監国魯

監国魯

[1] 監国魯 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A3%E5%9B%BD%E9%AD%AF>

監国魯(かんこくろ)は、中国の南明政権のうち、紹興で監国を称した魯王朱以海が福州で即位した隆武帝に対抗して用いた紀年法。「監国」または「魯監国」にも作る。朱以海は皇帝に即位しなかったため、独自の元号も建てずに称号の「監国」をそのまま使用した。このほか李兆洛『紀元編』等は朱以海の元号として庚寅を挙げているが真偽は定かでない。史書や年表には、監国を称した1645年を元年とするものと、翌1646年を元年とするものとがあり、また末年を朱以海が紹興で敗退した1646年までとするものと、金門に奔って鄭成功のもとに身を寄せた1651年まで数えるものとがあり、一定していない。

[2] 朱以海 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E4%BB%A5%E6%B5%B7>

当時唐王であった朱聿鍵が福州で隆武帝として即位し、これと皇統の正閏を巡って対立していたため、隆武の元号を使用せずに監国魯元年と称している。

[3] ( 版) <http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>

[二九六 行在の礼部より中山王世子尚賢あて、硫黄等の補貢を許し、貢使を回国せしめる旨の咨文]

右、琉球国中山王世子に咨す

監国魯四年五月初七日

咨す

[4] 普済寺 ( 版) <http://www.kagemarukun.fromc.jp/page006f.html>

また魯王朱以海(1618~62)はこれとは別に監国と称し、年号もそのまま「魯王監国元年」と称した。魯王監国元年(1646)、魯王は舟山に到り、その後普陀山へと上陸した(『普陀洛迦新志』巻11、志余門第11、魯王監国元年条)。その後清軍に敗北して監国6年(1651)に舟山より脱出したが(『普陀洛迦新志』巻9、流寓門第9、沈宸セン伝)

[5] 中国史人物事典~歴代皇帝-明 ( 版) <http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/chu909.html>

魯監国元年(1646)、清軍が銭塘江を渡ると、浙東を守ることができず、海上に逃亡した。四年(1649)、舟山に進駐した。六年(1651)、清軍が舟山を攻め落とすと、張煌言らに従って厦門にいたり、まもなく金門にうつった。八年(1653)、監国の号を除いた。のち金門で病没した。

[6] 素読のための「甲子夜話」 甲子夜話 続篇 20巻-4 鄭成功の母、勇まし (rousseaujj2 著, 版) <http://rousseaujj2.blog.fc2.com/blog-entry-58.html>

正保(しょうほう)三年丙戌(1647年)〔明の隆武(中国の年号)二年・魯監国(中国浙江の年号)元年・清の順治(第3代皇帝)三年〕八月

[7] プロジェクト:紀年法/共有ウォッチリスト - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88:%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95/%E5%85%B1%E6%9C%89%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88>

監国魯★李崇智は元号でない旨注記。柏杨は1651年まで正統元号扱い