天政

天晴 (元号)

[3] (てん) (せい) は、 幕末期の日本の私年号です。

元号名

[48] 元号名天晴天政天星天成が知られています。 >>47

[50] 「てんせい」と読まれています。 >>12, >>65, >>182, >>228, >>262, >>25, >>42, >>17, >>1, >>41, >>27, >>65, >>70, >>468

紀年法

[516] 四国九州の用例では、元年です。

[517] 飛騨の用例では、元年です。

[77] 現在知られている用例は、元年の5月から10月と書かれています。 2年以降の例は見つかっていません。

由来

[519] 発生と拡散の過程は未だほとんどわかっていません。


[518] 現在までに4種類の漢字表記が知られています。 同音で同年なので、同じ元号と考えられています。

[49] 漢字表記がはっきりしないまま音声だけで各地に伝わったと考えられています。 >>153, >>47, >>17, >>1, >>468 高知県立歴史民俗資料館の前副館長浜田真尚の見解 >>1 とのこと。

[78] 高知県内の「天晴」が現在知られている最古の例です。 発見数も「天晴」が圧倒的に最多です。 この表記が原形なのでしょうか?

[10] 日本国高知県高知市で活動する NPO 地域文化計画の副理事長の中村茂生は、 慶応度の改元で最終案に天政があったとし、 それが誤って広まった可能性があると指摘しています。 >>1

[318] 中村茂生は普通は元号名は使わないとも述べており、 天政が原形とみているようです。 >>1

[319] 日本年号史大事典によると p.740日本の公年号の歴史上天成が7回、 天政が1回、 天静が1回提案されて不採用となっています。

[320] 日本年号大観によると、 天成康平度、 嘉保度、 元亨度、 元禄度、 永保度、 元応度、 慶応度 (菅原修長)、 天政慶応度 (菅原在光)、 天静元治度 (菅原為栄) に提案されています。

[324] >>27慶応度の元号案を乾永・文隆・大暦・萬徳・慶応・明定・天政としています。 出典は不明。

[523] 明治時代の人の証言で、京都から高知へと改元の情報があったとされています (>>249)。 つまり改元デマに由来する私年号ということになります。

[75] 伝播経路は、根拠を示していない憶測を含めいくつかの断片的な案はあるものの、 十分検討されていないようです。

[126] 漢字表記について、 同じ西諸木地区で天政天晴の2種類があることには疑問があります >>44, >>125。 どのように改元伝達がなされ、どの時点でどう漢字が変化したのか、 現状では使える情報は少ないものの、 仮説をいくつか立ててみるのも一案でしょう。

[51] 翌年「てんせい」に改元されるとの噂を聞いた民衆が、 藩の許可無く使い始めたものだとする説があります。 >>47, >>17, >>468

[64] 江戸時代中の政情が安定していた頃は、 朝廷幕府 → 民衆という改元伝達ルートがありました。
[76] 実際に改元された慶応4年の1年前の慶応3年に元年が相当します。 孝明天皇崩御明治天皇践祚徳川家茂の死去と徳川慶喜征夷大将軍就任の情報も伝わっていたでしょうから、 代始改元があるはずだという認識を持っていた人々もいたことでしょう。

[524] 中世私年号は平時の改元伝達ルートに何らかの理由で改元デマが混入したとする説が平成時代以来通説化しています。 幕末とは改元伝達ルートの構造が違っていると考えられますが、 同様の伝達過程をたどった可能性はあります。

[525] 通常のとは異なる独特の改元伝達を想定する説もあります (>>446) が、 現状では肯定も否定も難しいです。

[521] 高知県の領域内で考案されたという人もいますが、 そこで使われていたからという以上の根拠は無さそうです。 京都から伝わったとする証言 (>>249) とは矛盾します。

[522] 三条実美の人脈が関与したとする説もあります (>>472)。

[520] 都市部より農村部に分布しているという人もいます。

[558] 高知県下の全域に用例が分布していますが、東西ほぼ中央にある高知市からみて少し東側の地域に用例が多いのは示唆的です。

[569] 慶応3年の用例は、5月のものと9月前後のものの2群があり、 6月、7月付けのものや、11月以後のものは見つかっていません。 たまたま中間のものが未発見であるに過ぎないのか、 噂が2度 (慶応4年も含めれば3回) 伝播したのか、 更なる資料の探索と検討が必要と思われます。

[212] >>211 諸説あるなら他にも説がありそうだが、どんな説があるのだろう?

用例

[383] に2例 (>>14, >>6) が知られるようになりました >>382

[398] 坂本正夫の調査の時点で6例 (>>6, >>14, >>24, >>20, >>5, >>30) が知られるようになりました >>375 (>>43)

[273] 時点で日本国高知県内で6例 (>>14, >>6, 赤岡町, 春野町2箇所, 吾川村) が知られていました >>272

[32] ないしの時点の研究 (>>161) では日本国高知県内のみで10例 (>>20, >>24, >>5 など) が知られていました。 >>28 天晴石灯籠は4例 >>28, >>216 (>>6, >>14, >>29, >>30) が知られていました >>28

[313] 末の展覧会で13例が展示されました。 >>17 当時知られていたすべての用例が展示されたということでしょうか。

[4] 平成31(2019)年時点で日本国高知県内で13例 (天晴が11例) が知られていました。 >>1, >>2

[155] 平成31(2019)年時点で高知城歴史博物館によると13例が知られていました。 >>153

[254] 時点で日本国高知市南国市によると天晴日本国高知県で12例が知られていました。 うち石造物が8箇所10例、そのうち石灯篭が6箇所8例でした。 棟札が1例でした。 >>252

[541] 現在までに存在が判明してこのウィキ頁に掲載されているものは、

の合計17件です。また、同時代と思われる人の証言 (の記録) が1件 (>>249) 伝わります。

土佐

日時事例

日時事例

[306] >>14, >>20 は銘文がまったく同じで、令日も共通で、 関係性を指摘する人もいます。 >>18, >>25

[561] 峠の灯明台 (>>30) は明治のものと対になっています。

[349] に発表された慶応大学で新規整理した所蔵書リストにも、 新出の天晴私年号資料があります (>>347)。 寄贈した田宮家は、 土佐藩郷士で、明治維新後に大阪に移ったといいます >>86 #page=2

[489] 「天晴のはしめの年」 (>>66) の「はじめのとし」は元年訓読です。 和風月名神無月と共に和風の表記で用いられることがあります。

[490] 「天晴」も訓読みした可能性も考えられなくはありませんが、 その場合は仮名書きか振り仮名送り仮名があったはずと考えるべきで、 一応音読みと理解しておいて良さそうです。

日時事例

[562] これらの資料の時代について、慶応3年説が成立して以来個別に詳細に検討されていないように見えるのですが、

から総合的に判断して、やはり慶応3年で妥当と考えられます。 ただ、個別の遺物の様式や銘文の内容などからそれぞれの時代を判定する基礎的な作業は改めて行われるべきです。

[13] >>12

調べてみると、安芸郡安田町の神峯(こうのみね)神社にも「天晴元年五月」と刻記された石灯籠があり、それには「安喜(あき)土居村」とも刻まれている。

その後、民俗学者・坂本正夫氏らの調査により、東は田野町から西は越知町に至る範囲に「天晴(天政や天星)元年」と刻記された石灯籠や手水鉢があることが判明し、神社の絵馬や古文書にも記されていることが確認された。それらはいずれも「丁卯(ていぼう)」または「卯年(うどし)」と併記されている。

『土佐山田町史』にも、田口家の神祭帳や高野家文書の記述を根拠として、慶応から明治に移る間に天晴年号が使用されていることが指摘されている。

「丁卯」に当たるのは慶応三(一八六七)年で、翌慶応四年九月八日に明治元年に改元されている。判明している限りでは、天晴という年号が地域的に使われたのは、前年の五月から明治元年までということになる。

神峯神社にある石灯籠の年号について、明治末期に高村晴義氏は「慶応三年の事なり(略)京阪の言信(略)此頃の国内の不穏なるにつき年号を改めてこの妖気を攘(はら)ふの議朝廷におこり」と語っている。翌慶応四年に天晴への改元の動きがあることを見越して、年号が刻記されたことの証言である。

[42] 高校生の天晴れ, ひまわり乳業株式会社 | 今日のにっこりひまわり 〔5128〕, () https://www.himawarimilk.co.jp/diary/?No=5128

高知県率東高校の生徒さんが、クラブ活動の中で纏められたもの。左端が2010年3月発行で、

幕末土佐の私年号ー「天晴」を検証するー

昔、歴史民俗資料館の館長さんだった坂本先生の論文から、南国市出身の民俗研究科、高村晴着さんが明治22、23年頃に安田町神峯神社で堂守らしき男から聞き書した貴重な話を伝えている。

それによると。幕末、安田からも二、三の志士が上京していた。そのうちの一人から、「此頃の国内の不穏なるにつき年号を改めてこの妖気を攘うの議、朝廷におこりたり」という知らせがあり、「来年は天晴と改元のある由なり」と二度ほども通知があったので、神峯神社の石灯籠に「天晴」と刻むことになったとのこと。

[86] https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00106199-20190000-0121.pdf?file_id=147073 #page=54

謫居詩存〔二〕巻存巻上

和半

919ト 3631

藤田東湖撰 門生等校

天晴元年(=慶応三年、一八六七)八月写(〔田宮穆風齋〕)

書写奥書「天晴元八月日寫於府之新街僑居/物水小史悌識」。「天晴」は土佐の一部で用いられた私年号。朱句点 等あり。識語:田宮虎次郎之悌、物水子帰、田宮子順悌、之春(いずれも本文同筆) *田宮道雄氏寄贈

日時事例

[317] の新聞記者の取材に対し、 森神社 (>>5) を毎月掃除しているという地元の女性(60歳)は、 天政のことを全く知らなかったと語っています。 >>1 関心を持っていない人にはまったく気付かれずにいたようです。

[535] 他に天成があるとされます >>47 が、不明です。


[249] 明治二十二・三年(,)頃、 高村晴義 (>>421) は神峯神社の石灯篭 (>>6) の「天晴元年」 に気づき、 堂守に質問して回答を得ました。 >>420 (>>375)

  • [422] 慶応3年のことである
  • [423] 当村 = 日本土佐国安芸郡安田村から2,3人の士が上京していた
    • [424] 京都大阪の情報は折々伝えられていた
    • [425] うち1人から、 この頃国内の不安なるにつき年号を改めてこの妖気を攘うと朝廷で議論されている、 と連絡があった
  • [426] 当時この石灯篭 (>>6) の建立を計画していた
    • [427] ならばいい機会なので新元号の銘文としようと話していた
  • [428] 来年は天晴と改元されるとのこと、と2回ほども通知があった
    • [429] それで天晴で建立した
  • [430] ところが改元されてみれば明治になっていた
  • [431] 村民一同残念だったが改刻する力もなくそのままとなった

[432] 堂守は当時をリアルタイムで経験した人でしょうか。貴重な証言です。 ただ当時から聞き取りまで20年強 (高村晴義は30歳くらい)、 聞き取りから発表まで更に50年強 (高村晴義は75歳くらい) と随分と時間が経っている >>420 (>>375) のは不安材料です。

[433] これをそのまま信じるなら、

  • [434] 慶応2年かそれ以前に改元計画の噂が流れてきた
  • [435] 慶応2年に「慶応3年が天晴元年」の噂が2回流れてきた
  • [436] 慶応2年かそれ以前に石灯篭の計画があった
    • [439] 慶応2年か慶応3年に銘文を確定した
  • [437] 銘文決定後 (銘文の日付の前か後かは不明 = 慶応2年から慶応4年の間) に誤情報と判明した

ということになります。

[438] しかしその後いつしか改元情報があったので石灯篭を立てることにしたと解釈されるようになります (例えば >>283, >>251)。

[381] 平成時代の研究者が代替わりによる改元 (史実の明治改元) の誤解説を取っていますが、この証言では政情不安としか言っていないことには注意が必要かもしれません。 代始改元なら慶応2年12月の孝明天皇崩御まで (尊王云々を抜きにすれば慶応2年7月の徳川家茂の死去まで) しか噂の始まりは遡り得ないことになりますが、 政情不安が改元理由ならそれ以前から出回っていた噂の可能性があります。

[570] 慶応2年は第二次長州征伐をはじめ混乱の年でした。

[461] 天政慶応度の公年号候補から生じたデマとする説 (>>10) に従えば慶応改元定の頃まで遡る可能性があるわけです。

[466] この証言に従えば、 この地域が土佐における天晴の発信源の1つだったということになるでしょうか。 それが土佐における唯一の発信源なのか、 他の地域にも同じような連絡があったのか、 というのも興味深い問題です。
[467] 安田村の旧家に当時の連絡の現物が残っていたりしないのですかね? さすがにもう調査はされていますかね?

徳島

日時事例]

福岡

日時事例

[53] >>1, >>47, >>468高知近代史研究会の会長 >>47, >>468日本国高知県高知市NPO 地域文化計画の理事 >>1今井章博日本国福岡県宗像市の古書店で入手しました >>47, >>468。 市 (宗像市か) 内の寺に関する文書でした。 >>1 令和改元直前のに新聞で報じられました >>38

[571] 書写者と思われる人名がありますが、どのような人物かはわかりません >>196

[116] ねんごう の写真・画像 : 報道写真・ニュース映像ならKYODO NEWS IMAGELINK(イメージリンク), https://imagelink.kyodonews.jp/search?product_type=1,2,11&keyword=%E3%81%AD%E3%82%93%E3%81%94%E3%81%86&opendetail=8893991

登録日時: 2019年04月27日 17:20:22

「天政元年」の記述 民間年号「てんせい」の謎

「天政元年」と記述された福岡県の寺の資料

提供元: 共同

飛騨

日時事例

[354] この文書はに自治体史で紹介されました。 >>82 いつから知られていたかは不明です。

[355] 自治体史では「天政元年」という元号に注意を促しながらも、 それが何であるかには踏み込んでいませんでした。 >>82 そのためか私年号研究の分野では令和時代に至るまでまったく見落とされてきました。

[356] この文書は、2月に明治政府が長寿者表彰のため各村に報告を求めたものに対する回答とされます。 >>82 日付十二支年が「辰」と明記されていることからも、 「天政元辰年」がを指すことがわかります。

[357] 慶応3年卯が元年の西日本の「てんせい」と違って慶応4年辰が元年であることに注意が必要です。 また、飛騨では幕末に一時亀光が使われたこともありました。

[358]幕府領明治政府が接収して間もない飛騨地域の山村という位置も注目されます。

受容

[71] 用例が多数見つかっている日本国高知県では比較的関心が髙いようです。

[72] 令和改元の前後には特に関心が高まったようで、 イベント開催やメディアでの紹介が複数回ありました。 新史料の発見もありました。 (亀光の状況とも似ています。)

[62] 令和改元をきっかけに関心が高まり新発見があったり、 それに因んだ命名 (>>55) があったりしたようで、 改元のメリットを享受した幸運な私年号ですねw


[173] 日本国高知県高知県坂本龍馬記念館・現代龍馬学会の会員唐石淳子の記述によると、 日本国高知県南国市領石天満宮石灯籠 (>>29) の私年号用例には従来地元ではまったく関心を払ってきませんでした。 銘文は風化が進み、どうにか保存できないのかと困っていたようです。 >>28

[157] 南国市立中央公民館開催の南国史談会例会の第38回は 「幕末土佐でのみ使用された私年号「天晴」」 がテーマでした。 >>156

[159] 南国史談会南国市を中心とした歴史・文化の研修を行う公民館のサークルとして登録されています >>158。例会の連絡先は市役所になっており >>156、 市からある程度のバックアップもあって活動していると思われます。

[311] 平成29年末から平成30年にかけて、日本国高知県高知市高知城歴史博物館では、 天晴の写真展が開催されました。 >>69, >>17

[154] 令和改元直前の日本国高知県安芸郡田野町で 「幕末の土佐で使われた謎の私年号「てんせい」を探すツアー」 と銘打った田野町大野地区の大山祗神社の見学会がありました。 >>153

[359] には、 天晴関係の活動を続ける日本国高知県高知市NPO 地域文化計画がトークイベントを開催しました。 >>70

[323] 令和改元のあった10連休には、 高知県立歴史民俗資料館で特別展があり、 天晴銘棟札 (>>36) の実物が初展示されました。 >>322, >>41

[345] には、 までに認知されたばかりの高松順蔵の用例 (>>66) が日本国高知県安芸郡安田町の企画展で展示されました。 >>65

[121] 地元では観光名所として扱われているようです >>131

[187] その他高知県の自治体のウェブページや広報誌、 観光関係、 歴史関係、 登山関係、 一般のブログ記事などでしばしば紹介されています >>183, >>169, >>185, >>156, >>182, >>158, >>213, >>235, >>252, >>262, >>266, >>267, >>268, >>37, >>67, >>33, >>39, >>27, >>68, >>179

[188] 裾野が広がるとどうしても怪しげな説明も出てくるもので、 「使用されることのなかった“幻の年号”」が使われているという不思議な解説 >>185 もあったりします。

[339] 「公年号に採用されるといわれていたが採用されなかった幻」という意味で書いたのですかね? 背景知識がなければこれだけ読んでそう解釈するのは不可能ですが...

[195] 令和の新元号の発表の前日には、 BS-TBS の特番で天晴も紹介されたようです。 >>194 番組内容は不明ながら、 SNS での反応によればあまり品質はよくなかったようです >>193

[370] 令和時代初期の九州王朝説の支持者のブログ記事では、 陰謀論の材料として古代年号との対比で使われたりもしています。 >>99 (過去の学説から自説に都合のいい部分だけ切り取って繋げたに過ぎず、 天晴に関する引用を除けば主張の根拠も示されていません。 九州年号 )

[458] 令和改元直後に発行されたオカルト雑誌のムーの記事で、 私年号を取り上げたものがあります。 私年号の事例として天晴を紹介していました。 それ自体は普通の紹介なのですが、 そして妖怪の油取りと関係があるのだ、 と強引な展開に持ち込んでいます。 >>269 (そういう芸風の雑誌です。)

[459] 強引な結びつけではあるのですが、 郷土史家の真面目な論文でも (本論とは関係ないとはいえ) 天晴からあぶら取り一揆に無理につなげている事例があります (>>457)。 ムーの記事執筆者はそれに着想を得たのか (私年号の解説は真面目にしているので論文を細部まで読み込んでいたとしても不思議ではありません)、 それとも偶然の一致なのか、どちらでしょうね。
[179] 峠データベース・詳細表示:鈴ヶ峠(高知県吾川郡仁淀川町峰岩戸/日浦), http://pdb.the-orj.org/view.php?no=3221

峠には私年号「天晴」(慶応三年)の銘のある灯明台がある。同様の「天晴灯明台」は他に安田町の神峰神社、安芸市の春日神社にあるそうだ。(「土佐の峠風土記」)

[185] 不思議の森から Volume 22, April 2010, , https://www.yokogurayama-museum.jp/wp-content/uploads/2022/03/vol_22.pdf

•鈴ヶ峠 黒森山(1017.3m)北西麓に位置する峠(822袤)。 使用されることのなかった“幻の年号”「天晴 (てんせい) ※2 〔慶応 3(1867)年;明治の前年〕の入った石灯籠(「月燈 (がっとう) 」: 本体高さ1.85㍍,砂岩製)がある。

※2 県内ではこの他、安田町・赤岡町・土佐山田町・春野町のみ で使用された私年号。

[39] 鈴ケ峠(旧吾川村~旧池川町) 私年号『天晴』 : 茶凡遊山記, ky_kochi, , https://chabon.exblog.jp/30513868/

日本史年号には現れない幻の私年号「天晴」が、土佐から伊予へのかつての往還道「旧松山街道(黒森越え)」の、「鈴ケ峠」(すずがとう)に残る灯明台に刻まれている。

画像はすべて平成23年8月のものだが、元号改正が2日後に迫るなか、私年号「天晴」を思い出したので、昔の記憶と記録を掘り起こしておこう。

[268] 佐川が生んだ偉人・田中光顕やジョン万次郎らが往き来した旧松山街道とは: 仁淀ブルー スタッフブログ, 2016年10月21日, http://niyodogawa.seesaa.net/article/442997939.html

ここに来たかったというメンバーが多かったように思います。 こことは鈴ヶ峠にある「天晴年号の入った灯明台」。 慶應の次の年号は明治ですが、慶應の次が天晴であったという幻の年号が彫刻されています。慶應3年が天晴元年であったという説が高知の随所に残っています。 摩訶不思議。

[33] 【ブックマンの読書道 vol.37】... - 高知市民図書館「しみんの図書館」 | Facebook, () https://www.facebook.com/431200447032915/posts/931209397032015/

そんな高知にしかなかった年号の名前は「天晴」。天が晴れると書いて天晴という文字になります。実に高知の人らしい命名かなと思います。また他にも、天の政(まつりどころ)と書いて「天政」や天の星と書いて「天星」というのも1例ずつあるそうです。話を戻して天晴について。この天晴の面白いところは、幕末の高知にそんな私年号があったところも面白いと思いますが、残っている史跡のほとんどに住民や地域の周知・合意があった点だと思います。高知県下でこの「天晴」は10例ほど見つかっているのですが、そのうち9例は組織性があると見られています。それほど、当時の世直し・時代の移り変わりを住民は感じていたのかなと感じます。そんな情報がこの「南国史談 39号」には記載がされています。

[267] 師走益々天晴! | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!, 2017-12-28 23:49:52, https://ameblo.jp/3091nh/entry-12340013222.html

故郷 「高知」 では、その幕末期の終わりに、突如現れて消えた幻の年号があるという。 それが 「天晴」 というもの・・・・・

なんとも晴れ晴れしたような素敵な年号ではないか! (#^.^#)

幕末の慶応3年 1867年 ・・・・・。 この年号は、高知だけでなくお隣の徳島県でも、使われていた形跡がある。 発見した方は、主に神社などの石灯籠や絵馬から知ったようだけれど、どうも大政奉還後の日本において、幕末動乱の中で日本国内外の国難を追い払おうと、

改元 がなされるという噂が、京より地方に伝えられたことが発端らしい。

あくまでも 噂 であって、 「明治」 の年号が現れるのは、この

翌年1868年9月8日なのだが、先に出てしまったこの噂によって、

「天晴」の年号だけが、どこから出たのかわからないが、すでに一人歩きで使われていたというもの・・・・・。

土佐の高知で幕末に、突如現れた「天晴」という年号・・・・・

こうした年号は、 「私年号」 といって、正史にはその名を残さないモノを言うらしいが、坂本龍馬や中岡慎太郎 土佐でいうならば、

土佐勤王党など・・・・・。 何かともの騒ぎな事柄も続いていました。

それまでの何かが、何かわからないがとんでもなく大きく変わろうとしているようだと、人々もそれぞれに何かを悟っていたんではと思います。 そんな不穏な空気を吹き飛ばしそうな「天晴」という私年号は、もしかしたら字のごとく!

その何かを、吹き飛ばしてどこまでも晴れた空のように、パッと明るくなってくれというような・・・・・、そんな意味合いもあったのかもしれませんね。 だからこそ・・・・、噂を噂と思ってなかったのか・・・・いや、噂だと知っていながらも、すでにこの私年号が使われたんだと思います。

主に神社などで、見つかっているのを見ると、やはり時代の変わり目に、これまでにない変化を、求めていたのかもしれません。 そして祈っていたのかも・・・・・・。

[266] 新元号発表!その時何をしていた? | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!, 2019-04-02 23:36:34, https://ameblo.jp/3091nh/entry-12451561744.html

今回は

何かと以前書いたブログ記事の引用が多くなるが、土佐には幻の元号が存在している。 その謎の元号と言われた 「天晴」 というものは 「てんせい」 と読み、土佐の東部・中部他 徳島県の三好でも見つかっていて、探せばもしかしてもっと出るかもしれないものだ。 以前そんな幻の元号の事を知って、学んでいるという地元高知県の学生の話題を目にしたこともあったが、一緒に記されている干支が・・・・・

1867年 慶応3年 の頃を指すとされていて、これが幕末動乱の世の中で、人々の間に広まっていた元号だったとわかっている。

明治改元は 1868年 9月8日・・・・・・

その一年前には、既に土佐においては新元号として、広まっていたという事になる。 幕末から明治維新への間の日本国では、様々な事柄があったことは知ってらしゃると思うが、「天晴」と書くだけに・・・・

その元号に込めた祈りは強い。 他にも日本では、1884年 明治17年に蜂起した秩父困民党が使ったとされている 「自由自治」 なる元号もあるそうだよ。 日本国中探してみると、いろいろと出てくるかもね。 こうゆうものは、文書や金石文の中に、正史にはその名を残さない年号・・・ 私年号 と言うらしい。

[201] ちょうず鉢の文字 民間年号「てんせい」の謎 (コード 2019042700391)の写真・画像:報道写真・ニュース映像の提供購入サービス:KYODO NEWS IMAGELINK(イメージリンク), https://imagelink.kyodonews.jp/detail?id=8893994

登録日時: 2019年04月27日 17:20:26

ちょうず鉢の文字 民間年号「てんせい」の謎

高知市内の神社のちょうず鉢に刻まれた「天政元夘」


[260] の地元自治体広報誌は、 「高知県のみ」 で 「天晴への改元が信じられていた」 ことを 「時代の流れの中で明るく生きようとした土佐人のユーモアが感じられる」 と評しています。 >>252

[261] 改元デマに踊らされるのがユーモアなのか?と突っ込みたくはなりますが、 このような郷土ナショナリズム的な評価は私年号に限らずどこの地域でもしばしば見られるものです。 天晴に限ってもいくつも類例を拾うことが出来ます。

[34] 高知市民図書館は 「高知にしかなかった年号」 が 「天が晴れると書いて天晴という文字になります。実に高知の人らしい命名かなと思います。」 と評しています。 >>33

[500] 高知県民と思われるブログ記事で 「ほぼ1年先取りして独自の改元をしたことになる。高知県人の県民性」 と述べているものがあります。 >>44

[325] 令和改元時に書かれた高知県民と思われるブログ記事は、 研究者らの見解 (出典は明記されていないものの、 従来説をなぞった内容) を示した後に、 「与太咄」 として次のような見解を示しています (根拠はなし)。 >>27

[340] 「密かに」使った説や呪術的説は他の私年号でもしばしば唱えられている (が近年あまり支持されない) 説で、それを知っていて当てはめたのか、 独自に同じところにたどり着いたのか興味を惹きます。 しかし交通要衝や有名寺社にあるのを無理に捻じ曲げているのはいただけません。

[55] 日本国高知県高知市旅館城西館 (じょうせいかん) は、 全面リニューアルした本館を天誠 (てんせい) と命名しました >>54, >>56, >>57, >>58

[59] この名前は高知で使われた私年号天晴に因んだものとされます。 >>54

[60] この旅館は皇族が繰り返し宿泊するような由緒正しい老舗のようで、 そんなところで私年号から命名しちゃっていいものか気になりますが、 まあ私年号といっても朝敵が使ったわけではありませんからね。

[61] ちなみにこの旅館の沿革には 「平成31年2月 (2019年2月)」 の次が 「令和元年4月 (2019年4月)」 の「「天誠」客室リニューアルオープン」 で、その次が 「令和元年5月 (2019年5月)」 と書かれていました。 >>58 令和元年は5月からなので、遡及年号の形になります。 ただの書き間違いでしょうが。

研究史

[421] 近代日本国高知県の民俗研究者高村晴義 (-?) は、 明治22,3年頃に四国遍路巡礼の折に神峰神社を訪れたことをの雑誌記事に書き残しています。 >>420 (>>375) 天晴について地元住民にたずねた所、改元デマがあったとわかったのだそうです (>>249)。

[372] その後この私年号のことは忘れられていました。 近代私年号研究でこの私年号が紹介されたことはありませんでした。

[373] 昭和時代中期の日本私年号の研究には掲載されませんでした。 久保常晴はこの私年号を知らなかったと考えられます。

[374] 落語ネタレベルで研究対象にならなかった >>101 と邪推する SNS 投稿がありますが、まったく根拠のない言いがかりに過ぎません。 落語なら研究されないというのも落語と研究者を馬鹿にした話で、 大衆芸能御伽草子のような「俗」的なもののにみえる異年号を議論した研究は古くからあります。 弥勒, 福徳, 魚鳥

[168] 昭和時代における天晴の研究は、 日本国高知県安芸市の市史編纂に携わっていた小松栄次 (>>274) が土居春日神社の用例 (>>14) を検出したことに始まり >>28 (広谷喜十郎), >>375、 続く調査で他にも1例 (>>6) が検出されました >>12

[382] 高知新聞記事 〈天晴〉ハテ? 奇妙な年号・史家も当惑・安芸市と安田町の神社で見つかる でこの2点 (>>14, >>6) の発見が報じられました。 2点を発見した小松栄次 (>>274) は、 年表、古老の話、干支年などから慶応3年と推定しましたが、 なぜ天晴が使われたのかはわからないとしていました。 記事では、 農民一揆ええじゃないかで民衆が狂乱した頃で、 時代の変革期で招来への明るい願望を込めて新元号を「天晴」 と予想したのかも、 と推測していました。 >>375

[388] 広谷喜十郎 (>>377) は、 小松栄次 (>>274) と共に安芸市史の編纂に関与していました。 広谷喜十郎小松栄次から天晴のことを聞いていました。 広谷喜十郎は、 に出版された 「写真で見る安芸市史」 の位置付けの書籍 あき・市制二十周年小松栄次が撮影した >>6 の写真を掲載 >>117 しました。 >>375 ただそのときの調査では「わからずじまいでそのまま」 となり >>375、 同書には写真自体以外に特に説明はありませんでした >>117

[397] 高知県内各地に天晴の用例があることは、 しばらく新聞紙上などで話題となりました。 >>375

[394] 昭和時代の郷土史家橋詰延寿は、 高知新聞 記事 (>>382) に触発されて日本国高知県で発行されていた雑誌 県民クラブ の昭和49年7月号、昭和49年8・9月号で天晴を紹介しました。 また、 諸木の記録 でも紹介しました。 >>375

[395] この 諸木の記録 (>>118) は、 引用、 所蔵図書館や販売古書店の書誌情報などでの刊行とされています >>393, >>375。 ところが図書館の書誌情報によると 「昭和30~40年代新聞スクラップ」 と内容が説明されています >>393。 昭和37年の日付がありながらも実際にはそれ以後も書き継がれて成立したということでしょうか。

[396] 橋詰延寿諸木の記録 (>>118) で、 天政天正と思いきや十二支年が合わず、 安政寛政文政でもなく、 天晴となるとさっぱりわからず、 一体いつなのだろうと述べていました。 >>375 既に提出されていた慶応3年説 (>>382) には納得できなかったのでしょうか。

[288] 日本国高知県山崎清憲は、 街道の紹介の書籍の中で鈴ヶ峠の用例 (>>30) を紹介しました。 次のように述べています。 >>287

[302] 山崎清憲は歴史の専門家ではなく、本人が「勝手な想像」と断っている通り、 天明説は史料的根拠のある説ではありません。これ以前に発表されたのかは不明です。 また、2点の石灯篭より先に存在を知っていたようですが、 具体的にいつから知っていたのかは不明です。 有名な峠のよく目立つ位置の灯籠のよく読める銘文ですから、 峠を通る人達には (私年号史料としての認識はともかく) 不思議な紀年銘があることは昔から知られていたのかもしれません。

[303] 「「神楽囃詞引用説」」というのはよくわかりませんが、書名などではなさそうで、 神楽の「あっぱれ」の詞を引用して元号としたという説、 ということでしょうか。書き方から、 山崎清憲の説ではなく3点(以上)の石灯篭が知られた後に誰かが唱えた説ということでしょう。

[239] 土佐山田町史は文献資料 (>>15, >>16) から慶應明治の移行期に天晴が使用されたと指摘しました。 >>13

[238] 坂本正夫が全国的に私年号として紹介しました >>43坂本正夫らの調査で日本国高知県の東は田野町から西は越知町までに多数の天晴, 天政, 天星の用例が知られるようになりました。 >>12 (>>398 では天晴天政の6例)

[274] 、地元郷土史家の小松榮次 (>>6, >>14 の報告者) は、 次のように紹介しました。 >>272

[283] 慶応2年末から慶応3年にかけての天皇と将軍の代替わりと新元号を祝うという前提で考えているため、 慶応2年末から慶応3年春に新年号情報が広まり、それを聞いてから安芸で石灯篭を作る計画が出てきた、 という想定になっているようです。しかし石灯篭にはそのようなことは書かれていないのですから、 たまたま石灯篭を奉納する段階になって新年号情報があったのでそれに従ったと考える方が妥当です。 スケジュール感は改めて検討が必要でしょう。
[284] 岡山の云々は、美作後南朝説なるある種の陰謀論に関係します。 天靖 昭和時代末期から平成時代初期の当時のどのような情報経路で高知県私年号情報が岡山県まで伝わったのか、 もまた興味深いですね。

[377] 天晴の研究に大きく貢献した1人が昭和時代から平成時代の土佐史研究者広谷喜十郎 (-) です。 広谷喜十郎高校教員や公立図書館員の他、 数々の自治体史の編纂や文化財保護の委員を務めました。

[378] 広谷喜十郎は地域史を幅広く研究しましたが、 には義民伝承について発表しています。 天晴は世直し願望により明治のかわりに多くの土佐人に用いられた私年号と理解していたようです。 >>376 天晴についての論考も、 義民伝承の研究からの発展という形になっています。 >>375

[460] 広谷喜十郎は次のような見解を示しました。 >>375

[379] 結論は難しいといいながらも、 その後の通説の大筋はここで形作られて(しまって)います。 用例ベースの従来の検討と明治時代の証言がこの段階で合流しました。 なお明治時代の証言は坂本正夫広谷喜十郎に教えたそうです >>375

[240] 広谷喜十郎日本国高知県高知市の広報誌で天晴を 「幻の年号」として紹介しました。 次のように説明しました。 >>12

[253] この記事で天晴は全国的に広く知られるようになりました。 ウィキペディア天晴の出典としてこれを引いています >>85天晴が「幻の年号」「幻の元号」と紹介されることがある >>27, >>188, >>185 のはこの記事に由来するのでしょうか。
[251] このうち >>250 は慶応4年に公年号改元があったことを知ってしまっている我々現代人の視点ゆえの誤解です (>>283, >>438)。 天晴の用例のほとんどには丁卯と書かれていて、慶応3年丁卯を指していることは明白です。 (筆者もそう紹介しているのです。) 翌年の改元を「見越し」たなら「天晴0年」とでも書かなければならなくなります。

[503] 広谷喜十郎は歴史愛好家グループの機関誌で天晴を紹介しました。 基本的には従来の発表内容を繰り返したに過ぎませんが、 >>460, >>240 にない記述を拾うと: >>502

[514] >>249 を実証できないというのは、具体的にはわかりませんが、 証言の裏付けとなる他の資料が出てこないということでしょうか。 例えば改元通知の文書そのものとか、 他の地域でも同様の連絡があった記録とかが残っていれば裏付けとなりますが、 調査してもそういうものが出てこないということですかね。
[515] >>510 はちょっと意味が掴みかねます。 天晴元年丁卯と書いてあっても実際には慶応4年戊辰を意味するものがあるということでしょうか。 なかなか考えにくいように思われますが... 「慶応三年の次は天晴元年」 という認識があったというのが誤解 (>>251) なのではないですかね。

[123] 近世幕末私年号がいくつもあることがわかった現在から振り返ると、 元号は「上意下達の封建体制」の聖域というほどのものではなかった、 ということですかね。

[469] そもそも、という話をしてしまうと、 藩の指示であれ勝手にであれ多数の人員が京阪方面に出て行ってそれぞれの思惑で動き回り、 幕府や藩の制御できない形で情報を国元に送ったりもしているわけですから、 慶応時代には既に「上意下達の封建体制」なるものはほとんど存在していないのです。

[470] 平成時代天晴に関する説明の大部分は、明示的に引用していないものも含めて、 広谷喜十郎の説やそこから派生した説が基になっているようです。

[257] の地元自治体広報誌も石灯篭は製作に時間がかかるため、 改元を予見して建立したものだと解説しています。 >>252 >>250 を踏襲したものでしょうか。 (ただしこちらは翌年の改元とはしていません。)

[258] 改元を「予見」したのか改元が「あったと理解した」のか、 どちらなのか判定できる資料は今のところありません。 私年号研究一般では「あったと理解した」結果使われたと推測するのが基本です。 「あったと理解して使う」に比べて「予見して使う」というのは特殊な行為なので、 そうであるとするなら相応の論証が求められます。

[259] なお、 前近代には (いったん改元が施行されると過去の) 日付記述において改元日はあまり重視されず、 元日まで遡って新年号で書かれることがあり得ること、 一方で幕藩体制が盤石だった時期なら未施行元号の先走り使用は厳禁されていたこと ( 改元手続き ) には注意が必要です。

[81] 図說高知県の歴史 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=7AU1AQAAIAAJ&q=%E5%A4%A9%E6%99%B4

41 ページ

... の発明 166 きんう巻末付録絵師金蔵の画業 180 土佐の義民伝承 198 索引 5 年表てんせい 5 天晴号と幕末の世直し意識 206 博物館・図書館一覧 20 堺事件と藩家老文化財一覽年中行事一覧写真師井上俊三参考文献 32 コラム執筆ロ絵執筆序説土佐の先進.

42 ページ

... 半蔵の発明絵師金蔵の画築堺事件と藩家老写真師井上俊三田村遺跡環溝屋敷群画/穂積和夫監修/岡本健児資料提供/宮本長二郎・京都科学広谷喜十郎土佐の義民伝承天晴私年号と幕末の世直し意識高知市の発足と電力事業板垣退助銅像物語高知城下町画/中西立 ...

206 ページ

南国市在住の民俗研究家高村晴義が「旅と伝説」一一〇号(昭和一二年一九三七)のなかで、天晴年号について書いている。それによると、高村は明治二二年(一八八九)頃に神峯寺を参拝した時に、近くにある神社の石灯籠の年号に気付いて、地元民に質問している ...


[161] 日本国奈良県奈良大学が開催した第3回全国高校生歴史フォーラムで、 日本国高知県高知市高知県立高知東高等学校片岡靖裕が、 幕末土佐の私年号 ―「天晴」を検証する!― を発表し、 優秀賞を受賞しました。 >>160, >>162 同校の郷土史クラブの活動の一環でした。 >>42

[165] の情報によると、 高校3年 (平成21年度か平成22年度か不明)片岡靖裕論文 私年号天晴を検証 では10例が報告されていました。 >>28

[166] 題名が違いますが、受賞した論文そのものを指すのか、 別にまとめられたものがあるのか不明です。 また、当時地元で興味ある人が入手できていたことがわかりますが、 現在これを入手する方法があるのかは不明です。

[172] >>28街道の日本史 (>>171) を 「街道の日本」と誤引用していると思われ、 同様に論文名は正確でないかもしれません。

[310] >>42 には表紙のカラー写真があります。 に発行された 幕末土佐の私年号―「天晴」を検証する― だと説明されています。

[167] 学術的に貴重な研究成果と思われますから、 是非ともご本人か高校で広く公表してほしいものですが、 これだけ日が経ってしまうと難しいのですかね。

[31] 日本国高知県南国市領石天晴石灯篭 (>>29) 前に現地住民らによって解説看板が設置されました。 天晴土佐でのみ使用された私年号で、 参勤交代北山道の要所だった領石には中央の情報が一早く伝わっていたもので、 国内不穏に付き天晴と改元する、 と誤情報が伝わって住民は信じたに違いないとしています。 >>216 同地ではその後の調査で棟札の用例 (>>36) も見つかり、 に現地住民らにより追加の案内看板が作られました。 >>216 先人の残した文化財を大切に思う現在の住民の熱心さが伝わってきます。 には石灯篭と棟札が南国市保護有形文化財 「領石の天晴年号資料」にも指定されています。 >>227

[307] 平成時代の地元民のブログ記事では、 天晴天政大政奉還で国の行き先が不透明となる中で土佐の人が自分たちで新しい元号を使って広めていたのであるとし、 遍路道沿い用例が存在することからそのことに特別な意味があったのではないかと指摘しています。 >>22

[308] いわゆる宗教的私年号説、呪術的私年号説の系統でしょうか。 中世私年号

[316] の新聞記事では、他の地域では慶応3年が続いていたとしています >>1。他の地域がどこを指すのか (土佐以外なのか、 土佐天晴用例のある地域以外なのか) 不明ですし、 どの程度の調査に基づいてそう説明したのかは不明です。


[472] 日本国福岡県宗像市の写本奥書に 「天政元年」 の用例 (>>9) があることがわかりました。 高知近代史研究会の会長地域文化計画の理事今井章博は、 次のように推測しました。 >>468

[477] 改元デマを掴まされる「有力公家」の三条実美さん・・・

[478] 公家三条実美は、 尊皇攘夷派による国政の掌握を企て失敗し (八月十八日の政変)、 朝敵となり長州藩に逃亡していました (七卿落ち)。

[479] 第一次長州征伐の結果三条実美らは福岡藩預かりとなり、 1月に福岡藩領に移動、 2月までの約1ヶ月を福岡藩宗像で過ごしました。

[480] 中岡慎太郎土佐藩士でしたが、 三条実美と共に行動していました。 には京都にいました。

[481] 黒岩直方土佐国安芸郡土居村出身の郷士でしたが、 三条実美と共に行動していました。

[482] 三条実美12月に赦免され上洛しました。


[492] 頃、 髙松順蔵の歌集の天晴の用例 (>>66) が知られるようになりました >>65。 高松家は土佐藩郷士の家でした。 髙松順蔵 (-) は、 歌人儒学者で、 坂本竜馬の義理の兄に当たるほか、 弟子に中岡慎太郎がいます。

[493] SNS 投稿によると、 「安田のギャラリーの展示」 でその歌集の用例が紹介されました >>130日本国高知県安芸郡安田町の町立の安田町まちなみ交流館・和から高松順蔵の特別展が開催されており >>495、 また常設展にも高松順蔵の展示があるとのこと >>494 で、 そのいずれかで展示されていたのかと推測されます。

[496] 展示では、 天晴は誤った元号であることをわかった上で使っているのだろうと解説されていたそうです。 >>130 その思惑までは説明されていなかったようです。 根拠があっての推測なのかは不明です。

[491] 石造物のように発注してから誤りとわかってもう直せないというケースはありますが、 歌集 (印刷物ではなさそう) で誤りと知ってて書くなんてことあり得ますかね? 相当強い根拠がないと主張できなそうですが...

[120] 天晴昭和時代後期から平成時代にかけて日本国高知県では盛んに研究されましたが、 全国的な媒体での紹介は平成時代末期まであまりなく、 私年号研究の分野では見落とされてきました。

[463] 平成時代千々和到一覧表には掲載されていません。

[464] 平成時代ウィキペディアの一覧表に天晴が掲載され、 天政天星がその「異説」とされています。 >>85

[536] 平成時代中期の近代諸元号現象には掲載がなく、 令和改元時の三訂 近代諸元号現象には天晴 (別字: 天星天政) が元号名だけ紹介されました >>538

[73] 高知県内の金石文は、これだけ話題になっているので大方探され尽くされたのかもしれません。 文献資料は令和改元の頃に新発見があった >>65 ように、まだまだ未発見のまま眠っているものがあるかもしれません。

[465] これだけ金石文が報告されているのに村方文書が全然出てこないのは不思議です。 石造物を刻んだ村ではその当時文書にも天晴を使ったと考えるのが自然ですが...

[74] 高知県外は高知県内ほど注目されていないようなので、 今後まだ新発見がありそうな気がします。

[360] 天晴のように元号らしさがあまり感じられない用字は印象に残りやすいですが、 天政のようにいかにも元号のようなものは見落とされている可能性があります。

[526] 高知県民を中心にいろいろな人が自説を述べていますが、 論点が整理されておらず議論が深まっていない感はあります。

[527] 今後の課題を挙げるとすれば、

あたりでしょうか。

[85] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
天晴天政・天星慶応3年(1867年)2高知県下神社の石灯籠・手水鉢などに使用例多数[9]

“幻の年号「天晴(てんせい)」”. 高知市ホームページ. 高知市歴史散歩. 2019年12月6日閲覧。

関連

[40] この時代他にも日本各地で私年号が発生しました。 幕末維新期の日時

[45] 同時期の東国で見られた「大政」との関係が気になりますね。

[124] 後南朝関連にもあります。 天晴

天晴 (天候)

[136] KU-1100-19841125-02.pdf, , https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/4556/files/KU-1100-19841125-02.pdf #page=4

[137] >>136

「天晴乙亥梵崟来

[138] これは日記なので、この「天晴」はおそらく天候晴れの意味。

[139] その次の乙亥はこの位置なら日干支が来そう。

[140] ところがこの日は寛永14(1637)年9月15日とされ、 日干支庚辰で一致しない。

[141] 寛永10(1633)年4月9日説もあって、誤読とされるが、 それでも庚午で一致しない。

[142] 年干支でも月干支でもないし、時刻とも方角とも考えにくい。

[143] >>136 #page=7 では

天晴。乙亥、梵崟来。

と訓んでいるが、どういう解釈なのかよくわからない。

[144] 仕方がないので前後のを調べてみると、ちょうど1年後の寛永15(1638)年9月15日乙亥

天政 (天正)

[114] 近現代の「天政」は天正誤植誤変換が多い。

天政 (文政)

[361] 文政のことを天政と書いた例がいくつかあります。


[115] 美味しい和菓子♪ : 花の香りとともに, b-clair, 2013年 04月 11日 , https://bclair.exblog.jp/20280369/

愛知県江南市に本店の、大口屋さんの”餡麩三喜羅”という麩饅頭です。

創業天政元年という老舗店の代名詞ともいえるお菓子で、モチモチっとした生麩が、さっぱりとしたこし餡をたっぷり包んでおり、美味しい一品です。

[189] Xユーザーのノンシュガーさん: 「今日はシュークリームも貰った上に、創業天政元年、愛知県江南市の大口屋さんのさんきら餅まで頂いちゃいました。太るよー https://t.co/kw5Swnd0HA」 / X, , https://twitter.com/Ao1BbEAEkuvj0Km/status/1003589139088924672

[147] >>145

創業天政元年 愛知県江南市の大口屋さんのお菓子、≪三喜羅≫

[150] >>148

創業文政元年(1818年)

[151] >>150 より >>147と誤読したものであることがわかります。

ブログ記事掲載写真 >>146 に同梱の案内と思われる紙片に「創業 文政元年」と筆文字で書かれていて、 ブログ記事掲載写真が低解像度なのもありますが、 たしかにと読んでも仕方ない字形に見えます。

公式サイトの写真 >>149 を見るとこの字形は何パターンかあるようですが、 よくみればではあるもののパッと見でと誤読されることも理解できる字形があります。

[174] 同じ和菓子店を複数の人が誤読しています。書いていないだけで誤解している人は他にもいそうです。


[83] 高山市史, 高山市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3015353/1/343 (要登録)

[175] >>83 右 「天政元年七月六日」と書かれている、原文にあるのか編集時の誤植か? 前の項目が文化11年、次の項目は文政12年なので、 市史編集者は文政元年と考えているが注釈を入れていない。

[152] 出典は高山町年寄日記とあるので、原文日付はこの表記ではなさそう、 おそらく排列から文政元年で間違いないのだろうが、 >>82 のように飛騨でも「天政」の用例があるので要注意。

天政 (天明)

[362] 天明のことを天政と書いた例が1例あります。 単発の誤記に過ぎないと思われます。

[176] 塩昆布 – 八代目神嵜屋宗兵衛, https://kanzakiyasoubei.com/products/shio-konbu/

point 01

天政元年(1781)より受け継ぐ 「一子相伝」の技

初代神嵜屋宗兵衛が天明元年大坂船場靭町(現・伏見町一丁目)で創業し、

[178] 食福 – 八代目神嵜屋宗兵衛, https://kanzakiyasoubei.com/concept/

天明元年(1781年)に創業した神嵜屋宗兵衛では、

[177] は天明元年。本文では正しいのにそれより目立つ見出しで間違っていてなぜ気付かないのか不思議。

天星 (香港)

[363] 天星香港での利用例もあります。幕末の私年号とは無関係です。 天星 (香港)

天星 (作中元号)

[190] 天星作中元号の事例もあります。

メモ

[113] 国立国会図書館に所蔵されていないが地元の図書館にある関係書籍:


[107] 高知新聞記事


[556] 石造物の用例の残存数が多いのがこの私年号の特徴ですね。

[557] 土佐では毎年こんなに石灯篭を立てていたのでしょうか。それともこの年だけ多いのでしょうか。