[76] 征露 (y~1148) は、 日本の私年号の1つです。
[78] 日本語版ウィキペディアは、 「日露戦争での対露戦争の戦勝を記念して使用された。」 と説明しました。 >>1
[86] 日本語版ウィキペディアは、 出典として 読史の趣味より 征露二年, 萩野由之を挙げました。 >>1
[87] 日本語版ウィキペディアは、 出典として 「栃木県小山市天翁院縁台墨書銘」 を挙げました。 >>1
[731] 平成時代に編纂された日本国宮城県柴田郡柴田町の町史に、 明治時代の柴田郡槻木村 (後の柴田町の一部) の有力者だった日下徳太郎が公私の文書を写しまとめたものが収録されています。 >>730 その中に征露を使ったものが3通あります。
[733] 小林林治書状 (>>732) は、 征露第3軍に所属する小林林治がに横須賀港で乗船、 戦地に向かうに当たって日下徳太郎に挨拶を送付したものでした。 その日付を明治ではなく征露としていました。
[734] 書状の日付と出発日が同じということは、 出発前に書いたものを出発直前に投函してから乗船したのでしょう。 つまり征露の私年号は日本国内で実戦前の訓練・準備中の部隊内でこの頃には既に使われ始めていた可能性が高いといえます。
[737] 小池金八󠄂書状 (>>735) は、 征露第1軍に所属し満州で戦闘中のに日下徳太郎らに新年の挨拶を送付したものでした。 書状の日付は明治でしたが、文中で征露2年の元旦を祝しています。 なお本書状によると戦場では年賀状が禁止されていたようですが、 本書のように軍事郵便は平常通り本国宛に送付できたようです。
[739] 佐藤道龍書状 (>>738) は、 第2師団第4野戦病院に入院していた佐藤道龍が日下徳太郎らに送付したものでした。 当野戦病院がどこにあったのかは (記録を調べればわかるのかもしれませんが) 書状からはわかりません。前線に近い満州のいずこかでしょう。
[740] 本書状の日付は明治何年か書かれておらず、かわりに「征露第1年」 とあります。 ところがでは開戦前になってしまいます。 書状によれば元旦に旅順が陥落していますから、 とみて間違いありません。 第1年としたのは第2年の誤記でしょうか。
[1120] に読売新聞記者で作家の町田柳塘 (町田源次郎, 楓村居士) が出版したノンフィクション小説 橘英男 の序文の日付に征露が使われました。
[1121] この小説は実在の軍人をモデルにしているとはしがきにはあります。 他の戦争記録とは違って日露戦争の戦闘を描くのではなく、 軍人の生活を主な題材にしています。 本文には「征露」はなく、著者の序文の日付でのみ使われています。
[1234]
荒木貞夫, 菱刈参謀, 武田副官が発行したという
[1236]
日付欄に
「
[1237] 本文中、沙河会戦後の退屈に発行する旨の記載があります。 >>1230 沙河会戦はからに清国満州奉天南方の沙河地域であった戦闘です。
[1238] 荒木貞夫は、 後に陸軍大将となる、 陸軍大臣を務めた人物です。 開戦前は陸軍大学校在学中でしたが、 に近衛後備歩兵第一連隊中隊長として出征、 明治37年5月に近衛後備混成旅団副官となりました。 明治37年8月に大尉となりました。
[1239] 「動員10月、出発6月」が何を意味するのかよくわかりません。
[787] に日本国東京府東京市で発行された雑誌に、 征露紀年記事があります。
[791] この雑誌は日露戦争中の戦況、軍人の体験記、日本各地の読者投稿の記事や川柳など、 戦争関連の幅広い内容を掲載しています。
[790] 第17号の記事 (>>789) は満州で日本軍の通訳を務めた山野正夫の体験が綴られたものです。 冒頭記事見出しには「水星」とあり、記事末には「山野正夫」とあります。 記事内容は自らの体験のように描かれており、水星は山野正夫の筆名でしょうか。 (明言はされていませんが、軍記物語ではなく自叙伝的なもののように読めます。)
[792] 文末の記載 (>>786) から山野正夫は執筆時点で満州の金州で軍務中と思われ、 雑誌刊行時点も任務継続中の可能性が高いでしょう。 どのような経緯で雑誌に掲載されたのかは不明で、 山野正夫が直接編集部に送付したのでしょうか。 本文中の記載によれば国内の親族を経由した可能性は低いかもしれません。 あるいは当誌は従軍記者を派遣していたようなので、その方面からかもしれません。
[793]
紀年は「征露紀元第四月」とあります。
この「紀元」は元年と同義と思われます。
この用法は日本の近世や清国でみられるものです。
[794] 、日本軍は清国遼東半島金州に進軍しました。 の南山の戦いと呼ばれる激戦でこの地からロシア軍を駆逐しました。 当記事は金山で大規模な戦闘があったと書いており、 具体的にいつどこのどのような戦闘だったか明らかではないものの、 南山の戦いあたりを指すと解するようにも思われます。 ところがそうすると「第四月」とは矛盾します。
[795] 誤記ではないとすると、4月とは旧暦の4月でしょうか。 旧暦4月1日はですから、 矛盾はありません。 軍では新暦を使うはずですが、私的な文書なら旧暦を使う可能性もあるでしょうか。 山野正夫は四国の村の出身で、郷里では旧暦メインの生活だった可能性が高いです。 開戦前に満州で満州人を称するロシア人宅に滞在しており、 現地で開戦を知りました。その地では当人とロシア人の2人以外はみな満州人でした。 (満州人が実際に満州族なのか、漢族も含まれるのかは不明です。) ロシア人はユリウス暦でしょうが、 満州人は農暦を使っていたはずです。 そうした環境で過ごしながら2月に開戦、 明記されていないもののおそらく現地で日本軍に翻訳者として志願したものですから、 新暦より旧暦に親しんでいた可能性は十分にあります。
[796] これが確かに満州の日本人が発したものだとすれば、 征露の用例としてかなり早い部類です。
[802] 同誌の前号はわずか1日前に発行されていましたが、 そちらにも征露が使われた記事がありました (>>801)。 この記事は物語調でどこまでが史実かよくわかりませんが、 まったくの創作でないなら現地取材に基づいているのでしょうか。 その地の文の日付が征露なので、現地の記者か東京の編集部が使ったものでしょうか。
[803] 日付は「征露紀元第一年孟夏」で、こちらでは「紀元」は元年の意味ではなく、 「征露紀元」で紀年法であることの強調だと思われます。
[804] 「孟夏」と書いて「なつ」と振り仮名があります。 この時代の「なつ」がどのようなニュアンスだったのかはよくわかりません。 「孟夏」は旧暦で4月の異名とされます。 現代日本では5,6月頃の時候の挨拶にも使われるようです。 この時代の「孟夏」は旧暦4月前後と解するのが自然でしょうか。
[805] これもやはり早い時期の用例といえます。
[693] 昭和時代初期に元従軍兵が自伝として日本国東京府東京市で出版した従軍記録に、 当時征露が使われたとする記述があります。 >>694
[699] 著者の辺見勇彦は、当時満州で日本軍に属して戦闘に参加していたといいます。 1つ目の「征露」は軍内部での通知文書と思われる引用文に出現します。 なお本書は総ルビであり、引用文も含めて振り仮名がありますが、 原文には無かった可能性が高いでしょう。
[700]
文書は、
日時がとあり、
螞蜡廟󠄁にいた
[701]
日本軍はに中央標準時
を軍用時として標準採用しました。
[702] 螞蜡廟󠄁は、当時橋口勇馬の部隊が駐屯していたのでしょう。 後に日本領関東州の後三道湾会の行政区画となっています。 現在Google検索や Google Maps の検索では情報がほとんど出て来ないのですが、 国立国会図書館で検索すると日本統治時代の情報が出てきます。 (それらを読むか当時の地図を探せば、どこに当たるかわかるはずです。)
[703] 著者はこの文書自体についてはあまり説明していないのですが、 他の執筆内容同様、戦時日誌に記録していたことか、 あるいは現物を所持していたのかもしれません。 これが確かに当時の文面であるとすれば、 挨拶文とはいえ、当時の軍人同士の連絡文書で征露が使われた貴重な資料です。
[704] 2つ目の「征露」は軍部隊の宴の席で軍人が作って歌ったという歌について、 その日付を説明したものです。従って昭和時代に書かれた文の用例です。 あるいは当時の日誌などにそのように記録していたものかもしれませんが、 確かめようがありません。
[1127] に日本国大阪府大阪市で発行された例文集の祭文が征露から始まっていました。
[1128] 本書は「最新」の挨拶文集を謳っていて、例文はいずれも戦争関連のものです。 そして件の文例は旅順陥落に関係します。 本書全般で日付や人名は「某」のように伏せられたり、そのまま残されたりが1つの文章中にも混在していて、 汎用化のために空欄化したようでもなく、 軍事機密を隠したにしても中途半端に感じられ、よくわからない感じです。
[1129] 件の文例は本文中で旅順陥落の日を征露で表しています。 満州で軍関係者が使った文のような体裁ですが、 実際に現地から国内に伝わってきたものなのか、 そのような想定で国内で作文したのかは不明です。
[888] 明治38年正月頃に満州の日本軍陣地に滞在中の従軍僧の記録に征露があります。
[1092] に日本国東京府東京市で発行された仏教系雑誌に掲載された滿洲滞在中の従軍布教使の写真の日付が征露でした (>>890)。
[891]
雑誌冒頭に白黒の人物写真が掲載され、その左右に説明が書かれていました。
その人物が磐井宗成のようです。
磐井宗成は
「
[892] この写真と説明文がどのように制作されたのかは説明がありません。 磐井宗成が東京に軍事郵便で送付したのでしょうか。 征露の日付は本人が書いたものでしょうか、それとも東京の編集部によるのでしょうか。 撮影されたのは厳密には1月1日とは限らず、その前後に正月記念で撮影したものかもしれません。
[1096] に日本国京都府京都市で発行された仏教系雑誌に掲載された滿洲滞在中の従軍布教使の従軍日誌の新年の表現が明治と征露の併記でした (>>1095)。
[1098] それと同じ連載の後の号には、 に開催された首山堡・遼陽の戦没者追悼行事での陸軍中将の祭文が収録されており、 その本文末にも征露がありました (署名日付は明治)。 (>>1099)
[1155] に出版された日本軍歩兵第18連隊の戦記本に収録された書簡の日付が征露です。
[1158]
本書によると日本国愛知県宝飯郡形原村出身の
[1159] 本書簡は牧原源助の戦友の尾崎清太郎が牧原源助の最期の戦闘の様子を綴ったものでした。 遺族に宛てたものでしょうか。 書簡は「在戦地」書とあって、具体的にはわかりませんが、 満州の何処かでしょう。
[1160] 本書には同様の書簡がいくつも掲載されていますが、 他は明治で、征露はこの1通のみです。
[372]
令和時代初期に日本のオークションWebサイトに、
[381] 原品は劣化が進んでいると思われる上に低解像度の商品写真からは十分な内容を読み取れませんが、 本紙は満洲で従軍していた兵士らの檄文、追悼文、その他詩歌等を収録したものだったようです。 従軍兵士らの戦地での娯楽的な性質もあったのでしょうか。
[382] 各商品にはそれぞれ満洲の軍司令部所在の個人から日本下総国の個人に宛てた封筒が付属しています。 郷里の家族に現地の様子を伝えるべく毎週送付していたものでしょうか。
[383]
本紙は手書きの新聞形式で編集されていました。
発行・編集は
[384] 第13号から第20号までの範囲では、がスキップされているのを除き、 紙名の通り毎週発行されたことがわかります。 このペースで遡ると、創刊は同年の1月末か2月頃でしょうか。
[385]
創刊当時からかは不明ですが、出品された範囲では、すべて明治の元号を併記すらせず
「
[1042] 昭和時代の雑誌に日露戦争当時から伝わる書の記述があります。
[1043]
、
愛知県立医学専門学校の同窓会の明正会のイベントがありました。
明正会は明治45年7月から大正元年9月までの卒業生の親睦会でした。
ちなみにその翌年の卒業生の会は
[1044]
参加者には記念品が配布されました。記念品は明正会幹事の
[1045] 残念ながら写真などはなく、本文と署名「典」が掲載されるだけなので、 日付がどう書かれていたかは明確ではないのですが、 わざわざ「明治38年征露第2年」と併記しているからには、 原品にもそのように書かれていた可能性があります。 もしそうであるなら、征露第3軍の司令官も征露を使っていたということになります。 確証が得られないのが残念です。
[1162] 末に出版された書籍に、 満州従軍者からの書簡が多数収録されています。 明治のものが多いですが、征露のものもあります。 >>1161
[1298] に日本国東京府東京市で発行された日本軍部隊有志の文芸誌には、 征露を使ったものがいくつかあります。
[1299] 本書は日本軍の滿洲進攻部隊の従軍兵士有志の陣中文芸雑誌に収録された作品の一部を終戦後に再編集して出版したものと、 後書きで説明があります。
[339] 令和時代に日本の古書店で販売している軍事系の絵図で、 征露2年とされるものが2点確認できます。 >>337, >>338
[340] どちらも日本軍人として出征した竹内為次なる者が著者とされ、 同じ古書店が販売しているもので、 元の所蔵者が同じと推測されます。 「肉筆」絵図とされており、著者が戦場で描いた原品でしょうか。
[341] 一方の品名に「征露二年七月於満州」とあります。現物にそのように書かれているのでしょう。 他方は「征露2年」のものとされており、こちらも「征露二年」 のように書かれていると推測されます。時期は不明ですが、同じ頃でしょうか。
[343]
竹内為次がどのような人物だったかは不明です。
大正時代の日本国兵庫県姫路市の商人に
「
著者 竹内為次 解説 征露2年 砲弾絵図彩色肉筆38絵図 43x62cm
著者 出征軍人竹内為次 解説 42x63cm 肉筆彩色絵図 榴弾砲9・加能砲12・臼砲17 計38砲弾絵図
[823] 昭和時代に出版された戦場文集に、 戦場で軍人らが作った文章が収録されており、 日付を征露で書いたものがあります。 >>822
[831]
本書は日露戦争で記録係として日本軍に属した著者が戦場での文学作品を収集したもので、
[832] 当該部分はやはり記録係であり、趣味で植物を収集していた新井恒作が、 その図画をまとめたものだったようですが、本書に収録されているのは序文と草名のみです。 本書編者を含む複数人が序文をいくつも書き連ねていますが、 同じ宿舎に滞在中だったようで、みな同僚や同好の士で収集や制作に協力していたのでしょう。
[834] 他序がみな征露を使っているところ、自序だけ明治なのは不思議です。 当時の軍人軍属らの中では征露が大流行中だったのでしょうが、 著者のみ何かこだわりがあったのでしょうか。それとも偶然でしょうか。
[836] 自序が下旬、 最初の序文がです。 「下旬」がいつかは明らかではありませんが、 まず自序をしたためてから最初の序文から順番に書いてもらったと考えると、 著者が明治で書いた後、二人目が征露を使い、 以降それに倣ったとも考えられます。
[837] 陽月は、元は旧暦の10月の異称とされます。 漢詩のため「陽月初十」と中文風の表現を使ったのでしょうか。 そこまでの序文が新暦で、これが旧暦10月10日すなわちだとすると、 間が開きすぎとも思われます。 かもしれません。
[838] 仲秋は、元は旧暦の8月の異称とされます。 9月、10月と並んでここで8月ないし旧暦8月 = 9月に戻るとすると順序が乱れますが、 もしこれだけが書なら、この位置にあるのも納得できます。 その場合新暦8月でも旧暦8月でも大きな矛盾は生じません。 どちらであるかはこれだけでは不明と言わざるを得ません。
[839] 小靑堆子は滿洲の日本軍宿営地があったようです。 42.494300, 123.646000 に現在も小青堆子村があるようで、その付近でしょうか。
[1056] に日本国東京府東京市で発行された乃木希典の追悼講談本に収録された、 戦争当時の追悼会の資料に、 征露が使われていました。
[1063] 本書によると著者は日露戦争に従軍し乃木希典の指揮下にあったようです。 征露が見えるのは乃木希典の指揮する征露第三軍の招魂祭の概要を示したもので、 >>1061 はおそらく当時の資料を翻刻したものなのでしょう。 >>1059 は帰国後 (出版時?) に回顧して執筆したものと思われます。 開催の法庫門は奉天近く、 現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市法庫県付近の日本軍駐屯地と思われます。
[50] 令和時代初期の Twitterへの投稿に、郵便はがきの表面の写真がありました。 >>51 (残念ながら投稿・写真とも削除済で現存しません。)
[314]
当該葉書は軍事郵便で、
「
[315]
葉書には
「
[1020] に日本国大阪府の仏教団体が出版した書籍には、 戦地から送られてきた書状が多数収録されています。そのうちいくつかには征露が使われています。
[1021] 本書を出版した大阪婦人妙好会は、大阪の仏教系女性団体で、 日露戦争中は後方から支援する活動をしていたと思われます。 本書に収録されているのは、戦地から同会に送られてきた感謝状の類です。
[1022] 日付は明治何年と書くものや何年と年数だけのものが多いですが、 中には征露のものが混じっていたようです。
[1027] 征露第2軍司令官の奥保鞏の書状は本文が一言だけの簡単なものですが、 征露の日付の用例としては最高位の人物ではないでしょうか。
[916] に日本国東京府東京市で発行された医療系団体の機関誌に、 征露が使われた記事がいくつかあります。
[940] 号に戦地の軍部隊から受け取ったという手紙の一部が紹介されています (>>939)。
[941]
その発信者の
[942] その日付が征露であり、清国滿洲 (旧ロシア帝国領関東州) 大連付近に駐留していた日本軍後方部隊でそれが普通に用いられていたと推測されます。
[937] 号に戦地の軍部隊から受け取ったという写真の紹介があり (>>918, 現物なし)、 征露文書 (>>919) が写っていたとのことです。
[920] 記事によると、軍人および傷病者の慰問のため当団体等が寄付金を集めて用意した蓄音機を持って布教使が戦場に赴きました。 当記事はそれに対する礼状等を紹介したものです。 写真の詳細は書かれていないのですが、 おそらく征露2年云々の状、という演奏プログラムか何かが写されていたという意味なのでしょう。
[921] そうだとすると、清国滿洲奉天付近に駐留していた第12師団第11補助輸卒隊向け演奏会で 「征露第二年六月」という表記が使われていたということになります。
[934] 同じ雑誌の号には、会員の近況をまとめた欄 (ほぼ戦争関係) の日付が征露でした。 >>935 これは東京で編集者が書いたものです。
[1010] 正陽月は元々旧暦4月の異名とされますが、 ここでは新暦4月と解するのが妥当でしょう。
[38]
令和時代初期に日本のオークションWebサイトに出品された絵葉書に、
「
[40] 絵葉書は夏家堡子から日本国福島県に送付されたものでした。 >>34 夏家堡子は満鮮国境の内満洲側の村で、 現在は中華人民共和国遼寧省に属します。
[263] 送信者は出征中の日本軍人でした。 送受信者の姓が同じなので、家族に宛てたものだったのでしょう。 受信者の元で保管された後、何らかの事情で日本国内で流通しているものと推測されます。
[102] 平成時代に日本国石川県金沢市の旧家・松岡家から東京学芸大学に寄贈された文書コレクション中に、 「征露2年8月15日」 付の「状」がありました。 >>5
[103] 宛先は 「松岡清兵衛」 とされ >>5、 松岡家の第5代当主松岡清兵衛と思われます。 5代松岡清兵衛はまで当主の座にありました >>5 p.4。 受け取り地は目録に書かれていませんが (現物が葉書だとすると、そこには書かれているでしょう)。 金沢と考えるのが自然でしょう。
[104] 送り主は 「東三次郎」 とされます >>5 が、その素性や松岡家との関係はわかりません。
[105] 「両家子」 にてとありました >>5 が、 清国内満州の長春郊外の両家子という地に日露戦争時に日本軍の拠点が置かれたようですから、 その地で執筆されたものと推測できます。 内容の詳細は不明ですが、 表題に 「師団ノ予備隊ニ罷在ニ付」 とあります >>5 から、 出征中の東三次郎が満州の地から本国に連絡したものと見て良いでしょう。
[106] 時期が 「征露2年8月15日」 とされており >>5、 目録掲載時に漢数字から欧州数字に置き換えられた可能性が高いものの、 現物にそのような日付が明記されていたのでしょう。 目録は 「明治38年カ」 と断定を避けていますが >>5、 征露の私年号の通説に従いと断定して構わないでしょう。 は講和条約の交渉が開始された後で (9月にポーツマス条約に調印)、 終戦前とはいえ日本軍が南満州を安定して支配できていたと推測され、 このような書状が送付された時期として最も適切です。
[107] 以上の推測に誤りがないとすると、本史料は満州の地で従軍中の日本兵の間で 「征露」 の私年号が広まっていた可能性を示す貴重なものといえます。
資料番号 年月日 表題 作成・差出 宛所 形・数 備考 西暦 整理番号 79 征露2年8月15日 謹啓(師団ノ予備隊ニ罷在ニ付) 両家子ニテ 東三次郎 松岡清兵衛様 状1 明治38年カ 95990815 2‐2‐1
[108] この目録は資料の日付を欧州数字8桁の「西暦」で表しています >>5 が、その形式がいかなるものかの説明を欠いています。 本目録掲載の「年月日」と「西暦」から推測すると、 次のようなものです。
[123] ここで 「征露」 は他の不明年とは区別されているようですが、 どのような法則性で 9599 が割り当てられたのか定かではありません。
[177] 平成時代に日本のオークションWebサイトに出品された葉書で、 日露戦争時の軍事郵便により送付されたと思われるものがありました。 >>11, >>175
[178]
裏面に送付者によると思われる墨書で
「
[179]
裏面に同筆で「
[318] Twitter に投稿された日露戦争中と思われる葉書裏面の写真があります。 >>55
[319]
送受信者は不明ですが、
征露2年2月12日4時30分に日本国群馬県高崎市を出発し、
大陸に上陸するまでの行程が記されています。
上陸地は「○○地
[320]
末尾に
「
[332] 日本国滋賀県大津市の大津市歴史博物館に、 「征露第2年」 絵葉書が所蔵されています。 >>330
[333] 絵葉書の著者は、 日本軍人として明治37年4月に清国満洲に出発し、 明治38年12月に帰郷しました。 Webページで公開されている絵葉書は、 その間の明治38年5月に戦地から日本の兄へと宛てられたものでした。 その後平成時代まで子孫が保管していました。 >>330
[336]
葉書裏面には、
「
[189]
横浜開港資料館に寄託されている佐藤安弘家文書中に、
「
[190] この日付の行は各文字の上下位置がやや不揃いで、 1行1字縦書きから右横書きへの過渡期的形態かとも思われます。
[191] これはを表す私年号と説明されています >>15。 Webページに掲載の裏面画像には、 それを裏付ける記述は特にありません。 征露の私年号の一般的な解釈に従ったものでしょうか。 あるいは表面に消印などがあるのでしょうか。
[193] この年賀状は、 中華人民共和国奉天省新民市に出征した兵士から送られたものだとされます。 >>15 (この市は設置。当時の内満州の新民府下なのか、その郊外なのかは不明。) 表面には差出人の名前や送付地も書かれていたのでしょうか。
[192] 佐藤安弘家文書は、 日本国神奈川県下久良岐郡本牧本郷村 (現・日本国神奈川県横浜市中区) の名主家に伝わったもので、 日露戦争時に村から出征した者の手紙が多数含まれるといいます。 >>188 この年賀状もその1つでしょうか。 この年賀状の差出人が村出身の従軍者だとすると、 終戦後もそのまま大陸に駐留していた部隊に属して新年を迎えたのでしょうか。
[127] 高友三 (高会文) は、 清国の内満州に居住していた清国人でした。 >>6, >>125 高友三の書とされるものが、 日本や中華人民共和国のオークションWebサービス等に十数点確認できます。 それ以外の情報はWeb上ではほとんど発見できず、 どんな人物だったかは不明なことばかりです。
[165] 高友三の生没年は、 - とされます >>140。 その出典は不明です。 これに従うと日露戦争開戦の時点で数え30歳となります。 37歳で死去しました。
[161] 高友三の書とされるものの多く (すべてではない) には紀年があります。 それらを一覧にすると次のとおりです。
[162] オークションサイトの情報は期限が過ぎると削除されることが多く、 ここに挙げたのは本項を執筆している時点でたまたま発見できたものです (中には長期掲載されているものもあります)。 従ってこれら以外にもかつて古物市場に流通していたものや一般人が所蔵しているものが少なからず現存していると推測できます。
[163] 現在知られている紀年を整理すると、次の通りです。
[164] 日露戦争の開戦前の紀年を持つものは未だ確認されていません。 戦時下の2年間は毎月数点のペースで制作されていたと思われますが、 終戦後にまた減少しています。 これが偶然これまでに知られている書がこの時期に集中しているだけなのか (例えば「征露」の紀年が珍しいためよく保存されていたとか)、 制作理由や創作意欲と戦争が関係しているのか、 検討を要するでしょう。
[167]
これらの最初のものから最後のものまで、落款には
「
[166] 紀年には月を伴うものとそうでないものがあります。 月は12月から9月までに亘ります。 これが当時の清国人が普通に用いていた清国暦 (農暦) のものなのか、 日本が用いていたグレゴリオ暦のものなのかは定かではありません。 戦況からはどちらもあり得そうです。 (ロシア暦 (この時代はユリウス暦) の可能性は低いでしょう。)
[168] 高友三はまず日本の元号である明治を使いました。 清国人と自認していたであろう高友三が自国の正朔を奉じなかったのは、 いかなる理由によったものでしょうか。 日本側から何らかの圧力があったとも考えられますが、 その場合「征露」のような怪しげな私年号に切り替えられるものか疑問です。 それよりは書を日本人に買ってもらいやすくするためとの実利的な判断の可能性の方が高いかもしれません。 開戦前は清の元号を使っていたのか、 ロシア暦 (この時代はキリスト紀元) を使っていたのか、 気になるところです。
[169] 高友三は3月まで明治を使っていましたが、 6月から征露を使い始めました。 この時期に征露を知ったのでしょうか。 周囲の日本人はみなそれを使っていたのでしょうか。 他の清国人にもこれを使った者がいたのでしょうか。 日本人相手に商売するためとの説に従えば、 より日本人受けの良い征露を使い始めたとも思われます。 ロシア帝国を破った日本にアジア人として共感したもの >>6, >>125 との解釈もあります。 交友関係や思想的背景の記録は残っていないものでしょうか。
[170]
明治と光緒は元号名干支年表記なのに対し、
征露は元号年が表記されているのは、
興味深い点です。
元号名干支年表記はこの時代の清国 (や近世の日本)
では非常によく用いられていましたから、そのこと自体は不思議ではありません。
(明治の干支年表記は、明治改暦以後の日本では下火になっていたので、日本語文中だとやや不自然に感じられます。)
[171] 征露は3年まで確認できますが、 その翌年は清の元号である光緒に切り替わっています。 現存数が少ないためその切り替わりの時期は不明ですし、 動機も不明です。 征露の私年号が3年目には徐々に使われなくなっていたでしょうから、 時勢に従った結果でしょうか。 大日本帝国関東州の行政や日本人居住者は明治を使っていましたが、 明治ではなく光緒を採用したのは、 どのような判断によるものでしょうか。
[243] 令和時代初期に日本のオークションWebサイトに出品された書で、 晩清の書家劉聲山によるのものとされるものがありました。 >>28, >>241
[244] 劉聲山がどのような素性の人物か、Web検索では情報が全くなく不明です。 写真によると書には満洲で書いたとあり >>242、 名前から清国人の漢民族の可能性が高いでしょうか。
[246] 日本でオークションに出品されたということは、 日露戦争に出征した日本軍人または関係者が満洲で購入し本国に持ち帰り、 保管されていた可能性が高いでしょうか。
[245]
写真によると書には
「
[248] 平成時代に日本のオークションWebサイトに出品された書で、 孟昭孔によるものとされるものがありました。 >>29
[249] 孟昭孔は清国で孟子の71代子孫を称していたことが、 書自体に書かれています。 >>29
[250]
書には「
[251] オークション出品者は日露戦争の勝利がなので、 征露2年はに当たると解していました。 >>29 勝利を以て翌年改元して第2年とは面白い解釈ですが、 その根拠は何も示されていません。 どこからこの発想に至ったのでしょうか。 通説通り征露2年はと解して問題ないでしょう。
[253]
なお、
他にも孟昭孔の書とされるものがいくつか発見できますが、
「
[305] 日本国山形県上山市の上山市立図書館所蔵山田家文書中に、 「征露二年夏七月」 と書かれたものがあります。 >>47, >>303
[306] その存在は目録 >>47, >>303 により知られます。 山田家文書は電子化されて公開されていますが >>303、 個人情報のため非公開のものがあるようで、 その関係なのか本資料も表示されません >>304。 送受信者と要旨まで公開しておきながら、 いったい誰の何を守ろうとしているのか謎です。 何よりも不可思議なのは、目録によると本資料は CCライセンスで自由に利用可能とされている >>303 ことです。
[307] さて、目録によると本資料は山田恒次郎に贈られたものであり、 「早坂」の求めで「助市」が撰じたものです。 そしてその内容は清国内満洲の孟子73代の征露2年の書であるようです。 >>47, >>303 この各登場人物の関係性が目録だけでは読み取れません。
[308] 「孟子七十三代慶新録」 とある >>47, >>303 のは、 孟子の子孫の73代目を称する人物の自署でしょうか。 「孟慶新」という名または号でしょうか。 Web検索によると孟子の73代目を称する「孟慶○」型の人名が少なくても3人おり、 そのうち2人は21世紀の中華人民共和国ないし中華民国の人物で、 もう1人は日本のオークションサイトに書が出品されています。 しかしそのいずれも 「孟慶新」 またはそれに近い文字ではありません。 孟子の子孫71代目を称する孟昭孔 (>>249) との関係も不明です。
[310] 目録では本資料の作成がとされています。 その根拠は不明です。 「征露2年夏7月」以外にその日付が書かれているのでしょうか。 明治34年時点で「征露2年」を使ったとは考えにくく、 作成後に追記されたと考えられているのでしょうか。
所蔵館 資料番号 分類 分類 資料名 作成者 作成年月日 点数 単位 サイズ 記述されている主な内容 上山市立図書館 00005-118 山田家文書 山田恒次郎(藩政~資料) 為 山田大人寄書 應早坂大人求撰 助市 明治34(1901)年8月2日 1 枚 15.6×16.5×0.4 「惟有黄花晚節香」 征露二年夏七月亜聖孟子七十三代慶新録 世居奉天省鐵嶺西宋 家荒地 と記載されている。
画像 資料群名 資料番号 分類 資料名 作成者 作成年月日 西暦 点数 サイズ 記述されている主な内容 歴博・khirinへのリンク 所蔵機関 ライセンス 山田家文書 00005-118 山田恒次郎(藩政~資料) 為 山田大人寄書 應早坂大人求撰 助市 明治34年8月2日 1901 1枚 15.6 × 16.5 × 0.4 「惟有黄花晚節香」 征露二年夏七月亜聖孟子七十三代慶新録 世居奉天省鐵嶺西宋家荒地 と記載されている。 上山市立図書館 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY 画像, リンク先 4.0
[271]
令和時代初期に日本のオークションWebサイトに出品された書で、
「
[272] 落款には、清国の進士の賈杏九なる名前がありました。 >>36 Web検索では他に情報がなく、どのような人物か不明です。
[273]
満洲で清国人が日本人のために書き、
日本国内に伝わったものでしょうか。
書かれているのが「
[345] 令和時代に日本の古書店で販売されている書で、 征露2年秋のものとされるものがあります。 >>344
[346] 品名によると清国内満洲の大連で清国人が書いたものであるようです。 広瀬武夫云々とありますが、 広瀬武夫は日露戦争に従軍した日本海軍の軍人でした。 、 内満洲の旅順沿岸海上で露西亜帝国軍の攻撃により殺害されました。 死後の日本では軍神として祀られました。
[522] 令和時代に日本のオークションサイトに出典された書で、 清国中和主人なる人物によるものがありました。 >>514, >>518
[523] 清国中和主人がいかなる人物かは不明です。 満州居住の清国人でしょうか。
[524] 出品者説明文に明治38年とあります。 >>514, >>518 写真内にそれを裏付ける根拠はなく、判定の理由は不明です。 通説によったものでしょうか。
[525] 伝来の経緯はまったく不明です。「凱旋記念」とありますから、 出征日本軍人の帰国時に現地人から贈られた (または売られた) もので、 日本国内に持ち込まれ、その後古物商に流れたのでしょうか。
[572] 現代日本では「冬」は年末年始のどちらを指すか曖昧です (どちらも指し得ます) が、 旧暦では普通「冬」とは10月、11月、12月です。 書いたのが清国人ですから、 の冬を指すとみて構わないでしょう。 ただし農暦の征露2年中かもしれず、 その場合グレゴリオ暦での可能性はあります。
[568] 平成時代初期の日本国宮崎県の宮崎県総合博物館の調査によると、 日本国宮崎県宮崎市の佐藤家が所蔵していた書で、 清国奉天省昌図山河堡の杜華亭による、 「征露第三年一月元旦」 のものがありました。 >>569 No.33
[570] 現所在不明ですが、宮崎県総合博物館の所蔵でしょうか。
[571] 日露戦争後に満州から日本に、おそらく日本軍人によって持ち込まれたものでしょう。 佐藤家は絵師の家であり、佐藤家資料には絵画や書が大量に含まれていますから、 佐藤家関係者が直接入手したものか、日本国内で入手したものかはわかりません。
[79] 征露は絵葉書で利用された >>1 と紹介されています。 平成時代において最も典型的な征露の利用例の1つとして知られていたものでした。
[132] の年賀状に 「征露二年・元旦」 と書いたものがあったようです。 出典は浅羽通明の著書とされます。 >>7
[100] 平成時代後期に日本のオークションWebサービスに 「日露戦争 明治実逓便 海軍大勝利 征露2年」 と題した商品が出品されていました。 >>4
[101] 令和時代時点で既に商品情報は削除されており、 Internet Archive 等にも現存しないため詳細不明ですが、 征露の私年号を使った絵葉書の現物と推測されます。 使用済みかは不明ですが、日本本土で保管されていたものでしょう。 送り主も不明ですが、日本国内でしょうか。
私年号 | 異説 | 元年相当公年号(西暦) | 継続年数 | 典拠・備考 |
---|---|---|---|---|
征露 | - | 明治37年(1904年) | 2 | 萩野由之「征露二年」(『読史の趣味』)、栃木県小山市天翁院縁台墨書銘など |
[32] 平成時代末期か令和時代初期頃にInstagramに投稿された写真に、 第1行「謹賀新年征露二年」、 第2行「正月」 と右上から左下へ斜め書き (行書) された年賀状が写っていました。 >>31
[260]
消印に「
[261]
消印の郵便局名はやや判読し辛いですが、
「
[262] 送受信者は不明ですが、投稿者は日本人のように思われますから、 北海道居住の民間人から日本のどこかに送付され、 日本国内で保管されていた (あるいはその後流通していた) ものでしょうか。
[279] 日本国愛知県碧南市の碧南市藤井達吉現代美術館の所蔵する藤井家絵葉書資料に、 ⑲⑳㉑の3通の征露2年付絵葉書があります。 >>39
[280] 3通はいずれも絵葉書に手書きで旅順陥落を伝える短文が書き込まれたものでした。 宛先は日本三河国碧海郡棚尾村 (現在の碧南市) の藤井忠三郎で、 発信者は不明です。東京発の消印があります。 >>39
[281]
3通にそれぞれ、
⑲「
[1268] に発行された雜誌には正月に雜誌編集部が受領した年賀状の内容が紹介されています。 その中に征露を使ったものが1件あります。
[1269] この雜誌は時節柄戦時色ある記事も掲載されているものの、 戦争や軍事を主題とする雜誌ではありません。 他の年賀状にも戦時色が見られます。
[196] 日本国埼玉県比企郡嵐山町古里地区の安藤武家文書373番に、 「書簡」 として 「征露3年1月1日」 のものがあります。 >>16
[197] Webで公表されているものは目録のみで、詳細は不明です。 目録には西暦欄がありますが、 決定せず空欄にされています。 ただしとの間に排列されており、 日露戦争後の頃と推測されたことがわかります。 >>16
[198] 目録には同じ安藤武家文書で他に「年賀状」「ハガキ」と明記されたものがありますから、 これは年賀状ではないのかもしれませんが、日付から年頭の挨拶と考えて良さそうです。 目録の和暦欄は欧州数字に統一されているようですから、 原表記はこのままではなさそうです。
[199] 受取人は「安藤武家」の者なのでしょうが、差出人は不明です。 送り主の所在地が日本か大陸かも不明です。
地区 文書名 番号 枝番1 枝番2 標題 西暦 和暦 古里 安藤武家文書 373 書簡 征露3年1月1日
[223] 日本国山形県の医師黒羽根洋司が平成時代に医師会機関誌に寄稿した記事によると、 日露戦争に従軍した将校の日記に、 「明治37年(征露元年)」 とありました。 >>23
[224] 具体的にどこの誰の日記かは不明です。黒羽根洋司が直接確認したのか、 それとも書籍等からの孫引きなのかも定かではありません。 表記もどれだけ原形を留めているかは疑わしいでしょう。
[729] その日付が当時書かれたものなのか、後から書かれたものなのかも不明です。
[321] 平成時代後期の日本のオークションサイトに、 征露2年の写真とされるものが出品されていたようです。 >>56
[322] 残念ながら令和時代初期時点で既に商品情報は削除されており、 どのようなものだったかまったく不明です。 攻撃で負傷したと書かれているようですから、 従軍した日本人の写真でしょうか。 撮影日か負傷日に征露2年が書かれていたのでしょうか。 そうだとすると満洲で書かれた可能性もありますし、 日本で書かれた可能性も否定はできません。
[348] 令和時代に日本のオークションWebサイトに征露2年の従軍日誌とされるものが出品されました。 >>347
[349] 表紙に「征露二年」と書かれているようです。 期間は - とされます。 >>347
[350] ところがこの期間は通説によれば征露元年でなければなりません。 明治37年が征露2年だとすると、元年が開戦前年になり不自然です。 表紙の著者またはオークションの出品者が何か書き誤ったのでしょうか? (残念ながら表紙の写真はありません。) 「日露戦争の2年間の出征中」の意味と解せないこともないかもしれませんが、 日記に書かれている期間は1年にも満たず、不自然に思います。
[352] 令和時代に日本のオークションWebサイトに征露2年の従軍日誌とされるものが出品されました。 >>351
[354] 表紙に「征露二歳」と書かれているようです。 期間は - とされます。 >>351
[1133] に発行された従軍日記のまえがきの日付が征露です。
[1134] 本書によると著者の部隊は北鮮から満州へと進軍しました。 本文は従軍当時に書かれたもののようで、 帰国後に大阪で出版されました。 本文中に征露紀年はなく、序言でだけ使われています。 本文中には明治のほかに皇紀もあります。
[255]
日本国静岡県島田市の島田市博物館が公表している岡埜谷家古文書目録によると、
明治37、38年戦役従軍
[256] その内容は、の出征以来の履歴でした。 >>30 おそらく当地の住民であるところの岡野谷清一がこの日出征し、 頃帰郷した、または一段落した区切りまでの出来事が記録されているのでしょう。 目録は題名を25日としながら日付を24日としていますが、 いかなる理由によるものかは不明であります。 なお、題名が原表記通りかどうかは不明であり、 目録作成時に欧州数字に改められた可能性が高いと考えられます。
[257] 征露2年をに比定した根拠は目録に明記されておりませんが、 内容が前段の推測通りであれば、そこから自明に定まると思われます。
[184] 古書店に、 「征露二年」 と書き込まれた明治時代の書籍があるようです。 >>12, >>182 同一書と思われる国立国会図書館本があり >>183、 陸軍軍医によって翻訳された軍医向け医学書であることがわかります。
[185] 古書店の書籍情報は刊行としており >>182、 ちょうど開戦の年に当たりますが、 国立国会図書館本の書誌情報と序文、奥書のいずれもとしています。 古書の方は誤記でしょうか。 あるいは改版または増刷の年を拾ったものでしょうか。
[186] 征露2年に贈呈した旨が書き込まれているようですが、 戦時下で必要とする人へと贈ったものでしょうか、 それとも終戦後に不要になって処分したものでしょうか。 いずれにせよ、授受の一方または両方は従軍者とみて間違いなさそうです。
分野 番号 書名・冊数 解説 出版社・編著者 号年 価格 19 1712 柴氏軍陣外科学全・第四版 征露二年・・・贈呈蔵名書込 裸本 菊経書屋蔵版南江堂 足立寛訳・発行 松崎留吉図・彫刻 明37 5,000
[677] 平成時代の陸上自衛隊関係団体の雑誌に掲載された日露戦争直後の回顧録に、 日付を征露で書いたものがありました。 >>671
[678] 当該記事は伊佐二久が、松籟 (野村安昭) の日露戦争従軍記録を紹介するものでした。
[679] 紹介された回顧録のうち当該部分は、 行動を共にした軍馬への惜別の辞を綴ったものでした。 野村安昭が愛馬と出会ったのが征露1年9月4日でした。 野村安昭は凱旋を果たしたとのことで、 帰国後に軍を離れるに当たって書いたものでしょうか。
[680] なお月日が欧州数字によって書かれていますが、 文中の他の記述からみてこれは雑誌の編纂方針によるものの可能性が高く、 原文は当時一般的な表記である漢数字と推測されます。 なお原文は変体仮名等で判読に苦労した >>671 とのことで、手書きのみで未刊行だったと思われます。
[665] に日本国埼玉県で発行された元従軍兵の回顧録で、 帰国後 (しかし未だ戦時中) の日付を征露で書いたものがあります。 >>666
[649] に日本国三重県で発行された書籍で、 出征の日付を征露で書いたと思われるものがあります。 >>648
[653] 本書は日露戦争の後に若くして殉職した海軍軍人の遺稿をまとめたものでした。
[654] 当該部分は本書編者で故人の兄の川瀬彌城が、 危篤の知らせを受け取ってから葬儀までの経緯をまとめた部分中、 急ぎ汽車に乗り現地へ向かうところで、 過去の体験と重なり感慨にふけたものであります。 その日はでした。
[655] 「公の身」とは日露戦争に徴兵されたことを言うのでしょう。 死去した弟は日露戦争当時海軍兵学校の学生でした。 兄は特に記述がないので職業軍人ではなく、 この頃には既に郷里で日常に戻っていたのでしょう。
[656] 本項が書かれたのは、 記事中最後のから印刷のの間ということになります。
[443]
[449] 本書の出版は終戦からやや日が経っていますが、細かく記載されており、 当時の日記等の記録に基づいていると思われます。 事実関係は概ね信じて良いのではないでしょうか。 地の文で「征露元年」「二年」と書き、 隊員への訓示では「征露第二年」と書いていることが注目されます。 急な呼集の挨拶の文言がどれだけ正しく書き残されたものかは不明ながら、 戦時中は「征露第二年」と言っていたのが戦後いつのまにか 「元年」「二年」と書くのが自然になっていたとも考えられます。
[451] 本書の記述から、滿洲征露軍の職業軍人も「征露」の年号を公然と使っていたこと、 しかもそれが「征露第一年」末の時点で既に広まっていたのであろうことがわかります。
[454] また本書はほぼ総ルビなので、 (著者の指定ではなく出版段階で記述されたものかもしれませんが) 当時征露の年号がどう読まれていたのかがわかります。 自然な読み方のままで意外性はありませんが、 読み方を示した同時代の記録は案外珍しいです。
[453] 大正時代の日本で出版された日露戦争に関する書籍で、 鉄蹄夜話の該当部分が引用されていました。 >>452 その他にも鉄蹄夜話の全文が戦前期に何度か戦記集に収録されて出版されました。
[274]
令和時代初期時点で日本の古物商が販売中の
「
[275] 銘文には、日本軍の大隊が「御下賜」を記念したものとあります。 >>37 当時の「御下賜」がどのような制度だったかわかりませんが、 終戦後に戦功を讃えて帝室より賜った給付金で大隊の記念品を制作して、 構成員に配布したものと考えるのが自然でしょうか。
[276] この推測が正しいとするなら、 皇室や日本軍が組織的に正式に作らせたものではないとしても、 軍の一部組織が関与して 「征露」 の私年号が使われた興味深い事例ということになります。
[353] 令和時代に日本のオークションWebサイトに征露2年銘の盃が出品されました。 同じような品が2点ありました。 >>355, >>356
[357]
ガラスの透明な壁面に白字で
「
[460]
[461] 本書の著者は作家の大倉桃郎で、 ちょうど日露戦争の出征中に、 本書が文学賞を受賞しました。 >>459
[462] 序文は大倉桃郎の友人の作家、磯村靜によるものでした。 >>459 磯村靜は日本国内にいながら大倉桃郎の安否を気遣い、 当時流行していた「征露」を使ったようです。
[463] この序文では「明治征露第二年」という明治の元号と組み合わせた独特の表現が用いられていることが注目されます。
[492]
[493] 本書の題材は欧米の植民地統治でしたが、 日本の大陸進出と日露戦争が前提にあることは出版時期から明らかで、 「征露」の私年号もそれに整合するものです。
[806] に日本国茨城県で出版された戦史が征露を使いました。
[479]
本書はに出版された書籍 >>469 の再版と称していました。
初版は旅順陥落にて終わっており、再版の実質は全面改訂版でした。
初版には征露の私年号は見当たりませんが、
「
[440]
大正時代に日本国岐阜縣で発行された地元の名士池之端総助の伝記に収録された当人の随筆
[441] 本稿が生前どのような形で公表されたものか (されていないのか) 不明です。 本稿にはからの旅程が記されており、 それからあまり日が経たないうちに書かれたものでしょう。
[442] 行程中、殉職軍人の慰霊祭に参列したり、 戊辰戦争の旧跡を通過したりはしていますが、 特別に日露戦争に関係の深い活動をしていた形跡はありません。 本書によると日露戦争に関係して物資を寄贈したり、 その功を表彰されたりしていますが、 当時の地方の有力者としては一般的なこととも思われます。 本稿で「征露」の表記を使ったのは軍や戦争との個人的なつながりを反映したものというよりは、 当時の社会の一般的な雰囲気を反映したものとみるべきでしょう。
[389] に発行された、 日本国香川県善通寺町 (現在の善通寺市) に日露戦争期に設置された大日本帝国陸軍善通寺予備病院第二分院の記録である 緑の雫 には、 征露が使われました。 >>386
[710] 奥付や本文中その他の日付は、明治の元号が使われていました。
[390] 序文はともかく本文中1箇所だけ征露で書かれている理由ははっきりしませんが、 記述対象の分院の記念すべき起工の日ゆえに、敢えて書いたのでしょうか。 遡っての記述であり、当時「征露」が使われたかどうかはわかりません。
[596] に発行された陸軍関連団体偕行社の機関誌掲載記事に、 戦時中の日付を征露で書いた箇所がありました。
[410] に大日本帝国陸軍後備歩兵第三十二聯隊第一大隊本部の名義で非売品として発行された記録書 (著者は同大隊第1中隊長の神保文治大尉) に、 征露が使われました。
[414] 本書の他の箇所、特に公文書の引用などはすべて明治の元号を用いていました。 >>411 はともかく >>413 は征露を使う必然性は感じられず、 いうなればそう書きたかったから書いたというところでしょうか。
[415] 軍組織の公式な報告書というよりは従軍者の記念品的な位置付けで執筆されたもののように思われますが、 日本軍部隊を発行元と明記した出版物での「征露」の用例として注目されます。
[576] 昭和時代の農地改革後にまとめられた日本国山形県の旧地主本間家文書によると、 「征露第一年分」 という資料が2組ありました。 >>575
[577]
いずれも従軍した小作人への支援に関するもので、
一方は「
[578] まだ紀年法感の薄い表現ですが、早い時期の用例として注目されます。 ただこの資料集にはその後の用例が見つからず、 このような用法から直接的に征露の紀年法が発達したとはいえないようです。
[990] 当決議はに学士会で開催された学会で採択されたものでした。 当時の東京の学士会の施設で、あるいは学士会の会合内で開催されたものでしょうか。 時節柄、本号の内容は (日露戦争に直接関係しないとしても) 戦争に関係する記事が多く、 学会も同様の雰囲気だったことでしょう。
[1214] この記事は織物業界の雑誌の巻頭の年始挨拶文です。 日露戦争に直接的に関係した雑誌ではないとはいえ、 時節柄戦時色ある記事が多く、年始の挨拶文もなかなか勇ましい感じになっており、 その文脈で征露が使われています。
[1078] 当雑誌は海運業界の業界団体機関誌で、時節柄業界柄、戦時色の強い内容でした。 当記事は誌面冒頭の年頭挨拶で、 記名はありませんが編集長なり協会長なりによるものなのでしょうか。 新年の情勢と見通しを業界に訓示した内容となっていますが、 やはり戦時色が濃いものでした。
[973] に日本国大阪府大阪市で発行された雑誌で征露が使われました。
[977] 1つ目の用例 (>>975) は大阪毎日新聞 (現在の毎日新聞) の宣伝記事にあります。 この広告は大黒天と恵比寿天の対話形式で、 恵比寿天が新年の挨拶で征露を使ったものです。 2人の会話によると大阪毎日新聞は日露戦争の報道に優れていること、 他紙の追随を許さず (当時激しく競合していた) 大阪朝日新聞 (現在の朝日新聞) が泡を吹いて倒れるほどでした。 大阪毎日新聞は出征者向け送付サービスも実施していて、 (日本国内の家族等が申し込んで支払いをすれば) 戦地にまで同紙を届けてくれるのだそうです。 >>972 /41
[980] 2つ目の用例は巻末にあって、本誌の編集者一同からの新年の挨拶文でした。 新年と戦勝を祝していました。
[981] 本誌発行元の毎日繁昌社は、現在ウェブ検索しても情報がほとんどありませんが、 当時の大阪毎日新聞の住所と地番がほぼ同じで、 本誌中にも大阪毎日新聞に関係する記事が多く、 関連会社と思われます。
[982] 当時の新聞各社は競って日露戦争の戦況を報じていましたが、 大阪毎日新聞は本誌記事にもあるように特に積極的で、 速報性を誇っていたようです。しかも国内の読者獲得競争では飽き足らず、 戦地への配達に力を入れ、 愛国心と出征した親類を想う気持ちを金に変えようとしていたことがわかります。
[983] 神仏の類に征露を使わせしめた例は大変珍しいものです。
[1207] に日本国東京府で発行された経済の雑誌に征露があります。
[1208] 雑誌中の2つの記事に征露があります。どちらも明治と併用して説明的な言い換えの形になっています。 特に一方は「征露戦の第二年たる」と説明性が強い、元号みの薄い表現となっていることが注目されます。 同じ雑誌の別記事で異なる表現が用いられていることは、 紀年法としての成熟度の低さと捉えることもできますし、 「私年号」の征露を自然に受け入れるに至った当時の人達の意識が表れているともいえるでしょう。
[1209] この雑誌は経済を主題としており、 戦闘という意味での戦争に特段関係した構成ではありませんが、 時節柄自然と戦時経済を特集した内容となっています。 両記事ともそのような文脈で戦争に言及すべく明治と征露が併記されています。
[1215] https://dl.ndl.go.jp/pid/1588381/1/18 (非公開)
実業世界太平洋 4(2)
雑誌
(博文館, 1905-01)
18 コマ: みすること二十有九、征露第二年、旅順陷落に先つ〓と一日、茲に首尾能く全線の營業を開始するに
[1216] https://dl.ndl.go.jp/pid/6040500/1/43 (非公開)
教育研究 (11)
雑誌
初等教育研究会 編 (初等教育研究会, 1905-02)
43 コマ: は、全く是を略して、征露第二年の新春に入つてからの狀況を少しく紹介して見やうならば、一月元
[1240] https://dl.ndl.go.jp/pid/1560095/1/61 (非公開)
軍国画報 第2年(1)(25)
雑誌
(富山房, 1905-01)
61 コマ: 喜あれ。な玆に謹みて征露第二年の光輝ある新年をこゝ帮助皇室の尊榮とを祝しくわうしつ (AD
[647] , https://dl.ndl.go.jp/pid/1560097 (非公開)
軍国画報 第2年(3)(27)
雑誌
(富山房, 1905-02)
56: ラストタイムおはご놈征露第一年の最後は終れり。吾人は卅 RT ゞじひがしはうたいぜんわさくげふ一
4: 千萬の同胞玆に謹みて征露第二年紀元の佳節を迎へんとす、欣躍何ぞ堪へんや。顧みれば吾
57: んこゝろひそ明くれば征露第二年春王一月元旦、清水心窃しほうじしんううひます〓〓かに邦家の進運日に益々に隆に、至そんへいかまうじ
[1241] https://dl.ndl.go.jp/pid/1574797/1/65 (非公開)
日露戦争写真画報 臨時增刊(18)(60)
雑誌
博文館 [編] (博文館, 1905-03)
65 コマ: 溪上飯。夢裏喫香來。征露第二年一月一日夜。在門司大佐旅團司令部。會旅順降伏之報至。全營拍手歡
[1244] https://dl.ndl.go.jp/pid/1574801/1/68 (非公開)
日露戦争写真画報 (22)
雑誌
博文館 [編] (博文館, 1905-05)
68 コマ: 野を行くが如く、せぬ征露第二年二月廿有八日戎馬に拍車を吳れて、しましてや、河の諸戰を經て、とんおいら海路恙なく柳樹屯に上陸し、
[1245] https://dl.ndl.go.jp/pid/1592456/1/82 (非公開)
日露戦争実記 (70)
雑誌
博文館 [編] (博文館, 1905-05)
82 コマ: 45ぼろ月露人城週雜征露第二年誠心を腕こむる少女の腕かな同四月二十四日刋佳句(呈景品)英雄の片腕長し弓始め同雅量第十三號漫錄田
[1246] https://dl.ndl.go.jp/pid/1592457/1/77 (非公開)
日露戦争実記 (72)
雑誌
博文館 [編] (博文館, 1905-05)
77 コマ: 今じや墓塲で花ざかり征露第二年五月一日發行勇士の、恨みを呑んで鬼客となつた雅量臨時增刊第
[1247] https://dl.ndl.go.jp/pid/1592461/1/78 (非公開)
日露戦争実記 (81)
雑誌
博文館 [編] (博文館, 1905-07)
78 コマ: との野中を此炎萬字亭征露第二年四月廿日發行夫は生△堇の舍撰發行者子佛主完からざるが爲めな
[1242] https://dl.ndl.go.jp/pid/1566927/1/74 (非公開)
征露戦報 2(12)
雑誌
(実業之日本社, 1905-03)
74 コマ: 鐵道紀行唱句(承前)征露第二年一月二十五日旅順鐵道開通の翌日作陸軍一等軍醫牧野康治未定稿쪼か
[1243] https://dl.ndl.go.jp/pid/1592452/1/65 (非公開)
日露戦争実記 (63)
雑誌
博文館 [編] (博文館, 1905-04)
65 コマ: なん治三十七年を送り征露第二年を迎ふること、ほんぷんつくゆうめんもくしだこのしんねん何とな
[265]
令和時代初期に日本のオークションWebサイトに出品された
「
[266] 表紙及び本文によると、 本書は日本国上伊那郡伊那町 (現在の伊那市) から出征しロシア軍により殺害された軍人への弔辞集で、 伊那町長はじめ地域の代表者らが故人を偲び勲功を讃えたものでした。 >>264
[269] 本書所収の弔辞はいずれも付です。 葬儀の場で読み上げられた原稿を集めたものの写しが本書なのでしょう。 なお本書所収の弔辞のいずれも日付は明治年でのみ書いており、 戦争名を「征露ノ役」と呼んでいる1箇所を除き、 「征露」は出てきません。 >>264
[270] 故人は内満洲でに戦死した後、 しばらくその地に遺体が保管されていたのでしょう。 その後翌年3月かそのしばらく前、 戦闘が落ち着いた頃になって、 日本本土の故郷に搬送されたのでしょう。 3月に葬儀が実施され、 その前後に弔辞集がまとめられたと考えられます。 写本が作られたのも、 それと同じか、そう遠くない時期と考えて良いのではないでしょうか。 表紙の文章は、その内容と構成を考えると、 写本が原本をそのまま写したとみなすのが自然です。 「征露」年を使ったのは葬儀に関わった伊那町の一般の人 (もしかすると公務員) でしょうか。
[1012] 明治38年に日本国東京府東京市で発行された祝辞弔辞等例文集に征露を使ったものがありました。
[1016] 本書は日露戦争に関係する送別、祝賀、追悼などの挨拶文をまとめたものでした。 いろいろな人がいろいろな場面で書いた文章が集められているのですが、 年まで書いたもののほとんどは明治を使っています。 (征露を使っていないものばかりなのは興味深いです。)
[1017] 用例の1つ目 (>>1014) は編者による自序の日付です。
[1018]
用例の2つ目 (>>1015) は編者による大山巌に向けた文章の日付です。
大山巌は陸軍のトップでした。海軍の東郷平八郎に向けた文章もありましたが、
そちらはなぜか「
[1037] その翌月の歌集にも序文に征露があります。編者は同じ人物です。 こちらの歌集は後半は一般的なものですが、前半に日露戦争関連のものも収録されています。
[1139] に日本国東京府東京市で発行された俳句集に、 征露年が入ったものがありました。
[1140] 「梅咲く」とあることから、梅の季節に詠まれたものとわかります。 「将軍」とはいずれかの会戦を率いた日本軍の将軍のことなのでしょう。 序文によると本書収録の俳句は明治38年4月までに新聞、雑誌などに掲載されたものとのことです。
[621]
明治38年の
[1049] 明治38年度の日本国東京府東京市の明治大学商学部の講義録は、 明治38年度に定期発行されたものをまとめた書籍のようですが、 軍費について征露を使った箇所があります。
[1055] 4月始まりの年度に征露を使った (ことが >>1053 の文脈からも確かめられる) 貴重な用例です。
[1303] に日本国東京府東京市で発行された教育系雑誌の随筆記事で、 港からの出征風景の記述に征露を使ったものがありました (>>951)。
[1305] に発行された登山系雜誌掲載の記事では、 学校教員が生徒を率いて登山する前にの日本海海戦戦勝記念式が (学校で?) 開催されたことに言及があり、 征露が使われています (>>1304)。 それを除けば戦争とは特に関係しない記事です。
[658] に発行された(旧制)中学生向け雑誌の記事に、 日露戦争への出征の日を征露で書いたものがありました (>>660)。 この雑誌は読者から投稿された記事で構成されていたようです。 本記事は岡山在住の中学生の執筆のようです。 記事によると筆者の兄は征露1年11月に出征しましたが、 戦地で負傷し、本国に帰還して入院していました。 しかし終戦翌年、おそらく雑誌発行のからそう遠くない時期に、 治療の甲斐なく死去しました。 その無念を綴った本稿において出征時期が征露で書かれました。
[848] 昭和時代に日本国岡山県で発行された鉄軒 (大塚香) の漢詩集に、序文で征露を使ったものがありました。
[850] 本書収録漢文の著者の大塚香は岡山の名士でした。 当該序文によると、旧藩主が出征することとなり、 に送別会があったようです。 その日付が征露で書き表されているのです。 明記はされていませんが、その日ないしその直後が当該序文の書かれた日なのでしょう。
[395]
... とありました。
[403] 本文中他の箇所は明治の元号で書かれており、この3箇所5例だけ征露で書いた理由は定かではありません。 3例目 (>>402) などはわざわざ明治から征露に言い換えており、 戦時体制が続いて2年目に入ったゆえに云々と説明する意図があるようですが、 「三十七八年戦役」をテーマにした本書をここまで読み進めてきて、 38年度がこうなったのは戦争の2年目だから、とわざわざ説明されるのも冗長感がないでもありません。 とはいえ第1例も第2例も、 単に年を特定するだけでなく、 戦争の第1年目、第2年目と説明する意図が含まれているようには思われます。
[417]
[418] 本書を発行した木更津町奉公義会は、本書によれば在郷軍人と有志で構成された会でした。 事務局は木更津町役場に設置されていました。 >>416 町の組織の一部ではないものの、公的な性質を持った団体のようです。
[419] 本書には木更津町から出征した軍人らから木更津町奉公義会長に宛てられた文書が収録されています。 それらの日付は、年のないもの、明治何年と書いたもの、 明治の年数だけを書いたものの他に、 次のものがありました。
[425]
に木更津町で開催された
[95] 平成時代後期時点で台湾向けオークション Webサービスに 「日本 明治38年 征露2年(俄國)1905年 出兵軍人 餞別連名簿」 なるものが出品されていました。 >>2
[96] 現物に「征露」年が書かれていたと推測されますが、 Webページ掲載写真では皇紀の記載しか確認できませんでした。 >>3
[97] このWebページは令和時代時点で既に消滅してしまっており、 Internet Archive 等にも保存されていません。 ウェブ検索でも類似するものは発見できず、 どのようなものかわからなくなってしまいました。
[98] 台湾のオークションに出品されたということは、 大日本帝国台湾から出兵した軍人、 あるいは終戦後日本統治時代中に台湾に移動した(元)軍人が台湾に残したものでしょうか。
[208] 日本国山形県山形市錦町の神明神社に、 1対2匹の狛犬があります。 その台座に、 征露の紀年がありました。 >>19, >>20
[209] 平成時代のある Webサイトによればその銘文は 「征露元年(1904) 撥(?)月」 () >>19、 別のWebサイトによれば 「征露元年極月」 () >>20 でした。
[210] 残念ながら Web 上には台座の写真が見つからず、 どちらが正しいかは不明です。
[211]
一方のサイトはこれを「偽年号」としています >>19 が、
この用語法に特別なこだわりはなさそうに読めます。
たまたま参照した資料がそう呼んでいただけで、
私年号の意味で使ったのでしょう。
[212] 他方のサイトは「大国ロシアに勝利した日露戦争の1904年」 >>20 と解釈していました。 は開戦の年で、 戦況からみてもまだ勝利したとはいえない状況でありました。 その年の12月に「勝利した」ことに因みようがありませんし、 半年以上遡った日付を刻んだとも考えにくいものです。 これもまた、たまたま参照した資料が 「征露は戦勝を記念したもの」 とでも解説していて、それを信じてしまったのでしょう。
[297]
日本国香川県高松市の若一王子神社門柱銘に、
「
[298] 明治の元号年を伴わずに単独で年表示に供しており、 確固たる紀年法として確立していると評し得る一方で、 敢えて「第」や「之」を挿入している点、 通常の表記とは一線が画されているともいえます。
[316] なお、これを紹介した Webサイトや Twitter への投稿が、意識してかせずか「征露二年」「征露2年」と「第」を抜いて引用している >>43, >>54 のも興味深い事例といえます。
[232] 日本国熊本県球磨郡山江村の村立の山江村歴史民俗資料館に、 征露私年号の 「記念灯」 が5基所蔵されています。 >>27
[233] 末か初の頃に、 前川清一が発見しました。 >>27 (それ以前から所蔵されていたと思われます。) 、 前川清一は地域史論文誌で報告しました >>236。
[238] 資料館職員のブログ記事に、
そのうち2基が写った写真と、
1基の銘文が紹介されています。
>>27
記事本文によると銘文は「征路戦二年 旧十月三日」ですが、
写真左側の銘文は「
[240]
写真右側の銘文は、施主が違いますが、
やはり
「
[239] 「征路戦」は誤記の可能性が高いですが、 前川清一の論文題名に 「征露戦」 とあるので >>236、 5基の残りの3基のいくつかは 「征露戦」 なのかもしれません。
[283] 日本国千葉県市川市の春日神社境内社天神社の石祠に、 「明治三十八年二月征露二年」 の銘があるようです。 >>282, >>41
[285] 銘文の出典は市川市の出版物とされています。 >>282, >>41 市川市の Webサイトによると、 平成26年2月に発行された 「市川市史編さん民俗部会成果報告書2 『市川のくらしと伝承1』」 に
鈴木志乃「国府台・道明寺飛地天満宮のおこもりに関する調査報告」
金子祥之「神社明細帳にみる市川市内の神社」
... が収録されており >>284、このいずれかに書かれているのでしょうか。
[299] 日本国東京都八王子市の甲の原にある甲神社の扁󠄀額に、 「征露二年」 とあるようです。 地域の地誌案内書に記載があります。 >>46 (書名・時期不明ですが、昭和時代後期から平成時代初期でしょうか?)
[301]
令和時代初期のブログ記事に現地の写真があります >>300 が、
当該扁󠄀額は見当たりません。
「
[302] 銘文に括弧書きで明治年の併記があります >>46。 は日清戦争の第2年で、 10年のずれがあります。 本書掲載の他の遺物の銘文には括弧書きで西暦年が示されているものがあります。 括弧書きは本書の著者による注釈で、 その際換算を誤ったものと考えるべきでしょう。
[317] どの神社かは記載なく不明。 Twitter における投稿者プロフィールの地域は日本国新潟県。 著者の他の投稿も新潟県関係のものが多い。 ただし他の地域の神社への言及もある。
[328]
日本国山口県美祢郡の堅田地域の壬生神社の絵馬
俳諧額
に、
「征露二年晩夏」
とあります。
>>75, >>602
[603]
これを収録した山口県当局の書籍では、
[287] 日本国青森県下北郡東通村尻労に、 鮪の大漁を記念した八竜神碑があります。 >>286
[288] 碑文によると、 明治35年に大漁が続き、 に1万本に達しました。 >>42, >>44 「征露ノ大軍」の連戦連勝の折、 これらを記念して碑が建立されました。 >>44
[290] 青森県の地方独立行政法人のWebページ掲載の碑文には、 「征露二年五月(明治四十年)」 とあります。 >>44 括弧内が原碑文の一部なのか、Webページの著者 (または引用元の著者) による注釈なのか定かではありません。
[289] 日本国北海道渡島国茅部郡南茅部町 (現在の函館市) の南茅部町史は、 「征露二年というから明治三八年」 としていました。 >>42
[291] 「征露二年」の解釈が異なることからすれば、碑文には「征露二年」 とだけ書かれていると推測されます。
[292] 明治38年にせよ明治40年にせよ明治35年から日が経ちすぎてはいるのですが、 日露戦争に連戦連勝したと書き、 露西亜帝国に対し勝利したとは書いていない点は、 通説に従いと解する方がより相応しいと感じられます。 2年ずれの明治40年説の根拠は不明です。
[819] に日本国東京府東京市で発行された戦場写真集の解説で征露が使われました。
[820] 本書は戦地の写真に日本語、英文、漢文の解説をそれぞれ付したものです。 3言語文は大意において同じようですが、表現は違いが多いです。 日本語文には明治の元号を使っている所もありますが、 ここに挙げたように征露を使っている所もあります。 英文はロシアの事情を書いたところで西暦年を使うだけです。 漢文は明治の元号を使っているところがあります。
[821] 本書収録の写真は当然現地から送付されたものでしょうが、 解説文がどのような方法で執筆されたのかはわかりません。 現地からの情報に基づくのでしょうが、東京で編集したものでしょうか。 これらの征露の日付も東京で書かれたものでしょうか。
[713] に日本国東京府東京市で発行された戦記は、 年末年始を征露と書いていました。 >>714
[718] 本書は日露戦争が未だ終結していない中、旅順陥落を描いたものでした。 年末年始は、征露の何年、明治の何年とわざわざ言い直す形で、 それでも敢えて征露を使って表記していました。
[719] そのうち1箇所は「我が明治」と表現しています。我がとは「我が国の」 つまり「日本の」という意味で、近代日本ではよく見られる用法です。 ここでは「日本の元号である明治」という程度の意味ですが、 普通は他国の元号や西暦などの紀年法と対比するために使うものです。 征露何年の言い直しにこの言い方が使われるのは興味深いです。
[1148] 同じ著者のの戦記にも1箇所征露がでてきます。 ここでも明治と併記しています。
[1222] に発行された雜誌で当時大韓帝国に滞在した人達が征露を使った例がいくつかあります。
[1223] に発行された旧制中学生向け文芸雑誌の記事に征露があります (>>1221)。 日露戦争終結の翌年の発行ではありますが、 未だ戦争関係の文章がいくつか掲載されているうちの1つです。 この記事は大韓帝国に出兵した軍人の回顧文です。
[1224] この記事では終戦して帰国したことを、暦年の終わりでないにも関わらず、 「征露第二年」の終わりと表現しています。
[1310] に発行された少年誌の記事に征露があります (>>1309)。 従軍記者の宮本芳之助が大韓帝国に上陸して戦地へ向かった時を回想しています。
[907] に日本国東京府東京市で発行された日本国群馬県佐位郡伊勢崎町の地誌中、 輸出組合の項目で征露が使われました。
[911] 本書は序文によると中の発行を目指していましたが、 事情により一旦中断し、その後に刊行されました。
[912] 本項の「征露第二年」「戦勝第一年」がいつを指すのか明記されていませんが、 征露2年は通説の通りを指すと考えていいでしょう。 戦勝第1年をそれと分けて書いているので、 のかのことと解することもできますが、 終戦をもって征露2年から戦勝第1年に移行したとみてのからの間と解する方が自然でしょうか。
[913] いずれにしても、「征露」時代が終わったとの認識を持つ人がいたことを示す興味深い用例です。
[914] 征露2年の設立企図より前に役員らが満韓視察に行っていたということですが、 朝鮮半島や南満州の戦況が落ち着いた頃に当地の商工業者が日本軍占領地区の調査に行く機会があったのでしょう。 そして終戦後に製品を輸出するため組合が設立され、 そのような経緯である故にこれを日露戦争にちなんだ紀年で記述したものと思われます。
[580]
[585] 普通に明治の元号で表記されている箇所や、 明治の年数のみの表記の箇所も多く、 どのような書き分けかは不明です。 頁が明らかに偏っているので、編集分担や原資料の関係かもしれません。
[747] に日本国東京府東京市で発行された日露戦争逸話集に、 征露を使った箇所がありました。
[748] 1つ目は戦時中の時期の説明を征露によったものです。 なぜここだけ征露なのかは不明です。
[749] 2つ目は満州で戦士した軍人の生前の書状にあったという文言で、 第1年は明治で、第2年は征露で書いていました。 なぜこのように書き分けたのかは定かではありませんが、興味深い用例です。 ただ出典や情報源も書かれておらず、 細部まで史実そのまななのかは不明です。
[750] 発信は書き方からして明治37年の年末なのでしょうが、詳しくは不明です。
[489]
[490] 「周年」と書いていますが、開戦は2月8日で発行日のほうが10日ほど早いので、 開戦日からの3周年の意味なのか元年から数えて第3年の意味なのか不明瞭です。
[471]
[465]
[684] に日本国東京府東京市で発行された戦記物語は、 日露戦争の年末の場面で征露を使いました。 >>683
[688] 他では明治が使われ、直後の新年すら征露2年ではなく明治38年と述べられていました。
[756] に日本国東京府東京市で発行された仏教系逸話集の日露戦争エピソードで征露が使われました。
[500]
に日本国で出版された歴史読物
[483]
大正時代に出版された日露戦争に従軍した軍馬をテーマにした読み物に、
「
[486] 昭和時代初期の教師用資料集にも引用されました。 >>487, >>485
[1248] https://dl.ndl.go.jp/pid/1226672/1/305 (非公開) https://dl.ndl.go.jp/pid/1884291/1/305 (非公開)
明治大正文学全集 第27卷
図書
春陽堂 編 春陽堂, 昭和2
305 コマ: た樣子もなく、今年は征露第二年目だから三大方熊の畫だらう抔と氣の知れぬことをいつて澄まして
[436]
[437] 本書発行時点で日露戦争後約30年が経過していました。 本書を発行した深川区殊勲会は、 日露戦争等への地元の従軍者の顕彰を目的にに設立されました >>433 p.41。 に北支事変が勃発し、 戦時色が日増しに強くなっていった時期でした。
[438] 本書は当時の資料や経験者の記憶により執筆されたと推測されますが、 該部分を誰がどのように記述したのかは不明です。 「征露第二年」も当時の記憶から引き出してきたフレーズだったのでしょうか。
[1249] https://dl.ndl.go.jp/pid/2987552/1/68 (非公開)
日本の百年 第7
図書
鶴見俊輔 等著 筑摩書房, 1962
68 コマ: 闘を重ねて第三軍は、征露第二年正月元日、遂に旅順要塞を陥れた。いまより天皇陛下の万歳を三唱する』と唱えて、寒き天地が壊れるばか
[1251] https://dl.ndl.go.jp/pid/3013844/1/17 (非公開)
文禄・慶長の役 (塙選書 ; 31)
図書
石原道博 著 塙書房, 1963
17 コマ: でこの小冊子を呈す。征露第二年の春」とあり、緒言は史学会長重野安繹博士、朝鮮役については
[1250] https://dl.ndl.go.jp/pid/3447563/1/222 (非公開)
対支回顧録 下巻 (明治百年史叢書)
図書
東亜同文会 編 原書房, 昭和43
222 コマ: 華。昨日踏靑今日花。征露第二年十月十九日初雪萬里長征揚聖威。沙場百戰未言歸。家山正見黃花節。塞上秋塞雪已飛。明治三十八年一月三
[1252] https://dl.ndl.go.jp/pid/1674228/1/189 (非公開)
明治文学全集 93
図書
筑摩書房, 1969
189 コマ: に幸あらしめ玉へ明治征露第二年三月大倉君の友磯村靜識第囘今日は睦じげに從者なしに、神武
[1253] https://dl.ndl.go.jp/pid/3198347/1/206 (非公開)
文芸春秋 52(6)
雑誌
(文芸春秋, 1974-05)
206 コマ: ど近津の森に心留めよ征露第二年四月不自棄生春雨はいたくなふりそ旅人の道ゆきころもぬれもこそす
[1254] https://dl.ndl.go.jp/pid/3078756/1/162 (非公開)
征韓論政変 : 明治六年の権力闘争
博士論文
姜範錫 [著] (1991)
162 コマ: 物が「明治三十又八、征露第二年五月竜潜馬睡窟に於て」つぎの序文をしたためている。「長沼君は岩手県の土、当時内閣書記官(太政
[1255] https://dl.ndl.go.jp/pid/11293983 (非公開)
明治俳句言説史の研究 : 子規・虚子・碧梧桐を中心に
博士論文
田部, 知季 (田部, 知季, 2019)
[1111] に日本国新潟県新潟市で発行された医学団体機関誌の編集後記に征露が使われました。 団体の創立からの年数と並べて書かれていました。
[967] に日本国大阪府大阪市で発行された金融業界紙の記事に征露が使われました。
[971] 当紙は大阪で発行されたものでしたが、 当記事は東京からに送られたものでした。 当記事は年頭に当たっての見通しを書いたもので、 直接は戦争と関係しない内容でした。
[1144] に日本国東京府東京市で発行された法律の解説書の序文は、 「明治征露」と書いています。
[1152] に日本国東京府東京市で発行された自己啓発本の序文の日付が征露でした。
[1153] 本書は時節柄日露戦争を引き合いに出して新時代が云々と語っています。 戦争それ自体に直接的に関係する内容ではありません。
[1115] に日本国東京府で発行された言語学の本の序文の日付が征露でした。
[1116] 年と月の間に助詞「の」が入っていて、 紀年法としての未成熟を感じさせます。
[961] に日本国大阪府で発行された英会話辞典の改訂版序文の日付が征露でした。
[964] 本書には初版以来の各版序文や推薦の辞などが収録されています。 第五版以外の和文は明治を使っており、 英文 (米国人の推薦状など) は西暦を使っています。 和文でも、第五版序文等に記述された著者の洋行に関する日付は、 西暦年で書かれています。
[965] 本書第五版は大阪での印刷出版とありますから、 第五版序文の浜寺とは現在の日本国大阪府堺市浜寺と思われます。 本文、第五版序文とも戦争とは関係なく、 第五版序文だけ征露を使うのは当時の社会情勢を反映したものと考えられます。
[762] 昭和時代に発行された詩集に収録された明治時代の詩が、 征露1年のものとされています。 >>763
[766] 沢村胡夷 (沢村専太郎) は、京都帝国大学の東洋美術史研究者でしたが、詩人としても有名です。 日露戦争当時は第三高等学校 (現在の京都大学) の生徒でした。
[767] 本件2編の詩は明治37年に排列されています。 共にの 校友会雑誌 第2巻第1号に 慰安 として掲載されたものでした。 校友会雑誌は沢村胡夷の母校である滋賀県立第一中学 (現在の滋賀県立彦根東高等学校) の生徒団体の機関誌で、在学中から関与し卒業後も寄稿していました。 >>763 /14, >>65
[768] 両詩は (少なくても表面的には) 戦争とは無関係の内容です。
[769] 「征露紀元」の紀年がいつ誰によって付けられたものかは不明です。 ただ詩集の編者がこのように書く理由も考えにくいですから、 校友会雑誌 ないし沢村胡夷が残した原稿にこれに近い表記があったとするのが自然です。
[770] 明治37年の4月から9月の間に書かれたものだとすると、早い時期の征露の用例となります。
[586]
[589] 当記事は特に戦争をテーマとしたわけではなさそうな日常(?)を書いたものですが、 半分弱が戦地から伝わった戦況の描写に割かれていて、 日付を征露としたのも当時のそのような空気感を反映しているのでしょう。
[431]
[432] 序文の日付は。 征露の用例のうち最初期に当たります。 その時点で既に日本各地に広まっていたのでしょうか。 それとも島根県は発生地に近かったのでしょうか。
[900] に発行された海運業界紙の船舶業者の広告の日付が征露でした。
[1069] その他新年の挨拶に、特に軍事色が強くない内容でも、日付を征露とした例があります。
[1073] >>1072 の挨拶文は時候の挨拶程度に戦争に触れている。
[853] に発行された日本国東京府東京市の國學院 (現在の國學院大學) の機関誌に征露を使った記事がありました。
[858] 丸山正彦は国学者で、 國學院の明治38年紀元節拝賀式で國學院講師総代として朗読したのが 1つ目の記事 (>>854) でした。 >>852 /37 本文は時勢柄日露戦争に触れた分量も多く、 そのため明治や皇紀に加えて征露も使ったのでしょう。 3種類使い分けているのは、反復を避ける意図もあったのでしょう。 なお丸山正彦はこれ以前に陸軍中央幼年学校の教員も務めていましたが、 この当時は不明です。
[861] 2つ目の記事 (>>859) は面白いエピソードです。
[876] 著者らは「征露2年」には若干冷めた目で眺めていたようですが (批判というほどではなさそう)、 そんなところで白雉ならぬ茶雉が出現する珍事、 世が世ならこれこそ改元されるべきだというのです。
[877] 結局どこからやってきたのか謎のままの雉は、 現在の上野動物園に納められましたが、 その後どうなったのかは不明です。 動物園側の記録には残っているのでしょうか。 動物園館長は白雉元年の故事を知らないか気づかなくて官僚的な返しをしてしまうのですが、 著者も同僚に言われるまで気づかなかったようですから、 当時の知識人でも専門でなければそんなものなのでしょう。
[879] 日本書紀の孝徳天皇白雉元年二月庚午朔戊寅条に、 正月九日に白雉が出現したとして献上された旨の記録があります。 それを承けて2月甲申に大化から白雉へと改元されたのです。 >>878 旧暦と新暦で季節はすこしずれていますが (旧暦白雉元年1月9日はグレゴリオ暦2月18日)、 それにしても不思議な偶然はあるものです。
[880] なお「茶雉元年」は国立国会図書館, Google Books, Google ウェブ検索のいずれでも本記事以外に見当たらず、 さすがにこれを実用することはなかったようです。
[1315] 春頃に出版された書籍で征露を使った事例があります。
[1316] に出版された名文集は、 時事ネタや季節ネタなどいろいろな文章を収録したものでしたが、 そのうちの1つは旅順陥落を日本国内で知ったらしい者の文で、 征露が使われていました (>>1314)。
[954] 昭和時代の雑誌記事に、明治38年の祝詞とされるものが収録されています。
[956]
記事によると、春、
[957] 祝詞の内容も2人の当時の所属も戦争と直接の関係はなく、征露を使ったのは当時の社会の風潮によるものでしょうか。
[174] 東京大学所蔵の江戸時代の版本の裏表紙に征露の墨書識語があります。
[725] 「松田氏所持」 とあるので >>9, >>173、 、 征露2年6月に本書を「松田氏」から譲られた者が書いたのでしょうか。 本書所蔵の経緯はウェブ上に情報がなく不明です。
[728] 本書は刊行の節用集ですから、 内容は日露戦争とは無関係です。
[1087] 明治38年の秋に出版された一般書籍に、 征露の日付があります。 その部分を除いては戦時色は特にありません。
[1084] に発行された史料集成に収録された文献の跋文の日付に征露があります。 収録された文章には特に戦時色はありません。
[1085] 当時の「避暑の月」がいつを指していたのかよくわかりませんが、 現在避暑の候はグレゴリオ暦の8月を指すとされているので、 同じ頃とみていいでしょうか。
[881] に日本国東京府東京市で発行された雑誌に掲載された随筆では、 1年間の戦争の推移を振り返る場面で明治を征露と言い換えていました。
[505]
明治41年に出版された明治俳文集に収録された俳句のうち1つが、
自身の庵を日露戦争の激戦地203高地に擬えたもので、
その旨を説明した序文に
「
[506] 本作品がいつのものかはわかりませんが、 203高地占領が日本国内に報じられてしばらくした頃でしょうか。 もしかすると俳句本体より序文が少し遅れて成立ということもあるやもしれません。 いずれにしても明治37年12月中か明治38年初め頃でしょう。
[507] 本作は昭和時代初期の文学書に引用され、 明治時代の傑作として紹介されました。 >>504
[613] 明治37年末、明治38年始に日本国で出版された経済系の雑誌には、 戦費に関係して征露の紀年が使われていました。
[772]
明治時代に日本国東京府東京市で発行されていた風刺系週刊誌
[547]
号の1つ目の用例は満州の出征第8師団予備
[926] 号は次号新年号予告で「征露第二年」と大々的にかかげてこれを取り上げるとしていました。
[546] その予告された号は、新年号で年始に因んだ記事が多いですが、 前号での予告通り征露の第2年であることにちょくちょく言及されています。 この時代の新年の雑誌がいつ編集されいつ販売されたものかわかりませんが、 /6 の川柳に号外とあって、旅順陥落の号外でしょう。 に号外が発行されていたようです。 他の川柳には2日に文が来るとあって、やはりのことなのでしょう。
[565] 編集にどれだけの人数が関わったのかわかりませんが、記事によって異なる
の3種類の表記が1冊の本に混在しています。
[898] 号には旅順陥落に絡めた記事がありましたが、 ここでは干支年が併記されているところが注目点です。
[595] 号の用例は、 題名に予想とある通り仮想戦記ですが、 当該部分は明治37年5月に露西亜領樺太在留日本人を本国に引き揚げさせ云々と述べています。 この部分も創作なのか、それとも当時そのような情報が広まっていたのかは不明。
[81] 日本で当時活躍した小説家夏目漱石の小説吾輩は猫であるに征露が使われています。 青空文庫本吾輩は猫であるには、
... と2箇所の用例があります。 >>14
[82] 現代日本でも誰もが知る超有名作であるためか、 征露の私年号の代表的用例とされます。 しかしこの書き方で、 作中発言者 (引いては、著者である夏目漱石) が「征露」を私年号と認識して使っていた、 これが私年号の用例である、 と主張するのは些か苦しいとも思われます。 私年号の発生に至る過程の一形態と見ることはでき、 その意味で興味深い事例には違いありません。
[513] 昭和時代初期の文学書に吾輩は猫であるを引いて評論したものがありました。 引用部分に >>511 が含まれましたが、 「征露」には触れていませんでした。 >>510
[205] 学研の国語大辞典 () の 征露 の項は、 吾輩は猫である の1つ目の用例を引いていました。 >>204 (私年号とはしていませんでした。)
[80] 日本語版ウィキペディアは、 吾輩は猫であるで征露の私年号が利用された >>1 としました。
[495] 中文版维基百科は征露単独で立項していませんが、 日俄战争の項で民間で日露戦争後に戦勝を記念して征露の私年号が用いられたとし、 我是貓 (吾輩は猫である) で使われたことを紹介しています。 >>494 出典は明記されていませんが、日本の何かしらの現代の紹介文からの孫引きでしょう。
[527]
の國民新聞
(現在の東京新聞の前身)
記事
[528] に旧露西亜帝国領関東州青泥窪市を大連に改称したと説明されている箇所です。
[530] この記事の書き方では現地で「征露第2年紀元節」として祝われたかどうかは不明で、 記事の元ネタは現地取材で記者がまとめたものでしょうが、 「征露第2年」と書かれた文は現地記者によるものなのかもしれませんし、 現地や日本国内の新聞社内での編集を経たものなのかもわかりません。
[532]
に大日本帝國東京府東京市の東京帝國大学で総長の山川健次郎
(当時勅選貴族院議員, 後に男爵)
による
[533] 演説冒頭では戦況と大学関係の犠牲者に触れて、
今日は我東京帝國大學の第十九囘の紀念日であります
が、又󠄂征露の軍が起󠄃りまして第二年目であります。斯く征露第一年の 結果は
... と述べていました。 >>531
[534] この用例は未だ紀年法としての「征露」が十分に成熟していない、 説明的な表現と捉えられるものです。 しかし紀年法「征露」の形成の過程がよく現れている演説文といえます。
[604] https://dl.ndl.go.jp/pid/3559240 (非公開)
東洋學藝雜誌 22(282)
雑誌
東京社 [編] (東京社, 1905-03)
5: あらふと存じます斯く征露第一年の結果は實に見
[1002] に日本国東京府東京市で発行された雑誌の記事で征露が使われました。
[1003] 当記事は山梨県の商人によるもので、絹相場の状況が一部戦争と関連付けて説明されていました。
[841] に日本国で出版された、 特に軍事色、戦時色のない書籍で、 日付表記に征露を使った例がいくつかあります。
[779] に日本国山口県で発行された記念誌で、 征露が使われました。
[782] 本書は戦時記念を謳っており、巻頭に地元の戦没者の追悼文などを掲載していますが、 後半は地元有力者の紳士録となっています。 当該部分は名士の1人の略歴で、なぜかその1箇所のみ日付が明示されています。 紳士録部分は戦争とはあまり関係なく、 当該人物も軍歴はありません。
[1271] に発行された日本国愛知県名古屋市の学校の同窓会の機関誌の紀元節の項に、 征露があります。
[1276] 医学系の学校の同窓会であり、そもそも軍事や戦争を主題とする雜誌ではないものの、 時節柄、戦争絡みの記事もあります。会員動静欄には出征等の記述もあります。
[992] 明治38年秋頃に執筆された書籍の序文には、 本文どころか序文本体にも戦争と直接関係がなくても、 講和条約に絡めて征露を使った例があります。
[996] >>994 「明治征露」という表現が珍しいです。
[405]
明治三十又󠄂八征露第二年五月
... でした。>>406
[407] 明治と征露を併記した紀年で、 しかも明治と征露とで年数の表記法が異なる点が注目されます。
[408] 序文の筆者がどのような人物なのか、序文からもウェブ検索からも明らかにできませんが、 著者と親しくしていた鹿児島県出身の民間の人士でしょうか。
[312] に日本で発行された大韓帝国の解説本の序文日付が征露でした。
[428]
[497]
[498] 序文には日露戦争後の国語のあり方を考えて云々と書かれていました。 本文は日露戦争と特に関わりのない言語学の専門書でした。 社会の画期としての日露戦争が契機になったという程度の意味でしょうか。
[635] に日本国東京都東京市で出版された文学書に征露が使われるなどしていました。 >>639
[644] 1つ目の用例 (>>641) は、他でもしばしばそう書かれるように、 日露戦争の大決戦の日付を征露によって書き表したものです。
[645] 2つ目の言及 (>>643) は、 明治を征露に改元しようと提案する人が出てきた、 と述べています。 甲辰年は。
[646] 「勝々山」などと書いているように著者の小波は風刺的に、 一歩引いた所からみているようです。改元しようという話も、 これでは真面目な提案なのか与太話程度のものなのか、 脚色があるのかないのかもよくわかりませんが、 しかし当時の人々が明治の元号と征露との関係をどう理解していたのかを推し量る上で興味深い言及です。
[467] に出版された日本国山梨県の県立山梨県農林学校々友会 (農林学校は現在の山梨県立農林高等学校。校友会は生徒会。) の機関誌中、 年間の出来事を列挙した箇所のとの間に、
(征露第二年を送󠄃り
、 アキなし 爰に平󠄃和に充ち、 アキなし 希望 壬 輝く新年𛄜迎󠄃へぬ)
... とありました。 >>466
[468] 終戦の年の末を持って「征露」と呼ぶべき時代が終わり、 平和が回復したので最早「征露第3年」ではないという筆者の認識が読み取れます。
三十七年も過󠄃ぎ行き翌󠄁明治三十八󠄂
年征露第二年の新春を迎󠄃ふるや、
... とありました。 >>455 教祖が山で修行した話で、日露戦争には関わっておらず、 時勢の説明のために「征露」を使ったもののようです。 (教祖は日本海海戦の勝利を予言したなど日露戦争を宣伝に使ってはいました。)
[457]
同書の79コマには
「
[458] 前者は日露戦争終結後という社会的なものさしにおいて、 後者は宗教内のローカルなものさしにおいて、 「征露」と同形式で年数を数えたものです。 どちらも征露と違って他の用例は見つけられず、 征露のように紀年法としての発達をみることなく終わった事例ともいえます。
[1103] 昭和時代に日本内地の学校の同窓会が発行した学校史の書籍中、 明治38年の部分に、征露が使われています。
[359] かつて日本のオークションサイトヤフオクに、 「征露第四年」の軍事郵便とされるものが出品されました。 >>17
[18] >>17 写真に写っているのは「年」ではなく「軍」(征露第四軍) に見える。
[200] 本品は春に販売され、 末時点でWeb検索で容易に発見可能な状態にあり、 当ウィキページにその旨が報告されました >>17, >>18。 しかしその後商品ページは削除されました。 (ヤフオクでは販売終了後の商品ページが消去されるのは普通のことで、特別な事情はないと思われます。いつまで存在していたのかは不明です。) 残念ながら Internet Archive にも保存されておらず、 時点で本品についてWeb検索で発見できるのは、 当ウィキページの >>17 と >>18 の記述だけになっていました。
[360] 本品の情報がオークション売買のアーカイブサイトに保存されていた >>358 のを発見しました。 本段落執筆時点 () でWeb検索で該当ページは見つけられませんので、 今までに閲覧した人がどれだけいたかはわかりませんが、 アーカイブサイトのデータベース上には販売当時から存在していたと推測されます。
[361] アーカイブサイトには、 商品写真も現存しています。 2つ折りの封筒(?)の外側の2面 (宛先、送り主) と、 3回ほど折られた写真付き便箋(?)の1面 (本文) が写っています。 >>358
[362] 写真にない面に文字情報があるのかどうか不明ですが、 写真の範囲では「征露第四」と読めるのは封筒裏面の送り主の箇所のみで、 それ以外は「征露第四」ではあり得ない文言です。
[363]
封筒裏面の送り主の記載は、
人名の前の通常住所を書くような部分が「
[364] 終戦から1年以上経過した征露4年に戦地から軍事郵便で日本国島根県にこのような手紙を送るのも考えにくいことです。
[365]
封筒表面には、
「
[206] 大辞典 (), 大辞典 (), 学研 国語大辞典 (), 日本国語大辞典 初版 ( - ) が 征露 の項を立てて、 ロシアを攻め討つことを意味すると説明していました。 そのうち国語大辞典は、 中でも特に日露戦争を指すと書いていました。 >>204 (私年号としての説明はありません。)
[89] 日本語版ウィキペディアは、 征露の私年号の 「関連項目」 として 「征露丸(正露丸)」 を挙げました。 >>1
[90] しかしながら、 どちらの記事もその「関連」を具体的に記述はしていません。 >>1, >>88
[91] 正露丸記事は、 日露戦争と正露丸との関係性を説明すると共に、 「「征露」という言葉はロシアを征伐するという意味で[21]、その当時の流行語でもあった。 」 としました。 >>88
[25] に日本のオークションWebサイトに出品された木の板に、 「征露元年」云々と墨書されていたとされます。 >>26
[201] オークション情報サイトで出品者撮影とみられる写真が閲覧できますが、 写っている3面には文字が見当たりません。 >>26 写真にない面に書かれていたと思われますが、 詳細不明です。
[202] 入手元は「古道具の市」とされており、 元の所在地は日本本土のどこかである可能性が高いでしょうが、 具体的にどこでどのように使われていたものかは全く不明とせざるを得ません。
[203] 元年の何月だったか銘文が不明なのは残念です。
[626] 日本国愛知県岡崎市に、 明治時代後期の耕地整理事業の記念碑があります。
[627]
明治時代当時の事業報告書所収の記念碑銘文には、
文中の日露戦争に触れた箇所に
「
[630] この箇所について、 大正時代の村誌や平成時代の地元で作られた資料では 「我征露第一軍」 とされています。 >>628, >>629
[631] 進軍状況が書かれたこの箇所は、 文脈的に年より部隊名の方が意味が通りますし、 直後に 「第二軍」 とあって同じように進軍状況が書かれていますので、 現物から翻刻したのであろう大正時代や平成時代の資料の通りとするべきでしょう。
[632] 同時代の当事者による資料の方がかえって不正確なこともあると注意させられる資料です。 「征露第○軍」と「征露第○年」 の混乱が当時から起こることがあったと示す貴重な証拠でもあります。
[225] 日本国静岡県湖西市新居町浜名の天神社に、 「征露紀年碑」 があります。
[226]
写真によると表面には「
[229] 裏面にも何か彫られているようです >>228 が、 Web 上でこの銘文を示しているものは見つけられません。
[227] これを征露の私年号と関連付けて紹介するブログ記事があります >>24 が、銘文にそう書かれているとは書いていません。
[536]
平成時代初期に日本国石川県能登の池田周三家文書を神奈川大学の研究チームが調査し、
征露2年付文書が発見されました。
[537] その詳細は不明です。神奈川大学の目録データベース (技術的にリンク不能) で検索すると「征露」と題した項目がありますが、 「征露」だけで年数がなく説明も違っていそうです (写真らしいのですが、ウェブ公開されていません)。 それとは別のようです。 神奈川大学には写真があるのかもしれませんし、 現地には原本が残されているのでしょうが...
[944] https://dl.ndl.go.jp/pid/3412890/1/18 (非公開)
歯科学報 = The journal of the Tokyo Dental College Society 10(3)
雑誌
(東京歯科大学学会, 1905-03)
18: (第四信)國としては征露第二年僕としては在米第二年正月費府に於て鶴生啓上辱知諸賢益々御健勝にて玉齡を加へられ大慶の至りに奉存候
[945] https://dl.ndl.go.jp/pid/1566926/1/64 (非公開)
征露戦報 2(10)
雑誌
(実業之日本社, 1905-03)
64: 込む鯨波の聲そ じ空征露第二年乙巳元旦口占大澤愛堂今年將奏凱歌聲。王師連捷旭旗下。瑞氣祥雲簇帝城
[985] https://dl.ndl.go.jp/pid/3412896/1/20 (非公開)
歯科学報 = The journal of the Tokyo Dental College Society 10(10)
雑誌
(東京歯科大学学会, 1905-09)
20: の隆盛を祝す亂筆早々征露第二年八月十五日荒野作次郞樺太通信酷暑の砌りに御座候處先生には愈々御〓福に御校益々御隆盛の御事と奉遠察
[984] https://dl.ndl.go.jp/pid/11211335/1/20 (非公開)
養徳 7(2)
雑誌
(養徳社, 1908-02)
20: らんや。今や我同胞は征露第二年の途上に振古未曾有(三四)の大事を負荷しで動くは啻に日東帝國の興廢
[218]
に日本の紙パルプ技術協会の機関誌コラムを寄稿した山田卓良は、
一世一元ではない一世多元に共感を示し、
「例えば日露戦争で大勝した明治38年に改元し
[219] 文の構成上引用の範囲がはっきりしていませんが、 征露元年に改元するべきだったと思ったのは丸山才一と思われ、 山田卓良もそれをもっともだと感じたのでしょう。 この文面からは読み取れませんが、 丸山才一は征露が実際に民間で使われたことを知っていた可能性が高そうです。 山田卓良が知っていたのかは定かではありません。
[220] 引用元ははっきりしませんが、作家の丸山才一の著作のいずれかでしょうか。
[221] なお, は終戦の年で、 実際の私年号の征露とは1年のズレがあります。
[213] 平成時代の Webサイトのコーナー 年賀状レトロ美術館 に、 「征露元年・明治39年(丙午)午年年賀状・(1906年)」 と題したページがありました。 >>21
[214] このページには明治39年の年賀状の画像が4点掲載されています。 しかしそのいずれも、「征露」とは書かれていません。 >>21
[215] どうやらこの「征露元年」は、Webページの著者がその時代を表すために説明的に挿入したものであるようです。 この周辺の年のWebページには「征露」の記載はありません。
[216] 通説によれば征露元年はですから、 2年のずれがあります。このWebページが何を根拠にこう記述したのかは不明です。
[324] 征露は私年号の代表例として挙げられることが多く、 意外と知名度は高いものです。
[544] 明治時代の私年号ということで自由自治とセットで紹介されることが多いです。 しかし両者は性格がずいぶん違っていることがわかってきました。 同じ時代だから、あるいは現代人から見た印象が似ているから、 といった理由で一緒くたに扱うと間違った結論に誘導されてしまうおそれがあります。
[1258] 令和改元直後にオカルト雑誌ムーでもおもしろおかしく紹介されました。 >>1257
[1259] 手紙や年賀状などに元年、2年の用例が数多くあった他に 吾輩は猫である に 「征露の二年」 があると紹介しています。更に筆者の鹿角崇彦もはっきり「征露元年」 と書かれた資料を見つけたようですが、それが何であるかは書かれていません。 >>1257
[1260] 征露を私年号とすることには否定的な意見もあるものの、かなり広い層で用いられたことは疑いがないのだとしています。 >>1257 これは千々和到の慎重論を指しているのでしょうか。
[1261] 征露は日露戦争の勝利を願って勝手に使われ始めたある種呪術的な年号で、 その経緯からすれば「征露」こと私年号の名に相応しいとも言えるともしています。 >>1257 特に出典はなく筆者の見解なのでしょう。呪術性を明確に指摘するのは独特の主張かもしれません。
[1228] 近代諸元号現象 は、 日本私年号の研究 を引いて征露を紹介しています。 庶民の日常生活に流行した「征露」という言葉でに言及しているうちに元号のように感じられるに至ったものとし、 噂ににたような流通経路で相当の範囲に広まったのであろうとしています。 戦勝の興奮が収まるにつれて自然と沙汰止みとなり、 いつまで使われたか不明ながら、 征露3年の用例は存在しないと思われるとしています。 >>1227
[172] Internet Archive にもなくどんな商品だったか既に不明。
[13] 近代デジタルライブラリー - 読史の趣味 ( ()) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933652/112
[60] 読史の趣味 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=yuI8YiwZLMcC&pg=PP245&dq=%E5%BE%81%E9%9C%B2%E5%85%83%E5%B9%B4
[943] 心の花 35(5), 竹柏会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6061436/1/6 (要登録)
[61] 戊申詔書講義 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=_gGFZfq34ZkC&pg=PP92&dq=%E5%BE%81%E9%9C%B2%E5%85%83%E5%B9%B4
[62] 神宫略本曆解 - 中倉祺氐 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=64xEAQAAMAAJ&q=%E5%BE%81%E9%9C%B2
[63] 高村家文書: 甲斐国山中村 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=-x-oAAAAIAAJ&q=%E5%BE%81%E9%9C%B2
[64] 日本歴史 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=q6c6AAAAIAAJ&dq=%22%E5%BE%81%E9%9C%B2%22
[65] 東アジア近代史 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=wqwdAQAAMAAJ&q=%22%E5%BE%81%E9%9C%B2%22
[66] 森田正馬評伝 - 野村章恒 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=QM2gAAAAMAAJ&q=%22%E5%BE%81%E9%9C%B2%22
[67] 日本人 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=rZTHaT59QvUC&q=%22%E5%BE%81%E9%9C%B2%22
[68] 東京經濟雜誌 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=CaBCAQAAMAAJ&q=%22%E5%BE%81%E9%9C%B2%22
[69] Tōkyō keizai zasshi 1879-1923 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=92gMAAAAIAAJ&q=%22%E5%BE%81%E9%9C%B2%22
[70] 小諸時代の藤村 - 並木張 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=JndNAAAAMAAJ&q=%22%E5%BE%81%E9%9C%B2%22
[71] むつ市史: 近代編 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=3AQLAAAAMAAJ&q=%22%E5%BE%81%E9%9C%B2%22
[72] 諸君 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=oafmAAAAIAAJ&q=%22%E5%BE%81%E9%9C%B2%22
[73] 日露戦争従軍将兵の手紙 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=oChMAQAAIAAJ&q=%22%E5%BE%81%E9%9C%B2%22
[74] 日露戰爭實記 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=D5JEAQAAMAAJ&q=%22%E5%BE%81%E9%9C%B2%22%20%E5%B9%B4
[295]
>>294 には
>>293
によると
「
[538] 甲斐国山中村高村家文書 : 高村家史料 第2集, 高村家史料調査会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9540754/1/116 (要登録)
/1 に写真あり
/156
[539] 史跡ある記 続, 石島潔, 上尾市企画財政部広報課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644437/1/62 (要登録)
[542] 農民文学 (93), 日本農民文学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7919284/1/33 (要登録)
[541] 月刊世界政経 5(1), 世界政治経済研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1399903/1/136 (要登録)
[543] 明治時代の後に忘れ去られたことも多いけど、昭和時代に発掘されたのにその後また忘れ去られてる事実も多いなー
[574] 平成時代初期の宮崎県の博物館の目録に征露年紀のものがあるのです (>>568) が、 平成時代末期の前川清一の論文にも掲載されていません。 隣県熊本県には詳しい前川清一でも知る機会がなかったようです。 ということは既に博物館に収蔵され目録に掲載されていても、 未だ征露私年号資料としては気づかれていないものが今後発見される可能性があるということです。 今回の目録は令和4年末の国会図書館デジタルの全文検索対象が拡大されたときに検索可能になったと思われます。 今後のデジタル化にも期待です。
[1106] Xユーザーのh1totsuy@さん: 「祇園山万年寺天翁院(下野国都賀郡,小山市) 寺院。中世における当地の有力者である小山氏の菩提寺として知られる。「縁台の裏の墨書銘」に私年号「征露」が用いられていた( https://t.co/ErH1qBUI9R )とされるが見た感じだと確認できず、永遠に輝く光となってしまった可能性がある https://t.co/fDbSD9OqXA」 / X, , https://twitter.com/ohss43/status/1703360358684274850