[7] 歴史的に改元の期日にはこれといった決まりはなく、 その時々の政治的指導者が適切と考える時期に、 その時代に最適と思われるスケジュールで改元手続きが進められてきました。
[358] 従って改元がいつ行われた (と解釈する) かの処理は、 かなり複雑で込み入った問題のようです。
[187] 現代日本人にとってはある日、ある瞬間に旧元号から新元号に変更されるという意識が強いようで、 事務処理上もある日がどの元号だったのか自動的に決まる方が便利なのであります。 ところが実際には旧元号と新元号の期間は互いに重なり合っているのであって、 改元日の含まれる年のはじめから無限の未来まで、 グラデーション状に移り変わるとでもいうべきものです。
[210] 改元実施の時期に関する議論にはいくつかの要素があって混乱しやすく注意が必要です。
[213] 改元事由発生㋑は主として代始改元・称元に関係します。
先代の年号から今代の年号に切り替えるに当たり、
先代の退位の年から新年号とするか、
その翌年を新年号とするか、
2つに大別できます。
[211] 制定㋺、発表㋩、利用開始㋥については、 日時制度、法制度、交通・通信と情報技術の発達に伴い、 互いに明確な区別が求められるようになり、 しかも利用開始㋥の精密化・同時化が進みました。 伝統と革新、利便性といったそれぞれの思惑で現在でもいろいろな議論があります。 利用開始㋥は厳密には法令の施行、書類やシステムの更新など段階を分けることができ、 議論はいくらでも複雑になります。 なお即位紀年に㋺㋩はありません。
[214] 対象日時㋭については利用開始㋥と同時とするのが直感的には自然でありますが、 改元は年の呼称が改められるのだから年始に遡及するという説が古くから唱えられていました。 代替わり㋑とそれ以後の手続きの時間的配置の問題とも影響してきます。 近現代に至っても、 制定㋺が利用開始㋥の日の途中だったときどう理解するべきか、 代替わり㋑と改元が一致しなければならないのではないかという議論があります。 利用開始㋥は「施行」と呼ばれますが、 対象日時㋭も「遡って施行」のように呼ばれるため混乱の元となっています。
[318] 改元時期について、次のような用語がありますが、 定義が曖昧で、同じ語でも人によって違うものを指していることがあります。 対になっているような語でも、意味が対になっていないこともあります。 誤用から生じたとみられる語もあります。 (詳しくは >>10): 即時改元 即日改元 践祚同年同日改元 践祚同日改元 即位同時改元 翌日改元 踰日改元 踰月改元 踰年改元 越年改元 翌年改元 明年改元 次年改元 踰年正月改元 践祚踰年改元 立年改元 当年改元 立年即日改元 立年踰日改元
[319] 誤解を防ぐため、こうした語はできるだけ避け、 何から何までの時期か説明的に記述するべきです。
[235] 説明的に時期を表す言葉にも混乱の要素があります。 「即位翌年の改元」が、 「即位翌年年始の改元」を表す場合と「即位翌年中の改元」を表す場合があり得ます (「即位よりも後の年のいつかの改元」を表す場合すらあります)。 「即位」の時点も、 先帝崩御、 皇位継承発生、 践祚儀式、 即位儀式、 皇位継承の発生した日全体 (のいずれかの時点)、 皇位継承の一連の行事全体 (のいずれかの時点) のどれを指す場合もあり得ます。 冗長になってしまいますが、記述したい対象を正確に説明する他ありません。
[17] 即位紀年や代始改元は、 代替わり㋑から改元㋺㋩㋥までの時期が問題となります。 改元によって先代の最終年を途中で終わらせることを好ましくないとしたり、 逆に元号と在位時期が完全に一致することを好ましいとしたり、 いろいろな考え方があります。
[19] 先代退位、称制・摂政、践祚、即位といった時代と地域によって異なり複雑な代替わりの過程も話を複雑にしています。
[56] 次のように分類できます。
[20] 代替わりのあった年を当日、翌日、翌月などと細分することもあります。 ただし改元の諸段階㋺㋩㋥㋭の議論が交わり複雑になっています。
[21] 翌年(以後)に実施することを踰年改元ということが多いようです。 翌年といっても時期は様々で、元日でないことのほうが多いです。 「踰年改元」という言葉も使う人によって少しずつ意味が違っています。
[11] 改元の実施時期は長年明確な定めを欠いていました。
日本の旧皇室典範時代は即位後ただちに改元すると定めていました。
[146] 現在の法令は即位後どのタイミングで改元するべきかを定めていません。 元号法制定当時の国会では翌年の新元号実施の是非も議論されました。 日本政府はその可能性を排除せず、 実際平成改元では仮に皇位継承が年末なら翌年始から新元号とすることが政府内で密かに検討されたといわれています。 令和改元でも年始からの新元号実施を提案する人はいました。 現実には、どちらも新年を待たずに皇位継承に近いタイミングで改元されました。
[48] 旧唐書によると、 唐の代始改元の19例中、 10例は「踰年正月改元」であって、 うち9例は正月、 うち5例は元日から新元号が使用開始されました。 漢から清の時代まで、 約100例、6割が「踰年正月改元」でした。 >>49 普及版 p.16, p.23 ㋑ - ㋥
[50] 日本では、 奈良時代には7例中4例が祥瑞を伴う「践祚同年同日改元」、 3例が「踰年改元」でした。 平安時代、弘仁改元以来 「踰年改元」が慣例となりました。 明治改元まで、 7割近くが「踰年改元」でした。 ただし正月以外の実施例が多くありました。 >>49 普及版 p.17 ㋑ - ㋥
[51] 日本後紀の大同改元 (践祚と同年) の記事は、 踰年せずの改元は1年に2君を持ち、 新帝が旧帝の年の残りを奪うことになるため非礼だ、 と批判しました。 次の弘仁改元 (践祚の翌年) でこれが主張されたと考えられています。 以後これが先例とされ、 平安時代中期の新儀式 (逸文) や平安時代末期の大外記の清原頼業 (玉葉 治承4年12月4日条) も同年の改元は不吉で、翌年の改元が慣例だとしていました。 >>49 普及版 p.18, p.23
[522] 晉書/卷028 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7028
[583] 即位 - Uyopedia, , http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E5%8D%B3%E4%BD%8D#.E7.A7.B0.E5.85.83
立年称元はまた当年称元、エジプト式紀年法、アンチデートシステム(antedate (時前)system)、などという。 踰年称元はまた越年称元、メソポタミア式紀年法、ポストデートシステム(postdate (時後)system)、などともいう。 古代イスラエル王国(北王国)では後者、ユダ王国(南王国)では前者が用いられた。 日本でも中国でも、古くは前者が用いられたが、中国では戦国時代から後者になり、歴史記録がそれに合わせて溯って改訂再編された。 日本でも『古事記』は前者のまま、『日本書紀』は後者に合わせた編集がされている。 後者の方が明らかに合理的ではるかに便利であり伝統もあったにかかわらず、明治以降、日本の代替わり改元では前者に従うようになった。愚かしいことではなかろうか。
[652] 宋・太宗の太平興国の改元について - 和歌山大学学術リポジトリ, https://repository.center.wakayama-u.ac.jp/ja/62
[567] 越南の元号の改元の時期も、 皇帝の即位の翌年とする事例が多く、 春秋 以来の望ましい方式と認識されていました。 >>565
[571] しかし実際には即位と同年に改元した例も少なくありません。 簒奪など特別な事情がある例だけでなく、 李聖宗ののように、 皇位争いがない平穏な即位でも年内に改元されています。 >>565
[572] 李朝は、李太宗が三王の乱で兄弟を殺して即位改元しましたが、 これが即位同年内の改元の先例となりました。 >>565
[573] 黎朝の時代に儒教が重視されるようになり、 呉士連のように儒教的観点から同年中の改元を批判し、 翌年の改元を良しとする風潮が生まれました。 >>565
[574] 陳朝の時代には譲位が多く、 同年中の改元が多く行われました。 先代 (上皇) の指名による新帝の即位改元であるため、 非礼には当たらないと解釈されたものと考えられます。 >>565
[45] 改元の日、改元日に言及されることは多いですが、 改元手続きのどのタイミングを指すかは自明ではありません。
[52]
日本の元号の改元の大多数は改元日に一応の定説があります。
複数説がある場合でも、
そのうちの1つが多くの一覧表の類で共通して採用されているようです。
[72] 昭和までの日本の元号は詔書㋺に記入された日付、 平成以降は政令の施行の日 (理論上は㋥、実態は㋭) を改元日とみなすのが一般的なようです。
[76]
ただし、流布されている一覧表の類の中には、
旧暦、グレゴリオ暦、ユリウス暦の換算に失敗したもの、
西暦への換算時に暦法による年始の違いの処理に失敗したものもあります。
西暦がグレゴリオ暦かユリウス暦か明記されず一見しただけではわからないものもあります。
[97] 日本の公年号のうち、唯一文中への改元だけ、 改元日に定説すらありません。
[77] 一覧表の類は月までで日不明としており、 変換ソフトウェアは仮に月初を改元日として扱うのが主流のようです。 ただし西暦換算が原因の揺れが存在します。
[265] 日本の公年号のうち、 白雉と朱鳥は、 次の元号が定められずに使われなくなりました。
[78] 次の天皇の即位までが旧元号の期間とされていますが、 それを過ぎても旧元号が一部で使われた記録があります。
[79] 一覧表の類は無元号期間について天皇即位紀年によるもの、 空白期間と明記するもの、 明記しないが前後期間に含めないもの、 旧元号の期間に含めるもの、 架空の元号的なものを置いて代用させるものと対応が分かれています。 境界は前天皇の崩御の日とするもの、 新天皇の即位の日 (または前日) とするもの、 年末とするものがあります。
[150]
日本年号史大事典は改元の日のほか、
各手続きの日程も判明しているものは記載しています。
異説も掲載しています。
[491] 改元から始まり改元で終わる元号の期間は、 本項で挙げた通り諸説諸流儀があります。 実用上どう取り扱うのが良い (便利) でしょうか。
[492] 日単位で扱う場合、 改元日から改元日までを元号の期間とみなすのが、 現代日本の主流の扱い方と思われます。
[493] 日を更に細かく区分したり、 ある日が複数の元号に属すると考えるのは一般的でなく、 扱いにくいものです。 もちろん詳細に説明したいこともありますが、 基本となるべきはある日が1つの元号にだけ属するという簡単なモデルでしょう。
[494] 改元日は旧元号に属する日とも新元号に属する日とも解釈し得ますが、 どちらかを選ぶとなると新元号とするのが適切でしょう。 改元日とそれ以降の日は、 「当初旧元号の予定だったが新元号に変わった日」 という性質が共通しています。
[498] 適用開始の日が決定の日、発表の日と違うこともあるので注意。
[497] 年単位で扱う場合、 新旧元号を併記する場合もありますが、 都合上1つに決めたいこともあります。 その場合新元号に統一するのが優勢に見えますが、 旧元号に統一する場合もあり、 適宜選択するものというべきです。
[499] 新元号に統一する場合、 新元号の最初の日は年始に遡及します。 普通は改元日の属する年始ですが、 例外的に2年以降から始まる場合は前年以前に遡ります。 旧元号最終日はその前年末になります。
[502] 旧元号に統一する場合、 旧元号の最終日は改元日の属する年末まで延長されます。 新元号の最初の日は改元日後の最初の年始まで遅延します。
[505] 新元号開始日が年始のとき注意。
[506] ある元号の期間を年単位で決めたいとなると、 初年始から末年末までとするのが妥当でしょう。 前後の元号の期間を重複が生じ得ることに注意が必要です。
[94] 西暦749年、 天平21年から天平感宝元年 (4月14日)、 天平勝宝元年 (7月2日) と1年に2回改元されました。正式改元が2回あったのは日本史上この年だけです。
[35] 一覧表の類で天平感宝が欠落していることがあります。
[151] 西暦781年、 宝亀12年正月1日に天応元年正月1日に改元されました。 元日改元は日本史上このときだけです。
[331] 一覧表の類では宝亀12年を含めているものも省いているものもあるようです。
[85]
計算機システムなど元号を扱う機構は、
改元がいつ発表㋩されいつ施行㋥㋭されるかまったく予期不能であることを想定し、
改元決定後可及的速やかにこれを実施できる備えが必要となります。
[144]
日本の代始改元のほとんどは皇位継承の翌年の改元でしたが、
践祚の翌年というだけで時期は様々でした。
改元されないこともありました。
即位により改元が予期されるものの、
改元日が大々的に事前発表されることはなく、
新元号決定後に徐々に施行されていきました。
全国各地への情報伝達の時間差に加え、
公家、武家それぞれの改元儀式の時間差などもありました。
[62] 日本の元号のうち、 大正への改元、 昭和への改元は、 皇位継承と同じ日の改元でした。 新帝即位後ただちに改元の詔勅が公布され、 官報や新聞などの年号は詔勅の公布の後直ちに改められました。
[63] 平成への改元は、 新帝即位後ただちに改元の政令が公布されましたが、 施行は翌日とされました。 昭和天皇の崩御による譲位で行われた改元だったため、 直前の連日の深刻なご容態の発表を改元の予告と捉えることは可能でしたが、 改元の手続きやシステム変更などの準備を行っていると公言するのはとても憚られる状況でした。
[64] 令和への改元は、 譲位であり改元される見込みであることが1年以上前に示されつつも、 直前まで法的措置はとられませんでした。 新元号はに政令で公布されました。 あくまで今回限りのスケジュールであって恒久的制度ではありませんが、 今後の事前予告ありの改元は 1ヶ月前には発表されるとの前例になると期待したいところです。
[120] しかし令和改元では事前予告ありの改元ゆえの問題も指摘されました。
[148] 令和発表から令和改元までの1ヶ月で、
政府機関や学術機関だけでも
「令和2年」「令和3年」「令和4年」
の利用例が少なからず見られました。数年先を取り扱う事務の量が少なくないことは明らかで、
「改元されるが新元号は不明」
という時期を十数ヶ月も継続させたことは実務上でも元号というシステムへの信用の面でも致命的な失策でした。
新旧元号の併存が新旧天皇の「二重権威」化につながるなどとする主張が政府・与党方面でなされていたようですが
(
[23] その一方で、 発表から約半月新元号に沸き、 約半月平成最後の時代の終わりを感じながら新元号の最終準備を済ませ、 改元を迎え約1週間の寿ぎに包まれた連休を過ごし、 新元号の仕事始めとなる、 という令和改元前後のスケジューリングは非常によくできていて、 国民こぞっての祝賀行事に最適だったとも思えます。 この令和の改元ノウハウが失われず、 現場経験者が各業界で現役のままの時期に次の改元が (おなじく祝賀ムードで) 迎えられると良いのではないでしょうか。
[170]
歴史的には改元にいろいろな手続があり、
施行は同時ではありませんでした。
[172] 改元の詔書㋺は覆奏を経て全国へ発送されました。 覆奏まで何日か、各地の到着まで更に何日かかかっていました。
[31] 京都の朝廷では、それを待たずにすぐ㋺に新元号が使われた㋥とされています。 といっても新元号を決める改元定は改元日㋺当日のことが多く、 ときには夜明け近くまでもつれ込んだとされています。 すると改元日㋺当日にリアルタイムで新元号を使った㋥人が皆無だったこともあるかもしれません。
[185] 武家は吉書始の後新元号を利用開始㋥しました。 吉書始まで何日かかかっており、 公家と時間差がありました。 幕府から各地の到着まで更に何日かかかっていました。
[28] 朝廷 → 幕府 → 藩 → 庶民の正式な伝達には時間がかかり、 庶民が別ルートで新元号を知ることもありましたが、 フライングして新元号を使うと正式な元号を使うよう指導されることもあったようです。
[340] 前近代には新元号の利用開始は全国同時ではあり得ず、しかもそれが当然とされていたのです。
[24] 大正と昭和の改元は、 皇位継承㋑のその日のうちに詔書が発され㋺㋩、 実施されました㋥㋭。 施行手続きとしては最も簡単な形だったといえます。
[68] この時代でもまだ離島には改元が伝わるのが何ヶ月もかかることがありました。
当然ながら利用開始は情報が伝わった後になり㋥、
それまで㋺-㋥は旧元号を使い続けたことになります (
[25] 平成改元は皇位継承㋑の日のうちに政令が制定㋺・公表㋩されましたが、 施行㋥㋭は翌日とされました。 従来の即日施行では当日が旧元号か新元号か安定して定められなくなるため、 翌日施行することとされました >>396。 (仮に政令の決定が遅れて皇位継承㋑当日中に官報によって公布㋩できない場合、 皇位継承㋑の翌日に公布㋩し翌々日に施行㋥㋭することが想定されました >>396。)
[26] 令和改元は、皇位継承が事前の特例法制定により予告され、 新元号の発表と施行も首相談話として予告された上で、 1ヶ月前に政令が制定㋺、公表㋩され、 皇位継承㋑と同時に施行㋥されました。
[27] ここで法的に新元号の利用開始㋥は政令の施行のはずで、 政府もそのような方針を採りましたが、 一般には公表㋩の時点で使われ始めました。 しかもそれ以前の皇位継承の日が内定した段階で、 延長年号となることが確実な改元予定日以後の旧元号表記に疑念が持たれる状態となってしまっていました。 (>>120) これを回避するには皇位継承㋑の日取り決定を新元号施行㋥と揃えるしかありませんが、 令和改元の経緯をみるに現実的とは思えません。
[30] 現代でも、全国共通の正式な改元とは別に、 例えば計算機システムの切り替えの都合による別の利用開始日時㋥が設定されることがあります。
[528] 元号一覧 (日本) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#cite_note-10
ただし改元後も幕府側の準備不足の為、8月9日(8月27日)まで公家も武家も「文明」の年号を使用した。
[640]
新元号が定められると、
全国に伝達され、施行されます。
現代では一瞬ですが、昭和改元までは日単位から月単位の時間差がありました。
伝達の方法も、時代により地域により様々でした。
[161] Wikipedia の一覧表は、明治への改元までは、 旧元号の最終日も新元号の開始日も、どちらも改元のあった当日としています。
[625] 一般に西暦から元号への変換ソフトウェアでは、 改元日とそれ以後を新元号とするものが多いと思われます。
[162] 大正への改元と昭和への改元は、 改元日から新元号であるとされています。 しかし改元の詔書は旧元号で改元日を表記しています。 つまり、改元日当日は旧元号でもあり、新元号でもある日ということになります。
[628] 詔書が旧元号で書かれているのは、詔書を書いた時点ではまだ旧元号で、 これが公布され発効することで改まる、ということなのでしょう。 であるならば、少なくてもリアルタイムでは、発効の瞬間までは旧元号、 それ以後は新元号と処理するのが最も適切ということになります。 ただし、詔書に公布・発効の時刻が記載されているわけではありませんから、 これを厳密な境界として扱うのは困難です。
[157] 歴史的には新元号選定の会議が長引き明け方近くまでかかったとされる例もあったようです。 それでも日界を無視して事前に定められた改元日を改元のあった日と取り扱っているようです。 改元日はその日の吉兆や各種日程との兼ね合いで決められるため、 時間がかかったからといって変えてしまうわけにもいかなかったのでしょうか。
[186] また慶応改元までの詔書の日付は新元号とされることが多かったようです。 日本年号史大事典改元詔書集成
[627] 法解釈的には詔書により日の始まりに遡って改元されたとする説と、 一世一元の制を根拠に新天皇の即位をもって改元されたとする説があるようです。 >>298
[629] 実務上、時刻精度で区別するのは扱いが複雑過ぎるので、 日の始まりに遡って新元号とするのが良いのでしょう。 一方で、旧天皇の崩御の時刻の表記で新元号が使われるのも不自然に見えます。 しかし少なくても、改元がその日にあった以上、当日の一部は新元号とするべきで、 翌日から新元号として扱うのは不適切そうです。
[626] 対応表や変換ソフトウェアの類では、
改元日を新元号開始日とするものと翌日を新元号開始日とするものでやや揺れていますが、
当日から新元号を採用するのが優勢のようです。
[158]
国立天文台の日本の暦日データベースは、
改元のあった日から新元号としています。
[163] Wikipedia は改元日を旧元号の最終日かつ新元号の開始日とするのを「当時」、 改元日前日を旧元号の最終日とするのを「公的」として併記しており、 「当時」の出典を改元の詔書、「公的」の出典を JIS X 0301 としていますが、この区別に意味があるのかは謎です。 少なくても、詔書の記述よりも JIS が「公的」であるとするのは違和感があります。 (どちらも公的なものとはいえ、詔書は法令ですが、 JIS はただの工業標準です。) 実際には政府機関の解釈や取り扱いにも揺れがあり >>356、 そうした明確な境界を定めることはできないように思われます。
[39] 読売新聞のアーカイブ検索サービス読売記事検索は、 対象期間を「明治」「大正」「昭和戦前」 から選ぶと、 改元の日は前後どちらにも含めています。
[164] 以上より、どちらか1つを選ぶとするなら改元日から新元号を使うのが適切と思われます。 スペースが許せば併記するのも一案です。
[526] 元号一覧 (日本) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
これらは過去にさかのぼって改元するため、各元号の有効な期間は、
- その後の文書で当時の日付に言及する場合
- 当時の文書でそのときの日付に言及した場合
のいずれかで異なる。この表の日付は主に後者であり、年初改元や当日改元は遡時を無視して改元公布の瞬間を元号の切り替わりとみなしている。すなわち、当日は新旧双方の元号に(一部ずつが)属す。しかしこれは(改元後の)公的な扱いとは異なる。法令や標準が整備されている明治以降に関しては、公文書等で使われる、前者の日付も記すこととする。これでは、新元号は当年初めまたは当日初めにさかのぼって始まり、旧元号はその前日に終わっている。
[176] 平成改元や令和改元は日の境界で行われており、 どの日がどちらの元号に属するかは明確となっています。
[119] ただし、時差の取扱いの問題は残っています (>>195)。
[40] また改元日の記述では、例外的に 「に令和に改元された」 のように新元号初日も旧元号で表記することがあります。 これを避けるため 「の翌日に令和に改元された」 や 「に令和に改元された」 のような表現をすることもありますが、 3表現のいずれも違和感を拭えないのは確かです。
[443] 中文版维基百科の清の元号の一覧表は、 前の元号の終了日の次の日を次の元号の開始日としていました。 >>442
[256] 改元日より前に遡って新元号を使って日付を表記することがあります。
[99] 改元日にこだわらず、改元のあった年の年始に遡って新元号を使う、 年始遡及年号法とでもいうべき方法を採ることがあります。
[405] 歴史書でも伝統的に採用されてきました (>>304)。
[159] 明治改元までは、 改元日の属する年の1月1日に遡って新元号を適用していた、 としばしば言われます。 しかしそれが適切な解釈なのかどうか、いつをもって改元と考えるべきかは、 平安時代から既に議論があったといいます >>356。 年初に遡った切り替え方も、改元日当日の切り替えも、 どちらの方法も採られてきました。少なくても、 どちらが歴史的に正しいと言えるものでは無さそうです。
[306] 所功は、 年を改めるという改元の詔書の記述方法から、 「その年の元日まで遡って新年号の元年としている、 とみなして差しつかえない」 としました。 >>303
[312] 明治改元までの詔書は、年を改めるという書き方になっていました。 ただし、 天平勝宝から天平宝字への改元のみ、 「改天平勝宝九歳八月十八日以為天平宝字元年」 と日付まで記載されていました >>303 (続日本紀)。
[313] 太田晶二郎は、 藤原仲麻呂の識見によると指摘しました。 >>303 (厳密なる藤原仲麻呂, 日本歴史第二十六号)
[314] この改元は、年が歳に改められていたのを年に同時に戻していることも注目されます。
[675] 明治元年9月8日太政官布告第726号(改元詔書)を読む - 日本中近世史史料講読で可をとろう, https://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20190103/1546502083
[90] 年単位の対応表や変換ソフトウェア、
年表などでは、境界の年について、
新旧両方の元号を示すものが多いですが、新しい元号のみ、
または古い元号のみ示していることもあります。
[155] 可能ならすべてを列挙するのが適切と思われますが、 スペースの都合などやむを得ないときは新年号で示す方が自然と思われます。 ただし消滅する元号が生じてしまいます (>>35)。
[264] 明治への改元は、明治の改暦の前に行われたこと、
年始に遡及するか否かの問題、
多くの場合明治時代まで取り扱えれば十分でその前の改元を無視したいことがある、
といったような事情の組み合わせで、4種類以上の「改元日」
が存在してしまっています。
もちろん正しいのは当時使われていた暦であって、
旧暦の改元日か旧暦の年始の2種類だけです。
[359] 現実問題として、改元日の前に旧元号を使ったものは (すべて修正して回るわけにもいかないので) 残りますし、 後から新元号で言及したものもあり、混在することとなります。 改元日の後の日付についても、 改元の事実の伝達の時差や、政治的な理由による改元の拒否などで、 旧元号がしばらく (時には何年も) 使われ続けることがあります。従って、 元号表記の日付の解釈では、 境界を厳密に定めて、そこから外れたものを誤りとするのは適切ではありません。 改元から十分な時間が過ぎたものは誤りとする検査は可能かもしれませんが、 その「十分」の長さを確定するのが難しい。
[271] 現代日本で歴史の教科書などで過去の出来事に言及する場合、 改元以前の出来事は改元前の当時の元号を使うのが普通だと思われます。 ただし、 改元直前の事件名が新元号で定着しているケースもあります。
[66] 暦本についての歴史書の言及や図書館の所蔵目録などで、 改元前の旧年号が書名のとき、 改元後のものに改めて、 「慶応四年暦」ではなく「明治元年暦」 のように表記することがあります。 しかし書名は正確に記述するべきであって、 この元年の暦の慣習は好ましくありません。 >>54
[552]
千々和到は、板碑の遡及年号 (や延長年号) は個別に勘案すべき事情が考えられ、
それだけで必ずしも偽造と見なす必要がないことを指摘しました。
[509] 早稲田大学リポジトリ, NetCommons, https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=5485&item_no=1&page_id=13&block_id=21
[516] huibao_043.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/78853/huibao_043.pdf#page=7
[415] 中山身語正宗の紹介│中山身語正宗, 中山身語正宗, , https://www.nakayamashingoshoshu.com/syokai.html
※元号が大正に改元されたのは7月30日ですので、厳密には明治45年2月18日になりますが、立教には新しい時代を象徴する大正がふさわしいとの思いから、本宗では大正元年と呼んでいます。
[548] 学叢29号 本満寺境内所在 蓮乗院廟発掘調査報告 - 029_tyousa_a.pdf, , https://www.kyohaku.go.jp/jp/learn/assets/publications/knm-bulletin/29/029_tyousa_a.pdf#page=11
延文元年正月
(3月28日改元)
[551] 坂戸市史 中世史料編 2, 坂戸市教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9642035/1/242 (要登録)
[561] https://otemae.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=2201&item_no=1&attribute_id=20&file_no=1&page_id=33&block_id=62 #page=37
[580] >>579 。記事は杜撰な会計管理だと批判しているものの、 不正とまでは言っていない。領収書が事後に発行されたため新元号が使われたとのこと。
[138] XユーザーのTakashi KOIKEさん: 「寛保/延享、享和/文化、文久/元治と、甲子年に改元されるのは恒例なので、それを見越して甲子年の甲子塔は改元後の元号で造立されるものかな、と思ったのだが、享和四年とか文久四年もいくつかあった。 https://t.co/9PuUfDNfJl」 / X, , https://x.com/tk01k/status/1837674883385606598
[349] >>138 改元あることが予想できてもどんな新元号になるかは予想不能だから、 それは無理なのではないかなあ。元号名書かないで「元年」だけにするわけにもいかないし。 元号名だけ彫るのを遅らせるのにも限度はあるだろうし。
[674] 改元月日を認識することのむずかしさ - 日本中近世史史料講読で可をとろう, https://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20190104/1546571247
[241] 改元日以後の日付が旧元号で表記されることがあります (延長年号)。 次のような事情が挙げられます。
[242] 最新の元号の終了日は定まりませんから、将来の日時を表現する時、 最新の元号が十分長く継続すると仮定します。 実際にはその時期には次の元号に改元されているかもしれません。 改元後からみると、終了日を超えた存在しないはずの元号表記となります。
[245] >>244 には「昭和62年11月1日から昭和72年10月31日まで」 のような期間の記述があります。昭和は64年までしかなく、 平成に入って改正されたらしい部分は平成で記述されていますが、 改正がなかったらしい部分は元の表記のままなのでしょう。 法的にも (適当に読み替えて) 有効であると考えられます。
[93]
法令や契約書などで旧元号で日時が記入されている場合、
改正や訂正の手続きは不要で、
適切に読み替えて解釈することになっています。
改元時にはこのことを政府・地方公共団体や金融機関などが明示的に通知しています。
[95] ただし、改元時に新元号に書き換えたり、 新元号に読み替えることを明文化したりする地方自治体の条例や組織の規則などが制定される事例があるようです。 また、 別件で法令などが改正されることがあれば同時に旧元号の日付表記も新元号に改める事例がしばしば見られるようです。
[131] 令和改元時には、元号のみを改める必要はないことが政府から明示的に通知されました。 ただし提出用の書式等改める方が好ましい場合は改めても良いともされました。 >>130
[246] 改元前に印刷された書類などは、作り直されることもあるようですが、 難しい場合や実害のない場合は、そのまま用いられたようです。 申請書等の書式で旧元号が印字されている場合、手書きなら、 書き直して (無視して) 新元号にしていたようです。
[248] 昭和64年付けの硬貨は、
改元後のまで発行が続けられました >>247。
それとは別に、偽造硬貨や硬貨風玩具として、
昭和65年以後のものがあります。
[55] 暦本も改元を即座に反映させることが難しく、
元年の暦とはあり得ないものの喩えとされ、
2年の暦がない (旧元号のままとなる) ことも多々ありました。
[251] 計算機システムには、昭和や平成を (改元に関わらず) 内部的に用いているものもあります >>249, >>250。
[252] 神武天皇即位紀元 (皇紀) も、 本来の終了日を超えて神武擬似元号が用いられる特殊な場合といえなくもありません。
[116] 改元に慣れていない人は、 旧元号表記に対して苦情を言うことがあります。 改元のたびに政府等が明確化する通知を出す必要があるのもそのためです。
[137] 日本政府は、政府はこうする、とは発表しても民間には強制はしないし、 それどころか地方公共団体や政府傘下でも組織的に遠い組織なら自由裁量権を持たせていて、 取り扱いを統一していない。 そういうところが元号の使いにくさとして認識されたのではないか。 例えば平成33年は法的に有効だ、 といってもそれを明記した法令がないし、 現にそんな年はこないと言っている人がいる以上、 契約書など法的効力を持つ文書では念の為新元号にしたい、 でも新元号が発表されていないとどうしよう、 安全のため元号は避けて西暦を使うか、 と保守的(?)な態度を取る人が現れるのも仕方ない。 政府が早い時期に明確に、 延長年号は有効な表記だ、 元年と1年は同義だ、 新元号公表直後からすぐに新元号を使ってもいいし改元後から使い始めてもいい、 というような方針を定めて公表するべきだったし、 できれば内閣訓令にでもするべきだった。 (それができないのは、 元号を強制するのはいかがなものかとか言い出す連中がいるからだろう...)
[141] 新元号発表から改元までの1ヶ月にシステム更新するのが嫌で、 それに先立って西暦を使うほうがいい、と話す人もいた。 改元後にゆっくりシステム更新しても何も悪いことはないはずなのに、 延長年号より西暦の方がいいと感じる人が少なくないようだ。 平成改元では突然の改元となったので、 間に合わなくて当然という雰囲気だったが、 令和改元は事前からわかっていたため、 逆にそれが準備を完璧にしないといけない、 うまくいかないなら西暦のほうがまし、 という意識につながっているらしい。
[118] 元号に形式的に対応しているだけで実務適用経験に乏しい計算機システムは改元の日以後の日付が与えられた時エラーとすることがあります。 令和改元時にそうしたシステムのいくつかは修正されたようです。
[321]
明治村で明治の延長年号が継続して利用中だったり、
平成ライダーのイベントで平成の延長年号が用いられたり、
エンターテインメント分野で延長年号が使われる事例もあります。
[447]
延長年号の特殊形とも言えるものに、一旦廃止された元号の復活例がいくつかあります。
[101] 昭和70年って何かに似てると思ったら MS-DOS 7.0 だ! wwww
近有僞爲“漢和平二年三月”磚者,不知桓帝和平次年正月即改元元嘉,與此正同,皆不通古今者所爲也。[7]
[554] 戸籍関係判例総覧, 渡辺葆, 阿川清道 共編, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1345849/1/139 (要登録)
[555] 廣旗神社 [香川県]-人文研究見聞録, , https://cultural-experience.blogspot.com/2015/11/blog-post_85.html
また一説には、天治元年(1124年)に当村の北原孫太夫の創建で、元久5年※2 4月に再建されたとも云われているそうです。
※2 元久という元号は一般的には3年までとされるため、詳しい年代は不明(1200年代初頭と思われる)
[576] https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1994&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1 #page=6
『天地瑞祥志』は、薩守真によって麟徳三年 (六六六) に成立し
たという。だが、麟徳三年の年号は実際には存在せず、新羅で成 立したという説もある。
(明朝体)
[304] 支那の歴史書 >>408 や、 それに倣ったとみられる >>408 日本の六国史 >>408, >>303 をはじめ多くの編年史書や年代記など >>303 は、 改元日のある年を、 年始から遡及年号で記述しました。 >>303 これが東アジアの歴史書の伝統的で最も普及した表記法でした。
[409] 一方でそれ以外の方法を採った歴史書や記録もみられないわけではありません。
[305] 類聚国史は、 平安時代、 菅原道真が日本の史書の記事を整理して編纂した歴史書でした。 原則として遡及年号や延長年号を使わない方法を採りました >>303。
[311] 坂本太郎は、 類聚国史 の編纂方針を分析しその特質を指摘しました。 その中で、 六国史を再編集した書物でありながら、 改元年を新元号 (遡及年号) で統一する六国史の編纂方針を受け継がず、 改元日をもって新旧元号を切り替えていることを挙げました。 >>408 坂本太郎は、 「国史を真に理解して読む人」だからこそと高く評価しました。 >>303 (六国史, p.345)
[309] 坂本太郎は概略を示したに留まりましたが、 所功が個別例を調査して報告しました。それによると、 類聚国史 でも 日本書紀や続日本紀が出典の記事で、 遡及年号のものが6例ありました。 他のほとんどの記事は原則通りであって、この6例は例外と所功は判断しました。 逆に延長年号といえるものも12例ありました。 いずれも譲位や改元に関係する記事であり、 改元の詔書の公布が境界だとすれば延長年号でもないと解せるものでした。 ただ譲位や改元に関係する記事でも新元号によるものはあるので、 必ずしも統一されていませんでした。 とはいってもまさに境界線上の事例にとどまるのであって、 菅原道真の編纂方針を高く評価した坂本太郎の判断を覆すものではないといえます。 >>303
[412] 六国史のような編年の歴史書では年始から新元号になるのはやむを得ない書法で、 類聚国史 のような日付単位の記事をまとめた歴史書で旧元号を使うのも当然ではないか、 とも考えられます。 ところが、坂本太郎によると (正確な計算ではないと断りつつ) 日本文徳天皇実録 の伝記記事内の日付が正しく旧年号で記述されたものが19例、 遡及年号で記述されたものが11例でした。 したがって遡及年号が一般に相当に行われていたと考えられています。 >>408
[307] 扶桑略記抄本は、 天皇ごとに記述しており、 前の天皇の最後に旧元号最終年を、 次の天皇の最初に新元号元年を書いていました。 >>303
[308] 公卿補任 は、 旧元号年の下に割注で改元日と新元号年を書き入れていました。 >>303 延長年号方式に近い併記といえます。
[596] 愛知教育大学学術情報リポジトリ, https://aue.repo.nii.ac.jp/records/1847
[678] youryou_koten.pdf, , https://www.nijl.ac.jp/pages/images/youryou_koten.pdf#page=39
[679] >>678 西暦年の範囲を改元年は含まないとしている
[689] Xユーザーのたらればさん: 「西暦1004年(寛弘元年)。 文学史では、一般的に、改元すると(何月に改元しようが)その年の正月までさかのぼって「改元後の元年」というカウントになります。 #光る君へ」 / X, , https://x.com/tarareba722/status/1820053165892657622
[200] 元号表記の日付を解釈する際には、 暦との関係に注意する必要があります。 元号と西暦 (や皇紀その他の紀年法) との関係と、 明治6年以前に日本で用いられていた旧暦と現在用いられているグレゴリオ暦、 かつて欧米で用いられていたユリウス暦との関係が複雑で、 混同されていたり、換算に誤りがあったりすることがあります。
[636] 「西暦」というとき、純粋に紀年法として言っているのか、 欧米式太陽暦まで含めて言っているのか明確でないことも、混乱を助長しています。
[240] 元号による年の表記は、純粋な紀年法とは違って、 改元日を介して異なる元号の年と連結されています。 暦が違っても連結点自体 (改元という歴史的事実) は移動しませんが、 それが暦のもとでどう表現されるかは問題となります。
[199] 旧暦が用いられていた当時の日本の元号表記の年と、 太陽暦が用いられていた欧米の西暦表記の年の対応関係は、 自明とまではいえません。 旧暦、グレゴリオ暦、ユリウス暦のそれぞれの年の開始と終了の日は違いますから、 同じ「年」という概念であっても、別のものです。 それでも次のように考えると対応関係は定まってきます。
[174] 旧暦時代の年月日や年を西暦年と月日で表記することもよくあります。 普通、この西暦年は、旧暦の年を元号表記から西暦に改めたもので、 太陽暦の年とは必ずしも一致しません。
[198] 例えば関ヶ原の戦いのあった旧暦慶長5年9月15日/グレゴリオ暦1600年10月21日のことを、 「1600年9月15日」、「慶長5年(1600年)9月15日」、「1600年(慶長5年)9月15日」 などと表記することがよくあります。
[173] 旧暦の年と太陽暦の年は開始と終了が一致しないため、 境界付近の日付の変換には注意が必要です。年月日の変換は、年と月日に分けず、 全体として行わなければなりません。
[175] 改元が旧暦の n 年年末に行われた場合、 太陽暦の n + 1 年の年初に当たることがあります。 その新元号の元年を西暦 n 年とするのは不適切で、 n + 1 年とするべきだ、とする人もいます >>29, >>22。その場合、 新元号元年も新元号2年も西暦 n + 1 年ということになってしまいます。 太陽暦との関係の記述としては間違っていませんが、暦としては不自然です。 また、改元日ではなく年初に遡って元号を改めるという扱い (>>159) とは矛盾します。
[190] そのような改元の場合、太陽暦の西暦 n + 1 年の年初の日付を元号表記にすると、 旧暦では旧元号 m 年が最後であっても、太陽暦では旧元号 m + 1 年が生じることになります。しかも新元号元年が消失してしまいます。
[177] 逆に公式な暦が太陽暦となった後の平成への改元は太陽暦の年初、 旧暦の年末に行われたため、昭和64年は消失し、昭和63年の途中で改元したことになりますが、 それは平成元年より1つ前の年となってしまいます。
[178] これを平成0年と呼ぶことがあります >>84, >>179, >>183。
[193] こうした問題は元号を日単位で考えるために起こるので、 (明治への改元までは) 改元が年初にあった (>>159) とすれば、 違和感は少なくなります。 (旧暦、グレゴリオ暦、ユリウス暦で新元号の開始の時期が変わってしまいますが、 新元号2年、3年の年始もずれているのですから、構わないでしょう。) ですが、そうはせずに実際の改元日を尊重して元号を決めるのが現在は一般的なようです。
[212] 元号のない時代の天皇擬似元号は、
文武天皇を除き、1月1日を便宜上の改元日と定めています。
通常の元号とは異なりこの改元日には意味がありませんから、
純粋に年の名称と捉えて、暦に関わらず1月1日から新擬似元号とする方が妥当である、
という考え方もあり得ます。
[290] 年度もまたグレゴリオ暦とは年始が異なる暦法ということができ、
改元と年度名との関係の問題が生じてしまいます。
令和改元では、
年度名も新元号に改称されました。
それ以前は新旧併記していました。
[634] <西暦と元号の整合性>忠臣蔵・赤穂浪士はいつ「討ち入り」したのか? ( 版) http://blogos.com/article/101141/
[195] 元号の選択には時差は考慮せず、年月日のみを使うのが一般的と思われます。
[194] 明治への改元までは、標準時がなく、国内でも地方時の時差がありました。 大正や昭和への改元の時点では西部標準時などの中央標準時と異なる時間帯がありました。 日単位で元号が切り替わるとすると地域によって旧元号と新元号が同時に存在することになります。 昭和への改元までは切り替えの時刻が不明確である上、ある時刻に定めても、 時差をどう扱うべきかが問題となります。
[197] 平成への改元の時点では、国内には中央標準時しかありませんでした。 改元の政令は「公布の日の翌日から施行する」としています。 日本国内はすべて中央標準時で、午前0時から平成が施行されたことは明白です。
[631] しかし、日本で1月8日となった後の (例えば) 米国でまだ1月7日である間の出来事を記述するのに、 時差はあれど日本の1月7日と同じ日に属することから昭和とするべきなのか、 中央標準時に基づき施行された瞬間より後であることから平成とするべきなのかは不明です。
[534] 戸籍事務では、現地時刻で1月8日以後を平成と取り扱うこととされました >>533。 (在外公館経由での手続きがあるので、時差も考慮する必要があるようです。)
[111] 在外公館用の出生や死亡の届出書にも、 国内用同様に、時刻の記載欄はあっても時差の欄はありません >>109, >>110。 出生届は役所で保管されるものの、 戸籍に時刻は記載されません。現地の日付がそのまま記載されるものと思われます。 死亡届(証明書)の時刻は戸籍に記載されます。 時差の処理の方法は不明ですが、 そのまま記載するのではないでしょうか。
[112] 届出の日時 (医師が証明書に記載した日時) がそのまま使われるとすると、 在外公館の所在地や時差に関わらず、 医師が選択した時差に基づいた日時が記載されるということになります。
[113] 例えば外国行きの船舶内で船医により出生または死亡が確認された場合、 船医が船内時で証明書を記載し、 これが到着地最寄りの在外公館に提出されると、 船内時の日時が戸籍に反映されると推測されます。 ただし証明書にも戸籍にも時差欄がないので、 船内時だったという情報は残らないとみられます。
[114] この推測の通り運用されているとすると、 船内時や日付変更のタイミングは船長がどうとでも定めることができるので、 ある元号が用いられていた期間を時差も含めて示すとなると、 改元当日の前後24時間くらいはずれる可能性があります。
[140] この方法だと、日本本国で中央標準時0時に達して政令が施行される前であっても、 時差の関係で0時に達して新元号が開始される地域が生じるということになってしまいます。
[632] 日本では、伝統的に日の出(頃)が日の境界と考えられていました。
旧暦から太陽暦への切り替えと同時に、正子が境界と明確化されました。
それ以前であっても、知識層は正子が境界と認識しており、
旧暦はそれに基づいて計算されていました。
[10] 改元の時期については歴史的にいろいろな整理といろいろな用語が行われてきました。 この歴史の蓄積に伴う現状の混乱を理解するため、 複雑な経緯を時系列順に追っていくことにしましょう。
[221]
支那王朝では古くから王位継承の翌年に改元するのが原則とされました >>7866, >>216
[237]
日本書紀 (
[222]
日本後紀 (
[258] 皇位継承と改元実施時期の関係について、
平安時代中期の新儀式逸文は
「践祚の明年改元」、「年内改元」、
平安時代末期の玉葉 (
[225]
三国史記 (1145年)
は、諸説を引きながら称元法を議論しており
[223]
神皇正統記 (
[259]
中世日本
(例えば
[226]
朝鮮半島の紀年法に関する今西龍の論文
(
[227]
朝鮮半島の紀年法に関する小田省吾の論文
(
... に分類しました。 「踰年稱元」と「踰月稱元」はいわゆるとあり、 用語として一般化していたとことがわかりますが、 「薨年稱元」と「薨月稱元」は今仮に称すとされていました (安鼎福が「薨年稱元」と書いているの (と春秋の崩年改元) を引いており >>7867 PDF 12ページ、 小田の完全オリジナルでもありません)。 ㋑ - ㋭
[228] 朝鮮半島の紀年法に関する藤田亮策の論文 (1958年) >>7862 は、今西と小田の研究を踏まえた上で、 「踰月稱元(法)」 は意識的に採用されたのではなく元年が記録に残されたのが翌月頃だった場合に過ぎないとし、 薨去、即位、改元が同時期の「卽位稱元法」 が原則だったとしました。 ㋑ - ㋥㋭ 日本でも皇位継承は即位称元法であり (㋑)、 元号を用いてきたが一世一元により即位称元だとはっきりとしてきた (㋑ - ㋺㋩㋥㋭) と説明していました。
[410]
西夏の元号に関する長部和雄の論文
(1933年)
[230] 日本書紀の紀年に関する研究では、 翌年に改元する「越年称元法」と同年に改元する「当年称元法」 なる語が用いられることが多いと見受けられます。 前者は明治時代の研究者那珂通世以来と言われています >>217。 後者は 1962年に既に用例があるようで >>231, >>232、 更に遡れるとも思われます。 越年称元法は「翌年称元法」と呼ばれることもあるようで、 1953年には既に用例が見られ >>233、 21世紀に入っても使われているようです。 ㋑ - ㋭
[238]
日本の元号法 (
[403] 元号の選定の手続き決定を伝える 読売新聞 記事 () は、 「「踰(ゆ)日改元」 (政令公布の翌日から改元) 」 か 「「踰年改元」 (翌年の一月一日から改元) 」 かなど具体的な時期は決定されていないしていました。 >>402 読売新聞 データベースの「踰年改元」や「踰月改元」の検索では、 これ以前の用例は見当たりません (が、似て非なる表現がこれ以前にあった可能性はあります)。
[260] 「即日改元」という語は漢文中に見られるものや「即日、改元して」 のような表現もあって古くからいわれていたと思われますが、 平成改元 (1989年) の後、平成改元の 「翌日改元」とそれ以前の「即日改元」 がよく対比されるようになったことが Google Books の検索結果から窺えます。 「翌日改元」も同様に一般的な表現でもありますが、 確実に用語といえるのは平成改元の頃からのようです。 ㋑㋺㋩ - ㋥㋭ その他興味深い事例を挙げれば:
[275] 中世日本を研究した服部英雄は論文 (1983年) で新元号を使った改元日以前の日付を「未来年号」 と呼びました。これは過去の用例 (>>259) に倣ったものでした。 >>46 ㋭ - ㋥
[257]
日本の元号制度の研究者である所功の論文
(
[149] 日本年号史大事典の平安以降の代始三儀 (践祚・即位・改元) 年表 は、 次の3種に分類しました 普及版 p.797。
[188] 日本年号史大事典の大同項 普及版 p.161 は「即位同時改元」との語を使っています。 ㋑ - ㋺㋥
[189] 改元年の日付の表記方法は、 次の3種に分類しました (昭和63(1988)年) >>303。
[397] 平成改元 () に至るまでの間、 元号法 案の検討時から昭和63(1988)年秋頃を経て実際の平成改元まで、 日本政府は改元方法を検討していたようで、 またはそれ以後に書かれたとみられる内閣法制局文書にまとめられました。 >>396
[398] まず 元号法 制定当時の検討について、 「「皇位の継承があった場合、事情の許す限り速やかに新元号を定める」べきもの」 「「施行の時期は政令で定められる。一番早い時期は公布された時点」が考えられる」 「「一日が交付の時点を境として二つの元号に分かれることになる」のもいかがかと思われる」 「翌日改元とするかどうかは「国民感情その他諸々の事情を考慮して決定する」」 といった答弁が示されました。「答弁」とあることから国会での政府発言とみられます。 >>396 答弁中の断片的な言及のみであり、体系的な検討があったか、これだけでは不明です。
[399] その後、5案が議論されました。 文脈より、 元号法 制定後、 下旬以前の議論とみられます。 それによると、 「①公布即施行遡及適用(元旦まで、崩御日の午前零時まで又は崩御の時刻まで)」 「②公布即施行(不遡及)」 「③公布の翌日施行(翌日改元)」 「④踰󠄂月改元(翌月1日施行)」 「⑤踰󠄂年改元(翌年元旦施行)」 が議論され、 「③を基本的立場とすることが了解」されました。 下旬の検討では③で問題ないとされました。 >>396 従来の実施例やそれに関わる学説、 日本で前例のない翌日、翌月の施行も含め、 理論面と実用面から網羅的に検討されたことがわかります。 ただしこれ以上の詳細は記載されておらず、 ④⑤の場合の公布の時期が検討に含まれたのか確定的なことはいえません。
[400] 、 ③とするか 「踰󠄂年改元」 とするかが検討されましたが、結論は先送りされました。 >>396
[108] 共同通信社記事 (2019年) は、 これと同じ公文書によるものとみられます。記事によると、 「(1)遡及適用(逝去した年の元日などまでさかのぼる)」 「(2)改元政令の公布時点(即日改元)」 「(3)翌日改元」 「(4)翌月1日改元の「踰月改元」」 「(5)踰年改元」 を検討し、 ご崩御の時期によって 「翌日改元」 を基本に「翌年の元日に改元する「踰年改元」」 も選択肢に入れつつ、 (2) か (3) にすると意見集約されました >>107。 記事内容は基本的に公文書内容と一致しますが、 5案の表現は少しずつ異なっており、記者による改変とみられます。 その意図は不明です。 ㋑㋺㋥㋭
[339] 毎日新聞 記事 (2019年) も、 これと同じ公文書によるものとみられます。記事によると、 「1. 天皇逝去日の午前0時などにさかのぼる」 「2. 改元政令の公布時点」 「3. 改元政令公布の翌日」 「4. 改元政令公布の翌月1日」 「5. 改元政令公布の翌年元日」 の5案を検討し、 3が選ばれました。 >>338 やはり表現が異なり、記者による改変とみられます。 表現を統一して平易にする意図の書き換えとみられますが、 1 が共同通信社と違った要約になっている点や、 4、5 に「公布の」と挿入して文意を変えてしまったおそれがある点が注目されます。 ㋑㋺㋥㋭
[139] 改元実施のための当日スケジュールと施行期日の関係にも検討が及びました。 付とみられる内閣法制局開示公文書は、 改元の政令の公布となる官報掲載について、 20時までに最終稿を提出する必要があり、 それに間に合わない場合、 崩御の翌日に政令が公布され、 翌々日に施行されるとしていました >>396。 「翌日改元」 といっても皇位継承との関係で翌日になることでなく、 法令上の解釈に疑義が生じないよう公布の翌日となることが重視されたことがわかります。
[326] 平成改元当時の 朝日新聞 () は、 過去の事例として 「その日から施行され た。いわゆる「即日改元」」、 専門家の意見として 「施行を翌年の一月一日 からとする「踰年(ゆねん)」」 「翌月の一日からと する「踰月(ゆげつ)」」 に言及していました。平成改元の場合の翌日の改元には特別の語を使いませんでした。 >>324
[404] 平成改元当時の 読売新聞 () は、 過去は 「「一世一元」(行政官布告)により、即日改元だった」、 今回は 「翌日改元となるのが特徴」 であってその理由は 「元号を政令で決めることになったため、手順の上から即日改元が困難な場合があること」と 元号法の規定が「厳密に一世一元の原則にこだわらなくてよくなったため」 としました。 しかも 「政府内部では昨年中ごろまでは改元は、「区切りのよい日から実施する」として、翌月一日や翌年元日から実施する踰(ゆ)月、踰年改元が有力だった」 ところ、 「「新天皇になってからも、旧元号が続くのはまずい」との判断」 があったとしました。 >>401 以前の記事の「踰日改元」 (>>403) でなく今回は 「翌日改元」 と書いていることが注目されます。 この記事は施行タイミングの決定と一世一元を関連付けているのが大きな特徴といえます。 政令施行の技術的問題を理由とするのは内閣法制局文書と一致しますが、 「政府内部」案は矛盾します。
[276] 中世日本を研究した清水眞澄は論文 (1994年) で「未来年号」は年号視点であるとし、 筆者視点がより適切であるとして次のように改元と表記の関係を分類しました。 >>37 ㋥ - ㋭
[34] 日本中世史研究者は改元を無視した延長年号を不改年号と呼んでいるようです。 に峰岸純夫が提唱しました >>604 (>>598)。 足利成氏文書と不改年号 (平成9(1997)年) との論文があり >>604、その後も用例を確認できます。 ㋺ - ㋥
[229] 支那古代史研究者の平㔟隆郎は、 1992年頃から、 古代支那王朝で「立年称元法」が用いられたと主張しました。 「立年」は平㔟の造語であり、 従来の「当年」などの表現は「踰年称元法」を原則とすることを前提にしており、 即位を表す「立」を使って即位後直ちに称元することであるとしました。 改元ではなく称元としたのは、今西ら朝鮮史研究者に倣ったとしました。 >>205 ㋑ - ㋥㋭ 「立年称元法」の語は0年代頃まで、 主として平㔟説に言及するために用いられたようです。 対比のため、現代日本の改元はこれであるとも説明されました。 ㋑ - ㋺㋩㋥㋭
[234] 「立年称元」/「立年改元」については、即位の翌年の「踰年改元」に対し、 「即位同時改元」という語が使われた例もあります >>288, >>217。 ㋑ - ㋺㋩㋥
[482] 、 中華人民共和国の研究者李学勤は、 论汉简、钱范所见纪年超长现象 を発表しました。 この論文では、 漢簡に見られる延長年号を 「纪年超长现象」 (紀年超長現象) と呼んでいました。
[236] 元号の変わり目 (2007年) >>356 は、 日本の元号の切替時の取り扱いについて法令、学説、事務取扱などを収集、 検討しており、 新元号の利用開始㋭の主要説を次の通り整理しました。
[253] また「即位後,年が改まるのを待つことなく」改元することを「立年改元」 と呼びました。 ㋑ - ㋺㋩㋥
[254] なお、ここで引用されている各時代の文書は年始説を年始に遡って (遡及して) 新元号を使うというような書き方としており、 特別な用語はありませんでした。 ㋭ - ㋺
[291] 日付情報処理に関する 2007年の論文は、 代替わりの同年の改元を「立年改元法」、 翌年の改元を「踰年改元」としていました。 >>289 ㋑ - ㋥
[53] 暦の専門家として有名だった岡田芳朗は、 暦で使われた元号の解説 (2008年) において、 改元前に出版されたため旧元号を使った改元後の年の表記を 「未来の年号の暦」、 「未来年号の暦」といって「実在しない年号の暦が出現」することを紹介していました >>54。 ㋥ - ㋭ この「未来年号」は旧来の意味 (>>259) とは正反対です。
[278] Wikipedia の改元項で改元時期を説明した初期の版 (2006年) >>209 は、 次の4つに分類していました。 ㋺㋩ - ㋭
さらに、「これとまぎらわしい分類」で、
の2つに分類していました。 ㋑ - ㋺ いずれも出典は示していませんでした。
[98] 細かな事実認定に疑義が残るものの、 新元号を使って表記される最初の日に関する分類と、 代替わりと改元の日付関係に関する分類の 2種類の分類法に慎重に区別されていたことがわかります。 用語も妥当で、 専用の用語がない分類には無理に名称を与えていません。
[279] その後の改訂 (2008年) >>207 で、最初の4つの分類の 1. と 4. にも名称が与えられ、 2. と 3. の名称が改められました。
後の「まぎらわしい分類」も残されたため「立年改元」と「踰年改元」 は2つの意味が示された状態となりました。変更の根拠は不明です。
となりました。しかも前の版の「まぎらわしい分類」の説明が 4分類と別の分類法とは説明されなくなり、 旧「立年改元」が4分類の「立年改元」と「即日改元」 (その後の改訂で「翌日改元」も追加)、 旧「踰年改元」が4分類の「越年改元」の説明に変更されてしまいました。 やはり変更の根拠は不明ですが、 最初の版の筆者が「まぎらわしい」とわざわざ注意喚起して危惧した事態に陥ったといえます。
が追加され、さらに () >>283 令和改元が該当するとされました。 根拠は示されていませんが、譲位と改元が議論されていた時期であり、 あるいはそのような言葉で説明した人もいたのかもしれません (>>316)。
[285] くわえて () >>284、 4+1 分類の出典が七戸論文とされ、同論文から 4+1 分類とは別に「即時改元」㋑ - ㋭ が紹介されました。 このときの編集者は 「各文献や関連サイトを当たってみた」 と述べており >>341、 当該論文以外に何を参照したのか明かしていませんが、 本文内容に近く学術論文の体を有する当該論文が出典と適切と判断したのでしょうか。
[286] 九州大学の教授の七戸克彦による解説論文 () >>33 は、 元号の利用開始㋭について、次の4つに分類していました。
さらに文章中で践祚を境界とする「即時改元」に触れていました。 ㋑ - ㋭
[287] 七戸論文は、第1章中「改元」の語義の説明から利用開始時期の分類までの部分の構成と記述内容が当時の Wikipedia の改元記事と極めて類似しており、 Wikipedia を参考に執筆された可能性は高いといえます。
[343] 仮に七戸論文がまったく独自に執筆されたとしても、 10年近い歴史を有する Wikipedia の本項目が、 それよりはるかに新しくそれ自身の出典を明記しない七戸論文を出典として示すことには疑問を持たざるを得ません。 Wikipedia との関連性が見出だせない出典が他に明記されない限り、 ソースロンダリングの批判は逃れられないのではないでしょうか。
[342] 少なくても 4+1 分類のうち第5の「踰月改元」 (七戸論文より後に Wikipedia に追加された。) は七戸論文に現れませんから、 Wikipedia の出典の記述は不正確です。 これについて Wikipedia の編集者は、 「いま時点で令和はまだ始まってないので、令和が踰月改元と言うのは出典を自明的に欠く」 と認識していたようです >>341。
[344] この編集者が七戸論文を異様に強調して「即時改元」の記述を追加したのは、 Wikipedia に元からあった 「時刻レベルで改元時点を確定する必要が生じたのは日本の「大正」改元以降のみ」 との記述との関連性によるものだといいます >>341。
[345] この「即時改元」は、 七戸が 「文部大臣官房文書課『(自明治三十年至大正十二年)文部省例規類纂』(帝国地方行政学会、大正13年)847-848頁」 の定める歴史教科書の分単位の元号の区切りを 「詔書の定める「即日改元」ではなく、「即時改元」の立場をとる」 と解し、 「広浜「明治45年7月30日」東北帝国大学法学会(編)『法学瑣論』(岩波書店、昭和14年)69頁」 の記述を 「天皇の崩御に関してだけ即時改元とする趣旨か」 と解したものでした。 >>33 しからば七戸は「即日改元」は日始遡及と解し、 「即時改元」は代替わり瞬間遡及と解したことになります。 ところがこれは七戸の4分類の 「即日改元(改元の日から直ちに新元号を使用するもの)」との説明 >>33 と明らかに矛盾します。こちらの説明に従うなら、 「即時改元」は「即日改元」の細分類の1つであるはずです。 4分類が七戸自身の慎重な検討により導かれたものなら、 このような矛盾した用法が同じ論文中に含まれるのはおかしい。 先行する 元号の変わり目 の整理された分類 (>>236) と比較すれば、用語法の未整備は明白です。
[335] 付けのブログ記事に、 「立年改元」 「即日改元」 「踰日改元」 「踰年改元」 に分類したものがありました >>334。 この分類法と説明は当時の Wikipedia と似ているのですが、細部が異なっています。 特に 「立年改元」 「踰年改元」 を組み込んだ説明は、この当時の Wikipedia にはなく、 2008年ないし 2009年の改訂で組み込まれたものでした。 だとするとこのブログ記事が Wikipedia に基づき書かれたと簡単にはいえませんし、 逆にこのブログ記事から Wikipedia を改めたとするのも困難です。 このブログ記事が当初の半から大きく書き換えられてはいないだろうことは、 コメント欄の「muca 2007/06/13 8:56 AM」 が 「立年改元」 に言及していることから推測できます。 Wikipedia とこのブログ記事は、 同系統の別の説明から派生したと考えるべきでしょうか。 Wikipedia はこの時点でまだ混入していなかった年始遡及型を 「立年改元」 と呼ぶ用法を 「改元が布告された年の元日にさかのぼって新元号の元年とする」 と先取りしていることに注意しなければなりません。
[293] 令和元年現在、Wikipedia のいう正月に遡及する方式を「立年改元」と呼ぶとする Webページは無数に存在しているようで、 Google検索でいくらでも発見することができます。 (逆に従来の、即位年を元年とする意味で使っているものを見つけるのは困難です。) 非学術的な書籍でもそのように紹介していることがあるようで、 Google Books で見つけることができます。 本ウィキも以前は Wikipedia を出典にそのように説明していました。 しかし七戸論文以外の学術論文でこちらの意味で「立年改元」 を使った事例は発見できていません。
[295] 従来の意味では大正改元以前が「立年改元」ですが、 こちらの意味では明治改元以前が「立年改元」ということになり、 指しているものがまったく逆になってしまいます。
[294] 現時点で得られる情報からは Wikipedia の改訂で 「立年改元」に新しい意味が加えられたと推測するのが最も穏当ですが、 Wikipedia の改訂者が明記しなかった何らかの出典が既にそのような意味で使っていた可能性はあります (そうでもなければ >>335 のブログ記事が説明つきません)。
[337] 年始に遡及することをなぜ「立年」と呼ぶのか謎は残ります。 「立年」という言葉がそれらしい意味で使われた形跡は他に見られません。 「立春」などの類推で確かになんとなくそれっぽい感じはするので、 多くの人が信じ込まされてしまったことは理解できる気がします。
[301] 朝日新聞 () は、 令和改元に至る議論の過程の報道で、 「政府関係者」を出典に、 「即位の翌月に改元する「踰月(ゆげつ)改元」」 の方向で検討が進められているとし、 「官邸関係者」が「天皇と元号の『ズレ』は短い方がいい」 と発言したと報じました。 平成改元は「踰日改元」だったとしました。 >>204
[424] 朝日新聞社の 秘録 退位改元 官邸 VS. 宮内庁の攻防1000日 () は、 「改元日には主に三つのパターンがある」 として、 次の3つを挙げました。
(1) は昭和改元、 (2) は平成改元、 (3) は平成改元の前年に「水面下で検討」されたものとしました。 >>1181 pp.77-78
[425]
同書は令和改元の検討が進んで登場した案として、
「踰月改元案」 >>1181 p.83
という言葉を使いました (頃の節)。
「元日改元は維持しつつ、
[426] 同書はまた、 の保守派の会合で検討されたという5案を提示していました。
このうち (3)、(4)、(5) は 「新元号の施行は5月1日午前0時0分に遡及させるとしていた」ものです。 こうした表現が朝日新聞社の整理なのか 「保守派の会合」 に基づくものなのか、 やはり定かではありません。 ここでは 「踰月改元」 という説明は使われませんでした。 >>1181 pp.210-211
[427] その会合を受けた協議では、 (1) や (2) のように 「5月1日の新元号公表だと、新元号が始まる施行日は5月2日になってしまう」 ので不可だと反論されたといいます。 >>1181 p.211 これがどの程度実際の協議内容を正確に説明したものか不明ですが、 (1) も (2) も施行日を公布日と切り離しているので、 この反論は当たりません。 この反論は5月1日に公布し即時施行する案 (ここで提示された5案だと、 (3)、(4)、(5)) に対するものでなければなりません。 複雑で混乱してしまう議論でやむなきところもありますが、 本書を執筆した朝日新聞記者や校閲担当者は誰も矛盾に気づかなかったのでしょうか。
[315] SNS や Web では「踰月改元」への言及が散見されますが、 多くは Wikipedia に基づく記述にみえます。 Twitter の検索で出てくる最古の用例は、 朝日新聞 の記事 (>>301) に言及するものでした >>299。 Twitter ではその後も令和改元に至るまで定期的に発言例があり、 報道や Wikipedia によって知識を得たようにみえます。 >>299
[316] Wikipedia に 「踰月改元」 が追加されたのはですが、 朝日新聞 の報道よりも数日早かったようです (>>282)。 他にも同様の報道があったのでしょうか。
[323] いずれにしてもこれ以前に 「踰月改元」 の用例はほとんど見当たらず、 元から存在したとしても、 この時期に普及が始まった用語とみるのが穏当でしょう。
[346] この他 Wikipedia 記事には不審な点が多いです。 たとえば前近代の日本では 「翌年の元日から新元号を用いる」という「越年改元」が行われ、 明治改元では 「布告された年の元日に遡って新元号の元年と見なす」 という 「立年改元」が行われるようになったのは、 「「孝」の理念よりは、国家元首である天皇の交代を速やかに国民に印象づけることが優先された」 ためだとしています >>298。 ところが実際には明治改元とそれ以前の改元はいずれも践祚の翌年(以降)に布告があり、 その年始に遡って元年とみなす (と解釈し得る) もので、 この点で両者に区別し得る要素はない上に Wikipedia の「越年改元」の定義と一致しません。 当然、そこに孝云々なる理由を見出すことはできません。
[347] Wikipedia は 「日本の改元は概ね1か2か3のいずれかのパターン」 としたうえで明治改元が1 (「立年改元」)、 大正改元と昭和改元が 2 (「即日改元」)、平成改元が 3 (「翌日改元」) に当たると述べています >>298。すると「概ね」 によって覆われない一部は前近代の改元と解さざるを得ません。 これは前近代の日本の改元がパターン4 (「越年改元」) だったという説明と矛盾します。
[386] 令和改元は、新元号発表後に 5 (「踰月改元」) と追記されましたが >>283、 要出典とされました >>284 (>>342)。 その後の の改訂で、 要出典のまま、 3 (「翌日改元」) でありながら月末退位月初即位改元ゆえ 5 (「踰月改元」) 「にも当てはまる」 と改められました >>387, >>388, >>389。 元の 5 とする解釈は、 に改元が公布され、 翌月たるに施行されたことによるものでしょう。 改変された解釈は、 に退位特例法が施行されこの日の終わりに皇位継承が発生し、 に改元が施行されたことによるものでしょうか。 改元の布告を基準とする Wikipedia の定義に忠実なのは前者の解釈でした。 Wikipedia の定義を無視して新天皇の即位を基準にするなら 3 (「即日改元」) とするべきで、 改変された解釈は理論的根拠が不安定です。 いずれにせよこうした記述の変遷は言葉遊びに近く、 用語に踊らされている感が否めません。
[390] Wikipedia には、 慶応およびそれ以前が 「『続日本紀』や改元詔書に見られるとおり年単位であったと言われるが、『類聚国史』では日単位(つまり即日改元または翌日改元)による改元の記載があるとの指摘もある」 >>284 などとしつつ、 その「指摘」の出典は曖昧に濁され明記していません (>>285)。 続日本紀や類聚国史への言及は所功の研究 (>>305) を想起させますが、 「つまり即日改元または翌日改元」 としたのは Wikipedia 編集者の解釈でしょうか。 所功によれば類聚国史は代替わりを境界とする、 強いて言えば「即日改元」を原則としているのであり、 どの部分が「翌日改元」によるといえるのか、 根拠が不明です。 矛盾の多い記述 (>>346) を残してこうした曖昧な新情報を追加したことで、 ますます混迷を深めています。
[297] 令和改元までの議論では、 新元号の「事前公表」を早期に行うべきとする主張と、 皇位継承後にはじめて元号を制定するべきとする主張が対立しました。 過去の事例を紹介するためここまでに挙げた各用語が使われることがあったり、 「事前公表」を前年に行うことを「踰年改元」 といったりする人もいくらか見られたりはしたものの、 一世一元下での譲位という日本史上初の改元を踏まえた時期に関する用語として広がったものはありませんでした。
[6] そのような記事の1つ () >>115 は、大正改元から令和改元までをすべて「即日改元」 であると説明し ㋑ - ㋺、 元号の選定に十分な期間を置いて「翌年改元」 する ㋑ - ㋥ ことを提案しました。
[645]
令和元年には、元二説と呼ばれる中世の特殊な改元理解を想定する学説を踰年改元と表現する論文が発表されました。
[13] 以上から次のように結論付けることができます。
[392] この内容は Wikipedia によるものでしょうか。 他には見られない、説明のための図が示されています。
こうして時代順に整理されると施行が徐々に遅くなっており、 やがて「踰年改元」になるとの分析にも納得させられそうになります。
冷静に考えれば遡及適用するかしないかと情報伝達速度に関係はないので、 明治改元までの「立年改元」を大正改元以後と並べても理屈は通りません。
プログラム改修に時間がかかると「踰年改元」になるのはまだしも、 「立年改元」になる「割りき」りは意味不明です。
[393] プログラム改修に時間がかかるようになったとの前提も怪しく、 平成改元後何年も昭和のままのシステムが残ったのに比べれば、 今回の令和改元ではほとんど即座に改修が完了していました。 ネットワークとソフトウェア産業の発達で、 システム更新は平成改元当時より遥かに容易になっていたのが事実でした。 (もっとも令和改元はこの記事の時点で未到来なので、理解不足は責めにくい。)
それが今後ますます時間がかかるようになるとの予測は、 平成時代30年間の技術の発達を無視し、 情報技術者に学習能力がないと冒涜するようなもので、 根拠を示さずいうべきものではないでしょう。
[517] 十六国夏の年号について PDF p.7
[557] 古事記に親しむ改 皇紀(BC660年)は讖緯説に基づいてない【第二部】斉桓公と箕子朝鮮, 浅草橋キッド, , https://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-238.html
治世年次の表記には「エジプト式紀年法」と「メソポタミア式紀年法」があり、エジプト式の方はアンチデートシステム(antedate (時前)system)ともいい、中国では「立年称元」(または当年称元)という。メソポタミア式はポストデートシステム(postdate (時後)system)ともいい、中国では「踰年称元」(または越年称元)といっている。エジプト式は即位したその年を「元年」として治世の年次を数えていくやり方だが、メソポタミア式は即位した年ではなく、翌年を元年とするもので、先王と新王の年次のダブリが生まれないようになっている。
[563] 呪文?「歳舍柔兆涒灘」―和漢古書の出版事項(12) (TRC データ部ログ), http://datablog.trc.co.jp/2016/08/29162209.html
なお、日本では年内でも即日に改元するので一年のうちに二つの年号があることはよくありますが、中国では「踰年(ゆねん)改元」といって、代替わりがあった翌年の正月に改元しますので、そうしたことは基本的にありません。
[578] 「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位 ─「春秋經」の正月卽位法の再検討に及ぶ ─, NetCommons, , , https://tohoku.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=33&block_id=46&item_id=135390&item_no=1
[12] 元号の変わり目(1) - 略本雑記 () https://hakuriku.hatenablog.com/entry/20070716/GengoEd2_1
[655] 法令の条文中に未来の日付が記述されているものがあるが、改元された場合、どのような取扱いになるのか知り... | レファレンス協同データベース (国立国会図書館著, ) http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000232427
[36] 本邦における被害地震の日本暦について () https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/22/3/22_3_253/_article/-char/ja/
[169] 改元をめぐる制度と歴史(短報) () http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_11126513_po_081105.pdf?contentNo=1
[47] 安政大地震、実は嘉永大地震 :嘉永7年11月4日[1854/12/23(土曜)] () https://web.archive.org/web/20160326085631/http://chokanji.international-cooking.info/gengo/ansei.html
[9] ノート:令和/過去ログ1 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E4%BB%A4%E5%92%8C/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%83%AD%E3%82%B01#%E6%94%B9%E5%85%83%E3%81%AE%E9%9A%9B%E3%81%AE%E6%99%82%E5%88%BB%E8%A1%A8%E8%A8%98%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6
[103] なぜ昭和なのかまったくわからない。真面目なサイトなようだし。 検索してもこのサイト以外にこういう記述はないし。
[317] JavaSE6 和暦の昭和の改元日が違う!? - Java Solution - @IT ( ( 版)) http://www.atmarkit.co.jp/bbs/phpBB/viewtopic.php?topic=35637&forum=12
[322] たかなし@原稿中/3月忍FES O11bさんはTwitterを使っています 「平成と令和の切り替えがキリがよかったので、私も令和○年を平成換算して考える大人になりそう 親世代がずっと平成○年を昭和…って言いながら時間の経過を計算してたよね…」 / Twitter () https://twitter.com/takanashi_nin/status/1212555415579324417
[406] 延長年号すこすこ民の気持ちは残塁マニアと似ている?
[416] 衆法 第198回国会 6 天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行の日の翌日以後における平成の元号を用いた法律の表記の取扱い等に関する法律案 () http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/g19805006.htm
[417] 衆法 第198回国会 6 天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行の日の翌日以後における平成の元号を用いた法律の表記の取扱い等に関する法律案 () http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/keika/1DCE512.htm
[418] 衆法 第198回国会 6 天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行の日の翌日以後における平成の元号を用いた法律の表記の取扱い等に関する法律案 () http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/keika/1DCDB8A.htm
[419] 衆法 第198回国会 6 天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行の日の翌日以後における平成の元号を用いた法律の表記の取扱い等に関する法律案 () http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/keika/1DCD532.htm
[420] 衆法 第198回国会 6 天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行の日の翌日以後における平成の元号を用いた法律の表記の取扱い等に関する法律案 () http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/keika/1DCCD26.htm
[88] Ruru いつもいつでもいつだって秀樹さんはTwitterを使っています 「@kururu31255862 @hy8tvNMgYefEgki @chiki25530442 @ameba_official 私も、いまだに昭和なら95年とか考えてますよ〜😂カレンダーにも、令和2年、平成32年、昭和95年と印刷されている物も😂平成までは、大正時代まで書いてありましたね。😂自分の歳数えるのに便利かな❓🤔西暦で分かるけど、何となく拘ってしまって🤣」 / Twitter (午前11:35 · 2020年5月28日 , ) https://twitter.com/Ruru28252160/status/1265833959398621184
[428] Ruru いつもいつでもいつだって秀樹さんはTwitterを使っています 「@hy8tvNMgYefEgki @kururu31255862 @chiki25530442 @ameba_official 証拠写真📷😎 https://t.co/4PYYHMI2kx」 / Twitter (午後3:46 · 2020年5月28日 , ) https://twitter.com/Ruru28252160/status/1265897189563174913
[431] この日付は誤り。正しくは前元号の終了日。 この解説記事だけが誤っているのか、それとも誤ったシステムも実在しているのか。
[432] 西暦1926年12月25日は、大正天皇が崩御された日ですが、即日改... - Yahoo!知恵袋 (Yahoo! JAPAN, ) https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13133911993
[434] 平成0年問題/総合雑学 鵺帝国 (, ) https://nue2004.info/knowledge/knowledge108.htm
[435] 法律案等審査経過概要 第202回国会 天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行の日の翌日以後における平成の元号を用いた法律の表記の取扱い等に関する法律案(大島敦君外6名提出、第198回国会衆法第6号) (, ) http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_iinkai.nsf/html/gianrireki/202_198_shuho_6.htm
[436] 衆法 第198回国会 6 天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行の日の翌日以後における平成の元号を用いた法律の表記の取扱い等に関する法律案 (, ) http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/keika/1DD05D2.htm
[320] (, ) http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/sinnrann/02nennpu/nennpu0730/1207/hounan02/01kakehasi/01kakehasi.pdf
[616] 古い陶器の箱書きに「天保16年乙巳年」と記して有りましたが、... - Yahoo!知恵袋 (Yahoo! JAPAN, ) https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1065722130
[441] 服部英雄のホームページ (, ) https://isgs.kyushu-u.ac.jp/~hatt//gyohihan.html
[449] ノート:元号一覧 (日本) - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%3A%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
[490] きこさんはTwitterを使っています 「@akaiosorani 違う暦を使用していたケースも。確か足利義氏や佐竹義重が「元亀五年」の判物を発給しています。佐竹氏は鹿島暦を使用。義氏は北条氏との関係を考えると三島暦でしょうが、北条氏には「元亀五年」なる年記はなく、政治的な、もしくは私年号に近いケースかと思われます。」 / Twitter (午前3:08 · 2012年12月31日 , ) https://twitter.com/quiqueaux/status/285447264971923458
[384] 防災情報、地震災害情報のトップニュース|防災情報新聞, http://www.bosaijoho.jp/topnews/item_5820.html
3.本文中の年月日は太陽暦(グレゴリオ暦)を使用、かっこ内の年月日は太陰暦=その時代の年号と暦日。なお、太陽暦の使用開始は1872年(明治5年)12月3日からで、この日が明治6年1月1日になりました。
4.年号の適用は、明治改元の時に定められた「改元のあった年の1月1日にさかのぼって適用する」ことはせず、改元の前日までは前年の元号で表しました。
[508] 明治改暦の布告の時刻の表(午前と午後): suchowan's blog () https://suchowan.at.webry.info/202108/article_11.html#comments
[512] 資料から探る改元の歴史 - 上越市ホームページ (, ) https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/koubunsho/tenji24.html
[513] 武家年代記 (治承4年―明応8年(貞和5年―観応5年欠)) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム, https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000444660000/55c00b842ca2429abec42d873f4c3f18?p=9
「
p.13 乾元、嘉元にも異説が記載あり。
[515] 日本語版ウィキペディアには何日に「即日改元」と書いてある元号記事があります。 「踰年改元」と書かれている記事もあるので、その対義語が「即日改元」のように見えます。 正月元日に即日改元したと書かれている記事もありますが、 1月1日に改元が制定されたのか (即日改元という語感から連想されるのはこちら)、 前年に制定され1月1日に実施されたのが記録に実施日だけ残っているのか、 検証しないことにはわかりません。 しかし出典も書かれていないので、 検証してそう書いたのか、 独自の「即日改元」の定義によるのか、わかりません。 1月1日以外の「即日改元」も同じで、本当に「即日」なのか、 そうだとすれば出典を示すべきでしょうし、 そうでないなら適切な用語に改めるべきでしょう。
[523] 元史/卷174 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B2/%E5%8D%B7174
燧先在蘇門山時,讀通鑑綱目,嘗病國統散於逐年,不能一覽而得其離合之概,至告病江東,著國統離合表若干卷,年經而國緯之,如史記諸表,將附朱熹凡例之後,復取徽、建二本校讎,得三誤焉,序於表首。略曰:「其一,建安二十五年,徽本作『延康元年』。凡例:中歲改元,在興廢存亡之際,以前為正。當從建本,於建安二十五年下,注『改元延康』。其二,章武三年,徽本大書『三年,後主禪建興元年』,建本無『三年』,則昭烈為無終。徽、建皆曰『後主』,於君臣父子之教,所害甚大,是起十四卷、盡十六卷,凡曰後主者,皆失於刊正也。當於三年下注『帝禪建興元年』,明年大書『帝禪建興二年』,庶前後無齟齬也。其三,天寶十五載注『肅宗皇帝至德元載』,明年惟曰『二載』,為無始。當大書『二載』上加『肅宗皇帝至德』,使上同於開元。三者鈞失,而建安之取,至德之去,統固在也。若章武之距建興,纔三年耳,遽有帝父主子之異,豈不於統大有關乎!」詳見序篇。
[525] 改元のためにずらしたという根拠はあるのだろうか? (改元も含んだ一連の皇位継承儀式のためというなら議論はなかろうが。)
[529] 天皇や将軍の交代、元号の改元などの周知方法は何だったんですか?時代劇... - Yahoo!知恵袋, Yahoo! JAPAN, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14269516134
別に庶民に対しては、周知させる必要など無いから放置です。
[530] 根拠は示されていない。酷いデマ。
[559] この10年, , https://web.archive.org/web/20011106211359/http://www.yomiuri.co.jp/yomidas/konojune/89/89n14.htm
このため、政府内部では昨年中ごろまでは改元は、「区切りのよい日から実施する」として、翌月一日や翌年元日から実施する踰(ゆ)月、踰年改元が有力だった。
しかし、「新天皇になってからも、旧元号が続くのはまずい」との判断で、翌日改元となった。
[560] 歴史民俗資料学研究 = History and folk culture studies (2), 神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4428956/1/22 (要登録)
[562] 改元政令 - Enpedia, , https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E6%94%B9%E5%85%83%E6%94%BF%E4%BB%A4
天皇の崩御後、22時までに天皇の署名が終わらなかったら、翌日公布、翌々日施行となる。
[581] 『関孝和全集 第三巻 資料』 - 0913280_vol3.pdf, , https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0913280_vol3.pdf#page=11
ところで、従来から問題になっているのが関孝和が書写し
た年代である。両写本とも、年紀「寛文」の横に「本ノマ マ」と記されている。他の箇所の「本ノママ」は間違った文 字の当該箇所に記されていることから、「本ノママ」と記し た筆者は「寛文」に注目したことになる。「寛文癸丑」は一 六七三年で、この年の九月に「延宝」に改元されている。書 写が終了したのは「仲夏下浣日」とある通り五月下旬である。 従って、年紀「寛文癸丑」で何ら矛盾はない。影印で見るこ とができる通り、高樹文庫本は「癸丑」の上から「辛丑」と 書き直している。藪内清旧蔵本は「寛文癸丑」となっている ことから、原本は「寛文癸丑」と記されていたと考えられる。 また、書写の年紀を朝鮮で『楊輝算法』が重刻された「癸丑 五月」に意図的に合わせたと見ることもできよう。巻の順番 を変えたことは、関孝和が序文に目を通していたことを窺わ せ、『楊輝算法』の数学的内容だけでなく、その成り立ちに も関心を持っていたことが推測される。
[582] 寛文辛丑は元年。訂正者は最終年が新元号元年になった便覧か何かを見て誤記と思って十二支が一致する12年前に改めてしまった、ということ。
[665] 【元号について】 年号が明治→大正・大正→昭和に変わる時は、天皇が亡くなった日であったが、平成に変... | レファレンス協同データベース, 国立国会図書館, https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000190191&page=ref_view
- 事例作成日
- 2014/4/23
- 登録日時
- 2016/03/29 00:30
- 更新日時
- 2023/12/26 00:30
【元号について】 年号が明治→大正・大正→昭和に変わる時は、天皇が亡くなった日であったが、平成に変わる時だけ、天皇が亡くなった次の日であった(利用者調べ)のは、なぜか。
『日本史年表 増補版』歴史学研究会/編(岩波書店、1995年)(111618537)p.342
平成も、(大正・昭和と同様に)亡くなった1/7当日に改元されている。ただし、施行は翌日となった。
『北國新聞 縮刷版 平成元年1月号 No.274』 p.313(1/7号外)
「元号法に基づいて(中略)公布の翌日から施行する。」との記載あり。
【回答】
平成も、大正・昭和と同様に天皇が亡くなった日に改元されている。
しかし、昭和にできた元号法により、平成に変わる時には、当日改元・翌日施行となった。
[666] 当然の疑問だけど「なぜ」をちゃんと説明してる資料はあまりないような。
[667] 「元号法により」だと回答として不十分で (法文にそんなことはかいてない)、 法理論的理由を説明した論考がどっかにあったような...
[668] 「改元した」を施行日でなく公布日に置くという解釈にも注意したい。 この用語法だと令和改元の日は4月1日?
[669] 平成時代の資料だとこの解釈のものがままあるのだけど、令和改元はやはり5月1日が改元の日となるべきだと思われるので、 今後は施行日に改元が行われたという表現に改めていくべき。
[670] すると前近代の改元の日は覆奏や吉書始の日にするべきなのか、という疑問もないではないが、 そうすると改元日を特定するのは難しくなるから、歴史的に新元号が始まる日と認識されてきた従来の 「改元日」 (詔書の日付の日) を使うほかに現実的な選択肢がない。
[671] それとの連続性から政令の公布の日を改元の日とみなす解釈が発生し得るのだろうが、 前近代の詔書と現代法制度下の政令では仕組みが違うので場合分けが必要だと諦めるしかない。 日付が1つしかない詔書と公布の日と施行の日が明記された政令で場合分けが生じるのはおかしなことではない。
[683] 所功先生、いまさらの「政府批判」の真意──もしかして矛先は男系男子継承維持派に向けられている(2018年9月24日)|斎藤吉久, https://note.com/saito_syse/n/na41cc4689c88
[682] 「翌年元日」改元か、それとも「践祚の翌月」改元か──30年で一変した所功先生「改元論」の不思議(2018年10月7日)|斎藤吉久, https://note.com/saito_syse/n/nb581d1b8aa86