祺祥

祺󠄂祥

紀年法

[14] 元年は、です。 (y~162)

制定経緯

[29] 咸豐11年7月癸卯, 咸豊帝文宗崩御 >>28

[30] 咸豐11年7月乙卯, 元号祺祥と定めました >>28

[32] 咸豐11年10月庚申, 祺祥同治に改めると詔がありました >>28

[31] 咸豐11年10月甲子, 同治帝即位, 明年を同治元年と定めました >>28

[1] 祺祥 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%BA%E7%A5%A5

[2] udn旅遊美食 - 連假小旅行, , https://web.archive.org/web/20150407074006/http://co.udn.com/mag/travel/printpage.jsp?f_ART_ID=44751

諸資料の記述

[12] 元号一覧等での扱いは保慶と若干違います。

[13] 中国歴代年号考は、 咸豐を 「1861七月」 までとし、 祺󠄂祥を 「1861七月」 から 「十二月」 までとし、 同治を 「1862」からとしています。 7月に即位改元し、 10月に再改元して翌年を同治元年にした、とあります。 >>11 (y~1825)

[19] 兩千年中西曆轉換系統は、 農暦全体を咸豐としています。 >>21

[20] 中西曆對照查詢系統は、 -祺祥としています。 >>21 (y~1825)

[22] 中華民国國立臺灣圖書館は、 に翌年祺祥改元すると決めたが未実施だったとしています。 >>21

[4] 中文維基百科中華王朝の元号の一覧表は、 祺祥清の元号の一覧表に掲載しています >>3。 以前は時期が一応記載されていましたが、 その後時期なしで未使用の扱いに変更されました。 清の元号の一覧表も、 一覧に記載しつつ時期なしで未使用としています >>5

[6] 個別記事には前後の元号のリンクがありますが >>1、 前後の元号の個別記事は前後に祺祥を挟んでいません。 各個別記事共通で掲載される清の元号の一覧表は、 祺祥を別枠で掲載しています。

[8] 日本語ウィキペディア の一覧と個別記事は制定年であるとしています。 >>9, >>7 (y~1825)

[10] 中華王朝の元号の一覧表は、未施行と明記しつつも清の元号の一覧表に掲載しています >>9。 各個別記事共通で掲載される台湾の元号の一覧表は、 注記もなく掲載しています。

[27] 百度百科の元号一覧には掲載されていません >>26。 個別記事はあります >>25


[18] 棋祥, 棋祥重宝と誤記されることがあります >>17。 検索すると山程という程ではないですが、多数見つかります。

用例

[15] 清祺祥重寳錢, , http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/bronze-129.html

清祺祥重寳錢一種(祺祥時代、AD1861)

祺祥とは、咸豊帝が死去して位を継ぎ 即位した同治帝の、即位改元の年号で あるが、直ぐさま西太后に因って同治と 改元されたため、その期間は極めて短 い。

[16] 祺祥通宝 | 東京大学学術資産等アーカイブズポータル, https://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/assets/d43be37e64afafc578d3c09829c657b6

穆宗咸豊11年

[17] sin10, https://ecaps.nekonikoban.org/kosen/sin10.html


[34] 中華民国臺灣嘉義縣新港鄉板頭村長天宮廟名橫匾に 「祺祥元年壬戌置」 とありました。 (時点の写真 >>256)

[35] 本国で最初の改元の通知が到達した後、次の改元の通知が到達する前に作られた、 一種の延長年号と考えられています。 >>256

メモ

[33] 辛酉政変 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E9%85%89%E6%94%BF%E5%A4%89