[1] 日本の昭和時代は日時制度にとっても激動の時代でした。
[64] 大正時代末期から昭和時代初期にかけて、 新聞記事の一部に左横書きが使われるようになりました。
[65] 横書き記事でも基本は漢数字が使われていたようで、 「四月十日」、 「廿四五日」、 「十五年度」、 「十日午後九時」 のように表記されました。 横書き登場 p.126 (国民新聞 )
[66] ラジオ放送欄では、
大阪は
「6
[67] -に東京で開催された催事 「戦捷日本コドモ博覧会」 のポスターには、 次のようにありました 横書き登場 p.136。
戰捷日本
コドモ
博覽會
昭和十三 年 https://glyphwiki.org/wiki/u5e74-itaiji-008 一月
3 日 より
―
27 日 まで
[71] 開催期日の表示は横書きと縦書きが混じった複雑な表記ですが、 開始日が右側、終了日が左側の全体として右横書きになっています。 その中で日番号はアラビア数字で左横書きになっていることが注目されます。 現在でもアラビア語表記では右横書きのアラビア文字の中に左横書きの数字が混ぜられるのと同じです。
[70] その会場にあったとみられる記念の判子の印影には、
右横書きで、
「
[2] 昭和時代前期には皇紀がよく使われるようになりました。
[76] その理由として国粋主義、軍国主義的傾向が指摘されることが多いですが、
大正改元、昭和改元とわずか15年で2度の改元を経て、
元号の不便な点を補う有用性が認識された結果という実用面も大きかったとみられます。
45年間の明治時代を経て2,3年で改元が繰り返される時代は過去になり、
文明開化で社会も大きく変わっていました。
一方で独自の紀年法を持つことは独立国の象徴であり、
皇紀を持つ日本はアジア諸国の模範でもありました。
[5] 紀元2600年 (昭和15年、西暦1940年) には様々な記念事業が行われ盛大に祝福されました。 >>4
[7] 日本軍の制式名称にも昭和時代に入ってから皇紀下2桁年が用いられるようになりました。
明治から大正、昭和と改元が続き、
元号年番号だけでは距離が近すぎて不便なため昭和への改元直後に改められたと考えられます。
[136] 国体と教育, 渡辺八郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1071455/1/79 (要登録)
[11]
国内の一部
(沖縄県の先島諸島、
台湾、
南洋群島、
関東州・満鉄附属地)
で異なる時刻が使われていました
[17] 経済的なつながりが大きかった満州国の標準時も改正され、 日本の中央標準時と統一されました。
[16]
交通や通信が発達し、経済的な一体化が進み、
時差による不便が大きくなったことが理由でした。
[42]
夏時刻や通年夏時刻の実施も度々提案されました。
台湾や満州国では標準時改正として実現しましたが、
日本本土では実施に至りませんでした。
[6] 皇紀や昭和の元号は、 大日本帝国の領土やそれに準じる地域だけでなく、 満州国や中華民国など同盟国に駐在する日本軍はもちろん、 南方占領地の日本軍やその軍政下の現地住民によっても用いられました。
[8] 具体的には南方占領地旧蘭領東インド (現在のインドネシア)
や南方占領地旧英領マラヤ・昭南市 (現在のマレーシア、シンガポール)
の新聞などで使われた記録が残っています。
インドネシアの独立宣言にも皇紀下2桁年の日付が記載されました。
[10]
南洋各地に展開した日本軍の軍用時は、
本国と同じ中央標準時に統一されていました。
南方占領地の一部では現地の標準時が中央標準時と同じ時刻に改められました。
満州国や中華民国などの同盟国も含め、
大東亜の広大な地域が単一の時刻で統一されました。
[44]
本初子午線を日本基準に改正しようとする者もあり、
帝国議会に請願として提出されましたが、
流石に無理があり日本政府は拒否しました。
[78] 第二次世界大戦の頃、昭和の西暦排撃がありました。
西暦は敵性語の類として敬遠されました。
[79] 敵性語一般と同じく公的に禁止されたのでなく、自粛・敬遠だったようです。 他に昭和の元号と皇紀があったので、 特に西暦の必要もなかったのでしょう。
[90] 自粛する程度に西暦が社会に進出していたことが窺えます。 逆に自粛しても大きな問題にはならない程度しか使われていなかったともいえます。
[82] 国定教科書では西暦の「多用」が「排撃」されました >>80。 やはり完全な禁止という形は採られなかったようです。 [83] 歴史教科書では皇紀が用いられました。
[22] 学問の世界では西暦も使われていました。 学術目的の紀年法ということで學曆 (学暦) と呼んだりしていました >>81。 時局柄、欧米かぶれではなく学術目的であると主張する必要もあったとみられます。
[81] Kyoto University Research Information Repository: 『昭和19年』 = 學曆1944年 () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/168654
[129] >>128 とに大日本帝国東京で発行された英字紙 Nippon Times。 日付は米国 English 式の月日年順、英語月名、西暦年。 括弧書きで 昭和年数を兵器。
[9] 第二次世界大戦の終戦後、 連合国は日本国内の諸制度に介入しました。 日時制度もその例外ではなく、 様々な変更を余儀なくされました。
[20] 大日本帝国政府は東京天文台の計算を元に伊勢神宮に暦を発行させていましたが、 これを中止せざるを得なくなりました。紆余曲折を経て現在は暦要項を官報で公表する形となっています。
[13] 日本政府は旧皇室典範の改元に関する条項にかわる新しい法律を制定しようとしましたが、 GHQ の干渉により断念しました。
[14] しかし GHQ も西暦 (キリスト紀元) の利用を求めることは信教の自由に反するとして、 日本本土においてこれを強制することはできませんでした。
[51]
あるいは
GHQ
の威を借りて元号を廃止し、
西暦を公用化しようとする勢力が国会で活動しましたが、
国民の理解を得るには至りませんでした。
[15]
事実上の米国領土となった南西諸島と小笠原諸島、
事実上のソ連領土となった樺太、千島列島、北方四島では、
西暦が公式な紀年法として用いられました。
元号の利用は憚られ、ごく一部で限定的に使うことができるのみでした。
[21] 日本本土で当時発行された英文官報に掲載されていた英語の法令は、 本文中で西暦 (法令番号の引用も含む。) を、 署名で元号に西暦の併記を採用していました。
[23] ソ連軍の「軍事法廷」と称する尋問を受けた日本軍関係者は、 元号年が通用せず西暦で説明しなければならず、 換算の誤りによって虚偽説明と疑われるなどの不利益を受けたと証言しました。 >>24 証言を信じるならばこれは平和の回復や正義を目的とした裁判ではなく、 被疑者に一方的に不利な状況を押し付ける報復的性質の強い戦争犯罪であって、 その攻撃の手段の1つに紀年法が悪用された事件ということになります。 戦勝国が敗戦国民を裁くという性質上、 こうした事例は他にも多々あったのでしょうが、あまり公にはなっていないとみられます。
[124] ロシア連邦は現代でも >>122 >>123 のような手口を使っているといわれます。 当時も事案もただの異文化理解の欠如ではなくソビエト連邦当局の意図的な工作の可能性を検討する必要がありましょう。
[12]
皇紀は戦争と結び付いた不適切な紀年法であるというイメージが植え付けられ、
次第に使われなくなりました。
歴史の教科書も皇紀でなく西暦を使うようになりました。
[18]
GHQ は日本本土や南西諸島で夏時刻を実施させました。
日本の気候や生活習慣に合わず国民には大変不評でしたが、
日本側からの中止の提案を拒絶し GHQ の廃止まで続行させました。
[19]
小笠原諸島では標準時自体が改められ、
日本に返還されるまで時差がありました。
[40] なお、同じ頃労働時間管理の方法も改められました。 従来の季節ごとに労働開始・終了時間を定める慣習から、 年間を通じて一定の労働時間制限の中で就業時間を定める方式に切り替えられました。
[37]
日本の祝日制度も全面的に改められました。
[72]
米国統治下の琉球は別の祝日制度が実施されました。
[38] 一部の地域の学校で週5日制 (週休二日制) が導入されました。 しかし不評で定着せず、後に6日制に復しました。
[63]
、
日本本土では
年齢のとなえ方に関する法律によって数え年は廃止され、
満年齢に統一されました。
米領琉球では翌1951年に統一されました。
[73] 大韓民国は、日本国島根県の竹島に進攻し、 以後自国領土と主張しています。
[74]
大韓民国は領土編入後に国家の標準時を改正したり、
夏時刻を実施したりして、
日本の標準時とは異なる状態となりました。
紆余曲折を経て平成時代の頃にはまた同じ標準時に戻っていました。
[61]
干支年は明治時代に公式の場から消え
[62] しかし干支年が日本人の生活から消え去ったわけではありませんでした。 昭和41(1966)年丙午には、 迷信のため出生数が著しく低下しました。
[86] 似たような事例は他にもあって、例えば亥年選挙のジンクスは令和時代に入っても言われ続けています。
[85] 明治改暦によって迷信の排除が図られ、 紀年法としての干支年、十二支年は衰退したのに、 それに紐付いた迷信だけが生き残ってしまったのは皮肉な話です。 似たものとして、明治改暦で旧暦の日付は衰退し、 そこから求まる六曜が逆に普及したものが挙げられます。
[46] 昭和時代後期、 日本各地で旅行者へのアピールなどの目的で独自の (疑似) 日時制度が導入されることがありました。
[39] 昭和時代後期、 週休二日制が提案され、一部で導入され始めました。 本格的には次の平成時代に普及が進みました。
[28] 昭和や皇紀のような公的な紀年法が弱まった空きに、 いくつかの私的な紀年法 (私年号) は入り込みました。 いずれも広く普及しなかったものの、 それぞれの分野で一定の影響力を持ちました。
[29]
終戦後の混乱の中で、
アジア大陸の日本人の中で、
昭和が改元されて大新となったという改元デマが流布しました。
[30]
実際にも改元の動きはあり、
新日本という紀年法が提案され、一部で利用する人もいました。
[31]
その他に宗教的な色彩の強い紀年法として次のものが現れました。
一部は平成時代になっても使われ続けています。
あるいは平成時代になって、第二次世界大戦ごろに遡って元期を設定したものもあります。
[92]
讀賣報知,
(右横書き),
二面
叫び 欄 (読者投稿?) の記事
改元の提唱,
[93]
夕刊讀賣,
,
1面の
家家有元号,
魚返善雄は、
元号についての記事でした。
この当時世間の話題となっていた元号廃止問題
為政者の寿命には限界があり、 干支年、 孔子紀元、 皇紀、 檀君紀元が併用されたことを指摘しました。
中国大陸で民国紀元にかえて公元が採用されたことも指摘しつつ、 太陰太陽暦が農暦として使われ続けていることを踏まえ、 「どう処理するか見ものである」と書いていました。
日本については 「都会人たちは「四九年型の車」や「五〇年型のモード」にばかり目の色を変えているのだから、 西暦が一九五〇であろうと一八五〇であろうと、 上の二ケタはどうでもよいであろう 「どうせあと五十年も生きはしない」などと、 ヒニクなことを言わないまでも・・・・・・。」 と西暦2桁年号に言及していました。 農山漁村は四季だけに追い回されて元号には興味あるまい、 としました。 それより慶応大学、明治大学など大学が気にするはずで、 一八六八大学と改名するわけにもいくまい、 軍の部隊名と間違えそうだ、と書いていました。
更に、締めのジョークでしょうが、 政治趣味の人がそれぞれ自家の元号を持つことにしてはどうかとまとめていました。 この時代に静かに始まっていた私年号ブームを予見していたとは言いすぎでしょうか。
[120] 昭和時代後期、日本各地にミニ独立国が建国されるブームがありました。
ある種の町おこし的な活動でしたが、
少なくないミニ独立国が独自の紀年法・元号や標準時を制定しました。
[125]
他にもいくつか娯楽系の私年号が使われました。
[111] なお、この時期に使われた、または後にこの時期に遡って設定された紀年法として、 大韓民国では大韓民国、 檀君紀元、 真覚、 道紀、 aH が、 その他の地域では民国紀元や西暦が、 これらに相当する外地の事例として指摘できます。
[27]
松下電器の命知元年 (昭和初期)、
日本政府の福祉元年 (昭和後期) など、
元号風にスローガンを掲げる用法が徐々に広がっていきました。
この用法は次の平成時代になって更に広く使われるようになりました。
[97] 論文で西暦を併記した例 >>141 pp.89-90
承安元年 (A.D.1171) 十一月二十四日 安元二季 (A.D.1176) 十月十九日
應保二年銘摺佛(A.D.1162)
銘「仁平元年 (A.D.1151)
四月始、」 歳次 辛未
(年代) 大正大藏經 弘始四年 (A.D 四〇二年) 頃 No. 二五〇
[25] 昭和時代後期、計算機システムが発達し日本国内でも様々な用途で使われるようになりました。 計算機システムにおける日時の表現と処理の方法は世界的にまだ整理が進んでおらず、 日本国内でもいろいろな方法が試されました。
[49] 平成時代中頃から、 Unix time など処理しやすい形式を内部形式とする方式が一般的になりましたが、 こうした昭和時代の設計も令和時代まで生き残っています。
[32] 石油危機の頃から、
夏時間を再導入しようとする勢力が活動をはじめました。
この運動は断続的に平成末期まで続きました。
[77]
昭和天皇の崩御による翌日の平成改元をもって昭和時代は終わりました。
[33] なお、昭和後期にいくつか改元デマ (新元号とされる怪情報) が流れていたようです。
[88] 天皇誕生日は改められました。旧天皇誕生日はみどりの日となり、 後に昭和の日となりました。
[131] 平成改元以後の昭和の利用継続については昭和の延長年号を参照。
[132] 情報システムの内部的な日時データ型としての昭和については昭和暦, 昭和100年問題を参照。
[53]
中央標準時や UTC は天文学的観測による時刻から原子時計に移行しました。
[54] ロランCや GPS が整備され、
欧米を含む世界各国との標準時の国際比較が実施されるようになりました。
[55] 大東亜戦争で一時的に日本の影響範囲が拡大しましたが、 終戦により急激に縮小しました。その後の領土返還があったものの、 最盛期には遥かに及びません。 太平洋はほぼ全域が米国の勢力域となり、 アジア大陸はほぼ全域が共産主義に堕ちました。
[56] 紀年法でみれば、 昭和の元号と皇紀が広範囲で使われたものの、 戦後は西暦の領域となりました。 支那の周辺の異民族国家の独自の紀年法も、 共産主義国の西暦に飲み込まれてしまいました。 唯一台湾でだけ民国紀元が残りました。 大韓民国は大韓民国と檀君紀元を使いましたが、 その後のクーデターで西暦に改めました。
[57]
標準時でみれば、
中央標準時や戦時夏時刻が広範囲で使われたものの、
戦後はそれぞれの地域の元の時刻となりました。
[58]
戦後にアジア各地で季節性の夏時刻が実施されましたが、
昭和が終わる頃にはみなやめてしまいました。
[35] 日本の元号制度や日本の私年号についての研究が昭和時代に大きく進展しました。
[36] 明治時代後期から研究が進められていた朝鮮半島の紀年法についても昭和時代中期までにおおむね明らかとなりました。
[103] c3_2_pic_10.jpg (560×341) (, ) https://www.dwc.doshisha.ac.jp/application/files/6215/5082/8133/c3_2_pic_10.jpg
[104] toshi yamotoさんはTwitterを使っています 「@cemedinecoltd 文字が左から右だから前後と言う意見も有りますが、英語と日本語表記が交ざる場合、左から書いている場合もあるようです。 この場合は図のCEMEDINに合わせたのかもしれません。 時代的に左右どちらもあった様です。 拾い物画像ですが参考に シボレー マツダ いすゞ(軍用トラック) https://t.co/WcUKQRUNqc」 / Twitter (午後2:24 · 2020年8月28日 , ) https://twitter.com/toshi_yamoto/status/1299216254524301314
[105] (, ) https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/sanko/koyobun/pdf/yoryo_ver02.pdf#page=7
[106] 昭和5年(庚午)・古代の竹馬(午年特設展示-レトロ年賀状美術館) (, ) https://www.fuyuki-nenga.com/museum/umadoshi/24-takeuma.html
[107] 昭和5年(庚午)・郷土玩具(午年特設展示-レトロ年賀状美術館) (, ) https://www.fuyuki-nenga.com/museum/umadoshi/25-gangu.html
[108] 昭和5年(庚午)・ひょうたんから駒(午年特設展示-レトロ年賀状美術館) (, ) https://www.fuyuki-nenga.com/museum/umadoshi/28-koma.html
[109] () https://www.jstage.jst.go.jp/article/jtappij1955/46/1/46_1_209/_pdf
[110] 昭和史を西暦で説明されるといつの出来事かさっぱりわからん。
[68] 160217_s07.jpg (600×347) (, ) https://ima.xgoo.jp/column/img2/jnhppp/160217_s07.jpg
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「
[126] Xユーザーのろっしーさん: 「こちらは昭和5年(1930年)のアサヒグラフの記事「一九三〇年型」より。 ピクニックに蓄音器を持って行ってダンス、喫茶店で好みの異性を待ち映画を見に行き、フラッパーガールはゴルフに興じる。 昭和5年を迎え、当時の都会の浮かれた最新文化が紹介されています。 https://t.co/ojjy0VC0I0」 / X, , https://twitter.com/5Te6IA0NzW6JEYj/status/1745103432632197596