[48] 元号名に天晴、 天政、 天星、 天成が知られています。 >>47
[50] 「てんせい」と読まれています。 >>12, >>65, >>182, >>228, >>262, >>25, >>42, >>17, >>1, >>41, >>27, >>65, >>70, >>468
[77] 現在知られている用例は、元年の5月から10月と書かれています。 2年以降の例は見つかっていません。
[519] 発生と拡散の過程は未だほとんどわかっていません。
[518] 現在までに4種類の漢字表記が知られています。 同音で同年なので、同じ元号と考えられています。
[49] 漢字表記がはっきりしないまま音声だけで各地に伝わったと考えられています。 >>153, >>47, >>17, >>1, >>468 高知県立歴史民俗資料館の前副館長浜田真尚の見解 >>1 とのこと。
[78] 高知県内の「天晴」が現在知られている最古の例です。 発見数も「天晴」が圧倒的に最多です。 この表記が原形なのでしょうか?
[10] 日本国高知県高知市で活動する NPO 地域文化計画の副理事長の中村茂生は、 慶応度の改元で最終案に天政があったとし、 それが誤って広まった可能性があると指摘しています。 >>1
[318]
中村茂生は普通は元号名に晴
や星
は使わないとも述べており、
天政が原形とみているようです。
>>1
[319]
日本年号史大事典によると p.
[320] 日本年号大観によると、 天成は康平度、 嘉保度、 元亨度、 元禄度、 永保度、 元応度、 慶応度 (菅原修長)、 天政は慶応度 (菅原在光)、 天静は元治度 (菅原為栄) に提案されています。
[523] 明治時代の人の証言で、京都から高知へと改元の情報があったとされています (>>249)。 つまり改元デマに由来する私年号ということになります。
[75] 伝播経路は、根拠を示していない憶測を含めいくつかの断片的な案はあるものの、 十分検討されていないようです。
[126] 漢字表記について、 同じ西諸木地区で天政と天晴の2種類があることには疑問があります >>44, >>125。 どのように改元伝達がなされ、どの時点でどう漢字が変化したのか、 現状では使える情報は少ないものの、 仮説をいくつか立ててみるのも一案でしょう。
[51] 翌年「てんせい」に改元されるとの噂を聞いた民衆が、 藩の許可無く使い始めたものだとする説があります。 >>47, >>17, >>468
[524] 中世私年号は平時の改元伝達ルートに何らかの理由で改元デマが混入したとする説が平成時代以来通説化しています。 幕末とは改元伝達ルートの構造が違っていると考えられますが、 同様の伝達過程をたどった可能性はあります。
[525] 通常のとは異なる独特の改元伝達を想定する説もあります (>>446) が、 現状では肯定も否定も難しいです。
[521] 高知県の領域内で考案されたという人もいますが、 そこで使われていたからという以上の根拠は無さそうです。 京都から伝わったとする証言 (>>249) とは矛盾します。
[522] 三条実美の人脈が関与したとする説もあります (>>472)。
[520] 都市部より農村部に分布しているという人もいます。
[558] 高知県下の全域に用例が分布していますが、東西ほぼ中央にある高知市からみて少し東側の地域に用例が多いのは示唆的です。
[569] 慶応3年の用例は、5月のものと9月前後のものの2群があり、 6月、7月付けのものや、11月以後のものは見つかっていません。 たまたま中間のものが未発見であるに過ぎないのか、 噂が2度 (慶応4年も含めれば3回) 伝播したのか、 更なる資料の探索と検討が必要と思われます。
[383] に2例 (>>14, >>6) が知られるようになりました >>382。
[398] の坂本正夫の調査の時点で6例 (>>6, >>14, >>24, >>20, >>5, >>30) が知られるようになりました >>375 (>>43)。
[273] 時点で日本国高知県内で6例 (>>14, >>6, 赤岡町, 春野町2箇所, 吾川村) が知られていました >>272。
[32] ないしの時点の研究 (>>161) では日本国高知県内のみで10例 (>>20, >>24, >>5 など) が知られていました。 >>28 天晴の石灯籠は4例 >>28, >>216 (>>6, >>14, >>29, >>30) が知られていました >>28。
[313] 末の展覧会で13例が展示されました。 >>17 当時知られていたすべての用例が展示されたということでしょうか。
[4] 平成31(2019)年時点で日本国高知県内で13例 (天晴が11例) が知られていました。 >>1, >>2
[155] 平成31(2019)年時点で高知城歴史博物館によると13例が知られていました。 >>153
[254] 時点で日本国高知市南国市によると天晴は日本国高知県で12例が知られていました。 うち石造物が8箇所10例、そのうち石灯篭が6箇所8例でした。 棟札が1例でした。 >>252
[541] 現在までに存在が判明してこのウィキ頁に掲載されているものは、
の合計17件です。また、同時代と思われる人の証言 (の記録) が1件 (>>249) 伝わります。
[306] >>14, >>20 は銘文がまったく同じで、令日も共通で、 関係性を指摘する人もいます。 >>18, >>25
[561] 峠の灯明台 (>>30) は明治のものと対になっています。
[349] に発表された慶応大学で新規整理した所蔵書リストにも、 新出の天晴私年号資料があります (>>347)。 寄贈した田宮家は、 土佐藩の郷士で、明治維新後に大阪に移ったといいます >>86 #page=2。
[489] 「天晴のはしめの年」 (>>66) の「はじめのとし」は元年の訓読です。 和風月名の神無月と共に和風の表記で用いられることがあります。
[562] これらの資料の時代について、慶応3年説が成立して以来個別に詳細に検討されていないように見えるのですが、
から総合的に判断して、やはり慶応3年で妥当と考えられます。 ただ、個別の遺物の様式や銘文の内容などからそれぞれの時代を判定する基礎的な作業は改めて行われるべきです。
[317] の新聞記者の取材に対し、 森神社 (>>5) を毎月掃除しているという地元の女性(60歳)は、 天政のことを全く知らなかったと語っています。 >>1 関心を持っていない人にはまったく気付かれずにいたようです。
[535] 他に天成があるとされます >>47 が、不明です。
[249] 明治二十二・三年(,)頃、 高村晴義 (>>421) は神峯神社の石灯篭 (>>6) の「天晴元年」 に気づき、 堂守に質問して回答を得ました。 >>420 (>>375)
[432] 堂守は当時をリアルタイムで経験した人でしょうか。貴重な証言です。 ただ当時から聞き取りまで20年強 (高村晴義は30歳くらい)、 聞き取りから発表まで更に50年強 (高村晴義は75歳くらい) と随分と時間が経っている >>420 (>>375) のは不安材料です。
[433] これをそのまま信じるなら、
ということになります。
[438] しかしその後いつしか改元情報があったので石灯篭を立てることにしたと解釈されるようになります (例えば >>283, >>251)。
[381] 平成時代の研究者が代替わりによる改元 (史実の明治改元) の誤解説を取っていますが、この証言では政情不安としか言っていないことには注意が必要かもしれません。 代始改元なら慶応2年12月の孝明天皇の崩御まで (尊王云々を抜きにすれば慶応2年7月の徳川家茂の死去まで) しか噂の始まりは遡り得ないことになりますが、 政情不安が改元理由ならそれ以前から出回っていた噂の可能性があります。
[570] 慶応2年は第二次長州征伐をはじめ混乱の年でした。
[461] 天政が慶応度の公年号候補から生じたデマとする説 (>>10) に従えば慶応の改元定の頃まで遡る可能性があるわけです。
[53] >>1, >>47, >>468、 高知近代史研究会の会長 >>47, >>468 で日本国高知県高知市の NPO 地域文化計画の理事 >>1 の今井章博が日本国福岡県宗像市の古書店で入手しました >>47, >>468。 市 (宗像市か) 内の寺に関する文書でした。 >>1 令和改元直前のに新聞で報じられました >>38。
[571] 書写者と思われる人名がありますが、どのような人物かはわかりません >>196。
[354] この文書はに自治体史で紹介されました。 >>82 いつから知られていたかは不明です。
[355] 自治体史では「天政元年」という元号に注意を促しながらも、 それが何であるかには踏み込んでいませんでした。 >>82 そのためか私年号研究の分野では令和時代に至るまでまったく見落とされてきました。
[356] この文書は、2月に明治政府が長寿者表彰のため各村に報告を求めたものに対する回答とされます。 >>82 日付に十二支年が「辰」と明記されていることからも、 「天政元辰年」がを指すことがわかります。
[357] 慶応3年卯が元年の西日本の「てんせい」と違って慶応4年辰が元年であることに注意が必要です。 また、飛騨では幕末に一時亀光が使われたこともありました。
[358] 旧幕府領で明治政府が接収して間もない飛騨地域の山村という位置も注目されます。
[71] 用例が多数見つかっている日本国高知県では比較的関心が髙いようです。
[72] 令和改元の前後には特に関心が高まったようで、 イベント開催やメディアでの紹介が複数回ありました。 新史料の発見もありました。 (亀光の状況とも似ています。)
[62] 令和改元をきっかけに関心が高まり新発見があったり、 それに因んだ命名 (>>55) があったりしたようで、 改元のメリットを享受した幸運な私年号ですねw
[173] の日本国高知県の高知県坂本龍馬記念館・現代龍馬学会の会員唐石淳子の記述によると、 日本国高知県南国市領石の天満宮石灯籠 (>>29) の私年号用例には従来地元ではまったく関心を払ってきませんでした。 銘文は風化が進み、どうにか保存できないのかと困っていたようです。 >>28
[157] 、 南国市立中央公民館開催の南国史談会例会の第38回は 「幕末土佐でのみ使用された私年号「天晴」」 がテーマでした。 >>156
[311] 平成29年末から平成30年にかけて、日本国高知県高知市の高知城歴史博物館では、 天晴の写真展が開催されました。 >>69, >>17
[154] 令和改元直前の、 日本国高知県安芸郡田野町で 「幕末の土佐で使われた謎の私年号「てんせい」を探すツアー」 と銘打った田野町大野地区の大山祗神社の見学会がありました。 >>153
[359] には、 天晴関係の活動を続ける日本国高知県高知市の NPO 地域文化計画がトークイベントを開催しました。 >>70
[323] 令和改元のあった10連休には、 高知県立歴史民俗資料館で特別展があり、 天晴銘棟札 (>>36) の実物が初展示されました。 >>322, >>41
[345] には、 までに認知されたばかりの高松順蔵の用例 (>>66) が日本国高知県安芸郡安田町の企画展で展示されました。 >>65
[121] 地元では観光名所として扱われているようです >>131。
[187] その他高知県の自治体のウェブページや広報誌、 観光関係、 歴史関係、 登山関係、 一般のブログ記事などでしばしば紹介されています >>183, >>169, >>185, >>156, >>182, >>158, >>213, >>235, >>252, >>262, >>266, >>267, >>268, >>37, >>67, >>33, >>39, >>27, >>68, >>179。
[188] 裾野が広がるとどうしても怪しげな説明も出てくるもので、 「使用されることのなかった“幻の年号”」が使われているという不思議な解説 >>185 もあったりします。
[195] 令和の新元号の発表の前日には、 BS-TBS の特番で天晴も紹介されたようです。 >>194 番組内容は不明ながら、 SNS での反応によればあまり品質はよくなかったようです >>193。
[370]
令和時代初期の九州王朝説の支持者のブログ記事では、
陰謀論の材料として古代年号との対比で使われたりもしています。
>>99
(過去の学説から自説に都合のいい部分だけ切り取って繋げたに過ぎず、
天晴に関する引用を除けば主張の根拠も示されていません。
[458] 令和改元直後に発行されたオカルト雑誌のムーの記事で、 私年号を取り上げたものがあります。 私年号の事例として天晴を紹介していました。 それ自体は普通の紹介なのですが、 そして妖怪の油取りと関係があるのだ、 と強引な展開に持ち込んでいます。 >>269 (そういう芸風の雑誌です。)
[260] の地元自治体広報誌は、 「高知県のみ」 で 「天晴への改元が信じられていた」 ことを 「時代の流れの中で明るく生きようとした土佐人のユーモアが感じられる」 と評しています。 >>252
[261] 改元デマに踊らされるのがユーモアなのか?と突っ込みたくはなりますが、 このような郷土ナショナリズム的な評価は私年号に限らずどこの地域でもしばしば見られるものです。 天晴に限ってもいくつも類例を拾うことが出来ます。
[34] に高知市民図書館は 「高知にしかなかった年号」 が 「天が晴れると書いて天晴という文字になります。実に高知の人らしい命名かなと思います。」 と評しています。 >>33
[500] 高知県民と思われるブログ記事で 「ほぼ1年先取りして独自の改元をしたことになる。高知県人の県民性」 と述べているものがあります。 >>44
[325] 令和改元時に書かれた高知県民と思われるブログ記事は、 研究者らの見解 (出典は明記されていないものの、 従来説をなぞった内容) を示した後に、 「与太咄」 として次のような見解を示しています (根拠はなし)。 >>27
[55] 、 日本国高知県高知市の旅館城西館は、 全面リニューアルした本館を天誠と命名しました >>54, >>56, >>57, >>58。
[59] この名前は高知で使われた私年号の天晴に因んだものとされます。 >>54
[60] この旅館は皇族が繰り返し宿泊するような由緒正しい老舗のようで、 そんなところで私年号から命名しちゃっていいものか気になりますが、 まあ私年号といっても朝敵が使ったわけではありませんからね。
[61] ちなみにこの旅館の沿革には 「平成31年2月 (2019年2月)」 の次が 「令和元年4月 (2019年4月)」 の「「天誠」客室リニューアルオープン」 で、その次が 「令和元年5月 (2019年5月)」 と書かれていました。 >>58 令和元年は5月からなので、遡及年号の形になります。 ただの書き間違いでしょうが。
[421] 近代の日本国高知県の民俗研究者高村晴義は、 明治22,3年頃に四国遍路巡礼の折に神峰神社を訪れたことをの雑誌記事に書き残しています。 >>420 (>>375) 天晴について地元住民にたずねた所、改元デマがあったとわかったのだそうです (>>249)。
[372] その後この私年号のことは忘れられていました。 近代の私年号研究でこの私年号が紹介されたことはありませんでした。
[373] 昭和時代中期の日本私年号の研究には掲載されませんでした。 久保常晴はこの私年号を知らなかったと考えられます。
[168] 昭和時代における天晴の研究は、 日本国高知県安芸市の市史編纂に携わっていた小松栄次 (>>274) が土居春日神社の用例 (>>14) を検出したことに始まり >>28 (広谷喜十郎), >>375、 続く調査で他にも1例 (>>6) が検出されました >>12。
[382] 付高知新聞記事 〈天晴〉ハテ? 奇妙な年号・史家も当惑・安芸市と安田町の神社で見つかる でこの2点 (>>14, >>6) の発見が報じられました。 2点を発見した小松栄次 (>>274) は、 年表、古老の話、干支年などから慶応3年と推定しましたが、 なぜ天晴が使われたのかはわからないとしていました。 記事では、 農民一揆やええじゃないかで民衆が狂乱した頃で、 時代の変革期で招来への明るい願望を込めて新元号を「天晴」 と予想したのかも、 と推測していました。 >>375
[388]
広谷喜十郎 (>>377) は、
小松栄次 (>>274)
と共に安芸市史の編纂に関与していました。
広谷喜十郎は小松栄次から天晴のことを聞いていました。
広谷喜十郎は、
に出版された
「写真で見る安芸市史」
の位置付けの書籍
あき・市制二十周年
に小松栄次が撮影した >>6 の写真を掲載 >>117 しました。
>>375
ただそのときの調査では「
[397] 高知県内各地に天晴の用例があることは、 しばらく新聞紙上などで話題となりました。 >>375
[394] 昭和時代の郷土史家橋詰延寿は、 高知新聞 記事 (>>382) に触発されて日本国高知県で発行されていた雑誌 県民クラブ の昭和49年7月号、昭和49年8・9月号で天晴を紹介しました。 また、 諸木の記録 でも紹介しました。 >>375
[395] この 諸木の記録 (>>118) は、 引用、 所蔵図書館や販売古書店の書誌情報などでの刊行とされています >>393, >>375。 ところが図書館の書誌情報によると 「昭和30~40年代新聞スクラップ」 と内容が説明されています >>393。 昭和37年の日付がありながらも実際にはそれ以後も書き継がれて成立したということでしょうか。
[396] 橋詰延寿は諸木の記録 (>>118) で、 天政は天正と思いきや十二支年が合わず、 安政、寛政、文政でもなく、 天晴となるとさっぱりわからず、 一体いつなのだろうと述べていました。 >>375 既に提出されていた慶応3年説 (>>382) には納得できなかったのでしょうか。
[288] に日本国高知県の山崎清憲は、 街道の紹介の書籍の中で鈴ヶ峠の用例 (>>30) を紹介しました。 次のように述べています。 >>287
[302] 山崎清憲は歴史の専門家ではなく、本人が「勝手な想像」と断っている通り、 天明説は史料的根拠のある説ではありません。これ以前に発表されたのかは不明です。 また、2点の石灯篭より先に存在を知っていたようですが、 具体的にいつから知っていたのかは不明です。 有名な峠のよく目立つ位置の灯籠のよく読める銘文ですから、 峠を通る人達には (私年号史料としての認識はともかく) 不思議な紀年銘があることは昔から知られていたのかもしれません。
[303] 「「神楽囃詞引用説」」というのはよくわかりませんが、書名などではなさそうで、 神楽の「あっぱれ」の詞を引用して元号としたという説、 ということでしょうか。書き方から、 山崎清憲の説ではなく3点(以上)の石灯篭が知られた後に誰かが唱えた説ということでしょう。
[239] の土佐山田町史は文献資料 (>>15, >>16) から慶應と明治の移行期に天晴が使用されたと指摘しました。 >>13
[238] に坂本正夫が全国的に私年号として紹介しました >>43。 坂本正夫らの調査で日本国高知県の東は田野町から西は越知町までに多数の天晴, 天政, 天星の用例が知られるようになりました。 >>12 (>>398 では天晴と天政の6例)
[274] 、地元郷土史家の小松榮次 (>>6, >>14 の報告者) は、 次のように紹介しました。 >>272
[377] 天晴の研究に大きく貢献した1人が昭和時代から平成時代の土佐史研究者広谷喜十郎です。 広谷喜十郎は高校教員や公立図書館員の他、 数々の自治体史の編纂や文化財保護の委員を務めました。
[378] 広谷喜十郎は地域史を幅広く研究しましたが、 には義民伝承について発表しています。 天晴は世直し願望により明治のかわりに多くの土佐人に用いられた私年号と理解していたようです。 >>376 の天晴についての論考も、 義民伝承の研究からの発展という形になっています。 >>375
[460] に広谷喜十郎は次のような見解を示しました。 >>375
[240] に広谷喜十郎は日本国高知県高知市の広報誌で天晴を 「幻の年号」として紹介しました。 次のように説明しました。 >>12
[503] に広谷喜十郎は歴史愛好家グループの機関誌で天晴を紹介しました。 基本的には従来の発表内容を繰り返したに過ぎませんが、 >>460, >>240 にない記述を拾うと: >>502
[123] 近世や幕末の私年号がいくつもあることがわかった現在から振り返ると、 元号は「上意下達の封建体制」の聖域というほどのものではなかった、 ということですかね。
[469] そもそも、という話をしてしまうと、 藩の指示であれ勝手にであれ多数の人員が京阪方面に出て行ってそれぞれの思惑で動き回り、 幕府や藩の制御できない形で情報を国元に送ったりもしているわけですから、 慶応時代には既に「上意下達の封建体制」なるものはほとんど存在していないのです。
[470] 平成時代の天晴に関する説明の大部分は、明示的に引用していないものも含めて、 広谷喜十郎の説やそこから派生した説が基になっているようです。
[257] の地元自治体広報誌も石灯篭は製作に時間がかかるため、 改元を予見して建立したものだと解説しています。 >>252 >>250 を踏襲したものでしょうか。 (ただしこちらは翌年の改元とはしていません。)
[258] 改元を「予見」したのか改元が「あったと理解した」のか、 どちらなのか判定できる資料は今のところありません。 私年号研究一般では「あったと理解した」結果使われたと推測するのが基本です。 「あったと理解して使う」に比べて「予見して使う」というのは特殊な行為なので、 そうであるとするなら相応の論証が求められます。
[259]
なお、
前近代には (いったん改元が施行されると過去の)
日付記述において改元日はあまり重視されず、
元日まで遡って新年号で書かれることがあり得ること、
一方で幕藩体制が盤石だった時期なら未施行元号の先走り使用は厳禁されていたこと
(
[161] に日本国奈良県の奈良大学が開催した第3回全国高校生歴史フォーラムで、 日本国高知県高知市の高知県立高知東高等学校の片岡靖裕が、 幕末土佐の私年号 ―「天晴」を検証する!― を発表し、 優秀賞を受賞しました。 >>160, >>162 同校の郷土史クラブの活動の一環でした。 >>42
[165] の情報によると、 高校3年 (平成21年度か平成22年度か不明) の片岡靖裕の論文 私年号天晴を検証 では10例が報告されていました。 >>28
[166] 題名が違いますが、受賞した論文そのものを指すのか、 別にまとめられたものがあるのか不明です。 また、当時地元で興味ある人が入手できていたことがわかりますが、 現在これを入手する方法があるのかは不明です。
[310] >>42 には表紙のカラー写真があります。 に発行された 幕末土佐の私年号―「天晴」を検証する― だと説明されています。
[31] に日本国高知県南国市領石の天晴石灯篭 (>>29) 前に現地住民らによって解説看板が設置されました。 天晴は土佐でのみ使用された私年号で、 参勤交代北山道の要所だった領石には中央の情報が一早く伝わっていたもので、 国内不穏に付き天晴と改元する、 と誤情報が伝わって住民は信じたに違いないとしています。 >>216 同地ではその後の調査で棟札の用例 (>>36) も見つかり、 に現地住民らにより追加の案内看板が作られました。 >>216 先人の残した文化財を大切に思う現在の住民の熱心さが伝わってきます。 には石灯篭と棟札が南国市保護有形文化財 「領石の天晴年号資料」にも指定されています。 >>227
[307] 平成時代の地元民のブログ記事では、 天晴や天政は大政奉還で国の行き先が不透明となる中で土佐の人が自分たちで新しい元号を使って広めていたのであるとし、 遍路道沿い用例が存在することからそのことに特別な意味があったのではないかと指摘しています。 >>22
[316] の新聞記事では、他の地域では慶応3年が続いていたとしています >>1。他の地域がどこを指すのか (土佐以外なのか、 土佐の天晴用例のある地域以外なのか) 不明ですし、 どの程度の調査に基づいてそう説明したのかは不明です。
[472] 、 日本国福岡県宗像市の写本奥書に 「天政元年」 の用例 (>>9) があることがわかりました。 高知近代史研究会の会長地域文化計画の理事今井章博は、 次のように推測しました。 >>468
[478] 公家の三条実美は、 に尊皇攘夷派による国政の掌握を企て失敗し (八月十八日の政変)、 朝敵となり長州藩に逃亡していました (七卿落ち)。
[479] の第一次長州征伐の結果三条実美らは福岡藩預かりとなり、 1月に福岡藩領に移動、 2月までの約1ヶ月を福岡藩領宗像で過ごしました。
[480] 中岡慎太郎は土佐藩士でしたが、 三条実美と共に行動していました。 には京都にいました。
[492] 頃、 髙松順蔵の歌集の天晴の用例 (>>66) が知られるようになりました >>65。 高松家は土佐藩の郷士の家でした。 髙松順蔵は、 歌人・儒学者で、 坂本竜馬の義理の兄に当たるほか、 弟子に中岡慎太郎がいます。
[493] の SNS 投稿によると、 「安田のギャラリーの展示」 でその歌集の用例が紹介されました >>130。 日本国高知県安芸郡安田町の町立の安田町まちなみ交流館・和でからに高松順蔵の特別展が開催されており >>495、 また常設展にも高松順蔵の展示があるとのこと >>494 で、 そのいずれかで展示されていたのかと推測されます。
[496] 展示では、 天晴は誤った元号であることをわかった上で使っているのだろうと解説されていたそうです。 >>130 その思惑までは説明されていなかったようです。 根拠があっての推測なのかは不明です。
[120] 天晴は昭和時代後期から平成時代にかけて日本国高知県では盛んに研究されましたが、 全国的な媒体での紹介は平成時代末期まであまりなく、 私年号研究の分野では見落とされてきました。
[463] 平成時代の千々和到の一覧表には掲載されていません。
[464] 平成時代のウィキペディアの一覧表に天晴が掲載され、 天政と天星がその「異説」とされています。 >>85
[536] 平成時代中期の近代諸元号現象には掲載がなく、 令和改元時の三訂 近代諸元号現象には天晴 (別字: 天星、天政) が元号名だけ紹介されました >>538。
[73] 高知県内の金石文は、これだけ話題になっているので大方探され尽くされたのかもしれません。 文献資料は令和改元の頃に新発見があった >>65 ように、まだまだ未発見のまま眠っているものがあるかもしれません。
[74] 高知県外は高知県内ほど注目されていないようなので、 今後まだ新発見がありそうな気がします。
[360] 天晴のように元号らしさがあまり感じられない用字は印象に残りやすいですが、 天政のようにいかにも元号のようなものは見落とされている可能性があります。
[526] 高知県民を中心にいろいろな人が自説を述べていますが、 論点が整理されておらず議論が深まっていない感はあります。
[527] 今後の課題を挙げるとすれば、
あたりでしょうか。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 天晴 天政・天星 慶応3年(1867年) 2 高知県下神社の石灯籠・手水鉢などに使用例多数[9]
“幻の年号「天晴(てんせい)」”. 高知市ホームページ. 高知市歴史散歩. 2019年12月6日閲覧。
[40]
この時代他にも日本各地で私年号が発生しました。
[136] KU-1100-19841125-02.pdf, , https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/4556/files/KU-1100-19841125-02.pdf #page=4
「天晴乙亥梵崟来」
[138] これは日記なので、この「天晴」はおそらく天候が晴れの意味。
[140] ところがこの日は寛永14(1637)年9月15日とされ、 日干支は庚辰で一致しない。
[141] 寛永10(1633)年4月9日説もあって、誤読とされるが、 それでも庚午で一致しない。
[142] 年干支でも月干支でもないし、時刻とも方角とも考えにくい。
天晴。乙亥、梵崟来。
と訓んでいるが、どういう解釈なのかよくわからない。
[144] 仕方がないので前後の年を調べてみると、ちょうど1年後の寛永15(1638)年9月15日が乙亥。
[189] Xユーザーのノンシュガーさん: 「今日はシュークリームも貰った上に、創業天政元年、愛知県江南市の大口屋さんのさんきら餅まで頂いちゃいました。太るよー https://t.co/kw5Swnd0HA」 / X, , https://twitter.com/Ao1BbEAEkuvj0Km/status/1003589139088924672
創業天政元年 愛知県江南市の大口屋さんのお菓子、≪三喜羅≫。
創業 文政元年(1818年)
[151]
>>150 より >>147 は文
を天
と誤読したものであることがわかります。
ブログ記事掲載写真 >>146
に同梱の案内と思われる紙片に「創業 文政元年」と筆文字で書かれていて、
ブログ記事掲載写真が低解像度なのもありますが、
たしかに天
と読んでも仕方ない字形に見えます。
公式サイトの写真 >>149 を見るとこの字形は何パターンかあるようですが、
よくみれば文
ではあるもののパッと見で天
と誤読されることも理解できる字形があります。
[174] 同じ和菓子店を複数の人が誤読しています。書いていないだけで誤解している人は他にもいそうです。
[83] 高山市史 下, 高山市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3015353/1/343 (要登録)
[175] >>83 右 「天政元年七月六日」と書かれている、原文にあるのか編集時の誤植か? 前の項目が文化11年、次の項目は文政12年なので、 市史編集者は文政元年と考えているが注釈を入れていない。
[152] 出典は高山町年寄日記とあるので、原文日付はこの表記ではなさそう、 おそらく排列から文政元年で間違いないのだろうが、 >>82 のように飛騨でも「天政」の用例があるので要注意。
[113] 国立国会図書館に所蔵されていないが地元の図書館にある関係書籍:
[556] 石造物の用例の残存数が多いのがこの私年号の特徴ですね。
[557] 土佐では毎年こんなに石灯篭を立てていたのでしょうか。それともこの年だけ多いのでしょうか。