新治

新治

[33] 新治は、明治時代初期の日本の私年号の1つです。


[3] 日本国宮城県柴田郡柴田町大字葉坂字白坂の佐々木清の寄贈資料 新板南部百姓集会記 は、 仙台藩領で起きた百姓一揆の記録書の写本です。 奥書によると葉坂村白坂屋敷政之助 (佐々木氏) が写したものです。 >>1, >>2

[4] この写本の表紙見返しに、筆写した者または所蔵者によるとみられる書き込みがあります。 >>1, >>2

[5] 昭和時代後期の 柴田町史 では次のように説明しています。 >>1, >>2

まず、「明治」と一度書いたものを消したうえで次のように 記されている。

新治元年西郷隆盛明治十一年鹿児嶋合戦争

菊月二十 ((陰暦九月)) 五日

三六七九

常盛 ( ((カ)) 押)

活字にすれば「新治」という、いわゆる私年号が目をひくだ けであるが (これだけだって、かなりな政治的意思表明という ことはできる。なぜならアキなしアキなし明治という元号を否定するという ことは、とりもなおさず元号制定者を否定するということであるのだから) 異様さは 数字の表記にある。「二十五日」とある「二十」を横に寝かせて書き、五を組み合わ せてあたかも新たな文字を創造したごとくに見せ、更に、意味不明の「三六七九」も 横に寝かせた文字を堅書きにし、しかも逆字である。

[7] この引用は >>1 によります。 >>2 もほぼ同文ですが、 翻刻含め微妙に表現の違いがあります。 >>2私年号が 「明治という元号を制定し た体制に対する公然たる挑戦であり、元号制定者を否定する行為である」 し、「西郷隆盛に共鳴したものであることが窺える」と更に強い表現を使っています。

[6] 掲載された白黒写真 >>1, >>2 は細部がやや不鮮明で、 奇妙な書き方とやや崩れた字形でいくらか不明瞭なところもあるものの、 もう少し忠実に再現を試みるなら、次のようになります。

明治 𣂺治元年西 (郷 ) 明治十一年鹿兒嶋合戦争

菊󠄂月二十𫝀

三六

常盛(花押)

[8] 白黒写真のみで断定するのは避けたいですが、 これら一連の文字は、配置と墨の濃さの変化を見るに、 同一人物によって一度に書かれたように思われます。

[9] この文字列は所蔵者の跋文のように思われるものの、意味が不明な部分を含み、 意図が明確ではありません。

[10] 「二十」「日」は構文的に確かにそのように読むのが妥当と思われますが、 不自然で意図が不明です。「二十」が本当に「二十」と読むべき字形か疑問も残るものの、 他に妥当な読み方は思いつきません。「二十」「日」は横向きでそれ以外が通常の向きなのも不思議です。

[11] 「十」と書いて後から「二」を書き足したとも思われるものの、 それにしては「十」の横棒の左側が短いですし、 上ではなく左に書く理由がありません。 やはり「二」に当たる部分は先に書かれたと考えるのが自然です。

[12] 「二十」「五」「日」の部分の各縦幅は妙に短いのが不思議です。

[13] 「日」の右上に墨が溜まっているように見えるのも、書き順を想像する上でヒントになりそうです。

[14] を表す符丁のようなものの可能性もあるでしょうか。

[15] 「三六七九」とされる鏡文字も意図が全くわかりません。 明らかに鏡像化されているのは「七」「九」だけですが、 最初の2文字も動揺に鏡像と考えるのが妥当でしょうか。 右横書き回転して縦に並べるというのも謎です。

[16] 奇妙な文字の配置、意味の分からない文字の列は、 書字能力が低い者の試し書きという考えもないではありませんが、 それにしては整いすぎているようにも思われます。

[17] 冒頭「明治」は写真ではわかりにくいですが、やはり町史の言う通り消されているという解釈でいいと思われます。 するとこれは「明治」と書きかけてすぐに気づいて「新治」と書き直したと考えるのがいいでしょうか。

[18] 「西郷隆盛」は「西隆盛」に「郷」を小さく添えています。後から脱字に気づいて書き足したと思われます。 文字の薄さから「西隆」と続けて書かれたものではなさそうに思われますが、 どのタイミングで書かれたかまではよくわかりません。

[19] 「新治元年西郷隆盛」がどういう意図で書かれたものかはよくわかりません。 跋文のようなものだとするとに「西郷隆盛」と書き添える意図が謎です。 この年が何の年だったか後からわかるようにその年の重要な出来事を書くこともあるのかもしれませんが (他に類例はあるのでしょうか?)、 年の直後に間髪も置かずに、次の行の月日とも切り離して、割書でもなく人名を書くのは異様です。

[20] ただ「西郷隆盛」「鹿児島合戦争」とあるので、これが西南戦争を表していることは明らかです。

[21] 西南戦争内戦で、 鹿児島軍の指揮官西郷隆盛死去で終結しました。

[22] 「明治十一年」はこれと1年違い、「菊月(9月)25日」はこれと1日違いです。

[23] 町史は菊月を陰暦9月と注釈しています。 確かに明治初期、特に地方では月日旧暦の場合がほとんどなのですが、 改暦直後の明治時代に既に月名グレゴリオ暦にも転用されていたので、 月名表記と旧暦をただちに結びつけることはできません。

[24] 西南戦争が終結したグレゴリオ暦9月24日と関係してグレゴリオ暦9月25日を表している可能性もありますし、 西南戦争が終結したのは9月24日という情報をふまえて(の違いに気づかず)旧暦9月25日にこれを書いたという可能性もあります。

[25] 「明治十一年」は写真でも確かに「一」と書かれているように見えます。 すると西南戦争と1年のずれがあることになりますが、 これは誤りでしょうか。それとも1年後に西南戦争を回想して書いたのでしょうか。 明治10年に今年は明治11年と誤って書くとは考えにくいです。 となると明治11年かそれ以後にこれが書かれた可能性の方が高いでしょうか。

[26] 割書部分が後年の補足なら、本当は明治10年だったのに誤って明治11年と書いた可能性もあるのでしょうが、墨の濃さは「新治元年」から割書まで一度に書かれたように見えます。

[27] 町史がこれを明治政府への反抗を表す私年号と解釈したのは、 明治を打ち消していることや、西南戦争に言及していること、 そしてこれが書かれた媒体百姓一揆の記録であることによるものと思われます。

[28] ということはその筆写 (所蔵する佐々木家の者?) かその関係者 (村内の人達とか?) が「新治」の建元者と想定してのことでしょうか。

[29] ただこの種の私年号現存最古を発生と誤認した事案がいくつかあるので、 慎重にならざるを得ません。

[30] 西南戦争終結の9月24日のちょうど翌日の9月25日の日付ということは、 戦争終結を祝って改元されたという風聞があった可能性も想定されます。

[31] 逆に西郷隆盛改元したとの風聞があった可能性も想定できます。

[32] 東北地方では戊辰戦争大政延寿改元の風聞もありました。

[34] 現在知られている用例はこの1つだけです。

[35] 新治昭和時代終わり頃には報告されていたにも関わらず、 平成時代を通じて私年号研究の方面まで届かず、 元号一覧の類にも掲載されることなく見落とされてきました。

[36] 戊辰戦争と特殊な自由自治征露を除けば明治時代はこれまで私年号の空白期でした。 新治の再発見により、未だ明治政府の統治が安定していなかった明治時代初期に私年号が実在していたことがわかりました。 近代の地方の文書は未だ研究者の目に触れていないものも多いでしょうから、 今後新治の新資料や他の私年号の発見もあり得ます。