[111]
日本の江戸時代の画家歌川国芳が天保年間初期に描いた浮世絵
[113] この番号は貸し傘の整理番号に過ぎませんが、 歌川国芳の没年の西暦と一致していることから、 未来予知ではないかとオカルトの世界では言われています。
[116]
西暦
(キリスト紀元)
は戦国時代に既に日本に伝来していましたし、
禁教により使われなくなったとはいえ、
蘭学の勃興がありましたから、
江戸時代後期の知識人なら知っていてもおかしくありません。
(歌川国芳は西洋の絵画の影響も受けていたとされます。)
[25] そうはいっても当時の人々の日常生活のほとんどは元号年や干支年を使っていたのですから、 西暦年が書かれたとするのは不自然です。
[117] また、自死ならともかく、没年を生前に知っていたとか、 描いた数字が没年を定めたとかいうトンデモ説を一々論評する必要もありますまい。 傘の番号と年番号を関係付ける根拠も何もありません。
[115] 現在知られている最古の言及はの 2ch ニュー速VIP板への投稿 >>114。 その筆者は与太話的に紹介したに過ぎないようで、 何かを信じているわけではなさそうです。 これが筆者のオリジナルの発見なのか、 他で既に言及されているのを紹介したものなのかは不明。
23 :1:2011/01/18(火) 23:40:13.81 ID:XJ7Z+hXk0
右の男が差す、貸し傘の番号である「千八百六十一」という番号は何と、国芳自身が死去した西暦1861年(文久元年)と符合する! …という、なんともミステリーな作品だったりします。
無論、偶然ではありましょうが…。
[121] 、 東京新聞 が歌川国芳の別の絵に東京スカイツリー (完成) が描かれていたという記事を掲載しました >>122。 この記事は同日のラジオ >>5 やワイドショーでも紹介されました。 その絵の謎の塔は以前から知られていたようですが、 東京スカイツリーと結び付けられたのは、 現在見つかっている中ではこの記事が最初のようです。 現在 SNS に残されている投稿を見る限り、 この新聞記事とテレビ番組はこの「スカイツリー」説の普及にかなり貢献したようです。
[7] 東京スカイツリーが話題の中心だったようですが、 新聞記事には死去年にも言及がありました。 >>5, >>6
[9] この記事は、 日本国神奈川県川崎市川崎区の砂子の里資料館の館長の斎藤文夫 (当時82歳、元自由民主党参議院議員) への取材で書かれたようで、斎藤文夫のコメントも掲載されました。 東京スカイツリーは斎藤文夫が発見したのだとありました。 東京スカイツリーの絵も没年の絵も、 砂子の里資料館が所蔵していました。 >>6
[124] 東京スカイツリーと没年の両方に言及した Web 上の記事で現在知られている古いものは、 の新聞記事を引いたもの >>5 や頃の Twitter 投稿 >>125 があります。後者も明記されていませんが新聞記事が大元でしょう。 新聞記事以前に遡る例は発見できていません。
[21] ウェブ検索によると斎藤文夫は東京新聞に頻繁に登場します。 からだけで少なくても 5回掲載されています。それ以前の掲載もありますから、 記事データベースで調べればもっと見つかるのではないでしょうか。
[22] これは「偶然」「ニュース性があるから」「地域の有力者だから」 で説明が付くものでしょうか。
[23] これだけ頻繁に掲載があるということは、 斎藤文夫がネタを持ち込んだのか 東京新聞が聞きに行ったのかはわかりませんが、 両者は相当親密な関係性が構築されていると考えるのが自然です。 元国会議員で地域の有力者なら、 その関係は長い時間を掛けて作られたものでしょう。
[24] 本件オーパーツも人づてにたまたま新聞記者が聞きつけたというのではなく、 話題作りを意図して両者協同して記事化したのだとしても不思議ではありません。
[126] 、 毎日新聞 は、 砂子の里資料館の 「幕末浮世絵界の奇才 歌川国芳 没後150年展」 (開始) を紹介する記事を掲載しました。 >>119 (同名の展覧会が全国各地の美術館で開催されたようで、巡回していたのでしょうか。)
[127] 記事は館長の斎藤文夫が 「東京スカイツリーを予想したような恐るべき独創性に驚く」、 死去年については (誰の発言か明記されていないが普通の新聞の書き方なら同じく館長の発言として) 「国芳だけに偶然とは思えぬ」、 と述べたことを書きました。 記事の地の文は 「自身が他界する年を予想するだけに、存在しない巨大な塔をも描く独創があったのか。」 と書きました。 このように館長と毎日新聞記者は、 東京スカイツリー状の塔を空想を描いたものとし、 死去年は未来予知だとの見解を示したのでした。
[10] 記事は 「作品が話題になっている」 としていました。どこでどう話題になっているのか明記されていませんが、 東京新聞 記事以来話題になったことを指しているのは明らかです。 毎日新聞記者の立場では 「話題になっている」 と他人事のように書くのも間違いとまでは言えませんが、 東京新聞 の取材源もまた斎藤文夫であることを思えば、 マッチポンプ感がないでもありません。
[129] 館長や 東京新聞 や 毎日新聞 の記者がこうしたことを信じていたのかどうかは定かではありませんが (信じていなかったとしたら捏造記事ですから、 信じていたのだということにしておきましょう。)、 ちょうど没後150年に当たり記念の展覧会を開催するタイミングで、 完成間近の東京スカイツリーとの類似性や没年との一致を見つけたので、 それで話題作りをしようとしたとみるべきでしょう。
[130] その目論見は成功したようで、これらの説はずいぶん拡散されたようです。 今では日本のオーパーツの1つとしても紹介されています。
[11] このようなオカルトのステマまがいの記事を配信することについて、 新聞社に倫理基準のようなものはないのでしょうかね。
川崎市川崎区の砂子の里資料館が7日から開く「幕末浮世絵界の奇才 歌川国芳 没後150年展」(前期)に展示される作品が話題になっている。
また、展示される「東都御厩川岸之図」にある貸し傘に書かれた「千八百六十一番」は、国芳の西暦没年と同じ数字で「国芳だけに偶然とは思えぬ」とも。 自身が他界する年を予想するだけに、存在しない巨大な塔をも描く独創があったのか。 斎藤館長は「絵を見てそれぞれに想像を膨らませてほしい」と言う。
記事参照:[毎日新聞]2011年3月4日
同館の斎藤文夫館長が今年に入り、国芳の没後150年にちなんだ企画展(現在開催中)を準備していたところ、「これはまるでスカイツリーだ」と驚きの発見。
26日まで開催している企画展ではほかに、描かれている貸し傘の番号が「千八百六十一番」と、西暦没年と一致している「東都御厩川岸之図」など約70点を展示。
そして、「東都御厩川岸之図」で人物が何げなく持っている番傘に記された「千八百六十一番」という謎の数字も、実は国芳の没年が西暦「1861年」なのだから、意味を深読みしたくなる。果たして国芳は、未来を見たのだろうか?
国芳の謎に挑むのは、俳優・山本耕史。 “時をかける浮世絵師”の謎めいた生い立ち、江戸を代表する天才絵師・葛飾北斎との出会い、空前の大ブレーク、そして幕府からの弾圧―。 無数の浮世絵をヒントに、そのスリリングな人生を追う。
国芳が生きた時代は、飢饉(ききん)や地震が相次ぐ激動の世。それは、21世紀の日本と奇妙に符号する。閉塞(へいそく)した時代を、反骨精神と奇抜なアイデアで縦横無尽に駆け抜けた国芳の浮世絵は、江戸の庶民に勇気と笑いを与えた。 そのたくましく、したたかな生き方と奇想は、現代の日本にも活力を与えるに違いない。
協力:没後150年 歌川国芳展 (森アーツセンターギャラリー)
越後屋では(1~1500番)の番号だと三越のホームページにある。
1500番とは数が多すぎるが、それもまた宣伝の戦略だったのだろう。
番傘が描かれている浮世絵は、葛飾北斎の絵本隅田川両岸一覧にある。
その番傘の番号は「千八百十番」である。
同じ画材を描いた「国芳」の番傘の番号は「千八百六十一番」
これはただの偶然ではないだろう。
そこで同じシンメトリーの数字を付け足した。
大作家「北斎」に対抗して、自分は数を足した数字を書いてみせた。
これは憶測である。
その数字の真意はわからない。
ただ、シンメトリーの数字は安定感があり、裏から見ても同じに見える。
デザイナーの要素をもつ「北斎」「国芳」が書込む数字とすれば、裏から見ても同じに見えるシンメトリーの数字を使う事は納得がいく。
これが私の推測である。
この数字で彼が何を表現したかったのか、実際このようなデザインの傘が存在していたのかなどは今となっては不明ですが、こちらを改めてご覧ください。
おかしな話ではあるのですが、日本へのキリスト教伝来の第一歩がフランシスコ・ザビエルによる1549年に鹿児島上陸ということを考えると、日常生活で西暦は用いられていないにしろ、考え方を知っている日本人がいてもおかしくなかったかもしれません。
真実のほどは僕には分かりませんが(笑)
いずれにしても、この小さな傘に書かれていた謎の数字が自分自身の没年になっていたのですから、不思議ですよね。
[20] 【浮世絵の中に東京スカイツリー】 -- 回答受付中にもコメント欄… - 人力検索はてな, https://q.hatena.ne.jp/1299057649