洋三月七日我二月十四日」