[11] 大靖 y~798 は、 台湾で発生した反乱大靖政権の元号でした。
[13] 明治30(1897)年、 大日本帝国台湾在住漢民族の黄国鎮ら武装集団は、 大日本帝国台湾嘉義東堡を根拠地としました。 黄国鎮は皇帝と称しました。 >>3 この大靖政権は、 元号として大靖を使いました >>2, >>3。
[12] Wikipedia は、 読み方を 「たいせい」 としました >>2。 根拠は不明です。
[32] 大靖ではなく太靖と表記する例がままあります >>4, >>5, >>37。 大と太は歴史的に通用するとはいえ、 当時実際どう扱われていたのか不明です。 「太」と表記するものは記載内容が似ており、同系統の出典に由来するとも思われます。
[14] 元年は、日本明治30(1897)年です。 >>2, >>37, >>6, >>39
[15] Wikipedia は開始を西暦1897年1月としました。 >>2, >>39 大靖政権の開始とする時期と同じであり >>3, >>1, >>18, >>10、 それが根拠と思われます。 皇帝即位と元号制定がその1月だとする書籍があります >>40。
[41] Wikipedia 中文版は西暦1897年としか書きませんでした >>19。
[33]
「
[43] 更に遡ってから勢力を拡大し、 皇帝に即位して建元したとする書籍もあります。 >>41 いったん7月に日本軍に駆逐されて逃亡したのであり >>18、 どの時点で即位・建元したのかは検討が必要でしょう。
[21] 大靖政権が使っていたのは清暦 (農暦) でしょうか、それとも日本の暦 (グレゴリオ暦) でしょうか。 ちょうど年始なので元年がずれ兼ねませんが...
[34] また、6月28日に改元が発出されたとされます >>8。 「大靖元年六月 日」 >>38 または 「大靖元年六月日」 >>8 付文書があるようです。 1月から6月まではまだ建元していなかったのでしょうか。 6月28日が農暦 (明治30(光緒23)年6月28日) かグレゴリオ暦 () かは不明です。
[16] Wikipedia は2年までとし、 終了をとしました。 >>2 大靖政権の終了とする時期と同じであり >>3, >>1, >>18, >>10、 それが根拠と思われます。
[20] 皇帝の黄国鎮が篭城を断念したのがとされます >>3。 それを終了とするものもあります >>39。
[30] 実際元号が使われたのがいつからいつまでかは不明です。 とは日本軍の掃討により政権が支配地域を喪失した日で、 それ以後は根拠地の山中に篭城していたようです >>10。
[22] Wikipedia は大靖政権の標準時を としました >>1。 根拠は不明です。
[23] 台湾だから と機械的に書かれただけとも思われます。 一応既に西部標準時制定 () 後ですが、 この当時の台湾で山賊的な反乱軍にまで近代的標準時制度が浸透していたとは考えにくいです。
[24] Wikipedia は私年号としました >>2, >>3, >>18。 反乱の非正統政権の元号ゆえでしょうか。
[27] Wikipedia は台湾の元号の一覧表の日本統治時代欄に掲載しました。 >>25, >>26
[17] Wikipedia は、 台湾独自の最後の元号としました。 >>2, >>3 しかし、 数え方次第ですが、 天運の方が後ともいえます。