1. トカラ列島と十島村
屋久島の南には、トカラ海峡が広がり、トカラ海峡で大隅諸島が終わる。
トカラ列島は大隅諸島と奄美群島の間に広がる島々で、
そのほとんどが、霧島火山帯に属する火山島である。
トカラ列島は、大隅諸島から奄美群島への琉球弧の架け橋となり、
古来から琉球弧を行き交う人々に、琉球海道の中継点としてその存在が知られてきた。
興味深いことに、トカラ列島のほとんどの島で「平家の落人伝説」が残されており、
島民は平家の子孫であることを自負している。
平家の落人伝説は、九州の山奥の椎葉や五木でも見られるが、
三島村の硫黄島やトカラ列島、そして喜界島や奄美大島、加計呂麻島でも残されている。
平家の落人が大和の京文化を南西諸島に持ち込んだことは、間違いないようである。
トカラでは、中世、日本と琉球王国の架け橋を担っていた史実が残されている。
トカラの島々の住民は、薩摩に間接的に服属することで、
薩摩の御用聞きとして、南方の事情を薩摩に伝える役割を果たし、報酬を受けていた。
また一方で、琉球王国に日本の事情を知らせて、報酬を受けていた。
薩摩が琉球支配に乗り出すときには、その指南役として手引きをしながらも、
琉球王国に対して薩摩の意図を伝達し、平和裏に支配が運ぶよう琉球王国を説き伏せていた。
奄美大島と喜界島までは琉球王国だったが、トカラ列島は琉球王国の支配を受けたことはなく、
かといって薩摩も薩南諸島より南にあるトカラ列島は、領地として支配なかった。
トカラ列島はあまりにも小さな島々だったため、領地としての価値がなかったからだが、
それゆえに、日本と琉球王国の架け橋となる中立したポジションになりえたのである。
トカラ列島は現在十島村に所属し、7つの有人島と5つの無人島を持つ。
島の領域は南北150kmを越え、海域も含めた領域面積で「日本一長い村」である。
明治維新後、7島の有人島に三島村の3島の10島で「十島村」として誕生したが、
戦後、トカラ海峡より南部がアメリカに占領されると、3島が独立して「三島村」となった。
そして1952年に十島村が日本復帰にすると、
三島村となった3島を除いた7島で「十島村」は復活した。
有人7島は北から口之島、中之島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、小宝島、宝島で、
無人5島は臥蛇島、小臥