元治の延長年号

元治の延長年号

読み方

[1] null, , http://www.yousun.sakura.ne.jp/public_html/ofude/ofu1-1.html

注)「稿本教祖伝」では、元治は、「がんじ」とルビが振られているが、社会一般的には、「げんじ」である。

改元

[3] 文久4(1864)年2月20日改元されました。

[4] 元治2(1865)年4月7日慶応改元されました。

元治の延長年号

[213] 元治から慶応改元は、 長州藩蛤御門の変京都侵攻に失敗した後でした。 日本政府 (江戸幕府) 首脳で長州藩にとっての仇敵に徳川慶喜がおり、 慶応は「慶喜に応じる」と解釈できるということで、 長州では改元されなかったといいます。

[132] 朝廷に軍事侵攻し失敗した長州藩は、当時、朝敵でした。 新元号を奉じなかった長州藩の人々にも、その自認があったのでしょう。

[27] 昭和時代初期の研究者の論文では、 関ヶ原以来の遺恨が元治元年の長州征伐で爆発し、 防長の諸記録に 「元治四年」 「元治五年」 とみられることがあるのはそのためだと説明されています (が具体例は示されていません)。 >>26

[38] 昭和時代初期の社会学者日本国山口県出身の河村只雄は、 延長年号事例 (>>34, >>37) を紹介し、 開戦前の意気や、 慶喜に応じることになるから気に喰わぬと殊更に意地張ったものだと推測しました。 >>33

[51] 昭和時代中期の地元の教育関係者は、 延長年号事例 (>>49) を紹介し、 慶応は慶喜に応ずる意味であるため、 意気盛んな様が窺われるものとしました。 >>48

[70] 美東町教育委員会の古戦場案内看板には、 時の将軍慶喜に応じないとの心意気が窺われるとあります。 >>68

[73] 昭和時代後期の地元の研究者は、 当時の将軍は慶喜で「慶喜に応ずる」のは気にくわぬために延長年号を使ったとしています。 >>71

[61] 平成時代のウェブページでも「慶喜に応じる」「慶喜に応じろ」 式の解釈は踏襲されています >>214, >>215. >>7

[74] どこも似たような記述なのは同系統の資料に基づいているのでしょう。 検索で見つからない郷土資料、郷土史教材のようなものにも同じような記述があるのかもしれません。

[160] 令和改元のとき、ときの内閣総理大臣安倍晋三を嫌う反アベの人々は安倍晋三 (山口県選出衆議院議員) の名前漢字が入った新元号なら使わないと騒いでいました。 安久 不思議な因果です。

[62] 「慶喜に応じる」との解釈はもっともらしいですが、 当事者の記録のような信頼できる出典が示されていないことには注意が必要です。

[63] 徳川慶喜幕府政権幹部で長州征伐勅命を承けた立場でしたから、 慶応への改元の時点で長州藩と敵対関係にあったのは確かです。 ただし長州征伐時点の将軍徳川家茂で、 徳川慶喜将軍となったのは慶応2年の暮でした。

[75] 地元関係者による論述が多く、通史的、全国的な視座の研究者や元号研究者による検討がなされていないのは気になります。

[2] 中世延長年号で指摘されているのと同様に朝敵には正式な改元伝達がなされなかった可能性もあり、検証が必要でしょう。


[34] 開戦時に長州藩の幹部が制作した 長防士臣民合議書日付が 「皇元治二年乙丑十有一月」 でした。 >>32, >>33

[35] 日本国内では省略されることが多い国名部に「皇」 と明示するのは異常な尊皇攘夷派だった長州藩の思想的背景が表れたものなのでしょう。

[36] 近世後期から近代にかけてたまに見られる形式です。 元号名スロット

[53] 日本国山口県美彌郡 金麗社 石灯籠に、

   国家多難数祈 公朝誅内奸
   攘外賊固非人力今慈丙寅八
   月落小倉城得諸延明命寺以徒
   大田駅奉祠前聊報 神助之萬分
            奇兵隊
    元治四年丁卯秋七月

とあります。 >>52

[54] これは昭和時代から平成時代

と紹介されているものと、 銘文は少しずつ違っていてどれが正しいのかわかりませんが、 同じものを指しているようです。

[50] 日付延長年号干支年ですが、本文中には干支年だけが使われています。

[55] >>49 では「うつし」と中立的な書き方をしていますが、銘文にある通り、 長州藩小倉藩小倉城に侵攻して城下を占拠し (占領地は長州藩領に編入して明治に至る)、 戦利品として奪取して持ち帰って自陣地の神社に奉納したものであります。

[56] 銘文には国のため、朝廷のために戦ったようなことが書かれていますが、 事実は朝廷の定めた慶応元号を奉じる小倉藩石灯籠に、 朝敵長州藩朝廷改元を無視した銘文を刻んで「上書き」 したもので、正反対です。

[57] 石灯籠の原状はよくわからないのですが、銘文はなかったのでしょうかね?

[58] 戊辰戦争勝って官軍になったとはいえ、 さすがに改元の無視を正当化するのは難しいからなのか、 どの時代でもこの延長年号の銘文を肯定的に紹介するものはあまりないみたいです。

[215] 平成3年、大政奉還。 - 長州に棲む日日, 内藤昶, 2011年01月12日, http://blog.goo.ne.jp/akiller_2006/e/0e211bf6b15b1dff38c766db4c2ad08b

あん時、慶應じゃなく平成に決まってたら…。

長州に点在する「元治三年」とか「元治四年」とかの書類や石灯籠はなかったわけだなー。

(もともとそういう意味ではなかったのですが、長州は「慶應」=「慶喜に応じる」として嫌い、元治を使い続けることも多かった。

[7] 長州旅行3日目(長府)|月虹徒然日記, 2011-11-15 22:21:17, http://ameblo.jp/seuru/entry-11110882532.html

踊り場には石灯篭があって、これは高杉晋作率いる奇兵隊が、慶応2年8月、四境戦争の小倉口の戦いで小倉城を攻略した際、城下の延命寺から戦利品として持ち帰ったもので、灯篭には「元治3年 奇兵隊」と銘記されている。元治は本来は元年で終わり、「慶応」と改元されているが、長州藩では、「慶応」を「慶喜に応じる」の意味とし、「元治」の年号を使い続けたので、ここでは『元治3年』となってます。


[6] 「元治三年」「元治四年」「元治五年」で検索するとやたらとたくさん出てきます。 OCRの誤読も多いようですが。 長州藩だけでは説明がつかない気がします。 他の時代の元号の誤記や、 幕末元号の誤記が多く混ざっています。 改元しまくりの悪影響を明治以降も引きずって誤記が誘われてるのでしょうか。 分析が待たれます。

[31] 綜合美良布文化史, 美良布第一尋常高等小学校, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1230813/1/155 (要登録) 左

孝明天皇の元治四年

[21] 盛岡市史 第4分冊, 盛岡市史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3022995/1/90 (要登録) 左

元治五年

[11] 都山流史, 都山流編輯部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1212938/1/551 (要登録)

元治六年二月十日東京赤坂に生れ

[59] 栃木県市町村誌, 栃木県町村会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2997332/1/467 (要登録) 右中

天狗党が元治4年に転身。元治年間? 慶応4年?

[65] 七ケ宿町史 資料編 別冊, 七ケ宿町史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9569968/1/105 (要登録) 左ページ右

「元治四年四月」御用留。目録のみで内容不明。


[23] 甲斐国社記・寺記 第1巻, 山梨県立図書館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2991215/1/374 (要登録)

「五」は「元」の誤記。

[8] 里のたより : 旭廓盛榮, [出版者不明], , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1085521/1/30 (要登録) 右

元治、文久、明治が並ぶ中で「元治六年三月生」。

[9] >>8 元治元年の誤植か、明治六年の誤植か。

[10] 北陸史談会々報 (1), 北陸史談会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1601998/1/16 (要登録)

金沢藩士幕末の動向。文久3年9月の「明年」が「元治六年」の2月。 元治元年の誤植。

[30] 城南紳士録 : 城南郡区町村誌・城南代表会社録, 関西報知新聞社出版部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1037008/1/108 (要登録) 左下

元治四年」に鳥羽伏見の戦い。慶應4年の誤り。

[39] 原田二郎翁小伝, 三重県社会事業協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1053238/1/21

元治4年 = 慶応元年。実際には元治2年が慶応元年。

[40] 能久親王御遺蹟建碑志, 北白川宮能久親王御遺蹟保存会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1688076/1/55 (要登録) 右下

元治4年4月7日改元して慶応元年。実際には元治2年4月7日に改元。

[66] ふるさとのかたりべ 第3集, 嘉瀬ふるさとを探る会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9539151/1/51 (要登録) 左

弁慶の文治4年4月18日付けの借用書とされるものの写しを含む「子正月」付け文書 (白黒写真、翻刻)。

解説文では元治4年甲子年の正月としている。

[67] >>66 元治元年が甲子年。文久4年甲子からの改元であるための誤記。 文治が出てくるのがおもしろいところ。

元治4年庚申

[41] 古浄瑠璃の研究 第3巻 延寶・享保篇 下, 若月保治, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1125537/1/70

「元治四年かのへさる七月七日」

三条院の時代、源頼義らの頃。

[42] >>41 注釈には「元治庚申四年」なるものはなく「長和乙卯四年」しかない、と。

[43] 源頼朝との混同から混入した?

[44] 源頼義の時代のうちでは三条天皇の時代よりは少し早いです。 同じ4年なので原形はこれだった可能性があります。

元治 (文治)

[64] 近代日本文治のことを元治と書いたものがみられます。

[15] いくつか示しますが、この他にも相当数あります。 単発の誤植に留まらず誤った情報が流布していたと推測されます。

[13] 埼玉県誌 上巻, 埼玉県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/946515/1/184

時に元治五年閏四月なり

源平合戦で文治5年の誤り。

[12] 小樽港史 : 附・小樽岩内間九郡史, 高畑宜一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/763030/1/28

元治六年」が。文治6年の誤り。

2箇所あるので単発の誤植ではない誤り。

[14] アーギュメント・セットラー 社会編, 福田東作, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/950482/1/264

元治 (ぐわんぢ) (ねん) 」 に源頼朝が云々。 文治5年の誤り。

[22] 福島県史料集成 第1輯, 福島県史料集成編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2998471/1/261 (要登録) 左

文治五年九月十三日鎌倉の大軍兵大島城に

[28] 国史大系 第9巻 公卿補任前編, 経済雑誌社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/991099/1/282 右上

元治 (元和)

[16] 広島県誌, 自治調査会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1030141/1/108 左下

元治五年七月」に徳川家康婚姻元和の誤り。

[18] 現代展望・郷土誌 昭和10年度版 [神奈川県,北海道,広島県,山口県,福岡県], 帝国聯合通信社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1033874/1/225 右ページ左下

[19] >>16 >>18 ともに淺野長晨の記事。元号を誤った情報が広まっていたことがうかがえる。

[17] 国文鑒 : 教授参考書 2学年用, 垣内松三, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1442052/1/110 (要登録) 右上

熊沢蕃山、「元治五年」生まれ。元和の誤り。

[20] 邑智郡誌, 森脇太一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1684351/1/706 (要登録) 左上

後水尾帝元治五年」。元和の誤り。

[29] 静岡案内, 勝見弥作, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/963694/1/23 左下

メモ

[47] >>45 には「元治四年書写」とあるが、 >>46 だと明らかに「大治四年書写」。 >>45 編集に使った本のの字形が紛らわしかったのか、 編集時の誤記ないし誤植か。