報時

報時

[141] 古来、時刻を人々に伝えるために色々な方法が用いられてきました。 時刻の伝達のことを報時といいます。 時刻を伝達する知らせのことを時報といいます。

報時手法

[155] 時刻を知らせる仕組みには、次のようなものがあります。

[220] 時刻同期も参照。

日本の公共報時機構

[3410] 古くは、城下町の中心にある時刻を観測し、 時鐘午砲ドンといった音波に基づく方法で報時を行っていました。

[3293] 近代的な標準時が導入されると、 天文台などの観測に基づく時刻電信 (有線) や電波で伝達するようになりました。 通信技術の発達により、次第に各地の報時システムや時計標準時と同期されるようになっていきました。

[3189] 現在は、日本標準時NICT により原子時計で管理されており、 標準電波による通報も行われています。 更に、インターネットでも NTP により配信しています。

[3470] 国立天文台も、 NTP により中央標準時を配信しています。

[3190] 歴史的には前身となる様々な政府機関が電信電波による標準時の通報を行ってきました。 これらの変遷は >>3188 に詳しくまとめられています。

報時も参照。

[21]

t
期間
time
時刻
l
場所
type
手段
by
実施者
src
基準
note
注記
t
1878年/明治11年10月16日 >>53 - 1881年/明治14年8月?
l
札幌農学校演武場
type
t
1881年/明治14年8月12日- >>55
time
は毎正時 >>56
l
札幌農学校演武場
type
振り子時計
src
農学校観象台天文観測。一説、明治32年より中央標準時
note
札幌時計台辰鼓楼と共に最古の時計台
t
- 1921年/大正10年 >>17
l
青森市蓮華寺
type
t
1921年/大正10年 - 1942年/昭和17年 >>17
l
青森市青森午砲台 (あおもりごほうだい)
time
正午
type
大砲
by
青森市
t
1648年以前 - >>26
l
盛岡
type
t
江戸初期 - 1607年/慶長12年以後徳川秀忠時代 >>28, >>29, >>33
l
江戸城 >>32
type
太鼓 >>29, >>32, >>33
by
江戸幕府
time
明け六つ, 暮れ六つ >>32
t
1607年/慶長12年以後徳川秀忠時代 - 1626年/寛永3年 >>33
l
江戸城西の丸 >>33
type
by
江戸幕府
time
明け六つ, 暮れ六つ
t
1626年/寛永3年 >>33 - 1872年/明治5年 >>2, >>10
l
江戸城太鼓櫓
type
太鼓
t
1626年/寛永3年 - >>13
l
江戸日本橋本石町3丁目 鐘楼堂
time
明け六つ, 暮れ六つ → 12の全て >>3, >>10
type
by
江戸幕府
src
時計、香盤時計 >>39
t
1725年/享保10年? - >>33
l
江戸花町 (本所入江町) >>28, >>32, >>33 時鐘屋敷
type
note
本所横川
src
時計 >>39
t
1615年/元和元年? - 1670年/寛文10年 >>33
l
江戸西久保八幡山
type
t
1674年/延宝2年 - >>33
l
江戸芝切通し >>28, >>32, >>33
type
src
増上寺の時計、赤坂の鐘の音 >>39
t
江戸初期 - >>10, >>28
l
江戸浅草寺 (弁天山)
type
t
1666年/寛文6年? - >>10, >>28
l
江戸上野山内忍ケ岡名教院 寛永寺鐘撞堂
type
src
尺時計、大時計 >>39
t
江戸時代 >>10, >>28, >>32
l
江戸目白不動新長谷寺 (しんちょうこくじ)
type
t
江戸時代 - 1868年/明治元年 >>33
l
江戸市谷東円寺 (市谷八幡) >>28, >>32, >>33
type
src
上野の鐘の音 >>39
t
江戸時代 >>32
l
江戸赤坂円通寺赤坂田町成満寺 >>33
type
note
1748年/延享5年江戸幕府公認、1781年/天明元年休止、1803年/享和三年休止 >>33
src
市谷の鐘の音 >>39
t
1700年/元禄13年? - >>37
l
江戸四谷天竜寺 >>28, >>32, >>37
type
time
明け六つの30分前 >>33, >>37
src
オランダ製櫓時計 >>33, >>39
t
江戸時代 >>28
l
江戸目黒円通寺
type
t
1743年/寛保3年 - >>33
l
武蔵国下大崎村 >>29 壽昌寺 >>33
type
t
旧暦明治4年/1871年9月9日 (グレゴリオ暦1871年10月22日) - 1922年9月15日 >>1, >>7
time
正午
l
陸軍正午所 (旧本丸跡庭園)
by
兵部省東京鎮台衛戍兵近衛師団 >>2
src
明治5年:陸軍省兵学寮測定 >>10、 その後:東京天文台からの電信
type
大砲
t
1922年9月16日 - 1929年4月30日 >>1, >>7
l
東京市報時所 (旧本丸跡庭園)
by
東京市 >>1, >>7, >>2
type
大砲
time
正午
t
1929年5月1日 >>1, >>7 - 1938年/昭和13年9月 >>13
l
東京市内各所
time
正午
src
電話
type
モーターサイレン
t
寛永年間 >>26
l
時の鐘 (現川越市多賀町)
type
t
1671年/寛文11年 >>26
l
岩槻城大手門付近 (現岩槻市)
type
t
-
l
横浜町会所時計台
type
時計
t
1686年 - >>26
l
小田原
type
t
1634年 - >>26
l
静岡
type
t
1605年 - >>26
l
松坂
type
t
1736年/元文元年 - 1789年/寛政元年 >>30
l
久居陣屋
type
l
久居陣屋
t
1789年/寛政元年 >>30
type
太鼓
t
1798年 - >>30
l
津市久居幸町
type
t
江戸時代 >>27
l
京都六角堂
type
l
京都市高台寺
t
1887年/明治20年-1889年/明治22年の間 - 大正時代 >>40
by
上京区下京区 → 1889年/明治22年京都市発足
type
大砲
t
1634年 - >>26
l
大坂
type
t
江戸時代 >>6
l
釣鐘屋敷 (現大阪市中央区釣鐘町)
time
一刻ごと
type
t
1870年/明治3年 (?) >>7
type
大砲
l
大阪市天保山
by
陸軍
t
1871年/明治4年 (?) - 1922年/大正11年 >>7 or 1924年/大正13年 >>8
l
大阪城 午砲台
type
大砲
by
陸軍
time
1874年/明治7年まで朝昼晩、以後正午 >>8
t
1600年/慶長5年 - >>26
l
和歌山本町京橋御門付近 鐘楼
type
t
1712年/正徳2年 - >>26
l
和歌山岡山 時鐘堂
type
t
- 旧暦明治2年/1869年11月 >>44
l
昌念寺 >>44
by
出石藩
time
2時間毎 >.68
type
t
旧暦明治2年/1869年11月 >>44 - 旧暦明治4年/1871年4月 >>69
by
出石藩
time
1時間毎 >>68
type
太鼓
t
旧暦明治4年/1871年4月 >>69 - 明治14年/1881年 >>68
l
出石城辰鼓楼
by
出石藩
time
1時間毎
type
太鼓
t
明治14年/1881年 - >>68
l
辰鼓楼
type
時計
note
札幌時計台と共に最古の時計台
t
- 1873年/明治6年 >>18
l
新潟市
type
t
1873年/明治6年 - 1919年/大正8年 >>7
l
新潟市寄居砂山 午砲所
type
大砲
time
正午 >>18
t
1919年/大正8年 - 1924年/大正13年 >>7
l
新潟市西船見町
type
大砲
t
1924年/大正13年 - 1943年/昭和18年 >>7
l
新潟市礎町 報時塔
type
汽笛
t
江戸時代 - 明治後期
l
富山城 >>25
type
time
正午
t
1900年/明治33年 - >>24
l
富山市
type
大砲
time
正午
t
1666年 - >>26
l
岡山
type
t
1909年/明治42年1月 - 1922年/大正11年8月15日 >>7
l
岡山市半田山 午砲台 >>16
by
陸軍岡山山砲隊
type
大砲
src
岡山県総合グラウンド付近から手旗信号 >>16
t
1922年/大正11年8月16日 - 1929年/昭和4年3月 >>7
l
岡山市半田山 午砲台 >>16
by
岡山市
type
大砲
src
岡山県総合グラウンド付近から手旗信号 >>16
t
1607年 - >>26
l
高松
type
t
1899年/明治32年1月1日 - >>9
time
正午
type
空砲
by
高松市
l
高松城
t
1888年/明治21年7月22日 - 1888年/明治23年1月14日 >>5, >>22
by
私立号砲会社
l
荒津山光雲神社本殿裏 (現福岡市西公園) >>5, >>22
time
7月31日まで日の出、8月1日から8月途中?まで午前5時、全期間正午 >>22
type
大砲
src
正午福岡電信局による >>22
t
1889年/明治24年6月20日 - 1890年/明治25年3月8日 >>22
by
福岡市
time
正午
type
大砲
l
荒津山光雲神社本殿裏 (現福岡市西公園) >>5, >>22
src
福岡電信局による >>22
t
1890年/明治25年3月9日 - 1896年/明治31年3月22日 >>22
by
福岡市
time
正午
type
大砲
l
洲崎 (すさき) (現福岡市須崎公園) >>5, >>22
src
福岡電信局による >>22
t
1896年/明治31年3月23日 - 1931年/昭和6年3月31日 >>22
by
福岡市
l
波奈 (はな) 旧砲台 (現福岡市荒津山住吉神社) >>5, >>22
time
正午
type
大砲
src
福岡電信局による >>22
t
1606年 - >>26
l
小倉
type
t
1895年/明治28年 - >>15
type
信号旗
time
正午
by
長崎市
t
1903年/明治36年10月5日 - 1941年/昭和16年3月 >>7
l
長崎市風取山 午砲所
by
長崎市 >>15 長崎報時観測所
time
正午 >>15
src
隣接地長崎測候所による >>15
type
大砲
t
1884年/明治17年 - 1943年/昭和18年 >>7
l
熊本城
by
熊本鎮台
t
- 1877年/明治10年 >>12
l
鹿児島市ゴマ焼きの鐘つき堂 (現県民交流センター付近)
note
西南戦争で焼失
type
t
1889年/明治22年 -
l
鹿児島市易居町不断光院
type
time
昼夜を問わず >>12
t
明治45年7月? - 昭和12年 >>12
l
鹿児島市城山
type
大砲
by
鹿児島市
time
正午
src
懐中時計
l
千葉県習志野市東習志野 >>7
note
演習場
type
大砲

[89] 琉球王国については南西諸島の日時

[99] 中央標準時実施時の特別報時は中央標準時

[96] http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1931/pdf/193110.pdf#page=9

1931年の日本の報時機構の状況

メモ

[1] 午砲 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%88%E7%A0%B2

[2] 本初子午線と標準時の制定 ( ( 版)) http://uenishi.on.coocan.jp/m910shigosen.html

[3] ( 版) http://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/download/pdf/leaflet_07.pdf

江戸時代に入り、初めは明け六

つと暮れ六つの2回だけ、日本橋の本石町の鐘が鳴らされましたが、徳川秀忠の頃から12の時(とき、いっと

きは今の約2時間)全部が知らされるようになりました。また初めは本石町だけでしたが、明治4年9月9日か

ら毎日正午に大砲を一発撃って時報を行うようになりました。

明治12年からは日本各地の兵営所在地で午砲が撃たれ、お昼の「ドン」とよばれて親しまれた。

[4] Himuro essay:200007hm.html ( 版) http://homepage2.nifty.com/cat-fish/200007hm.html

一八七一(明治四)年九月九日から、旧本丸で大砲を正午に一発打って市民に時を知らせるよう

になった。同じ方式が各地でも行われ、それを午砲(ドン)と呼んだ。この大砲は今は小金井公園

にある。

[5] 明治時代の時報 | Y氏は暇人 ( 版) http://y-ta.net/zihou/

[22] 福岡市史HP 福岡歴史コラム ( 版) http://www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/column_b11.html

大砲を大坂砲兵工廠(こうしょう)から購入し西公園の山上に設置し、砲手は黒田藩砲術家だった末永巴を雇い、21年7月22日より日の出と正午の2回発砲することにした。正午は福岡電信局が出すわが国の標準時を用いたが、日の出は季節によって変わるということで8月1日より払暁(ふつぎょう)の発砲は午前5時に決められた。

[7] 午砲台 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%88%E7%A0%B2%E5%8F%B0

[8] 大阪市イベント・観光 青銅製大砲(お城のドン) 1門 附 砲架1台 ( 版) http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009195.html

大阪城小天守台にある幕末の青銅製大砲である。文久3年(1863)に美作津山藩の鋳工百済清次郎が幕府の命により製作し、天保山砲台の備砲であったと伝えられる。明治になって大阪城へ運ばれ、陸軍により明治3年(1870)から同7年(1874)まで朝昼晩の時報として、それ以降は正午の時報として号砲を轟かせた。「お城のドン」として市民に親しまれていたが、大正13年(1924)に中止された。

[9] 明治時代の高松の午砲について | レファレンス協同データベース (国立国会図書館 著, 版) http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000126593

香川県告示 第二号

明治三十二年一月一日ヨリ毎日

高松市旧城内ニ於テ午砲発放ノ件

同市長ヨリ届出ニ付之ヲ許可セリ

明治三十二年一月一日

香川県知事 吉原三郎

[11] ひさしぶりに目に入った「午砲」:京男雑記帳:So-netブログ ( 版) http://kyo-otoko.blog.so-net.ne.jp/2015-10-09-2

[12] 城山の午砲(どん): 鹿児島ぶら歩き ( 版) http://burakago.seesaa.net/article/407860418.html

正午の時報を告げる「午砲(どん)」が昭和12年まであったそうです。

据えられた午砲は、ずんぐり型の山砲であったそうです。

正午前になると、市役所の小使いさんが懐中時計を睨みながらマッチで点火。

その瞬間、“ドーン”という轟音とともに、大砲に詰めてあった紙の玉が破裂、新聞紙の紙吹雪が舞うものでした。

午砲は城山の名物となり、広場は「ドン広場」と呼ばれるようになったそうです。

[13] 江戸城 本丸御殿跡の午砲: 東京雑写 ( 版) http://zassha.seesaa.net/article/374289721.html

[14] 岡山市半田山午砲(ごほう)台設置式の見学会 岡山理科大学附属高等学校 ( 版) http://www.ridaifu.net/news/fuzoku_topics1259726220

[15] ENJOY SURF「長崎ぶらり散歩道」サーフィン 波乗り 長崎 九州 金持ち ( 版) http://www.geocities.jp/southsweel/DON.html

歴史をさかのぼって明治11年、この風取山に国費によって初の地方測候所が設置されたそうです。

そして、明治36(1903)年、長崎市の要請で測候所内に午砲台が設置されたそうです。

それから、この測候所から正午をしらせる午砲が鳴り出した訳です。

午砲を鳴らすのは市役所の職員さん達だったらしく。

うちの母親の実家が、この山の近くだったこともあり、毎日、午砲を鳴らすのを見に行ってたそうです。

昼近くに、山の頂上で待っていると、市の職員の方が、火薬を持って頂上まで毎日、登ってくるそうです。

当時、正午の時報は、東京にある天文台から電話で測候所に伝えられていたそうです。

[16] 【岡山】全国唯一の遺構に「午砲」、高校生が復元 岡山市北区津島東の半田山[09/12/10] ( 版) http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1260690672/

岡山市北区津島東の半田山にあった、明治時代から昭和初期にかけて

市民に空砲を撃って正午を知らせた「半田山午砲」が岡山理科大付属高

(岡山市北区理大町)の生徒らによって復元され、遺構の台の上に設置された。

同校によると、午砲は明治政府が近代的な国家をつくるため、時間を管理しようと各地に設置。

現在、午砲は国内に7か所にあったと確認されているが、設置していた台などの遺構があるのは半田山だけだという。

同校によると、午砲は岡山に駐留していた陸軍第17師団が設置、1909~29年に使われた。

現在の岡山県総合グラウンド付近から手旗信号で正午の合図を送り、空砲を撃っていたという。

[17] 午砲 写真&雑記 -日々の出来事など-/ウェブリブログ ( 版) http://ben-photos.at.webry.info/200912/article_6.html

青森市桂木の公園内にある午砲台、戦時の金属回収令のために当時のものは無く、これは復元されたものです。

正午に砲声を鳴らし、昼時を知らせていたといいます。

[18] 新潟市下町案内板.ドン山 ( 版) http://www.najiranet.com/1.shimo.html.f/shimo.donyama.html

江戸時代、新潟町民に時刻を知らせていた時の鐘にかわり、

明治六年(1873)大砲により正午を知らせる事となり、

寄居の砂山に午砲所がつくられたそうです。

ここでは大正八年に旧制新潟高等学校の校舎が造られるまでの間、

午砲(ドンという音)により正午を告げていましたが、

西船見町の砂山(現二葉中学の近くの場所)に移動した後、

大正十三年(1924)に午砲が廃止されるまで、

午砲所のある砂山は「ドン山」と呼ばれ、長年新潟の名所の一つとされ、

親しまれたとの事です。

現在は午砲所と大砲が再現されているのでした。

[19] 午砲台(ごほうだい)公園|青森県観光情報サイト アプティネット ( 版) http://www.aptinet.jp/Detail_display_00001404.html

戦前、市民に正午を知らせた午砲台は、ドン山として親しまれていました。大正10年、午砲台は旧国鉄操車場南に設置されましたが、昭和17年金属回収令により、午砲は強制回収され、「ドン山」と市民から親しまれてきた午砲台は昭和23年に解体されました。

[20] 徳島市:徳島城博物館周辺マップ 26.午砲(ドン)跡 ( 版) http://www.city.tokushima.tokushima.jp/johaku/syuhen/26.html

[6] 大砲・お城のドン:地元大阪人がガイドする素顔の大阪城 ( 版) http://fun07.sakura.ne.jp/don.html

江戸時代、大坂では現・中央区釣鐘町にあった釣鐘屋敷というところで、一刻(2時間)ごとに鐘を鳴らしたといいます。

大坂の時刻は、北船場を中心として同心円状に音速で拡がっていったのです。(ということは、場所によって時刻が違う・・・!)

明治になり、時報は鐘から大坂城を占有した新政府による大砲に代わりました。

当初は1日に3回、空砲を撃ったのですが、1874(明治7)年からは正午だけになり、それを「お城のドン」と呼ぶようになったのです。

天守閣入り口横にあるのはその大砲で、時報は東に向けて撃っていました。

[10] ( 版) http://www.postalmuseum.jp/publication/research/docs/research_04_09.pdf

江戸時代に入り、初めは明け六つと暮れ六つの2回だけ、日本橋の本石町

の鐘が鳴らされましたが、徳川秀忠の頃から12の時(とき、いっときは今の約2時間)全部が

知らされるようになりました。また初めは本石町だけでしたが、その後浅草寺、上野、目白不

動など8箇所で鐘が鳴らされるようになりました。明治になると、明治4年9月9日から毎日

正午に大砲を一発撃って報時を行うようになりました。その報時のもとになる時刻の測定と決

定がどこで行われたかははっきりしないのですが、明治5年には陸軍省兵学寮で行われていた

とあります。この年に、宮城内の太鼓櫓で鳴らされていた時報太鼓は廃止されました。

[23] 鹿児島市内・・・27 | 自然堂~幕末史蹟訪問~ - 楽天ブログ ( 版) http://plaza.rakuten.co.jp/ryo33714/diary/200811090006/

当時は市役所の職員が時計とにらめっこしながら、正午キッカリに点火、その瞬間「ドーン」という轟音とともに、紙の弾が破裂、あたり一面に紙吹雪が舞い散りました。

[24] (3)時の記念日 正午のドン|北日本新聞ウェブ[webun ウェブン] ( 版) http://webun.jp/item/7190791

富山でも1900年からそれまでの鐘に替(か)えて、正午の時報に使われるようになりました。

[25] 富山オフィスBLOG » 時の記念日の〝ドン〟 ( 版) http://blog.n-fukushi.ac.jp/bc-toyama/2013/06/tokinokinenbi-don/

正午を知らせる時報の花火のことで、打ち上げは江戸から明治後期までの約240年間、富山城で正午に鳴らされていた時鐘が起源です。

そして現在は時の記念日に年一回打ち上げられており、今年は58回目になります。

一発の花火ですが、その音はかなり広範囲に鳴り響き、多くの市民に時を知らせています。

[26] 川越の時の鐘 ( 版) http://www.maroon.dti.ne.jp/kwg1840/toki.html

[27] ( 版) http://www.kyoto-kyoiku.com/hiroba2/hiroba163/hiroba163hayakawa.htm

「当時使われていたのは、ろうこく漏刻と呼ばれた水時計でした。それは日本書紀という本に、日本では斉明天皇六年(六六〇)五月に中大兄皇子(後の天智天皇)が初めて漏刻を作り時を知らせたと書かれていることから、長岡京時代も水時計が使われていたと考えています。ですが、残念なことに水時計があった場所が、長岡京ではどこであったのかは判りません」

また、昭和五十六(一九八一)年の九月から十二月にかけて奈良国立文化財研究所が行ったあすか飛鳥みずおち水落遺跡の発掘調査により、この水落遺跡が六六〇年に日本で初めて作られた漏刻の遺跡である可能性がとても高くなりました。

[28] 日本の鐘 梵鐘 ( 版) http://www.carillon.co.jp/ueno_tokinokane.htm

時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永3年(1626年)になって、 日本橋石町3丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。 元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内・浅草寺のほか、 本所横川・芝切通し・市谷八幡・目白不動・目黒円通寺・四谷天竜寺などにも置かれた。

[29] 時の鐘 ( 版) http://www.edo.net/edo/edotx/jikan/jikan/toki01/toki02.html

本石町に住んでいた時の鐘役「辻 源七」の書き上げによれば、

はじめ江戸城内で太鼓を鳴らして時刻を報じたのだが、江戸市中に

その音が届かず、

[30] 津市 - 生涯学習課-歴史散歩(16) 子午(とき)の鐘 (Tsu City Office 著, 版) http://www.info.city.tsu.mie.jp/modules/dept1170/article.php?articleid=178

この鐘は、江戸時代の元文元(1736)年に久居城下に時を知らせるために作られた。作者は、津藩の鋳物師として有名な辻種茂である。

もともと久居陣屋の範囲内にあったこの鐘は、寛政元(1789)年に現在の久居幸町に移され、火事の警報に使用された。しかし、時を知らせる陣屋内の太鼓が遠くまで聞こえないこともあり、町の人たちは、奉行所へ鐘の復活を願い出、そのかいあって8年後には再び時を知らせる鐘として使われるようになった。

[31] すみだあれこれ/すみだの大名屋敷/時の鐘 ( 版) http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/guide/kane2.html

仙台藩主松平陸奥守(仙台伊達氏のこと)が幕府から日光霊廟の建築を命ぜられ、材木の貯蔵地であるこのあたりに、作業場を作りました。

その時に「時の鐘」を鋳造し、たくさんの職人さんに時刻を知らせたのです。

工事終了後は民間に下げ渡したそうです。1600年代の中頃のことです。

鐘撞料の徴収範囲はというと、東は天神川、西は隅田川、南は深川南向う六ッ目通り、そして北は源兵衛掘り(北十間川)まででした。

[32] すみだあれこれ/すみだの大名屋敷/時の鐘 ( 版) http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/guide/kane2.html

初めは江戸城中において明け六つと暮れ六つ(朝六時と夕方六時)に太鼓を鳴らし時を告げたものです。

嘉永三年(1629年)に、日本橋石町に二百坪を設け太鼓の代わりに鐘を撞くようになり、後に計九ヵ所の鐘つき堂が設けられ、江戸中に響くようになりました。

江戸の時の鐘は以下の九つ。

石町(日本橋)

入江町(本所)

上野

浅草

芝切通し

市谷八幡

成満寺(赤坂田町)

目白不動新長谷寺

天竜寺(新宿)

朝晩の二度の鐘撞きでしたが、後に一時(いっとき 2時間のこと)づつ撞くようになり、計12度となりました。

[33] 中央区郷土史同好会 第44回 ( 版) http://homepage2.nifty.com/makibuchi-2/kyodoshi/44kai.html

[34] 江戸時代の人達は時間を知るのに鐘の音を聴いていたのですよね... - Yahoo!知恵袋 ( 版) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1148115451

鐘撞堂には堂守の監督下、堂によって4~8人の鐘撞き役が昼夜交代で勤務していました。時刻は線香の燃える長さで時間を計ったといい、線香がタイマーとして使用されていました

[35] 江戸時代の人達は時間を知るのに鐘の音を聴いていたのですよね... - Yahoo!知恵袋 ( 版) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1148115451

時の鐘はリレー方式で伝えられ、大元の鐘撞堂の捨て鐘の音を聞いて、次の鐘撞堂が打ち始めたといいます。

[36] 江戸時代お寺の時刻通知の鐘について。 - 歴史 | 教えて!goo ( 版) http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8047815.html

寺院は?

他にも回答がありますが、多くは「定香盤」で時刻を計っていました。

お香の燃え方(どこまで燃えた?)で、経過時間を計っていました。

お寺としては、お香の購入代金+人件費として「近隣住民から、4文前後を徴収」していた様です。

[37] 岡本綺堂の東京を歩く(時の鐘散歩) ( 版) http://www.tokyo-kurenaidan.com/okamoto-tokinokane1.htm

時の鐘の時間を計るには、大抵水時計を用いていましたが

[38] ( 版) http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho223.htm

従来江戸の時の鐘については『江戸名所図会』などの記述をもとに本石町、上野寛永寺、市ヶ谷八幡(東円寺)、芝切通し(西久保八幡・増上寺)、赤坂(円通寺・成満寺)、目白不動尊、浅草寺、本所横堀、四谷天龍寺の九ヶ所に存在したという説、最近ではこれら九ヶ所に下大崎村寿昌寺を加えた十ヶ所説などがあった。しかし江戸の時の鐘が、時期によってその設置場所や数が異なること、時の鐘が設置された可能性のある場所は十五ヶ所にも上り、設置、中絶、再興、廃絶の時期の検討を通して江戸の時の鐘は多い時で十ヶ所ないし十一ヶ所が同時期に存在したことが明らかとなる。

[39] 時の鐘に時計はあった。 : 気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録 (wheatbaku 著, 版) http://wheatbaku.exblog.jp/23360962/

[40] レファレンス回答 ( 版) https://www.kyotocitylib.jp/reference/lominzokukaitou.html

明治20年(1887)6月18日の日出新聞の記事が引用

されています。京都市街には正午号砲がないために時刻が一定せず,商工業上は

もちろんその他のことにおいても不便である,号砲を設置・発射して市中の時刻を一

定にするよう上京下京両区長より京都府知事に伺いが出されたとあります。

②『目で見る京都市の100年』(白木正俊監修 郷土出版社) p29 には,“高台寺の

時報砲台”として写真が掲載されています。明治22年(1889)京都市誕生の際に,

高等小学校,防火施設などとともに,上京下京両区役所から市が引き継ぎ,その後

明治天皇の大葬が行われた大正元年(1912)には,午前11時にこの号砲が響き,

市内のあらゆる場所で遥拝の儀が行われたとあります。

しかし大正初期に,高台寺の建物に影響するといった理由で廃止

[41] 日本標準時(JST)グループ ( 版) http://jjy.nict.go.jp/JJY_151202.html

はがね山標準電波送信所(JJY:60 kHz、佐賀県と福岡県の県境)については、お陰さまで送信設備等更新に伴う停波は終了しました。ご協力をありがとうございました。

おおたかどや山標準電波送信所 (JJY:40 kHz、福島県)

平成28年3月19日(土)までの 8:30~18:30内の必要な時間

(当初の予定は、平成28年2月29日(月)まで)

[42] 京都駅開業 : 京都停車場 ひっちょのステンショと呼ばれた駅 ( 版) http://kyototeisyaba-hittyonosutensyo-m1025.blog.jp/archives/1007917832.html

中央の時計は直径約2mの大きさで市中に時を知らせていたそうです。

[45] ひろゆき「ニコニコの時報ウザイ。作業を中断させられる割に、情報の質が低い」 | ニュース2ちゃんねる (visca020 著, 版) http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-539.html

[51] ニコニコの正確でないし作業を妨害するだけでうざい時報、 時刻を広く正確に知らせようと努力してきた人々の歴史に対する冒涜だよね。。。

[46] 時報 - Wikipedia ( ( 版)) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%A0%B1

[47] 江戸の刻(とき) ( ( 版)) http://www.viva-edo.com/toki.html

[48] 江戸時代の時刻制度について教えてほしい。1.八つ時、八つ過ぎの八の数字はどこから来ているのか。六つ時... | レファレンス協同データベース ( (国立国会図書館 著, 版)) http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000025881

[49] ( 版) http://hashy.jp/slide/20081101wankuma_wadokei.pdf

[50] 時の鐘 ( ( 版)) http://www.tsm.toyama.toyama.jp/tao/aroom/edo/toki/ji-kane.htm

[52] 時報 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%A0%B1

時報は毎時0分に発せられたが、10時と13時が主である。グリニッジからは専用線が用意されたが、市外へは一般の通信線を使ったため、時報の前後2–3分間は通常の電信が停止された。

日本の郵便局では、日曜日、祭日を除く毎日、午前11時57分になると全国の一、二等局および特定三等局に通じる電信線は、通信が中止され、東京市の中央電信局の自動報時機に接続され、各郵便局の電鈴が鳴り始め、12時(正午)に東京天文台で自動報時機に通じる電流が断たれると電鈴が鳴り終る。この瞬間が正午であり、郵便局の電信係に行けばこの電鈴を聞くことができた。

日本の鉄道では、東京天文台から東京中央電信局内電信試験係経由で鉄道省東京通信所に通じて、午前11時57分になると全国の省線の各駅に通じる電線は直通または中継で鉄道省東京通信所につなげられた。このとき各駅の電鈴が鳴り始め、正午に東京天文台で電流が断たれると電鈴が鳴り止む。台湾では、内地とは別に台北測候所で時の観測が行われ、ここから全島の郵便局および停車場に報時された。

[62] タイム・ボール ( 版) http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005676.pdf

[70] お江戸の赤坂と六本木 : 歴史と素適なおつきあい (gannyan1953 著, 版) http://rekisisuki.exblog.jp/15509550/

江戸末期には江戸城内で本丸西丸に土圭の間があり、大きな時計があった。城中の諸行事や城門の開閉は太鼓の時報により行われた。幕府の武士の登城は朝四つ時だったが時を司る坊主はその時ごとに只今は何時と各部屋に触れまわったという。

江戸市中の鐘は江戸本石町3丁目に時の太鼓が作られ、後に鐘に取り替えられた。家康の時代には明け暮れの六つ時だけだったが、秀忠の時代に明け暮れだけでは役に立たないということで、12時を知らせるようになり、太鼓から鐘にかわった。

[71] 百年を迎えた東京駅と、ウオルサムの鉄道時計 ( 版) http://www.gressive.jp/satellite_site/waltham/topics/141219/

鉄道作業局は、公式の鉄道時計採用にあたり、精度を第1の条件として、堅牢性、携帯性、表示の見易さなど鉄道時計として備えるべきあらゆる条件を検討した結果 1897年(明治30年)に「ウオルサム」を鉄道作業局の公式レイルウエイ・ウオッチとして採用したのです。

[72] 博品館勧工場 - 明治の時計塔(東京) ( 版) http://www.kodokei.com/ot_014_f.html

明治32年(1899)に開業した博品館勧工場は、明治時代に東京市内に在った著名な勧工場(※1)の一つ。 新橋橋際角地に建ち、煉瓦造り3階建の正面に向かって屋上左端にモダンなモスク風の鐘塔付きの時計塔が設置されていた。

[73] ( 版) http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0402lobby08list.pdf

毎日定時に運行する鉄道に乗るためには、人々が正確な時刻を知ることが必要です。正

確な定時の時計が普及していない時代には寺院の鐘を利用しようという案も検討されました。

[74] ( 版) http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0402lobby08list.pdf

増上寺大鐘を愛宕山上に移し正刻打報の件照会

明治5年(1872)2月18日 「官省申達往復留 上 常務課」★

時刻表に基づいて鉄道を運行し、それにあわせて乗客が行動するためには、人々が正しい

時刻を知る必要がありました。

そこで、新橋からほど近い増上寺の大鐘を高台の愛宕山上に移し、時鐘としたらどうかと

いう案が太政官から出されました。

照会を受けた東京府は増上寺に問い合わせましたが、徳川将軍家より祖先追福のために寄

付された由緒ある鐘であり、重さ四千貫にのぼるため、移転は困難であるとして断ってい

ます。 請求番号605.D4.05上

[75] レプソルド子午儀、国立天文台初の国の重要文化財に指定 ( 版) http://www.nao.ac.jp/releaselist/archive/20110615-repsold/

レプソルド子午儀は、1880年(明治13年)ドイツのA. REPSOLD & SÖHNE社で製作され1881年(明治14年)に当時の価格15,200マルクで明治政府の海軍省海軍観象台が購入した近代天文学黎明期の有効口径135mm、焦点距離2120mmの本格的な観測装置です。当時、海軍観象台は麻布飯倉の地にあり、1888年(明治21年)に東京大学天象台、海軍観象台、内務省地理局の3者が統合され東京大学東京天文台が発足した際、海軍観象台があった地に置かれ、レプソルド子午儀は東京天文台に移管されました。

子午儀は天体が子午線上を通過する時刻を精密に観測することによって、その地の経度を決定する、あるいは時刻を決める観測に使われるものです。レプソルド子午儀は、麻布時代は主に時刻の決定に使用され、この子午儀の観測によって求められた時刻によって旧江戸城天守閣の跡地で正午の号砲が撃たれていた歴史的な観測装置です。

[76] 第54号/時を見つめて ( 版) http://ichimon.main.jp/no54/54_010.htm

[77] 國史館臺灣文獻館-電子報 ( 版) http://w3.th.gov.tw/www/epaper/view2.php?ID=44&AID=575

起初,為了提供社會大眾校正時間,1895年6月27日起,由陸軍砲兵每日正午12時在臺北城西門旁胸壁上發放號砲報時,稱午砲,臺中、臺南一體實施,由當地駐紮陸軍砲兵發砲。(圖2、3、4)1904年(明治37年)6月總督府通信局在臺北、臺中、臺南郵便電信局裝置自動報時器,連通全島各電信線路,供民眾對時。(註1)1913年(大正2年)天測室竣工,使用4.5吋望遠鏡作恆星測定標準時間,提供船隻航海時辰儀校正時間,同時規定各火車站、郵便電信局等單位,每日午前3分鐘以電話或電報向臺北測候所對時,建立全臺報時系統,「午砲」遂於1921年(大正10年)停止發放。

[78] ( 版) http://www.sci-museum.jp/files/pdf/study/universe/2014/05/201405_04-09.pdf

奈良・東大寺のお水取りの際も、香時計を使ってそれぞれの仏事をする時刻を知っ

ていたといいます。その後も、江戸時代でもお寺を中心に広く使われていました。

香時計はお香を敷く溝を長くすれば半日くらいは使うことができますが、もっ

と短い時間を測る際には仏壇にお供えするような線香も使われていました。

[79] ( 版) http://www.postalmuseum.jp/publication/research/docs/research_04_08.pdf

電信による報時は、明治5年に初めて工部省が地方局に正午の時報を送り、その後は明治8年

3月から工部省本省と築地局間で正午報時が行われたようである。電信による全国への正午報は

東京の正午を基準にして明治11年から実施された。これを定めたのが明治11年3月「正午報辰

規則」である。これによると、明治11年4月1日から東京の正午時午前辰に基づき各地の電信分

局へ同時に通報することとしている。この時に使われたのが田中久重の報時器と考えられる。

[80] 八角時計物語 - 日本の近代化を切り開いた八角時計 ( 版) http://www.kodokei.com/c2_024_2.html

このように郵便と時間は創業当初より切っても切れない関係にあり、それゆえ駅逓寮や郵便役所、 取扱所(明治8年以降、郵便局と改称)には時計が必要でした。 明治7年4月に竣工した 東京日本橋四日市、駅逓寮は、 玄関の正面上壁にファーブルブラント商館輸入の大時計が掲げられ東京名所にもなりました。 また同年6月に駅逓寮は全国の郵便役所や取扱所1000か所に初めて八角時計を一個ずつ配備しています。

まだ時計が珍しかった時代、所によっては時計と言えば郵便取扱所にしかない時代がしばらく続き、 人々の生活と郵便局の時計が深い関わり合いを持つことになったのです。

この八角時計は明治7年駅逓寮竣工以来、御用をつとめていた東京神田旅籠町の京屋時計店水野伊和造が 横浜チップマン商館から輸入した米国セス・トーマス会社の時計類を駅逓寮へ納めたものでした。 明治18年6月になると郵便物逓送時間を査定するため逓送人に懐中時計(逓送時計)を携帯させることになり、 懐中時計も配備されていきます。

しかし明治19年7月の標準時間が制度化(21年施行)されるまでは、まだ地方時の時代であり、 時刻を調整するには日時計に頼っていたのです。 標準時が制定されてからは電信で時計の時報あわせをしていたのですがまだまだすべての局にいきわたっていたわけでなく、 まだまだ日時計は郵便局になくてはならない道具でした。

[81] 時計の雑学 ( 版) http://www.geocities.jp/afi_651/japantime3.html

古代では、時間を管理することは王権の一つと考えられ、漏刻を置き、多数の役人を付けて時間を測り、鐘をついて時を知らしめておりました。 都では、その鐘の音が時間の基準となり、それを基に時香盤に点火して時間を測っていたのではないかと思われます。 時香盤とは右図のように香を線状に置いて、その燃える速さから時間を把握する道具です。

では、都の鐘が聞こえない地方では、どうしていたのでしょうか?

はっきりとしたことはわかりませんが、地方では独自に日時計を使って日の出、日の入りと南中を見、また曇りや雨の日には時香盤を使って時間を測り、寺等の鐘を鳴らしていたようです。

[82] 夏目漱石 坊っちゃん ( 版) http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/752_14964.html

停車場の時計を見るともう五分で発車だ。

僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、自分の金側きんがわを出して、二分ほどちがってると云いながら、

[83] 秋葉原の時計台(京屋時計店) : 野菊のハッカー (SIGNAL-9 著, 版) http://signal9.exblog.jp/6646918/

この京屋時計店の時計台がいつ建てられたものなのか、平野は「設置年代は詳らかではないが…明治九年春頃には、すでに建設されていたのではないか」と推定している。『名所図会』にいわく「蓋し東京にて屋上に大時計を設けたるは本店を創始とするよし」、東京の時計台の元祖のひとつといってもいいようだ。

[84] 「ナガジン」発見!長崎の歩き方 ( 版) http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0908/index2.html

長崎では、「鐘の辻」と呼ばれる報事所が寛文5年(1665)に島原町一ノ掘に設置され、朝と夕方に鐘を打って時を知らせた(現・万才町NTT付近。その後、今籠町 現・鍛冶屋町崇福寺通り、豊後町 現・桜町に移転)。さらに明治になると正午の時報として大砲の空砲が「ドン」となるように。長崎では、明治36年(1903)、東山手エリアの高台、小田の原(現・どんの山)に長崎測候所が設置され、正午の観測の合図として空砲によって時刻を知らせた。

[85] 「ナガジン」発見!長崎の歩き方 ( 版) http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0908/index2.html

明治時代を写した古写真に残された、時計台。これは、現在の浜市アーケードの一角にあった「佐々木時計店」の時計台。左後方には、長崎で初めて大時計が掲げられた「被昇天のサンタ・マリア教会」跡地に建つ県庁がある。

佐々木時計の時計台が時代を象徴している。『華の長崎』より。

写真提供 ブライアン・バークガフニ氏

この時計台は、当時の人々にとって、時を知らせてくれる大事な存在だったに違いない。実は近年まで、浜市アーケードの中にも時計台が存在した。明治8年創業の老舗、岡本時計店の屋上の時計台だ。昭和44年、ビル建設の際に設置されたが、全覆いのアーケード仕様となってからは長い期間、通りを行く人々の目に触れることができなくなっていた。近年、ついに故障のため撤去。時計台も解体されたという。刻々と流れる長崎の時を刻み続けてきた時計台もこれで姿を消してしまった。

[86] 石城,お台場,そしてドン(11) - 福岡博多の昔のお話 (くま(福岡産) 著, 版) http://fukuhakusekijou.blog.fc2.com/blog-entry-28.html

現在分かっている範囲での福岡市に於ける時報の変遷を簡単に記載すると以下のようになります。

■江戸時代

・寛文4年 時号鐘(設置場所:福岡城内。直方市西徳寺に現存,福岡県指定文化財)

・寛文11年 時号鐘(設置場所:福岡城内)

(・御時太鼓)

■明治時代~

・年不詳 号砲(県庁出仕合図用,発射場所:福岡城内?)

・明治4年10月19日~明治5年2月 号砲(県庁出仕合図用,発射場所:福岡城内)

・明治12年~明治17年 時号鐘(設置場所不明)

・明治21年7月22日~明治25年 号砲(青銅砲,発射場所:荒津山(荒戸山)・西公園)

・明治25年~明治31年 号砲(青銅砲,明治30年度に鋼鉄砲へ,発射場所:洲崎(須崎)旧台場)

・明治31年~昭和6年 号砲(鋼鉄砲,明治42年度,大正6年度に交換,発射場所:波奈砲台跡,最終砲が福岡市博物館に現存)

・昭和6年~ モーターサイレン(設置場所:天神町福岡市役所楼上)

[87] 石城,お台場,そしてドン(12) - 福岡博多の昔のお話 (くま(福岡産) 著, 版) http://fukuhakusekijou.blog.fc2.com/blog-entry-29.html

久留米市では,当初時号鐘が鳴らされ,後年号砲が打たれていたようです

[88] 時の鐘 | 沖縄の風景 ( 版) http://coralway.jugem.jp/?eid=2788

国場川対岸の万福寺が明け六つの鐘を打ち始めましたので、かねてからの懸案事項を解決すべく、急遽、そちらにバイクを走らせたのでした。

懸案事項とは、万福寺の鐘を打つのは機械か坊さんかというもの(笑)。

坊さんでした。

何回打つのか数えたことはありませんが、どうしてあんなに等間隔で打てるのかって疑問も同時に解決し、たいへん結構なことです。

つまり、坊さんは

鐘を打つ→お経を唱えながら鐘を一周する→鐘を打つ

を繰り返してるのでした。

[101] ( 版) http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/ras/04_publications/ria_ja/27_05.pdf

家康の時代には、鐘は一日三回、明け六つ、正午、暮れ六つに時を知らせていた。

秀忠時代になると、刻ごとに「五つ、四つ、九つ、八つ、七つ等鐘を打って報らせる」ように

なった(山口 1942: 86-87)。しかも、この人為的に報知される時刻は、都市のみならず農村に

おいても普及していた。とくに 17世紀中頃以降は寺院の鐘が急速に普及したといわれている。

全国の村の数五万に対して、鐘の数は三万から五万という推定がある(角山 1984: 66)。坪井によると、慶長末期ごろ、17世紀初めまでに存在した梵鐘のうち、確認できるのは 1085で、

北は青森から、南は九州・沖縄に分布していたという(坪井 1979)3)。沖縄においても明治期

には梵鐘で時刻を知らせる習慣があったと思われる。

[102] 山陰中央新報 - <17>城下に時知らせた太鼓 (XOOPS 著, 版) http://www.sanin-chuo.co.jp/shashin/modules/news/article.php?storyid=524861237

「刻(とき)の太鼓」。松江城の天守には、そう名付けられた太鼓がある。渦巻きのような「巴(ともえ)」の模様が描かれた面の直径は110センチ、胴の幅は95センチ。城内に時刻を知らせるために打たれていたという。

説明文によると、太鼓は松江城二ノ丸の太鼓櫓(やぐら)に置かれ、「毎日登城の時刻を知らせ、非常呼集のときにも使われた」。

江戸時代の時刻は、日の出~日没を昼、日没~日の出を夜とし、それぞれを6等分する不定時法で決められ、1933(昭和8)年発行の「郷土資料島根叢書」には、太鼓櫓の「巨大なる兵鼓」を「時打の番人」が打ち鳴らし、城下に時を知らせていたとある。

「刻の太鼓」が置かれていた太鼓櫓。10年前に復元された=松江市殿町、松江城

その後、明治維新で松江城が廃城になると、有志が太鼓を買い取り、阿羅波比(あらわい)神社(松江市外中原町)に寄贈。現代に受け継がれた。

[103] 亀城公園 東櫓(ひがしやぐら) 茨城県土浦市 - 墳丘からの眺め ( 版) http://massneko.hatenablog.com/entry/2015/06/24/000000

櫓門は明暦2(1656)年に改築されたと伝えられ、本丸にある江戸時代の櫓門としては関東地方で唯一現存するものです。階上に太鼓を置き、時刻を知らせていたことから「太鼓櫓」とも呼ばれていました。

[104] 石垣の美で名高い 丸亀城へ 古寺とお城の旅日記Ⅱ/ウェブリブログ ( 版) http://30047809.at.webry.info/201209/article_9.html

その二の門をくぐると大手一の門(太鼓門)が

丸亀藩時代、楼上に太鼓を置き、城下に時刻を告げたため。太鼓門の名があります。

[105] SLやまぐち号で列車の旅!津和野の見どころ、観光スポット5選 | RETRIP ( 版) https://retrip.jp/articles/12223/

津和野城の城山の一角にあるので、江戸時代に時刻を知らせる太鼓が響き渡ることで、太鼓台。

ただの稲荷じゃない、日本で唯一の「稲成」を使う神社です。

[106] 首里城 (渡名喜 著, 版) http://kanko.okinawa.doyu.jp/feature/1164-2010-05-29-04-58-06.html

瑞泉門の次にあるのが漏刻門(ちこくもん)。王朝時代は時刻を告げる場所でした。晴天時には近くにある日時計で、雨天時には門内にある水時計で時刻を測り、太鼓で時刻を知らせました。

[107] ご祭神・ご由緒 | 美保神社 | えびす様の総本宮 | 島根県松江市美保関町 (美保神社 著, 版) http://www.mihojinja.or.jp/yuisho/

846点の奉納鳴物のなかには、日本最古のオルゴールやアコーディオン、鳥取城で登城の時を告げていた直径157cmにもなる大鼕、島原の乱で戦陣に出されたと伝わる陣太鼓、初代荻江露友が所有していた三味線など名器や珍品も数多く含まれております。また、本殿以下さまざまなものを焼失した元亀年間(1570~1573)の兵火の難を逃れた太鼓も現存し、その当時より鳴物奉納の信仰があったことがうかがえます。

[108] かつて使われていた時計!沖縄県那覇市の首里城にある「日影台」とは - Find Travel (Find Travel(ファインドトラベル) 著, 版) http://find-travel.jp/article/10588

1739年に日影台を設置し、より正確な時刻を計ることにし、1879年の廃藩置県まで使われていました。

[109] ( 版) http://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/kenshin/vol65_bessatsu_p379.pdf

沖縄気象台業務履歴

1901(明治34). 8. 6 震災予防調査会から電話器 1組配布、正午時報受信開始

[110] ( 版) http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1912/pdf/191207.pdf

[111] >>110 東京市午砲の誤差の記録。

[112] 横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)|横須賀市 (横須賀市 著, 版) https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0130/seitetsuzyo/main.html

フランス人により労働管理がされていた横須賀製鉄所では、仕事の始まりも終わりも西洋式の時計で行われ、労働時間は午前6時30分から午後5時30分までと決められていました。江戸時代の日本でも和時計がありましたが、季節で時間の長さが変わってしまい、地域も限定されていたため、広域での共通時間を定めることはありませんでした。

横須賀製鉄所では製綱所(船に使うロープを製造する工場)の上に時計台を建設して、この時計を所内での標準時間として、15分遅れで出勤すると欠勤扱いにされてしまいました。西洋式の時間管理の普及を図るためです。

また、これとともに、西洋式の曜日制度も採用され、日曜日を休日することにしました。更に労働者への給与は、当時では珍しい月給制度を採用するなど、横須賀製鉄所では江戸時代は大きく違った労働管理や時間管理が行われていました。

[113] 2013 横浜わが街シリーズ: No.375 1月9日(水)残した大正の財産 ( 版) http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/01/no919.html

居留地の整備が進む中、明治6年から7年にかけて現在の場所に横浜町内の寄合所として積立金を使って時計台と集会所が完成しました。

[115] 横浜市開港記念会館「時計塔にのぼろう」(横浜市) - かながわ いーとこ ( 版) http://blog.goo.ne.jp/2010trip_matsu/e/2507eba23ef92698b5b146cd78326a02

[116] 長崎出島で18世紀のオランダ鐘を鳴らす-お正月限定企画で - 長崎経済新聞 ( 版) http://nagasaki.keizai.biz/headline/386/

同鐘は2006(平成18)年に同施設内にカピタン(オランダ商館長)部屋を復元した際、室内の調度品と一緒にオランダ・アムステルダムで調達したもの。1823年にオランダ商館医としてシーボルトが来日したのは1823年。その18世紀の終わり頃に鋳造された鐘であるため、出島で使われていたものと同系だと思われるという。出島で貿易が行われていた当時、正午の昼食時や貿易時の朝に船から積荷が降ろされるときなどに鐘が鳴らされていたという。

[117] 出島・時鐘: 長崎んことばかたらんば ( 版) http://nagasaki-r.seesaa.net/article/56226407.html

「この鐘は正午の昼食時に撞かれ、また、貿易時には、朝、積載品が降ろされる時に撞かれる。鐘が三度撞かれれば、事務官は揃って荷倉役のところに出向く」と記録がある。

「メイザン(食鐘)」の名で多くの資料に見られるが、その位置は建てかえの度に移動しているようだ。紐を引き鳴らす西洋式の鐘で、18世紀のオランダで実際に用いられたものが吊るされている。

[118] 『ひとりさるく日記2 出島で長崎の豊かな歴史を知る篇』 [長崎市]のブログ・旅行記 by 瑞樹さん ( 版) http://4travel.jp/travelogue/10223103

隣には、時鐘。「メイザン」の名で多くの資料に見られますが、その位置は建て替えの度に移動したようです。

紐を引いて鳴らす西洋式の鐘で、18世紀のオランダで実際に用いられたものが吊られています。

「この鐘は正午の昼食時に撞かれ、また、貿易時には、朝、積載品が降ろされる時に撞かれる。

鐘が三度撞かれれば、事務官は揃って荷倉役のところに出向く」と記録にあるそうです。

[119] 出島 ( 版) http://youyou.main.jp/c8/nagasaki/dejima.htm

「時鐘」。

紐を引いて鳴らす西洋式の鐘で、正午の昼食時と、

貿易時の朝、積載品が降ろされる時に撞かれたとある。

写真をクリックすると拡大写真(450x600)が

表示されます。

[120] 長崎年表〈江戸時代(10)〉 ( 版) http://www.f-makuramoto.com/01-nenpyo/01.nenpyo/1764-1788.e10.html

▼1766(明和03)【後桜町】 丙戌(ひのえいぬ))

03/14★総町の願い出により時を報せる今籠町の報時所(鐘撞所)を豊後町の高札場跡地に移転

昼夜12時に報時を行なう

→のち☆俗称鐘の辻と呼ばれるようになる

→1774(安永03)☆鐘が破損し改鋳する

[121] 長崎年表〈江戸時代(10)〉 ( 版) http://www.f-makuramoto.com/01-nenpyo/01.nenpyo/1764-1788.e10.html

▼1774(安永03)【後桃園】 甲午(きのえうま)

★豊後町(高札場跡地)の報時所(鐘撞所)の鐘が破損し改鋳する

→1903(明治36)10/05☆長崎市が長崎測候所に委託し午砲を発射することに

時撞と時旗での知らでは、市内の戸数2万戸、人口15万人すべてに行き届かないため

[122] 長崎地方気象台 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%9C%B0%E6%96%B9%E6%B0%97%E8%B1%A1%E5%8F%B0

1894年(明治27年)5月1日 - 長崎郵便電信局(現長崎中央郵便局)との間に電信線を架設し、東京天文台から正午の時報を得る。

1895年(明治28年)7月10日 - 長崎測候所校内に信号旗さおを設け、毎日信号旗を掲げて正午を長崎市役所に伝える[3]

その当時の長崎市では時鐘・時旗で正午を市民に報じていたが、相当の機器がないため、時刻が正確ではなかった。このため長崎市が長崎測候所に依頼して始まった[3]

1898年(明治30年)8月1日 - 長崎測候所が新庁舎へ移転。

当時、測候所は現在の海星中学校・高等学校の付近にあった。当時の海星学校が3月から新校舎を建設し始めたため、観測上支障があることから、ドンの山の頂上に移転した。

1903年(明治36年)10月5日 - 長崎市の要請で構内に午砲台を設置し、大砲を撃って正午を報じる[3]

午砲を鳴らすのは長崎市役所の仕事であった[3]。毎日昼近くになると市役所の砲手が所要量の火薬を持ってドンの山に登ってきたといわれている[3]。測候所の職員は東京天文台から専用電話で時報を受け、それを聞いて発射合図をする役目で、報時が近づくと、「用意」「撃て」と声をかけていた[3]。その音は日によっては諫早市まで届いていたという[3]

1941年(昭和16年)12月31日 - 午砲台を廃止。

[123] 昔の田浦地域のようす ( 版) http://members2.jcom.home.ne.jp/kemukemu/newpage121.html

吾妻島

  箱崎半島は、新井の掘割がつくられてから、吾妻島と呼ばれるようになった。ここには、旧海軍の貯炭所や重油タンクなど、いろいろな施設がつくられた。この島の丘陵の一角に、大正から昭和のはじめにかけて旗の種類によって、その日の天候の状態を沖の船に知らせる施設があった。そのため村人たちは、この丘陵を旗山と呼ぶようになった。この旗山では、毎日正午になると空砲を鳴らした。この正午を告げる「ドン」は、当時、東京と横須賀だけだったそうで、横須賀に住むには時計はいらぬとよく言われた。買い物などをしていても、「ドン」が鳴ったからお昼にしようと、食べ物屋に入ったりしたものだ。そのころは、時計は大変なぜいたく品で、持っている者がほとんどいなかったので、そんな時、旗山のドンは、よい目安となった。

(長浦町 新村正雄)

[124] ファイル:Foreign Settlement of Kobe02.jpg - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Foreign_Settlement_of_Kobe02.jpg

[125] 横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図 ( 版) http://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi05/chi05_4068/

[126] 時計塔〔神奈川県横浜市中区〕|郷土文化財コレクション ( 版) http://hazukimap.sakura.ne.jp/guide/14k/yokohama/naka/14104K021.htm

・1891(明治24)年頃、大桟橋付近に立てられていた信号旗を掲揚したポールを模したもの。

現在あるのは復原された時計塔。開港広場の片隅に「旧居留地90番の大砲」と並んである。

[114] 横浜中区の近代建築散歩 - 5 旧横浜英国総領事館 ~ 旧新港保税倉庫 (横浜) belleduneさんの旅行写真 ( 版) http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=33781974

横浜開港資料館前の広場に展示してあるこの時計塔は、明治2年(1891)頃、大桟橋付近に設置されてあったものです。暴風雨時に旗を掲げて、港近くの船に信号を送っていたそうです。

[127] >>126 に現地説明板写真あり。 >>114 の「明治2年」は誤記。 明治24年に実在したのは信号旗ポールで、後にそれを時計塔のモデルにしたのであって、 元々時計塔だったわけではない模様。

[128] ティファニーの時計は3分遅れていた : 日々みかん (mikannogohan 著, 版) http://mikangohan.exblog.jp/23604542/

■ちなみに、、ティファニーの時計は3分半遅れていた。

[129] http://books.google.co.jp/books?id=RvUQvgo9uZwC&pg=frontcover 579ページ 韓国太鼓による報時

[130] 札幌市時計台とは (サッポロシトケイダイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科 ( 版) http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E5%B8%82%E6%99%82%E8%A8%88%E5%8F%B0

明治21年(1888年)、演武場に設置された時計を札幌の標準時計とする旨の告知がなされる。

[131] 時計台(重要文化財) ( 版) http://www.geocities.jp/tokeitou1016/tokeidai.html

澄んだ鐘の音色はかつては一里(約4km)四方に響きわたって時刻を伝えたといわれ、明治21年1月には、札幌の標準時計として告示されたこともあります。

[132] ( 版) http://www.fides.dti.ne.jp/~m-109/refresh-hokkaido-tokei.html

明治21年1月には札幌の標準時計として告知されたこともあると言う。

[133] 札幌有形文化財「旧札幌農学校演武場(時計台)」 CANON EOS 5Ds R + SIGMA Art 24mm F1.4 DG HSM, - n' Photo labo ( 版) http://blog.nishibou.net/2015/07/post-6.php

明治21年1月より札幌の標準時計とすることが公示されました。

[134] 丹羽 諭 Web写真展「札幌の建物」:JPA 一般社団法人 日本写真作家協会 - 会員作品紹介 ( 版) http://sniwa.jpa-photo.com/spk_bldgs.html

明治14年時計塔を付設して札幌の標準時計とした。

[135] 『時計台の針のうごきは生きるに似たり仰ぎみる旅人われに Ⅳ』Mr.ぴぃさんの日記 [食べログ] ( 版) http://tabelog.com/rvwr/pii/diarydtl/128508/

時計が取り付けられてから7年、正確に市民に刻を告げてきた大時計は、明治21年に札幌の標準時間を刻むことになる。

[136] 札幌市の地方公務員になろう | 日記 ( 版) http://maruta.be/sapporotihoukoumuin/article_category/001

その後明治21年には札幌市の標準時計台に指定され市民に親しまれてきたということです。

[137] 知の木々舎 | So-netブログ ( 版) http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name=2010-01-12-8

旧江戸城本丸での正午の午砲は、兵部省(ひょうぶしょう)が軍務の統制と効率化のために太政官にお伺いの文書を差し出したことに始まった。この午砲はこの後全国の主要地域でも行われるようになり、散文的な轟音を街々の空に響かせていた。午砲の発射は、はじめ兵部省武庫司(ぶこし)、後に陸軍省に属し、天度(てんど)測定は、はじめ陸軍省兵学寮(へいがくりょう)、内務省地理局を経て1888(明治21)年からは創立された東京天文台が行った。(註1)

同年1月1日から、東経135度の子午線時を日本標準時とする標準時の制度が実施される。陸軍省による午砲は軍の予算縮小のため1922(大正11)年の夏で廃止となるが、東京市のみ市が引き継いで1929(昭和4)年4月30日まで行われ、5月1日からサイレンに代わる。東京市のサイレンの時報系統は次のようであった。「東京天文台(府下三鷹村)から電信線で丸の内中央郵便局に達し、そこから芝公園内にある東京市教育局社会課の報時室まで信号を送る。そこでその信号によって正午に正4分前の時刻を知り、報時室備付の標準時計との時刻の差を読み、それに3分を加へた正午に1分前の時刻にこの室でスイッチを入れると、愛宕山、小石川、上野、本所、丸ビル、三越等々市内数ヶ所のサイレンが一斉に正午を知らせる。このサイレンは1分間鳴りつゞけ、鳴り終りが正12時であって、全部電気で自動的に行はれる」と、『時と時計』(註2)は記している。この正午のサイレンは38(昭和13年9月12日をもって中止され、以後市のサイレンは防空訓練用警報として、43(昭和18)年4月9日からは警戒警報に使用されるようになる。(註3)

この他、明治の街の報時システムとして人目を引いたのは時計塔である。1871(明治4)年に竹橋陣営(近衛歩兵連隊)にフランス製の時計塔が竣工し4点打チャイムで時を知らせるようになると、これ以後、時計塔の設置が流行し、文明開化のシンボルとして各所に設けられていく。

たとえば、日本橋の駅逓寮(現在の郵政事業庁)の時計塔、牛込市ヶ谷の陸軍士官学校、本所の湊屋牛店、京橋の小林時計店、永田町の参謀本部、北海道の札幌農学校演武場、という具合に時計塔が全国的に流行した。

この近代化のシンボルであった時計塔も、1923(大正12)年の関東大震災によりその多くが建物と運命をともにし、時計塔の時代は去るのである。

註1・織田一郎『歴史の陰に時計あり!』グリーンアロー出版社 1998 P59-60

註2・エル・ボールトン、富成喜馬平訳『時と時計』訳者註、河出書房 1942 P219

註3・東京都編・発行『東京百年史・別巻』年表 1979

[138] 光文字の年号が切り替わる瞬間 - 沖縄B級ポータル - DEEokinawa(でぃーおきなわ) ( 版) http://www.dee-okinawa.com/topics/2011/01/hikarimoji.html

[139] 資料室 標準電波/周波数標準/標準時 年表 ( 版) http://jjy.nict.go.jp/QandA/reference/chrono_table.html

[140] 札幌時計台 - 時計の雑学 ( 版) http://www.kodokei.com/la_013_1.html

ここに明治の時計台の古写真が有ります。 セピア色に染まった印画紙には暗闇の中にイルミネーションに輝く札幌の時計台が写されています。 裏に「明治34年5月14日札幌農学校創立25年祝賀会演武場夜景」と書き込みが有り、 札幌の時計台の古い時代のクリスマスなどではなく5月の創立記念祝賀会のイルミネーションで有ることが分かります。

時計

[142] 本邦港灣に於ける報時信號 (有田, 邦雄著、 版) http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167827/1/tnk000218_227.pdf

[143] UTokyo Repository: 東京、筑波間ニ於ケル午砲音響ノ速度 ( 版) http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/17109

[144] 午砲場跡 ( 版) http://www.fukuoka-good.com/hi/gohoba/gohoba00.html

石碑には、“東北約60mの旧台場で須崎から移った市営のドン(大砲)が明治31年から昭和6年まで撃たれ正午を知らせた”と、記されています。

[145] 竹久夢二 砂がき ( 版) http://www.aozora.gr.jp/cards/000212/files/1558_8296.html

僕の京都の午砲のことを書きたいと思つたのだ。京都の街を歩くたびに思ふことが、この古い靜かな街が、大阪のやうに急進的にいろんな方面で膨脹した都會の影響を受けて、古い好いものが破壞せられてゆくのである。去年あたりまで高臺寺の靈山で打つてゐたドンは、その響のために古い建築物にゆるみが來るといふ理由でおやめになつて、此頃では、市の議事堂で、街の人たちが牛と稱してゐてるオーと云ふ素睛しく不愉快な音響を出す機械に代へられた。この音響の爲に此度は生きた人間の耳が、癒すことの出來ない程害せられてゐることを耳鼻科の醫師から聞いている。そしてこの機械に市は何萬といふ高いお金を出したのだそうだ。そんなことはどうでも好いが、この不愉快な音響の代りに寺々の鐘を撞いて欲しいことである。丁度フランスのアンゼラスの鐘のやうに、京の街々から鐘の音が鳴響く時、私達はこの靜かな街に住む幸福をどんなに深く感じるだらう。木屋町の倡家で「幾時頃だらう」とある客がたづねたら傍の舞姫は「待つてお居やすや」と言ひながら靜かに立つて露臺へ出て川向ふの寺を見てゐたが「お寺の門が閉つたさかい五時頃だすやろ」と言つたといふ。電車の停留所さへ毎日違ふ京都の街に一秒二秒を爭ふ正確な午砲の必要が何處にあらう。

[146] 美星町 星のデータベース ( 版) http://www.bao.go.jp/stardb/his/data/his0120.html

1879年には東京以外の場所でも午砲が許された.

[147] 酒と出会いとお寺とお宮 新日吉(いまひえ)神宮 (あまちゃん 著, 版) http://mahorobasake.blog.fc2.com/blog-entry-649.html

境内にある元京都市午砲台座です。

[148] 検索結果一覧│熊日写真ライブラリー ( 版) http://bp.kumanichi.com/photo/archives/list?commit=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&end_m=9&end_y=1933&page=7&start_m=11&start_y=1918

大正12年 午砲台と午砲 ※写真集・熊本100年より

[149] レファレンス回答 ( 版) https://www.kyotocitylib.jp/reference/lominzokukaitou.html

①『京都市政史 第4巻』(京都市市政史編さん委員会編集 京都市) p24 には,高

台寺の号砲設置について,明治20年(1887)6月18日の日出新聞の記事が引用

されています。京都市街には正午号砲がないために時刻が一定せず,商工業上は

もちろんその他のことにおいても不便である,号砲を設置・発射して市中の時刻を一

定にするよう上京下京両区長より京都府知事に伺いが出されたとあります。

②『目で見る京都市の100年』(白木正俊監修 郷土出版社) p29 には,“高台寺の

時報砲台”として写真が掲載されています。明治22年(1889)京都市誕生の際に,

高等小学校,防火施設などとともに,上京下京両区役所から市が引き継ぎ,その後

明治天皇の大葬が行われた大正元年(1912)には,午前11時にこの号砲が響き,

市内のあらゆる場所で遥拝の儀が行われたとあります。

しかし大正初期に,高台寺の建物に影響するといった理由で廃止,新日吉神宮(い

まひえじんぐう)に寄贈されて現在は台座のみが残っています。号砲自体は,戦時中

に供出されたもようです。

③『京都市政史 第1巻』(京都市市政史編さん委員会編集 京都市) p140 に新日吉

神宮に残る台座の写真が掲載されています。

[150] 御船町史ところどころ ふるさと寺子屋 お役立ち便利帳 熊本県観光サイト なごみ紀行 くまもと ( 版) http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=038&pre_page=2

米英仏の外国船に火蓋を切ったその大砲は、明治になり老朽化して熊本城に引き取られ、午砲として市民に親しまれていました。昭和18年、大砲は軍需品として小倉工場に運ばれ、現在はありません。

[151] 南薩日乗: ぼんぼん時計はどうしてぼんぼん鳴るのか? ( 版) http://inakaseikatsu.blogspot.jp/2013/05/blog-post_18.html

さて、当時の時計というものは、大変狂いやすいもので、1週間もすると10分程度はすぐにずれてしまった。そこで頻繁に時刻合わせをしなくてはならないのだが、時報もテレビもラジオもない状態でどうやって時刻合わせをしたかというと、この午砲を基準にしていたのだ。正午になると午砲が「どーん」と鳴り響くので、この時に時計の針を正午に合わせたというわけだ。

[152] 平安朝時代 ( 版) http://www.nnpjp.com/rekisi/03.htm

明治40年からは、北側一帯は練兵場、

南側は野砲第二二連隊の兵舎が並び、

北門前の午砲台から正午を告げる午砲がうたれた。

今は藤森中学校、青少年科学センターとなっている。

[153] ろんどん丸 デジタルミュージアム デジタル博物館 大震災 大地震 三輪祐児) ( 版) http://homepage2.nifty.com/i-museum/19440422london/london.htm

鉄道の開通にともなって列車の運行を管理するために正確な「時計」が必要になりました.東経135度の子午線における平均太陽時が日本の標準時と決ったのが1888・明治21年のこと.全国の駅には東京天文台から専用電線で時報信号が送られるようになりました.

航行中の船は星の方位を観測し時刻との関係から自分の位置を割り出していましたから,正確な時計は装備の一部でした.クロノメーターは稀少でしたから,船員は港の午砲によって船の時計をあわせていました.しかし音には(距離/340m)秒の誤差がともないます.そこで港の高い位置や建物の上に塔を立て串刺しにした金属球体を頂上に置き,正午になるとその球を落下させて報せるという方法が考案されました.船乗りは球の落下を見て船の時計を修正するのです.タイムボール・報時球と呼ばれたこの装置は横浜港ではフランス波止場の近くにあったそうです.

[154] 【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に? | YOKOHAMA xy(横濱界隈)通信 ( 版) http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7575

[156] 中国近代における時間意識形成についての一考察 (阿川修三 版) http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/klib/kiyo/lit/l1601/l160103.pdf

[157] 正午一齊法ニ就テ ( (電氣學會雜誌 Vol. 9 (1892) No. 49 P 100-101, )) https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1888/9/49/9_49_100/_article/-char/ja/

[158] 船舶報時法に就て ( (電氣學會雜誌 Vol. 34 (1914) No. 307 P 199-208, )) https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1888/34/307/34_307_199/_article/-char/ja/

[159] 札幌時計台の時計 ( (精密機械 Vol. 48 (1982) No. 3 P 401-402, )) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjspe1933/48/3/48_3_401/_article/-char/ja/

[160] 札幌時計台の時計 ( (精密機械 Vol. 48 (1982) No. 3 P 401-402, )) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjspe1933/48/3/48_3_401/_article/-char/ja/

札幌時計台は20番目のものであり,現存する最も古い時計台である。

[161] ニュース - NICT、光電話回線を利用した日本標準時供給の実験運用を開始 :ITpro ( ()) http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/052601521/?rt=nocnt

NICTは、セイコーソリューションズとの共同研究で、NTT東西の光電話回線網を利用した新たな標準時の供給システムを開発してきた。開発技術を導入することで、従来のアナログ電話回線網による供給と比べて、通信速度の高速性、接続の安定性、通信費用の低廉化などが期待されるという。

現行の電話回線による時刻供給システム「テレホンJJY」は、1995年にサービスを開始した。現在は毎月約14万件のアクセスがあるという。主として、放送局、NTTの時報サービス「117」、交通機関などの重要機関における基準時計の同期に利用されている。

今回は、光電話回線を利用した時刻供給システムとして「光テレホンJJY」を開発した。開発システムは、NTT東西の光電話回線網のデータコネクトサービスを利用する。

[162] ASCII.jp:NICT、日本標準時配信の光電話回線化を開始 ( (ASCII著, )) http://ascii.jp/elem/000/001/168/1168580/

現行の時刻供給システム「テレホンJJY」は公衆電話回線を用い、パソコン通信の形態で接続して時刻データを供給するものだが、依然としてアナログ回線を用いている。接続の安定性や時刻同期精度の劣化などに加え、最近ではアナログモデムの入手性などが問題として浮上してきている。

クライアント装置(NTPサーバ)「Time Server TS-2210」

現在進めている光電話回線化は、新たな時刻供給システム「光テレホンJJY」を開発、運用を開始したもの。従来のアナログ回線よりも26倍の高速データ通信ができるため、時刻供給精度の安定化・通信料金の低廉化が図ることができる。クライアントとしては、セイコーソリューションズが販売する「Time Server TS-2210」を用いることで誤差1msでの時刻を受け取ることができるという。

[163] 光電話回線を利用した時刻供給実験運用を開始 ~電話回線による時刻供給システムから光回線への移行~ - CNET Japan ( ()) http://japan.cnet.com/release/30145028/

【今回の成果】

これらの課題解決に向け、このたび、光電話回線を利用した時刻供給システム(光テレホンJJY)を開発し、実験運用を開始しました。

今回開発したシステムは、NTTの光電話回線網のデータコネクトサービスを利用しています。標準時を供給するホストシステムには、NICTが開発した専用ハードウェアNTPサーバを活用し、プロトコルを改修することで、これまでのテレホンJJYと同等の情報提供を行う機能を持たせました。なお、セイコーソリューションズ(株)が機能拡張したクライアント装置「Time Server TS-2210テレホンJJYタイプ」を使用することにより、1ms以下の同期精度での時刻供給が期待できます。

また、光電話回線網は、アナログ電話回線網での接続に比べて、26倍以上の高速データ通信が行えるため、時刻供給精度の安定性と通信料金の低廉化を図ることができます。

[164] 「時の記念日」大太鼓打ち鳴らす 静岡・掛川 | NHKニュース ( (日本放送協会著, )) http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160610/k10010552761000.html?utm_int=news_contents_news-genre-life_003

掛川市では、江戸時代、城下町に時刻を知らせていた大太鼓を正午に打ち鳴らす催しを毎年開いていて、ことしも合わせて50人の市民や観光客が参加しました。参加者は、国の重要文化財の掛川城御殿に置かれた大太鼓の前に集まって、時報を合図に長さ1メートルあるバチを振るい、交代で大太鼓を鳴らしていきました。

[165] 日本標準時は法律上「中央標準時」と呼称します。 ( (JP1MFV(kagaya@sa.uno.ne.jp著, )) http://yasuo.k-server.org/jst.htm

独立行政法人情報通信研究機構の前身は郵政省電波研究所(後に、郵政省電気通信総合研究所)

は昭和13年からJJYを現在のように長波ではなく、短波で送信していました。

停止直前は2.5, 5, 8, 10, 15MHzで標準電波を送信していました。

いまの長波のJJYは呼び出し符号【JG2AS】で位置付けは特別業務局ではなく実験局でした。

当時の短波帯JJYのQSLカードを掲載します。カードをクリックすると当時の懐かしい音声も聞こえてきます。

(2001.03.31 JJY最期のID発信、停波の瞬間の音声です。)

[166] 中央標準時間(1916,4 月 2 日)。臺灣日日新報。6 版。 ( ()) http://ssr.naer.edu.tw/phocadownloadpap/materials/T3-4-4.pdf

[167] 時計の雑学 () http://www.geocities.jp/afi_651/japantime3.html

古代では、時間を管理することは王権の一つと考えられ、漏刻を置き、多数の役人を付けて時間を測り、鐘をついて時を知らしめておりました。 都では、その鐘の音が時間の基準となり、それを基に時香盤に点火して時間を測っていたのではないかと思われます。 時香盤とは右図のように香を線状に置いて、その燃える速さから時間を把握する道具です。

では、都の鐘が聞こえない地方では、どうしていたのでしょうか?

はっきりとしたことはわかりませんが、地方では独自に日時計を使って日の出、日の入りと南中を見、また曇りや雨の日には時香盤を使って時間を測り、寺等の鐘を鳴らしていたようです。

平安時代の熊野詣での記禄にも時刻が記されていることから、当時の人は時計を持たずとも時間を把握していたようです。 こういった時刻は経度の差があるために地方毎に時差があったはずですが、古代では問題ないレベルの差だったのでしょう。

また、明け六つは江戸時代に手の甲が薄明かりの中で識別できる時刻と定義されていましたが、古代での定義は判然としません。地方によって定義が異なっていて、時間がかなりずれていたかもしれません。

[168] 江戸時代、時の鐘を打つタイミングは - 歴史 締切済 | 教えて!goo () http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4915225.html?from=rfqa_no

不定時法の便利な点は、太陽の傾きで時刻が決まるということです。つまり、太陽が中天にあれば、どんな季節であっても午の刻に決まっています。太陽が45度の角度に傾いてくれば、どの季節でも八つ頃に決まっています。定時法ではそうはいきませんよね。

そういう生活を長年繰り返していれば、太陽を見ただけでほぼ全員が共通して時刻を言い当てることができたでしょう。慣れてくると太陽を見なくても(室内からでも)時刻を言い当てることができたそうです。

作家の池波正太郎氏のおばあさんは江戸末期の生まれだそうですが、氏が子供の頃室内で縫い物をしながら、障子(外の光の様子)をちらっと見て、「もうすぐ○時だよ」と言ったそうです。そのとたんに、時報が鳴ったのでびっくりした、とエッセイに書いています。

[169] 江戸時代、時の鐘を打つタイミングは - 歴史 締切済 | 教えて!goo () http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4915225.html?from=rfqa_no

その上で、鐘を鳴らすタイミングというか、時刻はどこがどのように決めていたかというと、石町の鐘が基準です。元文3年(1738)の記録だと、石町の鐘撞役の支出項目として「時計磨料と常香」という費目が記録されています。

つまり、石町の鐘撞役は正確な時間を知るために、時計と時香炉も合わせ使っていたのが判ります。時香炉を詳しく説明すると、それだけで長い文章になってしまいますので省略しますが、要するに香の燃える道筋に時間ごとの印をつけたもので、時計と併用していたのです。

他の鐘は、石町の鐘の音が聞こえてから鳴らすようにしていたらしいですから、郊外(大崎あたり)の方では実際には、数分から十分程度はずれていたでしょうが、正確な時計を持たない時代のことですから、その程度のずれは何ということもなかったのでしょう。

[170] 時計のない時代の時間間隔|日本史さんぽ () http://ameblo.jp/pitapen/entry-11855370881.html

平安時代の京などでは、漏刻(ろうこく)という名の水時計で時間を図り、鐘を鳴らして町中に知らしていたそうです。王朝の義務であり特権だったわけです。

では地方はどうだったかというと、お香を炊いて計った時香盤などがあり、お寺の鐘などで知らしていたそうです。

当然現在ほどの精度はないわけですが、一応定時法だったのですね。

室町時代になるとこのような制度はなくなり、日の出と日の入り、正午の南中、日の一番高い頃を基準とした計り方となります。日の出が卯の刻、南中は当たり前ですが午、日の入りが酉(とり)です。日の入りが春分に秋分、夏至や冬至があり、毎日少しずつ日の出、日の入りの間隔が変わっているわけですからこれを不定時法といいます。

むしろ時間の計り方は逆行したといえるでしょうね。

[171] 戦国時代には時計ってあったのですか?何時何分... - 歴史 | Yahoo!知恵袋 () http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q109682675

戦国時代の一斉攻撃の合図は、本陣を見晴らしの良い場所に置いて、そこから旗で合図をしたり、鉄砲・法螺貝等の音で合図をしていました。何時何分という現代的な時間の合わせ方は、時計がないので当然出来ません。

だから、昔の大合戦といえば、天気のよい昼間しかありませんでした。夜や悪天候の日に大部隊を一斉に動かすことが出来なかったからです。

夜や悪天候の日は小部隊による奇襲攻撃だけでした。

[172] 戦国時代は猫を時計代わりにしていた - ライブドアニュース () http://news.livedoor.com/article/detail/11357047/

3月26日放送、「スパニチ!!」(TBS)では、猫に関する知識。戦国時代、島津義弘は朝鮮出兵に時計代わりに猫を連れて行ったという。また忍者が猫を時計代わりにしていたケースもあるとか。日本では猫の目にある丸が6つの時は6時18時、5つ7つが8時16時、4つ8つが10時14時、9つが12時と言われていた。それを使って、時計の代わりにしていたのだ。

[173] 旅行記 ・猫神神社 (仙巌園)- 鹿児島市 () http://washimo-web.jp/Trip/Nekojinjya/nekojinjya.htm

また、猫の瞳孔は調整範囲が広く、明るいところでは細長く、暗いところでは出来るだけたくさんの光を取り込むために目一杯広げて真ん丸にします。つまり、猫の目は明るさによって瞳孔の形が変わるわけです。

真昼に近い時刻には瞳孔の広さは狭くなり、逆に真夜中に近づくほど広くなるので、時計というものがなかった時代、時間帯によって猫の目の瞳孔の形が変わると考え、忍者などが概略の現在時刻を知るのに活用したといわれています。

『六つ丸く五七卵に四つ八つは柿の核なり九つは針』という日本の古歌があって、意味は、猫の瞳孔は

・六つ(午前六時頃)は、丸く

・五(午前八時頃)と

・七(午後四時頃)は、卵形

・四つ(午前十時頃)と

・八つ(午後二時頃)は、柿の種

・九つ(正午頃)は針のように細い

ということだそうです。

[174] JJY ‐ 通信用語の基礎知識 () http://www.wdic.org/w/WDIC/JJY

[175] 国立国会図書館デジタルコレクション - 電信工学 (稲田三之助著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212753/200

[176] 国立国会図書館デジタルコレクション - 東洋灯台表. 大正9年上巻 () http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933814/141

[177] 国立国会図書館デジタルコレクション - 児童百科大辞典. 11 (天文気象篇) (小原国芳著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1720353/181

[178] ビッグベンは「気難しがりや」?時刻に謎のずれ、2週間続く 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News (2015年08月26日 10:01 ) http://www.afpbb.com/articles/-/3058384

鐘が、ここ2週間にわたりなぜか早く鳴っていることを、時計技師が25日、認めた。

 英国国会議事堂を見下ろすビッグベンは、正しい時刻から最大で6秒ずれることもある。ビッグベンの鐘の時報を中継する英国放送協会(BBC)のラジオ放送はここ2週間にわたり、早く鳴る鐘に惑わされていた。

 3人の献身的な時計技師が修正に取り組んだが、なぜ振り子の動きが乱れたのかは謎に包まれたままだ。時計技師のイアン・ウェストワース(Ian Westworth)さんはBBCに、「156歳の時計だからね。たまに少し機嫌を損ねる時もある。やつはちょっと気難しい」と語った。

[179] 国立国会図書館デジタルコレクション - 鹿兒島市史 (鹿兒島市 編纂著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1901454/324

[180] 国立国会図書館デジタルコレクション - 神奈川県港務部要覧 () http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805103/25

[181] 国立国会図書館デジタルコレクション - 神奈川県港務部要覧 () http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805103/70

[182] 国立国会図書館デジタルコレクション - 沿革類聚布令目録 : 沿革類聚. 明治23年編纂 () http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788785/364

[183] 国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1892年07月25日 (大蔵省印刷局 []著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945987/4

[184] 国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1909年01月08日 (大蔵省印刷局 []著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2951007/6

[185] 国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1916年12月09日 (大蔵省印刷局 []著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953420/2

[186] 国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1924年06月26日 (大蔵省印刷局 []著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955700/33

[187] 国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1924年10月13日 (大蔵省印刷局 []著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955791/4

[188] 国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1926年12月29日 (大蔵省印刷局 []著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956458/8

[189] 国立国会図書館デジタルコレクション - 警察法規類典 : 加除式. 第2巻 (神奈川県警察部著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/923979/399

[190] 国立国会図書館デジタルコレクション - 現行沖縄県令規全集 : 加除自在. 第2綴 (帝国地方行政学会著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442585/512

[191] 国立国会図書館デジタルコレクション - 高岡開闢由来記・高岡町由緒聞書 : 附・高岡町旧家覚 (高岡文化会著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212507/11

[192] 国立国会図書館デジタルコレクション - 高岡市統計一斑. 第1号(明治36年) () http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806857/16

 

[193] 国立国会図書館デジタルコレクション - 東海道宿駅と其の本陣の研究 (大熊喜邦著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068279/98

[194] 国立国会図書館デジタルコレクション - 灯台表. 第1巻 () http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124542/170

[195] 国立国会図書館デジタルコレクション - 布告類編. 明治6年 巻13 () http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787813/44

[196] 香港授時服務歷史 () http://www.weather.gov.hk/gts/time/History_of_HK_Time_Servicec.htm

[197] General Information with regard to Wireless Time signals. | Page 2552 | Issue 13479, 25 July 1919 | Edinburgh Gazette | The Gazette () https://www.thegazette.co.uk/Edinburgh/issue/13479/page/2552

[43] 札幌時計台(札幌市時計台) - 時計台ガイド ~時計台のあゆみ~ () http://www.shiyukai-tokeidai.jp/guide/index.html

しかし、1881(明治14)年5月演武場に設置することが決まり、玄関正面部と鐘楼を取り壊し、骨組みを強化してこの年8月日本で24番目になる時計が設置されました。改修費は当時のお金で1,329円かかりました。

[44] 江戸時代、時の鐘を打つタイミングは - 歴史 締切済 | 教えて!goo () http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4915225.html

[53] 江戸時代お寺の時刻通知の鐘について。 - 歴史 解決済 | 教えて!goo () http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8047815.html?from=recommend

[54] かなりアバウトなのに……江戸時代の「時報」は有料だったってほんと? | ネタ・おもしろ・エンタメ | 大学生活 | マイナビ 学生の窓口 () https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/31083

[55] 番外・江戸の時制について () http://fusehime.la.coocan.jp/no54.htm

[56] 時報鐘 | 彦根文化遺産 () http://hikone-bunkaisan.net/jihosyo/

彦根城に登城する途中、本丸下の太鼓丸から毎日決まった時間に鐘の音が聞こえる。江戸時代から絶えることなく、朝から3時間おきに、6時、9時、12時、15時および18時の1日に5回、城下に鳴り響く鐘の音は、「お山の鐘」として市民に親しまれている彦根城の時報鐘である。環境庁の「日本の音風景百選」にも選定されている。

築城当初は、鐘の丸に設置され、城下に時を知らせていたようだが、より遠くまで音色が届くように太鼓門近くの高台に移されたと伝える。江戸時代の絵図には「鐘突所」と記されている。現在の鐘は愛知郡長村(東近江市長町)の鋳大工黄見新左衛門ら5人により制作されたもので、弘化元年(1844)に12代藩主井伊直亮が発注したものと伝えている。城下の人々はシンボルとして天守を仰ぎ、時報鐘で時を知り、日々の生活を営んできたのである。この「時の鐘」は、音風景として彦根独自の歴史的風致を 形成している。

[57] 篠山城ものがたり21 時を告げた太鼓櫓 () http://www.city.sasayama.hyogo.jp/siryositu/srmn9705.html

全国の城、陣屋等に必ず太鼓を打って、時刻を知らせたり、登城、下城の時刻を知らす太鼓櫓、太鼓楼がありました。

篠山城の太鼓櫓は、三の丸から二の丸に上がる北廊下門の右、現在の篠山中学校へ入る道路の北側にありました。

江戸時代に書かれた城の絵図によりますと、板葺きの二層の建物になっていました。この櫓から時を知らせる太鼓の音は、城下に鳴り響いたことでしょう。

[58] 江戸時代に堺の町に時を告げたのは | Omoroiさかい () http://www.sakai.click/zihou/

お寺では線香で時間を計り(線香時計)鐘をついて地域の人々に時を知らせたんだそうです。

では、堺の町に時を知らせた鐘はどこのお寺だったのでしょうか?

その昔、堺は大小路より北側は「摂津の国」南側は「和泉の国」でした。

摂津の国・・・常楽寺(現在の菅原神社)

和泉の国・・・念仏寺(現在の開口神社)大寺さん

が時を告げていたそうです。

そして、明治になって神仏が分離されたことで、それぞれのお寺は移転ました。

その念仏寺にあった鐘が現在本願寺堺別院に吊り下げられている鐘だそうです。

この鐘が江戸時代は堺の時報だったんですね。

[59] 富士宮市〈夜の時報廃止〉スピーカーの近隣から苦情!時刻はスマホの時代 静岡県 - 清水の散歩人 (mohi432著, ) http://mohi432.blog.fc2.com/blog-entry-434.html

2016/03/24 11:43

静岡県富士宮市では現在、正午、午後4時、午後8時の3回時報を市内254カ所に設置されたスピーカーから流しているという

[60] 富士宮市〈夜の時報廃止〉スピーカーの近隣から苦情!時刻はスマホの時代 静岡県 - 清水の散歩人 (mohi432著, ) http://mohi432.blog.fc2.com/blog-entry-434.html

音も様々だが流す時間も様々で富士宮市は正午、午後4時、午後8時の3回時報鳴らしているというが

私が学生の頃の清水区(当時清水市)は昼と夕方、それに午後の9時にチャイム音が流れた

[61] 富士宮市〈夜の時報廃止〉スピーカーの近隣から苦情!時刻はスマホの時代 静岡県 - 清水の散歩人 (mohi432著, ) http://mohi432.blog.fc2.com/blog-entry-434.html

静岡県富士宮市は新年度から、同報無線で1日に3回流している時報のうち午後8時を廃止するという

理由は、夜の時報に対しては市民から「寝かしつけた子どもが起きてしまう」などの苦情が時々あるという

[63] 住職より | 照光寺 () http://okaya-shokoji.com/sermon/%E3%80%90%E6%99%82%E5%A0%B1%E3%81%AE%E5%BD%B9%E5%89%B2%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%9F%E9%90%98%E3%80%91vol-16/

寺院の本堂には、香を長時間焚くための常香炉という、一風変わった道具箱のようなものが置かれています。実は私自身、法要の時に用いる仏具だとばかり思いこんでいたのですが、以前に全国でも有数の古時計コレクションで知られる松本市時計博物館に、それが展示されているのを見て驚いたことがあります。なんとそれに、「常香炉」ではなく、「時計」と記したプレートが付いていたからです。なるほどと、思いました。

常香炉が時計だったのです。その中で焚く抹香の減り具合で、寺僧は鐘を打つ時を知り、その鐘の音の数で人々は時刻を知ったのでした。

[64] 伊勢崎市の旧時報鐘楼 - 鮎川俊介の「晴行雨読」 () http://ayushun.hatenablog.com/entry/2016/06/19/103435

群馬県伊勢崎市内曲輪(くるわ)町にある旧時報鐘楼。大正4年(1915年)に、横浜の貿易商で伊勢崎出身の小林桂助が寄贈したものと案内板に記されていました。時鐘は、江戸時代の町の人々に親しまれていた中台寺の釣鐘が使われていましたが、戦時中に金属回収により供出されたとのこと。塔屋部分も戦災で焼失しましたが、現在は復元されています。

[65] 時の鐘 () http://www.tsm.toyama.toyama.jp/tao/aroom/edo/toki/ji-kane.htm

庶民はこのようにして時を知ったのでしょうか?。城下町や町中では時を知らせるシステムがありました。シーボルトの「日本」によりますと、太陽の影を使う簡単な日時計で時を知ったり、お城や寺の鐘で時を知ったと書かれています。落語の「ときそば」に出てくるそばやのおやじさんも時を知っているようですから、どの人も時刻はわかっていたようです。それは時の鐘や太鼓が普及していたからです。時の鐘はお城で使われていた城鐘と江戸の本石町のように市中にあったもの、寺が撞いていた寺鐘の3種類に分けられます。城鐘は機械時計等で、寺鐘は定香盤等を使用したのではないかと推定されています。

江戸末期ごろには江戸城内では本丸西丸に土圭の間があり、大きな時計が掛けられていました。時計の掛りや太鼓の掛りがおり、城中の諸行事や城門の開閉は太鼓の時報により行われていました。幕府の武士の登城は朝四つ時でした。時を司る坊主は其時毎に只今は何時と各部屋に触れ回った、とあります。江戸市中の時の鐘としては,江戸本石町三丁目に時の太鼓が作られ、後に鐘に取り替えられました。家康の時代には明け暮れの六つ時を知らせるだけでしたが、秀忠の時代に明け暮れだけでは役に立たないということで、昼夜を通じて十二時を知らせるようになり、太鼓から鐘に代わりました。初期の江戸中心住宅地はこの鐘の聞こえる範囲内でした。ここでおもしろいのは時の鐘の聞こえる町の町人から1ケ月で永楽銭で1文づつ徴収したことです。以下にこの様子を示した川柳があります。

石町で出しても同じ時の割

その後、江戸市中が拡大するにつれて、浅草、上野、芝、目白、本所入江町、深川、市谷、赤坂、新宿の9ケ所が知られています。これらは和時計で時を知ったようです。江戸以外では京都,大阪,長崎等で知られています。

寺院の鐘は仏事を修する時の合図の時刻で六時と呼ばれる晨朝,日中,日没,初夜,中夜,後夜の六つの時刻でした。中世以降,庶民は寺の鐘で時刻を知ることが多かったようです。

[66] 時間と時計(11)~(21) | ザビ神父の証言 - 楽天ブログ () https://plaza.rakuten.co.jp/xabier/3001/

まず、正午の時間は、太陽の南中時で良いとして、日の出、日の入の時刻を決めねばなりません。太陽が顔を出すとか、沈むとかすると、高台と低地では違ってしまいます。そこで、眼の前に手をかざして薄明かりで見える時刻、見えなくなる時刻と決めました。

それでも、天候によって、明るさは違います。そこで、自然条件に影響されない、1種の時計を用いていました。勿論機械時計ではありません。日本人の発明した機械時計も、実を言うと江戸時代にあったのですが、そのことは後に書きます。大阪の釣鐘屋敷や江戸石町の鐘楼堂など、そして寺などが使っていたのは、1種の大きな香時計でした。

その香時計なのですが、1間四方の大きな香時計が利用されました。香時計は1種の火時計です。四角い大きな香炉の中に、粉末の香でコの字型の線を書いて行くのです。己の字の跳ねがない感じで、繋げて行きます。

ご自宅の蝋燭か線香で確かめていただけると分かりますが、風が入らないようにしておくと、仏壇などで燃える速度がほぼ一定であることが、お分かりいただけると思います。ですから、大きな香炉のようなものの中に粉末の香で描いた線の端に火をつけると、それが一定の速度で燃えて行きます。この燃える速度に合わせて、時刻点に記しを打ち、その時点毎に子、丑、寅……と記した香串を立てておき、そこを眺めて時刻を確認するのです。

しかし、夜通し寝ずの番というのも、辛いものです。そこで、香串に火がまわると、大きな鈴が鳴って落ちる仕掛けが考案され、確実に時刻が分かるように工夫されたのです。

欧米でも、例えば奴隷の競り市等では、蝋燭の火が消えるまでが、競りの時間であるなどと、一定の時間を計るために、蝋燭が用いられたことは、多々あったのですから、当時としては、香時計はとても正確であると、認識されていたのです。時報や時鐘は、かなり正確に時を告げていたのです。

[67] 時間と時計(22)~(完) | ザビ神父の証言 - 楽天ブログ () http://plaza.rakuten.co.jp/xabier/3002/

さて入間県の県庁所在地だった川越にも、西洋時計はありませんでした、無理もありません。西洋時計は、当時貴重品で、明治4年12月の『新聞雑誌』24号に載った「奈良県通信」によれば、当時の奈良県では、「洋服着用の者1人もなく、時計を所持する者、僅かに官吏2名のみ」という状態だったのです。

ところで、川越藩士内池武者右衛門、あの日本で最初に懐中時計を手にした人物は、どうしていたのでしょう。彼の家宝の時計はどうしたのでしょう。

武者右衛門は、川越藩の書庫係でしたが、廃藩置県によって藩が解体したのち、地方の大半の藩の侍たち同様、僅かな金録公債をもらって失業者になりました、失業した武者右衛門は、まず横浜に出て時代の流れを見つめることにしたのです。そこで彼は、川越にはなかった散髪屋を見つけ、自分の髷を切てもらい、ついでに整髪してもらったのです。

ここで閃いた彼は、川越に戻って散髪屋を開業しようと、見よう見まねで散髪技術を磨いたのです。こうして、武者右衛門は、川越市で最初の西洋式散髪屋になったのです。

当然彼の店には、県庁の役人もやってきます。西洋時計がなく、困っていた役人は、散髪に来る客の情報に通じる床屋の親父に、「誰か時計を持っている人を知らぬか」と尋ねました。ここに武者右衛門が、家宝として大事に持っていた懐中時計の出番がきたのです。

幕藩体制の世の中では、固く口を閉ざして秘密にしておかなければならなかった懐中時計のことを、今は誰彼気にせず語ることが出来るのです。武者右衛門は、自分が懐中時計を持っていることを告げ、奥からそれを持ってきて、役人に見せたのです。

大喜びした役人は、早速県令(現在の県知事)に報告します。30余年間大事に守りぬいた時計が、晩年の武者右衛門に微笑んだのです。翌日県庁に呼ばれた武者右衛門は、散髪屋ぼ家業を続けたまま、朝・昼・晩の3回、多賀町の鐘撞屋敷で時報を撞く、時報の管理主任を務めることになったのです。辞令によると「月棒4円」とありますから、当時としてはかなりの高給でした。

[68] (2)聴鐘庵→時報鐘→太鼓門櫓 () http://kattyan.dyndns.org/hikonejyou/2.htm

時報鐘及び聴鐘庵

この鐘は、12代藩主井伊直亮の弘化元年(1844年)に鋳造したもので、当初鐘の丸にあった鐘の音が

城下の北の隅にとどかなかったので現在地に移した。

現在は午前6時、9時、正午、3時、6時と1日5回ついている。

大老井伊直弼は禅の精神と相通ずる茶道にひかれ自らも「宗観/むねみ」と号し、修行をつづけた。

大老の著「茶の湯一会集」に書かれている「一期一会」の茶道精神は有名である。

この精神をしのび、時報鐘の管理棟を改造した聴鐘庵で薄茶の接待をいたしております。

[69] 時の記念日(6.10) () http://www.ffortune.net/calen/kinenbi/06/toki.htm

時代劇などで登場する、日出と日没の間を等分した不定時法は、戦国時代の混乱で定時法が運営できなくなった時に代用システムとして登場したものです。江戸時代は、時報の鐘を鳴らす役の人は機械仕掛けの正確な時計に、わざわざ不定時法用の文字盤を取り付けて、それを見ながら鐘を打つという、まことに本末転倒なことをしていました。

[198] 時の鐘 | 甲府、山梨の観光スポット。明治、大正、昭和の甲府を再現した歩いて楽しめるまち。甲州夢小路 () http://koshuyumekouji.com/shop/build_H.html

甲府城下におきましては、寛文年間(1661-1673)ごろ、横近習町(現・中央2丁目)に在った超勝山歓喜院(現・廃寺)に鐘楼が建立されました。柳沢時代の城下再整備に伴い、宝永5(1708)年に愛宕町へ移転後、火災で焼失しましたが、文化15(1818)年に再建され、明治5(1872)年まで使われていたといわれています。

この鐘楼は、甲府市民の幸福と甲府市の発展とともに、甲府を訪れる多くの方々のご多幸を記念して、141年の時を経て、平成25(2013)年に、甲州夢小路に新造されました。前述の愛宕町の鐘楼を模造したと伝わる法性山玄法院(現・天神町)の鐘楼を模し、同寺に残されていた写真・鳥瞰図・礎石を基に、底辺3間(5.4m)角、高さ5丈(15m)、銅張の外壁といった仕様で、忠実に再現されています。

[199] 山形県における時鐘に関する文献をお教え下さい。 | レファレンス協同データベース (国立国会図書館著, ) http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000168962

[200] 富山県(明治16年)▷富山城址の「時の鐘」 | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives () https://jaa2100.org/entry/detail/038942.html

[201] 富山県の時の鐘訪問記 () http://www.tsm.toyama.toyama.jp/tao/aroom/edo/toki/toki-toyama.htm

富山市於保多神社は富山駅から車で10分ほどの距離にある。地元では天神さんとして親しまれている。時の鐘は二代富山藩主、前田正甫公の顕彰碑として残されている。

1671年の古くから富山城では時の鐘が使用されていた。明治には場所を移転し、使用されていたが、明治32年の大火で半分が焼け落ち、残る半分は於保多神社に移された。

[202] 富山県の時の鐘訪問記 () http://www.tsm.toyama.toyama.jp/tao/aroom/edo/toki/toki-toyama.htm

当時の高岡町奉行寺島蔵人は時鐘の鋳造を計画し藩の認可を得たところ、金屋町は前田利長以来の藩の厚い保護に報いるためその鋳造を願い出て文化元年(1804)に出来上がった。そうして九月十一日午前六時から二番町会所でつきはじめたが、間もなく鐘に割目が生じ改鋳にせまられた。坂下町の鍋屋仁左衛門は、高岡鋳物の声価を傷つけたことを悲しみ、自ら多額の金品を寄付し、浄財を集め工人を督励なして、文化三年(1806)七月遂に見事な大鐘を完成した。

これがこの時鐘で、口径百十二糎(cm)、唇厚十八糎(cm)、高さ百九十七糎(cm)、重量二千二百五十キロあり、鐘面一杯に皆川淇園の筆になる銘が刻んである。

以来朝夕高岡町民に親しまれてきたが、明治十二年以降数度の火災により移転され、その後大佛寺に寄付されて今日に至っている。

昭和四十六年七月 高岡市教育委員会

[203] 「時の鐘」が明治初期まで山形にもあったという地図がある! ( 山形県 ) - TADyのブログ - Yahoo!ブログ () http://blogs.yahoo.co.jp/jm7qzj/18385772.html

[204] 権現山の「時の鐘」 (「お話・岐阜の歴史」サークル著, ) http://book.geocities.jp/gifurekisi/rekisi/no12.htm

[205] ◆◇覚音山 西徳寺◇◆ () http://www.saitoku.net/bonsyou.htm

[206] 貴重な資料から伝わる延岡の偉人や歴史の魅力 () http://www.city.nobeoka.miyazaki.jp/display.php?cont=140501155419

明治11年から昭和38年まで市民に時を告げてきた初代・城山の鐘。この鐘を聞きながら、牧水は学校に通っていました。

[207] ドンの前の時鐘 再説(4) - 福岡博多の昔のお話 (くま(福岡産)著, ) http://fukuhakusekijou.blog.fc2.com/blog-entry-37.html

[208] 甲府城&信玄公祭り - 裏辺研究所 (kaneyoshi urabe 裏辺金好著, ) http://www.uraken.net/museum/castle/shiro14.html

甲州夢小路「時の鐘」

明治初期まで200年以上にわたり、住民に時刻を知らせていた「時の鐘」を推定復元したものです。

[209] 鐘撞堂(時鐘楼) / 島原市 () http://www.city.shimabara.lg.jp/page2897.html

延宝3年(1675年)9月、初代島原藩主・松平忠房が「人々に時刻を知らせ、守らせることは政治の中でも大切なことである。」と、鐘楼を建立しました。

巨鐘は豊後国中島の藤原正次に鋳造させたもので、純金を鋳こんだ高さ1.3メートル、代銀401匁の青銅製の鐘が吊り下げられ、これを毎時間ごとに撞き鳴らして時刻を知らせていました。 ひときわ美しく澄んだ音色は遥か遠くまで響き渡り、西風の日は熊本県沿岸まで28キロの海をわたって聞こえたと伝えられています。堂の下は空洞で、音を共鳴させる特殊な構造になっていたそうです。

明治維新後も、島原の人たちに「お上の鐘」として親しまれ続け、飯塚家がここに住み着き3代にわたって鐘つきをしました。しかし、生活に溶け込んでいた時鐘も太平洋戦争の金属供出命令によって昭和19年(1944年)に運び去られ、270年間もの長い歴史の余韻を残したままその行方はさだかではありません。

[210] 川崎市高津区:大山街道コース () http://www.city.kawasaki.jp/takatsu/page/0000026554.html

農作業をしながら出役の時間を知る方法として、天保5年(1834年)には光明寺の了解を得て、代官所へ同鐘を時の鐘として使うことを申し出て、許されている。

[211] 徳島地方史研究会 コラム・書評: 【研究ノート】「管内布達」「御布告」などに見る明治初期の世相/松本 博 () http://tokushima-rekishi2.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html

当時はまだ名東県といわれていた本県ではつぎの「管内布達」にも示されているように、明治5年1月11日の昼十二字(時)より、毎日、徳島城内で空砲が一発打ち上げられ正午を報せることになった。県庁からの布達である。この≪ドン≫は新しい時代への「予兆」だったのだろうか。当時の大砲の写真はないが、のち大正天皇の御大典記念事業で城山に設置されたと伝わる昭和初期の写真(『写真で見る徳島市百年』より)があるので参考のために掲げておこう。

於城内来ル十一日ゟ昼十二字

大砲一発ツゝ毎日時號砲執行

候条為心得相達候事

壬申正月 県 庁

(明治五年「管内布達」名東県)

[212] 徳島地方史研究会 コラム・書評: 【研究ノート】「管内布達」「御布告」などに見る明治初期の世相/松本 博 () http://tokushima-rekishi2.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html

次の布達は明治6年9月30日付で、名東県権令の林茂平から第一大区々戸長に対して出されたもの。「番外」の布達である。これによると今後午前六時と午後六時に≪報時鐘≫を大滝山外2ケ所において打ち報せることになったとしている。

番外 第一大区々戸長へ

大瀧山外二ケ処之報時鐘

今後午前六時ヨリ午後

六時ニテ打報候条此段

及布達候事

九月三十日

名東県権令 林 茂平

(明治六年「管内布達」名東県)

[213] 徳島地方史研究会 コラム・書評: 【研究ノート】「管内布達」「御布告」などに見る明治初期の世相/松本 博 () http://tokushima-rekishi2.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html

出火之節於城山為知

鐘相廃止今後寺院

釣鐘市中半鐘ニテ為

相知候条此段可相心得候

壬申三月 県 庁

(明治五年「管内布達」名東県)

  ここに示した布達は、明治5年3月に出されたもの。火災があったとき、城山にあった鐘で市中に報せることを廃止して、街中の半鐘を打ち鳴らして報せることになったので心得るようにというものである。これは時報ではないが、以後長くつづくことになる街の防火の営みである。

[214] 高須別院 二恩寺紹介 () http://www.ogaki-tv.ne.jp/~takasubetsuin932/concept.html

高須藩の「時の鐘」は初代善行公の命により海津町高須の瑞応院に設置されたもので、作成者は、尾張藩の鋳物師頭の六代目水野太郎左衛門政良である。

善行公は宝永2年5月13日に、高須に入部しているが、この頃「時の鐘」の設置を命じたらしい。さて「時の鐘」は明治維新後に、瑞応院から二恩寺(高須別院)に移された。先の大戦においては、元和以降に造られた梵鐘の多くが供出されたなか、地元の努力により供出を免れ、今に残るのは大変貴重な事と思われる。

[215] 国立国会図書館デジタルコレクション - 東洋灯台表. 昭和13年11月12日調査(上巻) (水路部 []著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1115191/262

[216] どんの山午砲台 長崎遠めがね () http://hoshinabe.ojaru.jp/012_gohoudai/gohoudai.html

[217] () http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/160547/1/tnk000065_272.pdf

[218] () http://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/kenshin/vol65_bessatsu_p379.pdf

沖縄気象台業務履歴

1896(明治29). 1. 1 標準時変更(勅令第 167号)、西部標準制が定められ、八重山及び宮古島列島の

標準時は東経 120度の値を使用することになる。

1901(明治34). 8. 6 震災予防調査会から電話器 1組配布、正午時報受信開始

[219] 江戸資料 () http://www004.upp.so-net.ne.jp/anny/kaitei/edo.html

江戸城でお城坊主が打った(昼夜12回)太鼓の音を標準時とした。明け六つで見附○○の門を開け、暮れ六つで閉じた。町内の木戸は四つで閉める。

[221] Edinburgh One o'Clock Gun | Edinburgh Time Gun () http://oneoclockgun.1oclockgun.org/index.html

[222] World Time Guns () http://oneoclockgun.1oclockgun.org/WorldTimeGuns.html

[223] 5.標準時制度ニ関シ京橋区矢沼伊三郎問合ニ関スル件 明治四十五年二月 (アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records著, ) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_B12082174100

[226] 号砲設置の件 (アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records著, ) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C03030752600

[227] 火薬払下の件 (アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records著, ) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C03030873200

[228] 号砲貸渡の件 (アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records著, ) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C04013605900

[229] () http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1917/pdf/191803.pdf

[230] ( ()) http://prc.nao.ac.jp/museum/arc_news/arc_news123.pdf

[231] アーカイブ室新聞 (2011 年 3 月 23 日 第 436 号) () http://prc.nao.ac.jp/museum/arc_news/arc_news436.pdf

[232] 柏木家文書 台東区ホームページ (Taito city著, ) http://www.city.taito.lg.jp/index/kurashi/gakushu/bunkazai/yuukeibunkazai/komonjo/01582852201501281.html

[233] () http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho364.htm

[234] 時の鐘 (台東区上野公園) - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E3%81%AE%E9%90%98_(%E5%8F%B0%E6%9D%B1%E5%8C%BA%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%85%AC%E5%9C%92)

[235] 岡本綺堂の東京を歩く(時の鐘散歩) () http://www.tokyo-kurenaidan.com/okamoto-tokinokane1.htm

[236] () http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho223.htm

[237] () http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho315.htm

[238] 高野山 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1

六時の鐘

高野山の中央にあり、午前6時から午後10時の偶数時に鳴らされる。

[239] () http://katsu.watanabe.name/ancientfj/article.php?mid=TSUNTSUN.94Jan20093921%40slave9.pure.cpdc.canon.co.jp

電話回線を使った標準時供給シ�ステムは,2月1日から試験的に運用

を開始します.利用にはID登録が必要で,そのための手続きは財団

法人電波�システム開発センター研究開発部(03-3592-1101)で,実

費で取り扱うそうです.

[240] 国立国会図書館デジタルコレクション - 現行通信法規. 第4巻 (電信電話編) (警眼社編輯部 編纂著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1087357/667

[241] 漏刻台(水時計) () https://yukos.securesite.jp/dazaifu/d07mizu.htm

[242] (6)日本標準時の通報 : 平成4年版 通信白書 () http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h04/html/h04a03010306.html

[243] () https://www.city.oita.oita.jp/o029/shisejoho/kohokocho/koho/shihooita/documents/0383-s37-06-15.pdf

[244] () https://www.city.oita.oita.jp/o029/shisejoho/kohokocho/koho/shihooita/documents/0060-s25-07-07.pdf

[245] () https://www.city.oita.oita.jp/o029/shisejoho/kohokocho/koho/shihooita/documents/0101-s26-05-11.pdf

[246] 世界の標準時報局 () http://ogino.c.ooco.jp/bcl/stdtime.htm

[247] 國立公共資訊圖書館 數位典藏服務網 ─ 查詢服務 (1953/04/02 ) http://das.ntl.gov.tw/sp.asp?xdurl=BrowseTopic/gipControler.asp&uid=topic_result_detail&cur_do_index=1&xml_id=0000634194&ctNode=213&dtdname=+%3A+%E8%88%8A%E5%A0%B1%E7%B4%99

劃一標準時間

自本月一日起電廠每晚對時

[248] Kyoto University Research Information Repository: ラヂオ報時の増加 () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/168666

[249] Kyoto University Research Information Repository: 臺灣日蝕紀行(3) () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/168355

[250] Kyoto University Research Information Repository: 本邦港灣に於ける報時信號 () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/167827

[251] 第3次吉田内閣次官会議資料綴・昭和25年5月(昭和25年5月1日~5月29日) (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001374276

電波技術審議会令(電気通信省)

[252] 第3次吉田内閣閣議書類綴・昭和25年5月(昭和25年5月2日~5月30日) (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001374412

電波技術審議会令(電気通信省)

[253] 第6章 小笠原長行と幕府の滅亡 () http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/edo-end06.htm

英国側が3隻の汽船を拿捕したのが7月2日(西暦8月15日)の朝9時のことでした。これに対して、薩摩側は同日の正午ちょうどに轟然と英国艦に対する砲撃を開始しました。英国の側の緊張感の欠如は、これが正午であったため、最初のうち、正午を知らせる時砲だと思っていたことに、よく現れています。

[254] () https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/59/3/59_3_61/_pdf

[255] () https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1888/50/507/50_507_1159/_pdf

(12)時 刻 及 び 警 報 の 通 知

日出時及び 日沒時 を参 考 として決定 した標準 點燈消燈時限 に、當 日の天候如何 を考慮 に入れて

一時間以内の加 減 をして當 日の時限を確定 し、中央配電所か ら關係 各所 に通知す る。此 の時 同時

に、標準時 をも併せ通知 する。配電支所 は之に其 の地方の天候 を顧慮 して更 に多少の修 正を加 へ

管内の時限 を決定 して居る。

[256] 矢口は脱退した。藤本はどうするね? - 練成 にわとりメモ () http://d.hatena.ne.jp/ameni/20070525

[90] 時報の元祖「報時器」, () https://www.postalmuseum.jp/publication/research/docs/research_04_09.pdf

[91] 1920年に東京教育博物館で開催された「時」展覧会の出品物の調査, 井上毅, 佐々木勝浩, Bull. Natl. Mus. Nat. Sci., Ser. E, 38, pp. 23–34, () https://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/38/BNMNS_E38_23-34.pdf

[92] 梵鐘 () http://www.carillon.co.jp/kankoku.htm

[93] () http://prc.nao.ac.jp/museum/arc_news/arc_news847.pdf

[94] Kyoto University Research Information Repository: 本邦港灣に於ける報時信號 () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/167827

[95] Kyoto University Research Information Repository: 珍しい時計のいろいろ () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/167674

[97] 1 戦国時代に鐘を用いた戦いの有無を知りたい。2 鐘撞台を有する城が、あったのか。その目的は何か知り... | レファレンス協同データベース (国立国会図書館著, ) http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000088673

[98] () http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005862.pdf

[100] 宮崎・延岡の城山公園鐘つき堂で「鐘まつり」 鐘守が時を告げ141年 - 日向経済新聞 () https://hyuga.keizai.biz/headline/612/

城山の鐘は1878(明治11)年から戦争で中断する1943(昭和18)年ごろまでは、毎日24時間、1時間ごとに鐘守が鐘を突いて時を知らせてきた。

初代・鐘守は、旧藩主・内藤政擧(ないとう・まさたか)公の計らいで、稲田藤三郎さんがその任につき、以来、1996(平成8)年8月まで、稲田家が5代にわたって鐘を突き続けた。現在は市の委嘱を受けた鐘守が毎日、午前6時から午後5時までの1日6回、鐘を突いて市民に時を知らせている。日高夫妻は同市北浦町出身で、2年前に鐘守に就任した。

[224] 全国に残る時の鐘 () http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4019792/www.tsm.toyama.toyama.jp/_ex/curators/aroom/edo/toki/ji-kanelist.htm