[11] 琉球王国 (現在の日本国沖縄県。時代により日本国鹿児島県奄美群島も統治。) の歴史を記述するとき、 国王の即位紀年によることがあります。
[12] 現代日本の辞書類、文書、 Webページなどで、 琉球王国の歴史の記述で使われることがあります。
[13] 単独で使われることはあまりなく、 西暦、日本の元号、中華王朝の元号の1つ以上と併記されるのが普通です。
[16] 文化財当局の文書や、 現地の案内板で使われた例もみられます。
[18] 18世紀に編纂された琉球王国の正史 球陽 は国王即位紀年で編纂され、 元年に中華王朝の元号が併記されていました。
[14] 当時リアルタイムで日常的に使われた例は知られていません。
[15]
現在でも西暦、
日本の元号、
中華王朝の元号を使うのが普通で、
即位紀年はそこまで一般的ではありません。
[1] 柴山(シバヤマ)とは - コトバンク, デジタル大辞泉,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,朝日日本歴史人物事典,大辞林 第三版,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及, https://kotobank.jp/word/%E6%9F%B4%E5%B1%B1-522926
デジタル版 日本人名大辞典+Plus
1425年(尚巴志王4年)琉球に来航。1427年皮弁冠服を持参,1430年来航時に大安禅寺を建立。1433年4度目の来琉では,日明国交回復をめざす宣宗(せんそう)の勅諭を持参し,尚巴志に託した。
朝日日本歴史人物事典の解説
尚巴志4(1425)年明の仁宗の詔勅を奉じて初めて来琉,巴志を琉球国中山王として冊封した。
尚巴志王4年(1425年)琉球に来航[1]。同6年(1427年)皮弁冠服を持参、同9年(1430年)大安禅寺を建立、同12年(1433年)日明国交回復を目指した宣宗の詔勅を持参し、尚巴志に託す[1]。
1. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『柴山』 - コトバンク
尚巴志6(1427)年建立の琉球最古の金石文である「安国山樹華木之記碑」に,北京に派遣されたこと,王城外に池(竜潭)を掘ったことがみえている。
朝日日本歴史人物事典の解説
尚巴志6(1427)年建立の琉球最古の金石文である「安国山樹華木之記碑」に,
「龍潭池浚渫(しゅんせつ)の経緯…龍潭池は、周囲416メートル、面積7575平方メートルの池で魚が多くいたことから、魚小掘(いゆぐむい)とも呼ばれた。龍潭池が出来たのは、1427年(尚巴志6)で、時の国相懐機の作庭になるという。浚渫は、琉球王朝時代において冊封使来琉の2、3年前に御冠船接待の準備の一事業として行われたのが始まりである。以下に龍潭池の浚渫の経緯を説明する。
第1回目の浚渫 祭鐸(さいたく)の碑によると、尚寧(しょうねい)16年、万歴32年(中国)、西暦1604年に第2尚氏第7代尚寧王の冊封に備えて浚渫したといわれている。
第2回目の浚渫 尚寧王時代に浚渫してから74年の歳月を経て、尚貞(しょうてい)10年、康煕17年(中国)、西暦1678年に、第2尚氏11代尚貞王の冊封に備えて行われた。この時は、石工延べ2295名、夫役延べ4万4346名をもって172日を要したという。
第3回目の浚渫 尚穆(しょうぼく)3年、乾隆(けんりゅう)19年、西暦1754年に第2尚氏14代尚穆王の冊封に備えて行われた。この時は、世持橋(よもちばし)の水門を開けて水を流し浅くなった池底を掘った。
第4回目の浚渫 昭和11年(1936)に首里市及び青年奉仕隊の勤労奉仕により清浄された。この時は、池の全面を覆っていた蓮、浮草等が除去された。
第5回目の浚渫 昭和17年(1942)に約1カ年をかけて首里市長(仲吉良光)の率いる市民、学生、生徒の勤労奉仕約2万人を以って浚渫を行った。この時は太平洋戦争勃発以来の非常時体制下であったため、養魚地として活用することが目的であった。
第6回目の浚渫 平成4年(1992)11月3日の首里城公園の開園に向けて、戦後初の本格的な浚渫を行った。なお、浚渫工事は、同年2月中旬に始まり約5カ月の期間を要した。 沖縄県」
その他、グスク時代における美福門
の様相は判然としないが、尚泰4(1851)年には首里城周辺を徘徊する異国人の侵入対策として、淑順
門などとともに二重扉が設置された(球陽研究会 1974)。
[9] () https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/35/35969/70333_1_%E4%BB%A4%E5%92%8C%E5%85%83%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E7%89%B9%E5%88%A5%E4%BC%81%E7%94%BB%E5%B1%95%E9%A6%96%E9%87%8C%E5%9F%8E%E6%AD%A3%E6%AE%BF%E8%B7%A1%E5%87%BA%E5%9C%9F%E5%93%81%E5%B1%95.pdf#page=17
年表に「西暦」「日本元号」「中国元号」「王統」。 王統は舜天 6から (其れ以前は空欄) 琉球処分まで。其れ以後は日本の元号と同じ。
《琉球国王之印》 1662 年(尚質 15.康煕 1)国王尚質が中国清朝から授かった「琉球国中山王之印」のこと。
1187年(舜天元年)から1872年(尚泰24年)、もしくは1879年(尚泰31年)までは、日本、中国、朝鮮とならび、地域疑念としての琉球を追加するべきだと思います。 朝鮮と同様、「国名:国王○年」例えば「琉球国:尚巴志4年」などと記述するのがよろしいでしょうか。 --Franz Rekio(会話) 2012年12月18日 (火) 16:20 (UTC)
日本や中国、朝鮮と異なり、琉球の場合は独自の紀年法を採用していませんので地域概念としての追記は不要と考えます。これを言い出すと世界中のあらゆる地域を記載して○○王○年、○○侯○年のような記載が可能となってしまします。日本人からすれば琉球というのは特殊な地域かもしれませんが、紀年法で見れば日本と中国のいずれかの紀年法で記述可能なので、あえて追記する必要性はないと判断しています。--Yonoemon(会話) 2013年1月25日 (金) 04:25 (UTC)
琉球の「○○王統」や「○○王~年」という表現は、古琉球当時には一切ありません。
[20] https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=40740&item_no=1&attribute_id=162&file_no=1 PDF 11ページ