[16] 大新 (y~1768, y~1769) は、 大東亜戦争の終戦前後のソ連軍の侵攻に伴い混乱したアジア大陸在住日本人の間で使われた私年号です。
[47] 大東亜戦争時点で、 内満州 (現在は中華人民共和国の統治下) は親日政権の満州国の統治下にありました。 満州国には多数の日本人が居住しており、 日本軍部隊 (関東軍) が駐留していました。
[48] 戦争末期から終戦後にかけて、 ソビエト連邦およびその衛星国家の外蒙古 (現在のモンゴル国) は、 協力関係にあった中共軍 (現在の中国共産党) とともに、 満州国および大日本帝国朝鮮北部 (現在は朝鮮民主主義人民共和国の統治下) に侵攻しました。 終戦により軍事的にも政治的にも保護を喪失した日本人は、 共産軍の襲撃を受けながら北満から南満へ、 満州から朝鮮へと脱出を試みました。 しかし交通や通信が遮断され、 各地に取り残された日本人は共産軍の圧政に苦しみました。
[49] 大新は、そのような過酷な環境下に置かれた日本人の間で広まった、 昭和から改元されたという新元号のデマでした。 内地との自由な往来が不可能となり、 正確な情報を入手する手段も失われたところで、 昭和天皇の退位と改元という、 敗戦の結果いかにもありそうなニュースが信じられたようです。
[50] 日本人の一部は帰国が許されず、 ソ連軍によってソビエト連邦やその衛星国家の統治下の地域に強制連行され、 数年間労働を強いられました (シベリア抑留)。 満州より更に過酷で祖国から離れたシベリアの地に隔離され、 本国の情報がまったく手に入らなくなった日本人達の間で、 大新の改元の噂はますます広まりました。
[29] 日本の昭和天皇が退位し、 皇太子 (現在の上皇陛下) が即位、 それに伴う代始改元で昭和から大新に改元された (される) との改元デマが流布されました。
[30] 昭和20(1945)年秋頃には既に広まっていたようです (>>28)。 その後何年かの間、広まり続けました (>>18)。 当初は改元される予定という情報だったのが、 いつしか改元されたという過去情報になっていたようです。
[31] 昭和21(1946)年時点で、 当年が元年 (y~1769) か 2年 (y~1768) かわからない状態で噂が広がっていたようです。 >>6
[55] 現在知られているわずかな情報から推測すると、 南満州で生まれ、 シベリアへと広まっていったとみられます。 抑留後帰還できた人の数に比してこの私年号の情報が少ないことをみるに、 あまり信用しなかった (したくなかった) 人が多く、 みんながみんな使うような状態にはならなかったのでしょうか。
[64] 改元デマの出所は不明であり、その特定はほとんど不可能でしょう。 しかし現在知られている大新の情報は譲位に伴う代始改元を想定しており、 退位・譲位のデマから改元デマが生じたのか、 最初から退位・譲位とセットで改元デマも生じた可能性が高いというべきでしょう。
[66] 昭和天皇の退位は避けられないとする見方は内地にもあったようですし、 連合国側には退位するべきという主張もあったようです。 そうした意見や風聞が一般の日本人に漏れ伝わってくることもあったでしょうし、 そうでなくても想像することはあったかもしれません。 (承久の乱のように敗戦した天皇が退位した前例は、 当時も多くの日本人の知るところだったはずです。)
[67] に中華民国重慶国民政府の首都重慶で発行された新聞には、 のロンドン発として、 朝鮮人の情報筋によれば天皇が年内に譲位するらしいとの記事が掲載されました。 >>63 (は昭和天皇が GHQ のマッカーサー元帥と会談された日でしたが、関係は不明です。) 退位デマ (真偽不明の怪情報) の伝播には朝鮮人や連合国人が関与していたことが示唆される記事です。 (中国共産党が関与した節もあります: >>56)
[59] 元号名は時代の一新を直接的に表現したものといえます。
[60] 日本の元号で大正、 満州国の元号で大同が時代的に近く、 当時の人々の記憶にも新しかったと思われます。 当時の人にとって特に元号らしさを感じた名前だったのではないでしょうか。 近い時代の元号の漢字の流用は日本の中世私年号にも頻出する現象で、 注目されます。
[45] 元々改元デマでしたが、 他に信頼できる情報源もなく、 信用した (信用するほかなかった) アジア大陸の日本人の一部が日常的に利用したとみられます。 その痕跡がいくつか知られています (>>44, >>39)。
[46] 大新2年の用例が知られていますが、 3年以後があったかは不明です。
[58] 満州で生存できた人々は何年もたたないうちに日本に帰国が叶ったでしょうから、 大新もそう何年も続いたとは思われません。 シベリアの人々は長年抑留され続けられましたが、 やがて (検閲下ながら) 郵便が認められるようになりましたから、 こちらでもやはり大新はそう何年も続かなかったと思われます。
[37] 終戦後、 満鮮国境の満州側の街、 通化には日本人が集められていました。
[38] 通化では、 昭和天皇が退位し、 昭和20(1945)年 (y~1768) か昭和21(1946)年 (y~1769) に大新と改元されるという噂が流布されていました。 >>5
[43] 体験談によると、 昭和天皇が退位し、 昭和21(1946)年が大新元年に改められた (y~1769)、 と噂になっていました。 >>41
[44] 体験談によると、 子供が病死したため、 「大新二年三月二十四日」 の墓標を作ったといいます。 >>41 昭和21(1946)年の出来事のようで、 昭和20(1945)年を元年とする数え方 (y~1768) になります。 当時大新の元号が普通に実用されていたのでしょう。
[56] 中国共産党の工作で流布されたとする説もあり >>40、 いかにもありそうな話ですが真偽不明です。 そうした噂が大々的に流れていたなら中共側も把握はしていたでしょうから、 発信元かどうかはともかく、 日本人統治に利用した可能性は高いでしょう。
[36] 出典は明記されていないが、 参考文献一覧にあるこの書籍か?
[27] 初谷三衣子は、 終戦当時小学5年生で、 昭和21(1946)年春に移動するまで、 吉林に居住していました。 >>25
[28] その経験談によると、 終戦直後の頃、 昭和から大新に改元されると噂になっていました。 初谷三衣子は、 手巻きタバコに 「大新」 と名付けて売り、 生活費を集めていました。 >>25
[17] 日本人の窪谷好信は、 終戦後、 ソ連軍によりソビエト連邦領シベリアに強制連行されました。 、 第十一収容所からタイシェット地区へと移動させられ、 の日本帰国まで強制労働を課されました。 >>9
[18] その経験談によると、 収容所では真偽不明の怪情報がたびたび流布されました。 その1つとして、 昭和天皇が譲位し、 大新と改元されたというものがありました。 窪谷好信はその情報を信用しました。 >>9 仮に疑問に思っても判断材料はなかったでしょう。 同地の他の日本人も同じように信用した可能性が高そうです。
[19] また他の体験談によると、 、 エラブカ将校収容所の天長節の式が挙行された折、 昭和天皇が譲位し、 大新と改元された、 と何者かが伝えたようです。 >>9 このことは窪谷好信の手記にありますが、 後に知ったと書かれており、 シベリア抑留当時は知らなかった情報のようです。
[20] 窪谷好信が改元を知らされた時期は書かれていないのですが、 昭和21年12月のよその収容所の情報が昭和22年に自分達の収容所に伝わった、 と執筆当時の窪谷好信が理解したとすれば、 時系列は一応辻褄があいます。
[21] 問題は、 12月23日が平成時代の天皇誕生日であることです。 当時の昭和天皇の天長節は、 4月29日でした。 もし12月23日に天長節が祝われたとするなら、 実はエラブカ将校収容所の日本人は既に譲位を知っていたことになります。 (皇太子の誕生日を覚えている人がいても不思議ではないでしょう。) だとするとこの引かれている体験談の信憑性も疑わざるを得なくなります。 平成時代に入ってからの証言だとすると、 不正確な記憶により平成時代の天皇誕生日に書き換わってしまった可能性もあります (が、それにしても季節が違いすぎます)。
[22] タイシェットの収容所の人々は、 窪谷好信が知ったタイミングまで、 改元を知らなかった可能性が高いでしょう (そうでなければニュース性がありません)。 改元の情報は実際はどのように広まったのでしょうか。 収容所間の配置転換があったようなので、 それによって情報も移動したのでしょうか。 あるいはソ連軍が撹乱のため意図的に情報を流すこともあったのでしょうか。
[61] ソ連軍が戦闘終了後相当長期間、 大量の日本人を拘束し過酷な環境に置いて、 相互の情報共有もままならない非人道的扱いを続けたことがわかります。
[53]
内地では改元の動きは実際ありました。
[51] 大新は、日本人によって用いられた元号でありながら、 日本本土で用いられた例がまったく知られておらず、 アジア大陸でだけ使われたという特異な例です。
[52] 大新の一件は、 改元デマと私年号の関係を考えさせられます。 正規の情報伝達経路が遮断された状況で、 生活が苦しくなると私年号が出現するというのは、 日本の中世私年号に状況が似ています。 元年がいつかはっきりしなかったり、 近接するコミュニティー間で少しずつ時間差がありながら広まっていったりする様子もそっくりです。
[54] 既に生存者はそれほど残っていないでしょうが、 回顧録的なものはたくさんあるはずなので、 探せばもっと情報は集まるでしょうか。
[57] すぐに帰国はできない、 情報も入ってこない、 生活もままならないという苦難の中で、 必死に生きながら祖国のことを思い続けた人々の心中は察するに余りあります。
[69] 軍事研究 = Japan military review 8(6)(87), ジャパンミリタリー・レビュー, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2661551/1/74 (要登録)
[70] 軽塵集 : 歌集, 草部道彦, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1344752/1/77 (要登録)
[71] https://dl.ndl.go.jp/pid/6066909/1/220 (非公開)
詩人会議 38(12)
雑誌
詩人会議 編 (詩人会議, 2000-11)
220: 緑の中に佐藤冨美雄大新元年と改元された本当かそりあ?チタで日本行きの
[72] 満洲開拓史, 満洲開拓史刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2510142/1/294 (要登録)