[3] 改元が行われると、 改元の前後で1つの年が旧元号と新元号に分断されることになります。 それを避けるために改元を年始に行うというのも一案ですが、 改元の契機となった事由と改元が離れ過ぎるというのは、 改元の意義に関わる問題です。
[4]
改元の時期についてはいろいろな解釈があり、いろいろな運用がなされてきました。
[5]
また、いろいろな用語があって、その意味には混乱もあります。
[6] 中華文化圏では君主位継承の起こった当年に改元するべきか、 翌年に改元するべきか、 が主に儒教的観点から諸国で議論されてきました。
[7] 実際の運用については改元日参照。 前近代の日本については日本の元号参照。 近現代の日本については改元日参照。 越南については越南の元号参照。 朝鮮半島については朝鮮半島の即位紀年参照。
[8]
春秋
は、
即位の翌年を元年とする即位紀年を使って書かれていました。
[9]
春秋
は儒教の経典として中華文化圏諸国で尊ばれました。
春秋
の紀年法や史書としての構成は中華文化圏諸国の正史の規範となりました。
[12] 春秋 のように新王の元年を即位の翌年とするのは、 前王の末尾の年を分断ないし上書きするのは忠義に反することで、 好ましからざることだと理解されています。 >>1 次のように、歴代中華王朝の学者らは、 前帝の末年を分断せず、翌年に(即位と)改元をするのが正しいと主張してきました >>7866。
踰年称公者、縁民之心不可一日無君也、縁終始之義一年不可有二君也。故踰年即位、所以繫民臣之心。
嗣子位定於初喪、而改元必須踰年者、継父之業、成父之志、不忍有変於中年也。諸侯毎首歳必有礼於廟、諸遭喪継位者、因此而改元即位、百官以序、故国史亦書即位之事於策。
[38] 朱子学の開祖朱熹によるとされる 資治通鑑綱目 の 成化御序 は、
事関大義、若未踰年改元者、依例正之。
とその方針を述べました。 >>37, >>7866 朱子学の浸透により本書やこの方針は影響力を持ちました。 >>7866
[1] 高麗国で金富軾が編纂した朝鮮三国時代の歴史書 三国史記 (成立) は、 新羅の第2代国王南解次次雄の記事で、 次のように書きました。 >>2, >>7864, >>7866
論曰、人君即位、踰年称元、其法詳於春秋、此先王不刋之典也。 伊訓曰、「成湯既没、大甲元年。」 正義曰、「成湯既没、其歳即太甲元年。」 然孟子曰、「湯崩、大丁未立、外丙二年、仲壬四年。」 則疑若尚書之脱簡、而正義之誤説也。 或曰、古者人君即位、或踰月称元年、或踰年而称元年。 踰月而称元年者、成湯既没、大甲元年是也。 孟子云大丁未立者、謂大丁未立而死也。 外丙二年、仲壬四年者、皆謂大丁之子大甲二兄、或生二年、或生四年而死、大甲所以得継湯耳。史記便謂此仲壬、外丙為二君、誤也。 由前則以先君終年即位称元非是、由後則可謂得商人之礼者矣。
[11] すなわち、 歴史書で儒教の経典である 書経 (古文尚書 伊訓, 尚書正義) には、 殷 (商) の初代湯王が死んだ当年が太甲元年になったとあります。 >>1, >>7866
[13] ところが 孟子 には湯王の死後に大丁 (未立)、外丙2年、仲壬4年と書かれていて、 太甲の前に2(3)代6年があったように読めます。 史記 もこの説を採って、 外丙2年、仲壬4年の治世を経て太甲が即位したこととしています。 もしそうだとすると、 >>11 説は成り立たないことになります。 >>1, >>7866
[16] これには反論もあって、 孟子 の記述は曖昧で、 大丁が夭折、 外丙は2歳、 仲壬は4歳で死去したとも解釈できます。 >>7866
[15] 尚書 は、 元祀十有二月乙丑に重臣の伊尹が先代の王を祀り、 三祀十有二月朔に喪服を脱いだと書いています。 >>14, >>17, >>7866 これは11月に湯王が死去して翌月12月に即位し、 3年の喪が即位3年の12月1日に開けたと解釈できます。 >>7866 つまり殷の頃には前王死去の翌年を元年とする他に、 死去の翌月から元年とする慣習もあった、 とする説があるのです。 >>1
[18] これは 三国史記 の新説ではなく、 尚書正義 所引隋国顧彪注 (「顧云・・・」) は、 尚書 のこの部分について、
[21] 三国史記 がわざわざこのような注釈を入れているのは、 次のような理由によるものと推測されています。 >>7866
[27] そして金富軾のおそれた通りのことが起こりました。 高麗時代末期から李氏朝鮮時代にかけて、 朱子学が入って重視されるようになり、 即位の翌年を元年とするのが正しいと考えられるようになっていきました >>7866。
[36] 李氏朝鮮政府の儒学研究者の権近は、 三国史記 の当該注釈を引きつつ、 1年を2人の君主に分けるのは義にもとるとし、 その編著 東国史略 (成立) では即位の翌年を元年に改めました。 >>26, >>7864
[41] 権近の 進三国史略䇳 は、 三国史記 を批判して、
取法於馬史、大義或乖於麟経。
と書いていました。 >>39, >>7866 馬史は史記、 麟経は春秋を指します。 >>7866
[28] 李氏朝鮮時代に編纂された 東国通鑑 (成立) は、 三国史記 の注釈と権近の注釈を引用しています。 >>26, >>7864
[44] そして金富軾の説については、 蘇氏が死去の当年の即位は乱世の事であるとしていること、 胡氏や蔡氏も注釈していることを指摘して、 非難しました。 >>26, >>7864
[46]
一方で
東国史略
が元年を改めたことに対しても、
それでは紀年のずれが生じてしまい、
実利を失ってしまうとして、
三国時代は従来通りの紀年法を採用しました。
>>26, >>7864, >>7866
ただ高麗時代については、
即位の翌年を元年としています。
[45] 李氏朝鮮国の学者安鼎福の歴史書 東史綱目 (成立) の凡例に
称元於先王之崩年、朱子謂於君臣父子之倫所害尤大、三国之君皆於薨年称元、金氏反謂之得礼、権氏史略改旧史踰年称元、庶幾得春秋之義、然非実事、故今従通鑑、直書以著其失。
と書いて、
東国通鑑
の方針をほぼ踏襲しました。>>7866
[42] しかしそれでも現実に即した折衷的な方針には満足できない人達もいました。
[43] 李氏朝鮮国の儒学者申欽は 象村集 の 答白沙文 で、
以即位明年為元年者、出於春秋而綱目因之。
と書きました。 >>7866
[40] 李氏朝鮮国の儒学者洪汝河の 木斎家塾東国通鑑提綱 は、 三国史記 を踏襲した 東国通鑑 は誤っているとして、 即位の翌年を元年に改めました。 >>26, >>7864
[30]
即位の翌年を元年とする方法を原則とすると、
王の在位が短く元年になる前に次の王の治世となるとき、
不都合が起こります。
[31] 明治時代の日本の歴史研究者今西竜は、 李氏朝鮮時代に儒教的見地から即位の翌年を元年として編纂された史書が、 この問題のために治世が短い王の記述が編集上の一貫性を欠き、 他の王にある情報が脱落している点を指摘しました。 春秋の大義など名ばかりの形式主義に過ぎないと手厳しく批判しています。 >>7864