[1] 日本の南西部の島嶼群である南西諸島では、 現在、 日本の他の地域と同じ日本の暦や中央標準時 が使われています。
[282] 前近代の南西諸島では、 中国大陸と日本列島の勢力の影響を受け、 両地の暦が使われました。
[279] 南西諸島現地に王朝成立以前の記録は残っていませんし、 当時行われた日時制度がわかるような外部の記録もみつかっていません。
[261] 中山世鑑 は、 伝説の王朝の設立された西暦1187年以後を、 中華王朝 (南宋、元、明) の元号で記述しました (>>432)。 それ以前の日付は記載されませんでした。
[281] 中山世譜 は、 隋と流求との外交記事 (現在では流求は沖縄説と台湾説があります。)、 伝説の王朝の設立前の源為朝についての日本本土の保元の乱の記事、 伝説の王朝の記事のいずれも、 中華王朝の元号で記述しました。
[260] Wikipedia は、 伝説の王朝の時代を、 中華王朝 (南宋) の元号で記述しました >>259。
[79] 琉球王国は朝貢以来、中国の暦 (支那の元号、農暦) を使っていました。 >>22
[248] 琉球現存最古の金石文とされる安國山樹華木之記碑 (原位置日本国沖縄県沖縄本島) に、 「宣徳二年歳次丁未八月」 とありました。 大明宣徳2(1427)年8月建碑とされます。 >>246, >>247
[296] 琉球国王の名が入った雲版が現在に伝えられており、 「天順二年八月八日」 (1458年8月8日) とありました。 >>295, >>297, >>299
[300] 天順2(1458)年に琉球国の国王の尚泰久が大里城に寄進したものとされます。 >>297 PDF 11頁 (奈良帝室博物館の雲板について, 真境名安康, 南島研究 創刊号, 1928年)
[301]
この雲版は日本国徳島県の浄智寺にありました。
浄智寺に施入された経路と年代は不明ですが、
細川家が琉球と貿易し、
善隣国宝別記
に雲版が貿易品目として記されていることが注目されます
>>295
[304] 明治44年に浄智寺から奈良帝室博物館に寄託されましたが、 その経緯は不明です。 現在も奈良国立博物館に保管されています。 >>299
[305] 資料によって銘文の釈読が微妙に違っています。
[309] このうち >>295、 >>299 に白黒写真が掲載されていますが、 一致しない部分を確定できるほどの鮮明ではありません。 >>295 の写真をみると中央列の末尾は 「庚寅慶生」 が正しいようにも見えます。
[21] 1465年、 琉球人が福建で造暦法を学び、 以後琉球国内で暦が作られるようになりました。 >>22
[298] 15世紀の首里城の 「闕の南門」 には、 木製「漏器」 (水時計) がありました。 >>297 PDF 7頁
[252] 琉球現存最古の仮名書き金石文とされるたまおとんのひのもん (玉陵の碑文、日本国沖縄県沖縄本島) に、 「大明弘治十四年九月大吉日」 とありました。 大明弘治14(1501)年9月建碑とされます。 >>253
[255]
田名家文書に含まれる琉球現存最古とされる文書はのものとされます
>>254 (原表記不明)。
Web で画像として見られる例として、
「嘉靖十六年八月二十日」 (縦書き、画像では八月まで)、
「康凞五十七年
[277] 奄美群島のノロ辞令書に、 「萬暦十五年十月四日」 (縦書き) と書かれたものがありました >>467。 明万暦15(1587)年10月4日と解され、 奄美群島で明の元号が使われたことがわかります。 この前後の辞令書もあったようです。
[286]
日本慶安3(1650)年、
琉球初の正史
中山世鑑
が編纂されました
>>287。
序文には
「日本慶安庚寅大呂吉旦」
とありました
>>283。
慶安3(1650)年
[432]
中山世鑑
は、
源為朝の伝説を日本の元号を使って記述していますが、
全体的には南宋、元、明と支那の元号を使っています。
最初の年号は「南宋淳煕十四年丁未」
(1187年、源為朝の子とされる舜天の即位) です。
[360] HIDOKEI_No.1.pdf, , https://sundial.stars.ne.jp/pdf/HIDOKEI_No.1.pdf#page=5
[113] 琉球王国発給の辞令書の日付は、 かつては支那の元号の年月日として表記されていましたが、 1659年頃から干支年も記載されるようになりました。 >>112
[437] 薩摩藩直接統治下の奄美諸島では、 日本の元号が使われていたようです。 (例えば >>468 参照)。 元号なしで十二支だけで年を表記することもありました 例えば >>467。
[245] 日本国沖縄県石垣市 (八重山諸島) に残る当時の島内の公文書に、日付が 「戌三月十五」 とありました。 西暦1814年3月15日と解されます。 >>244
[250]
日本国鹿児島県 (奄美群島) 徳之島に残る文書に、
雑書由緒記寫, 慶応2(1866)年10月
「
[258] 日本国鹿児島県 (奄美群島) 喜界島で卜占を行った我原家のトキ双紙に、 「天保四年巳十月吉日書之」 と書かれたものがありました。 >>246
[263]
18世紀、琉球王国の正史が編纂されました。
琉球王即位紀年により編年されました。
[358] 41_90.pdf, https://www.jstage.jst.go.jp/article/kayo/41/0/41_90/_pdf/-char/ja#page=9
[234] 明から清への交代期には、琉球はしばらく南明政権と交流しています。 その時期はまだ清の暦ではなく明の暦を使っていたと思われます。 (1648年の両者の閏月の配置が異なっています。 閏月の日付が入った記録があるかは不明。)
[503] 明滅亡で清が中国主要部を占拠した後も、 しばらくは南明と交流があり、その元号を使っていたようです >>484, >>485, >>486, >>487。次のような例がみられ、 すっきり一度で切り替わったわけではなさそう >>112 です。
[438] 1854年の琉球王国と米国の条約では、 琉球の日付として支那の元号が、 米国の日付として西暦が示されていました >>439。
[502] 現代日本では、 過去の出来事に言及する時、 俯瞰的な目的では西暦を使い、 詳細な記述では元号と西暦を併記するのが一般的です。 琉球王国の出来事も同様です。 元号表記は、 日本の元号による場合、 支那の元号による場合、 併記する場合が見られます。
[57] 出来事の呼称に元号が含まれる場合、 日本の元号が使われたり、 支那の元号が使われたりしていて、 同じ事象に複数の呼称がある場合もあります >>464, >>465, >>56。 以前は支那の元号が一般的だったのが、 沖縄県設置後に日本の元号の呼称に置き換わったという事例 >>690 もあります。
[262] 現代日本の辞書類、文書、 Webページなどでは琉球王即位紀年が使われることもあります。 単独で使われることはあまりなく、 西暦、日本の元号、中華王朝の元号の1つ以上と併記されるのが普通です。
[14] 1682年から1879年/明治12年まで琉球王国で発行されていた暦は琉球暦と呼ばれています。
1718年以降は選日通書という題名で発行されています。
正式には清の時憲暦を用いることとなっていましたが、
その到着までの便宜用という名目で琉球暦を発行して用いていたようです。
内容は時憲暦と同じで、北京の時刻により計算されていました。 >>22
[342] 琉球王国時代には、首里城の日時計と水時計に基づき太鼓で城内に時刻を知らせ、 更に鐘により城下にも報時していました。
[143] 沖縄、特に先島では、数値の記述に藁算と呼ばれる結縄法が用いられました。 明治時代頃まで続いていたようです。 その用途には暦日記述も含まれていました。 >>142
[147] 石垣島では、木製の日時計が (の) 「最近」喜舎場氏により旧家から発見されました。 「一年の季節を表した字」がはっきり判読できる状態でした。>>145
[148]
石垣島の石垣町北約一里の山麓のハナ
[256] 先島で使われたカイダー字には、 漢字から派生した数字や「月」や「日」 の字が含まれており、 日付 (月日) の表記に使われました。 >>246
[257]
南西諸島各地に十干十二支を表す独自の記号があり、
迷信的暦注の記述に用いられました。
>>246
[340] <4D6963726F736F667420576F7264202D20926B93562D90AF8CA990CE82C982C282A282C4303731313131302E646F63> - yokoo.pdf, , https://www2.nao.ac.jp/~mitsurusoma/yokoo.pdf
[433] 琉球藩時代には、 まだ支那の元号が使われていたようです。
[404] 明治8年、 日本政府は琉球藩に対し、明治の元号を使うよう求めています。 当時の沖縄では日本に対しては日本の元号を使い、 清國に対しては支那の元号を使っていたようで、 そのような慣習を改めなければならない、とされていました。 >>403 琉球藩は、 「皇国ニ対シ奉リテハ皇暦ヲ用ヒ、 支那ニ対シテハ彼ノ暦を用ヒ」 ることを認めるよう日本政府に求めました >>1068 p.182。 しかし日本政府は、 「両属ノ体タラシムルハ国権ノ立タザル最モ大ナルモノ」 とし、拒否しました >>1068 p.182。
[4] 明治12年まで琉球藩は引き続き暦を発行していたといいます >>22 し、 中央政府から清国の元号をやめて明治の元号を使うようわざわざ要求されている状況でしたから、 実態としては琉球王国時代と変わっていなかったのかもしれません。
[80] 沖縄県設置後公式には選日通書は発行されなくなりました。 しかしその後も石垣島では選日通書という時憲暦による略暦が発行されていたようです。 >>22
[434] 沖縄県設置後本格的に明治など日本の元号が使われるようになりました。 公文書で支那の元号は使われなくなりました >>1068 p.184。 しかし民間ではその後も日清戦争頃まで使われ続け、 遺骨を入れる箱や壷などに清国の光緒が残っているようです >>1068 pp.184-185。
[30] ただし沖縄までの海底電信線が開通したのは明治29年なので、 それまでは中央標準時に正確に同期された時計はなかったかもしれません。
[192] 明治26(1893)年、 琉球新報が創刊しました。 各ページ上部の日付欄に、 日本の元号、 皇紀、 清暦、 西暦が記載されました。 >>1068 p.184
その翌年の紙面の写真にうつっている範囲では、 右横書きで次のようにありました https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/12/17/20181217ddm001010029000p/6.jpg。
[27] 尖閣諸島や大東諸島も、 (法的には) 中央標準時 が実施される地域となりました。
[201]
明治末頃から大正時代にかけて、
内地同様に旧暦から新暦への移行が励行されましたが、
大きな成果はあげられませんでした。
>>199
[9] 西部標準時は、 >>8 から昭和12年/1937年9月30日 >>59 まで、大日本帝国の西部地域で用いられていた標準時です。
[62] 東経120度子午線の時刻 >>8、すなわち でした。
[44] 西部標準時と共に夏時刻制が実施されたことはありません。
[64] 台湾・澎湖列島と八重山列島・宮古列島に適用されていました >>8。
[227] 関東州および満鉄附属地でも西部標準時が採用されていました。
更に、満州国の標準時や支那の北京、南京、上海等を含む地域の標準時とも一致していました。
[212] 西部標準時は次のように呼ばれることがあります。 (当時から使われたものかどうかは定かではありません。)
[45] 西部標準時は、 勅令第167号 標準時ニ關スル件で定められ、 に施行されました >>8。
[366] 、 日本政府の帝国大学 (現在の東京大学) の総長の濱尾新は、 理科大学 (現在の東京大学理学部) の協議をまとめ、 文部大臣の西園寺公望に提出しました。 には台湾事務局 (当時の大日本帝国台湾の行政府) の総裁の伊藤博文に送付されました。 そこでは次のように述べられていました。 >>228
[378] 本案は台湾事務局委員の賛同を得て に勅令案が内閣総理大臣に提出され、 に裁可されました >>228。
[379] 当初勅令案には
「朝鮮王國所在ノ帝國諸官衙ノ標準時ハ西部標準時ニ依ル」
ともありました。しかし内地と朝鮮国駐在官との連絡は便利になるとはいっても、
朝鮮国の標準時となるわけではないので、
時期尚早であると台湾事務局で判断され、削除されました >>228。
[51] 提案から勅令となるまで半年かかっていますが、 その間に沖縄県や先島諸島現地への照会や調査があったのかは不明です。
[47] 勅令には施行の日が明記されていませんが、 時刻は明記されていません。
[49] 一般に法令で開始の日だけが記されているなら からと解するべきですが、 帝國從來ノ標準時 の が本土にあってはそのまま中央標準時 になり、 西部にあっては西部標準時 に戻ったということでしょうか。
[50] あるいは帝國從來ノ標準時実施時には新標準時の0時に日本各地で時砲が同時に鳴らされた
(
[48] 台湾や先島で時砲のような施行の合図があったかは不明です。
[52] なお、下関条約の発効により日本領となった時点で台湾の標準時は明治19年勅令第51號 本初子午線経度計算方及標準時ノ件が適用され帝國從來ノ標準時 になっていた、と法令の文面から解釈することも可能ではあります。 台湾における法律の適用については後に明治29年法律第63号 台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律が定められていますが、 それでもなお憲法その他の法令が適用されると解釈するべきかどうか争いがあったようです。 台湾の標準時については、法令の解釈はともかく実態として、 西部標準時実施以前には存在しておらず地方時が使われていたようではあります。
[586] 西部標準時実施中は沖縄県の区域の中に時間帯の境界があったことになります。
現代からみると不便そうに思えます
(実際末期には不便だったようで廃止の理由の1つに挙げられています (
[210] 当時の時刻の運用や、 時差による不便などの様子については、 あまり資料が残っていないようです。
[43] 1982年に日本で出版された石原昌家 大密貿易の時代: 占領初期沖繩の民衆生活 >>571 によると、 西部標準時実施当時の与那国島では腕時計も普及しておらず、 石原の調査時点で時差のことを記憶している人は少なかったようです。
[42] 2017年の新聞記事は、
西部標準時廃止当時に石垣島在住で尋常高等小学校に通っていた者のうち、
20世紀末まで時差撤廃のことを記憶している者がほとんどいないとし、
当時時計のある家が少なかったためか、
としていました。
[588] 1915年に那覇で出版された八重山諸島に関する本 >>587 は、 当時の諸島の様子を詳細に説明しているにも関わらず、時差や時計への言及が一切ありません。 大正時代であっても、著者が島内で時刻について特筆するべきことを見出さなかったということになります。
[70] 西部標準時の適用範囲に尖閣諸島は明記されませんでしたが、 元より尖閣諸島は八重山の行政機関の管理下にあり、 正式編入後は八重山郡 (設置 >>73) 石垣村 (設置 >>74 = 旧八重山村・明治41年設置 >>74、現石垣市) に所属したことから、八重山の一部として西部標準時の適用範囲内だったと思われます。
[65] 1937年には西部標準時 が廃止され、 旧西部標準時地域には中央標準時 が適用されました。をもって とされました。
[98] 中央標準時への統合は、国内の時差の不便を解消することを目的としていました。 同時期に南洋群島や満州国でも時差の解消が進められていました。
[173]
昭和時代 (西部標準時廃止前も廃止後も)、
内地では夏時刻の実施が検討されました。
実現した場合、
西部標準時地域もこれに追随して西部の夏時刻
を実施する、あるいは時差撤廃後の夏時刻 (実質二重夏時刻)
を実施するという選択を迫られた可能性がありました。
しかしそこまで具体化することなく廃案となりました。
[106] 大東亜戦争の終戦後の、
大日本帝国台湾総督府は、
台湾の標準時を旧西部標準時
に改正しました。
この時改められたのは大日本帝国台湾総督府管下、
すなわち台湾本島の他に澎湖諸島と新南群島を含むと思われます。
[174] 台湾における中央標準時 は、戦時中に適用され終戦後に廃止されたことで、 実質的に世界各地で行われた戦時通年夏時刻 (戦争時刻) のようなものとなりました。
[207] 西部標準時については、 不適切な情報が溢れています。 そもそも平成時代初期まで日本国内でも西部標準時の存在は忘れられていました。
[208] 西部標準時の廃止の直後に戦争の時代に突入し、 その後米国や中華民国の統治下となったため、 昭和時代後期の日本本土にとっては遠い異国の過去の出来事になってしまいました。 そのため百科事典なども扱うことがなかったのでしょう。 欧米からみても、 米軍統治下という特殊な琉球地域の更に辺境の情報を入手するのは難しかったのでしょう。
[209] 沖縄返還後の日本にとっては既に西部標準時は遥か過去の出来事になっており、 標準時が違っていた可能性すら思い至らなくなっていました。 平成時代に入ってようやく過去の日本の標準時の変遷が調査され、 インターネットで情報交換されるようになり、 その実態が明らかになってきたのです。
[269] Shanks (2003) >>270 は、 から日本の一部地域を 、それ以外の地域を とし、 それ以前を地方時としていました。 これは最初の(中央)標準時の制定を見落としたもので、誤りです。
[206]
西部標準時の成立や廃止を戦争や日本軍の動向にやたらと関連付ける説がありますが、
それを裏付ける資料は見当たりません。否定的な資料ならあります。
[213] 第二次世界大戦の終戦により西部標準時が廃止されたとするもの >>397, >>576 もありますが、明確に誤りです。
[572] 1982年に日本で出版された書籍は、 第二次世界大戦の前、 台湾と与那国島が西部標準時を用いており、 石垣島との間に1時間の時差があった、 としました >>571。
[573] 根拠は示されておらず不明です。 他にこの説を支持するものはなく、誤りの可能性が高いと考えられます。 ただ本書は現地住民への取材を重ねて執筆されたものですから、 公式制度と異なる何らかの実態を反映している可能性も否定できません。
[519] 1950年代の米国政府の地図を基に作られたのではないかと推測される地図 >>570 では、先島諸島が 、それ以外の南西諸島が で塗られています。
[521] 米国政府の時間帯の図では、1985年版から 1995年版まで、 先島諸島 (尖閣諸島を含む。) が で着色されていました。 1997年版以降は となっています。 >>520 1968年版を元に描かれたという日本の地図でも になっています >>549。
[522] Shanks (1991 >>150, 2003) は、 先島諸島各地を としており、標準時改正が無かったものとして扱っていました。 (Shanks (2003) では台湾の標準時も一度も中央標準時に統一されていないことになっていました。)
[149] tzdata は、1993年、 Shanks を出典に
Asia/South_Ryukyu
を1896年以来現在に至るまで
としていましたが、代表都市不明のため注釈にして保留にしていました >>150。
[523] その後 tzdata は石垣島を代表都市として Asia/Ishigaki
という名前でこれを正式な項目としました。 tzdata を採用していた1990年代の OS
などでは、これに対応する時間帯を south Ryukyu Islands
などとして日本本土と別に表示していました。 >>150, >>151
[525] 1998年の UNIX USER 誌の連載記事ルート訪問記
>>524 を契機に奈良女子大学の鴨浩靖らの
South Ryukyu Islands調査隊が事情を調査し、
西部標準時の誤伝であると結論付けて翌年同誌上で報告しました
>>150。、 tzdata からも
(1970年以後が異なる場合のみ収録するとの方針に反するとして)
Asia/Ishigaki
は削除されました >>150, >>151, >>152, >>526。
[141] 本件をきっかけに >>150、
日本の時間と計算機をテーマにした
tz-japanメーリング・リストが作られました。
アーカイブが残されておらず内容は不明で、
2005年頃までに消滅したようです >>139, >>140。
西部標準時問題を tzdata に報告した鈴木秀幸は、
東京代表点の訂正 (
[590] ブリタニカ百科事典の地図は、2017年時点で未だに先島諸島を に着色しています >>589。
[580] 米国統治時代の先島諸島で、
西部標準時 が復活していた可能性もありますが、
それにしては現地の記録や当時の記憶を語る人がまったく見られないというのが不自然です。
以前の西部標準時の情報が残り続けていたに過ぎないと解釈する方が自然です。
ただ、 で描いた時間帯図が、
同じく米国統治下だった小笠原諸島を正しく
で描いていることには注意する必要があります。
[119] 返還直前のの航空時刻表 >>118 には、 時差への言及がなく、 那覇、宮古、石垣、与那国の所要時間から各島間で時差がなかったと判断できます。
[40] 標準時としては、引き続き中央標準時 が使われたようです。 米国統治下の法令でこれを明示したものは見当たらず、 法的には大日本帝国時代の勅令がそのまま存続したということになるでしょうか。
[41] 夏時刻も実施されていたようですが、
日本本土の夏時刻法は適用されておらず、
米軍の指示で地域ごとに独自に実行したもので、
期間も異なっていました。
[78]
米領琉球の時刻の名称として、
沖縄時間などが用いられました。
[220]
、
年齢を満年齢で表すことになりました。
(日本本土ではに施行されていました。)
[435]
米軍の統治下に置かれた地域では、
日本の元号ではなく西暦が原則として用いられました >>440, >>441。
元号を用いることは憚られていました >>160。
日本本土ですら GHQ
は軍事力を背景に内政干渉を続け元号を排除しようと企てました
(
[221] 奄美諸島が日本に返還される前日に発行された新聞 奄美タイムス の号外は、 「」 と西暦だけを書いていました 昭和のサンマータイムに引用あり (その後は不明)。
[214] それでも元号が完全に消失したわけではありませんでした。
[451] 法令については、米軍統治が開始されるまでの日本の法令と、 それ以後の米軍当局およびその下部の政府組織による法令が適用されました。 日本の法令を参照するときは、元号を使った法令番号が引き続き用いられました。 琉球政府等の法令番号は、西暦を使っていました。 法令中の日時も西暦で表記されていました。
[161] 戸籍では日本の元号が用いられました >>160。
[177] 昭和28(1953)年頃、 琉球政府法務局は戸籍の整備を進めていました。 法務局の久貝良順は、 日付に日本の元号を用いることを主張し、 米国の反発を押し切ってこれを実現しました。 >>168
[355] >>356 #page=30 を見ると戸籍本体だけでなく、 出生届、 死亡証明書など関連する届出書にも昭和の日付を書かせていたようです。
[5] 米国統治下の琉球政府によって定められた祝祭日として、 お盆の日が旧暦の7月15日とされていました。
[124] 確かな情報は得られていませんが、当時の法令や議事録を検索する限り、 旧暦は自明なものとされていたようにみえます。 農暦ではなく旧暦ということでいいのでしょうかね? (両者で違いが出る日付の琉球の出来事を扱った文献は現在のところ見つけられていません。)
[202]
大日本帝国時代と同じように米国統治時代にも、
旧正月など旧暦行事を新暦に移行させようとする動きがありました。
しかしこの時代も大きな成果をあげられませんでした。
奄美でも同様で、
更には中断していた六月灯
(旧薩摩藩統治地域の旧暦6月の祭事)
が再興されたりもしました。
[175] 米国統治が長期化するなかで、 沖縄県民には西暦が浸透し、 日本の元号は過去のものとなっていきました。
[178] の新聞記事によると、 1941年生まれの人が、 西暦だけで暮らしてきたと証言しているようです >>169。
[176] 、 日本国兵庫県西宮市の甲子園球場で、 第32回選抜高校野球大会が開催されました。 米国統治下で初めて出場した那覇高校の主将の牧志清順は、 選手宣誓で日付を 「1960……昭和35年!4月1日!」 と西暦で言いかけ、 すぐに昭和に訂正しました。 牧志のアルバムには自筆で 「1960・・・・・・!! 昭和35年4月1日」 などと記載されており、 本人にとっても印象的な場面だったようです。 平成末期の取材に対し、 妻は、 (盛大な歓迎のなか日本本土の大会に参加できたことへの) 「緊張と感動で素に戻っていつもの西暦がスッと出た」 のではないかと推測しました。 応援の同級生は、 「そもそも、なんで昭和と言わなきゃいけないの」と友達で話しながら、 沖縄と本土は違うと実感したといいます。 >>167, >>1069 pp.170-172 (アルバム写真あり)
[185] 沖縄県出身で本土の大学に進学した大城章男 (平成31年時点で71歳) は、 大学で、西暦ばかり使う変人と思われたといいます。 >>1069 p.175
[164] 八重山法務支局のみ、 付け登記の公告まで昭和を使っていました >>165 が、付け登記からは西暦となりました >>166。
[759] 1966年の米国の書籍は、 RYUKYU ISLANDS の標準時を としていました >>761。
[163] 米国統治時代末期になると、 日本本土の制度との関係から日本の元号が使われる事例もありました。 >>162
[182] 、 新聞 琉球新報 は、 日付を西暦から、 元号に括弧で西暦併記に変更しました >>1069 p.173。
[179] 、 新聞 沖縄タイムス は、 創刊以来「1948年」のように西暦年を記載していましたが、 「1968年(昭和43年)」 のように元号を併記するようになりました。 >>169, >>190
[218] 昭和43(1968)年の琉球海運 (所在地の表記は「沖縄那覇市」) の日本本土と琉球を結ぶ航路の運航時刻表には、 「1968年」 とありました >>217。
[243] 沖縄人が日本本土に入域するに当たって日本政府発行身分証明書に押印された入出域スタンプには、 那覇港出港英語スタンプ (おそらく琉球政府管下の出入域管理当局のもの) に「APR 1 1969」、 鹿児島港入港日本語ベース英語混じりスタンプ (日本政府の出入域管理当局のもの) に「2. APR 1969」とありました。 >>242
[186] 琉球政府は、沖縄県となってから元号を使うことを決めました。
[187] 当時琉球政府職員だった名幸宏明は、 「まず本土並みになりたかった」 ことの1つが元号制度の採用だったとしました。 同僚は他の都道府県もやっているのだから、 という雰囲気でした。 >>1069 p.175
[985]
1971年頃から、
中華人民共和国と中華民国は尖閣諸島の領有権を主張するようになりました。
中華人民共和国は現在に至るまでしばしば周辺海域に軍艦を派遣しています。
中華民国や中華人民共和国の法令上は、
両国の標準時 (あるいは時期によっては夏時刻 )
が適用されることになっていると思われます。
実際には米領琉球 (返還後は日本国)
の実効統治下にあり、日本の標準時が使われています。
[222] 現代日本では、 米国統治時代の出来事に言及する時、 西暦による場合もあれば、 日本の元号による場合、 併記する場合もあります。
琉球政府やその管轄下の市町村の公文書は、全て西暦が用いられており、「昭和」等の元号表記や住所として「沖縄県」を用いるのはタブーであった。しかし戸籍に限っては、本籍に「沖縄県」、年月日は「昭和」などの元号表記が貫徹されていた。
「1960……昭和35年!4月1日!」
兵庫県の甲子園球場で1960年4月1日にあった第32回選抜高校野球大会の開会式。戦後初めてセンバツに沖縄勢として出た那覇高主将の牧志清順(まきしせいじゅん)さんは、選手宣誓で日付を西暦で言いかけ、すぐに元号で言い直した。
昭和28年2月、意外な形で好機は訪れる。
前年に創立された琉球政府法務局の初代民事課長・久貝良順氏が突然東京にやってきたのだ。新谷がそうであったように、琉球政府職員としては戦後最初の本土出張だった。
沖縄にとっては適正な不動産登記と戸籍整備法の整備復活が緊急の課題で、当時の琉球政府法務局は本土の法務省と同様に民事以外の刑事、矯正、保護等の法務行政全般を統括する機関であったが、その全予算の20%が「戸籍整備事業」に充てられたのみでなく、ある公式の席上で久貝課長は、大胆率直にも「戸籍整備に置ける本籍表示には「沖縄県」と冒頭に書く。これが本土復帰にもつながる。
また、年月日は西暦年数でなく、日本の年号による」という趣旨のことを述べ、それを実際に実行にこぎつける。
米国側ではこの表示について相当神経質になっていたが、久貝局長は「これは行政組織上の公共団体を意味するものではなく、今や土地表示の為の記号にすぎず、長年使用して来た慣例的なものである」という趣旨のことを強調して最後まで譲ることがなかった。
本紙の日付表記は「2019年(平成31年)」となっている。過去には変遷があった
▼創刊時、沖縄は米軍支配下にあり「1948年」とだけ記した。復帰運動の熱が高まると、「1968年(昭和43年)」と初めて元号が加わり、復帰の日からは「昭和47年(1972年)」と元号が前に来た。しかし「1979年(昭和54年)」に再び順番が入れ替わる
▼この年、敗戦で消えた元号使用の法的根拠を復活させる元号法が制定された。全国で沖縄県議会だけが、促進の請願を採択しなかった。元号は日本の象徴。日本への期待が膨らみ、そしてしぼんだ県民感情の起伏が読み取れる
▼表記の変遷期に本紙で働いた1941年生まれのOBは物心ついた時は米軍支配下で、「西暦だけを使って暮らしてきた」と話す。きょう発表される新元号も、ピンとこないという。「ヘイセイの次はハイサイでどう?」
[190] >>169 について >>1069 p.181 に写真あり。
[354] 公文書での句読点の使い方の一部として、日時の表記法の定めが 文書作成規程 にありました。
[357] 沖縄県公文書館 戦後初期会議録, https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/view_sengo.php?id=20
第一回沖縄群島議会会議録(臨時会第一号)
一九五〇年十一月十三日(月曜日) 午前十時二十五分開議
仲宗根朝武氏は具志頭村出身で大正十三年具志頭村書記拝命、昭和十二年具志頭村収入役に十四年助役に昇進、十八年具志頭村長になられ、終戦後に及び、終戦後も具志頭村長に当選、引続き村長の重責についておられたが、一九四九年十月十九日に民政議会議員拝命、今日に及んで居られます。以上大体略歴を申し述べました。
[26] 米国統治地域が日本に返還されてからは、 最新の日本の法令の適用下となり、 本来の日本の暦や中央標準時が実施されるようになりました。
[120]
といっても公的に用いられる紀年法が西暦から日本の元号へと変わったのと祝日が一部異なっていたものが日本の祝日に統一された
(
[215] 返還後も多くの米軍基地が沖縄県内に残りました。 米軍基地内では、 西暦や米軍時間帯をはじめとする米軍の日時制度が引き続き用いられました。
[36] 沖縄県では現在でも旧暦に基づく年間行事が盛んに行われています。 旧暦としては (農暦などではなく) 日本の旧暦が用いられています。
[180] 、 沖縄県の日本復帰に伴い、 沖縄タイムス は日付表記を元号併記から西暦併記に改め、 「昭和47年(1972年)」 のようにしました。 >>169, >>190
[104] 昭和53年から昭和56年 (昭和57年は不明) の夏季、 米国空軍嘉手納基地では、 省エネや日光の有効活用を名目にサマータイムが実施されていました。 日本人従業員は生活に悪影響が出て反対しており、 沖縄県知事や沖縄県議会も取り上げました。 >>102, >>103
[105] 実施対象が一部従業員のみ >>102 ということから、時計を動かす夏時刻制ではなく、 夏季業務時間制度が一部業務に適用されていたということでしょうか。
[181] 、 沖縄タイムス は日付表記を西暦併記から元号併記に改め、 「1979年(昭和54年)」 のようにしました。 >>169, >>190
[188] 、 沖縄タイムス 社説は、 成立直後の 元号法 について、 大東亜戦争と天皇制と元号を結び付け、 「県民感情として受け入れがたい」 と批判しました。 >>1069 pp.178-179
[189] 元号法成立に先立って沖縄県議会に提出された法制化を求める決議は、 審議未了に終わりました。他県と違って沖縄県は法制化に消極的でした。 >>1069 p.179
昭和56年 第 4回 沖縄県議会(定例会)
第 4号 6月13日
○中根 章君
それから次に、空軍のサマータイムの問題で御質問を申し上げる予定でありましたけれども、時間がありませんので簡単に申し上げますけれども、この問題は7時から出勤になる。そうすると大変生活にもいろんなことで支障を来すということになって従業員は反対を続けております。それで知事も6月5日付で全駐労の委員長に対してサマータイム問題の回答を寄せておられますけれども、来年からはぜひこれが取り外されるように知事も県も大きく撤回するようにしたいというふうに答弁をしておられますので、来年度、これの取り組みとその見通しについてお伺いをいたします。
○知事(西銘順治君)
次、サマータイムの問題、その他細かい点につきましては副知事、担当部長から答弁させることにいたします。
○副知事(比嘉幹郎君) サマータイムの問題についてお答えいたします。
在沖米空軍においてサマータイムを実施しているわけでございますが、その理由は、私が嘉手納の基地司令宮と会ったときにいろいろ述べておりました。1つは省エネルギーの観点からであると。もう1つは昼間の明るい時間を合理的に使うということでございます。それからもう1つは、もしこのサマータイムを実施していろんな面で支障を来す従業員がおれば、その人々が直接申し出ればそれなりの措置をとると。つまりいろいろ時間を大目に見たり、あるいは仕事の時間をちょっと変更したり、つまり個別的な例外的に取り扱いたいということでございました。しかしいずれにしても、省エネとかその他の理由によって昭和53年以降、いわゆるサマータイムを実施しているわけでございます。その対象は嘉手納空軍基地内の従業員約2000人のうち、約880人となっております。県としては、従業員及びその家族の生活サイクルと健康管理等の面からその及ぼす影響が大きいのでその撤回を求めて検討委員会というものを設置いたしまして県の考え方、意見等を述べて協議を重ねてきたわけでございます。それで米側の省エネ委員会では、ことしのサマータイム実施期間を5月4日から9月27日までの約5カ月間とし、基地司令官へ進言しているわけでございます。そこで私も、また担当部長も師団長とか基地司令官とその再考方を求めて折衝してきたわけでございますが、それで結局6月1日から8月28日まで実施するということになったわけでございます。来年以降のサマータイム問題について米軍側との交渉で従業員に負担をかけないで、軍内部の努力による他の方法で省エネ対策を強化しエネルギー節減を図ることとすると。それから来年以降は、従業員に負担をかけるサマータイムが実施されないよう努力すると。そういった確認のもとに、このサマータイムの問題の解決のために努力していきたいと考えております。
昭和58年 第 2回 沖縄県議会(定例会)
第 3号 3月 3日
○小橋川朝蔵君 本員は、自由民主党沖縄県連の議員団を代表いたしまして、かねて通告してありましたもろもろの案件につきまして本員の所見を述べながら知事並びに関係部長に質問をいたしますので、誠意ある御答弁をいただきたいと思っております。
思うに、米軍基地関係業務は、その中に基地労働業務を繰り入れた従来の組織は基地から派生する諸問題の解決に足かせとなっているのが現状でございます。私は、今日まで議会の中で軍特別委員会に属しておりましたけれども、長年の活動の中で基地問題は論議されましたが、基地労働問題に対しましては、「サマー・タイム」があったとき以外は議会で論議されておらないわけでございます。これをもってしても基地の諸問題と基地労働者の関係は、おのずから違った形で、違った政治的、行政的な配慮がされるべきだと思うわけででございます。
沖縄事始め・世相史事典―明治・大正・昭和ー事件と暮らし (1983年) | 山城 善三, 佐久田 繁 |本 | 通販 | Amazon, https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J4QECA/wakaba1-22/
p.63 明治六年
新暦採用
太政官(新政府)は、明治五年十一月九日に、 「来たる十二月三日を明治六年一月一日とする」 という改暦の詔を出した。 欧米諸国との不平等条約を改正するためには、 国際的に認められている新暦を採用しなければならなかったのだ。 しかし東京は別として、 世間ではこの新暦にかなり抵抗感を持ち、 一揆を起こした地方さえあり、 新聞でも旧暦を併記して慣れるまで旧慣を尊重した。
沖縄の新暦採用も、 明治六年一月、本土にならったが、 本土と同様、 一般はなじまず、 新聞は明治末まで旧暦を併記した。
⛋ ◇でなく◆ 新暦採用で日曜休み旧暦の一日は十二時で、正午から夜の十二時までを六つ、 夜の一時から昼の十二時までを六つの十二時としていた。 午の刻といえば、 今の午前十一時が終わった時から午後二時までの二時間、 という大ざっぱなものであった。
新暦を用いると共に、 それまでは一六の休暇といって、 月のうちの一日、十一日、二十一日の一の日と、 六日、十六日、二十六日の六の日の六回休んでいたのを日曜日に休むことにし、 祭日や暑中休暇など、 西洋にならった。
p.73 明治八年
明治年号を使用せよ
新政府は六月三日、 明治の年号を使用すると共に、 「法律研修者三人と留学生十人を状況させよ」 と通達した。 琉球藩では、 「清国に対しては清暦を使用させてほしい」 と嘆願、 時間を稼ごうとした。 沖縄戦後の米軍統治時代、 米国には西暦、 日本には昭和年号を用いたようなものだが、 政府が聞き入れるはずはなかった。
法律研修生は翌年、 留学生は明治十五年上京した。
(現代史)
p.344 明治45年
旧正廃止 新正を実施したが・・・・・・
県庁の新正一本だての提唱にもかかわらず、 農村では旧正が盛んだった。 明治四十五年、 国頭村では新正月の実施を決定して実施したが、 三年とは持たず、 大正三年にはまた旧正に戻った。 (国頭村史)
この生活のリズムは根強く残り、 戦前まで旧正が盛んだったのは、 他町村も同様であった。 戦後も旧正廃止は度々話題になったが、 復帰後は旧正の法定休日がなくなり、 戦前ほどではないにしても、 なお民間では休みにする企業が多いようだ。
p.764 昭和53年
米軍、サマータイム実施
この年の夏在沖米空軍はエネルギー節約のためにサマータイムを実施し始めた。 朝は午前六時四十五分から午後三時四十五分まで。
五十六年は六月一日から八月二十八日まで、午前七時から午後四時までのサマータイム実施を通告してきた。 全駐労空軍支部では「生活習慣の無視」として撤回闘争をつづける。
証言1-6 風疹児の近況
「昭和40年生の風疹児も現在では30年代半ばになっている。 」
那覇市教育委員会編 『那覇市教育史通史』2002年
私は以外なところでサマータイムを体験しました。それは沖縄の米軍基地内。 学生時代にときどき基地内の運送屋さんのアルバイトをしていましたが、 基地内及び米軍施設はすべてサマータイムでした。(多分) 朝7時から仕事が始まり、11時半から13時まで長い昼休み。午後は4時までで終わり。
代表取締役 金丸政司
(経歴)
昭和60年 琉球大学 工学部 建設工学科卒業
匿名さんより
2018年08月14日(火) 17:48
復帰前の沖縄では、米軍基地の中では一時期サマータイムやってたそうだ。米軍人軍属以外で経験したのは基地従業員だけ。まあ、復帰前と言っても1950年代の話らしいから民間地域には大した影響なかったのだろうね。
[126] 沖縄における中央標準時 は、 30分-45分程度の通年夏時刻に相当します。 本土に比べると朝遅くまで日が昇らず、 夜遅くまで日が沈まないことになります。
[127] それだけならばそれに最適化された社会となっているのでしょうが、
本土と経済や文化でつながっている以上、
解消できない無理も生じているのでしょう。
後述の通り、沖縄独自の時刻の提案にもつながっています。
そこまで飛躍しなくとも、
「夜型社会」が問題視され、
健康への影響を懸念する人もいます。
この時期のナイトダイビングでは
夜の8時に海に入ったりする。
キャバクラのお姉ちゃんの出勤時間が22時
ナイトフィーバーは0:00〜賑わう・・・
モーニングの習慣がありません (喫茶店もないし)
沖縄 サマータイム ( 沖縄県 ) - すべらない沖縄JOHO - Yahoo!ブログ () https://web.archive.org/save/https://blogs.yahoo.co.jp/kawai2951/68232593.html
[81] 、 沖縄県那覇市の商業施設パレット久茂地前の街頭演説で、 民主党の沖縄2区総支部長だった島尻昇は、 沖縄の標準時を とすることで、株式取引時間などから経済効果が生じると主張しました >>69。
[82] 、 民主党の沖縄県連代表となっていた島尻昇は、 国会の衆議院の沖縄及び北方問題に関する特別委員会の沖縄振興特別措置法案の審議に参考人として出席し、 沖縄県に一国二制度の一貫で沖縄時間 を導入することが株式取引その他の市場の活性化につながると主張しました >>67。
[83] 、 民主党は沖縄政策をまとめた民主党沖縄ビジョンを公表しました。 本土と沖縄で時差を設けることで、 本土からの観光客の活動時間が長くなり観光業にメリットが有ると主張しました。 の改訂版にも同内容が盛り込まれました。 >>76, >>77
[84] 当時の沖縄ビジョンは、 沖縄の独立や一国二制度導入を掲げるなど、 親中派や琉球独立派に寄った非常に攻めた内容となっていました。 当然民主党沖縄県連の意向も反映されていたはずですが、 経済色の強い島尻の主張に対し、 沖縄ビジョンは観光をメリットに謳っていました。
[111]
、
朝日新聞の船橋洋一は、
与那国島を とするなど日本全国を3区に分けることを提案しました。
与那国島は日本の西端として取り上げられたもので、
実際には日本西部を意図していたとみられますが、
どこまで とするべきと考えていたのかは不明です。
(抽象的な提案に留まっており、そこまで真剣に考えていなかった可能性もあります。)
[85] 沖縄ビジョンは2008年にも改訂版が公表されましたが、 時差に関する記述はありませんでした。この版では以前の過激な主張は抑えられ、 比較的現実的な政策がまとめられている印象があります。
[87] 2009年の民主党政権 (鳩山由紀夫内閣) 時代に沖縄ビジョンが公表され、 標準時 採用が盛り込まれたという報道があります >>86 が、 2009年版沖縄ビジョンが策定されたとする情報は見当たらず、 他の民主党の沖縄政策を扱う文書で標準時の件が含まれているものも見つかっていません。 いろいろな時代の情報が混乱して伝わったものでしょうか。
[170] 社会党の衆議院議員の帆足計の元秘書で八重山諸島出身の友寄英正 (筆名金城朝夫) は、島おこし運動で時差が必要と主張していました >>1822。
沖縄県那覇市
パレット久茂地前 街頭演説
●島尻 昇(沖縄2区総支部長)
沖縄振興策は沖縄に1時間時差を設ける事す。一時間、遅らせることで、株の証券取引所の営業時間が一時間遅くなります。当然、投資は活発化します。そのほかにも多くのビジネスチャンスが生まれます。」
第154回国会 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第6号
平成十四年三月十九日(火曜日)
午前十時二分開議
出席委員
理事 荒井 聰君 理事 武正 公一君
参考人
(民主党沖縄県連代表) 島尻 昇君
本日の会議に付した案件
政府参考人出頭要求に関する件
沖縄振興特別措置法案(内閣提出第五号)
○荒井(聰)委員 民主党の荒井聰でございます。
また、本法案の五十六条の金融業務特別地区における事業の認定を行う際に、沖縄時間を設定するという御意見がございました。具体的にはどのようなことを意味し、どのような効果をねらっているのか、お答えを願いたいと思います。
○島尻参考人 やはりもっと踏み込んで、一国二制度を導入するぐらいの意気込みが必要であるというふうに考えています。
その流れの中で、先生から御指摘がありましたもう一点の沖縄時間を設定するということになりますけれども、これもいわゆる一国二制度的なものになってまいりますけれども、本県の地理的な条件から見まして、沖縄に日本標準時間からマイナス一時間の時差を設定するということによって、例えば第五十六条、金融業務特別地区における事業の認定を想定されていますけれども、効果的に運用することが可能であると考えました。
これは、本土市場と違う時間、いわゆる異なる時差を設定することによって発生する、例えば株価の終わり値などの値を運用することによって、新たに沖縄市場を展開することも可能となる。また、その活用の仕方によっては、県益のみならず、また日本国の国益にも資する結果とつながっていくという考えに基づいております。
○荒井(聰)委員 沖縄時間の設定というのは、大変ユニークで示唆に富んだ御意見かと思います。確かに沖縄では五時、六時といってもまだまだ明るくて、時間が本土とは随分違うなという印象をあそこへ行くと一番最初に感ずることでもございますので、それを経済活動に反映するということは大変示唆に富んだものと思います。
10. 本土との間に時差を設定
本土からの観光客の活動時間を長くできるなど観光産業にメリットをもたらすため、本土との間に時差を設けることを、企業経営の負担等も勘案しつつ、検討する。
25) 本土との間に時差を設定
本土からの観光客の活動時間を長くできるなど観光産業にメリットをもたらすため、本土と の間に時差を設けることを、企業経営の負担等も勘案しつつ検討する。
わずか数年前の2009年、民主党の鳩山政権は、沖縄一国二制度、両岸(大陸部と台湾)及び日韓国民の沖縄訪問ビザ免除、沖縄の学生の中国語の学習、沖縄の通貨発行、中韓と同じ標準時区を設定、より重要なこととして沖縄からの米軍基地撤退などの内容を含む「沖縄ビジョン」を提示した。台湾紙・中国時報が伝えた。
[264]
平成18(2006)年や平成22(2010)年、
日本国沖縄県で活動する反政府グループは、
私年号の琉球を機関紙(?)で使いました。
[108] 、 沖縄県議会で社大党・ニライの会の県議会議員の瑞慶覧功 (後に会派おきなわの会派長) は、 「暑い沖縄の特色」としてサマータイムを実施することが観光や経済やゆとりに有効だと提案しました >>101。
[109] ただし簡単な言及のみに留まっており、 夏時刻と夏季業務時間のいずれを想定していたのかは不明です。 瑞慶覧がその後議会 (本会議) でサマータイムを提案した記録は見られません。
[131] 平成20(2008)年、 日本国沖縄県沖縄市の沖縄市活性化100人委員会の沖縄市の将来ビジョンづくり部会は、 「約10年後の沖縄市のある家庭の風景をイ メージするものとして、ストーリーテリング手法にてとりまとめた」という物語 2020年の沖縄市のある一日 を作成しました。 ここでは、 「道州制導入により、沖縄にも時差が導 入されたため、上海との時差は無くなり」、 上海に留学する沖縄県民が増えたと描かれていました。 >>133 部会内に中国大陸の標準時と同じ を沖縄県の標準時とすることを望む意見があったものと思われます。 ただし、最終的な報告書には標準時に関する内容は盛り込まれておらず、 その後具体的な動きにはつながらなかったようです。
[116] 2009年、 日本国沖縄県読谷村で開催された行政と住民による政策ワークショップで、 夜型社会の改善のためサマータイムが提案されました >>115。しかし具体的な動きにはつながりませんでした。
平成20年 第 2回 沖縄県議会(定例会)
第 5号 7月 8日
○瑞慶覧 功 皆さん、おはようございます。
中頭郡区、北谷町出身、社大・ニライの瑞慶覧功です。
数少ない議会経験のない新人です。皆様の御指導、御鞭撻よろしくお願い申し上げます。
○瑞慶覧 功
それから道州制の問題もこれから出てきますけれども、やはり日本列島、沖縄から北海道まで気象条件も文化も異なります。単独州を目指すのであれば、もっと沖縄を主張することが大事であると考えます。そのためにかりゆしウエアをおきなわブランドとしてもっと県内外に進めていく必要があると思います。
また、今回質問できませんでしたが、暑い沖縄の特色としてサマータイムの導入なども考えていく必要があると考えております。そのことが観光産業や地域経済、さらにはゆとりある暮らしにつながってくると考えます。
読谷村
実施期間:平成21年8月3日(月)14:00
参加人数:31人(うち行政職員12人、自治会役員など19人)
全体概要:
夜型社会を変える取り組みとして「サマータイムの導入」があった。
「うちなータイム」については、「ゆったりとした時間の流れ」としてとらえ、残すべきとする意見がある一方、「時間をしっかり守るべき」として変えていくべきものとする意見があった。
[60] 日本国沖縄県で営業する観光業者沖縄ツーリスト株式会社の経営者の東良和は、 沖縄で西部標準時 を採用することを提案しました。 日本本土からの観光客の感覚に比して沖縄の日の出時刻 (中央標準時) が遅いため、 1時間繰り下げた方が朝からゴルフを楽しみ、 夜にはイルミネーションを楽しむことができる、 としています。また、東アジア各地との時差がなくなることによる経済効果や、 日本国内に時差が存在することが教科書に載るなど沖縄の存在感を高める効果もあるとしています。 >>58, >>1820
[61] 東は2013年 >>58 や 2014年 >>1821 の講演会でこの提案を披露しているようです。 2017年に沖縄県で発行されている新聞で旧西部標準時を紹介した >>1822 ようで、再導入の提案も記事に含まれていたかもしれません。 東がいつ頃から主張し始めたのかは不明です。 民主党のかつての主張を知っていても不思議はありませんが、 関係は不明です。
[63] 東以外にも独自時刻の導入を主張する人は少数存在しているようです >>1823, >>123 が、あまり支持を集められてはいないようです。 東も講演会の余談がてらに自説を紹介している程度のようで、 まだ実現に向けた具体的な活動というよりは支持者を広げようとしている段階と思われます。
[66] 観光客の時間活用を意識した時刻ということでリゾートタイムに似ていますが、 一般的にリゾートタイムは時刻を早めるのに対し、 沖縄の時刻の提案は時刻を遅めるという点が逆です。
【番外編(1時間の時差の導入)】
時差の導入も、新たな沖縄観光の発展のカギではないかと思います。1時間の時差を導入したら、 東アジアと同一時間になります。 観光の立場で、私が強調したいのは、マイ ナス1時間の時差を設けることによって、本土 から来ると、時間を戻し1時間ゆったりするこ とができるということと沖縄のリゾートとして の価値が上がるということです。冬に沖縄での ゴルフを計画しているお客様から、「なんで7時からゴルフできないの」とよく聞かれます。日の出 が遅いですからと言っても沖縄に来るまでは信じてもらえません。 冬は早く暮れたほうがイルミネーションが楽しめます。 時差ができたら「日本には時差があります」と、全国的に小学校の頃から教科書で沖縄のことを学 んでくれると思います。
沖縄ツーリストの東良和会長 である。先日、ネットワークの仮想化を実現する「オープンフロー」の開発研 究所として設立された沖縄オープンラボラトリの勉強会で東会長の話を聞いて、 その思考の柔軟性に感服した。
さらに驚いた提案は、沖縄は時差を設けて、1時間本土より遅らせる「特区」 にしてもらう、ということだ。現在は、東京で朝、明るくなっても沖縄は暗く、 夕刻、東京が暗くなっても沖縄はまだ明るい。観光客は東京時間で行動するの で、朝、暗いうちにゴルフのプレーを開始し、夕方、夕日を見ながら食事をす れば素晴らしい体験ができるのに、日が高いうちに夕食を終えてしまう、とい うようなちぐはぐが起きている。1時間時差をもらえば、多くのちぐはぐが是 正されるのではないか。
国内に時差を設けるのは前例があるそうだ。琉球国が日本に帰属して沖縄県 になった直後、宮古島、石垣島地域は本土時間と1時間の時差を設けていたそ うだ。しかし、台湾を日本に組み入れたとき、一体化政策の一環として時刻を 本土と同じにしたとき、途中にある宮古島、石垣島地域の時差制度もなくなっ てしまったそうだ。今度は「沖縄全体に時差を」ということだ。
宮古、八重山はかつて時差が台湾と同様に1時間あったことを先に東良和沖縄ツーリスト会長が県紙に、先日は本紙のコラムが取り上げていたのを読んで、私が尊敬する反骨のジャーナリストの友寄英正さんを思い出した▼東京で社会党代議士秘書を務め、帰郷後常に「マイノリティー」いわゆる少数派や弱者の側に立ってさまざまに平和運動や住民運動を主導した友寄さんが、「島おこし運動」で熱く時差の必要性を語っていたからだ
昭和の末の台湾旅行以来「時差はあるべきだ」がささやかな持論▼わが国は国内時差を認めないが、明治28年から昭和12年まで、東経120度以西の宮古八重山に1時間遅れの西部標準時が設定されていたことはあまり知られていない。日清戦争で台湾を領有した結果、台湾と先島に設定された▼当時の人々は太陽とともにある暮らしで、時差とは何の関わりもなかったに違いない。廃止理由も軍事上か、よくわからないまま 石垣で時計を1時間遅らせば、ゆったりとしたディナーと遅い朝のぜいたくな時間を楽しめる。魅力創出につながる▼時差1時間には香港、マカオ、バリ島、シンガポール。名だたるアジアリゾートが位置する。ご一考を。(慶田盛伸)
沖縄の課題の一つとして、「夜型社会」が挙げられる。
実際に、沖縄県の2016年の調査によると、子どもたちの平日前夜の就寝時刻は 小学5年生の42.8%が中学2年生の82.7%が22時以降だ。
睡眠時間も小学5年生が32.8%が、中学2年生の67.0%が8時間未満となっている。
これでは、学校生活に影響が出て、 学力低下の原因になっている可能性が高い。
個人的に考えているのは、沖縄のみ日本時間より1時間遅くする、「沖縄時間」の導入も視野に入れてはどうか。
夏だけの「サマータイム」としての導入でも良いと思う。
[130] 日照時間を鑑みると、確かに沖縄で通年、または季節により を採用することは、悪いアイデアとはいえません。 しかし本土と時差が生じることによる様々な不便や経済的不利益、 既に中央標準時前提 (かつ日本国内で時差が存在しないこと前提) となっている社会システムや計算機システムの改修、 季節性時刻を採用するとした場合の切り替えコストや健康被害、 本土と時刻を切り離し中国と同じ時刻を採用するという事実から否応なく生じる政治的メッセージ、 といったような事情を考えていくと、 メリットを遥かに上回るデメリットがあり、実現はほとんど不可能と思われます。
[12] 中国の暦と日本の暦はどちらも中国式太陰太陽暦とはいえ、
時差など細部で違いがありますから、日本本土と琉球の間でも日付が異なることが度々あったと思われます。
[3] 日本の元号と支那の元号で同じ名称のものがいくつかあります。
琉球の記録にみえる元号の解釈時には、
支那の元号の可能性をまず検討する必要があります。
[135] 日本の元号や旧暦を扱った書籍や Webサイトなどでは、 特に琉球を扱ったもの以外、 琉球で使われた支那の元号や旧暦に触れたものはほとんどありません。 元号や旧暦を使った日付の処理や西暦との換算を行う計算機ソフトウェアでも、 琉球の元号系や旧暦を扱えるものはほとんどありません。
[136]
そうしたソフトウェアを開発する場合、
日本の元号と支那の元号の名前の衝突に注意が必要です。
[138] 現在一般的な計算機ソフトウェアは時差の違いを扱えるものも多いですが、 過去の日時の取扱いは難しいことが多いのが実情です。 西部標準時も含めた日時処理を正しく扱えるものはあまりありません。
[137]
[54]
南西諸島各地では、地名と「時間」を組み合わせ、
時刻に厳格ではないルーズな慣習を表現することがあります。
たとえばウチナータイム、宮古時間、八重山時間、
島時間のような語があります。
(こうした語は南西諸島に限らず、世界各地で見られます。)
矢橋式日時計 第107号
日時計のみかた
この日時計は、上のひさしの形をした板のかげが、
午前は左側、午後は右側の目盛にうつり、それで、そ
のときの時刻がわかります。
この半円形の目盛板は、その中心のまわりに回転さ
せて、時間のくるいをなおせば、常に正しい時刻を示
すことができます。
また、毎日の正午になると、上のひさしの形をした
板の先にある穴のかげが、ちょうど、下の「8」の
字型をした日付の目盛線の上にきて、それで、正午の
時刻と、およその月日を知ることができます。
この日時計の特長とあわせかた
これまでの普通の日時計には、次の2種類の時差がありま
した。
経度差 ここ(東経124.0°)と、中央標準時の基
準子午線(東経135°)の通る兵庫県赤石との経度差によ
る時差(ここでは日時計が常に約44分遅れる)と
均時差 四季の変化で、太陽が天の黄道上を移行する
速さが一定でないため、真太陽と、わたくしたちが時刻の
基準にしている平均太陽との相違による、最大16分まで
の歩みおくれがあります。
この日時計は、東経135°、北緯45°のところの垂直型日
時計とまったく同じ方向をむくように、すこし傾けておいて
ありますから、(1)の経度差による時差はありません。
また、目盛が等間隔になっているので、(2)の均時差によ
る時差は、下の均時差修正表に記してある日に、目盛板を多
少左右に回転して、その下方にある矢印の真上に、その日の
修正値がくるようにすれば、日時計から、直接、中央標準時
(誤差1分程度)を知ることができます。 矢橋式日時計
この日時計は旧黒島マリンビレッジの敷地内にあります。
[153] 高知シリウスふぁーむ便り・・石垣島のかげぼうし日時計 | ネクタイ外して野良へ・・農園工房シリウスふぁーむ便り () https://ameblo.jp/shiriusufarm/entry-12133577764.html
明治29(1896)年、標準時変更によって西部標準時が設けられた際、1時間の時差をもって、与那国は台湾と同一時刻の標準時間帯となった。(ただし西部標準時の使用は昭和12(1937)年に廃止されている)。(宮城政二郎『与那国物語』1993年)
[171] [第374回]暦の会4月例会 () http://www1.cts.ne.jp/~koyomi/kikou2-20.html
[194] 日時計を識る(日影台の日時計を考える) () http://www.kotenmon.com/cal/roukoku/hidokei.html
(永井氏)
私は「サマータイム導入と同時に沖縄時差時間の制定を」というタイトルで話させていただきます。
[196] 新聞と暦表記 () http://www.ayirom-uji-2016.com/%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%A8%E6%9A%A6%E8%A1%A8%E8%A8%98
[197] 琉球新報さんのツイート: "【新元号アンケート】新元号が「令和(れいわ)」に決まりました~!あなたの感想は?" () https://twitter.com/ryukyushimpo/status/1112555548723957760
外務省の外交文書としてアーカイブ保存されており「琉球所属ニ関シ日清両国紛議一件」というタイトルで公開されている。双方の主張の要点を当時の外交を解説している書籍「沖縄の地位」(國際方學會編 昭和三十年初版)より引用して紹介する。まず、清国側の主張である。
一、琉球王の即位は中国皇帝よりの冊封による。二、清帝即位の時、琉球王により慶賀使を派する。三、年号、歴法、文書いずれも清制で、米・仏・欄との条約もその通りとなっている。
昨年の総会からの持ち越しでもある「ガイドの会」として西暦、元号どちらを使うかということが今回も議論されました。「外国人を案内するときは西暦でなくてはわからない」「天皇制による元号は戦争責任を考えると使わないほうがいい」「役場は元号である」「1972年まで沖縄は西暦だった」などなど、活発な意見が出され、多数決の結果、圧倒的多数で「併記」に決定。「2011(平成23)年」が「ガイドの会」の正式表記になりました。
1 議会の呼称は、「平成○年(西暦)○月那覇市議会定例会(臨時会)」とす
る。
【平成4年(1992年)1月31日 議会運営委員会決定】
《補足説明》
議会の呼称は、それまで「第○回那覇市議会定例会(臨時会)」となって
いたが、この通し番号方式は、復帰直後の昭和47年(1972年)6月定例会を
第1回として、平成3年(1991年)12月定例会までに185回を数えた。
元号・西暦併記式の新呼称は、平成4年(1992年)2月臨時会から適用さ
れている。
ちなみに、国会では、昭和22年5月20日に召集された「第1回国会」以来、現
在でも通し番号方式となっている。
〇瑞慶覧 功君 ハイサイ グスーヨー チューウガナビラ。
会派おきなわの瑞慶覧です。
ことし5月1日から元号が令和に変わりました。4月1日に新元号が発表されましたが、日本中のマスコミがお祭り騒ぎとなり、菅官房長官は令和おじさんともてはやされ、安倍首相は慣行を無視して異例の会見を行いました。これこそ天皇の政治利用だと思います。
私は昭和30年、西暦1955年生まれです。昭和の時代までは西暦に換算することは何とかできますが、明治や平成などは西暦がなかなか出てきません。歴史などはほとんど西暦で覚えます。元号を始めた本家の中国でさえ、西暦へ切りかえています。そろそろ日本も西暦に切りかえるべきだと思います。
今回、平成天皇の希望で生前退位が決まりました。そのおかげでお祝いムードで世がわりができ、経済効果もあったと思います。しかし、今回一代限りの特例法となっており、問題です。そして、皇位継承資格について、女性天皇を国民の75%が支持しているのに、安倍首相の支持基盤である右翼団体などの反発が強いために皇室制度改革が進んでいません。時代錯誤も甚だしい女性差別です。国民の圧倒的な民意が無視されるのであれば、いっそのこと天皇制を廃止すべきです。
[226] 瑞慶覧は以前サマータイムに賛成していた人物 (>>108)。 「平成天皇」 という不適切な語で上皇陛下のことに言及している。 「国民の圧倒的な民意」 によるお祝いムードや改元という現実を受け入れられず、民意ではなく自身の主張である 「天皇制を廃止すべき」 との結論に導く見事な話術よ。 また、 改元で首相が会見してはならないという慣例は我が国には存在していないし、 会見したら「天皇の政治利用」になるという論理は謎である。
[229] そんな人物であっても、 米国統治時代で西暦で生まれ育ってきたはずで、 昭和で暮らしたのは成人後の十数年程度のはずなのに、 「昭和の時代までは西暦に換算することは何とかできます」 とかいうほど元号に馴染んでいるというのが興味深い。 本土の昭和生まれでも、 自分の生まれ年以外を西暦に換算できない人は多いはず。 (逆に、西暦を使ってきた沖縄県民だからこそ、 昭和と西暦の換算に慣れている可能性もあるか?)
作成/筆写年_年号 咸豊元年(嘉永4年)
注記 辛亥正月ヨリ十二月ニ至ル(1851年1月~12月)/近世・王府(行政)
[231] 門上コレクションの銘書について () http://www.edu.city.naha.okinawa.jp/tsuboya/kiyou/kiyou16%20suzuki.pdf
紀年については、「戦前期」と「復帰後」は元号で、「アメリカ統治期」は西暦で、時代
背景が分かるように表記した。
与論島では毎朝の町内放送でもアナウンスされるほど
日常的に旧暦が使われています。
[238] 尚本家令和二年 年頭所感【元琉球王族、尚家が語る沖縄への想い】 | | OKINAWA41 () https://www.okinawa41.go.jp/reports/35169/
[239] () https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscfh/32/0/32_71/_pdf/-char/ja
[266] アラベスク 李昌性 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3078.html
[267] アラベスク レプリカ (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2876.html
[268] アラベスク 100圓加刷 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2503.html
[271] アラベスク 100円加刷 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1393.html
[272] ゆる琉球史マンガbot@廃人前提おじさんさんはTwitterを使っています 「ただ唯一、国内で日本元号を使おうとした時期がある。17世紀、明清交代で琉球は南明亡命政権を支持するも、間もなく滅亡。この時期に日本の「寛文」元号を使用する事例がいくつか見られる。明清どちらが勝つか不安定な状況で、琉球の人たちは安定した日本の政権の元号を使おうとしたのではないか。」 / Twitter (午前9:26 · 2019年4月30日 , ) https://twitter.com/mangaryukyu/status/1123020841053065216
[273] ゆる琉球史マンガbot@廃人前提おじさんさんはTwitterを使っています 「現存の島袋のノロ(神女)辞令書には「隆武7年(1651年)」と記されているが、これは明朝滅亡後の亡命政権である南明政権の年号。隆武2年で政権は滅亡しているが、琉球では明朝滅亡後も清朝年号を拒否し、南明年号を使用している。」 / Twitter (午後6:19 · 2019年3月30日 , ) https://twitter.com/mangaryukyu/status/1111920901052755969
[274] ゆる琉球史マンガbot@廃人前提おじさんさんはTwitterを使っています 「また福州の隆武政権の滅亡後は広州で永暦帝が即位しているが、琉球では「永暦」の年号は使われず、ずっと「隆武」で通している。」 / Twitter (午後6:20 · 2019年3月30日 , ) https://twitter.com/mangaryukyu/status/1111921098340204545
[275] ゆる琉球史マンガbot@廃人前提おじさんさんはTwitterを使っています 「朝鮮では私的文書に明朝最後の年号「崇禎」が19世紀末(!)まで使われ続けたというが(山内弘一『朝鮮からみた華夷思想』)、琉球は日本になってからも「明治」ではなく、清朝「光緒」を家譜などに使う例が散見される。」 / Twitter (午後11:31 · 2019年3月30日 , ) https://twitter.com/mangaryukyu/status/1111999351755161601
[276] ゆる琉球史マンガbot@廃人前提おじさんさんはTwitterを使っています 「たとえば麻氏の子孫による『玉城・大城グスク由来記』が書かれた年号が「大清光緒壬辰」となっている。日本の明治25年(1892年)。王国滅亡から13年経っても、彼らは琉球士族としての気概を持ち続けたのだろうか。年号から彼らの気持ちが見えてくるようだ。」 / Twitter (午後11:34 · 2019年3月30日 , ) https://twitter.com/mangaryukyu/status/1112000081488547846
当時、琉球政府の公文書では、「沖縄県」も「昭和」も一切使用を許されていなかったのですが、再製された戸籍に限っては、本土と同じく元号表記を使用し、「沖縄県」を本籍地としたのです。
[351] https://researchmap.jp/read0012388/presentations/12532032/attachment_file.pdf #page=15
[294] あげな中 22期生 同窓会ブログ, https://agenacyu22.ti-da.net/
日本国沖縄県うるま市の中学校の同窓会の告知と報告のブログ。
告知チラシに
「
同じ告知チラシの開催日は
「
ブログ記事の案内文は
このブログは、H28.7.9(土)に開催する あげな中22期生同窓会の告知と
と元号年。ブログの最期の記事の締めは
平成28年 7月9日(土) あげな中学校 22期生 同窓会
完
と元号年。
恩師から寄せられた手紙の写真
「
当日配布された名札の写真
「
当日配置された日程表の写真:
表紙
「
[310] 石垣島の石碑・説明看板(市街地-1), , http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_cityarea-1.html
西暦年と元号年が入り混じっているのは本土と変わらない。 (この Webサイトの翻刻文は漢数字を算用数字に書き換えていることもあるので要注意。)
[裏面上段]
贈 勲四等瑞宝章叙勲記念
1967年11月3日
八重山電力株式会社
[裏面下段]
牧志宗得社長は、明治十九年九月一九日、那覇市に生まれ、明 治四十三年、東京私立日本医学校を卒業、大正二年、石垣市に牧 志医院を開業、五十有余年の長期に亘って八重山住民の医療保健 に尽くされた。昭和二十三年、、更に、昭和三十四年五月、八重山電力株式会社の初代社 長として、住民福祉に貢献された。昭和四十二年秋、多年の地方 自治行政に対する功績によつて勲四等に叙せられ、瑞宝章を授与 された。茲にその栄誉を讃え、胸像を建立して、その功績を永く 後世に伝えるゆえんである。
昭和四十四年二月四日 八重山電力株式会社
[側面]
平成十四年二月二十二日 石垣市長 大濱長照
胸像移転実行委員長 石垣信亨
昭和44年は返還前。この説明文がいつ書かれたものかは不明。
頌徳碑
碑ヲ建テ其ノ功徳ヲ讃仰スル次第 デアル
一九四七年(昭和二十二年)
十月二十二日
(旧九月九日重陽節句)
頌徳碑建立委員会 大濱用立
大史姓一門総台 吉野高善
文喜舎場永珣
現敷地移轉 昭和四十七年十月十五日
この碑文がいつ書かれたものかは不明。
桃林寺仁王像 説明書き
重要文化財(美術-彫刻)
桃林寺仁王像 二軀
元文二年(西紀一七三七年)文明氏久手堅仁屋昌忠の作。
一.所在地 石垣市字二八五番地 桃林寺山門
一.文化財指定 一九五六年二月二十二日
一.管理者 桃林寺
社団法人 八重山観光協会
沖縄県指定文化財124
金剛力士立像
久手堅仁屋昌忠・川平仁屋正肖・小浜仁屋當明作
琉球・第二尚氏時代 乾隆2年(1737)
沖縄県石垣市・桃林寺
[314] 1つ目は額に入った書状。
どちらも書かれた年代は不明、 返還前に琉球政府の重要文化財、 返還後に沖縄県の有形文化財に指定されたものだというので、 1つ目は返還前に書かれた可能性が高いだろう。
返還前に日本の元号で書き、 返還後にかえって支那の元号で書いていることに注意。
長延翁頌徳碑
宮平長延翁ハ山陽姓第四世ノ偉人ニシテ西歴一六七四年八月廿日黒島首里大屋子長孝ノ二男トシテ誕生シ一七四九 年十一月十三日永眠セラル享年七十六歳
茲ニ山陽姓一門碑ヲ建テ其ノ高徳ヲ鎮ス
一九五一年昭和二十六年八月吉日
八重山キリシタン事件 殉教の地
一六二四年に石垣島冨崎の沖に漂着した宣教師ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父によって八重山にキリスト教がもたらされ
二〇〇四(平成一六)年十月二二日(旧九月九日)
[318] キリスト教関係ながら平成併記の上に旧暦日付も併記。
[319] 昔の「八重山&本島」の思い出, , http://www.zephyr.justhpbs.jp/past_yaeyama.html
南西航空(SWA:現在のJTAの前身)時代の搭乗整理券です。
那覇→宮古行き 宮古→石垣行き
これらのチケットは、昭和49年に使用したものです。
登場整理券に押されたスタンプ
49. 3. 29
49. 4. 01
南西航空は、返還前の昭和42(1967)年に日本航空が出資して設立。
当時の様子が、蔵元(行政庁)より琉球王府に提出された「大浪之時各村之形行書(おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ)」に、次のように記録されています。
【大波揚候次第(おおなみあがりそうろうしだい)より抜粋訳】
『八重山には男女28,992人がいた。
乾隆36辛卯年(1771年)3月10日(新暦4月24日)五ツ時分(午前8時頃)に大地震があり、この地震がやんですぐに東の方が雷のように轟いた。
石垣島・宮良地区のタフナー原にある、明和大津波遭難者慰霊之塔の碑文には、津波の様子が次のように克明に記されています。
碑文
八重山の古記録「大波之時各村之形行書(おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ)」によれば、乾隆36年(日本年号明和8年)3月10日(1771年4月24日)午前8時ごろ大地震があり、
[334] 石垣島の石碑・説明看板(郊外-1), , http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_suburb1.html
明和の大津波慰霊碑
Memorial Monument for the Great Tsunami of Meiwa
八重山の古記録大波之時各村之形行書によれば、乾隆三十六年(日本年号明和八年)三月十日(一七七一年四月二四日)午前八時ごろ大地震があり、
一九八三年(昭和五八)四月二四日
明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会
According to an ancient Yaeyama record written for the Rukyu Kingdom’s government (Onami no toki kaku mura no nariyuki sho), at around 8:00 a.m. on April 24th, 1771 (during the Meiwa period) there was a major earthquake, followed by a sound to the east of Ishigaki island similar to the roar of thunder.
April 24th, 1983
[322] 西表島の石碑・説明看板 (東部), , http://www.zephyr.justhpbs.jp/iriomote_hibun_east.html
世持之宮
昭和三十六年彼の辛丑之建立
※辛丑:かのとうし
本当にこの通りの表記なのか、掲載されている写真では判読不可。
https://goo.gl/maps/Rkc693mC1D7zzWzr9 この石碑と思われるがこちらでも判読不可。
節さだめ石
[324] 竹富島の石碑・説明看板 (西集落・西), , http://www.zephyr.justhpbs.jp/taketomi_hibun_no21.html
小城盛の由来
正保元年 一六四四年 尚賢王の世代琉球本土の冠船の
復元記念
昭和三十六年六月十日建立
[325] 竹富島の石碑・説明看板 (西集落・西), , http://www.zephyr.justhpbs.jp/taketomi_hibun_no21.html
石碑「
[327] 石垣島の石碑・説明看板(市街地-2), , http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_cityarea-3.html
石垣市・蘇澳鎮姉妹都市締結経緯
都市名 蘇澳鎮(台湾)
締結日 平成7年9月26日(1995年)
蘇澳鎮・石垣市姉妹都市提携20周年記念
宜蘭縣蘇澳鎮 沖縄県石垣市
鎮長 陳金麟 市長 中山義隆
20周年記念で建立ということは平成27年か。 日本側と台湾側のトップの名前があるが説明は日本語だけで、 民国紀元は書かれていない。
(もしかして対になるものが台湾にもあるのか?) (← 調べた限りではそういう情報はない。)
(このページで紹介されている石垣市の他の台湾との姉妹都市関係の碑文はすべて西暦単記)
[328] 2015広報いしがき12月号P1-P12 - 201512_1p.pdf, , https://www.city.ishigaki.okinawa.jp/material/files/group/9/201512_1p.pdf
[332] 石垣島の石碑・説明看板(郊外-2), , http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_suburb4.html
一九八七年(昭和六二年)八月二日
蘇澳港 国際青年商会会長 廖 大慶
国際委員長 簡 弘遠
(社) 八重山青年会議所理事長 山森 康二
対外交流委員長 井上信吉
[329] 石垣島の石碑・説明看板(市街地-2), , http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_cityarea-3.html
親善之碑
岡崎市長 大田光二
昭和四十三年八月
親善之碑は、愛知県岡崎市と石垣市の友好親善都市提携を記念したもので、1969年に建立されました。
[330] 石垣島の石碑・説明看板(市街地-2), , http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_cityarea-4.html
新本井戸頌徳碑
一九五四年 昭和二十五庚寅年十一月三日吉日
[333] 石垣島の石碑・説明看板(郊外-1), , http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_suburb1.html
詩碑
仰高徳
一九五五年乙末九月六日竣工
[335] 星見石, , http://www.zephyr.justhpbs.jp/hoshimiishi.html
産卵期にあたる旧暦の3~4月の2カ月間、レジャーでの釣りも含め、保護区内での水産動植物の採捕を全て禁止する。今年は4月12日~6月9日が禁漁期間となる。
これまで地元の漁業者が自主的に設定してきた保護区を、沖縄海区漁業調整委員...
[337] Microsoft Word - 89-99 秋田 研究 ナミハタ - 89-99.pdf, , https://www.pref.okinawa.jp/fish/kenkyu/jigyohokoku-data/jihouh27/89-99.pdf
[339] 八重山沿岸海域の産卵場保護区に関する意見募集について/沖縄県, 沖縄県, , https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/iken/r2/hogokuiken.html
[338] Taro-20201209指示概要(八重山保護区) - 01gaiyou.pdf, , https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/iken/r2/documents/01gaiyou.pdf
3)保護期間は、主対象とする魚類の繁殖の季節性、月周期性を考慮して、旧暦の3月から 4 月 ま で の 約 2 ヶ 月 間 と し 、 あ ら か じ め 今 後 5 年 間 の 保 護 期 間 を 指 示 に 示 す こ と と する 。
[341] 島袋 梨絵(𝑹𝒊𝒆 𝑺𝒉𝒊𝒎𝒂𝒃𝒖𝒌𝒖𝒓𝒐)さんはTwitterを使っています 「沖縄が本土復帰して49年の今日。復帰前は本土に行くにもパスポートが必要でした。当時母は20歳。今も大切に持っているパスポートを見せてもらったら、なんと返還されるその日に乗船した船のスタンプが!貴重な物を見せてもらえて感慨深い一日。 https://t.co/Dn5pVBNpP5」 / Twitter (午後4:41 · 2021年5月15日 , ) https://twitter.com/rorieshima/status/1393471497151209472/photo/2
[343] <4D6963726F736F667420576F7264202D2097AE8B8589A48D9182CC8CF088D582C68AB58D732E646F63> - okamoto-repo-2006.pdf, , https://www.chikyu.ac.jp/sociosys/PDF/okamoto-repo-2006.pdf
[345] 琉球王朝の暦日: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201410/article_1.html
[346] さK 🍶さんはTwitterを使っています: 「いま使ってるお味噌は那覇で作られてるんだけど、「慶応元年創業」って書いてある。その頃はここは独立国だったんで、慶応っていう暦ではないと思うんだけど、琉球王朝時代の暦ってのはどうなってたんだろ。」 / Twitter, 午前8:06 · 2013年1月28日 , https://twitter.com/debugordie/status/295669188322807808
[347] 『文書だより』(3)公文書の年号 - 琉球政府の時代, koubunshokan_okinawa, https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/ryukyu_documents/%E3%80%8E%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A%E3%80%8F%EF%BC%88%EF%BC%93%EF%BC%89%E5%85%AC%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%AE%E5%B9%B4%E5%8F%B7/
[348] SHIMOOKA_Erina_va2.pdf, , https://theses.hal.science/tel-03257454/document#page=76
[349] 日本における琉球史跡, , https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Main.html
[350] takara2.pdf, https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/22114/takara2.pdf#page=7
[352] R-1958-07-29.pdf, , https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/img/kouhou//R-1958-07-29.pdf#page=4
[353] >>352 米国統治が始まる前の生年月日について、 西暦年に直されて表記されたものと、 本来の元号年のまま表記されたものがあった。
[361] 沖繩文化 = The Okinawa bunka 28(1)(77), 『沖繩文化』編集所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4437792/1/11 (要登録)
[362] 琉球王朝の頃、どのような暦を使っていたか知る手掛かりとなる資料があるか。また、その暦は薩摩藩と関係が... | レファレンス協同データベース, 国立国会図書館, https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000085357&page=ref_view